由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

経済オンチがお金について語ってみた その3(バブル怪談)

2020年11月24日 | 倫理

串田和美演出「幽霊はここにいる」新国立劇場平成10年

メインテキスト:安部公房「幽霊はここにいる」(昭和33年作。『幽霊はここにいる・どれい狩り』新潮文庫昭和46年)
サブテキスト:マイク・ダッシュ、明石三世訳『チューリップ・バブル 人間を狂わせた花の物語』(原著は1999年。文春文庫平成12年)
永野健二『バブル 日本迷走の原点1980ー1989』(新潮社平成28年、新潮文庫令和元年)

 経済的な用語や、まして理論はなるべく使わないで(だいいち、よく知らない)、お金の話をしてみようと思ってやってきたんですが、どうせなら、素人の強みを発揮して、もっとラディカル(過激&根源的)な話をしてみようと思います。もっとも、それも、書いている本人がそう思っているだけかも知れませんが。

 「一万円はどうして一万円の値打ちがあるのか」というのが私の、今では思い出すことができないぐらい昔からの疑問だった。少しばかり経済学の本を囓ってみたりもしたが、管見の限りでは明確な答えを見つけることはできなかった。
 ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』には、「租税が貨幣を動かす」なる言葉があった。なるほど。主権国家には貨幣発行権と徴税権がある。国家とその下にある地方公共団体に納める税金は、基本的にその国家が発行している通貨でしか支払われない。としたら、同じ国に住む誰にとってもこの通貨は必要になる。だから、国民はみんな欲しがり、国内の交換(最広義の商品の売買)のために普通に使われるようになる。
 ただ、考えてみればこれは、通貨(貨幣+預金)の有用性を、後付けで創っているということだ。値打ち=価値とは、人々が欲しがるもののことだろう。誰も、税金を払うために働いている、なんて人はいない。
 それなら、ちょっと、見る角度を変えてみれば。なぜ、一万円札には一万円の値打ちがあるのか。引き換えに、一万円で売られているモノが手に入るからだ。
 では、そのモノにはどうして一万円の値打ちがあるのか。一万円で買う人がいるからだ。売れると思って生産された商品が売れないことなどたくさんある。その商品に人々が、一万円なら一万円の値打ちを認めなかった時には。
 以上から、交換の場=市場における価値の決まりかたがわかる。言わば、相互依存型なのだ。一万円札は一万円のモノが買えて初めて価値を実現する。一方でモノは、一万円で売れて初めて価値が確認される。この交換―流通以前にあるのは、「買えるだろう」「売れるだろう」という予想=期待=信用のみ。

 「何をわかりきったことを」と言われますか。「交換価値は、交換されて初めて出てくる」とでも言えば、当り前、というよりトートロジーになる。
 それに、将来手に入るものを期待して今何かをするのは、人間なら普通のことだ、とも思えるだろう。お百姓は半年後の収穫を期待して、現在畑を耕し、種を蒔く。これは経済活動のうちだが、子どもに、将来の「よい生活」のために、今は必要性を感じられないし、面白くもない勉強をやらせる、なんぞというのも含めれば、人間生活のかなりの部分が「期待」で成り立っている、と言える。人間だけではなく、動物だって、ごく短いスパンでなら、将来の何かを「予想」して何かをすることは多いだろう。
 ただ人間は、交換価値の表象である貨幣というモノを発明した。それは、「何かを手に入れたい」という欲望と直接結びつく。言わば欲望そのものの具現化だ。これによって人間社会に特有の、さまざまなことが生じる。
 
 戯曲「幽霊はここにいる」には、「その気になれば、石っころだって金にしてみせる」と豪語する名うての詐欺師が登場する。家族から、「いいかげんに詐欺みたいなことからは、足を洗ったら」と言われて、反問する。ものの値段はどう決まる? 
 例えばこの特大のハンカチは、買えば三十五円はする、とりあえず、それだけの値打ちがあるんだ。しかし、なぜだね? なぜそんな値打ちがあるんだね? 「きまってるじゃないの、材料費と工賃よ」。
 それへの反論として、彼は以下の金銭哲学を開陳する。
 
馬鹿な! それじゃおまえが、電柱ほどの丸太ん棒をけずって、つまようじを一本こさえたら、誰かがそれに、材料費と工賃を払ってくれると思うかね?……そうれみろ、くれはすまい……いいか、これが三十五円の値打ちがあるってのはな、ほかでもない、これに三十五円はらってくれる人間がいるからさ。物でも人間でも、値打ちってものはな、他人がそれにいくら支払ってくれるかできまってしまうものなんだ。金を払うやつがいりゃあ、それが値打ちになる……世の中にはな、だいたい詐欺なんてものはありゃせんのだ……
 
 売れて初めてものの値打ちは確定する。ならば、ここを逆にして、それにお金を出す者がいるなら、それには価値がある、としてもよい。そうではないか?

 そんな彼が、死んだ戦友の幽霊(彼にしか見えない)といっしょに旅をしていると言う男と出会い、新たな商品開発を思いつく。幽霊だ。いるかいないかわからないのに? かまわない。いない、とはっきり証明されたらさすがにマズいだろうが、それは「悪魔の証明」で、原理的に不可能だ。「もしかしたら……」と、多くの人が思うなら、それで充分。
 むしろ難しいのは供給管理である。仕入れ先はたくさんありそうだが、「幽霊はここにいる」と誰かが言うのをすべて買っていったら、資金がたいへんだし、数が多すぎて供給過剰になったら、つまりデフレで、値崩れを起こす可能性がある。
 メリハリをつけるために、生前の写真を買い集めることにする。一枚三百円。今の価値で四、五千円程度だろうか。幽霊と照合するためだという触れ込みで。照合してどうするのか、については何も言わない。言わないで、勝手な憶測が噂になって尾鰭が付いて広まるのを待ち、それを利用する。
 最大のつけ目は、生きている人間は、けっこう、死人に負い目がある場合が多いことだ。「死人に口なし」なら、忘れればいいのだが、なんらかの形で口を開く可能性もあるとなると、どうも……いろいろと、不安になる。不安とは、期待の裏返しであることは言うまでもない。この時点で、幽霊の商品化は半ば成功する。
 ワケありの(この世の誰かに恨みを残していそうな)死者の写真は高額で取引されるし、幽霊の講演会(もちろん、通訳付き)の依頼もあり、幽霊だから着たきりでいいわけではあるまい、と幽霊用ファッションショーも開かれ、幽霊も手厚く供養されるためにはお金が必要だろうと、幽霊保険も開設される……。

 これを書いた頃の安部公房は日本共産党の党員だったのだから(昭和36年には、党の方針を批判した廉で、除名されている)、資本主義体制を批判するつもりだったのかも知れない。
 しかし、幽霊、というか、いわゆる超自然物は、近代以前こそありふれていたわけだし、社会主義になったからといって消えるわけではないだろう。そうでなければ、こういう作品は、パロディとしても必要な、最低のリアリティも保てない。
 安部の功績は、この存在というか心理を、市場経済の中にぶちこんで、ころがして見せたところにある。フィクションとはいえ、面白い思考実験にはなり得ている。

 幽霊はいる。どこに? 人々の期待と不安の中に。だからそれは近代でもしっかり生き延びている。しかも、けっこうお金が絡む。お金こそ、期待と不安の表象だから。
 本当の幽霊(?)みたいな、いるかいないかはっきりしないものでもそうだ。目に見える標しがあったら? 言わば、幽霊の依代が。そうなり得るものも、なり得たものも、あったし、今もある。それは、バブル経済と呼ばれるものの中で、最も暗躍する。

 最初の投機バブルは17世紀前半、オランダで起きたと言われる。チューリップバブルという言葉は多くの人が知っていると思うが、昔のことで、詳細ははっきりしない。チューリップの球根一つが現在の日本円にして約一億七千万円で売れた、という話もあって、ともかく、途方もない取引があったことは事実であるようだ。
 どうしてそんな値がついたのか? その値段で買う人がいたからだ。

 この花は、中央アジア原産のものがオスマン・トルコ帝国のサルタンに愛好され、ここを経由してヨーロッパに紹介された。新奇であるうえに、現在のよりずっと複雑な色合いになることがあり(ウィルスつきの、病気の花だからなのだが、当時はそれはわからなかった)、優美で豪奢で、金(gold)と同様に、あるいはそれ以上に、富と権力の象徴として相応しい、と思う人もいた。
 そういう人が複数いたら、ライバルを出し抜いて手に入れた場合、その事実が、より立ち勝った社会的な力の証になる。いわゆる「見せびらかし消費」で、そこでは同じようなものが二つあったら、高いほうが選好されるという、普通の市場原理とは逆の事態も起きる。
 何も悪いことではない。商品は狭義の有用性の他に、象徴的な意味も含めて売り買いされてきたのは、文明の常だ。ただ、こういう商品には固有の弱点がある。希少性が価値の多くの部分を支えるので、買い手は自然に少数になる。というより、少数である必要がある。その少数の買い手が、「もう、いらない」と思ったら、それですべておしまい。
 チューリップバブル市場は、ある日、売ろうと思ったら、全く買い手がつかず、値崩れどころか相場自体がそれこそ幽霊のように雲散霧消して、始まったときより唐突に終わった。それまでに巨万の富を得た人もいるが、もっとずっと多くの人が破産の憂き目を見た。

