由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

移民の思想問題

2019年03月31日 | 倫理


メインテキスト:ダグラス・マレー、町田敦夫訳『西洋の自死 移民・アイデンティティー・イスラム』(原著2017、東洋経済新報社平成30年)
サブテキスト:ミシェル・ウエルベック、大塚桃訳『服従』(原著2015,河出文庫平成29)

 最近ではあまり聞かれなくなったようだが、しばらく前には「今後は異質なものとの共存が大事だ」なる言説がよくあった。「そうでなければ人類は生き延びていけない」とか、「多文化の混交は社会を活性化させる」とか。具体的にはどういうことになると言われたか、あまり覚えていない。つまりは言われなかったのだろう。我が貧弱な記憶力を棚に上げてそう断定するのは、けっこう反発心を抱いた覚えはあるからだ。単なるタテマエ、はまだしも、きれいごと、としか見えないものはともかく嫌い。この性向だけは60年近く、変わっていない。まあ、ずっと中二病なんです。
 そこで、イライラに押されて、次のような例を考え出した。
 イスラム教徒の青年とキリスト教の娘さんが恋に落ちて、結婚したとする。さて、よく知られているように、昔ながらの・原理的なイスラム教では、妻は同時に四人まで持てる。キリスト教は、一夫一婦制。これをどうするか。なるべくどちらの顔も立てましょうとか、痛み分け、なんていう日本式大人の知恵はこの場合役に立たない。「では間をとって、奥さんは二人まで、とすればどうですか」なんてのは。これについては多言を要さないですよね。そんなんでなんとかなるくらいなら、「異質なもの」ではないのだ。
 「キリスト教の男だって、いくらも浮気するだろうに」なんてのも、この場合関係ない。仏教国やキリスト教国では、浮気はこっそりやるものだ。つまり、悪いことだ。世間一般がそう思っている、というか、そう思っているだろうと一般に思われている。だから、浮気がバレた有名人はTVのワイドショーでたたかれたりする。それは大きなお世話だと思うが、奥さんは怒るし、その怒りは正当である、とされる。一方イスラム教国では、第一夫人が第二夫人以下に嫉妬心を抱き、それを露わにしたら、そっちが不当だということになるのだろう。
 ことはモラルの根幹に関わっている。道徳心の衰えを嘆く人は古今東西にいるが、社会である以上、一定のモラルは必ずある。しかし、その中身は時により場所によって変わる。それもいい。「ガリバー旅行記」みたいな、別世界の話なら。全く違うモラリティ(道徳観)の持ち主が隣に越してきたら、どうだろう。
 結婚するとしたら、どちらかがどちらかの結婚に関するモラルを全面的に受け入れ、元のは捨てる、か、少なくとも捨てたことにするしかない。有名人の実例だと、デヴィ夫人は、元来れっきとした日本人だったが、インドネシア共和国初代大統領スカルノの第三夫人になった。それについて、つまり、自分の夫に過去ではなく同時期に他にも妻がいた事実に対して、彼女が不満を述べたことは、少なくとも公式にはないようだ。スカルノとの結婚を決めた時点で、一夫一婦制、を支えている/に支えられているモラルとは名実ともに縁を切ったのだろう。昭和30年代には、まだそれに文句を言う人も少しはいたように記憶するが、今では誰もいないし、私にしたって非難がましい感情があるわけではない。
 有名ではないが、そういう日本人、あるいは(元)キリスト教徒の女性は、それから男性も、何人かいるだろう。それもさしたることではない。あくまで「何人か」であって、しかもたいてい元の国にいないのであれば、やっぱり他所(よそ)ごと、で済む。
 そういう人が、近所に、大量に出現したらどうなるか。エンゲルスがまとめた弁証法の教説の一つに、量の変化はやがて質の変化をもたらす、というのがあったように、社会全体が変質する、とは見えないだろうか。それがモラルの根源、であるがゆえに普段はことさら意識されない「常識」まで揺るがすとなったら、もう決して平気ではいられないだろう。これがつまり、「異質なものとの共存」問題なのである。

