由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

文芸はいかに道徳的であるべきか その3(品下る時代に)

2016年10月28日 | 文学
メインテキスト:夏目漱石「文學論・序」(原著は明治40年刊。『夏目漱石全集 第十一巻』岩波書店昭和3年より引用。本文中では「序」と表記します)

佐久間艇長の遺書

 漱石夏目金之助は慶応3年の生まれである。翌4年は明治元年となるので、彼の歳を今風に満で数えると、明治の年と重なる。この暗合は、皮肉にも感じられる。漱石にはいかにも、明治という時代の刻印が押されているようであるが、それは全く彼独自の、彼以外には見当たらない刻印のようでもあるので。
 すべては英文学を専攻したときから始まったと思しい。
 少年の頃は英語嫌いで、ほとんど勉強したことはない。その代わり漢詩文に心を寄せ、漢詩の創作は晩年にまで及んでいる。特に後年のものは、さしあたって誰に見せるつもりもなく、謂わば純然たる趣味だったが、その出来栄えは「明治以後の日本人で、本場の中国人に見せても恥ずかしくない漢詩を書いたのは、夏目漱石先生ただ一人」と吉川幸次郎に言わしめるほどのものだった。
 しかしやはり帝大を目指す、となれば英語は必要なので、勉強し直して、東京大学予備門(漱石の在学中に第一高等中学校と改称される)を終える頃までには抜群の成績を勝ち得るまでになった。大学ではその頃できたばかりの英文科の、ただ一人の学生となったのは、漢文学も英文学も同じ文学であれば、通ずるところはあるはず、ならばその研究に一生を捧げてもあながちに悔ゆることなかるべし、と考えたからだと言う。
 大学生活は、個別授業で発音を矯正されたり英作文を直されたりしながら、ワーズワースの生没年はいつかとかシェイクスピアのフォリオ(初期の全集本)はいくつあるかのと言った「英文学」を習うのに費やされた。卒業後は旧制松山中学で一年、次に旧制第五(熊本)高等学校で英語を教える。後者に赴任して足かけ五年目を迎えた6月に、文部省より「英語研究のため滿二年間英國へ留学を命ず」旨の辞令を受け取る。

私はその時留学を斷らうかと思ひました。それは私のやうなものが、何の目的ももたずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家のために役に立つ譯もなからうと考へたからです。しかるに文部省の内意を取次でくれた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評價する必要はない、ともかくも行つた方が好からうと云ふので、私も絶對に反抗する理由もないから、命令通り英國へ行きました。しかし果たせるかな何もする事がないのです。

 上記はずっと後年(大正3年)の講演録「私の個人主義」中の言葉。「序」では、当時文部省の学務局長だった上田萬年にわざわざ委細を訊きに行ったことが記されている。「何の目的ももたず」と言っても、大日本帝国が課した目標ははっきりしている。今もそうだが、当時の日本ならなおのこと、英語力(いわゆる実用英語で)のある者は是非必要だった。ただし、どこでどのように学ぶか、具体的な指示はなかった。上田の答えも「別段窮屈なる束縛を設くの必要を認めず」で、ならば英文学をやってもかまわないのだ、と考えて英国に赴く。
 そのイギリスで、彼は二度の挫折を経験しなければならなかった。
 第一に、学問の府として日本でも名高いケンブリッジで学生生活を送ることは、早々にあきらめた。かの地の学生はほとんどが貴顕紳士のお坊ちゃんで、午前中一、二時間講義に出て、午後はスポーツを二時間ほど嗜み、お茶の時間には相互を訪問し、夕にはカレッジで会食する。これが大英帝国のジェントルマンたるの資格を得るのに必要な生活である。日本人でも富豪の子弟で遊学しているならともかく、文部省から出るわずかな費用で下宿代から書籍代から講義受講費用まで出さねばならない身としては、そんなことはとてもできない。
 それに年齢的にも、満三十三歳になっていた。英国紳士は人としてまことに立派な模範なのかも知れないが、自分のような「東洋流に靑年の時期を經過せるもの」が、年少の英国人から一挙一動から学ぼうとしても、「骨格の出來上りたる大人が急に角兵衛獅子の巧妙なる技術を學ばんとあせるが如く」、三度の食事を二度にするほどの苦労をしてもついに不可能であろう。オックスフォードもケンブリッジと似たようなものであろうから行かず、語学修行にはロンドンがよかろう信じて、ここに笈を下ろす。
 次に、英文学については、ロンドン大学の一般聴講者を相手にした講義は三、四か月でやめ、学者の私宅での個人授業(当時は大学教授がアルバイトでやることがあったらしい)は週一回、一年ほど続けたが、これも時間と金の無駄、その分本を買い込んで読んだ方がいい、という結論に達して、二年の留学生活の後の一年は、下宿に立て籠もってひたすら読書に耽る生活を送った。
 それ自体は挫折ではない。これより先、今まで読んだ英文学と、これから読まなくてはならない本の数を比較したところ、未読文献が圧倒的に多いのにうちのめされる。これでは英文学の研究も畢竟ものにならない、と思い知らされた。
 ここから、重大な転機が訪れる。以前から漠然と感じていたことではあったが、英文学を読んでも、漢文学の時のような快を得ることはできない。どうも、同じ文学であっても、この二つはまるで別物であるらしい。「なんとなく英文學に欺かれたるが如き不安の念」が、ここへ来て強くなった。
 ならば、英文学を捨てて漢文学にもどり、勉強を再開しようとしても、国の金でロンドンまで来てしまった以上、そんなことはできない。明治の男として、その程度の「臣道」は自然に身についていた。
 ここで漱石は全くの窮地に陥った。脱するためには、大きく飛躍するしかない。「この時私は始めて文學とはどんなものであるか、その槪念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救ふ途はないのだと悟つたのです」(「私の個人主義」)。そこで英国留学の残り一年は、英文学関係の本はしまい込んで、心理学や哲学を研究して過ごした。

