由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

半世紀前、大学で

2024年05月27日 | 近現代史


メインワークス:樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社令和3年、文春文庫令和6年)
代島治彦監督「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」(令和6年)

 ポット出版社長沢辺均氏が標記の映画をプロデュースなさり、ご案内をいただいたので、まず基になった樋田氏の本を読んだ。
 これは昭和47(1972)年11月9日、早大文学部で起きた革マル派(正式名称は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」)という新左翼のセクト(党派)による川口大三郎君リンチ殺人事件について書かれたものだ。私はその後にこの大学に入ったが、直接には何も知らない。「へえ、そんなことがあったんだ」と思うばかりで。
 だから、何があってその結果どうなったかについては、本書に直接あたってもらうに如くはない。私は思想の部分に最も興味を惹かれたので、それについて書き付けておく。
 樋田氏が依拠したのは、渡邊一夫「寛容は自らを守るために不寛容になるべきか」(現在岩波文庫『狂気について』平成5年に収録)に基づく非暴力主義というべきものだ。私も若い時分にこのエッセイを一読し、少しだけイラッとした覚えがある。
 革マル派に対抗するのに「寛容」の精神で、具体的には非暴力でやる。これはたいへん理にかなってはいる。当時の革マル派は、自分たちに反対の立場の者たちには容赦なく暴力を揮う、非寛容の固まりのようだったから。
 しかしこの理念を実行に移すとなると、渡邊の文章では触れていない困難に直面することになる。
 当時の早大のほとんどの学部には、学生自治会というものは、形式上あったが、革マル派によって占められていた。そして革マル派にとっては、学生の自治なんてものより、自分たちが進めている革命運動のほうが大事だった。
 一番のうまみは、大学当局が徴収して渡してくれる自治会費やら、早稲田祭時のテラ銭(大学からの援助に、入場券代わりにパンフレットを売っていて、それがなければ学生でさえ、構内に入ることはできなかった。おかげで私は、八年ほどここに籍があったのに、一度もこの学園祭を見たことはない)などの、要するに金だったろう。
 それでも、私腹を肥やすのではなく、革命運動の資金に使うのだから、彼らの正義感が傷つくこともなく、この支配に抵抗する者への暴力が控えられることもなかった。

 川口君は、新左翼のいわゆる革命運動については、数回集会に参加して、幻滅を感じただけの、その頃珍しくなかった一般学生だった。それが、革マル派との流血の闘争関係に入っていた中核派(元々は革マル派と同じ日本革命的共産主義者同盟に属していた)のスパイの嫌疑をかけられて、大学構内の自治会室で、八時間に及ぶリンチの末に、死んだのだ。これは要するに、セクトが一般学生に明白に牙を剥いた事象だと捉えられた。
 反革マルの動きは、学生自治会を正常化すること、つまり、普通の選挙で、学生によって、学生の代表として選ばれた者たちによる組織にする方向で目指された。革マル派はこれに当然、暴力で対抗した。自治会正常化運動の中心にいた樋田氏も襲われて、大人数に鉄パイプで殴られ、一ヶ月の入院を経験している。
 たぶんそれより精神的にきつかったろうと思えるのは、先述した「寛容」の信念に直接由来する。革マルの暴力に対して非暴力で戦うという。ために樋田氏は、同じ運動内でも、革マルから身を守るために、ヘルメットと角材で最低限の武装はすべきだ、とするメンバーから批判され、孤立感を味わうようになった。
 この問題は、日本の専守防衛、平和主義を考える場合の補助にもなるだろう。

 人間には、すべてに寛容になる、つまり寛い心ですべて容認する、なんてことは、すべてを否認するのと同様、できるものではない。だいたい、「すべて」なら、暴力も容認するのか、ということになって、文字通り話にならなくなってしまう。
 いわゆる、「罪を憎んで人を憎まず」、暴力そのものは容認しないが、それを揮う人間は、存在は否定しないでおこう、ということなら、原理的にはできないではない。その者が、全く反省せず、これからも暴力を揮うことはほぼ確実な場合でもか? と思うと、非常に難しいが、まあ理屈の上では。