 『西洋の自死』には、上のような問題がヨーロッパで広範囲に起きていることが報告されている。
 西ヨーロッパは昔から移民が多い。何しろ地続きで他国があるし、日本海よりずっと狭い地中海の向こうにはアフリカがあるし。【もっとも、元をただせば西欧各国の白人種も、古代末から中世初頭の民族大移動期に他所から入ってきた「移民」の子孫が大多数であろう。アメリカもオーストラリアも、現地人を駆逐したアングロサクソン民族が「国家」にしたものだし。てなことを言い出すと全然別の話になるので、やめましょう。】
 殊に19世紀後半以降、先進工業国となった英独仏は、労働力の需要があったので、大量に受け入れた。来る側は、自国が貧しいので、生活のための金を稼ぎにやってくる。移民問題の根本的な解決とは、この状態の改善以外にはない。自分の国で充分余裕のある生活ができるものなら、わざわざ他国へ稼ぎに行こう、なんて人がそんなにいるわけはない。しかし、これが難しい。20世紀初頭まで貧しかった国は、たいてい、今でも貧しい。
 日本でも少し前までは東北から冬の間出稼ぎに来る人はたくさんいた。今も少しはいる。いわゆる季節労働者で、時期が来たら元にもどる。それなら、受け入れる側からしたら、たいした問題ではない。しかし中近東やアフリカの貧困はそれよりずっと厳しく、さらに政情不安による危険もある。出稼ぎ先の先進国では、差別される下層民扱いだが、とりあえずより安全ではある。
 また、仕事はたいてい単純労働だとしても、それなりの技術は要するのだから、熟練工になった移民は、時期によっていたりいなかったりでは使う側も困る。ずっといてもらいたいならば会社で、ひいては社会で、それなりに安定した生活が保障されなければならない。やがては、家族を呼び寄せることも許されるようになる。そういう人が増えれば、同国・同一民族からなるコミュニティがほぼ自然に形成される。一国の中に別の小国ができたようなものであり、彼らは差別に抗議し、その国の国民なら当然の権利とされていることは自分たちにも認めろ、と要求するようになる。
 これまた自然なことであろう。しかしそれなら、当然の義務もまた負うべきであろう。これを納得させることが、必ずしも容易ではない。このような社会の約束ごとは、小さい頃から身につけるのでなければ、改めて言語化され、言葉で伝えられるしかないが、その言葉が通じない場合もある。教育を受ける権利は保障されるべきだとしても、移民の家庭で生まれ、移民のコミュニティーで育った子供は、学校へ行っても、そこで使われている言葉が理解できない。どうしたらいいのか。
 1970年代から、そういうことがヨーロッパで、それからアメリカでも、目立ってきた。生徒の半分以上が主にメキシコからの移民の子で占められ、スペイン語しか話せないので、本当に困っている、と、カリフォルニア州の小学校教師が言うのを直接聞いたのは、80年代のことだった。
 すべてをひっくるめて、社会の安定を脅かす要因となる。日本では西尾幹二が、欧米の情勢に鑑みて、移民の野放図な受け入れは危険だ、と警鐘を鳴らし、昭和63年、即ち1988年に関連する評論をまとめて『戦略的「鎖国」論』(講談社)を上梓した。当時彼は文字通り孤軍奮闘していた。他は誰も、この問題を真剣に、具体的に考えようとはしていなかったのだ。日本人とは、まことに呑気で、幸福な民なのだな、と、その呑気な民の一人であった者として、今、痛烈に感じられる。

 ヨーロッパに戻ると、EUの本格的な活動【とはいつからか、さまざまな関連条約が錯綜していて難しいのだが、大雑把に20世紀末、でよいだろう。】は、移民の流入に拍車をかけた。有名なシェンゲン協定(1985年制定)は、締結国間の国境管理を撤廃し、人・物・カネの移動を自由にしたものだ。このように、国境の壁を低くすることがEUの基本理念のひとつであったのだから、外部からの流入は厳しく制限するというわけにはいかないような感じ、には一応なる。
 しかしそれでも、「EUの女帝」とも称されるアンゲラ・メルケル独首相など、最初は移民受け入れには消極的な姿勢を示していた者が、積極派に転じた、のはまだしも、強引なまでに推し進めた理由は何か、いまひとつ不可解だ。
 『西洋の自死』によると、EU各地で移民が起こした不祥事・犯罪は、警察やマスコミによって隠蔽されがちだし、移民受け入れに反対する者はレイシスト(民族差別主義者)とのレッテルが張られ、政治家や言論人としてのキャリアが閉ざされることさえよくあるのだという。どうしてそこまで?
 上に抗議するため、だろう、ダグラス・マレーは、移民たちの置かれた厳しい境遇に目配りしつつも、彼らの蛮行を暴いている。意義深い仕事ではあるが、少し気になるのは、同時期に起きた反移民派の、キリスト教原理主義者・白人至上主義者・ネオナチなどの犯行にはほとんど触れていないことだ。
 例えば2011年、どぎつい風刺漫画でイスラム原理主義を批判していたパリの週刊新聞シャルリー・エブド社に火炎瓶が投げ込まれた事件は記されている。4年後の大規模な襲撃事件(二人のイスラム過激派によって同紙編集関係者や警官十二人が射殺された。その後犯人はユダヤ系食料品店に店員や客を人質にして立て籠もったが、夕刻の礼拝の最中に突入してきた警官隊に射殺された。それ以前に、人質四人の命も奪われていた)のいわば前哨なので、日本でもよく知られている。しかし、同年7月22日、ノルウェーの首都オスロで起きたキリスト教原理主義者による大量殺人については何も書かれていない。
 この事件は移民受け入れに積極的な労働党を狙ったもので、まず政府庁舎を爆破、このとき八人が死亡し、その後犯人は労働党青年部が合宿をしていたオスロ近郊のウトヤ島へ警官の扮装で乗り込み、六十九人を射殺した。平時で、一日のうちに、一人の犯人による七十七人の殺害は、おそらく過去最悪であろう。本年三月の、ニュージーランドの首都クライストチャーチでの白人至上主義者による大量殺人事件にも、その影が感じられる。
 いやむしろ、この最後の事件については、『西洋の自死』の影響もあるのではないか、との指摘まである。この問題について深掘りする意欲も能力も今の私にはない。ただ、人種差別は、日本などで考えられているほど簡単な、単なる説教だけで変えられるようなものでなく、白人種にはけっこう深く浸透している観念なのだと知る必要はあるだろう。
【因みに、オスロの事件の犯人は、ノルウェーでは死刑も終身刑も廃止されているため、早ければ二十一年で釈放される可能性もあるのだという。「憎しみは憎しみしか生まない」とはよく聞くが、移民に対する寛容は認めないことを大量殺人という形で表現した非寛容に対する寛容は、いったい何を生み出すのか。その実例の一つを、我々はやがて目にすることになりうそうだ。】
 これらを含めて、移民問題とは、他国人に仕事を奪われるなどの経済面の他に、宗教と、それが支える/それによって支えられるモラリティに直接関連する。それを省察するのが今回の記事の目的である。

 移民受け入れに反対しづらくなるヨーロッパの思想的要因については、『西洋の自死』は大別すると次の二つを挙げている。
(1)ヨーロッパは長年に渡ってアジア・アフリカ諸国を支配し、収奪を繰り返してきた。それに対する負い目(こういうことをしたのは何もヨーロッパの白人種だけではないのに、と著者は繰り返し述べている)。
(2)西洋の自信喪失。まずキリスト教信仰が薄れ、次に特に20世紀前半に多くの知識人が「真理」として信奉した社会主義・共産主義が凋落すると、もはや本当に信じるに足るもの、犠牲を払ってまで守るべきもの、は何もないように感じられた。それによって、別の風俗、文化、宗教の流入に対する精神的な抵抗は弱まっていた。
 このうち特に問題になるのは(2)であろう。我々非西洋人にとって、近代化するとは即ち西洋化することであって、政治経済制度の大本から、建築・食事・服装・交通手段などなど、いたるところで西洋由来のものに取り巻かれている。その大本が揺れ動く、となると、無関心ではいられないはずだ。
 とは言え、例えば個人主義は、民主主義は、資本主義は、本当によいものか、人間を本当に幸せにするか、と疑うのは、何人であっても、よいことだと私は思う。人間は完全でない以上、その人間が発明した地上のすべてのものは、宗教まで含めて、所詮相対的な価値しかない、というのは、虚無主義(ニヒリズム)なんぞという主義(イズム)の問題ではなく、事実認識の次元の話なのだ。人間とは、例えば寿命のような制約は必ずあって、その中で相対的であってもよいもの、つまりAはBに比べればまだマシだ、というようなものを見つけて実現していくように努めるべき者ではないだろうか。
 とは言え、ともう一度反転する、そんな抽象的な話ではなく、具体的な生活の中でずっと以前から馴染んできて、全く当たり前だと思っていたものが揺さぶれるのは、大問題としか言えない。
 具体例としては、結婚制度の話を最初にしたのだが、それ以前に、いやでも目につくのが性的な風俗、というのかな、女性の服装に関する習俗の違いであろう。イスラム教国から来た多くの人にとって、ミニスカートに代表される肌の露出や、体の線をくっきり出して強調するファッションは、初めて目にするもので、激しいショックを受ける。移民の大部分は青年男子であることもあって、性犯罪の大きな誘因になるのだ。
 性犯罪というのも、レイプなど、こちらでもお馴染みのものだけではなく、女性器を切り取るというような、「そんなことができるの?」というようなものまである。イスラム原理主義の国では、わりあいと普通に行われているのだそうだ。もちろん性的に「ふしだら」とみなされた女性への報復及び懲罰措置として。
 そう言えば、「ふしだら」なことをした女性を家族が殺してしまうのは、「名誉殺人」と呼ばれ、イスラム教国で、どれくらいの範囲と頻度で行われているかはわからないが、まだあることはある。そんな家族が西欧諸国にいて、実際にやった場合でも、理解が示されるべきだ、と言う人さえいるらしい。周知のように、ヨーロッパ起源の近代法では、どのような理由があろうとも(正当防衛と緊急避難は除く)、私人が人を殺せば殺人罪になる。イスラム教は違うのかも知れないけれど、そこに「理解を示す」なんてことになったら、我々の社会はどうなっていくのか?

