由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その3

2011年03月29日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

サブテキスト :加藤陽子『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館平成8年、平成20年第4刷)

 戦争に関するよくあるレトリック(言い回し)のうち、二つを取りあげてみよう。
(1)「戦争とは国家が勝手にやるものであり、それに駆り出されたり、戦災にあったりする庶民は一方的な被害者である」
 戦後の日本ではこの見方が支配的だった。昭和三十五年生まれの加藤にとっても、これを気にしないわけにはいかなかったらしく、栄光学園の生徒にこう問いかけている(P.118-119)。「民権派や福沢(諭吉)が、日清戦争に双手をあげて賛成しているのを見ると、少し変な気分がしませんか」。これに対するある生徒の答えと、さらにそれに対する加藤の応答を下に戯曲風に記すと、

 生徒 ― 別に変とは思わない。当時の人々に、戦争に「反対する」、「反対できる」なんていう気持ちはなかったのでは…。
 加藤 ― あっ。そういう答えは予想していなかった。こ、困りました(笑)。そうか、みなさんの柔軟な頭では、民党=反政府=戦争反対、というような図式は、あまり頭に浮かばなかったということですね。うーむ。


 いやあ、別に唸ることではないんじゃないかな。
 戦後サヨクが広めた「図式」は、今の若い世代の中では薄れている。それは確かだ。しかし、加藤が説くような、民衆、というか、民衆の側に立つと自認する知識人でも、明治の中頃までは、戦争を待望するのがむしろ普通だった、という見解は、なおさら頭にはない。お上のご意向には唯々諾々と従うしかない、無知で無力な民衆像があるのだ。サヨク人士の根っこの部分にあった「意識の低い」民衆を軽んずる感情は、脈々と受け継がれている。
 民衆はそんなに愚かではない、というより、支配・被支配とはそんなに単純な、一方的なものではない。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」(「精神現象学」)を持ち出すまでもなく、強権の発動には、発動される側(民衆)のある程度の同意が必要なのだ。その「ある程度」とはどの程度かは、常に難しい問題ではあるにしても。
(2)「武装した民衆が、まず圧制者たる王侯貴族を倒し、次に外国からの不当な圧力を跳ね返すために、国民全員が兵となって戦った」
 フランス革命時に現れ、その後全世界に国民皆兵制度を広めた理念である。が、半ば以上フィクションであろう。
 ところで、日本の場合、このフィクションを支えるための、半分以下の事実もなかった。
 明治維新は、薩長土肥の連合軍が、徳川幕府とそれに味方する諸藩を打倒することで始まった。戦ったのは、長州の奇兵隊など、少数の例外を除けば、すべて武士だった。その後、庶民からリクルートした近代的な軍隊は、庶民自身の要望ではなく、あくまで、大村益次郎や山縣有朋など、明治新政府で兵制改革に当たった要人たちの政策から出来上がっていく。こういうところで明治維新は、正に「上からの革命」だった。
 そこから来る一種の焦りは、明治五年の徴兵令先立って出た「徴兵告諭」からも感じとれる。ほとんど不自然に見えるくらい強く、かつての特権階級である武士を貶めているのだ。以下に、初めのあたりの現代語訳を試みる。

 我が国の太古の制度では、国内の人民で兵士でない者はなかった。有事の際には、天皇自らが元帥となり、壮年者の中で兵役に耐えられる者を募集して、この軍で反逆者を討伐した。戦が終わって家に帰れば、農民であるか、工人であるかまたは商人であって、後世の、大小二刀を帯にはさんで武士と称する、あつかましくタダ飯を食らい、ひどい場合には人を殺しても、公に罪を問われないような者は、もちろんいなかった。(中略)維新で、各藩は領地を天皇に返還し、明治五年に及んで、藩は廃されて郡と県を置く昔にもどった。生まれつきの身分でタダ飯を食らっていた武士からは、俸禄を取り上げ、刀を捨てることを許可して、すべての身分の者にようやく自由な権利を得させようとした。こうなったからには武士は以前の武士ではなく、民衆は昔の民衆ではない。みんな同じ皇国の民であって、国に尽くす道も、もちろん身分による区別などあるはずがない。

