由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

教育的に正しいお伽噺集 第八回

2018年05月27日 | 創作

Tangled, 2010, directed by Byron Howard and Nathan Greno

12 塔の上
の部屋にいる少女に会ってくれと言われて、天野さんは戸惑いました。
「なんで私が」
と訊くと、担任の鳥居先生は、
「君は瓜生千紗(ウリュウ・チサ)さんの幼馴染なんでしょ? クラス中で一番親しいんじゃない?」
「今はそうでもないです。話をしたのも、今年になってから、三回、いや、二回ぐらい、かなあ」
「でも、他の子はゼロだよ。なんの話をしたの?」
「別に、なんとなく」
 「魔女になりたいんだよ、あたし」なんて言ってたな。そんな話を一応まともな顔をして聞いたのは、天野さんだけだということでした。
「放課後にいっしょに行ってくれよ。瓜生さんが学校へ来なくなってから三か月になる。今までに五回家庭訪問に行ったんだが、会ってくれない、どころか、部屋にも入れないんだ。知ってるだろ、駅前のあのタワーマンション。あの最上階にいるんだが、住人以外は、住人の許可がなけりゃ建物の中、てか、住居の部分ね、へも入れないんだ。五回行って五回とも、玄関払い、いや、エントランス払いだった。
 『千紗は体調が悪くてお会いできません』て、お母さんに言われて。お母さんとだけでも会って話したいんだけど、言う暇もなくインターフォンを切られちまう。電話しても、絶対に出ないし。先生、嫌われたかな、それとも、嫌いなのは学校全体ってことか。本人だけじゃなくて、お母さんもそうらしい。もう、困っちまう。藁にもすがりたい思いってのかな」
 私は藁か。
 そう思いながらも、先生の頼みを断り切れず、天野さんは駅前のタワーマンションへ行きました。回転ドアの入口を抜けると、プッシュフォンみたいなのを嵌め込んだ壁、反対側は全面ガラス張りの、自動ドアらしきものの向こうに、エレベーターが二基あるのが見えました。先生がこの、インターフォンかな、のボタンをいくつか押すと、スピーカーから「もしもし、瓜生ですけど」という女の声。
 先生が名乗ると、インターフォンの向こう側の声はうんざりした調子になりました。
「千紗は体調が悪くて……」
 先生がすぐに
「今日はお友だちの、天野さんもいっしょなんですが」
「天野さん?」
「天野翔子さんです」
 インターフォンの向こうで、誰かと誰かがひそひそ話している感じでした。やがて声が、
「会うそうです。しばらくそこでお待ち下さい」
「部屋にはどうしても入れてくれないんだな」
 それは、天野さんに言ったのではなく、独り言でした。天野さんは、透明で大きな自動ドアの向こうをじっと眺めていました。一つには、何かぶつぶつ言いながらウロウロしている先生がウザくて、話しかけられたくなかったからです。
 二つのエレベーター扉の真ん中には、細長い表示板があり、1から20まで数字と目盛りが刻まれています。
 やがて赤い光点が一番上の20の目盛りからゆっくり下がり始めました。それが一番下に付いてから、五秒後に扉が左右に開いて、女が二人、大きいのと小さいのが降りてきました。二人がこちらに近づくと、透明の自動ドアも音もなく開きました。どうやら、向こうに人が立つと、すぐに開く作りのようです。
「初めまして。千紗の母です」
 大きい方の女が挨拶したので、先生が「私は……」と言いかけるのにかぶせるように、
「すみません、千紗は天野さんとだけ話したいそうです。先生は、お帰り願えませんでしょうか?」
「え、いや、それはちょっと……。用が済んだら天野さんを家まで送らなくちゃいけませんので」
「そうですか」
 女は小さいほうを見ました。なんだか、おどおどした感じです。お母さんなのに、なぜ? 一方小さいほうは、無表情で立っていました。
「わかりました。しばらく近くをぶらぶらしてますんで。話がすんだら、携帯のほうにご連絡いただけますか」
 女が頷くのを見て、先生は、「じゃ」とだけ言って足早に表に行ってしまいました。無責任なやっちゃなあ、と背中を見送る天野さんに、瓜生さんが声をかけました。
「お久しぶりね、翔子さん。ずっとあなたを待ってたのよ」
 え? 待たれてたの? なんで?
「向こうにゲスト・ルームがあるのよ。今なら誰もいないから、ゆっくり話せるわ」
瓜生さんはさっさと先に立って歩き出しました。透明なドアが、また音もなく開きました。お母さん(なんだろうな、やっぱり)は、「じゃ、私はこれで」と、足早にエレベーターに向かって、二人には背を向けました。
 しかたない。天野さんは瓜生さんについて行きましたので、後姿をよく見ることになりました。以前よりずっと髪が伸びて、腰どころか、お尻まですっぽり包んでいる感じです。貞子かよ。明治時代じゃあるまいし、ないわ、これ。これだけでもなんとかしなきゃ、そりゃ、学校へ来られないわなあ。