 以上は男女同権の理念にも直接関わっていることはすぐにわかるだろう。西洋及び西洋化された社会では、これは全く当り前であって、少なくとも公に異を唱える人はいないだろう。一方、いや、そんなのは全然当り前ではない、むしろ悪だ、とされる社会が地球上には存在する。そこからたくさんの人が流入してきて、自分たちの「正しさ」に固執して主張するようになるとどうなるか。これが現在広範囲に起こってきた状況なのだ。
 それによってまた、男女同権・平等のような社会制度・モラリティには、我々の社会でどれほどの根拠があるものなのか、改めて問われることになる。
 「服従」の主人公フランソワはユイスマンスの研究者で、ソルボンヌ大学で19世紀文学を講じる教授である。教え子であるユダヤ人のミリアムと恋仲になり、「あなたはマッチョだ、って言ってもいいかしら」と問われて、「ぼくは多分いいかげんなマッチョなんだ」と答える。「実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない」と。
 何国人であっても、こんなふうに考えている男は今でも多いし、それは男性より女性のほうが敏感に感じ取っていることであろう。レイシズムと同じくセクシズム(性差別主義)も、根の深い現実的な問題なのだ。
 しかしある意味それよりもっと問題なのは、かなり知的な男でも、こういう事柄についてあまり真剣には考えていないところだろう。

(前略)ぼくは、彼女がこのことを真剣に捉えたのに気づいて、自分でも少し考えてみたが、それに対する答えを自分は持っていないことに気が付いた。どちらにしても、どんな問いに対してだって自分は答えなど持っていないのだ。
 