余は心理的に文學は如何なる必要あつて、此世に生れ、發達し、頽癈するかを極めんと誓へり。余は社會的に文學は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。

 区区たる各国文学の別などを超えて、根本的に、文学とは心理的・社会的になんであるのか、究めようというのである。その志や壮、に過ぎて、いささか誇大妄想の気味がある、とも見えるであろう。その試みの、不十分と自認する成果として示された『文學論』の内容についてはここで云々するつもりはない。ただこの決意は、中年にさしかかった漱石が、自己の進むべき・生きるべき道を必死で求めるうちに生じたものだ、ということは覚えておくべきだろう。
 しかし、幸か不幸か、というよりやっぱり、幸運なことに、だろう、漱石と文学の関わりは帰国後さらに変化する。「序」の終わり近くにはこうある。

 英國人は余を目して神經衰弱と云へり。ある日本人は書を本國に致して余を狂氣なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には僞りなかるべし。たヾ不敏にして、是等の人々に對して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
 歸朝後の余も依然として神經衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の辦解を費やす餘地なきを知る。たヾ神經衰弱にして狂人なるが爲、「猫」を草し「漾虛集」を出し、又「鶉籠」を公にするを得たりと思へば、余は此神經衰弱と狂氣とに對して深く感謝の意を表するの至當なるを信ず。


 なんとも過激だが、文学研究者から創作家へと転換するという、ひねくれた宣言とみなすこともできる。言われているように、前年からこの年にかけて、漱石は長編『吾輩は猫である(三巻)』と短編集『漾虛集』に加えて、「坊ちやん」「草枕」「二百十日」の三中編を収録した『鶉籠』を上梓した。そしてこの明治40年には、年に二度、百回ほどの小説を執筆・掲載することを条件に、教壇を去って朝日新聞社に入社している。
 「文学とは何か」を論理的に詰めようとするより、広く愛読される文学作品の創造を目指すほうがまともだし、実りも多い。普通にはそう考えられるだろう。もちろん、それができるだけの才能があればの話なのだが。