 不自然なのは歴史の語り方だ、とすぐにわかるだろう。武士などという戦争の専門家、従って戦争がなければタダ飯食らいになるしかない者が、階級として生じたことこそまちがいだった、そのまちがいを正して昔にもどるのだ、とされている。昂揚した調子でなかなか読ませるが、それだけに非常に強引な論理運びである。
 ただ、こういう場合に「昔」が引っ張り出されること自体は、そんなに特別なことではない。エリアーデ(「永遠回帰の神話」)が説くように、大規模な社会変革は、まっさらな新しい時代になる、というよりは、むしろ理想化された過去の時代を「復古」するのだ、と言われるほうが普通なのである。
 理想化は、必ず、「これから」のための都合と願望によって行われる。それなら、そのやり方を見れば、この告諭を出した側が、これからの時代がどうあってほしい・どうあるべきだと考えていたか、がわかるはずだ。
 告諭の文中、廃藩置県は復古だ、というのはあからさまなデタラメである。日本では地名としても行政区分としても、奈良朝の律令による「国」(武蔵国とか下総国とか)が、正式には(形式的には)明治まで存続していた。古代には国より小さな県(あがた)という地域名もあったようだが、現在まで続く「県(けん)」は、中国の郡県制に倣って、明治期に創出されたものだ。しかも、秦の時代の郡県からすると、県と郡の大小が逆になっているのは、以前は「国」の中に「郡(こおり)」があった名残である。
 そんな細かいことはどうでもよろしい、とこの告諭の筆者は思っていたようだ。肝心なのは、天皇を頭として壮年で頑健な者は皆兵士となる、かつてあった、あるべき国の姿に戻ることだ。いったいどれくらい昔の日本がそういう状態であったかのかはよくわからないのだが、ともかく、日本の国柄とも矛盾しないし、これから権利を持った自由な民衆を創出するためにも必須の条件となるものなら、いいに決まっている、と。
 すべてが明治国家の都合によってこしらえられた詭弁だ、というのも一面の真実ではある。
 だいたい、告げ諭された民衆のほうが、こんな物語に乗っかって、皇国のための兵士に喜んでなろうとするのは少なかった。何しろ、一家の働き手が取り上げられるのはたいへんな痛手になる。血税一揆(徴兵告諭で、兵役を血税と表現していたため、この名がある)が各地で勃発した。そこまで過激にならなくても、明治六年の徴兵令では、二百七十円の「代人料」を払えば逃れられた他、官吏・医科学生・官公立学校生徒・「一家ノ主人タル者」・嗣子(家のあととり息子)・養子・独子独孫、などなどがすべて免除の対象となったのだから、兵役逃れのために、戸籍の上だけ他家の養子になるような者も出てくる。
 それは深くは追求されなかったようだ。それというのも、告諭の高い調子とは裏腹に、この時期、政府としてもそれほど多くの徴兵を集める気はなかったからだろう、と加藤はより専門的な著書『徴兵制と近代日本』で推測している。理由の第一は、もちろん予算不足だが、それと同時に、山縣たちは、少数精鋭主義でいきたかったのだろう、と(P.51~69)。徴兵令の付録部分には、全国のこの年の徴員は一万五百六十人にする、と明記されていたそうだ。
 実際に、当初、徴兵免役者は壮丁(二十歳)の八割以上に及んだが、残り二割弱の徴兵検査を受けた者のうちからさらに抽籤で選ばれた者が、実際に兵役についた。その数は明治十二年まで毎年ほぼ一万人前後、これは壮丁のうち約三〇分の一だと言う。
 その後明治十六年の徴兵令改正によって、代人料を初めとするほとんどの免役は廃止され、疾病・障害によって兵役に耐えない者以外はすべて「猶予」(後に「延期」)とされたが、明治前期を通じて壮丁(二十歳)のうちリクルートされる者は一年で一~二万人、日清戦争後の明治二十九年でやっと四万を越えた(壮丁の約一割)。
 武家排斥の立て役者とみなされ、明治二年に不平士族に襲われて、その傷が基で死んだ大村益次郎に、「兵を縦に養つて横に使はなければいかぬ」という言葉があるそうだ。意味は、兵となるべき人材は少数選抜して一定の服役期間に訓練を課し、終了後は生業に就かせつつ在郷軍人会に在籍する予備役の兵として、次第に兵員を増やしていく、というものだ。こうすれば政府は兵を養うのに余計な金を使わなくても済むし、一般社会の中に軍人という存在を根付かせることもできる。
 加藤が徴兵令の変遷をまとめた表(『徴兵制と近代日本』P.46~50)で明らかにわかることだが、現役兵としての訓練機関は、陸軍では明治六年の三年間が昭和初年までずっと変わらない(海軍は明治二十二年から四年になった)のに、予備役の期間は、明治十二年の三年間から昭和二年の五年四ヶ月(海軍はこのとき四年で、昭和十四年に五年になった)と着実に伸びている。これが日本の、兵力増強の方法だった。

 このようなハード面、すなわち制度の整備とはまた別のところで、ソフト面としての思想に関するところで、多くの言論が、近代国家には必須の、国民意識の涵養を呼びかけている。それはむしろ、在野の言論人のほうに多く見られる。加藤が栄光学園の生徒たちに問いかける形で特に注意を促したのはこのポイントである。
 例えば、徴兵令と同じ明治六年に出た福沢諭吉の「学問ノスヽメ」第三篇。これは「一身独立して一国独立する」という言葉で有名だが、その意味するところはこうだ。民は依らしむべくして知らしむべからず、ということで、一パーセント以下の智者(福沢は千人に一人、つまり〇・一パーセントだと言っている)が残り大多数の愚民を統治する国は、平和なようだけれど、いったん他国との戦争ともなれば、愚民はそんな大事を引き受けようもなく、逃げてしまうだろう。もとより国政は政府の仕事であり人民はその支配を受ける者だが、これはただ便宜上持ち場を決めただけであって、国の面目にかかわる場合には、それを我が身の上に引き受け、命をなげうっても尽くす気概が人民になければ、とうてい今後諸外国に伍してやっていけるものではない。
 これが福沢の求める独立心なのであり、徴兵告諭と軌を一にしていることは一見して明らかだろう。福沢は何も政府に協力しようとしたのではない。明治一五年の「兵論」では、徳川時代の低い経済力で、しかも租税も重く苦役も多かった時代に二百万の武士を養っていたのに、現在は七万四千の陸軍を養っているだけだ、これでは兵制改革の意味はない、とかえって政府の手ぬるさを叱咤しているぐらいだ(前掲書P.20)。軍備に関しては、民間人のほうが性急な場合もあったのである。
 同じような文脈で、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』にはいくつかの民権派の言説が紹介されている。千葉の名望家幹義郎は、明治十二年の日記に書いている。日本が本当に独立国たりえるためには、国会開設や民権拡張は大切だけれど、それより不平等条約改正のほうが先だ、と(P.109)。同じ年、山梨県のある民権派の新聞は、次のような社説を載せた。一国の兵力は、兵士の力だけではなく、その背後の国民一致の力に他ならない。では何によって国民を一致協力させるのかといえば、国会によってである、と(P.113)。
 極めつけは田中正造が日清戦争終結間際の明治二十八年に出した年賀状であろう。曰く、巨額の戦費を賄えたのは、国会開設以来民党が苦節に耐えて経費を節減したからである。辛酸を共にしたからこそ今日の快楽を同じうすることができる。まことに目出度いことだ、と(P.124)。田中が足尾銅山鉱毒問題を天皇に直訴しようと試みるのは、この六年後のことである。これほど筋金入りの民衆派でも、国会が戦争のために役だったことをこの時点では喜んでいた(ただし日露戦争では反戦の立場になる)のは、記憶に値するだろう。

 かくして、「民衆は、国内の王侯貴族は倒さなかったが、外国からの不当な圧力を跳ね返すためなら、国民全員が兵となって戦える」国をめざすことが、日本の近代化への道となった。
 他の選択肢はなかったのだろうか? これを考えるには、他国との比較と、日本のその後たどった運命を見る必要があるだろう。

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