goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。読んで頂く時にはズームを150%にするのがおすすめです。

近代という隘路Ⅱ その1(帝国主義の末期にひと踊り)

2021年03月31日 | 近現代史

列強クラブの仲間入り ジョルジュ・ビゴー画 明治30年

メインテキスト:原田敬一『シリーズ日本近現代史③ 日清・日露戦争』(岩波新書平成19年)
サブテキスト:山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界―』(岩波新書平成17年)

 天皇中心とはちょっと別に、ずっと昔やっていた、戦争中心の日本近現代史について大雑把に述べるシリーズを再開します。以前は加藤陽子が高校生にした特別授業に基づいた本をメインテキスト使い、年代順に、日露戦争時まで辿りましたが、よりノンシャランに、思いついたことを書いていきます。こんなこと、誰も気にしてはいないと思いますが、一応のお断り。

 のっけに文句を言うことになるが、原田敬一の著書は読みづらかった。長い期間を駆け足で説明しているのだから舌足らずになるのはしかたない、とは言えるが、それ以上に誤記が多いし、文章が練れていない。
 それは棚上げにしても、この人の歴史観は、「なるほど、これが岩波文化人だな」と納得されるていのものだ。以下に、特にひっかかったところを挙げて、なぜひっかかったを説明する形で、愚考を述べる。【  】内は引用者による付け加え。

(1)こうした過程からすると、日本が積極的進出を計らないかぎりは、日清開戦の可能性は低かったのである。(P.53~54。これは高橋秀直『日清戦争への道』に拠ると注記されている)。
 「こうした過程」とは、主に、明治18年(1885)の天津条約によって、朝鮮における壬午事変(明15)以降の日清両軍の軍事的緊張が解かれ、さらに両国とも、将来再び出兵するときには必ず相手国に通知(行文知照)し、また所期の目的を達した場合は駐留したりせずに直ちに撤兵する、と定められたことを指す。
 現在の目からは、複数の他国の軍隊が、自由に領土に入ってきて、一触即発の状態になる、なんぞというだけで充分に異常に見えるだろう。帝国主義の最盛期の、第二次英仏百年戦争(1689―1815年)を初めとする植民地争奪戦では、特に珍しいことではなかった。因みに日露戦争では、陸地の戦場は朝鮮と清国のみになったが、これはこの戦いが、帝国同士が直接ぶつかる、最後の(広義の)植民地争奪戦争であったことを示すものだ。
 話を戻すと、当時の朝鮮には軍民の叛乱(これが壬午事変)を押さえることはできず、従って国内の、他国から来ていた居留民を保護することも出来ず、従ってまた、それを保護するという名目でその他国の軍隊が入ってくるのを阻止することも出来なかった。
 こういう国が二つの強国に挟まれた場合、どちらかの言いなりにはならず、最低限の独立を保つためには、片方が手を出しそうになったら、もう一方が絶対に黙っていない、という状態にしておくことは確かに有効ではあるだろう。それでも、戦争よりはましだろうか? だいたい、この「平和」は、あからさまに、軍事力の抑止効果の上に成り立っているのだ。それこそ、「冷たい戦争」と言うに相応しい。
 そのうえ、睨み合っている国々にしてみれば、中にあるのが自国内の動乱も鎮められないような国なのでは、風向き次第でどう転ぶかわかったものではない、という不安定は決して拭えない。自国の利益保全のためには、この弱体な国の外交と軍事のヘゲモニーを握るに如くはない。その切迫感は日本が最も強く、だから「積極的」に出たのである。これについては後述。

(2)その【清仏戦争】後日清戦争までの一○年間アジアはほとんど平和であった。一八五○年前後、清が混乱した状況を利用した列強の弾圧はいったん収まり、列強の新たな攻撃によるアジア分割という危機はまだ始まっていなかった。/だが、日清戦争は、清の軍事力が弱体だと世界に暴露し、列強諸国に対抗する軍事力がアジアに存在しないことを伝えてしまった。以後、列強はアジアへの侵略を再始動する。植民地台湾を確保し、「大日本帝国」としてアジアに登場した日本も、連動して帝国主義のアジア侵略を拡大していく。一九世紀末以降のアジアの危機は、日清戦争によって生み出されたのである。(P.87)
 「眠れる獅子」と呼ばれていた国が、実は「眠れる××(自主規制)」だった。それを暴いたのが日本だったというわけだが、西洋列強とは、相手に「列強諸国に対抗する軍事力」がない、つまり弱い、とみたら、かさにかかって襲いかかってくる、そういうハイエナみたいな(ハイエナに失礼かな?)連中だということは初手から明らかだったろう。
 具体名を出せば、英仏独及び露に加えて、1898年にスペインとの戦争に勝って大西洋方面の安定を得た結果、改めて太平洋からアジアまで目を向けるようになった米が、おのおの合従連衡を繰り返しつつ、清国からの略奪レースに参加する。
 しかし、いきなり兵を出して占領、ということはなかった。租借地という名で土地を借り(と言っても施政権は借りた側に属する)、鉄道敷設や鉱山採掘の権利をもらって金を吸い上げる方法を用いた。帝国主義的収奪を4世紀以上も繰り返して、スマートなやり方をするようになった、と言えないこともないが、それより、あんまり露骨に強引なやり方をして、他の強国の反発を買うのはできれば避けたい気持のほうが大きいであろう。言わば、上記天津条約における日清のにらみ合い(相互監視状態)を、ずっと国土の広い清に舞台を移して、多数の国家間でやるようになったのだ。それでも、ドンパチは少ないだけ、全面戦争よりはましであろうか?

 ここは本シリーズの要とも言うべき部分なので、少々の脱線は看過していただくことにして、敷衍して述べておきたい。
 日本はいかにも、新たな侵略のきっかけを作り、また自身も侵略プレイヤーの一員として振る舞った。それについて、単純に日本を批判するような口吻はどうなのか、と思う。上のような状況では、国際社会では力がすべて、とまでは言わなくても、力がすべてに優先する、と考えるのは当然ではないだろうか。弱肉強食のサバンナのような世界に遅れて参加した日本は、この論理を、いささか過激に進めたきらいはあるにしても、だ。
 だいたい、英仏独米などは、本国から遠いところで利権漁りをしていたのだし、近隣国の清と露は元来大国であった。両国とも、日本との戦争を遠因の一つとして、革命によって体制がひっくり返るのだが、その危機が目前に迫るまでは、比較的鷹揚なものだった。新参者の日本が一番、文字通り国の命運を賭けて、必死にやらざるを得なかったのである。
 他方、支那の属国と位置づけられていた朝鮮は、宗主国の国是である事大主義を、過大に、言わば純粋形で取り入れ、具体的には厳しい身分秩序と(最広義の)生産業蔑視を堅持し、近代化は長い間頑なに拒否していた。ここをなんとかしない限り、朝鮮の独立は難しい。それは当時、一進会の政客など、朝鮮人の一部の認識でもあった。
 断っておかねばならないだろうが、だからと言って私は、逆に、一部の保守派が主張しているような、日本の朝鮮統治が正しくもあれば良いことでもあった、とする者ではない。インフラ整備をしようと(両班と呼ばれる特権階級以外の、一般庶民)のための小学校を作ろうと、すべて日本自身のためにしたことである。かの国人への差別も圧迫も相当にあったに違いない。朝鮮半島の人々が日本に恨みを抱くのも、ある程度は仕方がないと思う。
 しかし、もっと遡ると、支那の冊封体制からしたら、中原(支那の中心)から離れるに従って野蛮な国となるので、その意味では日本は朝鮮より下位の国である。その手によってしか近代化が成し遂げられなかったこと自体、屈辱ではあるだろう。そんな華夷秩序を引きずった感情が、反日の根底にあるとしたら、つける薬はない。ならば、解消に向けた努力をするなんて、無駄ではないか、と個人的には考える。ただ、何故かはよくわからないが、日本を押さえつける手段としてこれを使おうとする勢力が世界各国にあるので、対抗上、ずっと反論を発信し続ける必要はある。
 韓国自体にについては、日本への恨みそのものが民族アイデンティティの核になっているのだとしたら、誰よりも、韓国人自身にとって不幸ではないかと、いらぬ斟酌をしてしまいがちになる。

 ここまで言ったからには、「日本のため」の内実についても、もう少し詳しく述べておくべきだろう。
 この時期の日本が採った対外戦略の基本は、よく、主権線と利益線という言葉で説明される。山縣有朋が、明治21(1888)―22年に欧州を視察したとき、かつて(明治15年)伊藤博文に憲法学の講義をしたローレンツ・フォン・シュタインから聴いた概念を、翻案したものである。
 国家主権の存する領土(領空・領海の概念はこの頃はまだ曖昧)を他国の侵略から防衛するには、国境線(これを主権線と言い換える)を守るだけでは不足で、その外側に、自国に味方してくれる国か、こちらが軍を遅滞なく進めて戦場にすることができるような地域を確保しておくべき。その境界が利益線で、ここを敵に突破されても、まだ主権線が残っているという二段構えにしておいたほうが、なるほど、国防にはより有効であるな、と納得される。もちろん、現実にある諸条件を度外視すればだが。
 山縣は明治23(1890)年国会開設時の内閣総理大臣で、同年12月6日に日本初の施政方針演説をしている。その中にこの言葉が出ていて、軍事予算の増加を求めているが、それより早く3月の演説「外交政略論」(後に『山縣有朋意見書』中に入った)でもこれに基づき、相当突っ込んだ提言をしている。一部の現代語訳を拙訳で以下に掲げる。

 利益線の観点から我が国にとって最も緊要なのは朝鮮の独立である。(中略)しかし朝鮮の独立はシベリア鉄道開通【モスクワーウラジオストクをつなぐ世界一長いこの鉄道が一応の完成を見たのは日露戦争中の1904年だが、計画段階から、これによってロシアは首都からアジア東北部まで短期間で兵力を送れる、ということで、日清両国に恐れられていた。】の暁には薄氷の危うさに迫るだろう。朝鮮が独立を保てず、東南アジア諸国と同じ轍を踏むならば、東洋の北部は他国【ロシア】の占有するところとなり、直接の危険が日清両国に及び、主権線の対馬は頭上に刃を振り上げられたような状態に陥る。(中略)将来のための良策は天津条約を維持するところにあるのか、それとも一歩を進めて朝鮮と連合し保護して、国際法上恒久的な独立国の地位を与えるべきか、これが今日の問題である。

 朝鮮を本当の意味で独立させたい、という言葉が、本気だったのか、それとも陸奥宗光外相のように、方便であることは百も承知しながら言うだけは言ったものか、はわからない。いずれにしても、後の経緯からしたら、インチキと言われてもしかたない。戦前の日本でも、安部磯雄などは明治37年に次のように言っているそうだ。(山室、P.134より孫引き)

 日清戦争といい、日露戦争といい、その裏面にはいかなる野心の包蔵せられあるにせよ、その表面の主張は韓国の独立扶植【援助】であったではないか。しからば戦勝の余威を借りて韓国を属国化し、その農民を小作人化せんとするが如きは、ただに中外に信を失うのみならず、また我が日本の利益という点より見るも大いなる失策である。

 その通りだろう。だいたい、日本一国で、韓国を他国の干渉から守り切り、近代化に導く、なんてことはできるはずがなかったのだ。それをやるためには、野心の有無は別として、現実の何倍もの国力が要ったろう。
 それより、利益線の危険性は、夙に指摘されている。利益線としての韓国を日本に編入したら、主権線が延びる。新たな主権線を守る新たな利益線として、具体的には支那東北部、即ち満州が必要になる。その満州を守るためには、内モンゴルを、さらにできれば支那全体を手中にしたい……、云々と、どこまでも版図を拡大しなければならないように感じられてくる。その果てに、大東亜戦争の破局にまで行き着いたのである。
 この道筋は、他国から見たら侵略でも、日本にしてみれば防衛だった、という感覚の齟齬は今でも深いところに残っていて、時々現実の問題になる。心得ておいたほうがいい。

(3)日清戦争は、一八八〇年代にはアフリカ分割を終えた欧米諸列強の目を再びアジアに向けさせることになった。(P.186)
 結局私は、今回は一つのことにこだわっていたのだな、と改めて気づかされた一文である。
 原田敬一らの歴史観は、つまるところ、アジア・アフリカで、欧米列強の支配が一応完成して、「平和」であったのに、日本が跳ね上がって余計なことをしたために戦乱を招いた、というものだ。現にはっきりそう言った人もいる。これには呆れた。
 この言い方は、非西欧諸国にとって、欧米に支配されているのと、血を流しても独立するのと、どちらがいいのか、なんぞという不埒な問いを呼び起こす、それには無自覚なようなので。
 不埒な問いにはやや斜めから応えよう。他国間であれ自国内であれ、不当な支配があると感じられたら、体制変革(レジーム・チェンジ)を求めることになり、要求が大きくなれば抵抗運動の形を採って国際社会あるいは国内に動乱をもたらす。どういうことを不当と感じ、どうやって、またどの程度に抵抗するかは当事国の人々次第だが、一般に、抵抗が大きければ圧迫もそれだけ大きくなり、それがさらに大きな抵抗を呼ぶ、という循環で、しばしば流血を伴う戦闘にまで至る。
 戦闘が一国内ならクーデターあるいは革命と呼ばれ、二国以上の場合は戦争と呼ばれる。各個別の正義不正義の判断とは別に、体制が広い範囲に及べば及ぶほど、そして歴史が古くなればなるほど、有形力(暴力の上品な言い方)なしで変えるのは難しくなる。
 1688-1689年の名誉革命は、例外的に流血がなかったところが稀な「名誉」なのだが、それはイングランドの話で、スコットランドと北アイルランドでは、新王ウィリアム三世に反対するカトリック教徒たちが蜂起し、1年余り戦闘が続いたのだった。
 今後もそんなものだろうか。現在のミャンマー(旧ビルマ)で起きていることを見れば、少なくともそう簡単には改まりそうにない。逆から言えば、あくまで平和を求めるとしたら、ほとんどの場合、現在の体制が、どんなものであれ、維持されるのを認めなくてはならないようなのである。こちらはもっとやっかいな、人類の永遠の課題かも知れないが、それだけに、忘れてはならないことだろう。
 
 そこで改めてこの頃の日本のしたことを考える。山室信一は、大略次のように指摘している。まず清国や朝鮮の旧弊がアジアにとって危険だからという名目で戦い、次に一番近いところにある白人の大国とアジアを防衛するのだと言って戦い、しまいには欧米からの「アジアの解放」をスローガンとした、と。日本は、恐らく史上最も大規模なレジーム・チェンジを企て、やり方はインチキと呼ばれ得るものだったにもせよ、果敢に戦い、結果として東洋での帝国主義を終わらせるのに貢献した。良し悪しを言う前に、この巨大な悲劇と裏返しの喜劇の相貌を、もう少し虚心にたどったほうが、面白くないですか?
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その17(祀られると共に祀る神)

2021年02月28日 | 近現代史
大日本名将鑑神功皇后武内宿弥 月岡芳年画 明治10年頃

メインテキスト:和辻哲郎『日本倫理思想史 上巻』(岩波書店昭和27年、28年第3刷)

 このシリーズもだいぶ間が開いてしまったので、天皇の特質について改めて考えます。
 天皇とは神を祀ることを主な役割とする祭祀王(priest king)である。これが(ある意味で)国家の中枢というのも現代では珍しいが、そもそもどうして神聖不可侵な存在と感じられるのか、よくわからないところがある。
 例えば福田恆存は昭和32年にこう書いている。

 私自身はもちろん「天皇制」には反対です。が、その理由は、天皇のために人民が戦場で死んだからといふことではありません。私と同じ人間を絶対なるものとして認めることができないからです。だからといつて、天皇を絶対視する「愚衆」を、私は単純に軽蔑しきれません。少なくとも、絶対主義を否定し、相対の世界だけで事足れりとしてゐる唯物的な知識階級よりは、たとへ相対の世界にでも絶対的なものを求めようとしてゐる「愚衆」のはうが信頼できます。(「西欧精神について」、『福田恆存全集 四巻』P.221)

 福田にとって、天皇とは絶対者の代用なのだった。ただ、「非合理なものは認めない」なんぞというインテリの浅薄な現世主義(福田の言葉からは相対主義とか唯物論とかに近いようだが、私にはそんな立派なもんじゃないと思える)よりは、どんな形であれ、日常生活の次元を越えたものを求め、それに仮にもせよ形を与えずにはいられない一般民衆の方が信頼に値する、と。
 こういう福田の「絶対者」観は当ブログで既に述べたが、簡単におさらいすると、「個人」が立ち上がるためにこそそれを超えた存在が必要とされるのである。だから、ある絶対の者に完全に帰依する、ということを求めるのではない。どちらかと言うとむしろ反逆者のほうがいい。「神への反逆者」は、強烈な自意識を内に抱かざるを得ないだろうから。
 そこまではいかずとも、「完全なもの」に比べて一個の人間とはいかに不完全か、それを思い知ることが「個人」の、明確な「個人意識」が生じる第一歩なのである。不完全であるところは誰もが同じでも、なぜ、そしてどのように不完全であるのかは、各人によって違うからだ。そしてまた、国家を初めとする組織や共同体もまた、もちろん物理的には個人よりはるかに強力だが、価値からしたらいずれも相対的でしかないので、従わなくても良心の問題にはならない。
 言い換えると、国家・社会・家庭などの共同体に埋没しない個人が見出される契機が絶対者なのであり、それは文字通り不変不動、永遠に何も足せず、何も引けないものでなくてはならない。また、人間の目に触れるようなものであってはならない。天皇は、人間の姿をしていて、代替わりという目に見える変化もする。政治的にも、時代によって、権力があったりなかったり、近代だと帝王になったり象徴になったり。さまざまな形態をとり、しかも、どうも、それがそんなに大きい問題だとは、一般に思われていないようだ。そういうところこそ日本人の特質と言えそうだが、福田が求めるような絶対者とはまるで違う。
 これ以上は、主にこちらこちらをご参照ください。

 もちろん、絶対者の観念がちゃんとしていないから、日本人はダメだ、なんぞという話ではない。だいたい、そうだとしても、例えば今後日本人全員がキリスト教信者になる、なんて、あるわけがない。つまり、どうにもならないのだから、言っても仕方ないのだ。
 見方を変えて、天皇とは摩訶不思議な存在であり、2,000年以上にわたってそのような存在を戴いて国家を運営してきた日本人もまた、不思議な民族である、ならば、その不思議の中枢部はどうなっているか、神代史から深く考究した文章に基づいて、いつものように勝手な考えを述べよう。

 和辻哲郎は、天皇の独特の神聖性を示す例として、記紀にある神功皇后のエピソードを取り上げている。
 皇后は、熊襲征伐のため、夫である第十四代仲哀天皇とともに九州に赴いた時、神懸かりする。それをきちんと聴くための儀式は、天皇が琴を弾き、重臣・武内宿禰が審神者(さには。神の言葉を解釈する者)となって行われた。神託は、「西方にたくさんの宝物がある國がある。それを与えよう」というもので、天皇はそれを信じず、琴を弾くことやめた。するとやがて死んでしまった。そこで皆大いに恐れかしこみ、大がかりな祓い清めを実行した後、皇后が神主となって再び神の御言葉をうかがうと、やはり海の向こうの国に赴け、と、また「この国は皇后のお腹の中にいる子(應神天皇)が治めるべきだ」ともご託宣があった。そこでその神の御名を尋ねると、「天照大神の御心であり、また住吉三神である」とのお答えであった。そして、かの国を求めるなら、我が御霊を御船の上に祭り、のみならず天神地紙、山神及び河海の諸神に幣帛を奉れ、云々とも命じられた。
 和辻が注目するのは、ここで、神降ろしの儀式はちゃんと形式が整っているのに、降りてくる神のほうが曖昧に描かれている点だ。問われない限り名も告げない。だから仲哀天皇も信じない。それで神罰で命を落とすのだから気の毒だ。【そう言えばこの帝の父である日本武尊も、伊吹山の神の化身(「古事記」では猪、「日本書紀」では大蛇)を単なる使いだとみなして軽んじ、ために怒りを買って失神し、このとき得た病によって命を落とすのである。】
 因みに、上の叙述は「古事記」に基づくが、「日本書紀」では、この神はまず撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)、というのは天照大神の荒魂(暗黒面?)らしいが、そう名乗り、審神者(このときはイカツノオミ)に「まだこの他に神は有りや」と問われて二柱の神の名が挙り、「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」→「今は答へず、後に言はれることありや」→住吉三神の名が挙る→「また有りや」→「有るとも無しとも知らず」、という具合に進行する。神が複数いて、しかもその御名が顕れるまでに、ずいぶん手数がかかる。訝しいので、印象的である。

 一般に、宗教心は、まず台風や雷、地震など大きな厄災をひきおこす自然力への畏怖が、その背後にある大いなる力を想像させ、また変転極まりない人間の運命を思うとき、それを司る力の存在を考えるところから生じるものだろう。このとき既に、かなり明確な人間の自己意識あり、一方で超自然力が「神」として擬人化される契機があるはずだ。
 次の段階では、この「神」に関わるための儀式が整備され、これに応じて、あるいはこれと共に、その他の日常生活上の倫理も整えられていく。儀式を司る者が倫理を教導する者でもあり、これを中心として、神についても人のありかたについても多くのことが語られる。
 一定の語りが広い範囲に浸透し共有されると、それが民族の内実を形成する。ユダヤ教やヒンズー教(インド教)がそうである。やがてその中からナザレのイエスとかゴータマ・シッダールタというような優れた人が出て、説得力豊かで論理的にも整った言葉を語ると、抽象性も高まるから、民族・国家をも超えた世界宗教になっていく。
 この最終段階にまで至る例は稀だが、どの段階でどのように留まったかは、外部から見たその宗教の特徴となる。日本の場合、前述のように、神と交流するための方法はあっても、その神の言葉≒神を語る言葉は、さほど詳細にならないところがそれである。

究極者は一切の有るところの神々の根源でありつゝ、それ自身いかなる神でもない。云ひかへれば神々の根源は決して有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかつたといふことを意味する。それは宗教的な発展段階としては未だ原始的であることを免れないが、しかし絶対者に対する態度としてはまことに正しいのである。絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することに他ならない。それに反して絶対者をあくまでも無限定に留めたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。(P.76-77、下線部は原文傍点、以下同じ)

 日本に限らず東洋について語る文脈で、「無」とか「空」とか言われると、なんだかいかがわしくなるような気が、私にはする。和辻哲郎のような碩学の文でも、例外ではない。ただ、要は、神は「有るとも無しとも知らず」、それについて直接語ろうとするのは抑制的であるべきだ、ということであろう。人間の身の丈をはるかに超えたはずの者を、対象化して、人間の言葉であれこれ語る、というのは、人間の認識の中に入れて、限定する、ということだからだ。
 無限のものを限定する、とは、端的に矛盾ではないだろうか。これは私も、(すすんだ?)宗教に接する度に、なんとなく感じてきた疑問である。因みに、それだからだろうか、福田恆存も、絶対者という観念の重要性は説いたが、その絶対者の内実は何か、については決して語ろうとしなかった。

 さて、そういうわけで、超自然的な神々は、存在が疑われはしないものの、正体が明らかになることはなかった。そもそも、「正体」なんぞないのかも知れない。人は、そういうものには畏怖は感じても、敬愛はしない。愛されもするのは、この神を祀ることで人の世に恵みをもたらそうと能動的に活動する者である。

神代史において最も活躍してゐる人格的な神々は、後に一定の神社において祀られる神であるに拘はらず、不定の神に対する媒介者、即ち神命の通路、としての性格を持つてゐる。それらは祀られると共にまた自ら祀る神なのである。(P.66)

 人智・人力をはるかに超えた存在に対して人間にできることは、怒らせないように(神罰がくだらないように)、正しい態度とやり方で臨むことぐらい。その正しい態度・やり方を祭儀として示し、執行する者こそ、普通人から見て最も有り難い。「祭り事の統一者としての天皇が、超人間的超自然的な能力を全然持たないにかゝはらず、現神として理解せられてゐた所以」である。そしてまた、その祭儀が正当で正統なものと認められたところに、日本の国家と民族の内実が自覚されたとしてよいのであろう。「天皇の権威は、日本の民族的統一が祭祀的団体といふ形で成立したときに既に承認せられてゐるのであつて、政治的統一の形成よりも遙かに古いのである」(以上P.84)

 改めて考えると、現存する西洋世界の祭祀王であるローマ法王と比べても、天皇はずっと人間的である。共通するのは、超越的なものへの通路、ということぐらい。天皇は、ローマ法王がそうあるような、「神の代理人」とも言えない。何しろ代理すべき主が不定にして不明なのだから。
 また、天皇は神の声を直接伝えるシャーマンでもない。身近な女性がシャーマンになった例が記紀には二つあり、一人は上記神功皇后、もう一人は第十代崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、災害が多く国が治まらないわけを八百万の神々に尋ねた時、「自分をちゃんと敬い祀れ」とのご託宣を伝える。ここでも、天皇に「そのように教えて下さるのはなんという神様ですか」と問われてから、「大物主神(大国主神の別名ともいわれる)である」と名乗る。
 もっとも、このときは、言われるままにしたのに霊験がなかったので、天皇が改めて祈り、夢で祭祀の詳細を聞いて、やっと無事に解決を得たことになっている。神は、一時でも人間の肉体に宿るより、人の祈りに応じて夢かうつつか定かならぬうちに意向を伝えるほうが、日本では正統的なのである。
 このように、祈るのが主な仕事である天皇が、天照大神の血統を継ぐものだというのは、後から付け加えられた話ではないだろうか。これは、和辻は書いていない、私一個の想像である。それというのも、これも神功皇后の逸話にある通り、先祖であるはずの大神に祟られて死んでしまうことさえあるのだから。
 逆に考えると、そのような頼りない存在だからこそ、神聖性を付与するために血統神話が必要とされたのかも知れない。ローマ法王は、独身でなくてはならないのだから、このような権威付けは使えず、みんな元はタダの人でも、何しろ後ろ盾が唯一絶対神という最強者なんで、誰も文句は言えないのだろう。

 そして、こちらは和辻も書いているが、天皇のような存在がもたらす最大の徳目は、「清く赤き心」とか「清明心」とか呼ばれる、素直でまっすぐな心であろう。実際、神に相対するときには、そうでなければならぬはずである。ただし、神が必ずそれに応えてくれるかどうかはわからない。だいたい、そんなことを期待して祈るとしたら、取引のようになり、汚れた心だとみなされるのではないだろうか。
 では結局、天皇の祈りはなんにもならぬのか? そう言ったもんでもない。例えば、最近ではほとんどなくなってしまったろうが、日本には「お百度参り」という宗教行為がある。同じ寺社に百日間欠かさずお参りする、というもので、それによって心願が適うとは限らないのだが、神ではなく人間のほうとしては、その願い祈る心の強さにうたれずにはいられない。
 そんなふうに、毎日くにたみの安寧を願っておられる者が、この日本にはずっとおわします、と思うと、いささか心が洗われるような気がする。そういう存在として、天皇は尊貴なのであり、また、そのような存在をずっと保ってきたところに、我々日本人の、かけがえのない美質がある、と考えられる。
 しかし、こういう存在を俗世の「中心」ともするのは、やむを得ぬこととはいえ、問題が多いのは当然である。次回からまた、それを見ていこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その16(公議輿論の変遷)

2019年01月31日 | 近現代史
「五箇条御誓文之圖」乾南陽画 大正6年

メインテキスト:榎本浩章「「公議輿論」と幕末維新の政治変革

 本シリーズその11で述べた小御所会議の、前の状況をおさらいしたくなった。御誓文の最初の、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」はどのように幕末の政治上に浮上し、どのような変遷をたどったのか。

 最初のきっかけはペリーが浦賀へやってきた嘉永6年(1853)、老中筆頭阿部正弘が、米大統領からの国書を翻訳文つきで公開し、幕府の役人や全国の諸大名に開国問題をいかにすべきか諮問したことであろう。これは徳川幕府二百年の歴史中、きわめて異例のことであった。
 ここに至るまでにはもちろんいろいろあったが、ただ一つだけ挙げる。四年前の嘉永2年(1849)、度重なる外国船の来航に悩んだ阿部は、改めて異国人の扱いについて注意を促す布告を全国の大名に出したが、そこに次のような内容の口達(こうだつ、または、くたつ。口頭命令の意味だが、略式で出された文書もこう呼ばれた)も付されていた。
 曰く、最近異人どもの不逞な振る舞いはますます目に余るようになった。異賊とは西洋諸国の意味だから、こちらも挙国一致で当たらなければ危うい。隣領とも力を合わせ、「貴賤上下となく」武士はもとより、「百姓は百姓だけ、町人は町人だけ」各々の持ち分で、国運に報じようとする心掛けこそ大事である。
 当たり前のことを言っているようだが、これは、身分の別なく日本で暮らす者全員を「国民」として、「国難」に当たるよう呼び掛けた、即ちナショナリズムの自覚を促した、おそらく日本最初の文書である。これが多くの国で、平等、即ち身分制度撤廃の原動力ともなるものだった。
 そこへ、アメリカの意志として、国交を強く要求する国書を持ってペリーがやってきた。向こう側の事情としては、主に、北太平洋で活動する捕鯨船のための、薪炭や食料の補給所として、理由もなく(としか思えなかった)他国との交流を極端に制限していた極東の島国の存在価値が、改めて注目されたのであった。
 そのことは約一年前には、オランダからの情報で、幕閣は知っていた。だからといってどういう手段も思いつかず、まあ古今未曽有の事態なのだから当然なのかも知れないが、「貴賤上下となく」広い範囲の意見を徴したのである。

