由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

子どもはどこにいるのか その5(内申書裁判・学校の正体を求めて)

2013年08月31日 | 教育
メインテキスト:小中陽太郎『小説 内申書裁判』(光文社昭和55年)

 今回の話題の中心人物は現存の、かなり有名な社会運動家・著作家である。のみならず、最近は政治家として、公人(世田谷区長)となった。名前を伏せる必要は全くないのだが、どうもTVで何度か見たこの人の容貌は、多感な中学生というのとは少しズレる。それはまあ、私にしても、他のどのオヤジでも同様の、当たり前のことに過ぎないのだが。しかし、この話の主役は中学生であることが決定的に重要なのである。それで、申し訳ないことながら、以下では頭文字で登場していただくことにする。

 以下が麹町中内申書裁判、あるいは内申書裁判とのみ(調査書の開示を求めた裁判が他にもあるので、不正確になるが、調査書がらみで最も有名であることにまちがいない)呼ばれているものの概要である。
 昭和四十七(1972)年三月十八日、当時十六歳のHとその両親は、千代田区と東京都に対して、国家賠償法に基づく損害賠償の訴訟を起こした。Hはこの前年東京都千代田区麹町中学校を卒業したが、受験した公私の全日制高校すべてに不合格となっていた。それは、内申書(調査書が正式名称だが、中学校から高校へ送られるものについては、慣習的にこう呼ばれることが多い)の「行動の記録」欄中、「基本的な生活習慣」「公共心」「自省心」の三項目にC評価(ABC三段階中の最低)がつけられ、またとりわけ、在学中の政治活動について、詳細に、また否定的に記載されたためであると考えられた。これは憲法一九条の定める「思想及び良心の自由」、二一条の「表現の自由」、二六条の「教育を受ける権利」に違反したものであり、また、卒業式当日、複数の教員によって取り押さえられ、別室に監禁されて式に出席できなかったのは、体罰を禁じた学校教育法第十一条に違反している、というのが根拠である。
 原告側から見た裁判の結果を記すと、
 五十四年東京地裁判決、勝訴。
 五十八年東京高裁判決、敗訴。
 六十三年最高裁によって上告が棄却され、敗訴が確定。

 次に、「在学中の政治活動について、詳細に、また否定的に記載された」とされるのは、内申書中の「備考欄」の次の文章である。資料によって文言に若干の異同があるが、ここでは小中の本から引用する。
 この生徒は、二年生のときに「麹町中全共闘」を名のり、機関誌「砦」を発行しはじめ、過激な学生運動に参加しはじめる。その後も学校の指導に従わず、他校の生徒と密接な連絡をとり、四十五年八月には、「全関東中学校全共闘連合」を結成した。九月十三日、本校文化祭会場に他校の生徒十数名と共謀して、裏門を乗り越え、ヘルメット、覆面、竹ざおを持って乱入し、ビラをまいたが、麹町署員に逮捕された。その後も過激な政治団体「ML派」と関係をもち、集会・デモにたびたび参加し、学校内においてもいっこうに指導に従う様子がなく現在も手をやいている。

