由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その4(昭和天皇の戦後責任・下)

2012年12月31日 | 近現代史
メインテキスト:豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫平成20年)

サブテキスト:坂元一哉『日米同盟の絆 安保条約と相互性の模索』(有斐閣平成12年、平成19年第5刷)
 青木富貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」が語る日本占領』(新潮社平成23年)

 サンフランシスコ講和条約(以下、「講和条約」と略記する)締結をめぐる昭和天皇の動きについて記す前に、前回述べた第四回目の天皇・マッカーサー会談(昭和22年5月6日)に関連して、豊下楢彦が取り上げた事実を簡単に見ておこう。
 会談の翌日、AP電がここでのやり取りを次のように伝えている。天皇が「日本国民は、この文書(現憲法)が軍隊を禁止し戦争を放棄していることに不安を感じている」と述べたのに対して、「マッカーサー元帥はヒロヒト天皇に、アメリカが日本の防衛を引き受けるであろうことを保証した」と。
 しかしさらに翌日、マッカーサーはただちにこの報道を否定した。「日本の安全保障は講和条約の調印までは占領軍に託された義務である」が、「それ以降は条約の規定に依る」「そこでは国連などの機関が重要な役割を果たすであろう」(以上豊下P.100)と。この前後どちらの「マッカーサー発言」も、GHQの検閲によって国内での報道は禁じられ、当時の日本人の目に触れることはなかった。
 この漏洩は第一回目と第四回目の会見で通訳を務めた外務省情報部長の奥村勝蔵によってなされた。その詳細も松井明(当時は奥村の下で渉外局長をしていた)が残した文書によってかなり明らかになった。午前中の会見が終わった後、午後2時に奥村は定例の記者会見に臨んだ。記者クラブからは当然会見の模様を執拗に聞かれる。腹を決めた奥村は、オフレコを条件に語った、のだという。
 この時奥村が伝えたのは「アメリカが日本の防衛を引き受ける」云々の「マッカーサーの言葉」であったことは間違いないであろう。この結果彼は、GHQのベーカー渉外局長から緊急で呼び出され、懲戒免職の処分になっている(が、後に復職し、外務省事務次官にまでなっている)。
 豊下は、この漏洩事件全体が昭和天皇の意図によるものではないか、と推測している。傍証の一つに、昭和50年に児島襄がどこからか入手した奥村文書には、後半部分が破棄されていたことがある。この破棄は奥村自身の手によるのではないか、と児島も言っていた。そうだとしたら、なぜそうしたのか。豊下の推定ではこうである。前半部分にはマッカーサーの「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである」という言葉が記され、奥村はこれだけをリークした。この時期のマッカーサーの一番の真意である、「講和後の日本の安全保障は国連に委ねるべき」の部分は、後半で詳しく展開されており、奥村は、それは外部に知られることを嫌った。だから、口頭で伝えなかっただけでなく、記録をも抹消しようとしたのではないか、と。
 あるいはそうだったかも知れない。しかし、疑問はある。いかにも、マッカーサーの「真意」=「国連に頼れ」論は会見記後半に詳しいだろうが、短くても明瞭に、前半にも出ている。そこは保存して、後半のみをわざわざ破棄することにどんな意味があったろうか。もしそれが豊下の推測した動機によるものだったとしても、冷静な判断によるというより、感情的なものだったのではないかと思える。
 また、最初にもどって、そのようなマッカーサーの意向が明らかであるときに、結果としてそれを枉げてプレスに伝えることに、どんなメリットが考えられるのか。天皇が望むような方向、つまり米国が日本の防衛を引き受けるように、米国政府なり輿論なりを誘導する役に立つだろうか? 現実にこのリークは、マッカーサーを怒らせただけで終わったのである。
 それに、単純な時間の問題からして、午前中に行われた会見の内容について午後の2時にリークされたのに、天皇の直接の指示があった、というのは無理がある。帰りの車の中でちょこっと話すにしては、重大すぎる行為であることは言うまでもないだろう。
 真相はたぶんこんなところではないだろうか。奥村は、前後二回の会見や、直接天皇と接したところから、天皇の意向はよく理解していた。それで、とりあえず日本防衛のための言質と考えられるものをマッカーサーから得たので、自然に印象が深くなり、つい、さほど深い考えはなく、オフレコとして記者団に漏らしてしまった。因みに奥村勝蔵は、日米戦争開始時にはアメリカの日本大使館勤務で、日本から送られてきた交渉打切り(=宣戦布告)文書のタイプを引き受け、それに時間がかかったためもあって、この文書をアメリカ政府に提出するのが遅れた、つまりアメリカへの最初の攻撃が結果として奇襲になったことの一因を作った人物でもある。
 以上の私の推測も、豊下のと同様、確証と言えるものはない。しかし、それが大間違いだとしても、一つだけ確かなのは、日本防衛に関する天皇の、深い危惧感であろう。
 それをもたらした大きな契機としては、この年の3月17日に出ていたマッカーサーの声明がある。その中では、「できれば一年以内に対日講和条約を結んで、軍事占領は終了させるべきだ」と述べた。その理由としては、「日本はすでに非軍事化の段階を過ぎ、民主化の段階もほぼ終わろうとしている。次の課題である経済復興は占領軍の手に負えない問題であり、自由な貿易も必要だから」とも(坂元P.2)。この内容は「ヨーロッパ復興が先だ」とするディーン・アチソン国務次官たちによって否定されたが、この頃より講和の条件や、独立後の日本の国家像は、多くの人の念頭にのぼり始めていたのである。
 その中で天皇は、いささか先走りにも見えるし、敗戦国の君主にしては越権行為であるとしても、何かせずにはおれない気分になったのであろう。その具体的な現れが、この四ヶ月後に提出された「沖縄メッセージ」であった。