 当然ながらその影響は大きかった。
 まず思想的に。いくら上下の別はない、と言っても、訊いたほうは武家しか予定していなかっただろうに、七百を越える回答者の中には、懇意の武家から伝え聞いたのであろう町人、遊郭の主人やら材木商もいた。それを含めて、相手の要求を容れて開国すべし、というものはほとんどなかった。国交は断固拒絶すべし、やむを得なければ戦争も辞さず、と勇ましい意見が大半を占めていた。これが当時の「輿論」であった。
 ナショナリズムの勃興期はえてしてこんなものだろう。それに相応しい高圧的なふるまいも、アメリカはしてくれた。米艦隊は引き上げる前に江戸湾に入って水深の測量までしている。日本側はそれを黙って見ているしかなかった。さらにペリーは国書と一緒に、来年再訪したときには(降伏のしるしとして)これを使えと白旗を渡したと言われ、これは伝説か曲解である可能性が高いのだが、そんな話が速やかに伝わるほど、当時の日本人のほとんどが初めて見る異国人(この場合は西欧人)に対する恐れと反発は強かったのである。
 意見書の中で、当時三十歳で小普請組に属していた勝麟太郎のものが出色であり、出世の糸口になった、と当人は言っている。6月に簡単なものを提出し、それについて諮問されたので、7月に改めて詳しく書いたものが、現在「海防意見書」として残っている。
 全部で五箇条から成るうちの第二は、軍艦がなければ国防は不可能であることを訴えている。それに積む武器弾薬も含めて、用意するには当然費用がかかる。その金は、交易をもって稼ぐのがよい。ただし、向こうから来るのは止め、こちらから清・露西亜・朝鮮など近隣諸国へ出かけて行って雑穀・雑貨を有益な品と交換するようにすれば、国益を損じないですむ、と、これは誠にムシのいい考えと言うべきであろう。それでも、これはこれで、開国に違いない。実際、そうしなければ日本を防衛しようがないことは、この後次第に多くの知識人の共通認識になっていった。
 次に、二百年以上続いた幕府の、行政組織上の慣例が変化した。
 幕府のトップと言えばもちろん将軍だが、これが実際に何かを決めることは例外的にしかなかった。その後の天皇制にまで引き継がれる、日本型、あるいは支那まで含めた東洋型大組織の特徴をここに見ることができるも知れない。
 幕府最高の行政官は老中で(その上に、臨時の役職として大老が置かれることもあった)、これには、阿部もそうであるような譜代大名(関ヶ原以前から徳川家に臣従していた家)が就くのが通例だった。しかし、彼らの家柄も禄(収入)も必ずしも高くなかった。血筋からして将軍家に最も近い徳川姓の御三家・御三卿は、将軍の直系が絶えた時のいわばスペアであって、高き所へ祭り上げられていた。その次の、松平姓の親藩(家康の男系男子の家柄)も、伊豆守信綱や白川侯定信のような例外はあっても、ほぼ同様。
 関ヶ原以降に幕藩体制に加わった外様大名は、禄は高い場合があった。徳川将軍家を除く大藩を石高順に記すと、加賀藩前田百万石、薩摩藩島津七十万石、仙台藩伊達六十万石、と、トップ3を外様が占めている。それでも、むしろ取り締まられる対象であって、多少とも国政に参与することなどあり得なかった。【このように、名誉と権力と収入をできる限りバランスよく配分して、不満を抑えたのは、なかなかの知恵だと言えるだろう。】
 これが実質的に変化した。阿部との人間関係もあって、御三家の徳川斉昭、親藩の松平慶永(春嶽。御三卿の一つ田安家の生まれ)、外様の島津斉彬らが発言力を持ち、政治に関与するようになってくる。
 このうち斉昭は、この時は既に家督を嫡子の慶篤に譲っていたが(直接には実弾を使った大規模な軍事訓練を無断で行ったことが幕府の忌避に触れて、強制的に隠居させられた)、水戸学を代表する人物として声望を集めていた。その主張は、うんと単純化すれば「日本は神聖な天皇陛下がおわす神国だ」で、だから「穢れた異人が入ってくるのを許してはならない」と結びつく。少なくとも、ナショナリズムに燃える、後に志士などと呼ばれる人たちからはそうみなされ、時代の有力なイデオロギーになったのである。ここから出た「攘夷」という言葉はすぐに広まり、一般化した。
 この思想、というか流行は、二重の意味で幕府に不利に働いた。まず、強硬に外人を追い払うなどできない幕府の「弱腰」が批判された。次に、偉大なのは天皇陛下なのであって、幕府はただ政権をお預かりしているだけだ、なる形式論が思い出され、幕府の権威は低下した。いわゆる尊王攘夷。
 阿部は政権担当者として、単純な攘夷思想にはまっているはずはなかったが、おそらく前述した「挙国一致」のためには影響力の強い人物を取り込んだほうがよいと考えたからであろう、斉昭をまず海防参与とし、安政2年(1855年)には軍制改革参与とした。現実に責任のある立場になれば、すぐに異人を追い払え、なんぞとは言っていられなくなるはずだ、という目論見もあったかも知れない。
 実際斉昭は、大砲七十四門を鋳造して幕府に献上したり、幕府の命を受けて最初期の洋式軍艦「旭日丸」を建造したりしている。前述の鉄砲の一斉射撃訓練などと合わせて、島津斉彬と並んで、勝の意見書にもあった軍政改革に、最も早く実際に取り組んだ一人であって、その意味では頑迷固陋な日本主義者などではなかった。しかし、こと「尊王」に関しては絶対に譲らなかった。何しろ水戸藩は、二代藩主で水戸学の祖である光圀の「いざというときは(幕府より)朝廷にお味方せよ」という遺訓があった、とされる(たぶん伝説だが)ぐらいだ。これは日本と言うより水戸藩にとって悲劇のもとになった。
 阿部正弘が死に、後任の老中筆頭堀田正睦が失脚した後、大老となった井伊直弼が強力に開国を推し進めたのは、一面幕府の権威失地回復政策であり、明治維新を革命とすれば反革命運動だった。安政5年(1858)、先に堀田が勅許を求めて拒否された日米修好通商条約を、井伊は独断で調印した。井伊も最初から朝廷を無視するつもりはなかったようだが、結果からするとそうなった。と言うか、土台、しばらく前ならこんなことは問題にもならなかったろう。しかしこれは幕府の専横であり、許すべからざる暴挙だとする見解は、斉昭などの考えだけでなく、輿論、と言ってもいいものなっていた。
 言い換えると、「公議」の内容が変わった。「公儀隠密」の公儀とは字も意味も違うけれど、それまでは幕府の決めたことは即ち「公」、でよかった。その「公」の出所がいつのまにか他所に移り、幕府が幕府だけで判断して実行することは「私議」である、とされるようになったのである。
 斉昭は松平慶永、尾張藩主徳川慶勝、実子の一橋慶喜らと江戸城に不意に登城し、幕閣を問責した。この時は老中たちに軽くあしらわれた感じであったが、後日、禁じられていた予定外の登城を強行した廉で、謹慎に追い込まれる。名高い安政の大獄の始まりである。
 その二年後、水戸藩士(薩摩藩士も一名加わっている)によって井伊直弼が斃されると、幕府の権威が旧に復することはなかった。同年、奇しくも斉昭も亡くなっている。

 安政7年は桜田門外の変や江戸城火災など変事の続いたため万延と改元された。その万延は1年も続かず、文久となった頃から、島津久光が政治の表舞台で活躍するようになる。
 私も時々まちがえそうになるのだが、久光が薩摩藩主になったことは一度もない。異母兄の斉彬の死後に、実子の忠義が藩主となったために、藩内では「国父」と呼ばれ、実権を掌握した。しかし藩の外では無位無官のただの人だった。
 それが文久2年(1862年)、挙兵上洛した。これには次の背景がある。幕末きっての賢侯とされる島津斉彬は、井伊の専横を怒り、抗議のために軍勢を率いて京から江戸にまで赴く計画を立て、その実行の直前に急死した(安政5年)。亡兄の遺志を引き継ぐ、ということだったが、情勢は変わっていた。時の孝明天皇は、大の外国嫌いではあったが、幕府をつぶす気はなく、討幕に傾いていた攘夷派にはむしろ嫌悪感を抱いていた。要は幕府が朝廷の意に服するようになればいいので、ここから出た路線は公武合体と呼ばれた。久光はその推進のために働くのだ、と標榜した。
 具体的には幕政改革を促す勅使として大原重富が下向するのに護衛として同行、実質的に幕閣と交渉し、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。この帰途、現在は横浜に編入されている生麦で英国人と遭遇、行列を乱したので藩士二人が彼らを殺傷する事件が起きたのは、暗に開国を含む公武合体には、かなりの困難があったことを如実に示している。
 それとは別に、幕閣としては強い不快感が残った。公武合体といい、その徴として将軍家茂(いえもち)は皇女和宮を御台所にしていたが(文久元年)、朝廷との結びつきが強くなったからといって、その分幕府の権威が回復したというより、そうでもしなければ権威を保てない幕府の弱体化のほうが強く印象付けられる。
 それに、幕府に代わって朝廷が日本の中心になったと言っても、全公家を含めた朝廷になんらの軍事力も政治力もないことは、一定以上の身分の者なら誰でも知っている。その朝廷の意向とは、畢竟うまくとりいった誰かの意志に他ならない。今回の改革案にしても、元来久光が発案したか、少なくとも取りまとめて、提示してきたものであろう。その久光とは、外様の一大名、ですらないのだ。久光がたとえ心底から幕府のためを思って改革案を出したのだとしても、幕府側から見たら、下克上とも言いたくなる無秩序であり、屈辱であった。
 久光に対する反感はその後長く尾を引く。
 幕府が単独で国政を行ってはならない、としたら、幕府も含む有力諸侯の合議に依るものにしようという案が出てくる。これが「公議政体論」である。一応実現したのは文久3年(1863)の参預会議。薩摩と京都守護職になった会津によって、京から長州藩を筆頭とした攘夷派を一掃された後に発足した。この時も久光の働きが最も大きかった。メンバーは久光(この時初めて官位をもらった)の他、一橋慶喜、松平慶永、前土佐藩主山内豊信(容堂)、前宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、会津藩主で京都守護職松平容保(かたもり)の六名。主な議題は、この年の5月、下関で外国商船に砲撃していた長州の処分問題と、横浜鎖港問題だった。
 ここにも奇妙なねじれがあった。この年、やはり久光の改革案に従って、将軍家茂が三代将軍家光以来実に229年ぶりに上洛した。その家茂に、孝明天皇は20日後の攘夷の実行を約束させている。上述の長州による外国船攻撃は、この約定に依るものだ、と長州は主張している。一方幕府は、できぬことは承知の上で、江戸に近い横浜の閉港とこの地に住む外国人の立ち退きを約束し、12月、参預会議発足の直前にその談判のためにフランスへ使節を派遣している(向こうには全く相手にされなかった)。これは天皇を誑かそうとしたものであるとして、後に薩摩に攻撃される理由の一つになった。
 参預会議の時点では、参加者はすべて攘夷など不可能であることを認識しており、横浜鎖港を取りやめる方向で話し合いをまとめようとした。幕府にとって好都合のはずなのに、久光に対する反発と猜疑のほうが勝った。慶喜は本心とは裏腹に、あくまで大御心通り横浜港を閉ざすと言って譲らず、話し合いは膠着した。そのうえ、酒席で、酔った勢いで、あるいは酔ったふりをして、久光・慶永・宗城を「この三人は天下の大愚物、大奸物」であるなどと暴言を吐き、参預会議を崩壊に導いた。この制度は全部で3ヶ月しかもたなかった。
 その焼き直しが慶応3年(1867)の四侯会議で、十五代将軍となった慶喜と、上記から松平容保を除いた四人で、第二次長州征伐以後の長州藩の処遇と兵庫開港問題(朝廷は慶応元年に、兵庫沖に艦船を率いてきた英仏蘭三カ国の脅しに屈する形で通商条約を認める勅許は出していたが、京に近い兵庫の開港だけは認めていなかった)が話し合われた。このときもまた、慶喜は久光の反対にまわり、具体的には久光が兵庫港問題をまず話し合おうというのに長州問題が先だと言って譲らず、またも会議は破綻してしまった。この後慶喜は単独で粘り強く朝廷と交渉し、前年に急死した孝明天皇に代わって即位したばかりの明治天皇から兵庫開港の勅許を得ている。
 ここに至って久光も幕府を見限り、敵対していた長州と組んで、討幕へと路線変更した。
 さてそこで、歴史のif。もし慶喜がもっと柔軟で謙虚になって、合議に依る政治を実のあるものにしていたら、戊辰戦争もなく、日本はゆるやかに平和の裡に近代国家へと移行していたろうか。可能性はなくはないが、私はそれは難しかろうと考える。上で登場した諸侯とは、当然みな大名かそれに準ずるものであって、所領と家臣団を抱え、そこからくる利害関係から自由ではあり得ない。日本の、だけではなく朝鮮・支那まで含めた東洋の有力者とは、だいたいそんなものだ。彼らだけの話し合いで、廃藩置県のような大改革が実現できたとは思えない。
 それに、会議参加者の人選は、結局、恣意的だった、と言われても仕方がないであろう。幕末の四賢侯(松平慶永、山内豊信、 島津斉彬、伊達宗城)などと称されるが、彼らは元来慶永のお友達集団の傾向があり、この時代彼らより賢明な者がいなかったかどうかはわからない。彼らの決めたことが本当に日本の「公議」と言えるのか、たった四、五人の「私議」と呼ぶのが相応しいのではないか、と言われたら、ちゃんと反論するのは難しいだろう。慶喜もまた、つまりはこの論理で彼らに対抗したのであって、正当性の問題からすれば、一理あると言わねばならない。
 慶永の人柄のよさは抜群であったろう。慶喜に何度も煮え湯を飲まされていながら、徳川氏の領地返納まで決まった小御所会議の後でさえ、慶喜を盟主とした諸侯(大名)連合を唱え、ひたすら討幕の道を突き進む薩長を敵視した。実際、身分制度を撤廃するのでない限り、国内最大勢力である徳川氏を除いて政治を行うのは、非現実的だし、また誰をも納得させる理由は見当たらない。もし鳥羽伏見の戦いが起こらなかったとしたら、西郷・大久保・岩倉たちのほうこそ、政局の中心から逐われていたかも知れないのである。

 国民全体の信託を問う形式を踏まえたうえでの国政会議といえば、即ち議会ということになる。ここまで踏み込んだ幕末から明治初めの言説を瞥見しておく。
 知識としては、清末に魏源が著した世界各国の紹介書『海国図志』の抄本などから、西欧諸国には議会というものがあることは早くから少数者には知られていた。日本人では福澤諭吉が慶応2年(1866)『西洋事情』第一篇三巻を出版して、より広い範囲の啓蒙を果たした。
 慶永のブレーンだった横井小楠は、公議政体論の代表的な論客として知られているが、大政奉還の知らせ聞いて、慶永に宛てた書簡に「一大変革の御時節なれば議事院被建候筋尤至当也。上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」と記した。上院と下院の構想である。ただ、小楠は儒者で、「堯舜三代の道」を理想とする。「公共」の語も言われているが、それは厳然としてある/あらねばならぬ「天理」に適うことを言う。だから、上院下院と言っても、有為にして有徳の人材をできるだけ広い範囲から集める、ということ以上の意味はない。
 この時代ではたいていそうであった。「御誓文」の筆者の一人である由利公正は小楠に師事していたのだから、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」にも小楠の考えが反映していると考えられる。短文なので解釈の紛れは出てくると思うが、前半が「できるだけ広い範囲の参加者から成る会議」の意味だとして、そこから出てきたものをただちに「公論」とは呼べないと思う。
 他に、坂本竜馬は小楠と親しく、「船中八策」はその影響を受けて書かれた可能性が高いと言う。その「船中八策」に基づいて後藤象二郎らが書いた「大政奉還建白書」から引くと、「議政所は上下に分け、議員は、上は公卿から下は官吏、庶民まで、正明純良の士を選ぶ」。この場合「選ぶ」主体は誰なのか、がつまり肝心な点である。朝廷、という答えは予想されるけれど、それでは形式論にしかならないことは前述の通り。
 これらより僅かに早い慶応3年5月、赤松小三郎は「御改正之一二端奉申上候口上書」を慶永、島津久光、幕府に建白している。注目すべきなのは、「議事局」に関するところで、
(1)上下二局に分ける。下局は国の大小に応じて諸国より数人ずつを自国及隣国の入札によって、上局は、公家・大名・旗本よりこれまた入札で選ぶ。
(2)国事はすべてこの両局で決議の上、天朝へ建白し、許可を得たら、天朝より国中に布告する。もし許可が得られなかったら、議政局にて改めて議論し、再び決議されたら、もはや天朝も覆すことはできない決議となる。
 つまり、国の重要事を評議し決定するのは選挙によって選ばれた者たちであること、そしてその決議には、最終的には天皇も従わざるを得ないという意味で、議事局は「国権の最高機関」になることが唱えられている。これでも現在から見ればいろいろ足りないところがある。選挙権はどの範囲に与えるのか、上局と下局はどちらが優先されるのか、局内での議決の方法は、たぶん多数決だろうと予想されるが、それは明記されていないこと、など。
 それでもこれがいかに破天荒な議論であったかは、最近まで赤松がほとんど忘れられた存在であった事実に現れている。当時としてはおよそ非現実的で、むしろ空想に近い、と慶永や久光を初めとして、誰しもが思ったからだろう。
 一方、旧幕府でも、大政奉還後に西周らが中心になって、徳川家主導の「公議所」を作る構想があったが、もちろん実現する暇はなかった。
 新政府は明治2年から4年にかけて、御誓文の精神を生かすとして、「公議所」後に「集議院」を開設しており、会議が持たれた。これは、まだ「藩」が存続していたこともあって、旧幕時代の各藩江戸留守居役による藩同士及び幕府との連絡調整機関の役割も引き継いでおり、決議には公的な威力はなかった。
 本格的な議会の開設は、それからさらに二十年を待たなければならなかった。ただ、議会制民主主義は、日本では現在に至るまでいまいち正当に機能していないような気もする。それについては、天皇とのかかわりを通じて、また何度も考えてみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その15(幕間狂言、西と東のフーガ 下)

2018年03月18日 | 近現代史
メインテキスト:慈圓・大隅和雄訳「愚管抄」/北畠親房・永原慶二 笠松宏至訳「神皇正統記」(永原慶二責任編集『日本の名著9 慈円 北畠親房』中央公論社昭和46年)

サブテキスト:日本史史料研究会監修、呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y 平成28年)



(12)源義時の長男である頼朝を、殺さなかったまではよいとしても、河内源氏一統に信服していた武者の多い東国の、伊豆へ流したことは清盛の一代の失敗だったようだ。
 西の支配に大なり小なり不満を持っていた東国人にとって、軍事力はほとんど問題ではなかった。この頃までに坂東武者の精強さは半ば伝説となっていた。それは逆に、都に住んで、戦闘に慣れていない武家たちは、半ば以上公家化していたことを示す。
 平家方についた武将齋藤實盛が、叛乱追討軍の総大将平維盛(清盛の孫)に、「汝ほどの射手【関東】八箇國にいかほどあるぞ」と問われて、「實盛ほど射候ふ者は八箇國に幾らも居候ふ」云々と、誇大に伝えて覚悟のほどを促した。これが裏目に出て、恐怖心にかられた維盛が、富士川の合戦(1180)で、水鳥の羽音を夜襲と聞き違えて、戦わずして敗走した逸話にそのへんの事情はよく出ている。
 それほどの武力を誇る東の者たちでも、王城の地である都へ攻め上る心理的な圧力は相当のものだった。①正当性には疑いがあるが、ともかく朝廷側から出た令旨(本来は皇太子が出すもの)のおかげで、敵は朝廷ではなく平家だというお墨付きを得た。②将門に比べると天皇との血脈はずいぶん遠いが、名門の貴種ではある頼朝という中心を得た。この二つがあってもなお払拭できないぐらいに。
 富士川合戦の後、敗走する平家を追って上洛を果たそうとする頼朝を、上総介廣常(桓武平氏の支脈)たちが反対して止めている。このときは、常陸の佐竹氏がまだこちらについておらず、足元が万全ではない、という理由があった。しかしこの問題は、単なる情勢論ではなかった。頼朝が初めて上洛したのは(もっとも、少年期は父とともに都で過ごしたのだが)、これから10年後、平家滅亡からでも5年後のことになる。
 廣常は寿永二年(1183)に謀殺されている。これを頼朝は都で後白河法皇に次のように説明している。石橋山の戦いで敗走してから、安房で再び挙兵したとき、廣常が大軍を率いて味方に馳せ参じたので、平家方に勝つことができた。大功ある者ではあるが、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。誰カハ引ハタラカサン」などと言っていた。謀反の心があるのは明らかなので、殺したのだ、と。
 この廣常の言葉中、「身グルシク」がどうも気になる。今日の「見苦しく」と同じだとすると、かつては北面の武士の一人として、保元・平治の乱を義時と伴に戦ったとされる者が、朝廷への慮りに、反対はしても、そのようにまで評するものだろうか。
 これは、京に上って平家に取って代わろうとする野心を、頼朝に認めたからではないだろうか。それでは朝家の争いを中心とした、古来の権門・寺社勢力の軋轢にまで否応なく巻き込まれ、結局平家と同じ末路をたどるだけではないか。それよりは、あくまで武家として関東に留まり、この地を守っていれば、誰にも手出し出来ないだろう、と言いたかったのではないだろうか。
 佐藤進一の言う「東国独立国家」構想(『日本の中世国家』岩波現代文庫)は、平将門から受継がれたものだろう。しかし、そこを一歩進めて、もう朝廷は無視して、関東は自分たちで勝手に統治しよう、とまで言えば、それこそ将門と同じ、謀反になってしまう。そうなったら、求心力を欠いた「独立国家」は分裂してしまうかも知れない。
 言わば間接的に、独立せねばならぬのだ。廣常たちにそこまでの深い考えがあったとは思えない。対平氏の挙兵を成功に導きながら、騙し討ちで殺された【梶原景時と双六をやっているときに、突然首を落とされた】のは気の毒だが、大化の改新や明治維新に比肩し得る我が国の大改革である鎌倉幕府の創設には、頼朝と大江廣元たち幕僚の、慎重の上に慎重な熟慮と、粘り強い交渉が必要だったのである。

(13)最近鎌倉幕府の成立時について、従来の1192(いい国。頼朝が征夷大将軍に任じられた)から1185(いい箱? うまい語呂合わせにならないなあ)のほうが有力視されている、という歴史学会中の話が、大学入試ではどうなるのかな? という絡みでニュースになっている。実際はこれには決定的な答えはない。だいたい、「幕府」という呼称自体、ずいぶん後、江戸時代後期になって一般的に用いられたものらしいので、「鎌倉幕府の成立はいつか」に対しては、「鎌倉幕府という政庁なり政府組織は存在しないので、答えはない」が正解、ということになるかも知れない。
 それでもとりあえず、なぜ文治元年(1185)とも考えられるのか。この年平家一門が壇ノ浦で滅んだ、からではなく、頼朝に、全国に守護・地頭を置く権限が認められたからである。地頭とは各荘園で警察や徴税の権限を持つ者、守護とは国単位で地頭を監督する者。旧来の国司も廃止されたわけではないので、当然ぶつかる。守護・地頭には頼朝の御家人(家人に丁寧語の御をつけたものだから、要するに家来)が選ばれた。これによる全国の統率が、鎌倉幕府と後に呼ばれたものの、支配の根幹だった。
 公式に律令制、即ち朝廷の支配が無視されたわけではない。このへんもまあ日本的、と呼ばれてもいいかもしれない。
 もっと細かく言うと、この年、現場の軍司令官として平家を滅ぼし、その後も都に留まって頼朝と対立するようになった源義経に、後白河法皇が頼朝追討の院宣を出してしまっていたために、それはすぐに取り消されたとは言え、頼朝に対して負い目があった。義経を捕らえるためには、各地の警察組織を手中にしなければならない、と言われると、断り切れなかったのである。だから当初は守護、あるいはその前身である惣追捕使というのも臨時職だという意識が、朝廷側にはあったようだ。また西国まではまだまだ頼朝の威勢が及んでいなかったので、文字通り全国に御家人による国司・地頭が派遣されたわけではない。
 これが一応全国制度として完成するのは、頼朝の死後、承久の乱(1221年)で、朝廷権威の失墜・幕府権威の確立がなされてからであり、さらに九州まで含めたすべての武士に動員をかけられるようになったのは元寇以降だと言う。
 以上をまとめると、①朝廷は公の位と職を与える。②幕府は武家を統率する。この二元体制が鎌倉時代に確立した。では、ほとんど唯一の収入源だった土地の、実質的な所有権は誰にあるのか。このアポリアについては、目立たぬように、ゆっくり武家への委譲が進んだ。
 変革は緩やかなほうが、犠牲は少なくてすむ、でなくても、目立たなくてすむ。もっとも鎌倉幕府の場合、頼朝の息子で第二・三代目の将軍がいずれも横死するなど、内部の紛争が激しいから、外向きの大規模な権力の拡張はやりづらかった事情もあるだろう。三代将軍実朝の死から7年間、実質的な将軍として御家人をまとめた北條政子と、親房が絶賛している三代目執権・北條泰時がいなければ、鎌倉幕府の機構そのものが早くに分裂・分解していた可能性は高い。
 しかし朝廷と幕府、西と東の関係がこれだけで収まったわけではない。頼朝は上記の上洛の際、権大納言と右近衛大将(武官の最高位)に任官され、すぐに辞任はしているが、この後もけっこう「前右大将」の肩書きは使ったようだ。それでも、令外官だから、より自由な征夷大将軍の地位を当初から望んでいたが、これは後白河院が許さず、その死後、いいくに、の年にやっと与えられた。後白河院とその側近たちは、頼朝を宮中の位階秩序の中に組み込むことを望んでいたらしい。
 頼朝の側ではこういうことに無関心あるいは警戒していたかというと、そうとも言い切れない。政子との間の長女・大姫を第八十二代後鳥羽天皇の妃として入内させようとする話があり、頼朝もこれには乗り気だった。建久6年(1195)の二度目の上洛は、東大寺供養を名目にしていたが、宮中でのかけがえのない協力者であり、将軍宣下のために尽力してくれた九条兼実(慈圓の兄。娘を後鳥羽帝の中宮として入内させていた)の失脚を黙認してまで、これを実現しようとした。しかし肝心の大姫が病気がちであり、2年後に亡くなると、今度は次女の乙姫を入内させ、女御にはしたが、こちらもまた、頼朝の死後に、十四歳で亡くなった。
 つまり頼朝も、藤原摂関家や平清盛と同じく、天皇家の姻戚になることによって、自らの権威を強固なものにしようとしたのである。清盛の例からすると、権力の強化という面で、それにどの程度の効果があったかは疑問なのだが、ともかく、高貴なものへの憧れは熾烈であったのだ。【清盛の孫である安徳帝は八歳で平家一門と共に壇ノ浦に入水している。頼朝は天皇を殺したことになるこのような結果を喜ばず、義経との不和の一因になった。】

(14)鎌倉幕府の執権統治を本格的に始めた泰時は、高位高官を望まなかった(死んだ時点で正四位下左京権太夫)。桓武平氏の流れではあっても、家挌が低いことにより、遠慮して将軍にもならなかった。もっともこれは、簒奪者の汚名を着るのを嫌ったからかも知れない。實朝はともかく、二代将軍頼家を謀殺したのは北條だったことは、天下周知であったのだから。
 頼朝の血統が途絶えた後の将軍として、親王を依頼したのは泰時ではなく、父・義時と伯母の政子であったが、後鳥羽帝が許さず、やむなく源家と縁つづきだった九條家から、藤原(九條)頼経(兼実の曾孫に当たる)、次いでその子の頼嗣を迎えた。鎌倉幕府が親王を将軍とすることができたのは、泰時の死後、五代目執権時頼の代である。この措置によって北條家は、幕府の権威付けと朝廷との和親を図った、と言われるが、ことによると西からの人質の意味もあったのかも知れない。
 武力や血統以外の統治原理を建てようとしたためか、泰時は御成敗式目(貞永式目)を制定する(1232)。史上初の武家用法令であり、これから日本が法治国家になった、とは言えないが、泰時はわりあいと近代的な考え方をする人だったとは言えそうだ。
 これについて、六波羅探題(京都の治安維持及び朝廷の監視が役目)をしていた弟の重時に宛てた「消息文」は有名。そこに謂う(大意)、「この式目はただ道理のしからしむるところにより、公平な裁きができるようにしたものだ。法令としては律令があるけれど、漢字も知らない武士や庶民の中に、これを理解できる者は百人千人に一人もいない。この式目は律令をいささかも変更しようというわけではないけれど、仮名しか知らない者にも世の中の決まり事をきちんと知らせて、役人の裁きが恣意的にならないようにするものである。京の人に難詰されたら、そう答えておいてくれ」。
 これを読むと、なるほど、泰時の優れた人柄が偲ばれる。それにつけても、五百年も前にできた、それも、たぶん言われているとおり、人口の1パーセントも知らないし理解していない法令に、ずいぶん気を使うものだな、と誰もが感心するだろう。しかしなんであれ、あずまえびすがそれを変えようなんぞとしてはならない。それは烏滸の沙汰というべきものだ。この時代に至ってもなお、そのような意識は強固に残っていた。
 そういう泰時も、皇位継承に介入している。幕府は、承久の乱の首謀者である後鳥羽院の近親者が帝位につくことは許さなかった。その孫である第八十五代仲恭天皇を廃すると、第八十代高倉天皇まで遡り、安徳帝の弟の子を後堀川天皇として立てた。しかしこの系統が次の四條天皇で絶えると、第八十三代土御門天皇の子・後嵯峨天皇が即位する。土御門院は後鳥羽院の子だが、倒幕の企てには参加していなかった。しかし、父が隠岐へ流されたのに、自分だけ安閑としてはいられないと、自ら申し出てまず土佐に、次に阿波に流された。そういう人の子ならよかろう、と泰時が決めたのである。
 親房は、これこそ天道・正理に適うもの、と言うのだが、たとえそうだとしても、この後、幕府が皇位継承に当然のように口を出す事態は、長い目で見れば危険なものであった。幕府に都合のいい天皇を選べるという利点はあるものの、選ばれなかった側から深刻な恨みを買うからである。実際、後醍醐帝が倒幕を決意した動機の一つは、自分の息子を次期天皇にすることにあった。

(15)北畠親房によると、建武の新政は承久の変のやり直しなのだった。日本は天皇が統治するのが当然ではあるけれど、また天皇には徳がなくてはならない。「君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく、運の善し悪し)あるべしとぞおぼえ侍る」。その言や良し、だが、実際の歴史にあてはめると、どうなるか。
 後鳥羽院や順徳院には徳が欠けており、この時は幕府の側にそれがあった。今は後醍醐帝と言う有徳でもあれば英邁でもある君主がいる以上、清和源氏の流れを名乗っているが、鎌倉幕府の御家人の一人に過ぎなかった足利尊氏などがしゃしゃり出て来る余地は本来ない、と。【親房はずっと「高氏」と表記している。「尊氏」は御醍醐帝の名「尊治」から一字もらったいわゆる偏諱(へんき/かたいみな)だからである。】
 果たしてどうか。始まりは後嵯峨院からだった。この院は皇子の一人・宗尊親王を将軍として関東へ送り、宮将軍の初めとした他、第二皇子を次の第八十九代後深草天皇、次いで第三皇子を亀山天皇とした。後嵯峨院が崩御された時点で、後深草院・亀山帝ともに健在で、皇子もいたが、それより先に後嵯峨院の意思で、亀山帝の皇子を皇太子(後の後宇多天皇)としていたのだから、前述の崇徳・後白河院の時と同様、後深草院側の不満は当然あり、もしここに藤原仲麻呂やら藤原頼長のような権勢のある公家やら武家やらが同心するようなことがあったら、乱が起きていたかも知れない。
 それはなかった代わりに、この後皇統は二つに分かれ、後深草帝側の持明院統と亀山帝側の大覚寺統は長く角逐を続けた。権威だけの問題ではない。前述した守護・地頭職の武家から荘園の権利を守るためには、幕府とうまくやれる天皇を擁して、その側近になるのが近道であったのだから、公家たちにとっても「誰が天皇となるか」は熾烈な経済戦でもあったのである。
 後嵯峨院は自分が幕府の力で皇位に就くことができたからでもあろう、治天の君(宮中の政治のトップ、つまり形式的には日本のトップ。天皇自身より、その父か祖父がそうなることが多かったことは既述の通り)の選定には幕府の意向を聴くようにとも言っていた。その幕府は、後深草・亀山両帝の母である西園寺姞子(さいおんじきっし。出家後大宮院と称された)に後嵯峨院の遺志を確かめ、亀山帝を治天の君とした。
 建武の新政までにはもう一波瀾あった。後醍醐帝は後宇多帝の子だが、すんなりと譲位が行われたわけではなかったのである。亀山院は、幕府との関係を良好に保つことはできなかった。後宇多帝の後は後深草帝の子・伏見帝が継ぎ、後深草院は治天の君として復活する。その後は後伏見天皇(伏見帝の子)→後二條天皇(後宇多帝の子)→花園天皇(伏見帝の子)→後醍醐天皇と、交互に、いわゆる両統迭立によって皇位は受け継がれていく。それができたのも、幕府が監視していたうえに、長くても十年ほどの期間で、兄弟間で譲位が行われたからもある。
 そのための問題もあった。後二條帝は二十三歳で早世したが、皇子として邦良親王がいた。まだ幼いので、叔父にあたる後醍醐帝が大覚寺統の天皇となったのだが、父後宇多院は、後二條帝の血統に大覚寺統の将来の望みをかけていた。しかし邦良親王は父帝同様健康面で不安があったため、その跡が途絶えた場合には後醍醐帝の血統で皇位継承がされるように、と書き残している。これでは後醍醐帝は予備のスペアみたいな扱いである。
 「正統記」には、上の事情もさらりと記載されている上で、和漢の学に造詣が深い後醍醐帝の才に、祖父・亀山院も父・後宇多院も期待していたと言うのだが、現に邦良親王を皇太子とするように強要されたのであれば、後醍醐帝の立場は崇徳院や後深草院と同じようなものとしか見えない。
 このため、だろう、後宇多院の崩御後も後醍醐帝は譲位せず、天皇親政を続けた。それが我が国の本来あるべき姿であるとして、親房は称揚する。しかし、これでは邦良親王側は穏やかではいられず、譲位を急がせるようしきりに幕府に働きかけるし、鎌倉にもこれに呼応する動きがあったから、明確に敵は幕府、ということになったのである。
 後醍醐帝側は、まず土岐頼貞・頼兼親子を味方にして、幕府の京お目付機関である六波羅探題を襲う計画を立てたが、事前に発覚した(正中の変、1324年)。その後ほどなく邦良親王は亡くなるが、今度は後伏見院の第一皇子が皇太子となった。つまり、大覚寺統・持明院統の交代制度は続いていた。幕府がそれを認めていたからだ。かくして、後醍醐帝の討幕の志もまた、続いた。

