由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

子どもはどこにいるのか その1(学校事始)

2013年04月17日 | 教育
メインテキスト:滝川一廣『学校へ行く意味・休む意味 不登校ってなんだろう?』(日本図書センター平成24年)

 
 本書はまず、「そもそも学校とは何か」の話から始めている。拙文もそれに倣う。
 学校教育は、人類にとって、決して「あるのが当たり前」の事業ではない。いわゆる「子ども」のための、初等教育でもそうだ。原ひろ子(『ヘヤー・インディアンとその世界』)が伝えているアメリカ大陸北西部のヘヤー・インディアンの社会には、学校はない。それ以前に、「教える-教わる」という概念がないそうだ。
 いくつになっても根本的な不完全さを免れない人間が、他の人間に何かを「教える」なんてことができるはずはない。それができるのは神様か、自然そのものだけである。言葉にすれば例えばそんなふうになるであろう、まことにもっともな信念から、彼らは子どもに対して指示めいたことは一切言わないし、しない。子どもは、木の削りかた・火のつけかた・獲物の捕りかた、など生活に必要な一切を、大人のすることの見よう見まねで覚えていく。「まなぶ(学ぶ)」の語源は「まねぶ(真似ぶ)」なのだそうで、そこからするとこれこそ正当な学習方法なのかも知れない。
 でも、本当にそれですむのか、という疑問は当然湧いてくるだろう。例えば赤ん坊が火の方へ這っていったような場合はどうか、というと、鈴を鳴らして赤ん坊の注意をそちらに引きつけることによって守るのだそうだ。まことに徹底した「非教育」ぶりである。これでも赤ん坊が鈴の方へ来ないで、火に触れて火傷してしまったような場合には、「仕方がないこと」とあきらめるのだろう。その覚悟(かな?)がなくては上のもっともな信念を貫くことはできない。
 ただし、もっと厳しい見方もあって、そういうのも間接的な「教育」になるではないか、と言うこともできる。人間は「本能が壊れた動物」(岸田秀)なので、「教える」ことを本当に完全になくしたとしたら、たぶん種族を保存することはできないだろう。

 西洋における初等教育の歴史を詳しくたどる必要はない。古代ギリシャ時代から、あるにはあった。しかしそのころは、子どもが(主に体育や各種の技芸など、現代日本風に言えば習い事の)教師の下へ通うにしても、限られた階層のものであった。中世期を通じて、貴族は子弟にチューター(tutor家庭教師、女性教師はgoverness)をつけて教育するのが普通で、庶民の子を特定の場所に行かせて集団で教育する、いわゆる「学校」が一般的になるのは、15~6世紀をまたねばならなかった。
 本書にはシェークスピアの「ロミオとジュリエット」(1595年頃)中の台詞が引用されている。

Love goes toward love, as schoolboys from their books,
But love from love, toward school with heavy looks,
(逐語的な拙訳:恋人は恋人の元へ行く、教科書から離れる生徒のように
 しかし恋人が恋人から離れる時は、重苦しい様子で学校へ向かう生徒のよう)