 講和に関するアメリカの気運は、1949(昭和24)年秋には日本人にも伝わってきていた。具体的に動き始めたのは、翌年の4月にトルーマン大統領が共和党の重鎮ジョン・フォスター・ダレスを対日講和問題担当の国務省顧問に任命したときだった。9月には公式に対日講和交渉の開始が宣言された。
 この際、アメリカが最大の課題としたのは、独立後の日本にも米軍を常駐させておくことだった。日本の付近にはソ連があって、朝鮮半島北部をも実質的に支配していたし、49年10月には中国も共産化していた。これら共産主義勢力と対抗するアメリカの、アジア戦略の拠点として、日本はどうしても手放せないと感じられていた。講和尚早論の論拠の一つもここにあった。日本が独立国となったら、外国(アメリカ)の軍隊がいつまでもとどまっているというのは、普通に考えておかしな話である。
 そのおかしな話を実現すること、つまり、独立後も「日本のどこであれ、必要と思われる期間、必要と思われるだけの軍隊」(坂元P.21)を置く権利を確保することは、トルーマン政権による対日講和の重要な条件とされていた。この問題がクリアされなければ、日本の独立はさらに遅れてしまうだろう、ということは、第三次吉田内閣にも伝えられていたようだ。吉田茂は4月に池田隼人大蔵大臣を特使としてアメリカに送り、「もしアメリカ側からそのような希望(日本独立後のアメリカ軍の日本駐留)を申出にくいならば、日本政府としては、日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよろしい」(坂元P.29)と、ジョセフ・ドッジに伝えさせている。もっとも吉田は、同時に白州次郎を渡米させ、「日米協定で米軍基地を日本において戦争に備えることも憲法上むずかしい」(豊下P.116)と国務次官補に言わせているのだから、真意は奈辺にあったか、容易には測りがたい。
 ダレスは6月21日に初来日した。翌日、吉田茂と非公式に会談したが、日本の安全保障の問題になると、吉田は、「日本は、民主化と非武装化を実現し、平和愛好国家となり、さらには世界世論の保護に頼ることで、安全を獲得することができる」(青木P.133)などと言って、ダレスを面食らわせ、かつ失望させた。
 吉田がこうしたのは、マッカーサーの怒りを宥めようとしたためであったらしい。前記「池田ミッション」では、池田は表向きアメリカ経済の視察の名目で渡米したのである。マッカーサーには嘘をついたことになる。ドッジからそれを知らされたマッカーサーとしては、当然面白くない。もっとも、内容的に言うと、この頃にはマッカーサーは、少なくとも当分の間、日本への米軍駐留もやむなし、の見解に傾いていたのだった(坂元P.20)。が、日本政府では誰一人これを知る者はなく、天皇より怖いSCAPが、面会を禁ずるという形で怒りを表している以上、彼の従来の信念であったはずの「九条原理主義」とでもいうべきものに従っている顔をするより他に仕方がないと感じられたようだ。豊下が以前の著『安保条約の成立』で言っているように、敗戦国政府の演じた物悲しい喜劇である。
 この日の夜、ダレスはある夕食会に出席している。場所は渋谷区松濤にある吉川重国男爵邸で、この当時『ニューズウィーク』東京支局長コンプトン・パケナムが借りて住んでいた。パケナムは昭和天皇の側近の一人だった宮内府式部官長松平康昌と親交があり、この家も、松平が部下の吉川に命じて彼に提供させたものだった。一方ダレスは、『ニューズウィーク』外信部長でパケナムの上司であるハリー・カーンから招待されていた。出席者のうち大蔵省の渡辺武が、ダレスの本音に近いであろう厳しい言葉を日記に記録している(青木P.131~132)。