 エレベーターのある壁と直角の角を曲がると、奥にドアがありました。二人はそこに入りました。
 変わった作りの部屋でした。全体に角が丸まっていて、灰色の壁紙で、窓がなく、洞窟? を思わせるような。その代わり、家具はあっさりしたもんです。テーブルにソファ、その他には、奥に古ぼけたテレビと、ジュースの自動販売機があるきりでした。
「何か飲む?」
「じゃ、カルピスソーダ」
「相変わらずカロリー高いのが好きなのね」
 大きなお世話じゃないの? と思っていると、瓜生さんはスカートのポケットから百円玉を二枚出して、天野さん用のカリピスソーダと自分用の烏龍茶を自販機で買いました。
「学校はどう?」
 烏龍茶を一口飲んでから瓜生さんが訊きました。
「別に。普通よ」
「はん。学校は学校だもんね。面白いわけないか」
「あなたは、毎日、何してるの?」
「何も。窓から外を眺めてるわ。学校も見えるし、あなたのおうちも見えるのよ。神社の前の家よね」
 え? 見張ってるってこと? なんか、すごく、変。あり得ないぐらいに。
 しばらく両方とも黙っていました。天野さんは、退屈より緊張を感じました。何もなく時が過ぎて行くようではなかったからです。だいたい、用がないんだったら、瓜生さんは天野さんをこんなところへ呼んでジュースを御馳走するどころか、会いもしなかったでしょう。でも、そんなの、ろくな用じゃないに決まってる、ああ、やだな、来るんじゃなかった、帰りたいな、とカルピスソーダを少しづつ口に含みながら思ったとき、瓜生さんが言いました。
「先生も知ってるのよね、私たちのこと」
「え? 私たちのことって?」
「あなたが私の悪口を言ってることよ」
「なんのこと?」
「とぼけないでよ。あなた、私のこと、ヘンな女だって、みんなに言いふらしてたじゃない」
「いえ、私、絶対、そんなこと、言ってないから」
 瓜生さんは、イヤな感じで笑いました。
「別にいいのよ。私、そんなことで学校へ行かないわけじゃないし」
「あのね、魔女になりたいとか、素で言う子なんて、普通引くでしょ。それだけのことよ」
「私、あなた以外に、それ、言ってないよ」
「教室の中で、けっこう大きな声で言ったよね。聞こえちゃうわよ」
「あなたいつもあたしを羨んでたよね。あたしがお金持ちで可愛いから。できれば代りたいって思っても、できないから、それで嫌いになったんだよね」
「私、もう帰るわ」
 立ち上がった天野さんを、瓜生さんは瞬きもせずに見つめて、
「どこへ帰るっての? そんなとこ、あるわけ?」
 天野さんは足早に部屋を出て、走って、透明ドアの前に立ちました、が、
 開かない!
 体重が軽いからか、と思ってぴょんぴょん跳んでみましたが、ドアは全く知らん顔をして、天野さんの前に立ち塞がっていました。体をぶつけても、ガラスの冷たさが額と手に伝わっただけでした。
「いいのよ。代わってあげても。私も、塔の上にいるのにちょっと飽きちゃったから」
 後ろから声が聞こえるのといっしょに、ふいに眠気に襲われました。え? もしかしたらさっきのカルピスソーダに何か……。前のめりになってガラスに寄り掛ったとたんに、前につんのめり、倒れそうになったのを、誰かが受け止めてくれました。
「どうかしたのか?」
 どうやら、鳥居先生の声でした。
「この子、突然気分がわるくなっちゃったみたいで。先生、送ってってくれるんですよね」
「うん? ああ、そりゃあ……」
 鳥居先生と二人で表に出ると、普通に歩きました。
「大丈夫かい?」
 答える代わりに、塔の上を見上げて、言いました。
「あの子、毎日、一番上にある部屋の窓から、外を眺めてるんですって」
「え? そう言ってたのか?」
「あの上からだったら、私たちはどう見えるんでしょうね。蟻みたいなもんかな」
「そうかも知れんが。このままってわけにはいかんじゃないか。一生あそこに籠ってるなんて、できっこないんだから」
「そうですか? まああの子もそう思ってるかも知れませんね。誰かが連れ出してくれるのを待ってるのかも」
「連れ出すって、どうやって?」
「髪がもっと長く伸びて、下まで届いたら、誰かがそれを伝って上まで上ってきてくれるかも。そういう人だったら、きっと、蟻の世界にいる意味を教えてくれるんです」
「そりゃたいへんだなあ」
 先生は呑気そうに笑いました。この人は憎めない、自分が何をしたかもわかってないんだから。だから、およそ、なんの役にもたたない。少女は、そんな先生には見えないように脇を向くと、顔を歪めて、嗤うような、泣くような表情をしたのです。
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日本語及び日本人 その2