 作家・夏目漱石の才能はどのようなものであったか。神経衰弱、というキーワードにはやはり注目される。最近はトランプのゲーム名以外には聞かなくなった言葉で、今ならノイローゼというところだろうか。いい加減なことを言うなあと思われるかも知ないが、漱石が精神科の医者にかかって、正式な診断名がついたわけではない(そうだとしても、それ自体がいいかげんなもんだと私は思っている)。後代のその種の評は、ほとんどが鏡子夫人の「漱石の思ひ出」など、余人の回想録に基づいている。
 ここから明らかに言い得るのは、漱石は周囲と摩擦を生じやすい性格だったことぐらいである。周囲とは、人間だけでなく、社会や時代状況全般にまで及ぶ。その上で、そんな自分と周囲とを突き放して眺めることができる知性があり、さらにその眺めたところを毒のあるユーモアを交えて描くことができる嗜好と表現力があった。
 これらが遺憾なく発揮されているのは、処女作にして最長の「吾輩は猫である」に止めを刺す。私が年来愛好してやまない作品である。次は「坊ちやん」、さらにその次は「草枕」が好き、と言えば同意してくれる人が多そうだ。この路線をもっと続けてくれたら、と思わずにはいられない。そうならなかった理由の一つは、日本近代化の先兵として、近代人の心理に基づく本格的な近代小説を確立する使命を感じていたからでもあろうか。
 しかし、そこにもまた、容易には解決し難い問題があった。大別すれば以下の二つ。
(1)「東洋流に靑年の時期を經過」した漱石の、精神のバックボーンを形成した最大のものは、漢文学であったことは前述の通りだが、中でも「文學とは斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々(あんあん)裏に」与えられたのは「左國史漢」からであったと「序」にある。漢代の古典「春秋左氏傳」「國語」「史記」「漢書」の総称で、日本でも漢文のお手本とされた。すべて史書であり、国と仕太夫(したいふ。支那の貴族階級、でよいと思う)の、主に功業を述べるものであって、私人の日常茶飯事など完全に度外視されている。これと、たとえ身分は低くても教養はある人士のものした詩文が、青年期の漱石を魅惑し、影響を与えたものだった。支那にも「金瓶梅」のような軟文学はあるが、それらにはほとんど興味を向けなかったようだ。
 日本の古典はと言うと、高等中学校時代の親友正岡子規から俳諧の世界に導かれ、俳句もものしてはいるが、それ以外への関心はどうだったろう。馬琴など、江戸時代の戯作には言及があり、また大学生時分には英国人教授の依頼で「方丈記」の英訳をしているぐらいだから、無関心だったはずはない。しかし例えば平安朝の、「源氏物語」や日記文学など、読んだかどうかも定かではない。だいたい、子規にしてからが、「万葉集」の直截簡明を尊び、「古今集」「新古今集」の婉曲優美は技巧の過ぎたものとして斥けた人だった。
 これらを要するに、夏目漱石とは、書籍から、大丈夫たる男子の本懐・理想を、というより、そういうものを抱いて生きて死ぬ美しさを第一に伝えられた人物なのである。これが前回述べた「文藝の哲学的基礎」の、「荘厳の理想」に直接結びつくのは明らかであろう。
 生まれから言うと、夏目家は代々続いた名主(なぬし)で、名家ではあったが、武家ではなかった。その上、維新後没落したので、幼い頃れっきとした町家に養子に出されている。それでもこのような心性を得たのは、むしろ身分制度が撤廃されたために、上流の理想が下へと、少なくとも建前としては、及んだ結果であろう。
 以下は「荘厳の理想」の具体例。
 明治43年、海軍の潜水艇が事故で沈没して、艇長佐久間勉以下十四名全員が死亡する事件があった。後に艇が引き揚げられると、乗組員は最後まで持ち場を離れず修復に努めていたことがわかり、そのうえ佐久間は死の直前まで長文の遺書を認めていた。これが発表されるや大きな反響を呼び、彼らの「沈勇」は長く修身の教科書などで取り上げられた。
 この時漱石は入院していたが、写真版で佐久間の遺書を見て、『朝日新聞』に「文藝とヒロイツク」なる一文を載せた。
 「余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を讀んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである」。ここから漱石は自然主義文学の理念を批判する。なるほど、大体において現実は味気なく人間は浅ましい。しかし、それのみが世界の実相であり、それ以外は虚偽だと信ずるとしたら、狭すぎる。現にかかる行為があり、その事績を知って多くの人の胸中に賛嘆の念が湧くことが、人の世に理想は僅かであっても確かに在ることの何よりの証拠ではないか、と。
 前回の、近代西洋文芸への酷評もこれから出てくる。それにしても、あんなことでは、英文学を読むのもさぞかし苦痛だったろうになあ、と改めて感じる。
 ただし、このような理想は東洋のみのものだ、と言うには当たらない。「文藝の哲学的基礎」中でも、「荘厳の理想」はheroismとも言い換えられてもいるし、佐久間艇長の行為と遺文は「ヒロイツク」と言われるくらいだから。そこで、
(2)問題は近代なのである。以下、明治44年に行われた、二つの講演録に基づいて略述すると、
①近代自体を呪っても仕方ない。人間の智識が進めば、「人間は完全なものでない、初めは無論、いつまで行っても不純であると、事実の観察に本(もと)づいた主義」(「文藝と道徳」)のようなものが出てくるのは、それこそ自然である。
②それはそれとして、日本の近代化にはまた特有の問題があった。曰く、西洋の近代は「内発的」だが、日本のは「外発的」だ(「現代日本の開化」)。
 後者の評言はわりあいと有名だし、私も昔は直ちに納得したのだが、今はどうかな、と思うところがある。18世紀の産業革命や19世紀の内燃機関の発明・発展などに依る西洋近代文明の成立は、社会や人々の「内側」から「自然」に湧き出てきたものと言えるかどうか。比喩的な言い方であることはもちろんだが、比喩としてもどれほど適切だろうか。
 西洋であっても、例えば、火薬を発明した人も、火薬を使った技術を発明した人も、ごく少数だったはずだ。発明以前にそういうものがほしいと願っていた人間など、どれくらいいたろうか。現に発明され、その有用性と、危険を制御する方法(100パーセント危険がなくなるわけではないが)が少しづつ知られるようになって、何しろ使えば確かに便利なのだから、少しづつ社会に広まったのだろう。
 もちろん、変化が「少しづつ」だったか急激にだったかは、大きな違いである。漱石もちゃんとそう言っている。そちらが肝心なので、余計なレトリックは気にかけなくてもよい。人々の意識が追いつく前に、近代化はどんどん進む、そのために、日本人は、漱石の言葉では「上滑り」、福田恆存言うところの「適應異常」、の状態に陥ってしまった、というのは適切であろう。夏目漱石は、これをいち早く指摘した人だった。
 ではどうすればいいか。今の世界で外国と交際しないわけにはいかない。外国の中でも西洋と交際すれば、何しろ向こうのほうが強いのだから、向こうに合わせなければならない。早い話が、英語を一所懸命学んで、あちらの文物を移入しなければならない。すると、過去の自分をいくらかは否定しなければならないようなので、そこで不安に陥る。
 だからと言って、西洋に対して日本の優位をしゃにむに言い立てるなんてのも馬鹿げている。過剰な反発も、過剰適応と同じく、適応異常の現れなのである。