日本は国際間の嵐がいかに厳しいか知らないので、のどかな緑の園にいるという感じである
アメリカとしては、仮に日本の工業を全部破壊して撤退してしまってもよいわけだ。日本は完全に平和となる。しかし、日本人は飢え死にするかもしれない。自分は、日本がロシアにつくか、アメリカにつくか、日本人自身で決定すべきものと思う

 腹立ちまぎれの言葉を文字通りにはとれないが、ダレスに代表されるアメリカ側の最大の危惧は、日本がソ連に占領されるか、あるいは同盟を結んで、その工業力を共産主義勢力のために使われることであったことは確かであろう。潜在的なものまで含めた日本の工業力は、昭和25年当時で既に強大なものに見えた、ということである。それさえなくなれば、ソ連だってわざわざ日本を侵略する意味はなくなるから、「完全に平和」だよ、というわけだ。
 これらの言葉は松平を通じて直ちに天皇に伝えられた。さらに夕食会の三日後の25日、「国際間の嵐」が、日本の間近で、目に見える形で捲起こった。朝鮮戦争の勃発である。そのためもあって、ダレスは27日には帰国したのだが、その前日、松平からパケナムを経由して、天皇からダレスへの「口頭メッセージ」が伝えられた。ダレスはこれを、「今回の旅行における最も重要な成果」(豊下P.162)だと言った。
 その後の7月、カーンはアメリカで、アヴェレル・ハリマンからこのメッセージを文書化してくれるように依頼され、自分の記憶力に自信のないカーンは、その作業を松平とパケナムに委託する。二人は8月の数日間を費やして、松平の別荘で文書化作業をやり遂げた。こうして残された天皇の「文書メッセージ」の最後の部分にはこうある(青木P.143)。

 追放の禁止を示唆しているのではありませんが、有能で先見の明のある善意の人々の多くが自由の身になれば、世のために貢献することができましょう。現在は沈黙しているが、一般の心の奥まで届く意見を表明できる人たちがたくさんいるのです。
 こうした人びとが彼らの考えを公に発表できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近の誤った論争は、日本側からの自発的なオファーによって解決できたはずなのです。