 これだけでよいかと思ったが、最高裁の裁定からでも四半世紀経っている。せっかくHについて、家庭環境から始めて詳しく紹介してくれている小中陽太郎の小説もあることだし、事件についてもう少し細かく説明したほうがよさそうだ。
 まず、時代背景。日本の学生運動が空前の盛り上がりを見せたのは、昭和四十三年(68)だった。東京を中心に全国の大学で紛争が巻き起こった。それが高校・中学にまで波及した例も、少数だが、あった。
 しかしそれも、翌四十四年一月、東大安田講堂の学生による占拠が解除された後は、次第に下火になって、政治上の争点の一つだった日米安保条約が延長されるかどうか決まる年、いわゆる七〇年安保の年である四十五年には、もう闘争(学生運動のうち、過激なもの)も散発的に見られるだけになっていた。それだけに、なんとか活動を継続しようとする学生運動諸派は、いよいよ尖鋭になって、迷走するようになり、もと同じ党派(革共同)に属していた革マル派と中核派は、一般人にはよくわからない路線上の対立から、お互いに襲撃を繰り返す「内ゲバ」に陥った。
 以前は学生運動に同情的なところもあったマスコミや世間も、こうなっては批判一辺倒になる。火焔ビンや鉄パイプを持って、戦闘的な闘争に従事する者たちは、暴力学生と呼ばれ、彼らが属する組織は過激派と呼ばれるようになった。
 Hが麹町中に在籍したのは、まさにこの、四十三~四十五年だった。活動スタイルや言葉遣いが、大学生の運動家たちのコピーだったのは当然であろう。
 まず、二年生の時、クラスの仲間と語らって、『砦の囚人』(後に『砦』)という機関誌を出す。三号目で、禁止される。内容が過激だという理由で。「私はいいと思うけど、うるさいことを言う人がいるのよ」と、このときの担任教師は言ったらしい。それは事実だろうが、中学生の目からは、卑怯な言い逃れに見えた。
 次に、デモや集会に参加する。と、警察に補導され、学校へも通報される。そういう時代だったわけだが、今から見ると少々無理がありそうに感じられる。警察に届けを出してやっているデモや集会は適法だし、飲酒喫煙と違って、中学生はしてはいけない、という法律があるわけでもない。
 しかし、警察から電話があったとき、教師が、例えば、「そうでしたか。でも、警官隊と衝突するような過激なデモじゃないんなら、別にいいんではないですか?」なんて言ったら、きっと呆れられたろう。なんて非常識な教師なんだって。それだけではなく、左翼教師のレッテルを貼られて、今度はその教師が、教育委員会に通報されて、なんらかの処分を喰った可能性だってある。Hには「指導」を加えねば、「職務怠慢」と言われかねない。
 実を言えば、教師にはどちらかと言えば左翼的な考えの持ち主が多い。殊に当時は組合活動も今より盛んだった。政府を批判するデモ・集会に参加したことがあるかどうかはともあれ、それに参加すること自体が悪いと考える教師は、ごく少数であろう。従ってこの場合の指導は、要するに口頭での指導、つまりお説教でしかないのだが、それも非常に煮え切らないものだったようだ。前の担任教師の「言い訳」同様、このような教師の態度は生徒からはだいたいにおいて不信感を持たれる。
 三年生になると、学校に元からあった「社会科研究クラブ」、ここは「地理班」と「歴史班」に分かれていたところへ、新たに「政治経済班」を作ろうとして、禁止される。これ以後、Hの活動は、学校への反発を前面に出したものになっていく。