 この作品の舞台は14世紀のヴェニス(ヴェローナ)だが、シェークスピア劇の場合、時代考証などはあまり重要ではない。イタリアもイギリスも、この劇の頃までに大航海時代を経て、商業が盛んになっていたということのほうを注目すべきだろう。港を中継した金と品物とが、国境の内でも外でも、広く行き来する。そうなれば、万を超える大きな数字も使わねばならないし、商売上の取り決めも必要になってくる。このような知識は、人間の都合によって生じたものだから、子どもが自然から/自然に学び取れるものだとは思えない。かくして学校が必要になった。
 シェークスピア劇の中でヴェニスを舞台にしたものというと、他に、題名にも示されている「ヴェニスの商人」(1596年頃)があり、この時代既に、何艘もの船を使って海外貿易を行っていた商人の他に、利子を取って金を貸す金融業者が存在していたことがわかる。聖書は利息・利子を禁じている、との考えが中世では強かった(ただしいろいろなケースあり)し、この戯曲でも利子の正当性は、ヴェニスの商人アントーニオーとユダヤ人の金貸しショイロックの間で議論されている。敬虔なキリスト教徒であるアントーニオーは利子には否定的なのだが、もちろん、利子がなければ業としての金貸しは存在せず、金貸しがいなければ資本主義の発達はない。金が金を生むなんて不自然だ、と言われるなら、そんな気もするが、その不自然を前提として私たちの社会は成立している。
 さて、「ヴェニスの商人」中にも学校(school)という言葉は一度だけ登場する。劇の冒頭、バサーニオーという遊び人がアントーニオーに金を借りに来るときに、二人の学校時代の思い出を語るのだ。弓矢遊びに興じていたらしい。なんの不思議もない。12世紀の日本の俗謡にも「遊びをせんとや生れけむ」(「梁塵秘抄」)と歌われている子どもが、ここにもいるというだけのことである。ただ恐らく、平安時代の日本の子どもは、学校というものは知らなかった。ヨーロッパの、都市部の子どもにはもう学校があって、そこへ行くと遊び友達に会える楽しみもあったが、教科書(textbooks)に象徴される勉強が、とてもいやなものとして既にあった。
 「神が田舎を作り、人間が町を作った」というのは、18世紀イギリスの詩人ウィリアム・クーパーの詩句だ。人工の度合いの強い環境である町には、学校という、神を畏れぬ不自然な試みである教育を、日常的に施す施設が必要だった。そして、そこに通うのが当たり前とみなされる「子ども」という存在も、これによって確立された。

 これから、日本のお話。
 一般の日本人が「学校」というものを知ったのは、明治5(1872)年の「学制」からである。その序文「学事奨励ニ関スル被仰出書(おおせいだされしょ)」はたいへん格調高く新生日本での学問の必要性を訴えている。滝川一廣による現代語訳(P.89~90)から抜粋しておく。

 「ひとびとがみずから身を立て、生活をまかない、産業をさかんにして、よき人生をまっとうするには知識や技能を身につけねばならない。それには学びが必要で、学校とはそのためにある」「貧窮や生活破綻は、けっきょく、学問がなかったがゆえの失敗にほかならない。たしかに学校は昔からあるにはあった。しかし方向がまちがっており、学問は武家以上の階層の占有物とされ、それ以外の身分職業の者、まして女性や子どもには無用とされてきた。武家以上でまれに学問を追究する者も、学問は天下国家のためと称して先述の目的意識(引用者註、学びこそが身を立てる根本、を指す)はもたず、枝葉末節や空理空論に走り、高尚にみえても実践性・実用性に欠くものがほとんどだった。積年のこの弊害のため、わが国では文明も普及せず、技術も発展せず、貧しく困窮するひとびとが多かったのである。というわけで、人は学ばねばならない。学ぶ方向をまちがえてもならない」

 実に明解である。人は学ばなくてはならない。学ぶべきなのは、いわゆる訓詁の学などではなく、実用に役立つものでなくてはならない。そうすれば人は必ず「よき人生」が送れる。そのために学校が必要になるのだ。本当にそうであって、それを誰もが納得しているなら、学校のすばらしさが疑われることなどあり得ないはずである。往々にしてそれがあり得てしまうのはなぜか。ここには書かれていない別の要素も、学校にはあるのだろう。
 まず、「お前たち(国民)のために学校はある」とのみ言われているのがなんだか欺瞞的なようである。国が、国にとって役に立たないものをわざわざ作るなんてことがあるわけはない。もっともそれは、「わが国では文明も普及せず、技術も発展せず」の部分に出ているとも見えるだろう。この時代の日本のスローガンの一つであった「殖産興業」を実現するために、学校が必要とされたのだ、と。そして、殊更に表だってそう言う必要はなかった。人が「身を立て、生活をまかない、産業をさかんに」すれば、自然に国は豊かになるはずだから、この二つには矛盾はない。このおおらかさこそ、学制序文の高い調子をもたらしたものであり、ひいてはこの時代の日本の明るさを象徴するものであろう。