(16)後醍醐帝は従来言われてきたほど公家に手厚く武家を軽んじたわけではないし、また網野善彦の言うほど異形の王でもなかったと、『南北朝研究の最前線』に論考を寄せた最近の研究者たちは説いている。院政中は停止されていた行政と訴訟を司る記録所を再建し、帝自ら毎日、一日中精勤していたことは「正統記」にも記されている。
 それなのになぜ、建武の新政は三年しか保たなかったのか。
 一番大雑把に言うと、結局のところ、武士たちは天皇による直接統治を現実面では認めることができなかったからであろう。古代の阿倍比羅夫や坂上田村麻呂は武官であって、朝廷に仕える者たちであった。平安期以降の武家は、所領を先祖と自分が勝ち取り、また守ってきた者達だ。後醍醐帝が出す綸旨などは、内容の適否に関わらず、自分たちと直接関わりのないところから降ってきたよくわからぬ御宣託である。このような意識が、鎌倉時代150年の間に芽生えていたのであろう。だいたいその朝廷には、所領を不当に脅かされたとしても、それを守る兵力はなく、それは他の武士に依頼するのである。中央集権政治を行うにしても、実のないものに見えても不思議はない。
 因みに、明治維新では、天皇の権威の元に、武士そのものの廃絶まで突き進むことができたのは、その前段階で、260年にわたる徳川幕府による強力な支配で、大規模な土地争いは根絶されたことも大きい。江戸時代の政体である幕藩体制とは、形式上あくまで幕府をトップとした武家の連合体ではあるが、この幕府は前の二つと比べてもずば抜けて強力で、おかげで中央集権のための地ならしはできていた。
 14世紀ではまだ、いかにも時期尚早であった。しかも、朝廷のくださる正当性とは関わりなく、鎌倉が、武士にとっての中心地、いわば武家の「都」とみなされていたらしいことは、中先代の乱(「太平記」の表記では「中前代」。1335年)で明らかになっている。先代あるいは前代とは北條家、次に武家の棟梁となったのが足利家、その間に、北條家最後の得宗高時の子時行が、幕府再興の兵を挙げて鎌倉を占拠した。それも20日ほどしか続かなかったのだが、足利家の当代に比して時行を中先代/中前代と呼ぶ。この呼称は「正統記」などにはなく、武士たちの間で、古くから言われていたものらしい。武家の治世は続いていたのだし、続けなくてはいけないという意識があったからに違いない。
 むしろ不思議なのは、「当代」であるはずの足利尊氏が、「身ぐるし」いまでに朝廷にこだわったことだ。征夷大将軍の職を望んだのに後醍醐帝から許されず、勅許も得ずに勝手に鎌倉へ攻め入り、時行を逐って鎌倉を占拠した後は、これまた勝手に武士たちへ恩賞を与えた。幕府を開くつもりだな、と当然誰もが思うのに、足利討伐の勅許を受けて新田義貞が攻めて来ると、朝敵になるつもりはなかったと寺へ引き籠もってしまう。天下人としてこのへんの首尾一貫性の欠如はとても不思議で、よく話題になる。その心事は測り難いが、結果からすれば、尊氏は、古来の権威と新たな武家階層からの要請を一身に受け、引き裂かれた人物ではあった。
 まちがいなく、名将ではあったのだろう。代って指揮を執った弟の直義が敗北しそうになると、「直義が死んだのでは自分が生きている甲斐もない」と参戦し、たちまち新田の軍を蹴散らしてしまう。その後、楠木正成や奥州から駆け付けた北畠顕家(親房の子)に敗北し、九州まで逃れるが、捲土重来を果たし、京を占拠する。
 天皇位は、鎌倉幕府によって後醍醐帝が壱岐に流されていたときに即位し、建武の新政中は上皇となっていた持明院統の光厳院(後伏見帝の子)から、弟の光明帝にと受け継がれた。【尊氏は京都攻めの際、光厳院から院宣を得ていたので、決定的な朝敵の汚名は回避できた。】後醍醐帝は息子の成良親王(尊氏の前に、短期間だが征夷大将軍になったことがある)を皇太子とすることを条件に三種の神器を光明帝に渡し、つまり正式な皇位であることを認めた。が、翌年、京都を脱出して吉野に行宮を建て、先の神器は偽物である、と宣言した。そして改めて、第一皇子の尊良親王を皇太子としたため、ここにいわゆる南北朝時代が始まった。
【現皇室は北朝の子孫であるにも関わらず、明治以降南朝が正閨とされたのは、幕末維新の志士たちに多大な影響を与えた水戸学に依る。】
 このへんの御醍醐帝の粘り強さには確かに異例である。おかげで室町幕府は不安定な二元体制を採ることになった。正当性の根源である皇室が二つある上に、その片方の、南朝=吉野朝への警戒の必要があって、幕府は京都を離れることができず、ために武士の都である鎌倉には鎌倉府が置かれ、関東十か国を統治する強い権限が与えられた。その長は「鎌倉公方」と称し、最初尊氏の四男基氏が就き、以後この家系で継承されていった。つまり、武家社会の中でも二つの中心ができたわけで、「東国の独立」の名に相応しい事態は、室町時代に一番はっきり現出したと言える。
 もちろんこれでは社会は不安定にならざるを得ない。室町幕府は三代将軍義満の時代に体制固めをすることができた。義満は、南朝を飲み込む形で、半ば強引に両朝の統一を成し遂げたが、自身が朝廷での高い官位を望む人でもあり、武家としては平清盛に次ぐ二人目の、太政大臣にまでなっている。また、鹿苑寺金閣に象徴される北山文化を築いた文化人でもあった。関東にはあまり興味はなく、西の大内氏は討伐したものの、鎌倉公方の存在はそのままにした。
 四代将軍義持の時に鎌倉公方・持氏との角逐が顕在化し、東の享徳の乱(1455年発端)から西の応仁の乱(1467年発端)を経て、日本はいわゆる戦国時代を迎える。実際は、室町時代の全体が、義満時代の後半を小休止とした日本社会の地殻変動期だったという見方もできると思う。なにせ、ほとんど絶えることなくどこかで戦乱が起き、いわゆる下剋上によって、武家では鎌倉以来の名家のほとんどが衰亡したのだ。

(17)最近研究会で読んだ小林正信『明智光秀の乱~天正十年六月政変・織田政権の成立と崩壊』(里文出版)によると、明智光秀の前身は室町幕府の武家官僚たる奉公衆であり、彼のおかげで田舎大名の織田信長でも近畿地方の統治ができたのだと言う。
 つまり、織田政権は室町幕府の機構をそのまま継承したのであり、信長が十五代将軍義昭を奉じている以上、足利将軍家も滅びていない。実際義昭が征夷大将軍の職を解かれたのは天正16年(1588年)で、豊臣秀吉が太政大臣となったさらに後のことになる。信長が甲斐の名族にして強豪の武田氏を滅ぼした後、幕府を倒す意思が露わになったので、光秀は誅殺を決意したのだ、と。
 そうかも知れない。しかし、信長の政権構想として、享徳の乱の結果既に名目だけのものになっていた鎌倉公方(末期には古河公方になった)の職に徳川家康を就け、お目付け役の関東管領職には家臣の瀧川一益を当てようと考えていた、と言うのはどうだろうか。室町政権の弱体を招いた東西二元構造まで受け継ぐ、どころか再構築する必要はあったのか。
 いずれにしろこれは可能性に止まる。信長の死後、臣下だった秀吉は、まず関白近衛前久の養子として藤原姓となった。次いで第百六代正親町天皇から豊臣の姓が与えられ、征夷大将軍ではなく、関白太政大臣として天下人になった。つまり、名流ではないが、武力と経済力によって権力を得、天皇と直接結びつくことによって権威を得た。それができる時代になっていた、ということである。
【因みに、信長は平維盛の子孫、家康は新田義貞の子孫を称していたが、本人を初めとして誰も信じていなかったのではないかと思う。ただ、天皇を頂点とした古来からの位階秩序は一応尊重しようとする姿勢を、ここには見るべきではないだろうか。】
 そして検地・刀狩によって、土地所有と身分秩序の整理を進め、日本を中央集権に近づけた。しかし、秀吉の死の時点で、徳川家康は二百五十五万石の東国の大大名として存在していた。これは秀吉一代の失敗だったろうか。いずれにしろ結果として、東国武士によるほぼ完全な日本支配にも道を拓いたことになった。
 その約260年後、主に西国の毛利・島津、というよりはその家臣たちによるクーデターが成功し、その結果天皇が東国に遷った。江戸→東京がここに名実ともに日本の中心となったのである。ここには象徴的以上の意味がありそうに思う。
 ただ、私の関心は、その後の、このような存在である天皇を、立憲君主に仕立て上げようとする、現在まで続く努力にある。もっと勉強してから、ここにもどります。

【「将門記」「平家物語」「愚管抄」「神皇正統記」「東鑑」「太平記」などの原文や書き下し文をネット上にアップしてくださった方々には、感嘆おく能わず、またたいへんお世話になりました。深く御礼申し上げます。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その14(幕間狂言、西と東のフーガ 中)

2018年02月27日 | 近現代史

保元合戦図屏風 江戸時代 馬の博物館蔵

メインテキスト:慈圓・大隅和雄訳「愚管抄」/北畠親房・永原慶二 笠松宏至訳「神皇正統記」(永原慶二責任編集『日本の名著9 慈円 北畠親房』中央公論社昭和46年)

(7)この二作は今回気にかける値打ちがあると思った。「神皇正統記」(1339年完成。以下「正統記」と略記する)は「大日本(ヤマト)は神国(かみのくに)なり」で始まる。なぜなら「天祖(あまつみおや)初めて基(もとい)を開き、日神(ヒノカミ)長く統を伝へ給ふ」、つまり、創造神の系統が途絶えることなく現在まで伝わっているからだ、と言う。この点は約100年前に書かれた「愚管抄」も同じで「この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし」と言う。即ち、天皇は万世一系だからこそ尊く、その天皇が統べるからこそ日本は神国である。明治になってから学校を通じて広く下々の者たちへも伝えられた観念は、800年以上前にもある人々の頭の中には生じていた。
 しかしもちろん、だからすべてよしで、万々歳、というわけのはいかない。天皇を中心としたこの国の秩序は、しばしば危険にさらされてきたのだし、時代の転換期を公人として生きれば、眼前の危機と直面せずにはいられない。そこで、現実の困難に耐え、できれば打開するための精神的支柱を、歴史の中に求めた、その記録が「愚管抄」であり「正統記」である。 
 「愚管抄」は大正期に広く知られるようになるまでは、著者の実家である九條家でのみ読み継がれていたそうだから、親房がこれを読んだ可能性は低い。しかし、かなりの点で、両者は一致する。天皇を最も神聖視する根本以外に、何が世を乱すのかについての見解も。彼らが一番批判しているのは院政である。
 摂関家や武家など、政治権力を握り、実質的に世を治めた者たちより、厳しく非難されているのはちょっと不思議な気がする。もっとも、慈圓はそもそも摂関家の出身なのだから、という個人的な事情はすぐに頭に浮かぶ。しかし村上源氏の末裔で、本来なら公卿(三位以上の、上級の公家)になれない親房も、天皇を譲位した太上天皇、略して上皇、さらに短い尊称として院、が院宣などを出し、それが天皇の宣旨より重んじられるのは、「世の末になれる姿なるべきにや」と言っている。
 そうなるのも、一番尊いのは天皇であるとしても、実質的な権力者は誰なのか、細かい規定はないからである。太上天皇の呼称そのものは最古の法「大寶律令」にあるそうだが、それが何をすべきなのか、何ができるのか、まではない。これは日本的なのか、あるいは古代的なのか、いずれにしても、長い年月の間には紛擾の種になる。

(8)院政はいつから始まったのか。古代でも既に、第四十六代孝謙天皇(後に重祚して第四十八代穪徳天皇)は、上皇となって後の天平寶字六年(七六二)六月、出家すると同時に、「政事は、常の祀と小事は今の帝が行ひ給へ。国家の大事と賞罰は朕が行ふ」と詔を出し、養子の淳仁天皇から行政・司法権を取りあげている。当時院宣というのは言葉自体がなかったのだろうが、それにしても、天皇以外の人がおおっぴらに詔(みことのり)を出せるとは、驚きである。
 この後淳仁帝は太政大臣藤原仲麻呂と組んで乱を起こし、破れて天皇の地位も失くし、淡路島に流される。これは天皇より上皇の方により権威があったこと、もう少し言うと当時の支配層の多くがそう認め、上皇に味方したことを示している。なぜか、はわからない。言えることは、時代に応じて、天皇の権威は、実際的にも形式的にもけっこう揺らいでいる。万世一系が保たれたのは、自ずから、などではなく、穪徳帝時の和氣清麻呂のような、各時代時代で努力した人がいたからこそなのである。
 もう一つ、この頃既に、神々への「祀り」と、人事を中心とした狭義の「政事(まつりごと)」は分離可能であると人々に意識されていたらしいことは注目される。亀甲占いやら盟神探湯(くがたち)などで集団全体の重大事(戦争をするかしないか、など)やら、人の正邪を決めた時代が本当にあったとすれば、シャーマン(呪術者)が最高権力者、でいいわけだが、それほど不合理にはなり切れず、といって神聖なものを捨て去るなんてこともできない(今の人でも、完全には棄てられない)となれば、「祀る者」と「政る者」は、ともに必要ではあっても、同一である必要はない、いやむしろ、別々にいたほうが自然だ、と、割合と早くから一般的に感じられていたものらしい。
 即ち政教分離、合理的に営まれるべき社会に、如何に(合理的に!?)非合理なものを組み込むか。天皇の在り方とは、この文明社会の根本課題に対する日本的な回答であり、しかしもともと、つける薬がないところにつける薬のようなものなのだから、おそらく今後とも、なんらかの揺れ動きを避けることはできない。

(9)院政の代表格である白河法皇(太上法皇。上皇のうち、出家した人をこう呼ぶ)の言葉として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(「平家物語」)というのが有名で、ではそれ以外は全部自分の意のままにできたということか、と取られるのが一般だが、むしろそれほどの権力者でも山法師、具体的には、大衆(だいす)と呼ばれた比叡山延暦寺の僧兵たちには手を焼いていた、というのが元の意味である。
 彼らは自分たちの要求が通らないと、しばしば大勢で都へ押しかけた。強訴という名がついており、要するに過激なデモである。この時、薙刀などより強力な武器になったのが神木とか神輿で、あれ、延暦寺の僧なら仏教徒じゃないの、と一瞬思うのだが、仏教も神道もごちゃまぜで、ちゃんと区別する場合のほうが日本では例外なのだ。ともかく、神聖なものを粗略に扱ったら神罰だか仏罰がくだるという怖れは、当時は相当なものだったから、担いでくるだけで、脅しの道具として有効に使えた。
 武士は、暴力の専門家であるばかりでなく、祟りなんぞを恐れる気持ちは貴族よりは少なかったので、白河院政以降、重宝され、立場も次第に上昇していった。都の公的な警察組織である検非違使の他に、北面の武士という組織を置いたのは白河院で、これは院直属の近衛兵、もっと言えば私兵的な性格のものだった。京から見て北の、比叡山に備えるためだから北面、というのはウソで、院御所の北側に詰所が置かれたからこの名がある。実際、警戒しなくてはならないのは僧兵だけではなかった。帝と上皇、この二重権力構造は絶えず緊張をはらみ、院側から見たら、天皇や親王(次期天皇候補)側から襲われる可能性だってあった。
 この職に地方の豪族が就き、たいていは五位以下(五位以上が宮中に上がれる、いわゆる殿上人)だが、位を与えられた。そして年月を経るうちに世襲化し、桓武平氏のうち伊勢平氏と、清和源氏のうち河内源氏と呼ばれる(いずれも本拠地からの俗称)一族が二大勢力となっていく。

(10)白河法皇の跡を継いだ孫の鳥羽法皇の院政時、既に不穏な空気が醸されていたが、実際の動乱はこの法皇の死を契機としている。
 保元の乱は、ざっくり言えば鳥羽法皇の長子・崇徳院と、第四子・後白川帝の対立が元である。崇徳院は実は白河法皇の落胤だという噂があり、それかあらぬか、白河法皇の死後、父からひどい扱いを受けている。無理矢理譲位させられて新院となり、次は僅か八歳の弟・近衛天皇が継ぐ。崇徳院とは腹違いで、その母・藤原得子(なりこ。後に美福門院)を鳥羽院が寵愛していたのも理由であったらしい。
 それで終わりではなかった。近衛帝が十七歳で崩御なさると、崇徳院には十五歳になる親王がいたというのに、鳥羽院は今度は自身の第四皇子で、崇徳院と同腹の、後白河天皇を即位させた。この人は熱狂的な今様(当時の歌謡曲)ファンで、鳥羽院はかねて天皇の器ではない、と言っていたのだが、関白藤原忠通の献言でそう決めたのだ、と忠通の子・慈圓は書いている。本当は後白河帝の子、後の二條天皇をすぐに即位させたい(美福門院の養子で、娘婿でもあった)ところだったが、二十九歳の親王が健在なのに、いきなりその子、鳥羽院から見たら孫、に譲位するのはまずい、ということだったらしい。いずれにもせよ、これによって、崇徳院自身は院政も敷けず(敷くためには単なる天皇経験者というだけでは足りず、現天皇の父か祖父である必要があるらしい)、またその血統は今後決して天皇にはなれないと宣言されたも同様だった。その無念たるや、察するに余りある。
 この院と、一時は権勢を揮ったが、不遇な立場に追いやられていた左大臣藤原頼長【忠通の弟。藤原摂関家の父子兄弟にはまた、固有の内紛があった。慈圓は、天皇家も摂関家も、兄より弟を可愛がったりするからだ、と言っている】が組んで、後白川帝打倒の兵を挙げた、正確に言うと挙げる寸前までいって鎮圧されたのが保元の乱(1156)。この時武家もまた二つに割れ、例えば源爲義とその子義朝、平忠正とその甥清盛は、それぞれ前者が崇徳院側、後者が後白河帝側に別れて戦った。結果、崇徳院側の頼長と多くの武将が死に、院自身は讃岐に配流された。崇徳院の怨霊は、この後長く都の人々を脅えさせる。
 3年後の平治の乱の時には、後白河帝は譲位して二條帝の代になっていた。この二人は実の父子に違いないが、安定した関係というわけにはいかなかい。一つにはそれまでの争乱が、拭いがたい凝りを残していたからである。
 もっとも、乱自体の真相はよくわからないところがある。表面だけ言うと、後白河院の寵臣として急速に勢力を伸ばした藤原信頼が、源義朝と組んで、同じく院側近として保元の乱の収拾とその後の院政に辣腕をふるった藤原通憲(信西入道)を襲った。この企てに二條帝側がどれくらい関与していたかはわからない。ただ信頼たちは、帝に迫って、自分たちの正当性を証してもらおうとはした。
 熊野詣でから急ぎ帰京した平清盛は、帝の身柄を確保してこの企てを阻み、信頼・義朝は逆に朝敵ということになった。そしてほとんどただちに攻め滅ぼされた。
 朝廷は、この上なく現実的・具体的な「力」を武家に求め、武家の側では力の正当性の保証を朝廷に求める。持ちつ持たれつ、と簡単に言うにしてはあまりに危うい。そんなことでは、正当性とは、あからさまに、単なる道具、あるいは口実に過ぎないように見えるからだ。この危うさは南北朝の動乱期に最も強く現れた。

(11)改めて、平安朝末期の争乱の歴史的な意味は何か。日本最大の政治問題は、古来皇位継承だった。そしてともかく、血統の原理が否定されたことはなかったので、争いは必ず親族間で、骨肉相食む形で行われるしかなかった。
 その中で保元・平治の乱については、他ならぬ都で、血で血を洗う騒擾が生じたことを、慈園は最も特筆している。かつての壬申の乱(672年)や、藤原仲麻呂の乱(764)は、都(前者は近江宮、後者は平城京)から、近いけれど、あくまで外部で行われ、決着がついた。平安京になってからは、平城太上天皇の変(藤原薬子の変、810)や承和の変(842)は戦争になる前に叛乱側が押さえられた。叛乱側は、東国で挙兵しようと企てながら、そこへ行く前に捕らえられたところも共通している。
 あらえびすの土地である東国ではなく、他ならぬ王城の地そのものが戦場になる、ということは、生々しい権力闘争が最もむきつけの姿で都人の、中でも直接の利害関係者たちの目の前で展開された、ということであり、新たな政治形態の必要性を最も雄弁に物語る新たな現実ではあったろう。換言すれば、最大の政治課題の一つである暴力の管理が、ごまかしようのない形で露出し問題化したのである。
 二つの乱を勝ち抜いた平清盛は、都では武家の代表者として圧倒的な存在感を示した。彼の宮廷側のパートナーは、後白河院だが、これがまた歴代天皇中最大級の際立った個性の持ち主であり、その場その場に合わせた姑息だか、もっと手の込んだ権謀術数だかを弄して、清盛も、その他の人も、悩ませたのだった。
 最初のうちは清盛に破格の出世をさせた。平治の乱の翌年正三位参議昇進を皮切りに、7年後の従一位太政大臣まで一直線で昇っていった。位打ち、だったのかな。この言葉は司馬遼太郎の小説で読んだ。ある人を分不相応なままに闇雲に出世させると、位の重みと人の実力なり徳なりとのバランスが取れないから破滅するという、手の込んだ罠だそうだ。
 実際、そう考えたくなるような勘違い、と思える振る舞いが、平家一門には多かった。いやむしろ、そう見えるできごとだけを、「愚管抄」や「平家物語」に強調して書かれているのかも知れない。「平家に非ずんば人に非ず」とか(清盛の義弟・時忠の言葉とされる)。その他、都で平家の評判を悪くした院や帝側近、さらには摂関家への非礼など、たいていは清盛以外がしたことだ。それでも、平家は敵役になる。後白河院がそこまで見越して清盛を取り立てたのだとすれば、その遠謀深慮は計り知れないと言うべきであろう。しかしそうだとしても、皇族と摂関家以外例のない人臣最高位の太政大臣の職まで与えたのは、革新的だった。実態はほとんど名誉職あって、清盛も3カ月で辞めているとは言え、武家が政治の中心に来ることを正式に認めたことになるのだから。
 それはそうと、鹿ヶ谷の謀議(1177)以降、後白河院を黒幕とした平家打倒の動きは本格化する。3年後、院の第三皇子以仁王が都における源氏の代表者源頼政と挙兵。企てそのものは失敗するが、この時作られた平氏追討の令旨が全国に伝えられ、東国武者たちの決起を促す。
 平将門の乱から約250年、何度か火の手は上がった【前九年の役・後三年の役・平忠常の乱など。これらは結果として、朝廷側に立って乱を平定した源頼信→頼義→義家と続く河内源氏の声望を高めた】が大火には至らず、都からの前述したような火種はあったがそれには引火せず、ここへきてようやく東の大爆発が起こった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その13(幕間狂言、西と東のフーガ 上)

2018年01月31日 | 近現代史
青木繁画 日本武尊 明治39年

メインテキスト:山本博文『格差と序列の日本史』(新潮新書平成28年)

 今回と次回は日本史のおさらいをします。天皇家と東国の関係について、気のついたことをまとめてみました。よく知られていることばかりですが、自分用メモランダムとして。
 最初に東国、と言って具体的な範囲はどこだ、ということになりそうですが、これは現在の関東甲信(越は除く)から東北地方にかけて、でいいと思います。実際の政治の動き以前の、意識を問題にしたいので。

(1)初代神武天皇が奈良の橿原宮で初代天皇に即位して以来千年以上の間、日本の中心地は畿内であった。そのまた中心部は奈良盆地で、大和と呼ばれた【その後大和王朝、つまり朝廷の支配領域が拡大するにつれて、しまいには日本全体を示す名称にもなった】。そこから西のほうは、天皇家の出身が九州であるだけに(かな?)、結構知られていたが、東国は長らく未開の、「化外の地」とされたようだ。
 古代では大王(おおきみ)と呼ばれた天皇自身は東国へ来たことはどれくらいあったろうか。「日本書紀」では第十二代景行天皇は、九州に親征して熊襲(くまそ)を討ったとされている。その後彼らが再び乱を起こすと、今度は皇子を派遣し、熊襲の首領川上のタケルを誅殺する。皇子はこの時殺した首領から「大和にはあなたのような強い方がおられたのですね(敵ながらあっぱれです)」という賛辞とともに名を送られ、以後、ヤマトタケルと呼ばれた。
 大和に凱旋した日本武尊(ヤマトタケルノミコト、「日本書紀」の表記)はただちに東征に向かうよう命令された。「こんなすぐにまた戦いに出よというのは、父君(景行天皇)は私が死ねばよいと思っておられるのでしょうか」などと叔母に愚痴をこぼしてから。これは「古事記」の記載で、「日本書紀」には書いてない。日本武尊が日本史上初の大衆的英雄になったのは、このような女々しいところも伝えられていることも大きいだろう。
 それはそうと、日本武尊は尾張(ほぼ愛知県)から相模(ほぼ静岡県)に至り、そこから海路で上總(千葉県中南部)へ行こうとすると、海が荒れて船を出せなかった。后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら海神への生贄となって水中に没したことによって海は凪ぎ、日本武尊一行は無事上總に到着することができた。後に日本武尊が弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度呟いたのが、「東」に「ひがし」以外、「あずま」という訓がついた由縁であるという。
 その後「古事記」には具体的な地名は出てこないのだが、「日本書紀」では一行は上總からさらに海路を北上し、陸奥(ほぼ福島以北)にまで至り、当地の蝦夷をことごとく平定したことになっている。
 一方、父の景行天皇は日本武尊の死後に東国を巡幸、上總にもしばらくいたとされる。これが、公式記録上、孝明天皇以前の天皇の地位にある人が、自ら足を運んだ東の限界だろうと思う。第九十七代後村上天皇は北畠顕家に伴われて奥州多賀城(現在宮城県多賀城市)へ行っているが、これは義良親王だったとき。それ以外には何かあるかな? 私が知らないだけの場合にはご教示ください。

(2)第二十一代雄略天皇は系図上日本武尊の五世孫に当たるが、支那の史書に記されたいわゆる倭の五王のうち最後の武に比定されている。「宋書」に載っている宋の順帝に出した上表文「昔より祖禰(そでい。父祖のこと。異説あり)躬(みづ)から甲冑を擐(つら)ぬき、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」は有名である。
 これによれば、この頃(5世紀)は大王自ら日本中の戦場に出ていたのだろう。もっとも、ずっと前に、日本武尊の息子第十四代仲哀天皇の后神功皇后は、後の應神天皇をお腹に宿したまま、日本海を渡って三韓征伐(実際は新羅に勝利しただけだが、他の二国、百済と高句麗も支配下に治めた)へ行っているから、「日本中」なんて軽いもんだとも言えるんだが。それから、昭和43年埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に銘文があり、当地の豪族がワカタケル大王(雄略天皇の名)に仕えていた、と読めるところから、この天皇の実在と、王朝の勢力が関東にまで及んでいたことを証するもの、とされている。

(3)以上からも、蝦夷(えみし。倭王武の上表文中の「毛人」と同じ読みで、こっちは毛深いということでしょう)と呼ばれた人々は、大和王権によって次第に関東から東北、北海道へと逐われていったことはわかる。
 大化の改新直後の、第三十七代齊明(皇極天皇の重祚。天智・天武天皇の母)朝のとき、東北の軍事的平定事業が最も盛んであった。阿倍比羅夫は白村江の戦い(663年)の少し前に、三度(西暦658~660)にわたって蝦夷と粛慎(みしはし、又はあしはし。正体は不明)を討ち、しまいには北海道、樺太まで進攻した。
 それで終ったわけではない。早い時期に平定された九州の熊襲とは違って、蝦夷は最後まで大和朝廷に抵抗した部族だった。桓武朝で征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、蝦夷の猛将として知られていたアテルイらを降伏させると【田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の公卿たちはそれを許さず、処刑したと伝えられる】、大規模な衝突はほぼ止んだ。大和朝廷も、秋田城(現在秋田県秋田市)や田村麻呂が建造した膽澤城(いざわじょう。現岩手県奥州市)あたりを北限として防衛するのみになった。
 もっとも平安時代でも、元慶の乱(878)、天慶の乱(938)があり、鎌倉時代には蝦夷大乱(1268)とも呼ばれる騒擾はあったから、備えは必要だった。組織としては奈良時代に鎮守府が置かれ、南の大宰府と並ぶ重要地方機関とされた。ここの長官が鎮守府将軍で、田村麻呂も任命されたことがあり、当時は武官の最高栄誉職と考えられたようだ。その本拠地は、たいていは、膽澤城より南の多賀城であり、前述したように、蝦夷の脅威など完全になくなった南北朝時代でも、南朝方の北畠親房・顕家父子が東国の拠点とするために赴き、顕家は鎮守府将軍になっている。
 一方征夷大将軍のほうは、何しろ「夷」を「征する」将軍なのだから、実際に戦闘またはその怖れがなければ用なしのはずであった。しかし源頼朝以前で一番有名な田村麻呂は、都に帰ってからも、いわば名誉の称号として拝命していたこともあり、武家全体の棟梁の呼称としては相応しいかな、と思えないこともなかった。他に征東大将軍というのもあり(役目は征夷大将軍と同じ)、木曽義仲はこれになったのだが、義仲以前でも、この官名を負って戦に負けた人もいるので、ゲンが悪いし、云々で、朝廷は征夷大将軍号を源頼朝に与えたのだった。
 さらに因みに、建武の新政時、北条高時の子北条時行が兵を挙げて鎌倉を占拠した時(中先代の乱)、足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の称号を願い出たが、許されず、時行追討に出発した後でやっと征東将軍職を与えられた。それもあって関係が悪くなった、というよりは、後醍醐帝と尊氏のギクシャクした関係の、一つの現われと見るべきあろう。とは言え、実体のない名誉職、いや単なる呼称であったとしても、特に天皇から与えられるものは、そんなに軽く考えてはならない、ということの証左ではある。 

(4)大宝律令(701)と養老律令(757)以来、その中の行政法である令によって、日本全土の支配が進められた。それは具体的には、全国に官僚組織を浸透させるということである。かつての豪族の支配は否定され、朝廷によって任官された四年任期の国司【守(かみ)、介(すけ)、擾(じょう)、目(さかん)の四等級があり、一人で来る時も複数の時もあった】が全国に派遣されて、地方を統治した。
 奈良朝から平安朝へと、公式には死刑もほとんど行われない平穏な時代が続き、国中が発展したろう。が、地域差は残る。少なくとも意識において、都で艶麗優美な文化が花開けば開くほど、鄙びた田舎との懸隔は大きくなったように感じられる。世界中どこでもそんなものだろうが、日本の、特に宮廷人が東に注ぐ視線には特にそれが強いようだ。必ずしも蔑む、というだけではなく、西洋のオリエンタリズムに似たある種新奇な興趣が持たれることもあったろうが、それをも含めて、東国とは、「異界」では言い過ぎでも、「外部」ではあった。このへんはもっと精緻な研究が必要なところだろうが、今は素人の強みを発揮してあっさり言っておく。
 この意識は、万葉集の巻十四が「東歌」で占められているところに一番端的に現れている。「西歌」はないのに、だ。それ以上に、これまたよく知られているように、巻二十に天平勝宝七年(755) のものとして収められている八十四首の「防人歌」は、すべて東国人によって詠まれたものである。これは大伴家持がはるばる九州まで徴兵されて来た(しかもアゴアシ自前、税の免除などの特典もなし)東国人に同情して書かせたからだ。それにつけても、北九州沿岸を警備するのに、なぜわざわざ一番遠くから呼び寄せる? という疑問が湧いてくるだろう。東北では蝦夷の脅威がまだあったというのに。【大宰府は、白村江の敗戦後、唐・新羅連合軍が進攻してくるのに備えたものだ。】これには諸説あるが、東国人は強靭であって、戦に向いている、という一般認識は確実にあったようだ。
 それに、蝦夷や大陸からの帰化人との人種混交も、他所よりは盛んだったろう。平安期に書かれた「將門記」にも、東国全体を「夷」と表現したところがあり、都人(みやこびと)から見たらそこは、「身をえう(用)なきものに思ひなし」(伊勢物語)た者が赴くのに相応しい場であった。