2018年05月11日 | 倫理
メインテキスト:鈴木孝夫『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』(新潮選書平成26年)



 鈴木孝夫氏はとても興味深い人物だった。
 まず慶応の医学部に入り、次に鳥類の研究に転じ、英語の勉強がしたくなって、英文科で井筒俊彦氏の弟子となり、イスラム文化に惹かれ、最終的には比較言語学・言語社会学を専攻した。自由闊達で、枠にとらわれず、おかげで日本の学界からは異端視され、言語学者としての評価はあまりない。
 それは鈴木氏の名誉だと思う。ところで、氏は『閉ざされた言語・日本語の世界』では、日本語は、書記法の面でオクレていると言われたことに反論し、漢字かなまじり文の合理性を明らかにした。その後さらに、日本文化全般は、西欧文化とは非常に違うが、決してオクレているわけではない。それどころか、世界を救うに足るだけの美質が認められる、と主張するに至っている。
 なぜか。地球を制覇した一神教の世界観は、キリスト教であれイスラム教であれ、もはや行き詰まりに達しているからだ。それは善悪二元論(唯一絶対紳を戴く者とその対立者)と、人間中心主義(人間は神の似姿なので、地球上のすべてを支配する権利がある)を根本理念とする。そこから、邪魔なものすべてを倒して無限に進む文明という幻想が出てくる。すでに環境破壊と終わりのない戦争(キリスト教とイスラム教の)という最悪の事態は惹き起こされた。解決策が、すべての淵源である一神教の原理からは出てくるはずがない。
 日本文化は、対立より和合を尊び(「和を以て尊しとなす」)、山川草木悉皆仏性(道元)と、自然界のすべてに人間と同等の価値を認める謙虚さがあるので、この場合の特効薬になり得る。
 実際にも、日本語を学んだフランス人が、穏やかな性格となったことが複数認められ、タタミゼ(tatamiser、タタミ化する→日本化する)という動詞がかの国で生まれているという。今後の日本人は、全人類のために、日本語と日本文化の積極的な普及に努めるべきだ、と。

 以上の見解は、さまざまなバリエーションで今日まで多数現れている。支持者が多い、ということだろう。ただもちろん全人類・全世界史に関する、デカ過ぎる話だから、正確な見通しは容易に立たない。経済問題や環境問題一つとっても、上のような見解がどこまで妥当か、個人的にも疑問がある。ただ、それを言うだけでも話が大きくなりすぎるので、ここでは「日本的なもの」についてのみ疑問を述べる。鈴木氏に直接質問する機会が与えられたので、その時言ったことにそれこそ三倍以上肉付けして。
 最初に言ってしまうと、私は、質問はしたが、満足のいく答えなど初めから期待していなかった。そういうものがどこかでうまく見つかるような種類の問題ではないのだ。じゃあ、無意味だ、最初から質問なんかするな、と言う人は多いし、もっともかな、とも思うが、私は因果な性分で、そういう難問に主に興味が持たれてしまう。我ながら付き合いづらい人間ではあります。
 従って鈴木氏が、九十二歳というご高齢にもかかわらず、こちらの言うことをきちんと理解してくださり、できるだけ答えようとしてくださったことには、心から感謝感激している。このような精神の柔軟さにこそ、とりあえずの救いが感じられるから、今後できるだけ見倣いたいものだと思う。
 以後、敬称は略します。

 質問は二つあった。
 まず、和を尊び、従ってあまり我をはらないのが日本的な美質だとすれば、それを世界に向けて積極的に発信しよう、というのは矛盾した発想ではないのか。これは誰しもすぐに思いつく難点だと思う。他ならぬ鈴木自身が、著書『人にはどれだけの物が必要か』(飛鳥新社平成5年刊、中公文庫平成11年)の中でこう言っている。

 だが私のこのような考えの一番の弱点は、前に簡単に述べたように、私たち日本人には、自己を中心として世界を考える文化伝統が稀薄で、自分の信ずるところを声高に主張し、他国に対して執拗に説き続けるという折伏(しゃくふく)の精神が欠如しているという事実と、どう折り合いをつけるのかということにある。

 講演時に鈴木が答えた方策は、役割分担だった。例えば、外交官には自分のような人の悪い者を選ぶとよい(自分、とはもちろん鈴木自身のことで、一般の日本人離れした性格であることは自覚しておられた)。そこでいわば入口として日本文化の美点を宣伝し、一人でも多くの外国人に興味を持たせ、神髄は、外交交渉など苦手な純日本人が伝えればいい。
 ……と言っても、以前採りあげた三島由紀夫の言葉にもあったように、日本では「伝え方」そのものが独特なのである。三島が言うのは大げさすぎるかも知れないし、外国人には決して理解できないのが日本的、とも思わないが、何しろ、向こう(外国)がその気にならないことには何も始まらないのだし、そのための入口としての宣伝だと言っても、それを伝えるやり方が日本的とは言えないとなると……。
 なんぞとくるくる回転して容易に埒が明かないのがこの種の話なのである。私のような人間以外はすぐにうんざりしてしまうだろうから、このへんでやめる。