 裁判でもなぜかきちんと言われなかったようだが、禁止する理由はあるのではないかと思う。公立学校は、特定の思想やイデオロギーに対しては不偏不党であるべきだとされている。例えば、生徒の一部が、「キリスト教研究部」を作って、校内で実質的な布教活動をする、なんてのは普通はダメだろう。
 だから、「お前は政治経済研究会の名で、左翼思想を広める運動をしようとしているのだろう。そういうのは、公立中学校ではダメなんだよ」と言えることは言えるはずだった。しかし、言わなかった。それでHが納得するわけないし。反論として、「学校は、現在の資本主義体制を肯定した内容の勉強をさせているんでしょう? 不偏不党だなんて、欺瞞じゃないですか」なんて、言ったかどうか分からないが、言ったとしたら、それをどう説得するのか、いかにも面倒だ。学校の存立基盤に関連する問題だとも言えるが、中学生のガキ相手にそんなこと真面目に議論してもな、という感覚になったとしても、気持ちとしてはわかる。
 一方Hにすれば、ここでガキ扱いされることに一番腹が立ったろう。可能な限りでの、過激な行動に走るようになる。生徒集会で、発言しようとして、マイクの電源を切られてしまう。文化祭の時、他校の仲間(「全中共闘」なる組織が一応あった)といっしょに、ML派のヘルメット姿で、屋上からビラをまく。「学校に管理された文化祭なんてナンセンスだ」というような内容だ。同じような内容のビラを、はがされてもはがされても、しつこく教室中の壁に貼り続ける。最後にはビラに、「卒業式粉砕」と書かれる。
 こうなると、教師からしたら、こんな生徒の「ため」をも、学校は図らなくちゃならないのか、となる。学校に迷惑ばかりかけている、それも確信犯でやっている奴のために。それでは、学校は成り立たなくなっちゃうよ、という判断は、どうやら、教師より校長よりさらに上から来たらしいが、それが、形として明確に現れたのがあの内申書だった。
 この結果、Hは受験したすべての全日制高校に落ちて、最後に都立高校の定時制に合格した(ただし一年もしないうちに退学している)。このときの内申書には、前述の「備考欄」の文言は変えられていたらしい。その前後、学校のやり方に我慢できなくなったHの父母が、人を介して弁護士に会う。中心になって相談に応じたのが、中川明、仙谷由人(後に民主党代表代行になったあの人)、秋田瑞枝の若手三人だった。彼らはもともと左翼には親近感を持っていたろうし、管理教育にも反対する立場だった。「そんなことをしていると内申書に書くから、高校に入れなくなるぞ」と生徒を脅して、言うことをきかせようとしたり、まして、脅しがきかないとなると本当に書いたりする教師は許せない、とまず思ったろう。
 因みに、「管理教育」なる言葉は、この後の学校批判言説のなかで頻発するようになるが、それはこの事件が最初ではないにしろ、広めるきっかけにはなったのではないかと思われる。
 それから、弁護士のみならず、この裁判を支援したすべての人の中に、根深い感情があったに違いない。つまり、教師は一心に生徒のためを思って、進学については、希望が適えられるように、一所懸命努めるべき者だ。学校が学校であるためには、それは全く疑えないし、疑ってはならないポイントだ、という感情だ。それなのに、逆に、内申書を使って高校進学を妨害するとは、なんというやつらなんだ、許せない、と。

 さてしかし、この許せないやつらをどう罰したらいいのか、これがなかなか難題だった。弁護士たちが一年の間勉強して、たどりついたのは、以下の論理だった。教師たちが、特定の思想・信条の持ち主について、そのことを内申書に書けば、高校に入りづらくなる、と承知の上で書いたのだとすれば、思想・信条、及びそれを表現する自由を阻害し、ひいては教育を受ける権利を侵害する結果になる。
 思想・信条、及び表現の自由に関連する最高裁の判決は次のようになっている。

(原告側の)所論は、教師が教育関係において得た生徒の思想、信条、表現行為及び信仰に関する情報は、調査書に記載することによつて志望高等学校に開示することができないものであるにもかかわらず、この情報の本件調査書の記載を適法とした(高裁の)原判決は、憲法二六条、一三条に違反する旨を主張するのであるが、本件調査書の備考欄等の記載は、上告人の思想、信条そのものの記載でもなく、外部的行為の記載も上告人の思想、信条を了知させ、またそれを評価の対象とするものとはみられないのみならず、その記載に係る行為は、いずれも調査書に記載して入学者の選抜の資料として適法に記載し得るものであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。

 ここで法律論をやろうとは思わない。ごく普通にみて、備考欄の文から、Hがどのような思想・心情の持主であるか「了知」することは難しくはないのではないかと思う。「マルクス・レーニン主義に共感し」などとは書いてないので、いいわけか(ML派のMLとは、マルクス・レーニンの頭文字なんだがね…)。それにしても、「(思想・信条を)評価の対象とするものとはみられない」一方で、「入学者の選抜の資料として適法に記載し得る」とはどういうことか。「選抜の資料」とするなら、即ち「評価の対象」にする、ということではないのか。
 たぶんこのへんでは、最高裁も世間一般にありふれている「評価」や「選抜」をめぐる混乱を引き継いでいるのだろう。高校入試では、内申書もまた点数化されて、ペーパーテストの点数と合わせて選抜の材料とされることは、特例を除いて普通である。しかしそれも、教科の成績評価(5段階か、10段階評価が多い)を中心に、あとは「行動の記録」のA~C評価など、あらかじめ点数化されているものが使われる。「備考欄」の文言については、生徒会本部役員なら何点とか、部活動の全国大会なら何点、などと、各学校の裁量で決める場合はあっても、さほど大きな部分を占めるわけではない。それ以外の、「~を熱心に行った」とか「~で活躍した」などの文は、だいたい点数化のしようがないものであって、その意味では「評価の対象」になるとは言えない。
 ただし、そのような選考とは別の次元で、高校も大学も「この受験生は本校の生徒には相応しくない」と判断することはあり得る。どの程度にまでその判断に従って受験生を篩い落とすことができるのかはけっこう難しい問題ではあるが。ここでは考える上でのリーディング・ケースになりそうな実例を二つ挙げておこう。
(1)平成4年、兵庫県で筋ジストロフィー患者の少年が、公立高校受験で落とされたのは不当であるとして、訴えて、勝訴になっている。障害は公立高校に入学させない理由にはならない、ということ。
(2)平成20年、神奈川県の公立高校で、過去三回にわたる受験で、茶髪や眉を剃っている受験生をチェックして不合格にしていたことが発覚し、問題とされた。そういうことは公立高校入試の評価基準として明示されていなかったから、ということである。
 両方のケースとも、不当なことをしたとされるのは受け入れ側の高校である。たぶん(1)のケースで、受験生が筋ジストロフィーであることを伝えたのは内申書なのだろう。内申書には、受験上不利になることは書いてはいけない、ということならば、この時も中学校が罰せられるはずである。しかし、訴えられもしなかった。中学校は、当該受験生がどういう人物であるか、重要な情報を高校に伝えた。それを見て、合否を決めたのは高校である。Hのケースでも、中学時代に政治運動に関わった人物を入学させないことが不当だとするならば、罰せられる対象は高校ということになる。中学校はただ事実を書いただけで、それを「選抜の資料」としたのは高校なのだから。「学校内においてもいっこうに指導に従う様子がなく、現在手をやいている」の部分には、なるほど明確に悪意が感じられるが、それをも含めて、書いてあることはすべて事実に違いないのである。
 以上を典型的な「屁理屈」だと感じる人もいるだろう。外から見たら、入試は受かるか落ちるか二つに一つであって、ペーパーテストの点数が低いのが理由でも、「人物」が見られたのだとしても、そんなことは普通あまり意識されない。だいたい、テストの点数では合格範囲に入っていたのに、「態度が悪い」というような理由で合格させないのは不当、と感じられたからこそ上記(2)のようなことも問題になるのである。
 しかしそれならば、内申書・調査書などを入試の選抜資料にするのはやめるか、少なくとも、どうしても「人物評価」になりがちな「備考欄」や「所見」など文章で記載する部分は廃止すべきないだろうか? 実は私は、それに賛成する者である。
 ただどうも、「ちゃんと点数化できる領域だけで入試の合否を決めるべきだ」という考えは、「点数主義」などと言われて、いまいち評判がよくない。たいていの親が、点数には現れないわが子の「よいところ」を認めてもらいたいと願い、それを調査書を作成する教師に期待する。それは無理はない。
 それにつけても以下のことは忘れないでいただきたい。内申書・調査書は、入試の選抜につかわれるからこそ意味がある。ということは、有利・不利と言っても、すべて比較相対上の話だということである。例えば、「野球部に三年間所属し、三年次にはキャプテンとしてチームをまとめ、県大会優勝に貢献した」と書かれているものは、「野球部で活動した」とだけ書かれている者より有利だ。後者は、前者より不利だ。だったら後者のように書いてはいけない…、などということになったら、やっぱりこんなのは全廃するに如くはない。そうなると、前者のような子や、その親には不満が残るだろう。自分の側の「よいところ」が入試のシーンで無視されてしまうのだから。
 つまり、他人の有利はイコール自分の不利ということ。内申書問題とは、このように非常に微妙でいじましい、人間的な、あまりに人間的な問題なのである。