 豊下の「天皇外交論」の最大の根拠はこれにある。これは事実上、吉田への不信任を表明したものだ、と。「基地問題をめぐる最近の誤った論争」とは、6月22日の吉田・ダレス会談のみならず、「文書メッセージ」作成直前の7月29日、参議院外務委員会での社会党議員に対する吉田の答弁「私は軍事基地は貸したくないと考えております」を指していることは「疑いない」(豊下P.164)から。つまり、講和に向けた日本の方針としては、あくまで「米軍基地の自発的な貸与」でいくべきなのに、吉田はブレてしまっている、それを天皇が批判したのだ、という。
 果たしてどうか。「文書メッセージ」は「口頭メッセージ」のできるだけ忠実な文書化を目指したはずである。そこに、天皇自身の意向で、「口頭メッセージ」の時点ではまだ起きていなかった「論争」についての思いも書き込まれることも、なかったとは言えない。ただ、「論争」をそういう限定された意味にだけ取れるものだろうか。
 戦後史に興味のある人なら周知だが、この頃の日本は、アメリカ及びそれに追随する国々との「単独講和」を結ぶべきか、ソ連・中国など共産圏を含む「全面講和」を目指すべきか、の論争が盛んに行われていた。吉田は、この点では、後者は問題にならぬ空想論だとする立場にブレはなかった。ところで、前者を選んだ場合、アメリカに軍事基地を貸すことになるのは、ほとんど常識と考えられていたようだ。講和問題に関心を寄せる学者・文化人のグループ「平和問題談話会」は、この年の1月15日の日付のある「講和問題についての平和問題談話会声明」を、雑誌『世界』三月号に掲載しているが、その「結語」の最後は、「理由の如何によらず、如何なる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対に反対する」だった。また5月には、吉田が、全面講和を唱える東大総長南原繁を「曲学阿世の徒」と呼び、南原から反論されたことも大きな話題になった。
 「基地問題をめぐる最近の誤った論争」といえば、これら全般を指すと取るのが自然ではないだろうか。もちろん吉田もまた、言を左右にして、「誤った論争」を継続している、と言える。今から見ればそれは「パワー・ポリティクス=政治的な駆け引き」であったことは明らかだが、当時の天皇にはそこまで理解できないこともあったろう。いずれにしても忘れてはならないのは、このメッセージは、吉田の不得要領の態度に心から怒ったらしいダレスを宥めることが、最大の目的だったと考えられる点である。基地問題こそ最大の課題と考えていたダレスが、立憲でも君主である者から、「日本の側から基地貸与を申し出ることこそ最上、そして、ちゃんとした人がちゃんと説明すれば、国民もそれを納得するはずだ」と言われれば、大きな慰めになったろう。
 それにしても、依然としてこの君主には実際の権力はなかった。不信感が事実あったとしても、田中義一のときのように、総理大臣を辞任に追い込むことはできず、翌年の講和条約予備交渉でダレスが相手にしたのは、やはり吉田茂だった。
 それより、「文書メッセージ」は、遠慮した言いまわしながら、戦犯たちの公職追放を明確に批判している点で、むしろマッカーサーへの不信任を表明している感が強い。因みにそれは、日本政府やGHQをバイパスしてダレスらにメッセージを届ける道を作った英米人の考えに近かった。コンプトン・パケナムは、「経済界にまで及んだパージのために、日本経済は有力な舵取りを失い、むしろ極左勢力につけいる隙を与えている。この措置は、左派に同情的な民政局(GS)によるものだが、マッカーサーはそのイデオロギー的な意味に気づいているのか」(青木P.37~39)等と論じ、昭和22年に一度日本から追放されたことのある人物だった。そしてハリー・カーンといえば、後のロッキード事件の時、グラマン社の顧問として暗躍したとされ、それ以外にも、鳩山一郎などと親しく、日本の保守層の復活、いわゆる「逆コース」を蔭で支えたと言われている。
 公職追放の不当さについて、天皇は単に彼らと同意見だったのか、あるいは彼らの考えに影響されるところがあったかはわからない。とりあえず、翌年、マッカーサーが解任されて、新たなSCAPにリッジウェイが赴任すると、大幅な追放解除が行われた。この時復帰した大物政治家の一人、岸信介が手掛けた安保条約改定によって、戦後最大の政治的な騒乱が起きたのはそれから九年後のことだった。「有能で先見の明のある善意の人々」とは具体的に誰を指すのかはわからないが、誰にもせよ、昭和25年頃に、「日本からアメリカへの、自発的な基地貸与」を言いだして、日本の民情がすんなり収まる、なんてあるはずがない。天皇が本気でそう考えていたとしたら、とんだマヌケとしか言いようがない。
 たぶん、そうではなかった。天皇は、吉田以外の誰かが日米交渉に臨む可能性は少ないことは承知のうえで、というか、そういうことはあまり考えないで、いわゆる「仲人口」の、取りなしの言葉を言ったまでだろう。ただし、アメリカからすれば、日本に関する第一の課題である基地貸与を、天皇が積極的に認めているのは、心強い以上の政治的な価値がある、と思われたであろう。それでハリマンは、天皇メッセージの文書化を求めたのだ。
 とは言え、ダレスにしろ、他の誰かにしろ、このメッセージを実際に外交カードとして使った記録は発見されていない。使わないのが当然だと思う。簡単に使うにしては危険なカードであることは、アメリカ人にも充分認識できただろうから。