 しかし、第二問はさらによりやっかいである。短く言うのが難しいので、長々喋り、鈴木にも「もうわかった」と言わせてしまった。ここは自分のブログなので、その時はさすがに言えなかったことも含めて、懲りずに長々言う。またこれは、前回簡単に言ったことの詳述である。と言っても、やはり十分デカ過ぎる話ではあるので、結局は単純化することになるのだが。
 日本は一世紀ほど前に積極的に、軍事的に世界に打って出た。その結果ひどい目にあったので、今度は一種の精神的な引きこもり状態となり、軍事力の行使を伴いそうな国際政治の最もハードな面は、すべて「他人事」とみなすようになった。これ自体にも日本の「国民性」が濃厚に反映されているように思う。七十年ほど前に終わった先の大戦において、日本に理はなかったのかどうか、改めて考えようとすること自体、「歴史修正主義者」revisionistなる名称を奉られた。それは今も変わっていない。鈴木孝夫もそこに属する。
 大東亜戦争見直し論の、基本は次の二つ。両方とも、林房雄『大東亜戦争肯定論』(昭和39、40年初版)以来の定番である。
①あれはソ連を含む西欧諸国の侵略から日本を守る防衛戦争だった。
②西欧諸国の植民地になっていたアジア諸国が独立するきっかけを与えた。
 このうちの②に属することを鈴木は講演の中で何度か言及したし、いくつかの著書、例えば『日本の感性が世界を変える』の中でも触れている。曰く、東南アジア諸国を長年支配していたイギリス・オランダ・フランスを追い払ったのは日本だった。日本敗戦後に支配を回復すべく戻って来たヨーロッパ諸国の軍に対して、残留日本兵が現地の兵士を指導したり、ともに戦った例もある。それ以前にも、日露戦争以来、日本が西欧列強に対して、部分的には互角以上に戦ったこと自体が、アジア・アフリカの有色人種に、独立への勇気を与えている。これは歴史的な事実である。
 反証はある。例えばインド初代首相のネルーがこう書いているのは有名だ。「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、小躍りさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まずさいしょに舐めたのは、朝鮮であった」(『父が子に語る世界史』)。
 大東亜戦争のスローガン「東亜の開放」は、本気だったのか、自分たちが新たな支配者になり替わるための口実であったのか。何しろ世界史上の一大イベントである。当然、日本国内だけでも一枚岩とは言えず、様々な思惑が絡んで進行したのだった。功罪ということになると、結果論から見ていくしかない。ネルーが言う、最初の「被害者」、朝鮮についてこれを瞥見しよう。この国は、現在最も激しく日本を攻撃していることだし。

 まず、故意か思い違いでか、日本が朝鮮を「植民地化」したと言う人が未だに多いのだが、正しくは「併合」である。もっとも、現在その違いは必ずしも明らかではない。植民地(colony)とは元来アメリカのように、本国、この場合はイギリスから移民が多数詰めかけて、開拓をすすめるものである。しかし、19世紀後半の、イギリスのインド支配などを筆頭とするヨーロッパのアジア・アフリカ侵略は、植民地化と呼ばれはしたが、労働力は主に現地人によって担われた。例えば当時のインド人は、イギリス人から見て労働者一般とほぼ同義であり、奴隷とまでは言わなくても、当然のように一段低く見られ、即ち差別され、搾取される存在だった。
 この結果植民地なる言葉自体が非人道的な、非近代的なものだというイメージがついたからであろう、次第に使われなくなっているようだ。代わりに登場したのが併合(annexation)である。もっとも、それまで自国ではなかったところを新たに編入しようということなら、中世までは地球上のどこでも、当たり前のように行われていた。日本でも、国を国内の領地(日本語の「國」の本来の使い方)のことだと考えれば、年中やっていたし、豊臣秀吉の朝鮮征伐はかの地を「併合」しようとして失敗した例である。
 現代ではさすがに武力のみで無理やり統一・支配しようとするのは無理で、なんらかの正当化は必要とされる。直近ではロシアによるクルミア併合があった(2014年)。この地は元来ロアシ系の住民が多かったのだし、一応でも住民投票を経て「民主的」に行われたことになっている。
 これに対して中華人民共和国によるチベット併合(1951年)は、ずいぶん古いようだが、第二次世界大戦後、日本風に言えば戦後に行われたものであり、この状態は21世紀の今日まで続き、住民にはさまざまな迫害が加えられていると言う。それどころか、かつての「植民地」のように、漢民族を組織的に大量に移住させていて、やがて混血を進めて、純粋なチベット民族の消滅を狙っている、という話さえある。
 これに比べると、日本による朝鮮併合はだいぶましだとは言えそうだ。法的には、明治43年(1910)の日韓併合条約によって始まった。【中国とチベットの場合は51年の十七か条協定がある。これは両国政府が合意したものであったし、諸外国も認めているから、正式だ、と言っている。反対する側からは、「合意」自体が強制されたものであったし、諸外国は自分の都合か、どうでもいいので黙認しただけだ、と言われているのも日本と中国は共通する。】併合の際、日本がかの国に軍隊を送ったわけでもない。これまた誤解をけっこう聞くので、敢えて記すが、近代になってから日本が朝鮮と戦争をしたことは一度もない。乙未事変(いつびじへん、または閔妃暗殺事件とも。明治28年)という荒事はやっているが、二・二六事件が内戦ではないなら、これも戦争とは言えない。日韓併合は、住民投票こそやっていないが、クリミア併合と同様に、あるいはそれ以上に、平穏に行われたのである。
 その後については最新の木村光彦『日本統治下の朝鮮 ―統計と実証研究は何を語るか』 (中公新書平成30年)などによって簡単に述べると、経済的な資料から見て朝鮮総督府の統治は収奪より社会発展に貢献した度合いのほうが高い。何より、両班(リャンパン。支那の士大夫に当たる)と呼ばれた同国人の特権階級によって、それまでの朝鮮人民は十分に迫害され、搾取されていたのである。学校教育の普及も工業化も一般人の生活向上も、日帝支配三十六年(あちらの言い方)の期間に確実に進んだ。圧迫が厳しくなるのは、日中戦争から大東亜戦争にかけて、本国内でも自由が制限されるようになってからのことである。
 それから、上で閔妃暗殺について触れたし、今は案外知られていない事実だということを知る機会があったので、もう一つ付け加える。併合後、朝鮮の李王朝は「準皇族」という栄誉と待遇が与えられ、大正9年には梨本宮方子が皇太子李垠の許に嫁いでいる。王家同士の婚姻は、19世紀までなら世界中にあったことだろうが、20世紀では他に聞いたことがない(私が知らないだけの場合はお知らせください)。【李方子は戦前は夫とともに主に日本で暮らし、戦後も李承晩大統領によって帰国が許されず、韓国に定住するようになったのは朴正煕大統領時代になってからだった。夫の死後は韓国に帰化し、後半生を福祉事業に捧げた。】
 政略結婚ではあるが、力で押さえつけるだけではなく、相手の王家を尊重してみせることで、相手の国家的な伝統を尊重するポーズはとる。ヨーロッパのアジア・アフリカ支配ではまず考えられない。「内鮮一体」(日本も朝鮮も差別なく同じものとして扱おうというスローガン)は、まんざら口先だけではなかった。
 しかし、私の疑念はこの先にある。「内鮮一体」は「皇民化政策」の一環であった。つまり朝鮮民族をも皇国の民とする、ということであって、もともとの朝鮮の王家を皇族に準ずるもの、としたのも、そのための方便だった。その他、日本式神社(朝鮮神宮)も建立され、日本式家制度を導入するための創氏改名(日本風の名前になること)もあった。それでも、神宮参拝や改名は、結果として強制に当たる、ということはあっても(広義の強制?)、直接指示されたわけではない。檀君信仰や道教に基づく宗教的習俗も禁じられなかった。
 それだけ朝鮮民族と文化に気を使っていたということだろうか? どうもそうではない。厳しく弾圧して従わせる必要性をさほど感じていなかったのだ。つまり、それだけ相手は弱小だった。それに同文同種、つまり同じ黄河文明に属し、文字も本来同じ漢字を使い、人種的にも似通っている、という思いも、併合、それから同化へと向かうプロセスから、心理的な障壁を低くしたろう。朝鮮人が日本人になって悪いことは一つもないはずだ。朝鮮の王族は、日本の皇族に「準ずる」とされれば、ただただありがたいだろう。それ以上を考える必要はない。韓国固有の文化なぞ、日本と違っていようがいまいが、考慮に値するものではない。敢えて言葉にすれば、以上のような見くびりが、透けて見えるようである。
 向こうからはどう見えるのか。著しくプライドが傷つけられる振る舞いではないだろうか。併合時の差別は大したことはなかった、だって無視されていたんだから、ということなのだから。
 さらにこのような無視・無関心は、北朝鮮・韓国として独立を回復した戦後まで及んでいる。現在でこそ韓流ドラマやK-POPなどのおかげで、ずいぶんましになったようだが、しばらく前までは、特殊な人を除いては、韓国とは「近くて遠い国」だった、と、日本の一庶民として、明らかに言い得る。現在の韓国の、ほとんど無理無体な日本非難の根底には、このような事情に対する恨(ハン)があるのではないかと思う。
 そうだとすれば、自他の区別はあまりはっきりさせず、曖昧にしておく日本の態度は、マイナスに働く場合もあると言わねばならない。自己と他者はあくまで別であって、理解し合えないところが残ってしまうものだ、ということを前提にせずに交流すると、相手にとって重要なある部分を、まるっきり無視することになりかねない。その実例がここにあるのだから。

 以下は付け加えておかねばならないだろう。日本は、かつて支配した国に対する無視・無関心に対する報いを受けている、と言える。従軍慰安婦問題、というのがそうである。
 平成5年の河野談話は、日本の軍及び官憲が、慰安所の設置や慰安婦の募集、連行などに対して直接関与したことがあったと認め、謝罪したものだった。これも様々な政治取引の産物ではあろうけれど、表面だけ見ると、「日本・日本軍との関わりにおいて、辛い思いをした朝鮮人女性たちがいたのがともかく事実であるなら、細かいことは置いて、まず謝りましょう」というまことに日本的な対処法に見える。「誠意を示す」というやつだ。
 日本ではそれですべて丸く収まる、わけではない。日本人だっていろいろいるんだから。しかし、理想的(か?)にはそう考えられている。「謝ったんだな。じゃあ、自分が悪いと認めたんだな」などと、嵩にかかって責められると、本気で戸惑ったりする。まして、「日本人に対しては、根拠薄弱であっても、非難していいんだ、そうじゃないと、恨まれていることにも気づかないで済ましかねないから」と思われることがあるなんぞとは。しかし、それは十分にあり得るのである、
 ここでも、低姿勢で、向こうの気が収まるまで待とう、なんて態度は、やはりちゃんと相手にしていないように見えてしまうだろう。こちらはこちらで、事実に基づいた主張を延々と繰り返すしかない。折伏ではない。おそらく、どう言っても相手は納得しないだろう。たとえしても、「した」とは言わないだろう。それでも自分の立場は明らかにしようとなければ、それはまるっきりないことにされてしまう。悲しむべきかどうかはともかく、人間世界とはまだそのような場所なのである。

 上のようなことに対しては、鈴木も、他の誰も、十分に答えるなんてことはできないだろう。私自身だって同様である。鈴木はただ、地続きだから絶えず大陸の圧迫を受けずにはいられなかった朝鮮に比べて、適度な距離があるので、独自の文化を熟成させることができた日本の幸運を言っただけだった。もちろんだからと言って、あちらに比べてこちらが優位だ、なんてことではない。文化は本来、優劣を判定できるようなものではないのだ。
 鈴木講師を、少し不愉快な気分にさせてしまったかと思うと、申し訳ない気がする。

【上の写真は鈴木孝夫氏のご尊父鈴木梅渓氏の手になる「葦手書き」の一部である。梅渓氏は近代日本の代表的な書家の一人で、かなのみならず漢字も日本風に丸っこく描くことを主張し、しかし弟子はとらず孤高の境涯を貫いた、とこれは孝夫氏から伺った。写真は、小林松篁氏のHP中の「松篁収蔵品」にあったものを、許可を得て転載させていただいた。】
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