 もう一つ、指摘しておかねばならないと感じられることがある。より「教育」に即した問題だ。弁護士たちは、Hの「教育を受ける権利」は侵害されたと言うのだが、そもそも彼は、教育を求めていたのだろうか。単に知識を学ぶ、という意味でなら、そうだったのだろう。現に高校を受験したわけだし。ただ、知識を教えるだけが教育ではないはずだ、などともごく普通に言われている。麹町中の教師たちも、知識とは別のところで、「教育者失格だ」と内申書裁判を支援した側から言われたのだ。
 途中から裁判の弁護団に加わり、団長になった中平健吉は、次のようなエピソードを語っている。これも小中の本を基にして述べる。中平は東京高等裁判所の判事を勤めてからフリーの弁護士になった。辞めるきっかけになったのは、弁護士として関わりたい二つの事件に出会ったからだと言う。そのうちの一つは、ある牧師が、学生運動をして警察から追われた高校生二人を教会に寝泊まりさせ、反省の機会を与えようとして、犯人隠匿罪に問われた、というもの。

「(前略)おまえたちのやっとることはマンガみたいなものだ。おまえたちの主張は全然生活に根ざしてないじゃないかと一生懸命説得したんです。ここがまた麹町中学の先生方と違うところですね」

 これが人を教育の対象とする、ということである。中高生の言う話の中身など本気で相手にはしない。表面的また論理的にはどう見えようと、それは結局子どもの戯言に過ぎない。その態度では、麹町中の教師たちも、この牧師も、変わらない。違いは、後者は教会を反省の場として提供し、たぶん数週間説得を続け、官憲など、権力の手に渡すことはなかったところだ。前者は、有形力(暴力)を使って子どもが卒業式に出るのを妨害したうえ、それ自体が権力機構となって、彼を排除した。
 許せない、と中平たちは言う。公立学校もまた、警察や裁判所と同様、元来公権力の一部だと言うことは、彼らの目には映っていない。たぶんそのことは、このときのHのほうが、ちゃんと認識していたろう。
 今はそれは問わないにしても、どうだろうか。Hは、「おまえのやっとることはマンガみたいなものだ」と言われて満足したろうか? 中学校時代には明らかに、決してそうはならなかったろうが、「成長」してからはどうだろうか。「あんときは反抗したけど、先生の言うことはもっともだったんだよなあ」などと思ってくれたものだろうか? 中学時代の彼は自分なりに現在の社会を一所懸命に考え、答えを見つけようして、行動したはずである。その意味も、主張も、「子どもだから」という理由で一顧もされず、自分はただ「教育されるべき者」としてだけ位置づけられる。それがありがたいか? あるいは、後には、ありがたかったと思えるのか?
 以下は私の勝手な見解と言われてもかまわない。Hは言葉にはできなかったし、意識もしなかったかも知れない。が、この時彼は「学校」と呼ばれる、一見柔らかだが、それだけにひどく欺瞞的でもある権力構造に直面したのである。
 「もっとちゃんと弾圧しろよ!」と、団塊の世代に属する故つかこうへいが書いた戯曲「飛竜伝」の初期のバージョンで、学生運動家が機動隊に向かって叫ぶ。権力がむき出しの力として対峙してくれるものなら、自分たちの「敵」も、戦う意味も、明確になってくる。それをどこまでも「教育」の対象として、包みこまれたのでは、自分たちの闘争は、一過性の、「はしか」以上の意味を持たないものとなる。しかも、権力とは無縁そうな、ものわかりのよさそうな大人さえ、そうするべきだ、なんてしたり顔で言う。実際はこれほど残酷で徹底した「弾圧」はないのではないか。
 それだけではない。学校はそのような「無限の教育」の場であることが望まれているようでいて、一方で選別機関でもあることも望まれている。平成3年、宮澤内閣で文部大臣になった鳩山邦夫によって、中学校での業者テストは廃止された。結果、中学教師は、進路指導(ある生徒が、どこの高校なら合格できそうか、判断して薦めるのが主な仕事の内容)の有力な道具としての偏差値を失い、それは、公立学校のさらなる権威の失墜を招いた。子どもをちゃんと選別しもしない学校なんて、なんの意味がある、と本当は、かなり多くの人が思っているのである。
 我々は本当は学校に何をすることを望み、何をしないことを望んでいるのか。主権者であるなら、一度じっくり考えてみたほうがいい。そのための材料として、内申書裁判を使わせていただいた。関係者の皆様に不快感を与えたとしたら、お詫びします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする