由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

お前がセカイとつながるのなら

2014年03月26日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワークス:ムラーリ・K・タリル監督「明日、君がいない」(2006年)
        吉田大八監督「桐島、部活やめるってよ」(平成24年)

 この両作がガス・ヴァン・サント監督「エレファント」(2003年)にインスパイアされていることはよく知られている。一見して、手法が似ている。似過ぎているほどだ。いずれも高等学校のごく短い期間を描き、登場するのはほとんど高校生。特定の主人公がいない群像劇。移動カメラの長回しでドキュメンタリー的雰囲気を出す一方で、同じシーンが視点を変えて複数回繰り返される。クラシック音楽が、BGMではなく、登場人物のたちの演奏で、ドラマ中のアクションの一部として使われているところまで共通する。
 特に、いやでも目につく、最後から二番目の手法はなんのためか?
 まわり道をして考える。「エレファント」という題名の映画には、象は、たぶん登場人物が描いた絵で壁に留められているのが、小さく、一瞬だけ映される以外には、話にも出てこない。こじつけめいているとは思いつつも、何かのゾウチョウ、もとい、象徴であるところから、私はどうしても別役実の戯曲「象」と、これについて作者が語っている言葉を思い出してしまい、ここで紹介したくてしかたないのだからしかたない。紹介する。
 おおもとにあるのは、日本では「群盲象を撫でる」あるいは「群盲象を評する」という成句になった古代インドのエピソードである。欧米でも話は知られているので、サント監督がこれを意識していたことはまちがいない。別役はこれを「盲が象を見る」という言いまわしにして、語っている。

 しかし、どんな「目明き」が、象を「太い柱である」とか、「大きなうちわ」であるとか、「厚い壁」であるとか断言できるだろうか……? また「太い柱」である、と断言することによって、それにつながって広がる量と、それに対する不安を、誰が、それ以上に感じ取れるであろうか……?
 ある漠然とした空間がある。その空間については、盲が象を見るようにしてしか、見ることが出来ないという奇妙なメカニズムが存在する。陰湿なマイナスの世界である。
(中略)
 盲は何故象に手を触れたか? 漠然とした巨大なものに対して、一つの関係を築きたかったからである。目明きが笑うか笑わないかは、盲の知るところではないし、象が果たして、柱であるかないかも問題ではない。盲は、むしろ、象と自己との何かを探ったのである。盲にとってこそ象は理解されるべきだというのは、知るということがこういうことだと思うからである。(「盲が象を見る」『別役実評論集・言葉への戦術』烏書房昭和48年刊所収)


 この方法論によって別役が扱ったのは原子爆弾投下という、個人としての人間の身の丈から見たらあまりに巨大な事件であり、にもかかわらず個人の生身の肉体がある日突然それに出会ってしまったことの「意味」である。また、サントの映画も有名な歴史的事件がモデルになっている。1999年の、コロンバイン高校銃乱射事件だ。最後に自殺した犯人二人を含め十五人の死亡者を出したこの惨劇を、サントは学校のありふれた日常と地続きのものとして描いている。
 それでようやく元へもどる。「エレファント」における複数視点は、「事件を多方面から検討する」という意味合いで採られたのだろうか。明らかに、違う。むしろ、逆、に近い。何日か(二日以上)のできごとを混在させて、一見すると一日のできごとを描いているかのような、意図的に観客をミスリードする編集さえなされているのだから。
 おそらく、サントは、「目明きが象を理解する」というような、通常の意味の「理解」を拒絶したかったのではないかと思う。象で象徴されているものは、この場合は学校である。適度な距離から眺めた場合には、その姿は全く明らかであるように見える。今更「それは何か」などと訊く必要など思い浮かばないほどに。アメリカでもオーストラリアでも日本でも。それこそが難点だろう。この「理解」に閉じ込められて、「学校」の他の姿はいよいよますます見えづらくなるのだから。
 例えば、アメリカのとある高校で銃を乱射して何人かを殺した二人の男子高校生にとって、それはなんだったのか。彼らは音楽や美術を愛する、もの静かで目立たない若者で、スポーツが得意で学校で人気のある男子(アメリカではジョックjockと呼ばれる)及びその取り巻きグループから執拗にいじめられていたようだ。復讐のために銃を、ということなら、当然この連中だけを狙うべきだったろう。実際には生徒と教師を無差別に殺害した。そうすれば自分も死なねばならないことはわかっていた。彼らは命とひきかえに、「学校」を攻撃したのだ。
 もう一度問う。彼らの歪んだ自我に映じた「学校」とは何か。たぶん、彼らへのいじめを構造化し必然化する(ように見える)、呪わしい場所であったのだろう、とまでは想像がつく。それ以外には? そしてこの歪んだ学校はどのようにして外部の広大な世界とつながっているのだろう。たぶんそこには「知る」に値する何かがあるだろう。
 

 

「明日、君がいない」(原題は「2:37」。以下、これで表記する)の登場人物は、あまりにステレオタイプな高校生に見える。
 若葉の季節。ある日の午後2時37分、学校のトイレで誰かが自殺した。因みにこの映画ではトイレが最も重要な場所となるが、それはもちろん、学校の中で一番プライベートな、それでいて(同性ならば)不特定多数に共有される。特殊な空間だからだ。
 次に映画はその日の朝の、主要登場人物六人の様子を描く。朝起きてから登校まで。そこにモノクロで、彼らへのインタビューがはさまる。ようやくタイトル画面。バックは、冒頭に映された若葉。クローズ・アップで映されると、やや汚く見える。
 マーカス(フランク・スウィート)はガリ勉の秀才タイプ。将来は父と同じ敏腕弁護士を目指す。「他の連中は可哀想だ、五、六年たったら生活保護かマックのバイトぐらいしかやることがないだろ」などと言う。 
 ルーク(サム・ハリス)はハンサムなマッチョ。将来の夢はサッカーの、プレミアリーグの選手。この映画の舞台はオーストラリアだが、アメリカではまちがいなくジョックで、そういう自分に誇りを持ってもいる。「学校の勉強なんて意味ないね。弁護士になるようなやつは別だけど」と語る。「大昔に死んだ詩人とか数学や古代史が、俺に何の関係があるんだ」。
 サラ(マルニ・スパイレイン)はルークに夢中。「十七歳にして理想の男性にめぐりあったわ」。心配のタネは他の女子に彼を取られること。「みんな手段を選ばずに男を狙うビッチなのよ」。
 彼らがそれぞれ明確な目標を持ち、「前向き」に高校生活を送っている生徒たちだとすると、残りの三人は見るからに後ろ向きそうだ。そして、彼らとの関わりの中で、上記三人のうち男子二人の闇の部分が明かされる。
 マーカスの妹のメロディ(テリーサ・パーマー)は、美人なのに浮かぬ顔だ。朝、兄に呼ばれて服を着る時の彼女は泣いている。彼の車で、同じ学校に登校するのだが、何かに腹を立てているようで、マーカスと口をきこうとしない。彼女はもともと、両親(それぞれ仕事が忙しいのか、別に暮らしている)、特に父親が、兄に比べて自分をないがしろにしていると思っているのだが、そんなことより……。兄にレイプされ、妊娠してしまったのだ。
 トイレで妊娠検査薬を使い、陽性と出たのを、サラに察知される。彼女はメロディの相手はルークではないかと疑う。サラの友だちから事実を告げられたマーカスは、妹を詰る。「なんてこった。君って女は!」と。まさに救いようのない身勝手さだね。
 ショーン(ジョエル・マッケンジー)はゲイで、それをカミングアウトした。ために、特にルークを中心としたマッチョグループからはからかいの対象にされている。が、実は、ルークもゲイで、ショーンとは恋仲だった。
 スティーブン(チャールズ・ボイド)は生まれつき左右の足の長さが少し違い、また、尿道が二つあって、一つは普通なのだが、もうひとつからのは尿意を伴わず、コントロールできない。この日も教室で漏らしてしまって、追い出される。サラたち女子生徒は彼を不潔がって、忌み嫌っている。だけでなく、学校の誰ともほとんど交流がない。サッカーに興じているルークたちを見て、自分がスーパースターになる夢を描く。もちろん、妄想でしかないのだけれど。
 さて、ルークとショーンはトイレで出会い、接吻するが、すぐにルークはショーンを突き飛ばす。学校で秘密がバレたらおしまいだ、とルークは思っているから。ショーンはうちひしがれて、ルークを罵り、いつもこっそりマリファナを吸っている物置へ行って、のたうちまわって泣く。
 この時のトイレの個室にはもう一人、汚れたズボンの始末をしていたスティーブンがいた。ルークは彼を見つけると、殴って、「誰かに言ったら殺すからな!」と叫んで出て行く。外でサラに出会い、声をかけられるが、「なんでもないさ」とルークは学校の外へ。
 殴られて鼻血を出したスティーブンを、第七の人物、ケート(クレメンンティーヌ・ミラー)が見かけて、「どうしたの」と声をかける。彼女はマーカスに好意をもっているらしく、映画中二度話しかけているが、あまりまともに相手にされていない。スティーブンもまた、「大丈夫」とだけ言って離れていく。
 この後の場面は、ケートに即した視点で、件のトイレのある二階から階段を降り、彼女が外へ出るまでが描かれる。周囲にはそれまでに既に描かれていた場面が一瞬づつ浮かぶ。ショーンが泣いている物置の前を通り過ぎ、去って行くルークを窓から見送るサラを遠目に見て、一階ではメロディを詰るマーカスの声を聞き、戸外の空と、青葉を見上げる。
 すべては風景だ。皆が何かに悩み、苦しんでいるが、一歩引いて眺めればなんでもない。時が経てば、「青春の痛み」とやらになって、懐かしく思い出されるのかも。
 と、思えた瞬間、画面は一転して2時37分の、痛ましい自殺の場面になる。泣き叫ぶ声と、流れ出る血。これは何よりも、直前の「一歩引いた視点」に対する抗議のように思える。方法はリストカット。「私に気づいて!」というシグナル、なのだそうだ。「私を見て、今ここにいる私を!」。
 「今、ここ」を見ろ、悩める若者にはこれこそ最も過酷な要求であろう。未来は、未だ来たらざるものであるがゆえに、得手勝手に輝かしく思い描くことができる。「今、ここ」にあるのは、いじましい(特に性的な)欲望にふりまわされるだけの、イケてない自分である。外面を取り繕うぐらいはなんとかできても、本当の意味での救いも、逃げ道も、見つからない。そんな有様で、なんで他人を救えるものか。
 つまり、彼らが学校を、「将来の成功につながる場所」とか「恋人を見つける場所」などと思い込もうとしても、そうすればするほど、「ある漠然とした大きなもの」に必ず脅かされる。それは具体的な人間関係を通じて迫ってくる。ふだんからねっとりと取り巻かれている場合もあれば、稀に、自殺というような、誰にも無視し得ない突発事として現出する。いずれの場合も、直面したら、まずほとんどの人にどうしようもなく、無力感にうちひしがれて、ジタバタするばかりであろう(若者にこっそり教えてあげるけど、年をとっても同じことだよ)。それでも。
 それでも、もし「青春」と呼べる時期があるとしたら、ジタバタして、「漠然とした大きなもの」、即ち「世界」とつながろうとするあがき、それが比較的長く持続してできる時なのだろうと思う。


戦おう。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから

 もちろん、人間、そう強くはないのも、もう一面の真実である。時に妄想に耽るぐらいしなければ、とうていこの不安定な時期を生きのびることはできないだろう。自分自身の若い日々を顧みても、痛烈に、そう、思う。
 「桐島、部活やめるってよ」(以下、「桐部」)の映画部は、妄想で、ゾンビとなり、「学校」を襲う。8mmカメラのファインダー内の、古色蒼然とした画像は、確かに非日常的なホラーの雰囲気を醸し出し、そこでジョックの男たちと、梨紗(山本美月)とかすみ(橋本愛)という本作中の二大美女が食い殺される。美人はこういう絵にもよく合う。つまり、ここでも、男たちの妄想源になりやすい。向こうからは「ヤダ、キモチワルイ」と言われるに決まっているが、実際に撃たれるのよりはましだろう、ってフォローにならないか。とりあえず、攻撃衝動を捨てきれない男にとっては、妄想もそれなりに役に立つ場合がある、ということだ。
 「桐部」でクライマックスとなる「事件」はこれであり、実際に人が死ぬ「エレファント」や「2:37」に比べれば、全体の雰囲気も一見穏やかなものである。やはり湿潤な日本の気象がもたらす気性は、アメリカ・オーストラリアとは違うのかも。
 「スクール・カースト」と呼ばれていいものは、あるにはある。学校内のイケてる/イケてない、の区分、その中でも細かくいろいろと。しかし、現代日本の高校では、グループが作られたら、異グループ間の交流はほとんどなくなり、同じクラスの生徒でも名前すらわからなかったりする。グループ相互や個々人の優劣について、どれくらい意識されているかはともかく、あからさまに表面化することはほとんどない。イジメもまた、大半は同一グループ内のイザコザが基だ。このへんの様相は当ブログでも以前に書いたし、「桐部」の世界の大前提になっている。
 それなら平和かというと、そうとも言い切れない。同性愛や近親相姦のような派手なトピックスはなくても、小さな悲哀や怨嗟の感情は毎日のように若い心をざわつかせ、時に鬱積していく。これを描くことが「桐部」の眼目である。
 そのため、だろう、この映画には登場人物を「風景」として眺める視点がない。俯瞰的な構図であっても、すべての場面が誰かの物語になっている。数え方にもよるが(例えば映画部の武文は必ず前田といっしょにいるので、いわば「分身」と考えれば、除外できる)、十人を越える主要人物の物語が、時に交差しつつ、実に丁寧に描出されている。
 唯一の例外、らしく思えるのが、上の「ゾンビの叛乱」を含む、「火曜日の、屋上への全員集合」直前の、屋上から下を180度見廻す画像の視点。誰の? 桐島、あるいは桐島らしき人物の、だ。この画像の中に映る人物は一人だけ、古いバスケット・コートにいる友弘(浅香航大)。彼のほうでも屋上の人物に気づき、「桐島がいる」との知らせを廻し、バレー部+桐島の友人グループ(カースト上位者の集団)が駆け上がると、探し人はおらず、そこで撮影していた映画部とぶつかることになる。
 では、最初から最後まで登場しない桐島とは何か? 語らない視点である。また、本当の意味では、語られない視点でもある。同じような設定なら、三島由紀夫「サド侯爵夫人」という優れた戯曲が日本にはあるが、ここで登場人物はマルキ・ド・サドのことのみ話題にしている。本作はそれよりは現代演劇の原点と呼ばれるサミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」のほうにより近い。問題は彼の存在より、彼の不在のほうだ、という意味で。
 具体的には、桐島とは何か? 「超万能型」の高校生だとは言われている。成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能、バレー部のキャプテンにして、学校一の美女を彼女にしている。彼が突然部活をやめると言い出したことが間接的に伝わり、波紋が広がる。肝心の本人は学校にも来ず、皆の前に姿を現さない(しかし実際の欠席日数は、間に土日を挟んで、金曜から火曜までの三日に過ぎないのだが)、それがつまりプロットである。しかし、従来の「学園もの」「青春もの」と違い、誰も彼のことを第一に心配しているわけではない。ここの高校生たちは、リアルに、自分のことでせいいっぱいなのだ。
 それを端的に表現しているのは、火曜日の、クライマックス前の一場面である。「今日は個人面談があるから、桐島も来るだろう」という「親ネットワーク」からの情報があり、バレー部の風助(大賀)が様子を見に行く。進路指導室は空っぽで、外から梨紗が、「誰もいないよ。バカみたい」と声をかける。そのまま去ろうとする彼女に、風助は「あいつ、俺たちバレー部のこと、なんか言ってなかったか?」。梨紗「さあ? もともと眼中になかったんじゃない」。
 桐島は何も言わずに去った(のかどうか、本当の結論が出るのはまだ先の話だろうと思うが)。彼にとって自分(たち)は意味が無かったのか? ただのプライドの問題ではない。これは彼ら自身のアイデンテティの根本に関わることなのだ。強力、に見える存在に、自分の存在を認めてもらえているのかどうかがかかっているのだから。もちろんそれは、バレー部より、桐島の彼女で、いろいろな人から彼のことを訊かれるのに、実際は全く連絡が取れないでいる梨紗自身に最も痛烈に突き刺さっている。