 しかし、家父長制には存在意義があるのではないか、と言う。「つまり社会の仕組みとしては、家族がいて子どもがいて、皆がほぼ同じ図式を反復し、そうやって慣性の法則で回って来たんじゃないか」。原文は見ていないが、これは、日本の戦前にあった「家父長制」ではなく、単なる家族制度ではないかと思う。【ついでに、「慣性の法則」もおかしい。この言葉は自然界についても、「反復」を示すものではないから、比喩として不適当だ。フランソワは文学の知識は豊富だが、科学はあんまり詳しくないんだな、と思ってしまう。】言いたいことは、男と女が共同して家庭を作って子どもを産み、父母となって子どもを育てる、そこで子育ては一般に、母親の、つまり女性の責務と考えられる。この基本形は変えようがないのではないか、ということ。ただしフランソワ自身は、ミリアムに(性的に)強く惹かれてはいても、当分結婚するつもりはなさそうなのだが。
 これに対してミリアムは言う。「でも、わたしは高等教育も受けて、自分を独立した一個人と考えるのに慣れているし、男性同様考えたり決定したりする能力があると思ってる」。だから、子どもを産み育てることが自分の最終的な存在意義だとは思えない、ということ。このような考えが広まったことが、フランスでも、日本を含めた他の先進国でも、少子化を招いた理由の一つであろう。その結果、労働力不足を解消するための、移民の需要が生じたのだ。
 しかしヨーロッパにおいて移民のかなりの部分を占めるイスラム教徒は、そもそも、男も女も同じ一個人、なる考え方を認めない。
 「服従」にはフランスの近未来が描かれている。そこでは次第にイスラム教の勢力が強くなり、危険を感じたミリアムは家族と一緒にイスラエルに移住する。ユダヤ教は、キリスト教よりずっと、イスラム教から敵視されているから。残されたフランソワは、胸の空虚感がますます強まり、ユイスマンスが回心を遂げた修道院を訪れるが、ユイスマンスと同じなのは僧房では禁煙なのが苦痛、といったようなことだけで、心の救いは得られない(このへん、漱石の「門」を思わせる)。
 パリに戻ると、イスラム穏健派の「イスラム同胞党」(架空の政党)が政権の座についている。マリーヌ・ル・ペンの国民戦線が票を伸ばした(これは最近の、歴史的な事実)ので、右翼よりはまだましだと考えた左翼政党が協力したからである。春なのに、街を彩る若い女性たちの服装が、ミニスカートからパンタロンに一変したことがまず目につく(政権が変わったら、すぐにそうなるものかなあ?)。ソルボンヌは、サウジアラビアからのオイルマネーに依存するようになり、フランソワは職を失う。大した問題ではない。十分すぎるぐらいの年金をもらえるのだし、学術面ではユイスマンスのプレイアッド版を編集校訂するという栄誉が与えられたのだから(ユイスマンスがプレイアッド叢書に入っていないことも今回初めて知った)。
 しかしフランソワはイスラム教に改宗して、大学に復帰することを選ぶ。そうしたって、何も不都合はないからだ。一日に五回のサラート(礼拝)とかラマダン(年に一月の断食行)のようなやっかいな義務はどうやら免除されるらしい。女性たちは、普段から男の欲望をかきたてるような格好はしないが、従順が美徳とされるので、これまで以上によりどりみどり、女子学生のうちから好きなタイプを選んで楽しむことができる……え? 「名誉殺人」に象徴される強烈な貞操観念はどうなるの? そもそも、イスラム教は女性が高等教育を受けることを喜ばないんじゃないの? などなど疑念は湧くけれど、そのへんも融通を利かせるようだ。これでは宗教のいいとこどりだ。西洋が変質する前に、より多く、イスラム教のほうが変わってしまうんじゃないか。
 ウェルベックの予想を続けると、妻は四人持てる、は男にとって都合がいいので、維持される(正式に、となると民法を変える必要があるが、いわゆる内縁関係を半公式にすればすむのだろう)。すると、先に述べたような、少子化につながる問題も解消されそうだ。子どもを作る・料理がうまい・性的な魅力に富む・(お好みであれば)知的な会話ができる、などなど、一人の女にすべて望むのは難しくても、複数の妻たちに役割分担をさせればいい。フランソワのかつての同僚で、早くにイスラム教徒となり、おかげでソルボンヌの学長に就任した男は、とっくにそうしている。
 この男は、「しかしそうすると、結婚できない男が多数出てくる」という当然の疑問も一笑に付する。「むしろいいことではないか。社会的弱者の血統は絶たれ、強者の遺伝子だけが残ることになるのだから」。現在の西欧や日本では、ひどく身勝手で偏った、「狂っている」とも評されかねない考えだが、マッド・サイエンティストではなく、社会の上層部から出てきたとなると、そう簡単に否定できるものかどうか。
 そういうわけで、フランソワはキリスト教を捨てて第二の人生に歩み出しても「何も後悔しないだろう」と言うのが、この小説の結びである。本当にそうなるかどうか、まだまだ大きな問題が残っていると思うのだが、可能性は否定できない。マレーは、このような可能性(もちろん、他にもある)が実現したら、西洋は死ぬか、少なくとも大きな変容を被らざるを得ない、と言っている。本当にそうかどうか、そうだとして、それは具体的にはどんなものになるのか、はっきりするのはまだ先の話である。

 最後に日本はどうか、愚考を述べます。労働力不足という実際的な問題もそうだが、先に二つに分けて書いた精神的な問題でも、我々はヨーロッパと似たところがある。大東亜戦争中の侵略的行為について、アジア、特に朝鮮半島や支那大陸の人々に対する罪責感は内外からしょっちゅう言い立てられるし、ヨーロッパ人士にとっての「ヨーロッパ的なるもの」よりもっと、我々の「日本的なるもの」へのこだわりは弱い。
 にもかかわらず、現在我が国は世界第四位の実質的移民受け入れ国になっている、という事実を聞くと、多くの日本人が意外そうな顔をするくらい、この問題への危機意識は一般に薄い。前にも書いたが、我々にとって、根本的に他なるものは、意識的に差別し排除する以前に、そもそも目に映じないのである。それは一面、最もタチのい悪い差別であり排除だと呼ばれ得るかも知れない。
 今後はどうか。外国人による犯罪は、近年でもさほど増えていない。ヨーロッパのように、それが起こっていても政府もマスコミも隠蔽しているのだ、という可能性は、なくはないが、普通に考えてそれほど高くはない。全体として日本は、まだ平和で平穏なほうであろう。ただしもちろん、少し先のことは全くわからない。もしヨーロッパのような危機的な状況に直面したら、私たちの社会はどうなるのか、やや不謹慎だが、楽しみでないこともない。
コメント (2)
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