 では、昭和天皇が日本の政治家たちに与えた影響はどうか。豊下は、52(昭和27)年、吉田が講和条約締結の全権大使として渡米することをかなりいやがっており、7月19日の朝、天皇に拝謁してからやっと承知した、というようなエピソード(豊下P.172~174)から、戦前からの政治家に対する天皇の絶大な影響力を論じている。もちろんそれはあったろう。しかし、どこまでいっても心理的なものであり、天皇が実質的に「外交」と呼べるような何かをしたかとなると、その答えを見つけるのは難しい。
 天皇の指示として一番明確なのは、54(昭和29)年8月20日、鳩山内閣の外務大臣として重光葵が渡米する前の「御言葉」だろう。それは『続重光葵日記』にこう記されている。「陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」。重光は、安保条約を改定して、通常の相互防衛条約の形にして、米軍には日本国内から出て行ってもらう案を用意していた。天皇はそれを「不可なり」と仰ったのだろう。とはいえ、法律上、それは天皇個人の意見以上ではなく、従わなくてはならない理由は何もなかった。そして重光も、当初は従うつもりはなかった。
 しかし、交渉では、集団的自衛権の問題をめぐってダレスと重光とは相当激しいやりとりをしたが、米軍撤退案は直接は持ち出されなかった。その経緯については、随行した外務省欧米局第二課長安川壮が回想記に書いている。会談前のバージニア州ホットスプリングのホテルで協議した際に、重光が会談で提出すべく用意した文書には、「日本が陸上十八万人を中心とする防衛力増強を完了した際、米軍は全面的に日本から撤退すべきである」と書かれていた(坂元P.163)。以下、安川の回想を坂元の著書から孫引きする。

 重光大臣の、米国側が受け入れるか否かは別として、この際日本側の言いたいことは遠慮なく主張しておくべきだとの言に対し、私は米軍全面撤退を主張することは、米国側に日本の外務大臣は非現実的な人間だという印象を与えかねないと反論した。その時の重光大臣の渋い表情が思い出される。

 この「渋い表情」の中には、天皇の言葉からさしてくる影も含まれていたかも知れない。が、どうであれ、天皇の「政治責任」などは問えないのは明らかであろう。

 最も大きく見て、米軍の全面撤退など、単なる案としても非現実的だと、かつて重光は言われ、最近では鳩山一郎の孫も同じように言われたようだが、その「現実」はどこから出てきたろうか。1950年前後の天皇からすれば、それは何よりも「反共」の必要性からだった。その点では昭和天皇とダレスとはピタリと利害が一致しており、お互いを頼もしいパートナーと思っても不思議はなかった。
 因みに、講和条約と同日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」通称「(旧)日米安保条約」の第一条をじっくり見ていただきたい。

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 結局こういうことが言われているのではないか? アメリカは軍を日本国内及びその付近に配備する権利を受諾するが、それは何も日本を守るためではなく、極東の安全維持のためである。ただ、外国(共産主義国家)とつながった勢力が反乱を起こすようであれば、鎮圧の援助はしてもよい(「できる」だから、しないこともあり得る)。いや、「日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて(including)」なんだから、日本政府の要請がなくても、アメリカの判断だけで日本国内でも米軍を動かせそうである。
 そんなことを認める独立国があるのだろうか? と、一国民としては思うが、天皇にしてみればそれはさしたる問題ではなかったようだ。陛下にとって一番怖いのは、共産主義者だった、国の中にいても外にいても。アメリカは占領しても皇統の存続を認めたが、彼らならきっと廃止するだろう。それを防ぐ策こそすべてに優先させなければならない。
 君主が王家の存続を第一に考えるのは至極当然であり、それならまた、それに従ってできるだけのことをしようとするのも当然である。いけない、となれば、君主制は完全に廃止するしかないが、拙文をここまで読んでくださった方々は、この点どう判断なされますでしょうか?
コメント (2)
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