(5)武家の発生にはよくわからないところがある。蝦夷のうち朝廷に服属した者たちは、「俘囚」と呼ばれ、たいていは戦士になったようだ。前記元慶の乱は、俘囚が圧政に抗して反乱を起こし、秋田城を襲ったものと考えられている。
 また、白村江の戦いの結果、日本と連合して滅亡した百済からの移民が二万人以上入植した。彼らが東国に精強な武器の製造法や乗馬技術を伝えた可能性はあり(森田悌『古代東国と大和政権』新人物往来社平成4年)、これも戦闘技術の発展には大きな要素だったに違いない。
 一番外側の状況としては、律令制の根幹は、土地人民をすべて天皇に属するものとする公地公民制なのに、施行後ほとんど直ちに綻び出して、名目化したところにある。貴族や寺社はそれぞれ荘園を持ち、そこは実質的に私有地であった。
 そんな場所に、国から派遣された首長として国司がやってくる。しかし、上位の公家達は「夷」である田舎へは行きたがらない。都に居座ったまま土地からの収益だけを受け取る。明治時代の不在地主の元祖みたいなもので、これは遙任と呼ばれた。対して、遙任の代理として、を含めて、実際に任地に行く者が受領。まんざら、いやいやでもなかった。国司であればその地の徴税を含む一切の司法行政軍事実務を任されているのだから、時々監査(勘解由使)はあっても、私腹を肥やす機会はいくらもあった。これまた古今東西を問わずざらに見られる傾向であろう。
 日本の場合一番問題なのは、新旧様々な勢力が未整理のまま乱立しがちになるところ。律令前の蘇我氏、物部氏、大伴氏などの大豪族はこの時までに滅亡もしくは衰微していたが、地方の小豪族はおり、郡司として、国(国家ではなく、「武蔵国」などの国ですよ。為念)の下の行政単位である郡を統率したのはたいてい彼らだった。そこに、都で「用なき者」になった連中が入ってき、国司で来て任期が過ぎても都に帰らないで土着化する場合もあり、新たに豪族化する。彼らの財産は開墾【743年の新田墾田永年私財法で、私有がOKとなった】やら従来の土地を売買したもので、公式な警察機関(追捕使)は地方ほどあてにならないので、自分の身と財産を守るためには自前の暴力装置を用意するしかなかった。正式な官人である国司だって似たようなものだから、戦闘専門集団の需要はあったということである。
 一方の供給側はというと、特に桓武朝で、北でも南でも大規模な戦闘はほぼ終わったとみなされたので、軍縮が実施され、リストラされた兵士に、戦いが好きで得意な者が新たに加わって、武官ではない、武士が出現したのであろう。
 より重要なのは、個々の武士をまとめあげて、武士団とし、さらには国家の重要な身分層にまでした存在である。それは、天皇を祖とする源氏と平氏だった。
 すべてではない。天皇の子孫で王、江戸期からの名称だと宮家、にならなかった者はたいてい、源姓を賜って臣下に降りた。【平姓は四例。よくわからないが、源氏が多くなりすぎて、区別する必要があった時に使われたような感じだ。】最初は第五十二代嵯峨天皇の時、二十三人いた皇子のうち皇太子と四人の親王を残してあとはすべて源氏になった。一方、第五十代桓武天皇の曾孫・高望王が平高望となり、そのまた孫が平將門。
 と、いろいろある中で、源氏といえば清和源氏(第五十六代清和天皇の孫・源経基が元祖)、平氏と言えば前出桓武平氏のみが圧倒的に有力で、天下人まで出しているのは、そこに属する何人かが、個人的な武芸も武家の頭領としての統率力も際だっていたからだ。源頼光、八幡太郎義家、鎮西八郎爲朝、などは、今でもよく知られている清和源氏一統の英雄である。彼らを慕って多くの武士が集まり、いわゆる家人や郎党となった。それはわかりやすい話だが、その上で、この家臣団の凝集力として、高貴な血筋というブランドはどれくらいの力があったろうか? 正確には測りがたいが、なんの関係もなかったはずはない。ただ強いだけの者は、どうしても限界がある。もっとも、ただ家柄がいいだけの者は、限界以前に全く問題にされないのだがね。

(6)一代の叛逆児平將門の場合、まず身内同士の争いで頭角を現した。その段階では朝廷は無関心だった。
 グレーゾーンに入ったのは、武蔵国(ほぼ東京都)の新国司として興世王(おきよおう)と源経基が来てから。彼らが当地の郡司と揉めごとを起したのを、ちょっと江戸時代以降のやくざみたいな、土地の顔役となった將門が仲裁役を買って出た。その最中、郡司の兵が基経の宿を取り囲んだとかなんとかで、経基が慌てて京へ逃げ帰る事件が起きた。この人こそ頼光らのご先祖なのに、なんだかなあ、という気もするが、事の真相はよくわからない。将門には、国府の上役人への叛逆=国家への叛逆の嫌疑がかかったものの、ちょうど恩赦があったりして、うまく逃れることができた。
 踏み外しの第一歩は、常陸国(ほぼ茨城県)で、国司に逆らって、逃げて、泣きついてきた者をかばい、かえって国司を追い出したところから始まる。頼られては放っておけない、という感じのところ、いよいよヤクザの親分に似ている。しかしこれはもう、れっきとした叛乱である。
 興世王は、王というからには皇族なのだろうが、どの天皇の? と言われるとわからない、怪しい人物だが、新たに武蔵へやってきた上司の守とソリが合わず、將門のところへ転がり込んでいた。やっぱり、親分なんだなあ。この興世王の曰く、「常陸一国を取っただけでも咎められるに決まってる。それならいっそ、坂東を全部取って、様子を見ようじゃないか」。
 彼の進言を容れて、兵を動かすと、將門の威勢を恐れた関東各国の国司は、戦わずして逃げ去った。絶調期を迎えた將門は、さらに、神懸かりになった怪しい巫女が、「八幡大菩薩(應神天皇の化身とされた)の使ひ」を名乗り、「朕の位をお授けいたす」と宣告するのを聞いて、「新皇」を号し、勝手に除目(執政官を任命すること。具体的には、逃げちゃったので空いた国司の席に自分の周囲の者をつけた)を行った。これにも興世王の悪知恵が入っていたことだろうが、それにしても、自ら「皇」を名乗った人は、日本では後にも先にも唯一であろう。たぶん、皇室を排するまでのつもりはなく、狙うは関東の独立というところ、いやそれだけでも充分に凄い野心だ。
 そういうことが多少とも可能に見えたのは、武士団だけではなく、民衆の支持もあったからだろう。何しろ国司と言えば、私腹を肥やすことしか考えていないのが一般なのだから、好かれるはずはない。やっつけられていい気味だと思えたろう。
 さらにその底には、化外の民として長年差別されてきたことへの怨念もあったろうと思う。「外部」と見られた者からの視線が、「内部」を見返したのである。しかしそれが具体的な形をとるためには、桓武天皇の五世孫という肩書が力を発揮した。西の雅の中心は天皇なのに、妙な具合に働いたのである。おかげで、このとき、ある意味では現在まで続く、日本列島の東西対立が、現出してきたのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その12(明治元年の天皇・万世一系と万機親裁)

2017年12月29日 | 近現代史

月岡芳年画 明治天皇御東幸千代田城御入場之図 明治元年

メインテキスト : 飛鳥井雅道『明治大帝』(筑摩書房昭和63年刊、文春学藝ライブラリー平成29)
サブテキスト : 古川江里子「明治国家の正当化思想と天皇――「万世一系」の意義」(『青山史学 27』平成21年刊)

 慶應4年(1868年)は9月4日をもって明治元年となった。
 もとより、激動の年であった。天皇を中心にしてみると、王政復古の号令以後、「幼沖の天子」を新体制の中枢として相応しいものにしようとする努力が具体的に始まった。今回はそのうちのいくつかを拾い上げて述べ、愚考を加える。なお、太陽暦は明治5年からの採用なので、日付はすべて旧暦である。

(1)1月15日。睦仁天皇が元服する。践祚(天皇位を受け継ぐこと)は前年1月9日で、立太子(正式に皇太子になること)の儀も経ていない異例のものであった。即位の儀は別にあって、元服後の8月21日に行われた。この時に、一世一元制も定まる。
 飛鳥井雅道がこれによって、「明治という時間の進行は、睦仁という一個人の肉体の存在に全的に支配されることになるわけだ。国民の時間を一人の天皇の肉体と明確に結びつけることが制度として決定されたのである」と言うのはやや大げさである。ただ、後の日本の歴史がその時々の天皇と結びつくようになった感じには確かになった。なんせ諡号、ではなくて正確には追号【諡号は以前の天皇の業績を讃える(支那には逆に、悪口の意味の場合もある)文字を使うものだが、追号は地名などから採られた、ニックネーム的なもの】が、在位時の元号になるのだから。もっともこれは単なる慣習であって、今上が平成天皇と呼ばれるかどうか、たぶんそうなるだろうと思うだけで、確定はしていない。
 また、例えば「昭和」というと、必ず裕仁天皇の姿が思い浮かぶかと言うと、微妙なものだが、その縁(よすが)はある、ということで、江戸時代よりは天皇の存在感は大きくなったとは言えるだろう。
 
(2)1月23日。大久保利通による大阪遷都の建白書が提出される。彼や西郷隆盛にとって、天皇は将軍に代わる存在になるのだから、白粉やお歯黒をつけて御簾(みす)の向こうに鎮座ましましているだけ、なんぞと言うのは言語道断だった。やがて主に西郷の主導で、睦仁天皇は学問以外に武道や乗馬を習い、大日本帝国陸海軍の大元帥に相応しい雄姿を見せるようになるのだが、その第一歩が、「広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新するために、腐臭漂う因循の中心地たる千年の古都から天皇を移動させる構想だった。
 当然公家の強い反発を招き、廃案。改めて御親征(鳥羽伏見の戦いで敗走した幕府軍追撃の指揮を執るとの名目)として、一時的な大坂行幸が1月29日に決定された。
 3月21日、天皇一行は1655人の供揃えで京都を出発、23日に大阪に到着、西本願寺掛所(北御堂)を行在所(あんざいしょ。仮の御座所)とした。この滞在は49日間に及び、3月26日に天保山沖の海軍、4月6日には大阪城内の陸軍を御親閲するなどして、閏4月8日(太陽太陰暦では調整のため、3年に一度ほどの割合で1年を13箇月にした。増やされた月が閏~月と呼ばれた)京都へ還幸(天子が戻ること)した。
 この直後、4月11日に江戸城無血開城が実現すると、前島密が江戸遷都を大久保に建白し、大久保もこれに賛成する。5月11日江戸府が設置され、7月17日「江戸ヲ稱シテ東京ト爲スノ詔書」が出る。以下に拙現代語訳を挙げる。

朕はこれから国家的行政のすべてを採決(万機親裁)し、億兆の民衆を安定させるぞよ。江戸は東国第一の要衝であり、四方から文物の集まる地である。ここに朕が実際にいて政務を監督するべきだ。そのため、今後江戸は東京と改称する。これは日本全国を一家とし、東西を平等に扱うためである。国民全員、この決意をよく理解してくれ。

 ここで万機親裁が、天皇自らの言葉として、打ち出されたのだった。
 天皇の鳳輦(ほうれん、天子の乗り物)が総勢3300人という空前の供揃えで京都を出発したのは9月20日、東京に到着したのは10月13日、東京城と改称された江戸城に入った。この時は12月8日にまた還幸し、翌年3月に再び東京行幸(東幸)され、これより東京城は宮城となり、日本の首都は実質的に東京となった。
 もっとも、東京を正式な都とする法令も勅令も一度も出たことはなく、従って京都が都(みやこ)であることも否定されたわけではない。明治二年以降日本には「京」と「東の京」の二つの都ある、と言ってもいいのだが、誰もこれにはこだわっていない。

(3)3月14日、つまり上の大阪行幸の一週間前に、新政権の根本精神を天皇が天神地祇に誓う形で述べた「五箇条の御誓文」(正式には「御誓文」)が出る。その第一条にして最も有名なのが「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」。これについては少し長く語ろう。
 必ずしも新しい方針とは言えない。聖徳太子の「十七条の憲法」の第一條にも「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、則ち事理おのづから通ず。何事か成らざらん」とある。日本人は昔から話し合いが好きで、重んじられてきたのである。
 ただしそれは、「議論」とは違う。対立する二つ以上の意見があったとき、言葉(ロゴス)を尽くして何がより正しいかを見つける可能性より強く、人々の和と睦とが信じられているところが。「和を以つて貴しとなす」、和睦が充分でさえあれば、解決法など自然に見つかる、という。そのためには、極端に言えば、言葉の中身はどうでもいい。腹にあることを包み隠さず、「肺肝を吐露して」語ることができさえすればよい。
 もちろん、個人の単純な思い違いが訂正される機会にはなる。十七条の憲法最後の條には、「それ事は獨り斷(さだ)むべからず。必ず衆とともに宜しく論ふべし。(中略)大事を論ふに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらむことを疑ふ」とある。なるほど、人間は、どんなに優れた人であっても、必ず時に過つ。この認識は大事であり、過誤が発見される機会を設けるのは実際問題としても是非必要ではある。が、そこまでであって、対立をとことんまで進めて、新たな次元を開く(止揚=アウフヘーベン)なんてことが信じられているわけではない。
 どちらが優れているかというような問題ではない。というか、どちらも理念・理想であって、和合しても討議しても、それだけで満足のいく結果が出る、なんてことはめったにない。少し長く生きて経験を積めばそれは自然にわかる。危機的な状況で、賢明な判断が要される場合であればあるほど、なんとなくの雰囲気とか、声の大きな人の意見で決まってしまったりしがちになる。それは、洋の東西を問わないだろう。前回取り上げた小御所会議など、その典型である。
 いかに胸襟を開いて言葉を尽くそうとも、まとまらないことはある。そこで群臣を納得、ではなく、黙らせ、決定を出すために、近代の最初と、大日本帝國の最後に、天皇の権威が使われた。事理を質すよりも、人の和のほうが大切、というのも、天皇の権威には服する、という大前提が共有されていたからこそ言えるのだ。
 ただしそれも、政府の要路など、上層階級の事情である。一般庶民に対しては、天皇はなぜ偉いのか、改めて説明される必要性も感じられた。下はその現れである

(4)慶應が明治と改元された9月前後、新政府は都道府県単位で庶民に天皇の偉さを教える「告諭書」を出している。その中で典型とされた「京都府下人民告諭大意」(明治元年10月)の中心部を以下に引用する。原本は総ルビで、しかも時々、左側に和語に翻案した読み方、というか庶民向けに噛み砕いた意味が記されている。面白いので、いくつか〔  〕内に示す。(  )は右側の、普通のルビ。
 

抑(そもそも)神州[にっぽん]風儀外國[ほかのくに]に勝(すぐ)れたりと云は、太古(むかし)、天孫〔てんしさまのごせんぞ〕此國を闢(ひら)き給ひ、倫理〔ひとのみち〕を立給にしより、皇統〔おんちすぢ〕聊(いささか)かはらせ給ふ事なく、御代々様、承継(うけつが)せ給ふて、此国を治め給ひ、下民〔しもしも〕御愛憐〔おんいたわり〕の叡慮〔おこゝろ〕深くあらせられ、下民も亦御代々様を戴き、尊(たふた)み仕へ奉りて、外國の如く、國王度々世をかへて、請たる恩も、二代か三代か、君臣〔きみとけらい〕の因も、百年か二百年か、昨日の君は、今日は仇、今日の臣下は、明日の敵となるやうなる浅間敷(あさましき)事にあらず。開闢以来〔てんちひらけしより〕の血統なれば、上下の恩義弥(いよいよ)厚く益(ますます)深し。是即(これすなはち)萬國〔よろづのくに〕に勝れし風儀にて、天孫立置(たちおき)給ふ御教、君臣の大義と申も、此事なり。

 天皇家は太古からずっと天皇家であって、民を慈しみ、民もまた同じ天皇家をずっと敬愛してきたのだという。即ち万世一系、それは明治初年に作られた、わけではなくてもまずこのようにして知らされた。その後主に明治5年の学制以降義務化された学校教育によって浸透が図られ、やがて日本共産党から「天皇制」と呼ばれた体制の、イデオロギー上の中心になった。大日本帝國憲法(明治22年2月11日公布、23年11月29日施行)第一條に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある通り。
 なぜそうなったのか。古川江里子は万世一系が「歴史的事実として現実性を持つ」からであり、「特に、近代合理主義の欧米に対して、近代化における天皇の権威性や有効性を合理的に説明づけられるのは」万世一系しかなかったからだ、と言っている。左翼思想家でなくても、こういうのにすぐに賛同できる人は今日稀であろう。もう少し言葉を重ねる必要を感じる。
 ただ、最初に断っておかねばならないだろう。「事実」かそうでないか、なんて次元で争っても仕方ない。だいたい、そんなものは確認する手段もない。いや、ある? 天皇稜を掘り返して人骨からDNA鑑定をするとか? 日本人がそこまで野蛮な科学信仰に冒される日が来ないことを祈る。歴史の真実はそんなところにはないのである。誤解を恐れずに言えば、歴史と呼ばれる物語にどれほど説得力があるか、説得された人々、今の場合は日本人が、それを背負い切れるかどうか、こそが肝心なのだ。
 「古事記」に次いで、天皇家に纏わる最古の物語を記した「日本書紀」には、「御愛憐の叡慮深くあらせられ」なかった天皇もいたことが記されている。第二十一代雄略天皇や二十五代武烈天皇はれっきとした暴君である。支那の桀紂に似ている【ただ、紂王の「酒池肉林」などに比べると、日本の大王の悪事は、武烈天皇が、妊婦の腹を裂いて中を凝視したとか、残虐ではあってもややチマチマしていて変態的である。そこが私には楽しい、じゃなくて、興味が持たれる】。しかし、聖王禹の闢いた夏王朝は桀王の代に殷の湯王に滅ぼされ、その殷は紂王の時に周に滅ぼされたことになっている。これが革命である。天命を承けた者が皇帝=天子なのであって、その命が革(あらた)まれば地位を失う。日本の天皇の中には殺されたり、自ら地位を降りた人はいるが、革命と呼べる事績は歴史書には残っていない。
 雄略天皇の祖父は第十六代仁徳天皇で、民家から煙が立たないところから、民の生活の苦しさを知り、三年間調(税)を停止して自ら窮乏生活に耐えたエピソードで有名な、慈愛の君主(だから「仁徳」ね)だ。雄略天皇の死後には息子の清寧天皇が継ぎ、この帝には子どもがなかったので、皇位は雄略天皇から見て従弟の息子になる顕宗天皇・仁賢天皇兄弟に受け継がれる。仁賢天皇の妃は雄略天皇の娘で、その子が武烈天皇。つまり雄略天皇は武烈天皇の外祖父ということになる。そして武烈天皇が十七歳で死ぬと、次の皇位は仁徳天皇の父応神天皇の五世孫、継体天皇に受け継がれる【これに近い、遠縁からの皇位継承が他になかったわけではない。孝明天皇の祖父第百十九代光格天皇は、百十三代東山天皇のひ孫で、百十八代後桃園天皇から見るとひいじいさん(中御門天皇)の弟の孫にあたる】。
 これは王朝の交代に近い。ただ、徳の高い王も、徳を失った王もいるものの、後者が新たに天命を担った他の王家に滅ぼされる、ということがない。徳を失った王族は自然に消滅し、皇統は遠い血縁によって、いわばリセットされたような感じになっている。これが万世一系なのである。
 仁徳から武烈に到る物語は、支那の王朝衰亡史に倣って作られたのだろうとも言われるが(遠山美都男『天皇誕生 日本書紀が描いた王朝交代』中公新書平成21年)、そうだとすればなおさら、山場である革命の筋はなぜ省かれているのか、その意図はいまいち腑に落ちない。
 それより重要なのは、平安時代以降、天皇は、建武の中興などの僅かな例外を除き、政治的な権力を奮ったわけではなかった。一方、時の最高権力者たちは自分が天皇に代る皇帝になろうとはせず(足利義満がやや怪しい動きをしていたらしいが)、天皇から関白・太政大臣・征夷大将軍などの職位をもらって、自らの正当性の根拠とした。結果天皇家自体は生臭い権力闘争劇からは一線を画した存在となり、それがつまりは、世界的に珍しい長い系統を続けられた第一の理由であろう。雄略天皇の時代のような骨肉相食む血みどろの抗争劇が天皇家内部で続いたら、とてもこうはいかない。その点、天皇は徳が高い、と言ってもいいような気が、確かに、する。
 ただし、そうすると、天皇が政治を万機親裁する、というのは危なくないだろうか。これは実際、戦前日本政治最大の問題の一つになっていく。

(5)2月30日御所紫宸殿にて外国人公使を謁見。この時天皇生母の中山慶子を始めとした大反対が起こり、なんとか説得された後も、御不快(体調不良)などを理由に、妨げようとする動きは止まなかった。またこの日、英国公使ハリー・パークスは、御所に向かう途中で尊攘派の浪士に襲撃されている。
 万世一系だから尊い、という思想は国学のものだが、日本は神国であって、外国人、特に紅毛人(ヨーロッパ人種)などは穢れた夷狄なのだという感覚は、「学」以前に、因循の極たる宮廷人には肌のように貼りついていた。そういうのは今後は乗り越えねばならない。ために、明治も時代が進むにつれて、国学は次第に政治の中枢からは離され、神社と、右翼国粋主義者と呼ばれる人々の手で担われるようになった。
 それにはもう一つ理由があって、儒学なら治世の学問だから、帝王学に使えそうなのに、国学はそうではない。本居宣長など、かの国は人心が荒んでいるので、王朝の交代もあり、おかげで身を修めるためにはどうたら、国を治めるためにはこうたら、事々しく言挙げせねばならず、それが日本に伝わったので、日本人の心も汚染されてしまった。日本古来の「神道」あるいは「まことの道」に立ち返ることができさえすれば、そんなものはむしろ邪魔になるばかりなのだ、云々と言っている(「直毘靈」)。これが前出の「告諭大意」の元であることは自明であろう。しかしこれだけ採ってみれば、政治は本来不要とする、無政府主義的なユートピア論と呼ばれるべきものである。実現不可能な絵空事だとただちに断ずることはできなくても、残念ながら現実にはまず見当たらない。
 外国人公使の謁見は、日本の主権者が名実ともに変わったことを諸外国へ伝えるためのものだった。だがそもそも、なんで異国を相手にする必要があるのか。薩長などの尊皇派が、幕府に、孝明天皇と約束した攘夷の断行を迫ったのではなごく最近のことではなかったか。もちろん、大久保や西郷、それに長州の木戸孝允らは、自ら外国軍隊と戦った経験から、そんなことは不可能だと承知のうえで、幕府を追いつめる単なる手段として、攘夷を使ったのだった。「まことの道」なんぞとは到底言えない、陰険な策動である。ために例えば、岩倉具視の腹心で、倒幕の密勅やら王政復古の大号令を起草し、錦の御旗のデザインを考案した国学者玉松操は、新政府に失望し、天皇が本格的に東京へ移動した明治2年に隠遁している。
 実際の政治は、多かれ少なかれこのような醜い要素を含まざるを得ない。それのなのに、ではなく、だからこそ、天皇という清らかな存在が必要とされるのだ、とは言えるかも知れない。しかしこの二つの要素の兼ね合いは、いつかは必ず矛盾として現出せざるを得ない。それは最初から見えていたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その11(近代最初の御前会議)

2017年11月28日 | 近現代史
聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)

メインテキスト:渋沢栄一『徳川慶喜公伝4』(原著は大正7年龍門社刊、平凡社東洋文庫昭和43年)

 御前会議、つまり天皇臨席の会議のうち、最も有名な、大東亜戦争を終わらせた最後の二つについては、昨年略述した。今度は近代最初のものについて瞥見しておきたい。これは、我が国が新時代を迎えたことが公式に宣言された、正にその日に行われたのである

 慶應3年12月9日(新暦だと1868年1月3日。以下の日付はすべて旧暦)、王政復古の大号令が発せられた。具体的な方針としては、①幕府を廃止し、②摂政・関白を廃して新たに総裁・議定・参与の三職を置く、が大きな柱であった。
 このうちで②は、平安朝以来続いてきた職制を一日で変えるという意味で大変革であったが、より現実的な困難は①にあった。既に、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を、続く24日に将軍職を辞することまで申し出ており、この時までに朝廷もそれを認めていた。
 しかし、王政復古をここまで主導してきたいわゆる倒幕派にしてみれば、これだけでは終われない。征夷大将軍として全武家に号令する権限は失われたとしても、直轄領だけでも四百万石という当時最大の財力があり(次点は加賀前田家の百万石)、譜代・親藩など、佐幕(佐は「助ける」の意味)派の大名が全国に多数いる状態をそのままにしておくなど、彼らにしてみれば問題外であった。逆に慶喜側は、自から政権を手放すことで、このような動きの機先を制する目論見があったのだと思われる。
 そこでこの時期討幕派の急先鋒になっていた薩摩の西郷隆盛・大久保一藏、公家の岩倉具視らは、大号令に付して、慶喜の辞官(この時点で内大臣だった)と納地(領地を返還すること。公地公民制、即ち日本全国の土地と人民は本来天皇のものであり、公家や武家の領地は天皇から預かっているもの、という大化の改新以来の建前は、建前としてなら残っていたので、それに則れば、徳川家が朝廷に領地を返納する、ということも可能であった)を命じる勅令を出すことを望んだ。
 しかし、障害があった。そのうち最大のものは、実のところ、当時の大名のうち、尊皇(幕府より天皇を尊ぶ)方であっても、徳川家を完全に葬ってしまうことにまで賛成している者はごく少数だったところにある。いつでもどこでも、エスタブリッシュメントは過激な変化は望まないものだ。第一、そんなことをしようとしたら、幕臣及び佐幕派の大反発を招き、戦乱は避けられないだろう(事実、そうなった)。それよりは、例えば、権威・権力の頂点に天皇を据え、徳川家を中心とした大名の諸侯会議によって国政を運営するといった、穏やかな体制改革のほうが好ましい、と彼らは考えた。これが実現していれば世界でも珍しい無血革命ということになるだろうが、反面旧体制の大きな部分を温存することになる。

 この時最も大きな働きをしたのが岩倉である。元来公家離れした容貌と行動力で知られ、家格は低いにもかかわらず、幕末の混乱期に頭角を現した。孝明天皇の在世時には、皇女和宮の十四代将軍家茂への降嫁に随行して江戸に赴き、幕府老中と会談したことなどから、佐幕派(当時の言葉だと公武合体派)と見られ、討幕派から糾弾されて蟄居謹慎に追い込まれた。その謹慎中に完全な討幕派となり、薩摩藩と長州藩に宛てた討幕の密勅を国学者玉松操に書かせた。日付は薩摩宛が慶應3年10月13日、長州宛が14日で、後者が大政奉還と同じというのは、単なる偶然とは思えない暗合を感じるだろう。要は、幕末の権力争奪ゲームで、討幕側がカードを切るのを察して、幕府側はこれを無効にするカードを出した、ということだと思う。
 もっとも、最初のカードの有効性には怪しいところがある。中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、の有力公家(とはいえ、摂政でも関白でもない)三名の連署はあるものの、勅許として必要な形式を欠いており、「逆臣慶喜を殄戮(てんりく。殺戮と同義)せよ」なんぞという、この種の文書としてはたぶん前代未聞の物騒な文言もある。それでは、なんで殺されなければならないかというと、「妄(みだり)に忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず」云々とされるのだが、井伊直弼がやった安政の大獄【勤王の志士が多数殺された】といい、和宮降嫁に際して十年以内の攘夷(外国との交易を絶つこと)実行を、上辺だけ約束したことといい【孝明天皇は大の外国嫌いなので、侍従だった岩倉の献策を容れて、攘夷を妹・和宮と家茂との結婚の条件にしたのだが、天皇家との婚姻で幕府の権威付けをしたかった幕臣は、土台無理な話であることは承知の上で、同意した。つまり、孝明天皇の意向をいいかげんにあしらうつもりだった、と言われても仕方ないことをした】、すべて前将軍家茂の代にあったことである。朝廷側に立って見ても、この十ヶ月前に就任した慶喜個人が、そんなに恨まれる謂われはない。
討幕の密勅 鹿児島県黎明館蔵
 だからこの密勅は、偽勅、と言われても仕方ないが、その後のなりゆきからすれば、睦仁天皇は、少なくともその存在は知ってはいたろう。それでいて、日付の一部を書き入れる、などの正式な手続きをさせなかったのは、この過激な内容の責任が天皇にまでいくのを避けるためだったのだろう。それでもともかく長州藩は、この勅に応じて兵を集め、上洛する準備を始めた。同藩は元治元年(1864年)の禁門の変以来、朝敵ということになっていたのだが、これまた秘密のうちに、許されていたのである。
 岩倉自身は、公式には謹慎が12月8日に解かれ、即刻、果断に動いた。この日夜明しで続いた朝議(議題の一つに、大政奉還を認可することもあった)が終わるのを待ち、9日の昼近く、京都とその周辺にいた尊皇方五藩、尾張・薩摩・安芸・越前・土佐の兵力を集結して宮廷の九門を固め、佐幕派の公家を締め出したうえで、前夜から居残っていた中山忠能以下前記三卿と天皇に拝謁、その後新たな三役に就くべき公家・武家の待つ學問所への御出座を仰いだ。
 後に明治天皇と諡(おくりな)される睦仁天皇はこの時十五歳、「卿等國家の爲に儘力せよ」とのみ仰せ出され、詳細は中山から発表された。これが即ち王政復古の大号令である。そして引き続きこの同じ日の夕刻から、慶喜の処分に関する会議を、先ほど任命されたばかりの総裁以下が開く。迅速というより、メチャクチャと言うべきだろう。五つの藩の武力と、天皇の権威を盾に押し切った、クーデターと呼ぶに相応しいやり方だった。

 今日この会議は議場になった宮中の場所から小御所会議と呼ばれている。朝廷の最も重要な会議は天皇の御前で行われること、その際天皇は御簾内にいて姿を明瞭には見せず、発言もしないこと、は旧来からの慣習ではあったろう。大きく変わったのは、出席メンバーと議題の重要性である。
 総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には前記三卿の他二人の皇族、武家からは前記五藩を代表する人物、即ち徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)、浅野茂勲(芸州)、山内容堂(土佐)、島津茂久(薩摩)が、そして参与には大原重徳、岩倉具視ら公家の他、五藩から三名ずつ選任されることになった。その中には、西郷・大久保の他に、中根雪江(越前)、後藤象二郎(土佐)らがいる。
 議定のうち徳川慶勝は、第一次長州征伐の総大将を務めたが、第二次のそれには反対した、などのふるまいによって、尊皇方に数えられたとはいえ、元来御三家として徳川家の屋台骨を支える存在であった上に、慶勝は慶喜の母方の従弟でもある。また、坂本龍馬の案に基づき、容堂を通じて大政奉還を慶喜に献策したのは後藤象二郎だった。このような出席者を交えて、慶喜の納地辞官について話し合うというのである。一波乱あることは避けられなかった。
 公家たちが慶喜の非を鳴らす折から、山内容堂が真っ向から異を唱えた。論旨は以下。