 それでも、学校は国のために作られた。まず、作った方にも、通わされたほうにも、あまり意識されない、根源的な要素がある。学校が「子ども時代」を確定し、それを通じて「国民」を作るということ。
 我が国初の児童文学とされる「こがね丸」の作者巌谷小波には、「当世少年気質」(明治25年作)なる連作短編集もある。全部で八篇あるうちの最後「慈悲(なさけ)は他(ひと)の為ならず」は、次のような話だ。
 東京は愛宕下に住む建具屋の義助は、職人としての腕はあるが、文盲であることを苦にして、一人息子の芳松を小学校に通わせている。大人しい芳松はよく勉強して、教師のウケも、近所の評判もいい。あるとき名古屋で大震災があり、教師は被災者への義捐金を生徒に呼びかける。強制ではないが、芳松は、僅かな金でも是非出したいものだと願う。しかし、父母に言っても、「そんな事はもつとお金が澤山とある家でする事ツだ」と相手にされない。思いあまって、酒を買うお使いに出されたとき、五銭の酒代を、落としたことにして、くすねる。これがバレて、折檻されそうになると、騒ぎを聞きつけた長屋の大家がとりなしに入る。オモチャを買うというのではなし、「地震の為に難義をして居る人に遣り度いと云ふんだから、どうして褒めていゝ位のものだ」。うちの子どもなんぞは遊んでばかりなのに、「それから思へば芳ちやんなんぞは、学校へ上つて居るだけに、ゑらいものだ」と。それで義助は、照れくさそうに、「持つてきな」と改めて五銭、芳松に渡す(引用は『明治文學全集95 明治少年文學集』より)。
 これが近所の難儀だったらどうだろうか。義助も、江戸っ子のなんとやらで、できるだけのことをしてやろうとしたのではないだろうか。しかし、いくら「同じ日本人」でも、遠く離れた場所に住む見も知らぬ人を助けねばならぬなどとは思えない。そのような感情を形成し、「同じ日本人」の内実を作るものこそ、学校なのであった。
 明治25年と言えば、前々回に述べた教育勅語はもう出ていた。芳松も学校でそれを習ったろうが、これがもたらした精神面での、日本人への「教育的効果」は実際のところどういうものだったか、私にはまだよくわかっていない。後出するラフカディオ・ハーンの文中には、明治20年代の出雲の中学生はたいてい、「天皇陛下のために命を捧げるのは光栄だ」と言う、とあるが、それはどの程度の広がりと深さをもったものであったかは。今後「立憲君主の座について」シリーズでできるだけ考えていきたいと思っている。
 ただ、どんなものであれ、「国民道徳」がある前提として「国民」があらねならぬのは確かであろう。その際、言葉よりもっと強力に作用したものがある。子どもがみんな学校に通い(もっとも、巌谷小波の大家の言葉から察すると、この時代実際には学校へ行っていない子どもも多かったようだが、タテマエとしてはそうだった)、好きでも嫌いでも、同じ教科書で(即ち同じ言語で)、同じ教科を学ぶという共通の経験をする、この事実そのものが。
 ところで、国が国民を直接、具体的に必要とする場面は、なんと言っても戦争であろう。その意味で、上述学制序文と同年に「徴兵告諭」が出たのは、近代国家の始まりに必然な道筋を示すものである。徴兵についての最初のありさまは以前「近代という隘路 その3」で書いた。明治27年の日清戦争時にはもう一丁前の軍隊は出来上がっていたわけだが、そのためのバックボーンを作ったのは学校である。そう断定してよいと思う。

【自分でも忘れておりましたが、以前当ブログの「正しい道はあるのか? その5」で、今回とほぼ同じ主旨のことを、別の材料から述べておりました。よかったら合わせてお読みください。】
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