 このときのことに話を戻すと、樋田氏は、次のような現実的な理由も言っている。多少の武器を持ったとしても、日頃から訓練を受けていて、戦闘に慣れている革マル派に勝てるものではない。大学当局や警察を含めた外部からは、革マルと同類だとみなされ、また、革マルのこちらへの暴力に、正当化の口実を与えてしまうばかりだろう。つまり、戦略的に全くメリットはないのだ。
 その通りだ。しかしそれなら、「向こうにただ殴られるだけで黙っていろということか」という反応はすぐに出てくる。また、闘いに勝つことも難しい。
 樋田氏たちは、一時は革マル派を圧倒することができた。身体的な打撃は加えなくても、多くの学生が憤激し、一致団結して立ち向かってこられたら、少数派にまわったほうは引くしかない。「数の暴力」という言葉がある。いや、そこまで厳密になったら、やはり話にならなくなるので、問わないとしても、数もまた、実際的な力になるのは明らかだ。
 ところが「寛容」だと、団結して行動しようがしまいが自由、ということになる。いつでもどこでも、若者は熱しやすくさめやすい。樋田氏たちの周りには次第に人が集まらなくなり、一年も経つ頃には、その活動は全く目立たなくなっていた。革マル派は相変わらず自治会を牛耳り、その正常化の試みは実を結ぶことはなかった。
 それでも、その後革マル派の校内での勢いは、次第に衰えていったことは私も肌で感じた。それは日本全体の、学生運動の退潮による。新左翼を含めた皆が、「革命ごっこ」に飽きてしまった、ということだ。
 では、あれは一過性のお祭り騒ぎだったということか? 現に、少なからぬ人間が命を落としたというのに?
 そうなのだ、としか言い様がない。それにしても?

 本書の最後に、大岩圭之助氏とのインタビュー記事が掲載されている。ここが内容的には本書中一番興味深い、と言える。
 大岩氏は、川口君の事件とは直接関係ないが、革マル派自治会の副委員長で、当時は委員長代行を名乗っていた。体格がよく、威圧的で、彼に殴られた学生も何人かいる。その後早大を退学して米国とカナダを放浪、やがて米国コーネル大学で文化人類学の博士号を取得、帰国後明治学院大学で教えるとともに、「スローライフ」を提唱する思想家・運動家として活動している。辻信一の筆名で、高橋源一郎との対談本もある。
 樋田氏は大岩氏から暴力を受けたことはないが、革マルによる管理支配体制打倒のビラを各クラスに配布しているときに出くわし、「そんな浅はかな理論が通用するか」と言われ、国家権力を含めた管理支配体制を打倒する闘いをしているのは革マル派だけだと、蕩々と説教された。
 しかしそれから約半世紀後に会ってみると、大岩氏はそんなことは覚えていない、と言うのだった。彼は理論的な本はほとんど読まず、マルクス主義がどういうものかもわかっていなかった。ただ、時代状況に乗って高校時代からけっこう学校批判の活動で知られており、ためにオルグされた格好で革マル派に入った。
 その行動原理は、人間関係のある側にどこまでも味方するという、任侠映画のものだった、と自ら言っている。自分たちがまちがっているとみなす人々はたくさんいるのは当然知っており、また自分自身の確信も揺らぐことへの恐怖もあって、暴力に走ったのだ、とも。
 当時、革マル派をはじめとする新左翼の活動家がみんなこうだったとは思わない。中には、黒田寛一(革マル派の理論的指導者)らの理論に心から心酔し、その路線での革命運動に邁進した人だっていたに違いない。
 そういう人もまた、自分や自分たちの組織を何が何でも守りたいという動機から無縁だったはずはなく、それが過激な行動に走るバイアスの一つにはなったろう。人間の弱さの一部であり、そのことを認めるのは、寛容の現われと言えるだろう。

 しかし、大岩氏はここからさらに、当時の責任なんて感じられない、と言う。ある危機的な状況の中で無我夢中で動いていたものを、後で理屈をつけて説明しようとしても、それは必ず嘘になるから、と。彼は、暴力を揮った人たちには「申し訳ない」と言うものの、これでは何に対して謝っているのかもわからない。
 その大岩氏が最後の頃には「でも、僕に責任がないということにはならない。まず、なかったことにはしない。そして、何らかの形で応答していくことを諦めてはいけないと思います」などと言う。「人間が生きていくというのはそういうことだと思っています」と。
 これでは支離滅裂だと感じたが、きっと大岩氏は言葉以外のやり方で責任をとっていこうとしているのだろう。実際、この頃のことを含めて、公にはずっと沈黙を貫いた元活動家も多く、樋田氏はそのうちの一人(革マル派自治会委員長田中敏夫、故人)を紹介するところから本書を始めている。
 それで責任を取ったことになるのかどうか、疑問ではあるけれど、そういう見方もあることはわかる。ただし、言論人でもある大岩氏の場合はどういうことになるのか、私には見当もつかない。

 人間は完全ではない、ということを大岩氏はカナダの大学で鶴見俊輔から学んだと言う。そのことは、自己についても他者についても、認めざるを得ない。
 そのうえで、言葉を諦めてはならないと思う。全部嘘だ、というのは厳密には正しいが、そんなに厳格にはならないところにこそ、寛容さは発揮されるべきだと思う。
 すべては嘘、別言すればフィクションでも、そこに筋を通そうとする努力ならできる。それこそがつまり、人間が生きていくということなのではないだろうか。

 次に映画に関連して。
 5月5日に早稲田奉仕園の、先行上映会+シンポジウムに出席した。
 シンポジウムは代島監督・原作者の樋田毅氏・映画中劇パートの演出を担当した鴻上尚史氏、の三人の話、それから会場にいた関係者四、五人からの発言があった後、インタビュー(因みに前述の大岩氏にもインタビューを依頼したが、「自分の証言は自由に使ってもらってかまわないが、映画に顔出しするのは勘弁してくれ」と断られたそうだ)+映画中劇+当時の資料紹介、で構成された映画が始まった。
 すべてを通して、昭和47(1972)年11月8日、どうして早大文学部構内で川口大三郎君が殺されたのか、いくつかの背景はわかったような気がしたので、それを書き付けておく。

(1)劇パートから
 無理矢理連れ去られた川口君の友人三人が心配して自治会室前へ行った。ドアの前には見張りの、革マル派の男二人。「友だちが連れ込まれたという話があるんだけど、出してくれないかな」と頼んでも「ダメだ」と言われる。「お前ら、関係ないから帰れ」とも。「関係ないわけないじゃん。だって川口は友だちなんだ」。
 押し問答をしている最中に、他の学生からの通報を受けた教員が二人やってきたが、ドア前の革マル派学生とちょっと言葉を交わしただけで、帰ってしまった。
 次に女性活動家が部屋から出てきて、血走った目で「私たちは革命をやってるんだ。お前たちは、その邪魔をするのか」とこちらを詰り始めた。「そんな話じゃないだろ。友だちの川口を返してほしいと言っているだけなんだから」と言い返すと、「私たちはこれから革命をやる。お前らはそれに刃向かうのか」と一方的にまくしたてて、部屋へ戻ってしまった。
 以上の科白は樋田毅氏の原作本から引用していて、映画では少し違っていたような気がするが、それは大きな問題ではないだろう。ここで注目すべきなのは、川口君の友人たちと、革マル派学生たちのチグハグさだ。
 このときの革マル派の論理とはこうだ。自分たちは革命運動に従事している。これは何よりも最優先されるべきものである。友情がどうたらは、それに比べたらものの数ではない。そんなものをあくまで押し立てて、自分たちの崇高な運動を邪魔するなら、粉砕してもかまわない、否むしろそうすべきだ……、とまでは言っていないし、思ってもいなかったかも知れないが、彼らの論理を押し詰めればそうなる。現に、そういうことをやっていたし、この時もそういう結果になった。
 ここで、第一、カクメイなんてものになんでそんな価値があるんだ、自分たちが入れあげるのは勝手だが、「そんなの知らねえ」と言っている者にまで押しつけてもいいと、どうして思えるんだ、と、不思議に感じる人も、今の若者の中にはいるかも知れない。
 これにちゃんと答えるのは難しいので、他日を期すことにして、ここでは関連したことに以下で軽く触れるだけにする。