外國人に対して乃公(おれ)の國には富士山があるといふやうな馬鹿は今日はあまり云はないやうだが、戰争【日露戦争】以後一等國になつたんだといふ高慢な聲は随所に聞くやうである。なかなか氣樂な見方をすればできるものだと思ひます。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神經衰弱に罹(かか)らない程度にをいて、内發的に變化して行くが好からうといふやうな體裁の好いことを言ふよりほかに仕方がない。(「現代日本の開化」)

 「私は明治維新のちようど前の年に生れた人間でありますから、今日この聽衆諸君の中に御見えになる若い方とは違つて、どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやうな怪しげなものであります」と、「文藝と道徳」では言っている。「理想」が失われつつある現状を怜悧に観察しながら、失われつつあることへの悲憤も捨てない、捨てられない。この「両棲動物」ぶりは今日の我々には想像もつかないほどの強い精神的緊張をもたらしたろう。
 小説のテーマとしてはそれは、「人は如何に生きるべきか」の形をとる。漱石作品が我々にとって、ちょっと見よりは難解なのはそのせいである。一応のことしか言えそうにないが、一応のことは言ってみたい。
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文芸はいかに道徳的であるべきか その2(人に報いあれ)

2016年10月01日 | 文学
メインテキスト:正宗白鳥『作家論(一)・(二)』(創元社。(一)は昭和16年、(二)は昭和17年)



 Guy de Maupassant, La Parure, 2007, un film de Claude Chabrol

 正宗白鳥は昭和37年まで生き、結果として自然主義文学作家の最後の一人になった。そして、明治末期、彼らと一番激しく対立したのは、夏目漱石とその一派だった。
 と言っても、こういうところからあまり面白いものは出なかったように思える。今でもよく見かける、「あいつは自分で自分をエラいように思っているが、その実、実に哀れな者さ」の如き悪口の応酬に留まって、議論が一向に深まらず、本質的なところへ向かっていない。日本の文芸はそうなるように宿命づけられていたものであろうか。それ自体は一考に値する問題に違いない。
 が、ここでは、では「本質的な方向」とは何か、自分一個の考えを示して、ご批判を乞うことにしたい。

 『作家論』中の「夏目漱石」は、昭和2年、漱石の死後十年以上経ってから発表された。だいぶ冷静にはなっているが、まだかつての行き掛りの痕跡が独特の陰影を加えていて、面白い評論である。
 中にこんな一節がある。

 漱石が、モウパッサンの「首飾り」を非難した講演錄を讀んだことがあつたが、そこに含まれてゐた非難の個所は、このフランスの作家が、作中の薄給者夫妻の長い間の辛苦を無意味なものやうに取扱つた點にあつた。モウパッサンに對する道徳の立場からの非難は、トルストイによつて、峻烈に下されたのであつて、さういふところに、いろいろな文學者の見解の相違が見られて面白いのであるが、トルストイ自身の描いた人間は、漱石の描いた人物のやうに、やすやすと道徳の支配を受けるほど薄手ではなかつた。そしてトルストイの道徳観は、彼れの深い惱みと表裏してゐた。「坊つちやん」に現れた漱石のそれのやうに安價ではなかつた。