 登場人物個々人の物語について、もっと詳しく語りたいところであるが、それではどれくらい字数を費やすかわからない。ここでは、私にとって特に印象深かった、不思議な「気持ちの通い合い」のことを述べて終わろう。
 「盲が象を見る」方法最大の難点は、「太い柱だ」とした者と「大きなうちわだ」と感じた者の間でほとんど共通理解が成り立たないところであろう。いや、「それにつながる漠然とした大きなもの」への不安が共有できればいいわけだが、当面こだわるべきなのは、彼ら個々人と「それ」との関係なのだから、なかなかうまくいかないのである。
 それでも、一瞬だけ、つながったかな、と思える瞬間がないではない。「桐部」には二つ、それが示されている。
 第一は、映画部部長にして自主制作ゾンビ映画の監督前田(神木隆之介)と、吹奏楽部部長沢島(大後寿々花)の間で。彼らは同じクラスで、見かけの冴えない文化部なので、下位のカーストにいるのだが、交流はない。映画部の武文(前野朋哉)は、「あいつ絶対スイブのほうが俺たちより上だと思っている」と言う。そうかも知れない。
 沢島は一人でサックスの練習をしている、ところへ映画部が撮影にやってくる。少しどいてくれ、という前田の依頼に、彼女はなかなか応じようとしない。これが二度繰り返される。最初沢島は、「ここじゃないと微妙に音が違うんです」とか、「(映画部がやってることって)遊びですか。こっちは真剣な部活なんです。遊びなら学校の外でやってください」と、いわば権柄づくの態度だった。しかし次の時には悲しそうな表情で、「これが最後だから。私は部長だから、こんなふうにフラフラしてちゃいけないから。これで最後にしたくて」と、およそ部外者には理解不能なことを訴える。前田はそれでなんとなく納得して、撮影場所を屋上に変える。それで、あの「ゾンビの叛乱」場面につながる。
 実は沢島は、桐島の親友で、彼と張り合えるほどカッコいい宏樹(東出昌大)に密かに恋している。彼は梨紗の友だちの沙奈(松岡茉優)という、可愛いのでカースト上位にいる(また熱烈にその地位に留まりたいと願っている)女子とつきあっているし、沢島もそれは知っているのだが、思いを抑えきれず、放課後、彼が見える場所で、また彼から自分が見える場所でサックスを吹き続けていた。それを察知した沙奈は、それからたぶん宏樹も、彼女に「あきらめろ」と引導を渡すために、見られていることを承知の上で、長い接吻を交わす。
 前田と沢島の二度目の交渉は、この接吻の前である。前田もまた、この日、好意を抱いていたかすみに彼氏がいることがわかって、つまり失恋を経験していた。この経験を通して、彼も少しは成長したのだろう。他人の気持ちが理解できるようになった? そうではなく、他人には理解できないことがあることを、それは可能な限り尊重しなければいけないことを理解した。この世で他人に期待できるのは、それぐらいが精一杯であろう。
 屋上で起きたのは、それが全くない場合だった。乱入してきた者達によって撮影が邪魔される。それなりに苦心して作った小道具の隕石(ゾンビ化のきっかけとなる)も足蹴にされた。バレー部にはバレー部の事情があるとしても、なぜ自分たちはあたりまえのように無視されるのか。スクール・カーストがあるからだ。前田たち映画部は「キモオタ」として、今まではそういう扱いに甘んじてきたのだが、このとき、叛乱を起こす決心をする。もちろん、そのような「学校」の、ひいては「世界」の体制に対して。
 「桐部」は妄想の後、宏樹視点でここに至る過程を描き、現実には、映画部=ゾンビがジョックたちによって簡単に制圧されたところまでを映す。そして第二の、前田と宏樹の短い交流の場面になる。
 代表的なジョックで、その場にいたのに、乱闘には加わらなかった模様の宏樹は、前田が落とした8mmカメラのキャップを拾って、持って行ってやる。それから、「変わったカメラだね」「ちょっとさわっていい」と、前田からカメラを受け取ると、前田に向け、冗談の調子で「将来は映画監督ですか」等と問う。
 前田「いや、それはないな」。宏樹「え、それじゃどうして……?」。前田「ホントにたまにだけど、自分の好きな映画とつながっているような気がして、うれしい気分になるんだ」。
 茫然とした宏樹から前田が、「それ、逆光だよ」と言ってカメラを返して貰い、宏樹をファインダーに納める。前田「やっぱりカッコいいね」。宏樹「いいよ、俺は」。そして彼は涙ぐむ。たぶんなんでもできるせいで、何事にも本気で取り組めない彼が、感情の動揺を見せるのはこの時だけである。野球部の幽霊部員なのに、キャプテンから練習に来ないことを咎められるどころか、試合には出るようにと懇願されるほどの能力があっても、やらない。沙奈とも、向こうから熱烈に迫られたので、「ま、いいか」とつき合っている様子。そんな彼が、たぶん何も報われることはないのに、懸命に好きなことにすがるキモオタの言葉に動揺するのである。
 「桐部」は、野球部の練習を遠目に見ながら、桐島に電話をかける宏樹の後ろ姿で終わり、そこで初めて、白地に「桐島、部活やめるってよ」というタイトルが映し出される。呼び出し音はまだ鳴っており、繋がるかどうかはわからない。
 以上から、せめて言えそうなこと。誰でも、自分の立場で、「世界」に働きかけるしかない。「世界」のほうが何を返すか、そもそも返すかどうかわからなくても。なぜなら、それが「生きる」ということなのだから。
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