 20世紀後半の日本では、幽霊は資産と呼ばれるものに取り憑いた。
 資産とは、財産とも言い、個人や企業が所有している土地・建物・有価証券・美術品など、売ろうと思えば売ってお金にすることができるモノを指す。もちろん、お金を出して買う人がいなければ、成り立たない話ではある。
 逆に、買いたいという人がたくさんいたらどうなるか? 需要と供給の単純な公式によって、そのモノの価格は上がる。
 このバブルのきっかけは、1985年のプラザ合意だというのが定説だ。アメリカの貿易赤字解消のために、結果として円高を押しつけられた日本が、予想される不況の対応策として、銀行の貸し出し金利を下げた。実際に投資は活発になったが、それだけでは使い切れないお金が市中に流れ、資産の買い付けに向ったのだと。
 そのうえに、特に、土地となると。日本の土地の値段は、少なくとも東京のは、決して下がらないという、いわゆる土地神話が、私が物心ついたときには、既にあった。ならば、買って損はない。買えるものなら、買おう。そう思う人が増えたと思ったら、論より証拠、現に、土地の値は上がるではないか。
 この事実が広く知られるにつれて、値上がりのスピードも速くなる。買い付け資金を銀行から借りても、利子以上の値上がり益は見込めるし、もちろん担保価値も上がる。かくて、土地を買ったらそれを担保にしてお金を借りて、新たな土地を買って、そしたらそれを担保にして……なんて無限ループ、なわけはないんだが、そう見えるもの(それこそ、幽霊だ)を勧める人もいて、実際に嵌まる人もいて、結果いよいよますます土地の値は上がっていく。

 バブル経済を一番簡単に定義すると、お金に直接反映する期待感の暴走、ということになるだろう。それが暴走であることは、止まってからはっきりわかるのだが、元来、期待の裏側には不安が貼り付いている。期待感が高まればそれにつれて不安も高まる。「こんなこと、いつまでも続くわけはない」との思いが強くなって表面に出てきたら、それで期待もしぼむ。もう思ったほどの値段では売れなくなり、担保価値も下がり、しかし借金も利子も元のままで残るので、日本社会は大量の不良債権を抱えることになった。
 総量規制(大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」平成2年)などの政策でバブルははじけとんだのだ、とも言われるが、きっかけとしては大きいだけで、いずれはそうなる運命だった。と言うか、これらの政策は、無駄に犠牲を大きくしたという意味で、遅きに失した、と永野健二などは言っており、こちらのほうに説得力を感じる。
 いずれにしても、市場が、即ち経済が、期待、言い換えると信用、に基づいて営まれている以上、バブルを完全に防止することなど、できない話だ。

 いいところはないだろうか? チューリップバブルは、ともかく花を栽培しなければ始まらなかったのに対して、資産バブルは、モノを生産せずに、既にあるものの売買益だけを狙うところが、いかにも不毛な感じがする。ここで動いた金額はGDPにも計上されないし。
 それでも、お金を社会の広い範囲に行き渡させる効果はあったのではないだろうか。

 もう一つ、心理的な効能もある。
 17世紀のオランダは、80年にわたる独立戦争に勝ち(独立が正式に承認されたのは1648年)、オランダ東インド会社(1602年設立)によってヨーロッパの海運業の覇権を握った。文化的にもレンブラントやフェルメールが活動した時期で、チューリップバブルは、国力の絶頂期に咲いたあだ花だったのだ。
 それが実際に社会の発展に寄与した、とは言えないけれど、市場の空前の活況がもたらした高揚感までは否定できない。景気とは、その字の示す如く、かなりの部分人々の気分に左右される。
 日本のバブル期の浮かれ気分も、今では伝説になっている。個人的な好みを別にして言うと、現在のようなくすんだ景色と気分には、いいかげん倦み疲れたが、かといってそれをなんとか打開しようとする元気も出ない、というのも、切ない話ではある。

 現在も昭和末期のような低金利政策が採られているが、株価の異様な上昇(一種のバブルだろう)以外、世間は不況なまま。これは、政府の金融・財政政策の失敗が根本的な原因であることは確かだ。
 しかし一方、バブルの失敗に懲りた企業経営者の気分が、なかなか積極的な経営方針に向わず、「失われた20年」が30年となり、さらに延びようとしている一因になっているのではないか、という疑念は拭えない。
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