(2)シンポジウム最後の、川口君の同級性の発言から
 この人はシンポジウムの出席者まですべて含めたこの日の発言者全員の中で、一番通る声で口跡もよく、二階席にいた我々にも最初から最後まで聞き取れた。
川口は早稲田で死んだんじゃない、早稲田に殺されたんだ」と言うと、「そうだ!」という合いの手と拍手が起こり、かつての学生の集会みたいな雰囲気だ、と感じた。
 なんで「殺された」のかと言うと、そもそも、学内の革マル派支配に対して何もしなかった大学当局の責任があるではないか、ということ。
 この両者は裏取引をしていた、少なくとも紳士協定は結んでいて、学生に対する革マル派の専横はほぼ見過ごされていた。彼らが仕切っている限り、他の新左翼の、もっと剣呑かもしれないセクトは入って来れないから。
 しかし、事件の大前提であるこのような状況についても、事件そのものについても、土台となる当時の「常識」があった。
 前述のように、教職員が二人来ているが、「なんでもありません」と言われたら大人しく引き上げている。
 さらにキャンパスは夜中の9時にはロックアウトされるので、彼らは8時ぐらいと9時ぐらいに見回りに来て、見張りの革マル派学生に下校するように促している。
 この頃川口君は死線を彷徨っていたろうが、「僕らもすぐに帰りますから」と言われ、またしても、部屋の中をあらためることなく、去ってしまった。
 後の糾弾集会で、このうちの一人の、学生担当副主任(そういう役職があることを、今回初めて知った)が吊し上げられる記録映像が本映画中に採用されている。
 彼は学生たちの非難に対して、「様子を見に行って特に何もなかったら帰るしかないじゃないか」と言った。「機動隊の導入には教授会の承認が必要なんだよ」とも。
 単なる言い逃れだと断ずることはできない。革マル派学生十数人、それも鉄パイプや角材や金属バットを持っている中へ、二入で乗り込んでいったとしても、被害者が増えただけの話ではないだろうか。
 先生だろうが教授だろうが、革命運動に携わっていない者は軽侮の対象、邪魔をするなら嫌悪の、そして「粉砕」の対象になるしかない。
 じゃあせめて、警察を呼べば?
 件の川口君の元同級生氏は、その点非常に率直に、「川口のために警察を呼ぶことは、その当時の常識に囚われてできなかったんです」と認めた。
 川口君の場合のように死亡にまで至れば、さすがに犯人は指名手配され、何人かは逮捕もされたが、その後反革マル運動をして学内で革マル派に襲われ、殺されるまではいかなくても半殺しの目に合った人たちは、樋田氏を初めとして、誰も被害届を出していない。
 なんの常識か? 革マル派の推進している革命運動は疑わしいとしても、革命そのものは正しい。革命とまではいかなくても、若者(本当は、大学生)なら「反権力」「反体制」が当り前なのだ。
 デモなどで機動隊とぶつかった経験のあるセクト内の者はもちろん、ノンポリ(ノンポリティカル。政治には無関心な、意識が低い者、というニュアンスの軽蔑語)で、「革命(運動)には関係ない」学生にしても、学校へ警察がずかずか入ってくるのは好ましくない。それでは、「学の独立」が失われる、少なくとも汚されるから。
 このような考え、否むしろ気分は、今でもすっかり消えたわけではないだろう。
 川口君は連行される時、「助けてくれ」と、また「警察に連絡してくれ」とも叫んだ、と『毎日新聞』には書かれていたそうだ(樋田氏の本による)。
 この段階で、教師でなくても学生が、警察に通報しようとすればできた。暴行罪や監禁罪にはなりそうだから。でも、しなかった。そういうことは頭に浮かびもしなかったろう(もっとも、通報しても、大学内での学生同士の殴り合いなら珍しくなかったこの時代、警察がまともに取り合わなかった可能性はあるが、それはまた別の話)。
 これが即ち、当時の「常識」であった。
 加害者である革マルの学生たちも当然、この「常識」の上で行動していた。「お前はブクロ(中核派)のスパイだろう」「他のスパイの名を言え」と、散々殴っておいてから、拘束を解いて、「川口、もう帰っていいぞ」と軽く声をかけている。川口君が床に倒れてからは、人工呼吸までしている。
 彼が生きて帰っても、警察にタレこんだりはしないと確信していたからだ。
 そうなると学校とは、警察力など社会の権力関係がストレートに及ばない子どもの世界、ネバーランドみたいなものだし、そこで、大人になれない、いや、大人になることを拒絶したい者たちが活動していた、ということになりそうだ(私も、左翼ではないが、この気分には浸っていたから、決して馬鹿にしているわけではない)。
 悪い点ばかりではないけれど、そこに、本来あり得べからざるはずの暴力が出てくると、とめどがなくなってしまう場合があることは、昨今のいじめ事件を見るにつけても、心得ておいたほうがよい。

(3)インタビューパートから。
  あくまで非暴力で革マル派に対抗した樋田氏たちと違い、強硬手段で革マル追い出しを目指した人々もいる。そちらのリーダーだった人の言葉(記憶で引用)。
「女子学生の中には、鉄パイプを振れないのを泣いて悔しがる人もいました(ちょっと註記、いや、別に、振れるだろと思う人もいるだろうが、当時は女性はそんなことをするべき存在じゃない、というこれまた「常識」があった、ということだろう)。彼女らは、自分の排泄物をスロープの上から革マルに投げつけて戦いました。私も(武器を?)提供したことがあります」
 楠正成の故事に倣った、わけはない、ベトコンの戦い方を参考にしたかな。
 いや別に、スカトロの話をしたいわけではなく、こういうことを言うときの、70歳を過ぎているであろう人の、なんとも生き生きした表情が印象的だった。
 政治的にどうたら以前に、人間は暴力が好きなのだ。もちろん、自分が犠牲にならない暴力は、だが。それだけに、樋田氏たちの考えは貴重だと言えるが、このことは、今後とも社会運動を展開しようとしたら常に問題になるだろう。これも覚えておくべきだ

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