 ここで言われている講演録というのは、「文藝の哲學的基礎」のこと。明治40年、東京帝国大学及び第一高等学校教授を辞し朝日新聞社に入社した直後に、東京美術学校(現東京芸術大学美術部)で講演したものを、口演調は残しながらも徹底的に手を入れて、『朝日新聞』に連載した、評論と言うべきものである。割合と有名な文章で、講談社学術文庫にもこれをタイトルとしたものがあるので、読んだ人も多いだろう。
 今は、後の論に関係する内容のみを略記しておく。曰く、人が生きる以上、必ず「よりよき生き方」を求める。「よりよい」の基準は理想と呼ばれるものである。人間の意識の働きを、仮に、知・情・意の三分野に分けると、文芸はもちろん情の分野の活動ではあるが、それよりは具体的な事物に対する感覚を主として世界を(再)構成し、よりよい自己を建てようとする試みとしてよい(小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさはない」に近いような)。ここでの理想は、①直接感覚に訴える「美」の他に、
②知を働かせて世界の実相を抉ろうとする「真」
③愛情や道義を重んじる心を主とする「善」
④偉業を成し遂げる人間の意欲の強さに即応した「荘厳」
が考えられる。
 このすべてを備えているのがそれこそ理想であるが、実現するのは極めて困難であろう。しかし、現代では文明の発達の結果「真」の分野が最も幅をきかし、これがないような文芸はそれだけで価値がないように思われがちだが、本来そんなことはない。のみならず、真(真実、真相)の名のもとに、他の理想を毀損するようになると、その結果生じる不快感のために、本来の面白さも打ち消されてしまう。
 西洋文芸にはこの弊に陥っているものが少なくないから、無批判に輸入するのは考えものだ、というところで、具体例として漱石先生が不快を感じる文芸作品が四つ挙げられている。最初に、モーパッサン「放浪者」にも言及されているが、これは自身が読んだわけではなく、読んだ人から聞いた話だが、と言われているので、度外視してよい。その他には、
(1)シェイクスピア「オセロ」。古典作品で、例外的にリストに載せられた。「讀んで仕舞つて如何にも感じがわるい。悲壮だの芳烈だのと云ふ考へは出て來ない、只妙な圧迫を受ける」と言われている。
(2)イプセン「ヘダ・ガブレル(ヘッダ・ガブラー)」。タイトルロールである主人公は「何の不足もないのに、人を欺いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい真似をやる、徹頭徹尾不愉快な女」。
(3)モーパッサン「首飾り」。主人公の「實着な謹勉は、精神的にも、物質的にも何等の報酬をモーパサン氏もしくは讀者から得る事が出來ない樣になつて仕舞ます。同情を表してやりたくても馬鹿氣てゐるから、表されないのです」。これと、次の作は、題名も告げられていない。
(4)エミール・ゾラ「シャーブル氏の貝」。「普通の人が眉を顰める所に限つて喝采する」「下民の聚合する寄席」に相応しい話だ、と評される。
 現在の文学好きがこれを読んだら、「まるで小言オヤジのような頭の固さだなあ」と感じて、あとは一顧だにしないのが普通だろう。しかし即断は禁物、もう少し漱石の側に沿って、これらの矯激な評言を考えてみよう。
 (1)について、「妙な圧迫を受ける」とは、シェイクスピアの創作意図にうまく乗せられているとも言えそうだ。立派な男が、悪人の奸言に嵌まり、見せかけの切れ切れの証拠らしきものから疑心暗鬼の虜となり、ついには罪もない貞淑な妻を我が手にかけるに至る。よく考えると、不自然な話なのだが、緊密な構成からくる迫力に押されて、最後まで固唾を飲んで見てしまうところにこそ、このイギリスの国民的劇作家最大の手腕が現れているからである。
 なるほど、オセロの行為はどこまでも愚かで、悲壮美とか偉大さとかとは縁遠い。しかし、ギリシャ以来、悲劇とはたいていそんなものではないか。自らの意志力を発揮してどうしたこうしたより、不条理な運命に翻弄される面のほうがずっと強く描かれている。ただ、ギリシャ悲劇では神々の意志がからんだりするところに、シェイクスピアは人間同士の思惑やら感情の縺れだけで劇を構成した。ヒーローがより人間臭くなる分、普通の意味の荘厳さは後退する。
 それでは物足りぬ、あまり愉快ではない、というのは、漱石の持つロマンティシズムがしからしめるのだろう。彼のこうした資質を考えるうえで、参考になる。
 (2)が私からすると最大の妄評である。それでつい皮肉めいた言い方をしてしまうのだが、なるほどヘッダ・ガブラーは悪女であっても、「虞美人草」の藤尾などよりはずっと奥行きの深い人物だ。
 元来は情熱的な性格であるのに、当時の偽善的な社会通念と、それを軽蔑しながらも正面から対峙する力のない己の弱さのために、意欲が捻じ曲げられ、破壊的な行動しかなし得ない。最後には自分自身を破壊する、という形で、そんな自分を罰する。裏返された悲劇というべき作品なのだ。漱石の目がそういうところには向けられなかったのは、残念である。
 (3)が一番肝心なので、先に(4)のほうから見る。岩波文庫『水車小屋攻撃』の中に朝比奈弘治訳で入っているので、実物を読んでもらうのが一番よいのだが、その暇はない、という人のために漱石による粗筋を下に引いておく。

御爺さんが年の違つた若い御嫁さんを貰ひます。結婚は致しましたが、どう云ふものか夫婦の間に子が出來ません。夫(それ)を苦に病んで御爺さんが醫者に相談をかけますと、醫者は何でも答辯する義務がありますから、左樣、海岸へ御出でになつて何とか云ふ貝を召し上がつたら子供が出來ませうよと妙な返事をしました。爺さんは大喜びで、早速妻君擕帯で仏蘭西の大磯辺に出掛けます。すると其処に妻君と年齡から其他の點に至るまで夫婦として、如何にも釣り合のいい男が逗留して居まして妻君とすぐ懇意になります。(中略)ある日の事三人で海岸を散歩する事になります。時に、お爺さんは老體の事ですから、石の多い濱辺を嫌つて土堤の上を行きます。若い人々は波打際を遠慮なくさつさとあるいて參ります。所が約五六丁も來ると、磯際に大きな洞穴があつて、兩人がそれへ這入ると、うまい具合と申すか、折惡くと申すか、潮が上げて來て出る事が六(む)づかしくなりました。老人は洞穴の上へ坐つた儘、沖の白帆を眺めて、潮が引いて兩人の出て來るのを待つて居ります。そこであまり退屈だものだから、不図思出して、例の醫者から勸められた貝を出して、此貝を食つては待ち、食つては待つて、とうとう潮が引いて、兩人が出てくる迄には余程多量の貝を平(たいら)げました。其場は夫(そ)れで済みまして、愈(いよいよ)細君を連れて宅へ歸つて見ますと、貝の利目は忽ちあらはれて、細君は其月から懷妊して、玉の樣な男子か女子か知りませんが生み落して老人は大滿足を表すると云ふのが大團圓であります

 フランス人男性は、伝統的にコキュ(寝取られ亭主)になるのをひどく恐れる。女房を他の男に取られて、しかもそれに気づかぬ男こそ、最も笑い者にされてよいという通念があるらしい。もっとも、世界各国に似たようなところがあって、オセロだって半分近くはそれで怒るのだし、日本の落語にも「紙入れ」とか「風呂敷」のような間男を題材にしたものがある。
 漱石先生にはそれが気に入らない。妻に不倫されたからと言って、特に悪いところもない男を嘲るとは何事だ、非常に下卑たふるまいだ、寄席通いをするような人種にこそ相応しい、というわけで。【でも、漱石自身寄席がけっこう好きで、「三四郎」で柳家小さんを絶賛しているのはよく知られている。やっぱり、なかなかに複雑な人物なんですね。】
 いやあ、ちょっと待っていただきたい。コキュ噺は、この作品を締めくくる枠のようなものだ。主眼は、海の妖しい雰囲気に魅せられて、つい道ならぬ情愛に踏み込んでしまう男女を描くところにある。それがなんだ、と言われたのではもう立つ瀬がありませぬ。
 そこでさらに、なんでそんな不道徳な枠が必要なのか、と言われますなら、そりゃ、作品にまとまりをつけて、印象を鮮明にするためです。大作家の夏目漱石先生には、本来釈迦に説法であるはずなのですが。
 先生は、ここには人間の一面の真実は描かれているかも知れぬが、それで貞操という徳義が損われ、馬鹿にされるのではなんにもならないではないか、とおっしゃりたいらしい。この小説を読んで、先生以外に、そんなふうに思う人はまずいないと思う。いるとしたら、上の梗概だけを読んだような人だろう。ゾラにしてからが、不貞がきっかけで破滅する男女を描いた傑作「テレーズ・ラカン」を書いていることだし。まあ、こっちは、夫殺しまでやるのだから、文字通り話が違うか。
 ともかくですね、徳義というものをそうまで狭く堅苦しく捉えたんでは、人間の「情」を描くことが難しくなる。それではつまらなくないですか? 
 というか、文学なんてやってられなくなりはしませんか?
 白鳥が漱石をけなすために引き合いに出したトルストイは、実際にそれに近いところまで進んだ。1898年に完成・刊行された「芸術とは何か」では、自身の「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」まで含めた近代の、いわゆる芸術は、いかなる意味でも民衆を幸福にしない有害無益なものだ、と全否定している。
 それでいてその後で、「復活」のような、欲情の激しさをも力強く描いた作品を書いてしまうのは、矛盾ではない。何しろ、自分の若い頃の行状への懺悔(相当な遊び人でもあったらしい)を込めた、道徳性の点でも、文句のつけようのない小説なのだ。
 こんな桁外れに立派な人には、とても反論できない。ただ、「あなたほど正しくなれる人は、他にいないんですよ」と不満をぶつぶつ呟くことができるだけだ。だから誰かを、例えば漱石を、この人と比べるなんてのは、気の毒と言うより嫌味にしかならない。
 ただ、トルストイが最後の拠り所とした聖書にあたるような道徳的な基盤が、漱石にはあったかのかどうかは、それなりに面白い主題らしく思えるので、本シリーズの次の回で採り上げたい。
【それから、白鳥・トルストイ、となると、小林秀雄との「トルストイ家出論争」、後には「思想と実生活論争」と呼ばれたものが連想されます。これもできたら、後で考えてみたいです。】

 そこで(3)の、モーパッサンをめぐって。日本では、少なくとも昔は、ゾラよりモーパッサンがよく読まれていたから、「首飾り」も読まれていて、正宗白鳥のように反応する人も出てくる。
 ところで、これを読んでくださっているごく少数の人にお願いしたい。できたら、本作のほうを、短いものですから、読んでから拙文に目を通していただきたい。本を買ったり借りたりしなくても、青空文庫に「頸飾り モウパンサン」の題で、戦前の辻潤訳がでているし、新しいところでは以前にもお世話になった足立和彦氏が訳したものをご自分のサイトに載せてくださっている。【なお、足立氏は他に、「夏目漱石とモーパッサン」という論考もアップしておられる。資料的にも詳しい、行き届いた名論で、大変参考になった。深くお礼申し上げます。】
 それと言うのも、個人的に、小説の最後の、いわゆる「どんでん返し」によって最も衝撃を受けたのは、これと、E・A・ポー「アッシャー家の崩壊」を双璧とするからだ。むろん、両作は、短編小説である以外は全く異質、というか、正反対というべき作風である。
 ポーのはのっけからおどろおどろしい非現実的な雰囲気で始まり、次第に不安を高めながら、最も恐ろしい破局へと読者を導く。対してモーパッサンのは、パリの市井の夫婦を多少のウィットを交えて淡々と描いていって、最後にあっと言わせる。あっと言った後で考えると、そこには不自然なところも非現実的なところも全然ない、ごくありふれた話だ、というところでまた衝撃を新たにする。短編作家としての腕の冴えは、まことに御見事と言うしかない。
 で、ネタバレするのは忍びないし、また粗筋だけだと、上の「シャーブル氏の貝」のような誤解を招く危険もあるのだが、やらないと文字通り話にならないのだから、やむを得ない。以下はそのつもりでお読み願います。
 本作のヒロインは、貧しい下級官吏の妻で、その境遇には似つかわしからぬ美人で虚栄心に富む女。夫の上司である大臣が夫婦を舞踏会に招いてくれた時、夫が自分の楽しみのためにとっておいた金を回してなんとか恥ずかしくないだけの服を買い、装身具は、妻の女学校時代の同級生である、裕福な友だちから借りる。舞踏会は夢のように華やかだったが、ヒロインは舞い上がりすぎて首飾りを失くしてしまう。仕方なく、借金してそっくりなのを誂えて返す。
 この後は漱石の感想で。「よくせきの場合だから細君が虚栄心を折つて、田舎育ちの山出し女と迄成り下がつて、何年の間か苦心の末、身に釣り合はぬ借金を奇麗に返したのは立派な心掛で立派な行動であるからして、もしモーパサン氏に一點の道義的同情があるならば、少くとも此細君の心行きを活かしてやらなければ済まない譯でありませう」。ところが実際には、この細君の苦労は無意味なものであったように思える結末になっている。
 そりゃあないだろう、普通の道徳心があるなら、とてもこんなのには耐えられないはずだ、というわけ。前三者と違って、これには一理あるかなあ、と思える。なにせ、苦労の基の借金の、そのまた基になった首飾りが、実はほとんど値打ちのない偽物だった、とわかるのだから。
 結末は、漱石の語りでは、「先方の女は笑ひながら、あの金剛石は練物ですよと云ふたさうです」。
 しかし実際は少し違う。足立訳で引用すると、

 フォレスティエ夫人は、すっかり心を動かされ、彼女の両の手を取った。
 ――ああ! かわいそうなマチルド! でもわたしのは偽物だったのよ。せいぜい五百フランのものだったんだから!……


 もし、友だちのフォレスティエ夫人が、漱石の言う通り「笑ひながら」こう言ったとしたら、私たちは、作者まではともかく、この女はなんて嫌な奴なんだ、と思わないわけにはいかないだろう。その程度の道徳心なら、なるほど、誰にでもある、と言える。だから、モーパッサンも嗤わない、その証拠にヒロインの友だちも笑わないのだ。
 漱石が誤読したのは、淡々とした書きぶりそのものに、作者のひそかな悪意を感じたからだろう。「よくせきの」で始まる引用文の直前ではこう言っている。「輕薄な巴里の社會の眞相はさもこうあるだらうと穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります」。首飾りの偽物の宝石は、パリの、特に社交界の贋物性を象徴する、というわけか。
 社会の偽善を暴くことは、それ自体に爽快感があり、なるほど、これを文芸の諸理想中の「真」の現れと呼んでもいい。モーパッサンの二つ目の長編小説「ベラミ」などは、典型的にそれを主眼としている。しかし、虚栄心と言ってもまことにささやかなものしか描かれていない「首飾り」は、それにはあたらないだろう。
 もしそうだとすれば、作者は、例えば、貧しいながらも気取らず、実直な生活に目ざめたヒロインの、「精神的な勝利」を最後にもってきてもよかったはずだ。文学で「こころいき」を生かすには、それでもいい。しかし、想像しただけでも、それはやっぱり取ってつけた結末にしかならないなあ、と感じられる。
 モーパッサンはここで、何かの主張をすると言うより、人生にはこういうことも起こりがちでしょ、とただ提出して見せたのである。なるほど、最も広い意味の徳義を気にしないで生きていける人はいない。人はそれぞれの場所で、「よりよく生きる」ことを求めている。しかしその人間が現に生きている場所では、長年の懸命な努力が一瞬にして無駄になってしまうようなことも往々にして起きる。絶望するのも御随意だが、なんらかの理想を抱くにしても、こういう厳しい現実認識を踏まえないと、子どもの夢想と変わらなくなってしまう。
 と、いうような主張も、私が敢えて深読みをして出したので、モーパッサンのものとは言えない。彼はただ、描いた。「何のために」などということを考えれば、描写が不正確になるばかりだ、とでも言うように。トルストイも、「モーパッサン論」(木村彰一訳。筑摩書房版世界文学大系44『モーパッサン』所収)でこれを指摘し、不満を表明している。
 ただし、とトルストイ先生は言う。人間の全き孤独、他者との根本的なディスコミュニケーション状態への深い絶望感は、モーパッサン作のいろんなところに現れている。【以下は由紀の半畳。人と人とは結局分かり合えない、ということだけはわからせることができる、と言えば、皮肉になるが、これも裏返しにされた一種の共同性であり、道徳性だと言える。人は完全に孤立できるものではなく、従って道徳性と完全に切れることもない。】それを深めて行けば、あと一歩で、本当の信仰にまで至ることができたろうに、軽薄で不道徳な環境のために止まってしまったのが、彼の悲劇だ、と。
 夏目漱石は、多くの点でトルストイと共通している。彼も文芸を、世界をありのままに描けばいい、などとは考えなかった。そこに彼の自然主義文学批判の要諦があるので、批判された側としては、「ありのままに書く」文芸にはどのような価値があるのか、闡明することで、彼に対抗するべきだった。彼らの多くが、モーパッサンを尊敬していたことだし。
 しかし実際は、日本の自然主義文学の作家たちは、世の中の実相を描こうなどとも志していなかったのだから、対立と見えるものもすれ違うよりほかになかったのである。
 漱石は漱石で、文芸はもっと意義のある、尊いものにならねばならんと本気で考えていた。「文藝の哲學的基礎」では、次のように気炎を上げている。

文藝家は閑が必要かも知れませんが、閑人ぢやありません。ひま人と云ふのは世の中に貢献する事のできない人を云ふのです。いかに生きてしかるべきかの解釋を与へて、平民に生存の意義を教へる事のできない人を云ふのです。かふ云ふ人は肩で呼吸(いき)をして働いてゐたつて閑人です。文藝家はいくら縁側に晝寝をしてゐたつて閑人ぢやない。(中略)しかしこれだけ大胆にひま人ぢやないと主張するためには、主張するだけの確信がなければなりません。言葉を愌えて云ふといかにして活きべきかの問題を解釋して、誰が何と云つても、自分の理想の方が、ずつと高いから、ちつとも動かない、驚かない、何だ人生の意義も理想もわからぬくせに、生意気を云ふなと超然と構へるだけに腹ができていなければなりません。

 
 これが漱石の使命感であった。これがために、まず、彼の小説はけっこうつまらなくなったのではないか、と思える。それでもなんでも、道徳(的なものを含む)に拘泥し、近代日本ではそれがなかなか見つからないことに本気で苦しんだらしいところに、彼の真面目を見るべきであろう。苦しむポーズを示したことで、夏目漱石が主に旧制高校生たちのスターになった、というようなのは、無論度外視して。
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