(1)今日のやり方は非常に陰険である。かつまた、王政復古の初めに多数の兵がつめかけているようでは不吉であり、世が乱れる兆候のように見える。
(2)徳川家には初代将軍家康以来、二百数十年に渡って太平の世を築き上げた功績があり、そのうえで慶喜は、国家のために自ら大権を譲渡した。かつ彼の英明ぶりは天下に知られている。彼を朝議に参加させ、意見を聴くべきである。
(3)このような暴挙を企てた三、四名の公家は、幼沖(幼少、と同義)の天子を擁して、権柄を盗もうとする者ではないか。

 いずれも正論、と言うべきであろう。しかし最後の言葉は無思慮であった。
 これに岩倉具視が噛みついた。「御前會議なり、宜しく謹粛なるべし、聖上は不世出の英主にましまし、今日の舉悉く宸斷に出づ、幼沖の天子を擁し奉りてなどゝは何等の妄言ぞ」。これで容堂は天皇に詫びざるを得なくなった。
 この後松平春嶽が容堂と同じ趣旨の発言をし、それを岩倉と大久保一藏が反駁する。反対側の要点はこうであった。幕府は従来朝廷を蔑ろにする行為が多く、ただ政権を渡すと言ったのみでは信ずるに足りない、官位も領地もすべてお返しするという行為をもって、初めて信頼するに足るものとなる。これに対してさらに後藤象二郎が反対する。あとの三侯は沈黙しているので、議長格の中山が質すと、島津のみが岩倉に賛成、慶勝と浅野は容堂・春嶽に賛成した。
 会議は膠着した。中山忠能はつと立って、他の公家達と何やら内々の話を始めようとした。これをまた、岩倉が咎めた。「聖上親臨ありて群議を聽き給ふ、諸臣宜しく肺肝【=真情】を吐露して論辯すべきに私語とは何事ぞ」。資料によってはもう少し穏やかな言い方も記されているが、内容は同じ、私語は聖上に対して無礼であろう、というものだ。大号令には「見込(見解、と同意)ある向は、貴賤に拘らず忌憚なく建言致すべし」と言われてはいるが、まだ身分制が撤廃されたわけではない。聖上の外祖父でもある中山に対して、よく言えたものだ。
 澁澤榮一はこれを、中山は元来慶喜に対する厳しい処分には反対だったからだろう、と推測しているが、何をもってそう考えるのか、私にはわからない。倒幕の密勅で、署名者の筆頭は彼になっている。容堂がこのへんの事情にどれほど通じていたかは不明だが、幼沖の天子を擁して権柄を盗もうとする者の一人は、まちがいなく彼であった。また、和宮降嫁に際して江戸へ赴き、討幕派の反発を買った点でも岩倉と共通しており、個人的な親疎の感情はともかく、中山は岩倉にとって欠かすことのできない朝廷内の協力者であったはずだ。ただ、堂上人の気弱さから、場を丸く収めようとして妥協に走る恐れはあり、岩倉はそれを危惧したのだ、ということはあり得る。
 
 この後の会議の成り行きについては、真偽は定かではない話が有名になっている。西郷隆盛は、宮中につめかけた兵士の指揮に当たったので、会議には出席していなかった。休憩中に相談を受けた時に、「こんな時には短刀の一振りが役に立つ」などと答えた。これを聞いた岩倉は、自分には非常な覚悟がある【道理を引っ込めて無理を通そうとするのだから、尋常な手段では埒が明かないのは自明であるとは言え、天皇の御前を血で汚すなんぞということになったら、それこそ大化の改新以来例のない大罪である。それをも敢て辞さない、ということをほのめかしたものらしい】ことを、安芸藩を通じて後藤に伝える。後藤は、これ以上正論を固守して、慶喜と同腹のように思われるのも損だ、云々と容堂を説き、ために休憩後は彼らが沈黙したので、岩倉たちの思い通りの結論が出た。
 ただしもちろん、そう簡単にことが運んだわけではない。翌日慶勝と春嶽から決定を聞いた慶喜は、内大臣辞任については自分一身のことなのですぐにでもできるが、領地没収となると、大勢の家臣たちに直接関わることなので、しばらく待っていただきたい、と答えた。その後春嶽たちの巻き返しはあったものの、政治的な決着より先に、討幕派の横暴に耐えかねた幕臣たちが兵を起こし、歴史は鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと突き進む。それは西郷・大久保・岩倉らにしてみれば、やむを得ぬこと、否むしろ好都合だった。戦争無しで新時代が迎えられるなどとは、初手から信じていなかったのだから。

 改めて天皇について考える。問題は、天皇その人が何を考え、何を言うか、などより、天皇が存在していること、その存在を誰もが無視し得ない、という日本の通念なのである。それに則りさえすれば、七年にも渡る謹慎が解けたばかりの岩倉が、少し前なら対等に口もきけぬはずの土佐侯や前中納言中山忠能を叱りつけるような真似もできる。【鳥羽伏見の戦いのとき、官軍が三倍の兵力を擁する旧幕府軍に大勝できたのは、これまた岩倉が玉松操に命じて急拵えにでっちあげた錦の御旗の威力も、ある程度はあったかも知れない。旧幕軍総大将の慶喜は、元来水戸藩出身で尊皇の志篤く、賊軍となる戦には最初から消極的であったのだから。】天皇は、体制の維持よりむしろ、体制変革の原理として使える、と三島由紀夫が説いたのは、ここのところである。
 しつこいようだが、近代天皇論には重要なところだと思うので、もう一度繰り返す。重要なのは、天皇の「存在」であって、それは「叡慮」より、「宸断」より、勝る。十五歳の少年天皇が、幕府や摂政・関白の廃止とか、慶喜の辞官納地を自分から思いつく、なんて、嘘に決まっているが、それを嘘だと言い立てるようなのは不躾で、非礼で、不敬な振る舞いとなる。その程度の遠慮は当然だと、皆に思われていること、それが肝心なのである。
 すると逆に、天皇が単なる「存在」であることに止まらず、意志を明確にした場合には、やっかいなことにもなる【三島にとっては、二・二六事件がそのような場合であった】。孝明天皇は慶応2年に三十六歳の若さで急死し、ために十四歳になったばかりの陸仁が即位した。先帝は毒殺されたのではないかと噂されている。彼は公武合体に賛成していたのだから、確かにあと一年余長生きしていたら、岩倉たちの企ては著しく成就困難になっていたろう。毒殺されたとしたら、犯人は岩倉だ、というのは俗説であるにもせよ、上記の事情が古くから多くの人々の意識に映じていたからこそ出てきた噂であろう。
 噂と言えば、近年、山内容堂の「幼沖の天子」発言は、実際はなかったのではないか、という説もあるようだ。それが事実なら、天皇の存在こそ最重要、という通念は、明治時代に創り上げられたものかも知れない。いずれにしろ、このような至高の存在と不即不離の関係を保ちながら政府を運営する課題に、伊藤博文ら明治の指導者たちは取り組まなければならなかったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その10(八紘一宇:戦前日本のグローバリズム)

2017年10月31日 | 近現代史

八紘之基柱(あめつちのもとはしら) 宮崎市平和台公園

メインテキスト:石原莞爾『最終戦争論・戦争史大観』(底本は『石原莞爾選集3 最終戦争論』昭和61年たまいらぼ刊。中公文庫平成元年)

天皇に(大東亜戦争に関する)政治上の責任がない、とは簡単には言えない。では、それは具体的にはどのようなものか。昭和天皇と大東亜戦争の関わりはどんなものだったか、歴史の問題として非常に興味深いから、現在まで実にいろいろなことが言われている。私も今後できるだけ勉強して、当ブログで断続的に意見を開陳していきたい」とずいぶん前に書いた。しかしやろうとすると、天皇制にしろ大東亜戦争にしろ、モノがデカ過ぎて、手がつかない。「何を、いまさら」なんですけどね。
 それで、関連する特徴的な言葉・概念を採り上げ、それだって到底軽々に扱うことなどできないのだが、とりあえずの愚考を述べて、皆様のご批判を仰ぐことにした。
 その最初が八紘一宇。私の年代だと、いや、あるいは全く個人的にかも知れないが、なんとなく禍々しいイメージが伴う言葉だった。どうしてそうなったかは、全然覚えていない。「大東亜戦争」のほうは、拙著『軟弱者の戦争論』で使ったときには、「右翼だと思われるとイヤだな」と、けっこう勇気が要ったけれども、「禍々しい」とまでは思っていなかった。何かひどく巧妙なイメージ操作が行われていたような気がする。
 三原じゅん子議員は私よりちょうど十歳年少なのだが、この洗脳には引っかかていないようだ。平成27年3月16日の参議院予算委員会で、安倍首相や麻生財務大臣(当時)への質問の形で、次のように言っている。

 私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。(中略)これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。
「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」
 ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。
(『ハフポスト日本版』2015年3月17日より引用)

 外国資本に対して税制上の優遇措置を採る国、いわゆるタックスヘイブンを念頭において、彼女は語っている。そこへ形式的に本社を移せば、租税回避、つまり税金逃れができることは、この年話題になっていた。そんなことができるのは、大企業、その中でも多国籍企業である。これは現在の、弱肉強食のグローバリズムを最もよく象徴する。神武天皇が言った八紘一宇とは、それとは全く違った、すべての人々が家族のように睦み合い、強い者が弱い者を扶けるという謂いで、これこそ日本が建国以来抱き続けてきた人間世界の理想のありかたである。と、すると、現在も、国境を越えて応用もできるはずだ、と。
 この言葉が戦前、大日本帝国の海外膨張、即ち侵略を美化するためのスローガンとされていたことは知らないわけではない、と後に三原は言っている。引用されているのは清水芳太郎『建国』という本だが、この筆者は「最終戦争論」に「天才」として名が出てくるのを見ただけ、書名に関しては恥ずかしながら私は全く知らなかった。清水は和歌山県のジャーナリスト兼社会運動家で、農村の貧窮問題に取り組んだ人。また、八紘一宇は二・二六事件の蹶起趣意書にも登場するが、事件首謀者の青年将校たちは、窮迫した農民の救済を目的の一つとして掲げていた。つまり、「弱者救済」の思想こそ、この言葉本来の意味であり、それを日本国民は銘記すべきではないか、と。(「だから私は「八紘一宇」という言葉を使った」東洋経済オンライン同年4月5日
 それにしても、上の文脈でこの言葉を持ち出した三原の、本当の動機はわからない。それは誰にしても、私にしても、さほどの興味を惹く話題ではなかった。いくつかのマスコミは批判したし、批判があまり盛り上がらない現状を批判する言説もあるにはあったが、いずれも盛り上がる前に忘れ去られていった。
 私が思い出したのは、山田朗『昭和天皇の戦争』(岩波書店平成29年)で、昭和天皇の次の言葉が採り上げられているのを読んだからである。

 内大臣木戸幸一に謁を賜い、枢密院議長近衛文麿の辞意につき言上を受けられる。また仏印問題につき御談話になり、フリードリッヒ大王やナポレオンの如きマキャベリズム的な行動ではなく、神代からの方針である八紘一宇の真精神を忘れないようにしたい旨を述べられる。(昭和15年6月20日。『昭和天皇実録 第八』一○六頁)

 山田はここから、「この言葉からも分かるように、少なくとも領土拡張・勢力圏拡大という点については天皇自身、何ら否定するものではなかった」(P.124)と言う。「この言葉」とは八紘一宇のこと。それは端的に、領土拡張・勢力圏拡大のイデオロギーを示す、少なくとも象徴するものだった、と考えられている。では、マキャベリズムとはどう違うのか。少なくとも、天皇のおつもりでは。その考察は抜きで、昭和天皇の戦争責任を証する根拠の一つにされている。ちょっと性急な気がした。
 歴史的に、この言葉は極東軍事裁判(東京裁判)でも採り上げられている。この時は、日本側弁護人清瀬一郎らが、井上孚麿を証人に呼ぶなどの努力を重ね、「八紘一宇や皇道は日本道徳上の目標であると認め」られて、判決書にも書かれた。東京裁判全体を通じて、弁護側の証明が公式に認められたのは、これと、タイの俘虜に関する虐待の事実はなかったことぐらいだ、と清瀬は著書『秘録 東京裁判』(原著は昭和42年読売新聞社刊。中公文庫版から引用)で書いている。この判決書(日本文)の「皇道と八紘一宇の原理」の部分は、この言葉についての最も簡明な説明になっていると思われるので、同著から孫引きで引用する。

 日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇による詔勅が、その時に発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。
 行為の第二の原理は「皇道」の原理であって、文字通りにいえば「皇道一体」を意味した古い成句の略語であった。八紘一宇を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるものであった。従って「天皇の道」――皇道または「王道」――は徳の概念、行為の準則であった。八紘一宇は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であった。
(下線部は原文では傍点部)

 簡明、とは言ったが、よく読むと、様々な疑問が浮かぶし、けっこうアブナイと思えるところもある。
 「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ、または世界を一つの家族とするということ」と並記されるが、世界が一つの家族になる、その前提に、一人の統治者が世界を統合する、ということがあるのではないか、と読める。仮定の話ではない。そもそもこの詔は、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)が九州の日向から東上し、長髄彦(ながすねひこ)などの強敵を打ち破って奈良に橿原宮(かしはらぐう)を造営、そこで即位して神武天皇となったときに出したものである。国中が一家のようなものになるには、その前に戦が必要、ということではないか。
 八紘一宇という徳の実現には、天皇に対する忠義が必要とされる、もほぼ同様。これが、天皇崇拝など関係ない外国に広げようとしたら、やっぱり戦になり、向こう側からは、どうしても侵略に見えるしかないのではないだろうか。実際、それがつまりは大東亜戦争の悲劇だったのである。

 改めて言葉の由来を尋ねると、日本書紀に記された詔中の言葉「掩八紘而爲宇」から「八紘一宇」を造語したのは、日蓮宗の信者で愛国主義団体國柱會の創設者・田中智學で、それは大正2年のことだった(島田裕巳『八紘一宇』幻冬舎新書平成27)。原典に忠実を期すなら「八紘爲宇(はっこういう)」(八紘を宇と為す→世界を家とする)となるべきところを「八紘一宇(はっこういちう)」としたのは、語呂がいいからではないか、とこれは私の憶測である。
 いくら元は古典にあるとはいえ、一宗教家・思想家が創った言葉が、国策の標語となり、天皇や首相の口からも出る、なんぞということは、めったにあるものではない。田中の影響力の大きさは疑うべくもない。しかし正直言って、それは内容がないからではないだろうか。「世界の人がみな、一家族のように仲良く暮らせたらいい」には文句はあるまい、と言われるなら、いかにも。ために、戦後、たぶん田中智學とは関係のない笹川良一の口から「世界は一家、人類は皆兄弟」というよく似た言葉が出たり、また若手の国家議員の口から、やっぱり田中との直接の関連を離れて、ひょいと出てきたりもする。どこからも文句の出ない言葉とは、つまり無意味だ、ということなのである。
 とりあえず一番問題にすべきなのは、大東亜戦争の現実の中で、この「道徳的目標」がいかなる働きをしたかであろう。國柱會の会員だった石原莞爾が遺した言説から、その一端を窺っておこう。

 石原は、際だった個性の持ち主であることはよく知られている。何より、旧日本軍の中では珍しい思想家だった。熱心な日蓮宗の信徒であることと、満州事変に代表される冒険的軍事行動、この間にある矛盾、ではないにしろ溝を、尋ねれば、ある程度の答えは期待できた。その意味で、「最終戦争論」(昭和15年、京都の東亜連盟会員である柔道家の道場での講話を、立命館大学教授田中直吉が整理して、出版したものが最初)に付された「第二部 「最終戦争論」に関する質疑応答」は特に興味深い。実弟石原六郎の解題によると、これは一定の場所での質疑応答ではなく、「最終戦争論」が評判になるにつれて、内容に関する疑問の声も、東亜連盟運動に奔走していた石原の耳に直接間接に入ることもあり、それらと答えとをまとめて17年に脱稿したものである。
 第一問は、上に述べたことに関連する、融和と争闘との矛盾に関して。曰く「世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒瀆であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う」。ここまで言う絶対平和主義者は戦後でもそんなに多くはないであろう。石原に実際にこう聞いた人があるのかどうか、あるいは、彼の頭の中から出てきた自問かも知れない。
 それはそうと、答えは、「どうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全」だから、

 刃(やいば)に衅(ちぬ)らずして世界を統一することは固より、われらの心から熱望するところであるが、悲しい哉、それは恐らく不可能であろう。もし幸い可能であるとすれば、それがためにも最高道義の護持者であらされる天皇が、絶対最強の武力を御掌握遊ばされねばならぬ。文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならい。
 最終戦争によって世界は統一される。しかし最終戦争は、どこまでも統一に入るための荒仕事であって、八紘一宇の発展と完成は武力によらず、正しい平和的手段によるべきである。
(P.70)

 「絶対最強の武力」があれば、誰も力で逆らうことはできない。そしてその武力の持ち主が、「最高道義の護持者」であるとすれば、力を濫用することなど考えられないので、平和に、八紘一宇は達成される、と言う。
 ……いやまず、どうして天皇がそれほど道義的に至尊の存在であると考えられるのか、戦後の我々は疑問に思わないわけにはいかない。しかしそれは、当時の国粋主義者にとってはいわば公理であって、証明する必要がない、そんな証明が要ると思うだけでも不敬であるとされねばならぬ事柄であるようだ。「イエスが偉大であるなんて、信じられない。そうだと言うんなら、証明してみせろ」なんて言う人がキリスト教徒には成り得ないようなもの、だろうか。少なくとも私は、これについて冷静に、客観的に、根拠を挙げて説明しようとした文章を読んだことがない。ある、という場合には、是非ご教示願いたい。
 しかし一度この前提を受け容れたら、石原の説くところは理に適っていると見えるであろう。彼は道義の力によって戦争に勝てる、などとは信じていない。あくまで、兵力しか問題にならない。一方、科学技術の進歩に応じた兵器の増強は目覚ましいものがあり、今もなお日進月歩を続けている。もし「原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったらどうであろうか」。破壊が大きくなりすぎて、もはや戦争などできなくなるではないか。その時、至高の道徳と力を兼ね備えた存在があるならば、力は使わずとも、自然に渇仰される存在となるから、その下で、絶対平和で平等な、理想世界が出現するだろう。ちょうど厳格だが慈愛に満ちた家長によって、幸福な家庭ができあがるように。ざっとこのようなものが、石原の考える八紘一宇であった。
 ここから最終戦争論が自然に出てくる。上で見た真の八紘一宇が実現する手前の、残念ながらどうしても必要な闘争があり、それがすめばもう戦争は決して起こらない、と言う意味で最終なのである。それは、文明の進歩の速さを閲すれば、だいたい三十年後に、東洋文明と西洋文明のそれぞれチャンピオン同士である日本とアメリカの間で起きるだろう、と石原は予言する。これにはなんとしても勝たねばならない。それは即ち、力による支配を意味する覇道と、道義が自から支配する王道の対決なのだから。
 西洋の覇道と東洋の王道とか、それに近い観念(西洋の物質主義と東洋の精神主義、とか)は、いろいろな人がこの時期に言っている。「質疑応答」では、第四問でこの説明を求められる形にして、「私の尊敬する白柳秀湖、清水芳太郎両氏の意見を拝借して、若干の意見を述べる」として、大略次のように言う。文明の性格は気候に依るところが大きい。熱帯・亜熱帯では生活環境が厳しくないために特に支配階級は抽象的な思考・瞑想に耽る暇があり、宗教や芸術を発展させた一方、社会は長い停滞に陥ることになった。【これがほぼ、インドと支那を中心としたアジアのことで、ひいては東洋、という括りになる。ユーラシア大陸北部の大部分を占めるロシアや、同じく熱帯でも砂漠が多くて生活環境の厳しい中近東のことなどは、度外視されている。】一方北部の民族は、厳しい生存条件を克服するために、科学技術や、ひいては経済や社会制度を発達させ、軍事も強く、結果としてアジア諸国を力で支配するようになった。【これがヨーロッパ→西洋。】日本は、この分類では北に属するとされている。【え? そうなの? と言いたくなりますね。】
 この後、清水の『日本新体制論』を大幅に引用している、その冒頭を孫引きする。

 寒帯文明が世界を支配はしたけれども、決して寒帯民族そのものも真の幸福が得られなかった。力の強いものが力の弱いものを搾取するという力の科学の上に立った世界は、人類の幸福をもたらさなかった。弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。本当を言うと、熱帯文明の方が宗教的、芸術的であって、人間の目的生活にそうものである。寒帯文明は結局、人間の経済生活に役立つものであって、これは人間にとって手段生活である。寒帯文明が中心となってでき上がった人間の生活状態というものは、やはり主客転倒したものである。

 三原じゅん子が引用した反弱肉強食論の背後にはこういう見解があった。そして石原もそれに完全に賛同していた。さらに、と、清水と石原は言う。このような文明の二傾向はいつか統一されねばならない。それをやり遂げられるのは、日本を置いて他にない。「科学的能力は白人種の最優秀者に優るとも劣らないのみならず、皇祖皇宗によって簡明に力強く宣明された建国の大理想は、民族不動の信仰として、われらの血に流れている」。そのうえ、「しかも適度に円満に南種の血を混じて熱帯文明の美しさも十分に摂取し、その文明を荘厳にしたのである」。ついでに支那については、「今日の多くの北種の血を混じて南北両文明を強調するに適する素質をもち、指導よろしきを得れば、十分に科学文明を活用し得る能力を備えていると信ずる」(以上は石原の文。P.78)
 これがつまり、王道。夜郎自大、としか戦後の目には、いや、戦前でもたいていは、見えなかったろう。しかし、これほどではないにしても、ほぼ近いような「理想」がなければ、八紘一宇はそれこそ侵略のための単なる口実、ということになるだろう。事実、そうなった。

 石原莞爾は軍人としては、なんと言っても満州事変の首謀者として知られている。自ら自国が経営する鉄道を爆破しておいて、それを軍閥・張学良の仕業として、鎮圧のための軍を起こし、日本政府の不拡大方針にもかかわらず、支那北東部三省を僅か一万一千の関東軍によって五ヶ月で制覇、満州国建設を実現した。世界軍事史上稀に見る戦果であるが、また、権謀術数という意味での典型的なマキャベリズムを行使した、と言うべきであろう。
 上に見た「王道」とは矛盾しないのか? しない。これは遺憾ながら必要な「荒仕事」であって、これが済んでこの地の秩序が確立し、満州国が出来上がったら、そこは八紘一宇の王道楽土になるはずだったから。つまり、最終戦争→理想世界、の雛形なのである。だから石原は、満州国内での五族協和(五族の中身は、漢民族・満州民族・朝鮮・モンゴル・日本)が成ると本気で信じていた。そこではすべての民族は、もとより平等に扱われなければならない。天皇を崇拝すれば、という条件はあるが、天皇が真に「最高道義の護持者」であるなら、何人であっても自然に崇拝するはずのものだ。そこに強制など必要なかった、いや、あってはならなかった。
 もちろん、そんなにうまくはいかなかった。石原は事変の翌年(昭和7年)帰国し、12年に関東軍参謀副長となるまで時々しか満州に戻らなかった。彼はこの地の治世の失敗を、生涯にわたる政敵東條英機(当時関東軍参謀長)ら、実質的に統治していた軍人たちの無能のせいにしているが、石原自身がいてもそれほど代り映えはしなかったろう。皇徳なんて認めない、それ以前に知らない民も多く、満州という国を認めない勢力も、内外に少なくなかったのだから。結局、新たな「荒仕事」、つまり戦争が必要になった。
 これについて、昭和12年の盧溝橋事件に際しては、陸軍参謀本部作戦部長として不拡大方針を唱え、「日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる」などと説いたことが作戦課長武藤章の回想にある。周知の通り、この後の日支戦争の成り行きは正にこの通りになった。理想家ではなく、軍務家としての石原は非常に冷徹で合理的な目を持っていたことがわかる。
 しかしその前年、関東軍首脳部に内蒙工作(内モンゴルを支那から独立させて、ソ連や支那との緩衝地帯にしようとする計画。失敗に終わった)の中止を命じた石原に対し、その武藤に、「(満州事変時に)あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」(辻正信の回想)と反論されたことは有名なエピソードである。内モンゴルは現在も自治区であり、中華人民共和国からの独立運動が盛んなところだし、東の一部は当時既に満州に編入されていた。満州建国にはソ連の進攻への備えの意味もある以上、その延長としてこうした計画が立案・実行されて悪いはずがない、と考えられるのは無理もない。それはどこまでも覇道であって、王道ではない、と言ってみても、そんな雲の上の理想にかまっている場合か、と言われておしまいである。

 国家間の強い連帯・連盟は、現在のEUのような純粋に経済的な、「手段生活」が目的の場合でも、なかなかうまくいかない。そこへ理想を持ってきたとなると、話は限りなく紛糾する。
 一番の問題は、理想の輝きによって、連帯しようとする相手の異質性・他者性が、見えなくなるか、見えてもどうでもいいことのように感じられてしまうことだろう。
 日本人は元来、決して同化できない「他者」と関わるのは苦手な民族ではあるのだろう。それでいて、明治維新以後、他者が出てきた。西洋である。王道対覇道、とまでは言わずとも、日本あるいは東洋の和に対する西洋の稜(りょう。かどばって、激しいこと【他にいい言葉が見つからずに使いました。なんとなくわかっていただければいいです】)、などと言えば、あまり深く考えなければ、今も多くの日本人が納得するようだ。しかし、前々回採り上げた福田恆存の言葉にあったように、「対する」の部分がもう西洋的なのである。和合の精神で対立の精神と対立して、というような矛盾をはらんだ主張を、多くの日本主義者は、知ってか知らずか、唱えている。その場合、東洋の国々はどういう位置が与えられるのか。
 以上は決して言葉の遊びではない。日本が世界戦争に乗り出して、多くの国々と直接衝突してから、その意義を考えた時には、底の方に横たわっているのが見えてくるアポリアだった。天皇を含めて、当時国の指導的な位置にあった多くの日本人がこれに躓いている。というところから、一典型としての昭和天皇の肖像が描ければよい、と現在ぼんやり期待しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その9(今上陛下の退位をめぐって)

2017年07月28日 | 近現代史
  おことばを述べられる天皇陛下

 本年6月9日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が衆参両議院を通過し、成立した。これで来年末には1817年(文化十四年)の光格天皇以来、約二百年ぶりの譲位が実現する見通しとなった。
 それはそうと、この法律に関する議論の過程で、皇室の現在と将来に関する、大きな論点が浮上してきた。
 改めて言うのも迂闊なようだが、今上陛下は、「象徴天皇」として最初から即位なされた、日本史上初のお方である。現憲法下での皇室のあり方に深く思いをいたし、また実践してこられた。陛下のご退位希望も、この一環であったのだ。
 その思いと実践そのものから、日本独特の立憲君主制である天皇制(この言葉は元来共産党の発明であることは知っているが、「日本独特の立憲君主制」を示すものとして使わせてもらう)の矛盾の一つが、明瞭になったのである。
 本当は知らないほうが幸せであったのかも知れない。が、既に浮かんできて目に見えてしまった以上、やり過ごす、というわけにもいかないだろう。もちろん、すぐに結論を出せるほど簡単なことではない。それでも、つまらないレベルで各所に感情的な反発だけが募るのはまことにつまらない。今回は、昭和天皇を題材にして天皇制の問題を細々と考えている者として、論点整理だけでもしておこうと思う。
 多少とも同朋諸氏の参考になれば幸甚である。

 問題を端的に伝えたのは、『毎日新聞』本年5月17日の記事である。以下に全文を掲げる。

 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。
 陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。
 宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。
 ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀(さいし)だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
 陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。
 宮内庁幹部は陛下の不満を当然だとしたうえで、「陛下は抽象的に祈っているのではない。一人一人の国民と向き合っていることが、国民の安寧と平穏を祈ることの血肉となっている。この作業がなければ空虚な祈りでしかない」と説明する。
 陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。【遠山和宏】


 もちろん今上陛下の「ショック」がどのような性質の、どの程度のものであるか、正確にはわからない。そこには留保が必要だとしても、「やるせない思い」が事実あるとしたら、「おいたわしい」と感じないわけにはいかない。
 陛下が被災地の御訪問や大東亜戦争の犠牲者への慰問に精勤しておられたことは周知だが、そこにこれほど強い思いがあったとは。これと、「保守系の専門家」との間の懸隔は、越えようがないのかも知れない。しかし、それが現にある以上は、見えないところで燻っているより、明らかになったほうがよいとも考えられる。
 それにつけても、論点は正確にしておかなくてはならない。まず、陛下が公的におっしゃった昨年8月8日の御言葉から引用する。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。


 次に、「陛下に対して失礼」と言われた有識者のうち、名前が出ている平川祐弘氏と故渡部昇一氏の意見を、前者は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(以下、「有識者会議」と略記)(第3回)議事録」(平成28年11月7日)、後者は「有職者会議(第4回)議事録」(同年同月14日)から、順に引用する。

 代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られましょう。健康に問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下が一生懸命なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思います。しかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇の能動性ということも大切かもしれませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴天皇の役割の解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになりかねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。

(前略)天皇のお仕事というのは、昔から第一のお仕事は国のため、国民のためにお祈りされることであります。これがもう天皇の第一の仕事で、これは歴代第一です。だから、外へ出ようが出まいがそれは一向構わないことであるということを、あまりにも熱心に国民の前で姿を見せようとなさってらっしゃる天皇陛下の有り難い御厚意を、そうまでなさらなくても天皇陛下としての任務を怠ることにはなりませんよと申し上げる方がいらっしゃるべきだったと思います。


 多言は不要かも知れないが、一応解説もどきに述べる。
 「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」について陛下が出された答えは、第一に、前述の、各種の行幸を指すのであろう。御言葉の後半にある、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」などからしても、それは明らかである。
 因みに、行幸とは天皇が宮廷や御用邸以外の場所へ行くことを言うから、もちろん今上陛下が創められたことではない。特に近代になってからは、明治天皇の六大巡幸(明治5~18年。巡幸とは、行幸のうち、外泊して複数の場所へ行くこと)や昭和天皇の戦後の巡幸(昭和21~29年)はよく知られている。被災地への慰問や、ほぼ必ず皇后を伴うこと、などは、先例がなくはないが、今上陛下が最も積極的に、精力的になさった。また、膝を折って被災者と同じ目線で親しくお言葉を交わされたのは、今上が最初であるらしい。こういうのが、お言葉にある「象徴の務め」「象徴的行為」の中身である。
 平川・渡部両氏も、ほぼ同じ考え方の人々(大原康夫、八木秀次、櫻井よしこ、などの各氏)も、その活動自体を批判しているのではない。それは尊い、有難いことであった。しかし、天皇なら当然やるべき「公務」(上の記事では明らかにそう言われている)とまでするなら、疑問がある。将来、健康上の理由その他で、そういうことがちゃんとできない人が天皇になった場合には、「あれは天皇に相応しくない」という批判が出ることに繋がるからだ。
 もっとも、批判なら現在までにも出ているし、それは「言論の自由」に含まれている、と言うこともできよう。問題は、これが皇位継承にまで影響を与える可能性が出るときだ。
 現皇室典範は、第一条で皇位は皇統に属する男系男子が継ぐべきこと、第二条で継承権の順番を「一皇長子、二皇長孫、……」と定めてあり、これが改変されない限り、次の天皇が誰になるかは紛れがない(皇統に属する男系男子が絶えた場合はどうするか、というようなことはここでは述べない)。
 しかし、退位はどうか。今後の天皇も、高齢によって、あるいは「健康上の理由その他」によって、「全身全霊」で「象徴的行為」ができなくなった場合には、やっぱり退位すべきなのだろうか。
 事は一見するより重大である。天皇は、元来、能力や実績などによって選ばれるべき存在ではない。もっとも、長子相続が厳密に定まっていなかった近代以前には、「兄弟や従弟の中で、誰が皇位に相応しいか」などと考慮されたこともあり、それに従って譲位も頻繁に行われた。
 しかしそもそも、個人の能力の判定など、見方により立場により、様々に変わり得る。必ず衆目が一致する、とは期待できない。現に日本史上にも様々な見方が出て、南北朝の大乱などを招いた。その故知から、伊藤博文を初めとする明治の先人が、現行の原則を定めたのである。
 この時から天皇は、明確に、「その地位に相応しい能力」によって選ばれる存在ではなくなった。そうであれば、「相応しい能力がなくなった」から辞める、というものでもない、と考えられるだろう。それが首尾一貫、というものである。
 そのような存在には意味はない、と考える人もいるが、私は大いに意味がある、と思う。それについては後述する。
 今はその手前で、現在、いったい誰が、AならAという人は、もはや天皇に相応しくない、などと決めるのか、を少し考えていただきたい。民主主義なのだから、主権者たる国民が、人物を見て、ということになりそうだ。それくらいなら、もう血統主義などは完全に捨てて、選挙に依る大統領制にするに如くはない。これは即ち天皇制の廃絶である。この点で平川氏らが言うことは、全く正しい。

