由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

書評風に その5(フランツ・カフカ 孤独の三部作)

2023年10月29日 | 文学

The Trial, directed by Orson Welles, 1962

メインテキスト:カフカ/池内紀訳『失踪者』(白水社uブックス平成18年)
        フランツ・カフカ/原田義人訳「審判」
        同「城」

 最近ようやく「失踪者」(元は「アメリカ」と呼ばれていた)を読み、へえ、カフカって人もまともな小説を書こうとしたことがあったのだな、と一瞬思った。
 主人公はカール・ロマンスという十七歳のドイツ人。女性から「可愛いわね」と何度か言われるところからすると、美少年らしい。おかげで、三十代の女中に誘惑されて、孕ませてしまい、両親に家を追い出されて、アメリカへ赴く。カフカ自身はこの新大陸へ行ったことは一度もなく、従ってこの地の描写は読んだり聞いたりしたことから作者がこしらえたものだが、かなりのリアイティを感じさせるのはやはり才能と言うべきだろうか。
 ここで主人公はしょっちゅういさかいばかり起す。招待されて行った銀行家の邸宅では、そこの令嬢と取っ組み合いの喧嘩さえして、しかも負けている(もっとも、勝っていたら、若い女性に暴力を揮ったということで、もっとやっかいなことになっていたろう)。
 そんなこんなで、彼はやっと落ち着いたかな、と思えた場所から必ず追い出される。最後に調理長(女性)の好意で就けたホテルのエレベーター・ボーイの職も逐われる。この部分の筋立ては、濡れ衣を着せられる話で、その経緯はちゃんとわかるように描かれている。
 だから主人公に感情移入しやすいのだが、この作品中の男性たちは、非人間的なまでに厳しく、自分のルールを一方的にカール君に押しつけてきて、しまいには彼を捨ててしまうので、どうも幸福な結末は見えてこない。
 カフカは、チャールズ・ディケンズ「ディビッド・コパフィールド」のような小説が書きたい、と友人のマックス・ブロートに言っていたらしい。これに限らず「オリヴァー・ツイスト」や「大いなる遺産」など、ディケンズの青少年主人公の周りには、悪人も出てくるが、それ以上に親切な人々がいて、主人公を助けるので、彼らは最後には幸せになる。
 どうも都合がよすぎる、いわゆるご都合主義だ、なんて言うのは野暮というもの、それはそういうフィクション(作り事)として楽しむしかない。
 カフカは、読むときはそれでいいとして、自分では書けなかった。才能より、世界観の問題として。だからカール君は、しまいには広大なアメリカ大陸の中で、失踪してしまう、つまり、一定の結末にたどりつく前に消えてしまう。

 さらに言うと、近代の長編小説は、ハッピー・エンドではなくても、首尾一貫した世界を、言葉で構築するものだ。なになにという男/女がいて、かれこれやって、これこれの結末に至る、と。小説だけではなく、一般人でも、自分の体験を人に説明するように求められた時には、嘘をつくつもりはなくても、できごとを取捨選択して、整理して言うので、「事実」とは微妙に違った何かになってしまう。そこまで踏み込むと収拾がつかなくなるので、やめよう。
 とりあえず、バルザックを初めとするリアリズムの大作家たちは、自分から見た世界とは例えばこういうものだ、という雛形を示して見せた。それがどの程度に「事実」に基づくか、作家の頭の中でこしらえたものかは、二次的以下の問題でしかない。ただ、物語全体が、必然性、と感じられるものに貫かれていないと、文字通り話にならない。
 言い換えると、小説とは、普段は現実世界に埋没している一般人に、ある「見通し」を与えるものだと言えるだろう。この場合、作者はいわば神の視点に立つわけで、それ自体が欺瞞と言えば欺瞞だ。なんて言うと前と同じ野暮になる。イヤなら読まなければいいだけの話なんだし。

 でも、自分ではそんな見通しは持てない、と思いつつ、読むだけに止まらず、物語めいたものを書こうとするとどうなるか。
 その一つの実践例が、カフカの三つの長編小説(これを「孤独の三部作」と命名したのは例によってブロート)で、すべて未完になるしかなかった。
 もっとも、「審判」は、最初を書いてからほとんど直ちに、主人公が「犬のようだ」と呟きつつ無残に殺される最後が執筆されたらしい。あとはこの中間を作ればいいわけで、実際かなりの分量が書き残されている。それでも、「あるとき、なぜだかわからないままに告発された」から「やっぱりわからないままに処刑される」までを、必然性を伴って繋いでいく筋を見つけることは、どうしてもできなかったらしい。では、なんのために何を書くというのか?
 カフカを生涯支配した最も強い感情は、この世界は理不尽な支配構造でできている、というところにあったらしい。そこを一部でも可視化する、つまり見通しをつける(例えばジョージ・オーウェル「1984」はそういう小説だ)ことさえできないけれど、この支配は人間を踏みつけにする不当なものだ、という思いは捨てられない。
 そこからして、ジタバタと抗う心理的な必然性はある。特に「城」は、不可解な権力に完全に絡め取られているような状況と、単身で戦い続ける話だ。
 構造がぼんやりとしか見えていない以上、この戦いが有効かどうかもわからない。それでも続けられるのは、カフカは、この世に正当な秩序を与え、善と悪の根拠を、罪と罰の真の照応を、さらには救済をもたらす何か(やっぱりベースはユダヤ教かなあ)はあると信じた、あるいは信じたがっていたからだろう。
 「審判」中の有名な「掟の門」のエピソードにあるように、そこに至る門は、彼のために用意されていて、しかも開かれているのに、なぜかどうしても入ることはできない。しかし、ともかくそれはある。
 あるいは「皇帝の使者」という印象的な短編小説、というより散文詩というべき掌編にあるように、福音(喜ばしい便り)がもたらされる見込みはまずないのに、「夕べが訪れると、君の窓辺に坐り、心のなかでそのたよりを夢想」せずにはいられない「単独者」こそ彼であり、そのような存在に共感が持たれる人のために、かつまた、そこから振り返って見た世界の姿に悪夢のような説得力を感じる人のために、カフカの文学はある、と言えるだろう。

 せっかくだから、未完とはいえ、このような文芸作品が登場した背景について、思うところを書きつけておきます。
 これらの作品の執筆時期は、「失踪者」が1912―14年、「審判」が1914―15年、「城」が1922年。つまり、20世紀の初頭。
 その少し前に、前回述べたロシアのアントン・チェホフが人生に意味を見出せず、苦しんでいる者たちの劇を書いた。それでも彼らは、孤独と徒労感に耐えて生き続けることを選ぶ。「ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだお仕舞いじゃないわ。生きていきましょうよ! (中略)もう少ししたら、なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ」などと言って(「三人姉妹」神西清訳)。
 彼らが静かに生活していけるのは、ぎりぎりのところで、神、としか呼びようのないものを信じているからだ。カフカもそれを完全に捨てているわけではないのは前述した通りだが、「ワーニャ伯父さん」(1900年)や「三人姉妹」(1901年)にあるような、深い諦念を抱えて生きる心境を描くことはできなかった。
 それは、本人の性格の他に、勤労者の身分がけっこう関係しているかも知れない。
 チェホフ劇に出てくるのは、当時のロシア社会の上流か、中の上には属する人々で、働いてはいても、生活のために是非そうしなければならないというほどのことはない。だから、他人に使われている意識は薄く、社会的上位者(上司)からの圧迫は、さほど感じずにすんでいる。
 一方、例えば「城」の主人公・Kは、測量士を職業としている。城に住む領主・伯爵に雇われて、ある村にやってきた、はずなのだが、「城の一部だ」と自称する村人たちには疑われ、証拠を見せても、まともに相手にされない。城には行けず、責任者には会えないし、連絡もつかない。そうなると、彼がここにいいる最低の権利も認められない。それなら、普通、そんな場所からはさっさと離れるか、正式なお達しがくるまで大人しく待ってみるか、だと思うのだが、Kはどちらも選ばなかった。
 彼はあくまで自分の正当性を主張した。対手の村人は、それに正面から反論するのではなく、宥めたりすかしたり、脅したり(「そういう態度はあなたの不利になるばかりですよ」など)するばかり。どうも彼ら自身が、Kの雇用の実態についてはまるで無知だし、城と村の権力関係についても詳細は知らず、ただ昔からの慣習に従っているばかりのようだ。
 いわゆる「お役所仕事」で、このようなことを経験した人は少なくないだろう。これは実は、本当の権力者と直接対峙するより、徒労感が増すから、よりやっかいだと言えるし、すると、こういう曖昧な層を纏うことが、権力構造を守る役にも立っているようでもある。
 これに対してKは、「ああ言えばこう言う」方式を倦まずに繰り返し、葛藤し続ける。そのやりとりは、焦点が定まらず、従って決して噛み合わない。思い返してみると、これまた、我々の日常生活のコミュニケーションには、その類いはたくさんある。だからリアルなのだが、小説という枠組みの中に大幅に取り入れたのは、カフカをもって嚆矢とするのではないかと思う。
 そのようなコミュニケーション不全の関わりを続けるKを、宿屋の女将は「反抗的で子供のよう」だと評する。「いつでも『ちがう、ちがう』といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす」のだ、と。そうだ、Kも、「審判」のヨーゼフ・Kも、「失踪者」のカール少年と同様、あるいはそれ以上に子どもっぽい。
 だからカフカが憧れつつ反抗しているものに敢えて名をつけるとしたら、ユダヤ教の強い家父長制下の「父」であることは、ごく一般的な見方で、異論はない。後の作品の方向性を決めたとされる短編「判決」(1916年発表)は、父に完全に否定されたために、自殺する青年の話だ。「失踪者」や「審判」に実際に登場して主人公を叱ったり否定したりするのは、父ではなく伯父だが、これは家庭の構造を一般社会にまで広げて見るための工夫と言ってよい。
 とはいえ、「変身」(角川文庫)の最新の訳者である川島隆によると、フランツ・カフカの父は行商人から身を起こして、アクセサリーショップのオーナーとして成功した苦労人だが、特に高圧的ではなく、当時の水準ではむしろリベラルと呼んでもいいくらいだった。子どもへの体罰用の鞭が家庭に備えてあるのも珍しくなかったこの時代で、フランツを殴ったこともたぶん一度もなかった。
 ただ、一度、夜中に起きて水が飲みたいと言ったフランツを怒って、一晩中ベランダに置いていたことは、「父への手紙」(実際の手紙だが、母や妹の反対で父のもとにはもたらされなかった)に恨みがましく書かれている。
 そんなことか、と思えるだろう。しかし、多くの場合、親を筆頭とする大人の要求は子どもにとって非常に理不尽なものであり、子どもには、そんなことにも従わねばならない屈辱感を残す。出来事自体は成長するにつれて忘れてしまうから、それは「そんなこと」になる。大人になっても、よほど幸運な人でない限り、職場や家族、近所づきあいで何度か同じような目に合うが、それもやり過ごして、忘れてしまう。やはり、ぼんやりした屈辱感だけを残して。子どもの時の体験は、それに耐える訓練にはなるだろうか。
 そして、やがて自分が父になったときには、「これが普通だ」と思って、同じように子どもを躾ける。それが本当に正当かどうかはわからない。いちいちそんなことを考えていたのでは生きる障りになるばかりだし。
 カフカ自身は、三度婚約しながら、よくわからない理由で破談にしている。思うに、自らが圧政的な家長になるのが、とりわけ、そうなるしかないと感じることが、本当に恐ろしかったのだろう。
 「掟の門」の説話を語る教誨師の僧は、また次のようにも言う。「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」。主人公のヨーゼフ・Kは応える。「憂鬱な意見ですね。虚偽が世界秩序にされているわけだ」。

 フェミニズムの観点からすれば、これこそ「男性原理(あるいは父性原理)による社会構造だ」ということになりそうだ。そうも言えるかも。この用語の意味するものを非常に広くとればだが。
 なぜなら、カフカの世界では、女性は、一般に男性よりは好意的に描かれているようだが、最終的な救いをもたらすものではないからだ。「審判」のエルザも、「城」のフリーザも、主人公に一時の慰安を与えながら、いつのまにか消えてしまう。
 「君はあまり他人の援助を求めすぎる」とも、先の僧は言っている。「そして特に女にだ。いったい、そんなのはあてにならぬ援助だということがわからないのかね?」。これに対しては、二、三人の女を自由に使えたら、うまくやることもできる、とKは返すのだが、これは「ああ言えばこう言う」の一例で、実際にそんなことができる男など、めったにいるものではない。
 そして、女性、というか「女性的なもの」は、支配構造を作り出すものとは別種であるように見えても、現実世界にある以上、やはり構造の一部であるしかない。好例は「変身」中の母と妹で、最初は虫になった主人公の世話をするが、結局は彼を排除する側にまわる。そして、彼を埋葬することで、父と彼女たちの一家は幸せになる。

 支配と排除がなければ、人間世界は保たれないのだろうか。ここにこそ、人間の不完全性が最も端的に現れている。いかにも、憂鬱な見解だ。しかし、この根本的な人間の条件を一遍に変えようと夢想し、実行に移したら、革命党派によるものでも宗教団体によるものでも、いつもさらなる悲惨しかもたらさなかった。

 文芸の世界では、1954年にサミュエル・ベケットが、どことも知れない場所で何者ともしれぬ者をただ待ち続ける劇を書いた。ベケットはこれを喜劇だと考えていたらしい。【ただし、バスター・キートンとチャールズ・チャップリンに演じさせたいと言っていたという話の真偽は不明。】
 そしてチェホフも、「かもめ」(1896)と「桜の園」(1904)は、はっきり喜劇と銘打たれているし、この間に挟まる前出二作も、喜劇的色彩はある。状況に適応しないドタバタを演じる古典的な道化劇で、それを見出すには、かなり引いた視点が必要になる。これも神の視点と言ってもいいかも知れないが、なんらかの意味や見通しを与えるものではなく、逆に、こちらをじっと見つめるだけの視点。
 そこに浮かぶ人間の姿は、滑稽で悲惨だが、同時に、非常に愛おしい。それだけで、希望は何も見出せないとしても、人間として生きることを放棄するのはまちがっていると思えてくる。現代文学のもたらす、不思議な効用であろう。

【オーソン・ウェルズ監督「審判」は、類稀な場面構成に、膨大なエキストラ、さらにはジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー、エルサ・マルティネッリなどの名だたる美人女優を贅沢に使っていて、ずいぶん金をかけてウェルズのこだわりを全開させた映画です。個人的には、アンソニー・パーキンスの演じるヨーゼフ・Kは、むしろ軽い演技で、カフカ作品の、状況と行為のズレからくる喜劇性を際立たせているところが一番印象的でした。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする