由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路Ⅱ その2(「平和」への長く曲がりくねった道の端で)

2021年06月30日 | 近現代史
Wilson's Fourteen Points as the only way to peace for German government, American political cartoon, 1918.

メインテキスト:篠原初枝『国際連盟 世界平和への夢と挫折』(中公新書平成22年)
サブテキスト:臼井勝美『満州事変 戦争と外交と』(昭和49年初版、講談社学術文庫令和2年)/山室信一『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』(人文書院平成23年)

 今さらではあるけれど、20世紀とは戦争の時代だった。第一次(1914―1918)と第二次(1939―1945)の両大戦を初め、地球上のどこにも戦争がない時期はなかった。その過程で戦争の様相が変わり、それにつれて社会のありかたも変わった。その結果が我々を取り巻き、誰の目にも見えてきた時代を「現代」と呼ぶ。
 前のほうの大戦中に、飛行機や潜水艦や戦車が本格的に武器として使われるようになった。【毒ガスも多く使われた。この「非人道的な兵器」は、1889年の第一回ハーグ平和会議で既に私用が禁じられており、第一次世界大戦後1925年のジュネーヴ議定書によって改めて禁止された。もちろんそれで地球上から消えたわけではなく、時々禍々しい姿の片鱗を現す。】それ以上に、一般庶民が「国民」となり、戦闘の前面に出てきたのが大きい。
 壮年男性が原則としてすべて兵士となる国民皆兵、そのための制度である徴兵制は、部分的には中世からあったが、本格化したのはフランス革命(1789―)からだ。「武器を取れ 市民よ/隊列を組め/進もう 進もう!/不浄な血が/我らの耕地を満たすまで!」(「不浄な血」とは、革命時にフランスに侵入したプロイセン軍を指す)という、この頃出来たフランス国歌がこの間の事情をよく示している。
 このような事実は意外に感じられるかも知れない。戦後日本では、一般庶民は戦争の犠牲者とのみ捉えられる。それは、兵器の進歩に伴って戦争の悲惨が増し、また映像など記録手段の進歩でそれが生々しく伝えられるようになったからだが、さらにそれ以前に、戦争の大規模化があった。
 国民との関わりから見ると、以下のようにまとめられだろう。

 第一に、兵士の補充が続くので、戦争がなかなか終わらなくなる。第一次世界大戦は正にそうだった。この時代を描いたマルゼル・プルーストの小説「見出された時」(1927年刊。「失われた時を求めて」最終巻)中のフランスのサロンでは、最初のうち、多くの人が「こんな戦争、すぐに終わる」と言っている。4年以上も続くとは思われていなかったのだ。それというのも、社交界を形成する上流の貴顕紳士には、一般民衆の姿は具体的に映じてはいなかったからだ。

 第二に、上の反面、一般庶民が戦闘員となり、命がけで国を守る責務を負うようになると、それに伴う権利を当然のこととして要求するようになる。普通選挙(これも最初はフランス革命時)前から、民衆は直接行動でこれを示すことがあった。日本では、明治38年(1905)の日比谷焼討事件が目に見える最初の例であろう。
 十年前の、日清戦争の結果得た遼東半島の権益を、三国干渉の結果手放さねばならなかった時には、政府の「臥薪嘗胆」の呼びかけが功を奏したものかどうか、目立った反対運動はなかった。しかし、こんな呼びかけがなされたこと自体が、政府が一般民衆の心事に気を配らねばならなくなった、少なくともそのポーズはつけねばならぬと感じられるようになっていた証左であろう。幕末の諸外国との不平等条約締結時にも、反対はあったが、それは志士と呼ばれる武家階級からに限られていた。農工商の身分の者が、自分たちの生活、いな生存が直接脅かされることに対する、いわゆる一揆(大正年間の米騒動はそれに近い)とは違う、政府の国外政策に抗議する、なんぞということは、封建時代には考えられないことだった(幕府老中阿部正弘が、来航したペリーを如何に扱うか、広い範囲に意見を徴したのに対して、武家以外の者の回答まであったのは、言わば例外だが、この頃までにけっこう高い見識を持つ者が下の階級にも現れていたことを示している)。
 政府によって愛国心を煽られ、家族が兵士として戦地に引っ張り出された庶民は、戦争の成果にも黙っていなくなる。ロシアとの戦争には勝ったはずだ。それなのに、なぜ賠償金を取れないか。理由ははっきりしていて、日本にはもうこれ以上戦う力が残っていなかったからだが、それは説明しづらい。大東亜戦争時の「大本営発表」はこういう場合の公式発表の代名詞になったくらいで、民衆、に限らず人間一般は、自分にとって都合の悪い情報は聞きたがらないものだし、聞いてしまったらすぐに「ではその責任者は誰だ」とくる。そのうえ、おおっぴらに自分の弱みを認めたりしたら、敵国との停戦交渉の際にもそれは相手にとって有利な、即ちこちらにとって不利なカードとして働く可能性大である。
 かくて、戦果に不満を抱く民衆を宥める手段は日露戦時の日本政府にはなく、ポーツマス条約に反対する国民集会はすぐに暴動となり、全権大使の小村寿太郎は条約締結後約1カ月米国で病気療養した後、ひっそりと横浜から帰国した。
 似たようなことはこの前後各国の常態になった。国の指導者が自分の都合と感情だけで戦争をやめるわけにはいかなくなった、ということであり、これも戦争の長期化を招く。total war(全体/総合戦争)とはそういうことである。

 戦争がこのように、万人にとってのっぴきならないものになるにつれて、平和への模索も真剣になった。そのうち最も目立つ里程標としては、第一次大戦後の国際連盟(1920-1946)とパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約とも。1928)がある。戦争の非合法化への取り組みであり、決してまやかしとも、無駄な努力とも思わない。が、人類は結局第二次世界大戦を防ぐことができなかったのは厳然たる事実である。
 なぜか? これはもとより難問中の難問である。このシリーズを通じて省察したい。今回は、20世紀初頭に現れてきたところを瞥見しておこう。

 1918年1月、第28代米合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦を恒久平和に向けて有意義に終わらせるべく、議会での演説でfourteen points(十四箇条の平和原則)と呼ばれるものを示した。今後の拙論の展開にも密接に関わるので、以下にやや詳しく内容を紹介する。

第一条 国際条約公開の原則。国家間の取り決め(条約)は、秘密の協定によるものではなく、自国民にも他国にも明らかにすること。いわゆる裏取引は禁じられる。
第二条 公海航行自由の原則。
第三条 国家間の経済障壁はできる限りなくし、また貿易の条件は平等であるべきこと。
第四条 軍備は、防衛の必要上最低限のレベルまで縮減すること。それには国家間相互の保証が伴わなければならない。

第五条 いわゆる民族自決原則。ただし現在イメージされるもとは大きく違うところがあるので、全文を拙訳で掲げる、
 「すべての植民地の要求は、あらゆる主権問題の決定において、関係する住民の利益が、その権利が認められている公正な政府と等しく重視すべきだという厳密な原則に基づき、自由で寛大で絶対に中立な立場で調整する
 わかりずらいですか? これは要するに、植民地の住民の利益(the interests of the populations concerned)は、権利が認められている公正な政府(the equitable government whose title is to be determined)、即ちその地を支配しているいわゆる宗主国と同等のものとして扱われなければならない、ということ。植民地を放棄する、という意味ではないけれど、宗主国に植民地住民の人権を蹂躙するのは明確に禁じている分は、進歩と言える。当時の人権意識は、理想家と言われたウィルソンにして、ここまでだった。これについては後述。

第六条。ロシア駐留中の各国軍の完全撤退。ロシア国内の政治決定権(国家主権)の承認。また、ロシアへの援助の約束。
 ロシアでは1917年のボリシェヴィキによるいわゆる十月革命の結果、世界初の社会主義国家となっていた。ウィルソンは公的なスピーチで最も早くソビエト政権を認めた西側指導者だった。
 もっとも、それは欺瞞的としか言いようのない結末になる。レーニンの指導するボルシェヴィキ政権は同年12月に、「平和に関する布告」として無併合・無賠償・民族自決を骨子とする第一次世界大戦終結のための講和案を発表したが、連合国(英仏中心)側で応じる国はなかった。結果ロシアは単独でドイツと講話を結び、戦線を離脱する。しかし、ウィルソンの十四箇条には「布告」と明らかな共通点があり、これを意識したのは確かだった。
 一方で社会主義・共産主義革命運動の高まりが自国に波及する(実際、レーニンとトロッキーの思想の中には世界革命論があった)ことを恐れた西欧諸国は、密かに革命政権の弱体化を企てたが、英仏は、背後のロシアの脅威が無くなったドイツの、全力の猛攻を防ぐのに精一杯で、遙か東方まで兵力を裂く余裕はなかった。その役割を引き受けたのが日本と、17年4月に新たに英仏側で参戦した米国だった。こうして、ロシア内に取り残されていたチェコスロバキア義勇軍(独からの独立を目指して組織されていた)救援を表向きの理由として、世に言うシベリア出兵が始まる。
 山室信一(pp.126~139)によると、日本軍にとってロシア革命の成功は危機であると同時に好機と捉えられていた。体制変革の混乱に乗じて、満州をも飛び越えて、はるか北方の地の権益を得ようという思惑が生じたのだ。一方英仏側は、最低でもソ連がドイツと組んだりしないように牽制はしてもらいたいが、そのためにアジア東北部で日本の勢力が大きくなり過ぎるのも警戒していた。
 後の懸念は、この地の利権に関心を持ち始めた米国にもあり、日本を監視するためにも、あまり気乗りしない派兵に応じたのだった。このへんの強国同士の虚々実々の駆け引きこそ、大東亜戦争終結時までの日本の歴史=物語の動因となったものだ。次回からじっくり眺めよう。

第七条 ベルギーの完全な復興。
第八条 フランスの領土回復。大戦前の状態への復帰はもとより、1871年のプロイセンによるアルザス・ロレーヌ地方の編入(アルフォンス・ドーデ「最後の授業」に描かれている)は「不正」であったとして、この地は再びフランス領とする。
第九条 曖昧だったイタリア国境の再調整。
第十条 オーストリア=ハンガリー帝国治下の諸国民に、自由な機会を保証する。具体的には、オーストリアとハンガリーの分離を初め、帝国内の諸民族を独立させ、ハプスブルグ王家最後の帝国を解体させること。
第十一条 ルーマニア、セルビア、モンテネグロなど、バルカン半島諸国の完全な独立。
第十二条 オスマン帝国のトルコ人の主権は認めるが、帝国治下の諸民族は独立させる。ダーダネルス海峡は各国の自由な通路として開放する。
第十三条 1814年のウィーン会議(ナポレオン戦争の後始末)以後オーストリア・プロイセン・ロシアによって分割統治されていたポーランドの再統一・独立。
第十四条 「国の大小に関わらず、政治的独立と領土保全を相互に保証する目的で、特定の規約に基づいた国家の一般的な連合体を形成しなければならない」。これが即ち国際連盟設立の最初の理念である。

 改めて全体を眺めると、第七~十三条によって、バルカン半島を含むヨーロッパの支配―被支配関係は否定され、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)、ドイツ帝国(ホーエンツォルレン家)、トルコのオスマン朝は瓦解することになる。第一次世界大戦の後始末であるパリ講和会議(1919)はほぼこの方向に進み、2年前に既に革命によって命脈が絶たれていたロシアのロマノフ家を含めると、中世期からずっとヨーロッパ・中近東・北アフリカで覇を競った帝国群のうち四つは消滅した。
 しかし、大英帝国はまだ残っていて、この時点で地球の約四分の一を領有していた。その他、アジア・アフリカのほとんどが、ヨーロッパの七つほどの国によって支配されていた。その西欧諸国が王制だろうと共和制だろうと関係ない、植民地とは、自国のものなのである。それが当り前なのであって、戦争に負けてもいないのに、どうして手放さなくてはならないのか、当時はほとんど誰にも答えられなかったろう。従って、民衆もそんなことは許さなかったろう。日露戦争後の日本人について見たように、戦争に勝ったのにご褒美が足りないだけでも怒るのだから。それにまた、アジア・アフリカは未開の地であって、そこの民衆に国を治めるなんてことはできない、と思われていた。
 第五条は、前述のように、そんな状況下でせめてもの一歩を進めたとは言えるだろう。ただ、パリ講和会議で、日本は人種差別撤廃条項を国際連盟規約に入れようと提案したが、この時ウィルソンは、かかる重要な事案は参加国全体の賛成を得なければならない、として、事実上葬り去っている(全員が賛成するわけはない。それはウィルソンも百も承知だったろう)。人種差別問題は今日でも残っていることは周知だが、植民地だけでも、世界が一応の解消に向けて動き出すのは、第二次世界大戦後まで待たねばならなかったのである。

 その日本からして、領土的野心とは無縁だったとはとうてい言えない。日清・日露戦争後の有様やシベリア出兵時のことは略述したが、第一次大戦開始時にも、元老井上馨が、「大正新時代の天佑」と言い, 政友会の代議士(後に原敬内閣の内務大臣)床次竹二郎の「日本ガ東洋ニ於テ優越権ヲ確保スベキ千載一遇ノ好機」など、類似の発言は数多い。
 大陸進出を狙う日本にとって、最大の難敵は支那人より、同じくこの地から利権を貪ろうとする欧米列強だった。それが自分たちのところで喧嘩を始めてくれて、遠隔地である支那大陸までは容易に手が回らなくなったのが、つまり天佑の好機で、正に確保すべきと感じられたのだ。
 日英同盟を口実にして大正3年(1914)にドイツに宣戦布告し、同国の租借地だった山東省膠州湾(青島)を占領した。この地は中華民国に還付すべきである、と表向きは唱えていたが、初手からそんなつもりはなかったろう。翌年には、その山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐことも含む「対支二十一箇条の要求」を中華民国政府に突きつけた。
 日本の要求はその後諸外国から抗議を受けて縮小したが、山東省や満州での特殊権益、旅順・大連の租借権期限延長などを中華民国大総統袁世凱に認めさせた。その代わり袁は、地位を守るために日本の横暴を内外に宣伝し、諸外国からは我が国への疑惑と非難を招き、支那国内では要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と名付け、抗日運動が盛んになった。
 当時の大国のやり口からして、日本はさほど非道なことをしたとは言えないかも知れない。だいたい「やらねば、やられる」時代だった。例えば満州の利権や、さらには支配権など、日本が握らなければロシアのものになった可能性は大きい。ただ、同じようなことをやるにしても、日本のやり方は露骨で、今日まで続く「アジアの侵略者」の汚名の元になったことは否めない。

 これに関連して、次のエピソードが思い出される。ずっと後のことになるが、昭和7年(1932)、柳条湖事件(満州事変の最初)調査のために組織されたリットン調査団が来日して、芳澤謙吉外相などと会談した中で、3月5日、三井の團琢磨が血盟団員によって暗殺されたちょうどその日に、荒木貞夫陸相の話も聞いている。
 荒木は、「日本の貧弱な国土が増大する人口を養い得ず、また世界の門戸が閉鎖されているため、日本はアジア大陸に資源を求めなければならないという現実」を説いた。そしてまた「中国には真の政府が存在しているかどうか疑問である。中国を統一された文明国とみなすことはできないと私には思われる」(臼井p.212)とも。
 政情不安だからと言って「文明国」ではないかどうかはさておき、支那は統一された国家とは言えないというのは、荒木一人の考えではなかった。同年1月に開かれた国際連盟通常理事会の席上、佐藤尚武代表は、十年以上にわたるかの国の無秩序状態こそ事変(直接には上海事変)の根本的な原因だ、と主張した。これに対して国民党の顔恵慶代表が、「日本の陸海軍は政府のコントロールに服さず、日本の外交官が理事会の席上で真面目に約束することが、次の日、軍によって破壊されるという事態は、よく組織された国家の行為といえようか」(臼井p.185)と反論しているのも面白い。
 百歩譲って「文明国」ではないとしても、荒木は、自国ではない場所へ、自国の発展のために軍事的に進出するのだ、と公言している。言っている相手は、その場所での自国軍の謀略を調査に来ている公人である。これまた、現在の感覚とはかけ離れているだろう。逆に見れば、20世紀初頭の世界とは、そんな場所だった。日本は時代のルール、と感じられるものに則って大陸へと赴き、そこで本格的に「世界」と対峙した。この大前提をまず確認したかった。
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