 ひるがえって、御言葉に表現されている今上のお気持ちを、できるだけ深く推察する。
 いくら「有り難く、かたじけなく」云々と言われようとも、その後で「そうまでなさらなくても天皇陛下としての任務を怠ることにはなりません」などと言われたのでは、よい気持ちがしないことは当然である。自己の行為を「全否定」されたと感じることもあるかも知れない。しかしそれだけなら、「売り言葉に買い言葉」レベルの、感情の問題である。今度少し長く考えて、たぶんここには、感情は感情でも、もっと深い淵源を持つものがあるように思えてきた。
 何度も話には出てきたことだが、この際なぜ公務を代行する摂政を置かないのか。それなら、現制度下で可能なのである。即ち、皇室典範の第十三条第二項「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」。高齢で、と言うことが「身体の重患又は重大な事故」に当たるかどうかは議論の余地はあるかも知れないが、前例として、父君である昭和帝が、大正10年から摂政を務められていたことは、もちろんご存知だろう。因みに、この時適応された旧皇室典範では「天皇久キニ亙ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」。
 字句からして、戦後の皇室典範は、なるべく摂政を置きたくないのだな、とはなんとなくわかるが、それより問題なのは、「(前略)この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」との御言葉にあるように、天皇としてやるべきことをやらないまま、名前だけそうであるような存在は無意味だ、と今上陛下はお考えであることだろう。大日本國憲法の時代の帝王ならならともかく、象徴としては。
 では、天皇のやるべきことのうち、中心はなんだろうか。現憲法第五~七条の「国事行為」ではない、とお考えなのだろう。それなら代理が務めても、さしたる大事ではない。前述の、「象徴的行為」が、明らかにより重大なのだ。単純に言って、被災地で慰問されるにしても、天皇自身とその代理とでは、有難味がまるで違うだろうから。
 さらに、御言葉には、次のようにもある。これは「象徴的行為」のある文の、前の部分である・

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

 「人々の傍らに立ち」「思いに寄り添う」ことができないままに、宮中の深いところで国民の安寧や幸せを祈っても、それは「空虚な祈り」でしかない、とまで思われているかどうかは定かではない。ただ、そうなれば、本当に祈っているかどうか、一般人には知りようがなく、それでは国民の支持は得られないから、「象徴天皇」は存続し難くなるのではないか、とお考えのようである。
 それを「さかしら」と言われたのでは、怒るのも無理はない。そこは理解した上で、私はなお、この点では平川・渡部氏らに賛同する者である。天皇主義者からは、不敬だ、と言われるかも知れないが。

 つまり、私は天皇主義者ではない。私が天皇制を支持するのは、これまで『軟弱者の戦争論』や本シリーズ「その1」で書いてきたように、第一に、権力の中心と権威の中心を分けるのは、独裁制・全体主義国家を遠ざけるためによい方策だと考えるからだ。これは平川氏も言っているが、最も恐ろしい独裁者は、ヒトラーや毛沢東がそうであったような、権威(社会一般で尊重されるべきとされる価値)と権力(実際に人々を動かせる力)とを一身に備えた者であろう。
 だから、時々リベラル派が、「天皇を尊重すると言う人が、天皇の考えや気持ちを軽んじるのはおかしい」などと言うのは、理解が足りないと思う。ここは他人の代弁をするわけにもいかないので、自分一個の考えとして述べると、私は、神話時代を含めると二千年以上、血統が明確な継体天皇からでも千五百年存続してきたという意味で、日本という国の歴史的連続性を象徴する天皇家を尊重するのであって、昭和帝や今上天皇などの個々人を崇拝するのではない。むしろ、個人崇拝には陥りたくないから、立憲君主制を支持するのである
 つまり、実際の政治は国会で成立したり改廃される法律に基づき、行政府が行う。後者のトップが内閣総理大臣で、それなりの権力があるのは当然である。しかし、しょせんは公務員のトップなのだから、ヘマをしたら替えればいい。国民全体の代表でもある大統領より、それはやり易いのではないか。「国民統合の象徴」は別にあるのだから。
 ただ、象徴を、国旗のような物質的なものではなく、生きた人間にやらせるのは、親しみやすいという長所もあるが、その反面の弱点もある。人間なら、どうしても何か言ったりやったりはするので、それを無視するわけにはいかない、という。
 今回のことは、もはや決まった通りにやるしかないだろう。しかし、ここで一度退位が行われた以上、将来先例とならないわけにはいかないのだから、皇室典範を改正して、退位できる場合の条件を恒久的に定めておくべきだと思う。それが今上陛下のご希望でもあったのだから。
 これについては民進党が、法案提出にまではいたらなかったが、昨年12月「皇位継承等に関する論点整理」を出して、皇室典範の第四条に、「天皇は、皇嗣が成年に達しているときは、その意思に基づき、皇室会議の議により退位することができる」との規定を新設すべきである、としている。①次代の皇位継承者に不安がないこと(皇嗣が成年に達しているとき)と、②時の政権の都合で天皇が替えられたりしないこと(その意志に基づき、以下)を、恒久的な条件としようとするところは、賛成できる。ただ、特に②に関しては、これで本当に権力者の恣意による天皇交代が行われ、皇室の権威が損なわれることがないか、不安が残る。
 いずれにしろ、急ぐことはない。現状で、現制度で、三代先までの皇位継承者は決まっているのだから、ゆっくり時間をかけて、できるだけ妥当な法案を作っていただきたい。一国民として、切に希望する。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その8(幕を下ろすためのドラマ)

2015年09月20日 | 近現代史
メインテキスト:古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書平成23)
サブテキスツ:長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社平成18年、後に中公文庫)
鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』(東京大学出版局平成23)
山本智之『「聖断」の終戦史』(NHK出版新書平成27)



 今回は天皇の方向から終戦の様相を見てみたい。

 米軍のフィリピン上陸が間近い昭和20年1月、昭和天皇は戦争の見通しについて重臣たちから直接意見を聞くことを求めた。主に木戸幸一内大臣が秘密のうちに準備して、2月に総理経験者など7人が個別に拝謁、中で、14日、前日に上奏文を書き上げていた近衛文麿の言上は異彩を放っている。この文書が今日一般に「近衛上奏文」と呼ばれているものである。
 近衛はまず率直に「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと侯」と認める。続けて、

 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存侯。国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に侯。

 昭和天皇もまた、共産主義革命を最も恐れており、それは前述の通り敗戦後まで続いた。いかにも、英米に降伏しただけなら、皇統の存続を図ることはできるかも知れないが、共産主義政権になれば、その可能性はずっと低くなるだろうから。
 近衛はさらに次のようにも述べた。軍や政府内部にも数多くの共産主義者が入り込んでおり、対支戦争を長引かせるように工作した。自分もまた首相時代、誑かされていた。今また彼らは対米戦を引き延ばし、国民の不満を煽って、革命が起きやすい空気を醸成しようとしているのだ、と。
 今日でも一部に根強く残っている「大東亜戦争はコミンテルンのスパイによる陰謀」説の濫觴というべきものであろう。その当否はしばらく措く。しばしば問題にされるのは、この後の御下問で天皇が、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と言っていることだ。
 このお言葉は、記録によって多少の異同があり、「軍がそう言っている」というニュアンスのものもある。しかし、この時期の天皇は、一度でも連合軍に対して戦果を挙げ、なるべく有利な条件で講和を結ぶ考えであったことは確かだ。3月に、小磯内閣の外相だった重光葵に、「条件は皇統維持を主とし、戦争責任者処断・武装解除を避け度き」と漏らしているのだから(古川、P.292)。カイロ宣言(昭和18年12月1日発表)による無条件降伏では、そもそも「条件」を出すこともできない。
 また、この条件は、前回述べた、阿南陸相たちが唱えた四条件①国体護持②自主的戦犯処罰③自発的武装解除④可及的小範囲短期間進駐、の前三つに近いことは注目されるだろう。偶然かも知れないが、重光に言ったことが、なんらかの形で軍にも伝わった可能性もある。もっとも、これも前述の通り、『昭和天皇独白録』(文芸春秋平成3。後に文春文庫。以下、『独白録』)時の天皇は、②と③を唱えたのは、軍のした「拙い事」だと言ったのだった。
 『独白録』は、天皇の戦争責任が追及されるときに備えて口述されたいわば弁明書であることは、もちろん大きな要素である。しかしそれ以前に、古川も指摘するように、「皇統維持」と「国体護持」では、微妙だが決定的な違いがあった。終戦の過程でそれが露呈された。それが一番大きなポイントであろうと思う。

 天皇が早期講和、言い換えると、上の三条件が一条件になっても、さらにはそれも怪しくても、やむを得ない、と考え始めたのはいつ頃であったろう。5月3日、木戸内大臣に、責任者処断と武装解除はやむを得ぬから、なるべく早く講話を結びたいと述べたのが記録としては最初らしい(古川、P.294)。
 6月8日、御前会議で、「皇土決戦」即ち本土決戦の方針を定めた「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」が採択された。木戸はこれには出席していないが、この時提出された「国力の現状」という資料は事前に閲覧していたらしい。同じ8日の日付がある、木戸の起草に成る「時局収拾の対策試案」が『木戸幸一日記』(東京大学出版局昭和41。下巻P.1208~1209。以下『木戸日記』)に収められている。そこには大略こうある。
 我が国は今年下半期には戦争遂行能力を殆ど失うであろう、また、敵の本土攻撃によって生じる荒廃は、深刻な衣食住不足を招き、国民の不安は収拾がつかないところにまで至るやも測り知れず。軍部が和平を提唱し、これによって政府が交渉を開始すべきところであるが、今日の現状ではほとんど無理。と言って機の熟するのを待てば、日本もまたドイツと同じ運命を辿り、「皇室の御安泰」「国体の護持」という至上の目的すら危うくなりかねない。「依つて従来の例より見れば、極めて異例にして且つ誠に畏れ多きことにて恐懼の至りなれども、下万民の為め、天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ」るしかない。
 ここで初めて、天皇自身の決断、即ち御聖断による終戦の構想が出てきた。しかしこの段階ではまだ、「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す」ることが考えられていた。
 この構想は、7月に入って、近衛文麿を特使としてソ連に仲介を依頼する、というところまでは具体化した。しかしポツダムでの会談は目前に迫っていた。スターリンは日本をまともに相手にする気はなく、特使受け入れの返事を引き延ばし、18日には拒否した。
 こう言うと、日本はソ連の動きについて何も知らなかったように思えるが、そうではない。陸軍でも、ソ連軍は早ければ夏にも攻め込んでくるのではないかと予想されていた(鈴木P.165)。交渉には、それを防止する目的もあったのである。しかし如何せん、日本はどのような条件を提示して和平の仲介を依頼するかについても、まとまった話はできていなかった。終戦について、公に議論を始める時期が遅すぎたのである(このあたりは長谷川毅『暗闘』第三章が詳しい)。
 
 6月9日か11日、大陸の視察に行って上の御前会議を欠席した梅津美治郎参謀総長が戻ってきて天皇に拝謁し、かの地の現状を報告した。日付がはっきりしないのは、梅津がこの内容を書類にはせず、部下にも知らせず、極秘としたからである。
 内容とは、「支那総軍の装備は大会戦をなすとせば一回分にも充たない」というもので、和平交渉が不調に終わった場合には戦争継続を考えていた天皇に衝撃を与えた。さらに、12日、国内の軍需工業を視察した長谷川清海軍大将の報告によって、「敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」(『独白録』)。
 6月14日、天皇は心労で倒れ、二日間病臥していた。たぶんこの前後に、皇統維持だけを譲れぬ最後の一線として、あとはすべて諦めて早期和平を講ずる決心をしたのだろう(鈴木多聞P.126~127)。
 そして22日、天皇自身の意志で、「懇談会」として最高戦争指導会議のメンバーが秘密裡に集められる。冒頭の御言葉を『木戸日記』(下巻P.1213)から引用する。木戸はこの場に出席していないから、以下は、たぶん天皇自身からの伝聞である。

 戦争の指導に就ては曩(さき)に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む。

 山本智之はこれをもって実質的な終戦の御聖断であったと言う(山本P.172)。極めて婉曲な表現ながら、5日の「皇土決戦」方針を白紙に戻し、改めて終戦の方途を考えろ、と言っているのだから。この時にはまだソ連を仲介者とする案は生きていたので、具体的には、そこで出すこちら側の条件もできるだけ緩和しても、という意味になる。これ以後、政府と軍の首脳部は、戦争終結を具体的に視野に入れて動くことになった。
 そしてそれはあくまで下部には秘密とされた。明らかに不利な条件で講和したりすれば、まして降伏と言うことになれば、軍が、特に陸軍がクーデターを起こす可能性がある。そこまではいかなくても、上層部が戦争への意欲をなくしたとわかれば、兵は自暴自棄になって、軍は統制を失いかねない。それでは、講和を待たず、大日本帝国は自壊する。
 当然ながら、このときの軍首脳の立場は、非常に微妙かつ深刻なものであった。日本軍の最高首脳には二種あった。一つは内閣中の陸・海軍省の長である陸・海軍両大臣。それとは別に、統帥部とも呼ばれる、全体的な作戦立案と実行を司る陸軍の参謀本部と、海軍の軍令部、この二つでほぼ、戦争に関する最高統括機関としての大本営が構成される。その長である参謀総長と軍令部総長は、大元帥たる天皇を「輔翼」する者として、内閣や議会から独立した実力者であった。
 そのうちの参謀総長が、極秘のうちに天皇に日本軍の装備について真実を告げた。これはどういう心境からか。山本は、梅津こそ実は早期講和論者であり、自分の報告が天皇及びその側近にどういう影響をもたらすか、十分承知の上でしたのだ、としている。最も好戦的だと考えられていた陸軍のトップから、戦局に関する悲観論が出たのでは、いよいよ具体的に講和を進めなければならない、という気分になるだろうから(山本、P.167~168)。
 梅津こそ「腹芸」をやっていた張本人だった、というわけである。そうかも知れない。そういう芸当なら、陸軍きっての俊英であり、昭和19年7月にそれまで首相・陸相・参謀総長を兼任していた東條英機の後に参謀総長になると、そのまま終戦まで務め、最後には天皇直々の希望で重光葵とともに降伏文書に署名した梅津のほうが、阿南陸相より確かに相応しいようである。
 江藤淳監修、栗原健・波田野澄雄編『終戦工作の記録(下)』(講談社文庫昭和61年)には、戦後に豊田副武(そえぶ)軍令部総長が、占領軍参謀第二部(G-2)歴史課の求めに応じて語った「陳述録」が収められている。そこでは、「阿南も梅津も胎の中では受諾已むなしと考えて居たことと思うが、陸軍部内には本当にポ宣言の受諾には反対する強硬気分があつたように私は観測して居た。それで両将軍共あの条件で和平を受諾するには困難な立場に置かれて居たように見えた」とある。
 ではその豊田こそ純粋な継戦派なのかというと、そうではない、と言う。自分が主張したのは四条件のうち武装解除、それもその方法に関してだけだ。降伏を円滑に成し遂げるためには、日米双方が十分に用心してかからねばならないから、その点で留保をつけたのだ、と。それならどうして阿南・梅津に同調するかのような態度をとったのかというと、米内光政海相があまりにハッキリ和平派の立場を鮮明にしていたので、同じ海軍の自分までそうしたら、陸軍対海軍の構図になってしまう。
「陸軍にソッポをむかせないようにする為には海軍も譲歩して和平に同意するのだから陸軍も同意しなさいと云う風に導いて来ることが肝要と考えた」(P.377)。情勢判断としては、もうとても戦争を続けられないと思う点では、米内海相と完全に一致していた。また、陛下もそのようにお考えである以上、自分が、本心とは裏腹に反対申し上げても大勢に影響はないと考えた、とも。
 「陳述録」は「マッカーサー戦史」編纂のための資料集めとして聞き採り調査されたもので、東京裁判などとは無関係だが、それにしても、この豊田の陳述は、戦後に道徳的責任逃れのためにした下手な言い訳だ、と思う人も多いだろう。が、私は、下手なだけに、部分的には真実ではないか、と感じる。自分の意見の客観的な正しさより、その場の「バランス」をとることを重んじる者は、学校というある意味非常に日本的な組織の中で(日本だけではないかも知れないが)、何人か出会った覚えがあるから。またこれは、丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」などで摘出して見せた、戦争開始時の政府・軍指導者たちの傾向とも一致する。
 しかし、そうだとすると、終戦間際の戦争継続派として知られている三人は、誰一人として本気でそう希望していたのではないことになる。これはいったいどういうことなのか。外国人はもとより、私を含めた現代日本人にも容易に理解できない事態であろう。これが考えるべき第二のポイントである。

 上記を頭に置いて、最初の「御聖断」を改めて考える。
 御聖断による事態収拾は具体的にはいつどのように準備されたのか。当事者たちの回想も若干錯綜している。一級資料であるはずの『木戸日記』にも、一番肝心なことは故意か偶然か、記されていないような感じになっている。
 最初に頭の整理のために、9日から翌10日の未明にまで及んだ一連の会議の流れを下村海南(宏)『終戦秘史』(講談社昭和25年、後に講談社学術文庫)から抜き書きしておく。
 第一回戦争指導会議(九日午前十時半より三時間余にわたり議決せず休憩)
 第一回閣議(十四時半開会 十七時半休憩)
 第二回閣議(十八時半開会 二十二時休憩)
 第二回戦争指導会議(二十二時五十分開会 十日午前二時半散会)
 第三回閣議(十日午前三時開会 四時散会)

 しかし、これまた日本の組織ではままあることだが、最も肝心なことは会議以前に決められていたと思しい。
 半藤一利『聖断』(PHP研究所平成15年。後にPHP文庫)には、「少数の、資料的価値のやや劣る書には、九時十五分、あわただしく参内した鈴木首相から【天皇が】報告を聞いた、とある」。この時天皇と鈴木貫太郎の間で、二回目の最高戦争指導会議を御前会議にする相談があったとする推定は十分成り立つ。
 迫水久常内閣書記官長の回想『機関銃下の首相官邸 二・ニ六事件から終戦まで』(恒文社昭和39。後にちくま文庫)に、第二回閣議の終了時に、「かくなる上は、ご聖断をあおぐほか途はないと思います」と述べて、鈴木から「実は、私は早くからそう思っていて、今朝参内のとき、陛下によくお願いしてある」と言われた、とある。他方東郷茂徳外相の回想『時代の一面』(改造社昭和27、後に中公文庫)には、同じく第二回会議後、即ち夜の10時過ぎ、鈴木に伴われて拝謁し、それまでの会議の経過をご報告した、そのとき鈴木が二回目の戦争指導会議を御前会議とすることをお願いした、とある。これが初めての「お願い」だとしたら、いくらなんでも急過ぎる。鈴木のこの時お願いは、「改めて」、あるいは「正式に」であったろう。
 ただ、誰がどう言ったかだけの話より、行動が伴っている回想のほうが、信憑性が高いように思う。やったことを他の人が見ているからである。耳だけより、目も働いていたほうが、印象が強いものだ。
 御前会議の開催には、首相、参謀総長、軍令部総長の署名花押のある書面で宮中にお願いする慣例になっていた。迫水は午前中にそれをもらっていた。つまり、鈴木はこの段階で御前会議開催の腹づもりでいたのである。一方両総長にはこう言った。署名花押をもらうためにはどうしても面談しなくてはならず、時間がかかってしまう。連絡は電話ですむ。「御前会議をお願いする場合には必ず事前にご連絡申し上げてご承諾を受けます」から、と。
 それでいて軍の承認は求めず、御前会議開催のみを伝えた。迫水の元へは抗議のために大勢の陸軍軍人がつめかけた。阿南陸相もやってきた。迫水は、この会議は最高戦争指導会議構成員の意見を直接陛下に聞いてもらうためのものだ、と説明した。皆不満ではあったが、陛下から会議の招集があった以上、逆らうことはできない。
 迫水はこれはみんな自分の独断でやったことだと書いているが、こんな危ない橋を渡るからには、鈴木のみならず、天皇も早い段階で御前会議、さらにはご聖断まで承諾していたと考えるべきだろう。
 一方、上記一連の会議には直接関係がない木戸内大臣も多忙を極めた。【念のために注記。内大臣とは、内閣中の内務大臣とは別で、内大臣府の長である。略称は前者の内相との区別のため、内府。宮中と政府との連絡調整が主な仕事であったが、昭和期、以前の元老に代わって、重臣会議を主宰し、総理大臣の指名にも中心的な役割を果たすようになり、絶大な権力を持った。また昭和15年からこの職に就いていた木戸幸一は天皇の側近中の側近とみなされていた。】
 『木戸日記』9日の記事(P.1224)から当面必要なことだけ摘記すると、9時55分から10時まで拝謁、ソ連が参戦した以上、戦局の収拾につき急速に研究決定の要あり、首相と充分懇談するようにとの御言葉をいただく。
 10時10分、即ち第一回戦争指導会議の直前、首相と面談。陛下の思召しを伝え、ポツダム宣言を使って戦争を終結に導くこと等を力説した、と。もし上の半藤の推定が正しいなら、鈴木にとっては「今更」であったろう。「十時半から最高戦争指導会議を開催、態度を決定したし」とだけ答えた。
 午後になると、この時は閣僚ではなかったが、政界の有力者ではあった近衛文麿・重光葵たちのラインからの働き掛けがあった。以下、「重光葵手記」(『中央公論』昭和61年4月号)の記述を、『木戸日記』と照らし合わせて整理する。
 まず1時に近衛が訪ねてきて、戦争の早期終結に向けて陛下の御親裁をお願いしたい旨の申し入れがあったが、木戸は「それは政府のやるべき事である」として聞き入れなかった。
 その後1時半に鈴木から、午前中の最高戦争指導会議では、四条件をもってポツダム宣言を受諾することに決定した、と報告された、とある。今日知られているこの会議の実態は、「議決せず休憩」の状態で、議論は午後の閣議に持ち込まれていた。それをこう報告したのは、あるいは鈴木の策略であったかも知れない。事態がこのように伝わったおかげで、閣外の和平派が一斉に動いた。前記近衛の申し入れも、その一環であった。たぶん迫水のラインから、鈴木の「報告」より前に、近衛はこのことを知ったのであろう。
 次に、2時45分、高松宮が、電話で、条件付きでは連合国は拒絶とみなす虞がありとして、その善後策を述べた。上の近衛の訪問はこの宮の意向によるものでもあったので、同じ内容を告げたと思われる。
 さらに近衛は、木戸と親しい重光に説得工作の続きを頼む。木戸と重光は4時頃に会う。木戸は強い口調で言った。

「君等は何でも彼でも、勅裁、勅裁と云って、陛下に御迷惑をかけ様とする。一体政府や外務省は何をして居るか。陛下の勅裁で漸く平和終戦の途が付いた。之を如何(いかに)措置して行く位は責任者たる政府でやるべきだ。(後略)」(『終戦工作の記録(下)』P.380より引用)

 平和終戦に関する「勅裁」とは、おそらく、6月22日の「懇談会」での御発言を指すと思われる。木戸はこれくらいが天皇にできる限度だ、と思っていたようだ。自身の発案になるソ連への特使派遣にしても、鈴木首相が近衛に依頼した体裁になっている。誰の目にも明らかな形で、陛下自身の御判断によって、政治上の重要事を決めるのは、二・二六事件の時を唯一の例外として、明治帝の時代まで遡っても、他にないことである。
 これがつまり日本独特の立憲君主制である天皇制の常道であり、政府上層部はすべて、暗黙の裡に心得ていた。誰にも言われずとも、それを体得しているのが、帝国政府首脳に席を連ねるための条件であった、と言ってもよいだろう。だからこそまた、この時の天皇の具体的な動きについては、誰一人明白な記録は残さず、戦後の回想でも言うことはなかったのではないだろうか(ただし、『昭和天皇実録』は私は未見)。
 重光も当然それは心得ていて、木戸の言はもっともだと思ったが、引き下がらなかった。この土壇場へきて軍部の意向を覆すには、陛下に頼るしかない。必死の説得に木戸も折れて、「解った。直ぐ拝謁を願うことにしよう」と言って退席した。三、四十分後に戻ってきて、「陛下は万事能く御了解で非常な御決心で居られる。君等は心配はない」と告げ、さらには「今夜直に御前会議を開」くようにしようとまで言った。
 この拝謁は『木戸日記』には4時35分から5時20分までのことと記されてしている。内容はわからない。ここで御前会議、さらには聖断まで決めたとすると、微妙な時間帯である。すでに決まっていたことについての、迷いを吹っ切る機会になった可能性はある。もっとも、どちらかと言うと、迷いは木戸のほうに多くあったかも知れない。その推定の理由は、上の通りである。

 ついに、御前会議は開かれた。それはこんなふうに進んだ。
 ① 迫水内閣書記官長がポツダム宣言を読み上げる。
 ② 東郷外務大臣発言。一条件のみにて宣言を受諾すべきである、と。
 ③ 米内海軍大臣発言。短く、外相に賛成、とのみ。
 ④ 阿南陸軍大臣発言。外相に全く反対。国体護持のために他の三条件は絶対に必要であり、それが容れられないなら、七生報国の精神を持って戦い続けるのみ、と。
 ⑤ 梅津参謀総長発言。陸相に同意。本土決戦になれば、死中に活を求める機会は必ずある、と。
 ⑥ 平沼枢密院議長発言。他の出席者に詳しく質問してから、一条件を「天皇の国法上の地位」から「天皇の国家統治の大権」に修正するよう外相に申し入れ、後は概ね外相に同意。
 ⑦ 豊田軍令部総長発言。ほぼ陸相・参謀総長に同意。

 ここで鈴木総理大臣が立ち上がった。自分の意見を言うのかと思えたが、そうではなく、玉座のほうへ進んだ。阿南は、「総理」と声をかけた。鈴木は、「前例もなく、まことに畏れ多い極みながら、陛下の思召しを伺ひ、それに基いて会議の決定を得たい」という主旨のことを申し述べた。天皇は鈴木に席にもどるように言った。鈴木の耳は遠く、二度繰り返さねばならなかった。そして、命令でも懇談でもなく、自身の意見を表明した。「私の意見は、外務大臣の案に賛成である」と。
 「念のために理由を言う」として天皇が言われたことを一番手短にまとめると、軍はあてにならない、日本はもはや戦争を続けられるような状態ではない、となる。それはみんなが知っていた。問題はその事実をどう認め受け入れるか、だった。
 米内海相のように、きわめて率直に認めている軍人もいたが、それは少数であった。すべてが終わってから振り返れば、そんなのは悪あがきに過ぎない、とも見える。天皇の目からさえ、そうだった。しかし、どこの国でも、軍人とは国家の栄光という物語(フィクション)を生きるべき、とされる者だろう。そうでなければ、戦争なんて延々とやっていられるものではない。
 ことに大日本帝国軍人は、国家元首であり大元帥である天皇に直結し、文字通り、フィクションとしての国家の中枢を担う存在であるはずだった。そう教えられていた。例えば、明治15年の軍人勅諭(正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」)にはこうある。

汝等皆其職を守り朕と一心(ひとつごころ)になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいわい)を受け我国の威烈は大いに世界の光華となりぬへし

 昭和20年の客観的な情勢では、蒼生の福も我国の威烈も失われたと言わざるを得ない。だからと言って天皇との「一心」ももはやない、となれば、軍人のレゾン・デートル(存在理由)は完全に破壊される。軍人たちが自分の命はもとより他の何者を犠牲にしても守らねばならぬ、とした「国体」の核心はつまりこれであった。だから、その代表たる阿南、梅津らは、ただ継戦派を宥めるためというなら不必要なまでに、和平に反対しなければならなかった。
 即ち彼らは、「本心」などというものより、この立場に忠実であろうとした。誤解を恐れずに言えば、役割を演じることを第一としたのである。それは、天皇も同じことだった。
 考えてみれば天皇家は、大日本帝国以前から、摂関政治や武家社会などの、政体の変更に関わらず、連綿として続いてきている。もっとも「軍人勅諭」では、兵馬の権も政治の大権も天皇から失われたそのような時代は「我【が】国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と言っているのだが。ともかく、軍から離れた天皇家は現にあった以上、この未曾有の危機に際会して切り離すもまたやむを得ない。それによって天皇家の存続というぎりぎりの「国体」が守れるのなら。天皇だけではなく、天皇家に最も近い存在の近衛文麿もそう考えた。そこで、「敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なし」としたのである。
 ただ、大元帥でもある天皇の役割は、そんなに簡単に捨てられるものではない。武装解除と、戦争責任者の処断を相手に委ねることによって、軍は精神的に死ぬ。またそれは天皇の大権に属するはずであり、敵の手に譲り渡すなら、天皇はもはや帝王ではない。即ち、大日本帝国もまた、ここで死ぬ。一種のクーデターが行われた、と見ることもできる。
 で、あればこそ、それを成し遂げるのは、天皇自身以外にありようがなかった。

 芝居好きの私としては、この終戦決定というドラマを演出したのは誰だったろう、とつい考えてしまう。
 鈴木貫太郎にだって、完全に見通せたはずはない。彼は9日の一連の会議ではほとんど自分の意見を言わず、議決も取らなかった。御前会議の出席者各自の考えには大きな隔たりがあったことは、前回と今回見てきた通りである。それを大雑把に和平派対継戦派で三対三の同数、と見える形にして、陛下に最後の決断を仰ぐ。ギリシャ悲劇「オレステイア三部作」の結末に近い現実が、現出した。いかなる人間の知略をもってしても、こんなことを成し遂げられるはずはない。
 つい、天の配剤ということを考えたくなる。しかしそれも、当事者個々人が、胸の中の思いとは別に、巨大なドラマの一登場人物としての役割を全うしようとしたからこそ、見えてきたものであろう。

 これも迫水の回想によると、御聖断が下された宮中の地下防空壕から退出する道すがら、吉積正雄軍務局長が「総理、約束が違うではありませんか」と鈴木に詰め寄った。阿南が「吉積、もういい」と言ってそれを押しとどめた。
 どんなに遅くてもこの時点では、阿南も和平派の工作に気づいていたろう。それは近衛や鈴木たちの意向によるものだろうが、天皇の意思もいくらかは入っていたに違いない。ならば、抗議しても仕方ない。彼らによって用意された舞台の上で、ひと踊りして見せるまでのことだ。そんなふうに考えたのではないだろうか。
 そこで、陸軍の抵抗はまだ続いた。継戦派も和平派も、誰よりも天皇が絶対に譲れぬ条件とした皇室の安泰についても、アメリカは明白な言質を与えることを避けた。ならば降伏できない、と14日までねばり、今度は全閣僚の前で、再度の御聖断を仰ぐことになる。
 こちらの御聖断については手短に、有名な「自分は如何になろうとも万民の生命を助けたい」というお言葉についてふれたい。古川隆久や鈴木多聞など、若手の研究者は、これは下村宏情報局総裁によって作られたフィクション(作り話)だとしている(古川P.307)。鈴木多聞は、天皇がそんなことを言ったら「無神経」だ、とも(鈴木P.185)。天皇がどうにかなる危険があるとしたら、日本人にとって軽い問題であるはずはなく、結果まだ抗戦を続けたい軍人たちに口実を与えることになってしまうから。
 たぶん、それが正しいのだろう。そういうところから、昭和天皇は自分が助かりたい一心ですべての戦争責任を軍に押し付け、国民の命は口実に使っただけだ、と言う人もいる。私は、終戦の詔書にある「帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ」は、天皇の真意に即したものだと信ずるが、人間の「真意」なんてものを過度に論ってもしかたない、とも思う。それは、すぐに変わって、本人が後から思い出そうとしても難しくなるようなものでしかないのではないか。
 終戦前後のお言葉を伝える各種の資料からは、三種の神器の保全を含む皇室の維持が第一で、国民の安寧はそれに次ぐ、とお考えなのだな、とも確かに思える。現代的な、生命第一のヒュ-マニズムからすると、それ自体許し難いとする人がいるのは無理もない。ただそれは、前者こそ、日本の歴史の中で自分にふり当てられた第一の役割なのであるから、懸命に果たそうとされている御姿の現れである。こういう使命感に支えられていなかったら、この時期、正気を保つことさえ難しかったのではないだろうか。
 そして忘れてはならないのは、皇統の存続を第一とするのは天皇だけではなく、立場の違いにかかわらず政府の全員だったという事実である。歴史もまたフィクションだが、それを共有しているという思いが、「国民」の、つまりは「国」の実質を作り、戦争も起こすが、また最低限の誇りを保って粛然と降伏もできるようにする。この事情は、国家がある限り、社会が変わっても、今後も続くであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その7(敗北を受け入れるまで)

2015年08月28日 | 近現代史
メインテキスツ:日米関係資料集1945-1960(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室作成データベース「世界と日本」中のウエッブページ)



 原田眞人監督「日本のいちばん長い日」(以下、「原田版」)を見た。昭和42年の岡本喜八監督による同名映画(以下、「岡本版」)のリメイクかと思ったら、そうとは言えない。岡本版の原作は昭和40年に大宅壮一編『日本のいちばん長い日――運命の八月十五日』として文藝春秋社から出版された(後に角川文庫に収録)ものである。これは本来、当時『文藝春秋』誌の編集部次長であった半藤一利の筆に成ったものであって、平成7年半藤の著作として同じ版元から同じ書名、ただし「決定版」として、改めて刊行された(後に文春文庫)。原田版はこれを原作としている。
 岡本版は昔、8月15日前後に毎年のようにTVでも流された(近年では高畑勲監督「火垂るの墓」がその地位に取って代わったようだ)から、それを含めれば五回は見ていると思う。鈴木貫太郎といえば、笠智衆演じる岡本版のイメージが私にはこびりついている。原田版の山崎勉は、より老獪さを出しており、これはこれで悪くないのだが、あのとき日本をポツダム宣言受諾=終戦に導いた人物としては、少なくとも見かけ上、愛読書であったという「老子」の「無為天然」を地で行くふうこそ相応しいような。
 もっともこの感覚自体、映画などからもたらされた「終戦の日」のイメージがしからしめるのかも知れない。
 このイメージの中心にいるのは、宰相鈴木ではなく、「身はいかならむとも」国民を救いたい、と言っていくさを止めた聖王の御姿であろう。長谷川三千子『神やぶれたまはず』は、この神話を描破した名著である。
 「神話」というのは、我々戦後日本人の精神の根底に横たわるイメージ、ぐらいの意味で使ったのだが、「歴史的事実」として見ても、大枠ではこれでまちがいないのであろう。しかし、『神やぶれたまはず』に対する長々しい書評もどき(「その1」~「その3」「その4」に分けて美津島明のブログ『直言の宴』に掲載)でも言ったように、それで能事足れり、とするにしては我々は余計なものを抱え過ぎている。無視したままでは、今後日本の躓きの石になるかも知れないような。
 今回の記事は歴史叙述でも映画評でもない。日本人は二度の御聖断によって大東亜戦争の敗北を受け入れ、それまでの近代史を巨大な悲劇としてしめくくった。この期において、現代の我々から見て意味不明の謎、あるいは、解決、はできなくても、気にかけるべき課題、として残されたようなものには何があるか。当然あくまで私の眼に映じた範囲でしかないが、それをいくつか拾い上げようとする作業の一部である。
 長らく手をつけかねていたのだが、二つの映画がきっかけを与えてくれた。感謝申し上げる。

 岡本版はポツダム宣言(以下、『宣言』)がもたらされた7月27日から始まり、これをプロローグとして、8月14日の御前会議で、ほぼ正午に語られたという天皇の「御錠」の前にタイトルが入って、翌15日正午に玉音放送が流れるまでの文字通り24時間、日本政府と陸軍内部で何があったかを描いている。
 原田版はもっと遡って、4月5日、小磯内閣の後継首班として鈴木貫太郎が指名された時から始めている。鈴木は固辞したが、天皇から「政治に経験がなくてもよい。耳が聞えなくてもよいから、ぜひやってくれるよう」と言われ、やむなく承知する。
 ここは半藤著ではなく、角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』(新潮社昭和55年。後にちくま文庫)に依っているのだが、原田はこのとき天皇に、「お前と阿南(天皇はなぜか『アナン』と呼んだ)がいた頃は楽しかった」と言わせている。
鈴木は昭和4年から11年まで侍従長を務め、阿南惟幾は昭和4年から4年間侍従武官としてお側近く仕えている。しかしこのお言葉は角田著にもどこにもなくて、脚本も手掛けた原田の創作である。その意図は、昭和天皇、鈴木貫太郎、阿南惟幾の三者を軸にこの映画作品は作られる、と最初の段階で明らかにするところにある。
 実際、原田版は、キャスティング表からしても阿南が主役であり、より群集劇に近い作りの岡本版(脚本は橋本忍)とはこの点が一番異なる。にしても、三船敏郎演じる阿南には圧倒的な迫力があることは確かだが。
 さて、原田版の、角田著に基づく場面はもう少し続く。鈴木は阿南に陸軍大臣就任を依頼すべく、陸軍省に赴く。陸軍の三幹部、杉山元前陸相、梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監は、次の三条件を付して阿南入閣を承諾する。①あくまで戦争を完遂すること。②陸海軍を一体化すること。③本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。
 まとめると、戦争をやめない以上必然となる本土決戦には、完全に陸軍中心でいってもらう、ということである。鈴木はこれをあっさり了承する。終戦4か月前にして、日本はそれが当然と考えられるような状態だった。原田版はごく簡明にこれを示し得ている。
 その後で、岡本版の冒頭に追いつき、『宣言』になる。今回はこれを中心にして述べる。

 昭和天皇が鈴木内閣に期待したのは和平交渉であったろう。しかし、何をする暇もなく、世界の政局・戦局のほうが激しく動いた。
 まず、組閣の5日後の4月12月に米大統領F・ルーズベルトが亡くなった。鈴木は友好国の国家元首向けと見紛うばかりの丁重な弔電を贈っている。同月25日、敗戦後のイタリア北部で抵抗を続けていたムッソリーニのイタリア社会共和国が瓦解、28日にはパルチザンに捉えられたムッソリ-ニは即日処刑される。30日、ヒトラーが自決、後を受けたカール・デーリッツ大統領は5月7日に降伏。細かい事務手続き上のことを除けば、ヨーロッパ戦線での第二次世界大戦はこのとき終了したのである。
 ことここに至ってもまだ、日本が簡単に降伏するとは連合国軍ではほとんど誰も思っていなかった。ドイツでもそうであったように、日本本土での戦闘が必要だろう、と。日本もそのつもりでいたことは前述の通り。
 しかし、硫黄島や沖縄での日本軍の頑強な抵抗は、連合国にとってのこの見通しを暗いものにした。日本国内にまだ陸軍だけで二百三十万余の兵力がある他、支那大陸に百万人超。これらをすべて撃破して勝利を得るまでには、アメリカ軍の損耗は兵士百万人にも及ぶだろうと見積もられた。
 なるべくならその前に降伏させたほうがよい、という思惑は、米政府上層部で、6月頃から浮上した。ただし、無条件降伏でなければ、日本への敵愾心に燃えた連合国国民を納得させることはできない。そのために有効な手段は二つ。原爆投下と、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の対日戦争開始。このどちらか、あるいは両方が必要であろうと予想された。
【少し後になると、米新大統領トルーマンは、日本占領政策、ひいてはアジア戦略に対するソ連の影響力が高まることへの警戒心から、ソ連参戦を喜ばなくなる。第二次世界大戦後のいわゆる冷戦構造の、アジア版はこれを端緒とする。】
 7月2日、米陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンは、ポツダムへの出発間際のトルーマンに、自らが起草して各方面の検討・訂正を経た「対日警告草案」を手渡した。その第十二条は、藤田宏郎「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言」によると、

 われわれの諸目的が達成され、かつ日本国民を代表する性格をもつ、明らかに平和的志向と責任ある政府が樹立された時には、連合国の占領軍は直ちに撤収されるものとする。このような政府が再び侵略の野望いだくものではないことを世界の諸国民に完全に納得させることができたならば、前記は、現皇統のもとにおける立憲君主制を含みうるものとする。

 この文書は『宣言』の原型になったものだが、実際の『宣言』からは、後段の、天皇制に関する部分は削除されている。スティムソンや国務次官ジョゼフ・グルーは、これがあれば日本人は降伏勧告を受け入れやすくなる、と主張したのだが、この時点では米国民の六割以上が天皇を戦争犯罪人として処罰することを望んでいた。その時期に、日本に多少なりとも譲歩したと見えるような措置をとることは避けたい、とする新国務長官(7月3日就任)ジェームズ・F・バーンズなどの意見が最終的に通った結果である、と藤田は述べている。
 これに対する日本の対応。公式な外交文書ではなく、ラジオと新聞を通じて「日本国民」に呼びかけた『宣言』なのだから、秘密にしておくわけにはいかず、政府として態度を明らかにする必要があった。28日鈴木首相は記者団に次のように声明した。

「あの共同声明はカイロ会議の焼き直しであると考えている。政府としてはなんら重大な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」(半藤著より引用)

 この「黙殺」はしばしば話題になる。外務省としては、「静観」あるいは「黙過」ぐらいにすることを望んでいた。それにまた、この語はignoreあるいはrejectと訳されたのだが、これはむしろ誤訳であって、「黙殺」はそれらの英語よりずっと軽いニュアンスである、という人もいる。そうですか?
 いずれにもにせよ、これは大した問題ではない。『宣言』は日本に降伏を促している。それに対して戦争を遂行する、と言っているのだから、明らかな拒否という以外にない。
 それより、スティムソンの原案にあった天皇に関する言及が残っていたら、日本側の対応は違っていたかも知れない、という可能性のほうが大きいであろう。その後の展開を見れば、自然にそう考えられる。
 ただしそれでも、この時点で日本がすんなり降伏を受けいれたとは考えづらい。本音の部分では日本の勝利の見込みはないと政府も軍の中枢の大多数も思っていたろうが、ソ連の仲介によってできるだけ有利な条件で和平を結ぶ、という一縷の望みは抱いていた。と、言うより、それ以外に局面打開の途はなかった。
 そのソ連は、『宣言』に署名せず、日ソ不可侵条約はまだ残っていた(ソ連は4月には廃棄を通告していたが、それは延長しないということで、条約自体は後1年は有効であるはずだった)のに、2月のヤルタ会談でヨーロッパ戦線終了後の対日開戦を密約していた。また、原爆投下も米政府内で決定済みのことだった。この時点で、日本の希望の芽はことごとく摘まれていたのである。
 8月6日、広島に原爆が投下され、9日にソ連が宣戦布告するに及び、日本は史上初の敗戦に向けた、「いちばん長い一週間」を迎えた。争論の主題は「国体」。それは本当は何なのか、日本人がこのときほど真剣に考えたことはなかった。
 首相は最高戦争指導会議(構成員は首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の六名)、次いで閣議を招集。前者の冒頭で彼は、「これ以上の戦争遂行は不可能であると思う」と述べた。思っていても公には口に出せない「空気」がここで破られたのである。
 そうなってみると、軍部代表もまた、現実に勝利の目算は立たないことはあっさり認めた。それでも、必ず負けると決まったわけではない、「死中に活を求める」ことはできるかも知れない、などとは言ったが、具体的な戦略などは全く提示できない。結果徹底抗戦論は棚上げされ、議論の焦点は『宣言』受諾=降伏するにしても、どのような条件を付するか、になった。
 それは、①国体護持②自主的戦犯処罰③自発的武装解除④可及的小範囲短期間進駐、の四つが考えられた。東郷茂徳外相や米内光正海相は、これを全部提出すれば米国に「黙殺」されて終戦の機会を失うとして、①だけを提示することを唱え、阿南陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は四条件に固執して譲らなかった。
 『宣言』は無条件のものか、条件付きなのかは、現在まで議論があるが、その第五項に「吾等ノ条件ハ左ノ如シ。吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス」とあって、代替案はなし(There are no alternatives)とは言うものの、こちらから新たな条件を付与することまでだめだとは言っていないし、「遅延ヲ認ムルヲ得ス」(We shall brook no delay.)と言っても日限を切っているわけでもない。交渉の余地がないわけではない、と思われたのも無理はない。
 実際、上の四箇条には、『宣言』の文言とは正面から衝突しないように気を使った気配はある。『宣言』第十三項「吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ」(この「無条件降伏」はunconditional surrenderであって、第五項の「条件」termとは区別されている)には、誰が日本軍の武装解除をするかまでは書かれていない。同じく第六項「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者」でも第十項「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」でも、誰が誰をそのような戦争責任者及び犯罪者と認め、誰が処罰するのか、文章上の主語はない。
 一番の問題は第七項「聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ」であろう。東京を占領地から外させろという主張もあって、それでは明らかに「聯合国ノ指定スヘキ」points in Japanese territory to be designated by the Alliesに背馳する。具体的な場所は言及せず、占領はできるだけ小範囲に短時間のうちにやってくれ、というだけの希望ないし要求なら、「条件」termを変えろ、とまではしていない、と言うことはできる。
 と、書いているうち私自身にも改めて得心されたのだが、上の言い草は三百代言、というか、「ヴェニスの商人」の人肉裁判におけるポーシャ判決のようなものであろう。アメリカを怒らせることはあっても、交渉の余地が生じるなんてことは到底期待できない。
 すると阿南以下は、無理な要求によって『宣言』に基づく停戦交渉をぶちこわし、戦争継続に持ち込むことを狙っていたのだろうか。そうかも知れない。最高戦争指導会議後の閣議の最中に長崎に第二の原爆が落とされたが、阿南は、捕虜の米兵から聞いたという、「原子原爆はなお【アメリカに】百発あり一か月に三発できる」なんぞというデマを披露し、それでも「大したことなし」と気を吐いている。【このあたりは主として鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』(東京大学出版会平成23年)に依った。】
 あるいはまた、戦争継続まではともかく、軍人の最低のメンツは守らねばならぬ、というのが彼らの根本の動機だったろうか。四条件のうちの②と③からすれば、そうも見える。「軍人達は自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除に付て、反対したのは、拙い事であつた」と天皇も『昭和天皇独白録』(文藝春秋平成3年。後に文春文庫)で言っている。
 さらに別の見方もできる。6月22日の最高戦争指導会議で、天皇は、「これは命令ではなく懇談」としながらも、早期終戦の希望を明らかにしていた。この時点では天皇以外でも、何人かの過激な軍将校を除けば、誰も、戦争継続など望んでいないことは、阿南たちにもわかりきっていたはずである。それでも軍代表として、徹底抗戦路線を捨て切ってはいない姿勢を保つ。そうすることで、健軍以来不敗の神話を誇りとする軍人たちを宥めつつ、終戦へと日本をソフトランディングさせることを期したのではないか。
 角田著によって一般に知られるようになり、原田版の映画にも取り入れられた阿南の「腹芸説」である。これについても、そうかも知れない、としか言えない。

 閣議は延々7時間に及んでもなお決着がつかず、夜中の11時をまわっていたが、首相は改めて最高戦争指導会議を開くことを提起した。出席者は正規の六人に平沼騏一郎枢密院議長を加え、他に発言権のない幹事として迫水久常書記官長(これは通例)と、陸海両軍務局長、綜合計画局長官の計四名が陪席した。
 平沼を入れたのは、条約締結(『宣言』受諾はそれとほぼ同等)には枢密院の諮詢を経なければならないことになっていたので、一応その長の了承を得る形にするためであった、と昭和46年の迫水の回想(『別冊正論24』に「終戦御前会議 二度も示された国民護持の聖慮」のタイトルで収録されている)にある。また、両軍務局長は、軍を蔑にしたのではないという、これまた形をつけるため、通例より多い軍関係者を出席させたのだろう、とこちらは長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社平成18年、後に中公文庫)で推測されている。
 そのうえで、軍部には事前になんの予告もない不意打ちで、天皇の臨席と発言を仰ぐ。すべて鈴木、東郷、迫水等の周到な計画によるものであった。
 よく知られているように、この席上、天皇の「御聖断」によって、国体護持のみを条件とした『宣言』受諾が決定した。
 しかしこの受諾を先方にどう伝えるかがまた問題であった。東郷外相は外務官僚に命じて会議以前にもう原案を用意させており、そこに「右宣言は天皇の国法上の地位を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」とあったものを、平沼が強硬に主張して、「天皇の国法上の地位」を「天皇の国家統治の大権」に変えさせた。
 天皇の地位は神聖なものであって、法律の規定に依るものではない、という国体観のしからしむるものであった。平沼は法律家であって、軍隊の処遇などには無関心であり、その点では東郷たちの側に立ったのだが、このこだわりは譲れなかったのである。
 最終的な「天皇の……了解の下に」部分の英訳with the understanding that the said Declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler.
 「変更する」にprejudiceを当てているのにはちょっと感動する。辞書によると、この語を動詞で使うと、「偏見あるいは悪意をもって何かを変える」の意味になる。公平に、好意的に、天皇の大権(prerogative)を見てほしい、という願いが込められているのだろう。この時期の外務省も、天皇制が守られないなら戦いをやめることはできない、と本気で思っていた証拠である。

 アメリカからの回答は、12日になったばかりの深夜0時過ぎ、まず短波ラジオでもたらされた。これは通例「バーンズ回答」と呼ばれる(正式名称は「米英ソ中各政府の名における8月11日付アメリカ政府の日本国政府に対する回答」)。その夜のうちに文書化されたものを読んで、最初東郷も迫水も落胆した。そこには天皇の身の安全や天皇制の保持については、ほとんど何も書かれていなかったからである。
 僅かに末尾に近くに「日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」とあって、これは文字通り『宣言』の第十二項「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」を繰り返したに過ぎない。それ以上の約束は拒否している、とも受け取れる。
 しかし、やがて彼らは気を取り直した。「ものは言いよう」を逆に使って、アメリカの「言いよう」から、直接はいわれていない「もの」があることにすればよい。つまりこうだ。アメリカは、天皇の身体と天皇制を保全するとは言っていないが、拘束したり廃絶したりするとも言っていない。国民が天皇制存続の意志を「自由に表明」したなら、それで文句はないはずである、と。
 また、と、以下は各種文書にはない、私の頭の中から出てきた付け加え。最初の「降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」にしても、降伏して占領される以上統治権が占領者によって制限されるのは当たり前の話である。そしてこの場合制限する側の「連合国最高司令官」には関係代名詞がついていて、「降伏条項を実施するために必要と認められる措置をとる」のが仕事であって、やがてその仕事が終われば、『宣言』第十二項によって引き上げることまで明記されている。そうなれば「制限」も自然に取れ、日本の政体(=国体、か?)は元に戻る、とまでアメリカは約束している、と考えられる。
 さらにまた、中間の降伏の仕方に関する文章は、英語でも日本語でもひどく入り組んでいてわかりづらいのだが、要約すると天皇に要求されることは次の三つらしい。①降伏文書調印の権限を政府と大本営に与えて保全すること。②内外日本軍当局に降伏を命じること。③連合軍最高司令官が降伏条項を達成するために適当とする命令(orders)を出すよう軍当局に命令(commands)すること。これからすると、戦争に関する天皇の権限は間接的であることをアメリカは理解していたようだ。ならば、天皇の戦争責任を問う可能性はその分低くなりそうにも思える。
 以上は私の妄言に過ぎないかも知れない。が、実際に出てきた反発は、これに劣るとも勝らないものだった。
 最初の部分にあるsubject toを、外務省は上記の通り「制限ノ下ニ置カルル」と訳したのだが、辞書を引けばこの言葉には「隷属する」という訳語もある。神聖な天皇が外国に隷属するとは何事か、と陸軍が騒いだのである。自分たちが東南アジアなどの占領地でやったことを、今度は日本がやられるだけ、などと言うだけで不敬として殺されそうなのだから、仕方のない話ではある。
 一方、前出迫水の回想によると、13日の閣議では平沼が次のように主張した。

「日本の天皇の御(おん)位置は、神(かん)ながらの御位置であって、日本国民の意思以前の問題である。然(しか)るに先方の回答は、そのことを理解しないで、日本国民の意思によって天皇制の護持をするかどうかということを決めようとしておるが、それは明らかに日本国体の本義と若干違うんじゃないか。この際、もう一遍アメリカに対して日本の国体の本義のことをよく説明して、納得のいく説明を取らなければ自分は同意できない」

 そうであるならば、第十二項で「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」を要求している『宣言』自体も断然受け入れ難いことになる。この条件が満たされるならば「現皇統のもとにおける立憲君主制」も認め得るとしたスティムソン草稿中の言葉が残っていたとしても、まだダメだろう。
 それ以前に、こういうことをアメリカ人に理解しろと言うのが無理である。国民の意志からも憲法からも超越している君主は、立憲君主ではない。平沼の国体観は、ヨーロッパに類例を求めるならば、王権神授説に近いだろうが、欧米ではそれは、とっくに捨てられた迷信に過ぎない。
 何も近代的な制度が絶対に正しい、と言うのではない。アメリカ型民主主義にも疑問の余地は多々ある。しかし、そこまで考えるなら、明治期に、「帝国」という、かなり古臭くはなっていたが依然として近代西洋にもあった国のかたちを採ったことに、そもそも問題があったのではないかと、疑問を持つべきであろう。さらに遡れば、「主権国家」の概念そのものが、日本人には馴染みづらかったのかも知れない。しかし、それでいてそういう「国」が、近代的な交戦権に基づく(のでしょう?)戦争を起こした。
 それなら、負ける時には、今までの敗戦国と同じように負けるしかない。そんなことはできない、となると……。上の陸軍や平沼の主張は、それは日本の国体に悖る、そんなふうに負けるぐらいなら滅びるべきだ、と言っていることになる。いや、実際にこれに近いことを言った人もいたようだ。
 これはやっぱり困る。でも、今はさすがにそんなの殆どなくなったから、いいでしょ、と言って済ませられますか?

 14日正午、第二の御聖断が下った。「国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ」(半藤著に引用されている梅津参謀総長のメモより)として、『宣言』受諾が決定された。
 このとき天皇が言った「国体」は、もちろんアメリカも認めることができる類のものであったろう。即ち、現憲法第一条に言う「主権の存する日本国民の総意に基」いて保持される天皇制である。
 それ以外の、軍が徹底抗戦によって護持しようとした「神州不滅」の「神州=国体」は、捨てられなければならなかった。阿南惟幾の真意など私にはわからないが、彼の言動は、天皇と、「統帥権の独立」によって天皇に直属しているはずの軍の、双方に可能な限り忠節を尽くそうとしたものだと思えば、理解できる。この二つが分裂する、それも、天皇自身の意思で、などということは、あり得べからざるはずであった。それに直面した以上、彼は彼の「忠節」とともに、滅びなければならなかった。近代には珍しい、悲劇的必然性が感じられる死である。
 それから、平沼の言うような「神ながらの御位置」など、天皇は個人的にも喜ばなかったろう。天皇機関説に賛成だった、と『昭和天皇独白録』で言っているし、昭和21年元旦の、「人間宣言」と呼ばれる詔書中では、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」などとしているのだから。
 もちろんそれで悪いはずはない。が、ただ一つ、「信頼と敬愛」とはなんだろう。それは何から生じ何を根拠とするのか、などとしつこく問うのは日本風ではないかも知れない。が、当時でもそんなにいたわけではないファナティックな青年将校や、平沼のような右翼思想家だけではなく、鈴木や東郷でさえ、その対象が失われるくらいなら日本人の大部分が死ぬことになる戦いもまたやむなし、とするような「信頼と敬愛」となると。
 今の日本人からは、そんなものはとうに失われた、というなら、もう考えることもない。でも、そうとも言い切れないような気はしませんか? それはまあ、天皇制が変わった以上は、日本人も確かに変わったのであろう。が、それはどんな変化か、気にかけるべき値打ちはありそうではないですか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その6

2014年05月31日 | 近現代史
メインテキスト:吉田裕「昭和天皇の戦争責任問題を考える」(宮地正人監修『日本近現代史を読む』新日本出版社平成22年所収)




 昭和天皇に戦争責任があるのかないのか、議論は尽きない。私も後でそれに触れるつもりです。
 と、書いてからずいぶんたった。それから自分なりに各種の文献に当たり、考えてみたのだが、いまだにまとまらない。今回、当ブログの更新が大幅に遅れ、「もうやめるのか」と人からも言われるような状態になったのも、生業が忙しかったことも理由だが、なかなか手をつけかねていた、というのもあった。
 しかし、おかげで、一つのことだけはよく得心できた。この問題に関しては、万人どころか、日本人の半分を納得させるような説を唱えることは不可能である。近代日本の抱える最大のアポリアの一つが、ここには現れている。
 で、あればこそ、考えがいがあることではないか、とは確かに言える。まずは、どこに難しさがあるのか、できるだけくまなく考えておこう。

 今回のテキストは、吉田裕の書いた一頁のコラムだが、当面必要なことが端的に記されているように感じるので、これに反応する形で愚見を述べる。
 なおまた、問題を整理するためには、「責任」というか、それが生じる「罪」の、さまざまなレベルを混同しないようにしておくのが大切だと思う。そのためには、カール・ヤスパースが「罪責論」(邦訳は橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー平成10年)で示した四分類が有名であり、便利でもあるので、これも使わせていただく。
 罪責の第一「刑法上の罪」。普通に犯罪と呼ばれているもので、どう責任をとるかまで、法律に明記されている。この点、国内法では、天皇はあらかじめ責任を免れている、と言うことができる。前にも述べたように、少なくとも議会や裁判所などの公的な機関が天皇の責任について議論したり、その結果問責したりすることはできない。「君主の無答責」と呼ばれる規定で、帝国憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」はそういう意味である。
 吉田は、たとえそうでも、それは国内だけの話であって、国際的には別だ、と言う。では、国際的な法の裁きにはどのようなものが考えられるか。「日本も調印したヴェルサイユ講話条約」には、「戦争責任者としてドイツ皇帝を訴追することを決めていた」。以下にそれに関する、ヴェルサイユ講話条約二二七条の全文を、清水正義「第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題」から孫引きする。

 同盟及び連合諸国は元ドイツ皇帝ホーエンツォレルン家ヴィルヘルム二世を国際道義と条約の尊厳に対する最高の罪を犯した廉で公式に訴追する。
 被告人を裁くため特別な法廷が設置され、その際には弁護の権利に不可欠な保障が与えられる。法廷は下記諸国それぞれから指名される五名の裁判官によって構成される。すなわち、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、及び日本。
 法廷は判決にあたり国際政治の最高の動機に導かれ、国際取決の荘厳な義務と国際道義の真正さを立証する観点から行われる。科されるべきと考えられる処罰を決定することは法廷の義務である。
 同盟及び連合諸国はオランダ政府に対し元皇帝を裁判に付せしめるべく同盟及び連合諸国に引き渡すよう要請を通告する。


 実際には、この訴追は実行されなかった。ヴェルヘルム二世が亡命していたオランダは、彼の引き渡しを拒否した。同盟国の掲げる「国際政治の最高の動機」は果たして真正なものかどうか、亡命者引き渡しに関するオランダの国内法や慣習よりも優位におかれるべきものかどうか、疑わしい、というのがその理由だった。そうこうするうちにドイツでは革命の機運が高まり、ヴェルヘルム二世は故国に帰ることなく退位した。ここにホーエンツォレルン家の帝政は終わり、ワイマール共和制が始まる。そうなったら誰も、「特別な法廷」で元皇帝を裁くことになどこだわらなくなり、有耶無耶になってしまったのだ。
 「特別な法廷」が実際に開かれたのは第二次世界大戦後である。ニュールンベルグ裁判と極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)。上のヴェルサイユ条約二二七条がこれを正当化したとまでは言えない。成文法には依らず、「国際道義」「条約の尊厳」というような抽象的な観念で人を裁くのが正しいのかどうか、そもそも、戦争で勝った国が負けた国を裁くこと自体がどうなのか、議論の余地は大いにあるし、現に議論されている。
 それでも、ヴェルサイユ条約には、日本も、調印するという形で賛同したのだし、あまつさえ裁判官を選出すべき五カ国の中に入っているのであれば、同じ精神によって開かれた東京裁判に文句をつけられた義理ではあるまい、というのが、吉田のみならず最近散見する意見である。それはそうかも知れない。
 ただ、昭和天皇に限って言えば、ヴェルヘルム二世と違って、国際軍事法廷で訴追されなかった。これにより、法的な責任は、国際的な意味でもない、で終わりである。

 第二「政治上の罪」。たとえよい動機から出たものであったとしても、悪い結果を招いたなら、政治に携わる者は責任を負わなければならない。マックス・ウェーバー、なんて名前を出すまでもなく、このことは自明としてよいだろう。
 さてそこで、戦争は国家の行う一大事業である。敗戦とは、その事業の失敗を意味する。それに関して、最高指導者に責任なし、とは普通に考えて言いづらい。民間でも、例えば、会社の存続が危うくなるほどの事業の破綻が明らかになった場合、社長が、たとえお飾りで、ただ書類に盲判を押すのが仕事だったとしても、安閑として地位を保ち続ける、ということのほうが稀であろう。
 ただそこで、天皇の役割は会社の社長のようなストレートなものではない。いくつかに折れ曲がっている。それを理解しないと、議論が混迷するばかりになる。
 制度上の話は、吉田が簡明に述べている通りである。帝国憲法第五十五条「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」は輔弼条項と呼ばれる。法令はもとより、勅許であっても、御名御璽の傍らに全国務大臣の副署がなければ効力を発揮しない。そして、責任を取るのは「責に任ず」とされる国務大臣であった。
 しかし、最も危険な事業である軍事については、内閣には権限が認められていなかった。いわゆる、統帥権の独立である。帝国陸海軍の大元帥たる天皇には、陸軍からは参謀総長、海軍からは軍令部総長が補佐に当たるものの、彼らの役割は輔弼ではなく輔翼と呼ばれ、行政分野での国務大臣のような、天皇と共同して、あるいは天皇に代わって、責任を負うような存在では全くなかった。文字通りの助言者なのである。
 しかしそれは、軍事上の決定が、実際に天皇の意思によってなされた、ということではない。「君臨すれど統治せず」とは、王には制度上権限はあっても、慣例としてそれは使わないという意味であり、それでこそ立憲君主制が成り立つ。昭和天皇も、内閣や軍部から上がってきた公式文書を裁可しなかったことは一度もなかった。
 とは言え、とまた反転する。では、昭和天皇は書類に御名御璽を押すだけのデクノボーかと言えば、そうでもなかった。「昭和天皇回顧録」に「この時以来、閣議決定に対して、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にしたとあるように、天皇は意見なら言えたし、実際様々なことを言っている。それは軍事についても同様だった。
 意見を言う機会としては、例えば「内奏」と呼ばれるものがある。何かの決定をする以前に天皇のお召しで宮中に参内し、御下問に答えるのである。この御下問、つまり天皇からの質問と言うのが、時によっては非常に厳しいもので、陸軍では、お召しがあるとわかっている時には、事前に想定問答集まで作って備えることもあったようだ。田中義一が辞任に追い込まれた会見も、少なくとも田中のつもりでは内奏であった(以上は後藤致人『内奏――天皇と政治の近現代史』中公新書平成22年より)。
【因みに、制度的な裏付けはないこの内奏は、昭和天皇の希望で、戦後まで続けられている。重光葵が渡米前に「駐屯軍の撤退は不可なり」と言われたのも内奏の場である。】
 天皇はこういう形で、軍事について、御自分の意思を示された。そして、戦前、天皇の御意思が分かっている時、それを無視するのは困難だったことは言うまでもないだろう。天皇に政治上の責任がない、とは簡単には言えない。
 では、それは具体的にはどのようなものか。昭和天皇と大東亜戦争の関わりはどんなものだったか、歴史の問題として非常に興味深いから、現在まで実にいろいろなことが言われている。私も今後できるだけ勉強して、当ブログで断続的に意見を開陳していきたい。

 第三「道徳上の罪」。吉田裕も「最後に道義上の問題が残ります」と言う。ここまでくると、まず道徳・道義とはどういう意味で使われているのか、が問題になりそうだ。単純には、昭和天皇の命令で大勢の人が命を失ったことに対する責務は、あったとすべきではないか、という一種の感情論から来ているものが多いようだ。
 感情論を軽蔑するわけではないが、多くの場合天皇の意思をストレートに表現しているわけではない「天皇の命令」の全体は、上の「政治上」に入れて考えるべきものだと思う。
 そうではなく、人命が失われたこと自体への、政治家ではなく人間としての責任、というものも、考えられはする。しかし、それを他人について、声高に追求するのは控えるべきではないだろうか。
 だいたい、戦争で人命が失われたこと自体に対する責任と言うなら、ルーズベルト及びトルーマンも、チャーチルもスターリンも蒋介石も、負うべきではないか。彼らの戦争は正しいもので、従ってそのために大勢の戦死者が出たのは、よかったとは言えないまでもやむを得ないことであり、日本がやった戦争は悪だから、戦死したのは無駄死にだった、とでも言うのだろうか。
 実のところ、そう言いたげな人はけっこういる。ただ、なかなかはっきりとは言えないのは、ここには「勝てば官軍」、Might is rightの論理と感情が働いていることは見易いからだろう。現実に、ルーズベルト以下は勝ったから、その政治上の責任も道徳上の責任も、表立って追及されることはなかったのだ。ならば日本も、もっと多くのアメリカ兵や中国兵を殺し、大東亜戦争に勝ってさえいたら、責任はなくなってしまうのか。
 こんな考えこそ道徳的ではない。明白なニヒリズムだ。人間が道徳的になり得る可能性を守るためにも、こういうことにはあまり首を突っ込まないほうがよいであろう。

 ヤスパースの罪責分類の最後は「形而上的な罪」で、これは、何国人であるとか、政治家か否かなどの立場の相違を超えた、最も根源的な、「人間の条件」に由来する、そしてそれゆえに、前の三つの罪責の根底になるものである。昭和天皇についてこれを考えるのも、上と同じ理由で、控えようと思う。
 ただ、すべての人間に共通する人間性とは真逆に、天皇という存在は、一般民衆はもとより、世界の他のどの国王や指導者にもない特質がある。これは視野に入れないわけにはいかないだろう。
 私もぼんやりしたことしか言えないのだが、我々日本人は、天皇を、「責任」などという概念が似合う存在ではないように感じていないだろうか。現実に何をして何を言おうとも(と言っても自ずから限度はあるが)、汚れることのない、根本的に無垢な存在。これを守ることによって何かが得られるというわけではなく、守ること自体が我々の無上の栄光であると感じられる存在。
 多分、神聖とか絶対とかの概念が、日本と西洋では、決定的に違うところがある。それなのに、上のような存在をEmperorとして、明治以後の日本は近代化の歩みを進めなければならなかった。明治から平成(今上)に至るまでの天皇は、よくその任に耐えたが、敗戦という最も過酷な現実に際会して、解きがたい矛盾が現れてしまったようだ。天皇と戦争との関わりを考えることを通じて、そのことの真の意味に光を当てることができれば、と思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その5(国民の良心に干渉すべきか)

2013年01月28日 | 近現代史
メインテキスツ:山住正己『教育の体系』(日本近代思想体系6 岩波書店平成2年刊)より

 制度的・思想的な話は古いところからやろう。今回は「教育に関する勅語」(以下「教育勅語」)について。
 事の始めは明治十二年、教育令公布の直前に出た「教学聖旨」(以下、「聖旨」)。聖旨とは天子の思し召しという意味である。前年明治天皇は北陸・東海を巡幸し、師範学校や小学校を視察した。そのときの印象が「聖旨」には直接出ているようだ。最後のほうにある、「(要旨)農家や商家の子どもに高尚な空論を教えてなんになる。役に立たないくせに生意気な人間を作るだけだ」など、明治帝の考えそのままと思っていいだろう。
 さて、しかし実際に起草したのは侍講で儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)であるか、少なくとも彼が中心であったことは疑いない。冒頭の「(拙訳)教育の要諦は、仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の道を尽くすところにある。これは我が祖先の訓(おし)えであり国法の根本であって、身分の高下に拘わらず国民一般の教えとすべきところである」などは、教育勅語にとても近い。
 しかし、「聖旨」はこの後、「然(しか)るに」と続く。その要旨は、「今の学校で実際にやっていることをみれば、いたずらに西洋を模倣し、あるいは空理空論に走るばかり。おかげで、国民の品行は悪く、国の風俗も乱れてしまった。まず徳育を先にして、後から知識を学ぶのでなければ、教育は国家にとってむしろ害となる
 現在まで連綿として続く、「知育偏重」批判・「徳育」要請の最初がこれである。「聖旨」はこの後、具体的な徳育のやり方として、次のような案まで示している。
最近の小学校では絵図を使ったりしているのだから、古今の忠臣義士、孝子貞女の画像を掲げて、その事績を説諭して、子どもの『脳髄ニ感覚セシメ』(『 』内原文のママ)ることが大事だ
 感覚に訴えて、道徳をいわば脳に刷り込むことが大事だ、という。平成の、文科省発行の道徳副教材『心のノート』も、ビジュアル面ではたいへんな工夫の跡がうかがえるのは、この故知に学んだものだろうか。要するに、洗脳である。学校が、オウムなどの宗教団体とか、能力開発セミナーとやらほど上手にそれをやれた例がないのは、むしろ幸いだと思う。
 そもそも、明治の最初から、日本人の品行は悪くなったと言われていたのには苦笑させられる。その後ずっと、近代日本人の品行がよくなったことはないらしい。そこのところは学校でなんとかしろ、と言われるのも昔から同じ。ずっと言われ続けているところをみると、一度も成功しなかったようだが。それを、性懲りもなく、平成になっても、また基本的に同じやり方で徳育を試みようというのは、その熱意はどこから出てくるのだろうと、感嘆するばかりだ。

 この「聖旨」には、当時内務卿だった伊藤博文が、「教育議」という文書で事実上の反論をしている。もっとも彼は、教育による風俗矯正について天皇から下問されたから、その答えとして、側近の知恵袋であった井上毅と相談の上でこれを書いたので(実際は井上が書いたものである可能性も高い)、「聖旨」そのものは執筆時点では読んでいなかった可能性もあるらしい。それはともかく、ここでは次のように言われている。
現在の風俗の紊乱は明治維新の大混乱から生じたもので、何も学校のせいではない。またその混乱というのは、旧弊を破って新たな時代を築くために起きたもので、そのときの弊害が未だに甚だしいからといって、世の中を昔にもどそうなどというのは賢明ではない。もしも、過去と現在とを折衷し、内外の文献を斟酌して、新たな国教(国の中心たるべき道徳体系、ぐらいの意味らしい)を建てようとするなら、賢哲の人を待たなければならない。政府などの、従ってその出先機関である学校などが、扱うべきことがらではない」。
 これに対して、元田永孚が再批判しているのが「教育議附議」という文書名で残っている。全部で六箇条あるのだが、なかでも最後の五・六箇条目が一番注目される。
欧州のことは私は詳しくないが、宗教(キリスト教)を中心にして現に国家が営まれているのだろう。我が国でそれにあたるものとしては、古来よりの皇室崇拝の念に加うるに仁義忠孝、即ち儒教があれば足り、新たに国教を建てる必要などない。問題はこの信仰が強いか弱いかだ。教育の要諦は当然ここに置かなければならない」。
 かくて、十一年後の、教育勅語への準備が敷かれた。儒教で理想とする伝説の聖王たちの徳治を抜いて、そこへ皇室崇拝を代入する論理操作でもって、皇室を道徳性の根源たらしめんとする企てがここではっきりと登場したのである。
 ただ、教育勅語の起草者は一般に元田だということになっていて、私も以前はそう記憶していたのだが、これは少し違うようだ。
 明治二十二年には大日本帝国憲法が発布され、二十三年には国会が開設された。この時首相になった山縣有朋が、国家が民主化されるに伴って予想される混乱の予防策を各所に求めた。その回答の一つが、二十三年の、地方長官会議から出てきた「徳育涵養の義につき建議」で、知育偏重の弊を改めるために、徳育の指針を出して欲しいと政府に呼びかけている。
 これらを受けて、山縣内閣で文部大臣になった芳川顕正が、天皇から「徳教に関する箴言」の編纂を命じられ、芳川は数人の候補者の中から「西国立志篇」の訳者中村正直(敬宇)を選んで、草案を書かせた。
 一方、当時法制局長官の職にあった井上毅が、これを読んで、反対して、対案として自ら書いた草案が、ほぼ後の教育勅語になった。完成までには元田と相談して、何度か書き直しているが、この文書の起草者といえば、井上毅、とするほうが正確であるらしい。
 井上が中村草案に反対した理由は、明治二十三年六月の山縣宛書簡が残っていて、そこで七箇条挙げられている。「天とか神とかいうような宗教的な言葉を使うな、また倫理学上の大問題につながりそうなところへは踏み込むな、なぜなら、そういうのは各宗派、各学者間の無用の議論を呼ぶだけだから」というのがだいたいの主旨だが、注目すべきなのは第一箇条に、「今日の立憲政体の主義に従えば、君主は臣民の良心の自由に干渉せず」としているところである。
 私も全く同感。「君主」を「政府」、「臣民」を「国民」とすれば、今日でもそのまま通用するし、通用させなければならない立憲主義、また民主主義の大原則の一つだと思う。
 ただそれなら、「教学聖旨」も「教育勅語」も、出さないのが一番いいはずなのだが、当時の情勢ではそうも言いかねたのだろう。井上の抵抗は、この勅語は政治上の命令と区別して、「社会上の君主」の著作公告として出せ、と要請するところにとどまっている。
 実際は教育勅語は、天皇から首相と文相に下しおかれ、文相がただちに全国に公布する、という形で世に出た。井上のこだわりは、形式的には、他の勅語と違って、国務大臣の副署がないこと、文言では、天とか神とかいうような言葉がなく、また末尾が「朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ咸(みな)其(その)徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」で終わっているところに痕跡をとどめている。天皇が臣民に一方的に道徳的な要請をするのではなく、自分も皇祖皇宗以来の徳に拳々服膺(謹んで従う)し、もって臣民と一体の道徳を実現することを願っている、ということだから。

 帝国憲法下の天皇も、立憲君主と言えるのか、それとも絶対君主に近いのか、それは様々な議論があって容易には決着がつかない。その理由の一つは、伊藤博文などが、この問題に敢えて決着を着けないようにしたからだと思われる。
 井上毅の考えは、上に見たように、立憲君主であるべき、に近い。その場合、天皇は「国家の最高機関」ということになろう。昭和天皇は、天皇機関説でよいと考えていたと『独白録』で述べている。しかし、それは浸透しなかった、というより、日本が、特に諸外国とあからさまに拮抗して独立を貫かねばならない困難な時期に、国家としての紐帯となるべき中心理念がなくてもすむものか、と思える問題が大きい。もちろんそれはまた、大敗戦という悲惨へ至る道を進ませる原動力にもなるのだが。
 伊藤・井上と元田の議論は、その後めったに例をみないほど論理的にちゃんとしたものである。しかし、おそらくは上に述べた理由で、それを深めることはできなかった。実際の井上と元田の間にどんなやりとりがあったのかはわからないが、理念としては、井上的なものは元田的なものと妥協し、天皇は、国家の機関であると同時に、国民道徳の根源という二重の性格を背負わされたまま、大東亜戦争の終結にまで至る。
 あるいは今もこの矛盾は残る、というか、多くの人が特に矛盾とも感じないまま、残っているのかも知れない。このような曖昧さこそ日本の特質だ、と言われると、半分は納得するが、敢えて抗いたい気持ちも私にはある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立憲君主の座について その4(昭和天皇の戦後責任・下)

2012年12月31日 | 近現代史
メインテキスト:豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫平成20年)

サブテキスト:坂元一哉『日米同盟の絆 安保条約と相互性の模索』(有斐閣平成12年、平成19年第5刷)
 青木富貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」が語る日本占領』(新潮社平成23年)

 サンフランシスコ講和条約(以下、「講和条約」と略記する)締結をめぐる昭和天皇の動きについて記す前に、前回述べた第四回目の天皇・マッカーサー会談(昭和22年5月6日)に関連して、豊下楢彦が取り上げた事実を簡単に見ておこう。
 会談の翌日、AP電がここでのやり取りを次のように伝えている。天皇が「日本国民は、この文書(現憲法)が軍隊を禁止し戦争を放棄していることに不安を感じている」と述べたのに対して、「マッカーサー元帥はヒロヒト天皇に、アメリカが日本の防衛を引き受けるであろうことを保証した」と。
 しかしさらに翌日、マッカーサーはただちにこの報道を否定した。「日本の安全保障は講和条約の調印までは占領軍に託された義務である」が、「それ以降は条約の規定に依る」「そこでは国連などの機関が重要な役割を果たすであろう」(以上豊下P.100)と。この前後どちらの「マッカーサー発言」も、GHQの検閲によって国内での報道は禁じられ、当時の日本人の目に触れることはなかった。
 この漏洩は第一回目と第四回目の会見で通訳を務めた外務省情報部長の奥村勝蔵によってなされた。その詳細も松井明(当時は奥村の下で渉外局長をしていた)が残した文書によってかなり明らかになった。午前中の会見が終わった後、午後2時に奥村は定例の記者会見に臨んだ。記者クラブからは当然会見の模様を執拗に聞かれる。腹を決めた奥村は、オフレコを条件に語った、のだという。
 この時奥村が伝えたのは「アメリカが日本の防衛を引き受ける」云々の「マッカーサーの言葉」であったことは間違いないであろう。この結果彼は、GHQのベーカー渉外局長から緊急で呼び出され、懲戒免職の処分になっている(が、後に復職し、外務省事務次官にまでなっている)。
 豊下は、この漏洩事件全体が昭和天皇の意図によるものではないか、と推測している。傍証の一つに、昭和50年に児島襄がどこからか入手した奥村文書には、後半部分が破棄されていたことがある。この破棄は奥村自身の手によるのではないか、と児島も言っていた。そうだとしたら、なぜそうしたのか。豊下の推定ではこうである。前半部分にはマッカーサーの「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである」という言葉が記され、奥村はこれだけをリークした。この時期のマッカーサーの一番の真意である、「講和後の日本の安全保障は国連に委ねるべき」の部分は、後半で詳しく展開されており、奥村は、それは外部に知られることを嫌った。だから、口頭で伝えなかっただけでなく、記録をも抹消しようとしたのではないか、と。
 あるいはそうだったかも知れない。しかし、疑問はある。いかにも、マッカーサーの「真意」=「国連に頼れ」論は会見記後半に詳しいだろうが、短くても明瞭に、前半にも出ている。そこは保存して、後半のみをわざわざ破棄することにどんな意味があったろうか。もしそれが豊下の推測した動機によるものだったとしても、冷静な判断によるというより、感情的なものだったのではないかと思える。
 また、最初にもどって、そのようなマッカーサーの意向が明らかであるときに、結果としてそれを枉げてプレスに伝えることに、どんなメリットが考えられるのか。天皇が望むような方向、つまり米国が日本の防衛を引き受けるように、米国政府なり輿論なりを誘導する役に立つだろうか? 現実にこのリークは、マッカーサーを怒らせただけで終わったのである。
 それに、単純な時間の問題からして、午前中に行われた会見の内容について午後の2時にリークされたのに、天皇の直接の指示があった、というのは無理がある。帰りの車の中でちょこっと話すにしては、重大すぎる行為であることは言うまでもないだろう。
 真相はたぶんこんなところではないだろうか。奥村は、前後二回の会見や、直接天皇と接したところから、天皇の意向はよく理解していた。それで、とりあえず日本防衛のための言質と考えられるものをマッカーサーから得たので、自然に印象が深くなり、つい、さほど深い考えはなく、オフレコとして記者団に漏らしてしまった。因みに奥村勝蔵は、日米戦争開始時にはアメリカの日本大使館勤務で、日本から送られてきた交渉打切り(=宣戦布告)文書のタイプを引き受け、それに時間がかかったためもあって、この文書をアメリカ政府に提出するのが遅れた、つまりアメリカへの最初の攻撃が結果として奇襲になったことの一因を作った人物でもある。
 以上の私の推測も、豊下のと同様、確証と言えるものはない。しかし、それが大間違いだとしても、一つだけ確かなのは、日本防衛に関する天皇の、深い危惧感であろう。
 それをもたらした大きな契機としては、この年の3月17日に出ていたマッカーサーの声明がある。その中では、「できれば一年以内に対日講和条約を結んで、軍事占領は終了させるべきだ」と述べた。その理由としては、「日本はすでに非軍事化の段階を過ぎ、民主化の段階もほぼ終わろうとしている。次の課題である経済復興は占領軍の手に負えない問題であり、自由な貿易も必要だから」とも(坂元P.2)。この内容は「ヨーロッパ復興が先だ」とするディーン・アチソン国務次官たちによって否定されたが、この頃より講和の条件や、独立後の日本の国家像は、多くの人の念頭にのぼり始めていたのである。
 その中で天皇は、いささか先走りにも見えるし、敗戦国の君主にしては越権行為であるとしても、何かせずにはおれない気分になったのであろう。その具体的な現れが、この四ヶ月後に提出された「沖縄メッセージ」であった。

 講和に関するアメリカの気運は、1949(昭和24)年秋には日本人にも伝わってきていた。具体的に動き始めたのは、翌年の4月にトルーマン大統領が共和党の重鎮ジョン・フォスター・ダレスを対日講和問題担当の国務省顧問に任命したときだった。9月には公式に対日講和交渉の開始が宣言された。
 この際、アメリカが最大の課題としたのは、独立後の日本にも米軍を常駐させておくことだった。日本の付近にはソ連があって、朝鮮半島北部をも実質的に支配していたし、49年10月には中国も共産化していた。これら共産主義勢力と対抗するアメリカの、アジア戦略の拠点として、日本はどうしても手放せないと感じられていた。講和尚早論の論拠の一つもここにあった。日本が独立国となったら、外国(アメリカ)の軍隊がいつまでもとどまっているというのは、普通に考えておかしな話である。
 そのおかしな話を実現すること、つまり、独立後も「日本のどこであれ、必要と思われる期間、必要と思われるだけの軍隊」(坂元P.21)を置く権利を確保することは、トルーマン政権による対日講和の重要な条件とされていた。この問題がクリアされなければ、日本の独立はさらに遅れてしまうだろう、ということは、第三次吉田内閣にも伝えられていたようだ。吉田茂は4月に池田隼人大蔵大臣を特使としてアメリカに送り、「もしアメリカ側からそのような希望(日本独立後のアメリカ軍の日本駐留)を申出にくいならば、日本政府としては、日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよろしい」(坂元P.29)と、ジョセフ・ドッジに伝えさせている。もっとも吉田は、同時に白州次郎を渡米させ、「日米協定で米軍基地を日本において戦争に備えることも憲法上むずかしい」(豊下P.116)と国務次官補に言わせているのだから、真意は奈辺にあったか、容易には測りがたい。
 ダレスは6月21日に初来日した。翌日、吉田茂と非公式に会談したが、日本の安全保障の問題になると、吉田は、「日本は、民主化と非武装化を実現し、平和愛好国家となり、さらには世界世論の保護に頼ることで、安全を獲得することができる」(青木P.133)などと言って、ダレスを面食らわせ、かつ失望させた。
 吉田がこうしたのは、マッカーサーの怒りを宥めようとしたためであったらしい。前記「池田ミッション」では、池田は表向きアメリカ経済の視察の名目で渡米したのである。マッカーサーには嘘をついたことになる。ドッジからそれを知らされたマッカーサーとしては、当然面白くない。もっとも、内容的に言うと、この頃にはマッカーサーは、少なくとも当分の間、日本への米軍駐留もやむなし、の見解に傾いていたのだった(坂元P.20)。が、日本政府では誰一人これを知る者はなく、天皇より怖いSCAPが、面会を禁ずるという形で怒りを表している以上、彼の従来の信念であったはずの「九条原理主義」とでもいうべきものに従っている顔をするより他に仕方がないと感じられたようだ。豊下が以前の著『安保条約の成立』で言っているように、敗戦国政府の演じた物悲しい喜劇である。
 この日の夜、ダレスはある夕食会に出席している。場所は渋谷区松濤にある吉川重国男爵邸で、この当時『ニューズウィーク』東京支局長コンプトン・パケナムが借りて住んでいた。パケナムは昭和天皇の側近の一人だった宮内府式部官長松平康昌と親交があり、この家も、松平が部下の吉川に命じて彼に提供させたものだった。一方ダレスは、『ニューズウィーク』外信部長でパケナムの上司であるハリー・カーンから招待されていた。出席者のうち大蔵省の渡辺武が、ダレスの本音に近いであろう厳しい言葉を日記に記録している(青木P.131~132)。

日本は国際間の嵐がいかに厳しいか知らないので、のどかな緑の園にいるという感じである
アメリカとしては、仮に日本の工業を全部破壊して撤退してしまってもよいわけだ。日本は完全に平和となる。しかし、日本人は飢え死にするかもしれない。自分は、日本がロシアにつくか、アメリカにつくか、日本人自身で決定すべきものと思う

 腹立ちまぎれの言葉を文字通りにはとれないが、ダレスに代表されるアメリカ側の最大の危惧は、日本がソ連に占領されるか、あるいは同盟を結んで、その工業力を共産主義勢力のために使われることであったことは確かであろう。潜在的なものまで含めた日本の工業力は、昭和25年当時で既に強大なものに見えた、ということである。それさえなくなれば、ソ連だってわざわざ日本を侵略する意味はなくなるから、「完全に平和」だよ、というわけだ。
 これらの言葉は松平を通じて直ちに天皇に伝えられた。さらに夕食会の三日後の25日、「国際間の嵐」が、日本の間近で、目に見える形で捲起こった。朝鮮戦争の勃発である。そのためもあって、ダレスは27日には帰国したのだが、その前日、松平からパケナムを経由して、天皇からダレスへの「口頭メッセージ」が伝えられた。ダレスはこれを、「今回の旅行における最も重要な成果」(豊下P.162)だと言った。
 その後の7月、カーンはアメリカで、アヴェレル・ハリマンからこのメッセージを文書化してくれるように依頼され、自分の記憶力に自信のないカーンは、その作業を松平とパケナムに委託する。二人は8月の数日間を費やして、松平の別荘で文書化作業をやり遂げた。こうして残された天皇の「文書メッセージ」の最後の部分にはこうある(青木P.143)。

 追放の禁止を示唆しているのではありませんが、有能で先見の明のある善意の人々の多くが自由の身になれば、世のために貢献することができましょう。現在は沈黙しているが、一般の心の奥まで届く意見を表明できる人たちがたくさんいるのです。
 こうした人びとが彼らの考えを公に発表できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近の誤った論争は、日本側からの自発的なオファーによって解決できたはずなのです。


 豊下の「天皇外交論」の最大の根拠はこれにある。これは事実上、吉田への不信任を表明したものだ、と。「基地問題をめぐる最近の誤った論争」とは、6月22日の吉田・ダレス会談のみならず、「文書メッセージ」作成直前の7月29日、参議院外務委員会での社会党議員に対する吉田の答弁「私は軍事基地は貸したくないと考えております」を指していることは「疑いない」(豊下P.164)から。つまり、講和に向けた日本の方針としては、あくまで「米軍基地の自発的な貸与」でいくべきなのに、吉田はブレてしまっている、それを天皇が批判したのだ、という。
 果たしてどうか。「文書メッセージ」は「口頭メッセージ」のできるだけ忠実な文書化を目指したはずである。そこに、天皇自身の意向で、「口頭メッセージ」の時点ではまだ起きていなかった「論争」についての思いも書き込まれることも、なかったとは言えない。ただ、「論争」をそういう限定された意味にだけ取れるものだろうか。
 戦後史に興味のある人なら周知だが、この頃の日本は、アメリカ及びそれに追随する国々との「単独講和」を結ぶべきか、ソ連・中国など共産圏を含む「全面講和」を目指すべきか、の論争が盛んに行われていた。吉田は、この点では、後者は問題にならぬ空想論だとする立場にブレはなかった。ところで、前者を選んだ場合、アメリカに軍事基地を貸すことになるのは、ほとんど常識と考えられていたようだ。講和問題に関心を寄せる学者・文化人のグループ「平和問題談話会」は、この年の1月15日の日付のある「講和問題についての平和問題談話会声明」を、雑誌『世界』三月号に掲載しているが、その「結語」の最後は、「理由の如何によらず、如何なる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対に反対する」だった。また5月には、吉田が、全面講和を唱える東大総長南原繁を「曲学阿世の徒」と呼び、南原から反論されたことも大きな話題になった。
 「基地問題をめぐる最近の誤った論争」といえば、これら全般を指すと取るのが自然ではないだろうか。もちろん吉田もまた、言を左右にして、「誤った論争」を継続している、と言える。今から見ればそれは「パワー・ポリティクス=政治的な駆け引き」であったことは明らかだが、当時の天皇にはそこまで理解できないこともあったろう。いずれにしても忘れてはならないのは、このメッセージは、吉田の不得要領の態度に心から怒ったらしいダレスを宥めることが、最大の目的だったと考えられる点である。基地問題こそ最大の課題と考えていたダレスが、立憲でも君主である者から、「日本の側から基地貸与を申し出ることこそ最上、そして、ちゃんとした人がちゃんと説明すれば、国民もそれを納得するはずだ」と言われれば、大きな慰めになったろう。
 それにしても、依然としてこの君主には実際の権力はなかった。不信感が事実あったとしても、田中義一のときのように、総理大臣を辞任に追い込むことはできず、翌年の講和条約予備交渉でダレスが相手にしたのは、やはり吉田茂だった。
 それより、「文書メッセージ」は、遠慮した言いまわしながら、戦犯たちの公職追放を明確に批判している点で、むしろマッカーサーへの不信任を表明している感が強い。因みにそれは、日本政府やGHQをバイパスしてダレスらにメッセージを届ける道を作った英米人の考えに近かった。コンプトン・パケナムは、「経済界にまで及んだパージのために、日本経済は有力な舵取りを失い、むしろ極左勢力につけいる隙を与えている。この措置は、左派に同情的な民政局(GS)によるものだが、マッカーサーはそのイデオロギー的な意味に気づいているのか」(青木P.37~39)等と論じ、昭和22年に一度日本から追放されたことのある人物だった。そしてハリー・カーンといえば、後のロッキード事件の時、グラマン社の顧問として暗躍したとされ、それ以外にも、鳩山一郎などと親しく、日本の保守層の復活、いわゆる「逆コース」を蔭で支えたと言われている。
 公職追放の不当さについて、天皇は単に彼らと同意見だったのか、あるいは彼らの考えに影響されるところがあったかはわからない。とりあえず、翌年、マッカーサーが解任されて、新たなSCAPにリッジウェイが赴任すると、大幅な追放解除が行われた。この時復帰した大物政治家の一人、岸信介が手掛けた安保条約改定によって、戦後最大の政治的な騒乱が起きたのはそれから九年後のことだった。「有能で先見の明のある善意の人々」とは具体的に誰を指すのかはわからないが、誰にもせよ、昭和25年頃に、「日本からアメリカへの、自発的な基地貸与」を言いだして、日本の民情がすんなり収まる、なんてあるはずがない。天皇が本気でそう考えていたとしたら、とんだマヌケとしか言いようがない。
 たぶん、そうではなかった。天皇は、吉田以外の誰かが日米交渉に臨む可能性は少ないことは承知のうえで、というか、そういうことはあまり考えないで、いわゆる「仲人口」の、取りなしの言葉を言ったまでだろう。ただし、アメリカからすれば、日本に関する第一の課題である基地貸与を、天皇が積極的に認めているのは、心強い以上の政治的な価値がある、と思われたであろう。それでハリマンは、天皇メッセージの文書化を求めたのだ。
 とは言え、ダレスにしろ、他の誰かにしろ、このメッセージを実際に外交カードとして使った記録は発見されていない。使わないのが当然だと思う。簡単に使うにしては危険なカードであることは、アメリカ人にも充分認識できただろうから。

 では、昭和天皇が日本の政治家たちに与えた影響はどうか。豊下は、52(昭和27)年、吉田が講和条約締結の全権大使として渡米することをかなりいやがっており、7月19日の朝、天皇に拝謁してからやっと承知した、というようなエピソード(豊下P.172~174)から、戦前からの政治家に対する天皇の絶大な影響力を論じている。もちろんそれはあったろう。しかし、どこまでいっても心理的なものであり、天皇が実質的に「外交」と呼べるような何かをしたかとなると、その答えを見つけるのは難しい。
 天皇の指示として一番明確なのは、54(昭和29)年8月20日、鳩山内閣の外務大臣として重光葵が渡米する前の「御言葉」だろう。それは『続重光葵日記』にこう記されている。「陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」。重光は、安保条約を改定して、通常の相互防衛条約の形にして、米軍には日本国内から出て行ってもらう案を用意していた。天皇はそれを「不可なり」と仰ったのだろう。とはいえ、法律上、それは天皇個人の意見以上ではなく、従わなくてはならない理由は何もなかった。そして重光も、当初は従うつもりはなかった。
 しかし、交渉では、集団的自衛権の問題をめぐってダレスと重光とは相当激しいやりとりをしたが、米軍撤退案は直接は持ち出されなかった。その経緯については、随行した外務省欧米局第二課長安川壮が回想記に書いている。会談前のバージニア州ホットスプリングのホテルで協議した際に、重光が会談で提出すべく用意した文書には、「日本が陸上十八万人を中心とする防衛力増強を完了した際、米軍は全面的に日本から撤退すべきである」と書かれていた(坂元P.163)。以下、安川の回想を坂元の著書から孫引きする。

 重光大臣の、米国側が受け入れるか否かは別として、この際日本側の言いたいことは遠慮なく主張しておくべきだとの言に対し、私は米軍全面撤退を主張することは、米国側に日本の外務大臣は非現実的な人間だという印象を与えかねないと反論した。その時の重光大臣の渋い表情が思い出される。

 この「渋い表情」の中には、天皇の言葉からさしてくる影も含まれていたかも知れない。が、どうであれ、天皇の「政治責任」などは問えないのは明らかであろう。

 最も大きく見て、米軍の全面撤退など、単なる案としても非現実的だと、かつて重光は言われ、最近では鳩山一郎の孫も同じように言われたようだが、その「現実」はどこから出てきたろうか。1950年前後の天皇からすれば、それは何よりも「反共」の必要性からだった。その点では昭和天皇とダレスとはピタリと利害が一致しており、お互いを頼もしいパートナーと思っても不思議はなかった。
 因みに、講和条約と同日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」通称「(旧)日米安保条約」の第一条をじっくり見ていただきたい。

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 結局こういうことが言われているのではないか? アメリカは軍を日本国内及びその付近に配備する権利を受諾するが、それは何も日本を守るためではなく、極東の安全維持のためである。ただ、外国(共産主義国家)とつながった勢力が反乱を起こすようであれば、鎮圧の援助はしてもよい(「できる」だから、しないこともあり得る)。いや、「日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて(including)」なんだから、日本政府の要請がなくても、アメリカの判断だけで日本国内でも米軍を動かせそうである。
 そんなことを認める独立国があるのだろうか? と、一国民としては思うが、天皇にしてみればそれはさしたる問題ではなかったようだ。陛下にとって一番怖いのは、共産主義者だった、国の中にいても外にいても。アメリカは占領しても皇統の存続を認めたが、彼らならきっと廃止するだろう。それを防ぐ策こそすべてに優先させなければならない。
 君主が王家の存続を第一に考えるのは至極当然であり、それならまた、それに従ってできるだけのことをしようとするのも当然である。いけない、となれば、君主制は完全に廃止するしかないが、拙文をここまで読んでくださった方々は、この点どう判断なされますでしょうか?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする