由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

書評風に その3(ドストエフスキー「罪と罰」)

2022年07月29日 | 文学
メインテキスト:フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」(原著の出版年は1866年。工藤精一郎訳新潮文庫上下二巻昭和62年)

上演台本・演出:フィリップ・ブリーン 翻訳:木内宏昌 「罪と罰」シアターコクーン令和元年

 ドストエフスキー(長いんで、以下「ドストさん」)について述べます。多分、世界最高の作家でしょう。それはもちろん好みにも拠りますが、小説という形式によって、驚嘆すべきことを成し遂げた人ではあります。

 社会主義運動に加わったとして、死刑判決を受け、処刑直前に減刑され(これは帝政ロシアの官権によってあらかじめ決まっていた筋書きで、死の恐怖によって不穏分子を「更生」させようとする茶番)、シベリア抑留(1849ー1854年)を経験して10年後の中編「地下室の手記」(1864)から、この人の独自の歩みが始まった、でいいでのでしょう。が、これ以前の「白夜」(1848)や、晩年の「おとなしい女」(1876)などの一人称小説の主人公もまた、自意識過剰で、やたらに饒舌だという特徴があります。
 現代の「ひきこもり」みたいな、どうしても社会に適合できない部分を抱えてしまった人間は、近代に入ってから増えたのでしょう。革命以前のロシアの都会にはかなり多かったのかな。よくわかりませんが、ドストさんは彼らを語った。彼らに語らせる、という形式で。なんかわけのわからないことをしゃべくるんですけど、それ自体がもちろん当時の社会や思想状況の反映ではあるのでしょう。
 しかしねえ、こういうのを面白いと思う人は多くはないと思います。たいがいうんざりしますでしょう。ドストさんがこの段階にとどまっていたら、フランツ・カフカに匹敵するほどの作家でもない。少なくとも私にとってはそうです。
 しかしあるとき、この主人公(男性)は、自分を慰めてくれるような女性だけを求める段階を越えて、殺人という形で思いを社会に投げ出した。ここからドストさんの偉大な四大長編小説が出現したのです。

 自意識そのものからは一歩離れた、客観的な視点を出してから、ドストさんの小説は、思想・観念をストーリーの動力とするようになりました(「白痴」はまあ、例外。これも非常に好きな小説ですが)。その第一歩が「罪と罰」です。
 ちょい遡りますと。
 古来、物語(ロマンス)というのは、いわゆる波瀾万丈の、曲折に富んだ運命を描くものです。主人公は並外れた人物であることもあれば、そうでないこともありますが、性格や境遇が長々と描かれることはありません。そんなの、普通に言って面白くないし、物語の中では余計な夾雑物になります。強い人はどこまでも強い英雄豪傑なのですし、美女は絶世の美女であって、またいかにもそれらしく振る舞うのです。
 大きな変化は、19世紀に起こりました。
 ドストさんとギュスターブ・フローベールが同年(1821年)の生まれ、それも一ヶ月違い、だと知ったときには、世の中には面白い偶然があるものだと思ったことを、今も覚えています。
 後者はいわゆる近代リアリズム小説の完成者だと言われているわけです。特別な性格や境遇があるわけではない市井の平凡人でも、時には自殺することも、犯罪に走ることもある。それぞれが、それぞれの物語を生きている。それを描くこと、だけではなく、その人の環境ぐるみで「人間」の全貌を紙の上に写し取り、もって逆に、背景の社会の具体的な像をも刻むこと(フローベールについては、そう単純には言えない要素も思い浮かびますが、それは措きます)。
 こういうのがその後「純文学」(この言葉は日本にしかないのかも知れませんが、単なる娯楽読み物ではない、高級な文学ということなら、西欧にも概念はあります)の王道とされました。主に20世紀になってから、この軛から意識的に逃れようとする作家が何人も出ましたが、それは逆に、ここで確立された方法論がいかに強固かを示すものでしょう。

 ドストさんは、小説制作方法の問題そのものには無関心だったように見えます。
 七歳年下にはレフ・トルストイというフローベール以上の天才がいて、複数の主人公を並行してリアリズムで描き、広さでも深さでも圧倒的な小説世界を創造しました。ドストさんは、「アンナ・カレーニナ」を「芸術上の完璧であって、現代、ヨーロッパの文学中、なに一つこれに比肩することのできないような作品である」と絶賛するなど、その価値も十分に認めたのですが、自身は、この時代に西洋社会の表面に出現した観念上のデーモン(過激な思想)に強く興味を惹かれた結果、でしょう、それが跳梁跋扈する一種の活劇を物語る道を歩んだのです。

 「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフ(長いんで、以下「ラスコ君」)はどういう人物だったか。
 まずのっけに、「驚くほどの美青年」であることが直接言われ、次に、幼い頃老馬が虐殺される場面を目撃して、同情と怒りに駆られて、殺した農夫に殴りかかっていったほど、優しくて繊細な心の持ち主であることが語られます。以上は「説明」ですが、作中ではラスコ君は幼児期の体験を夢で「体験」し直すのです。学生としては、気難しくて寡黙で、友人は一人もいなかったことは説明されています。
 以上が作品のごく最初のほうに記されていることです。それから一気に飛んで、「エピロローグ」になってから、ラスコ君の犯罪後に友人になったラズミーヒンが、彼の刑期を短くするために、次のような証言をします。彼は学生時代に同窓の貧しい病弱な青年がいたのだが、彼自身のみならず、彼の死後、その父親の面倒までみた。さらに、火事の時にもう火がまわっている家から、自身が火傷を負いつつ、二人の子どもを救出した。
 ここからすると、気難しいところを除けば、純愛物語のヒーローに相応しい好青年ということになりそうです。そういうのは、「純文学」ではない。そこで、彼を夢中にさせたのは美女ではなく、抽象的な思想だったのです。

 次に物語の構成の点から見ると、けっこう凝っていると言えます。第一部の第三章までに主要登場人物のほとんどの名前は出てきて、マルメラードフ家の悲劇と、ラスコ君の妹ドゥーニャの結婚話という、二つのサブプロットの発端も書き込まれています。
 エピロローグを除く話の全体が、きっかり二週間で始まって終わります。それ以外に、いろいろ細かい工夫を凝らしていることは、江川卓『謎解き「罪と罰」』などで夙に指摘されています。
 ただし、筋の運びの点では。一般にあんまり感心しないと考えられている偶然の要素をけっこう入れています。老婆殺しの時、見込みはどんどん外れていくのに、偶然の幸運のおかげで発覚を免れるのはいいです。実際にもこういうことはあり、犯罪小説としてのスリルが十二分に発揮されている。
 しかしその後。マルメラードフ一家とドゥーニャの婚約者だったルージンが、たまたま同じアパート、のようなところに住んでいて、行き倒れたマルメラードフをラスコ君が助けて、運び入れて、娘のソーニャにお金を渡すところまで見ている、というのは。
 本当に問題なのはこの後です。ラスコ君に邪魔されてドゥーニャとの結婚がダメになったんだと思い込んだルージンは、マルメラードフの通夜の前に、招待に来たソーニャのポケットにこっそりお札を忍ばせておき、後でそれをソーニャが盗んだんだと難癖をつける。
 なぜそんなことをするのかと言うと、ラスコ君とソーニャはどうやら親密である。その女性が娼婦であるばかりではなく、盗みまでするのだとしたら、ラスコ君の人柄も怪しい。そうなったら妹のドゥーニャも兄を見限り、自分に戻ってくるのではないか、という目論見。
 これ、かなりの無理筋だと思いませんか? ソーニャがよくない女だという印象を与えるところまでは成功したとしても、そのソーニャの恋人だという一事で、小さい頃からいっしょに育った兄もダメなんだ、とすぐに思うなんて、普通はないでしょう。さらに、それによってドゥーニャがまた自分を見直すなんて保証はなおさら、ない。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」並に頼りない、こじつけめいた連鎖反応を期待した計画で、こんなのを考えて実行するなんてずいぶん馬鹿な奴だとしか思いようがない。ところが、ルージンは、後述のように、腹黒い俗物ではあっても、馬鹿ではない。どうも、よく練られた筋とは思えない。

 それでも、「罪と罰」は駄作ではない。ということは、作品の焦点がこういうところにはない、ということです。ラスコ君は決して悪人ではないのに、妙な思想に取り憑かれて犯罪に走るのです。
 人間にはナポレオン(超人)としらみ(凡人)の二種類あって、前者は必要とあれば後者を殺す権利があるんだ、という。言葉としては、当時けっこうありふれたつまらんものだったと、作者に地の文で言われ、作中随一の怪人スヴィドリガイロフにも言われています。
 しかし、それに則って殺人を実行するとは。すると次に犯罪者となった生身の彼の心に生じるのは何か。具に、生き生きと描くことに成功したところが、「罪と罰」が傑作である所以です。

 今回は主要プロットの部分は措いて、当時から現在まで社会の主潮になっていると思える思想に、ごく簡単に触れた部分に注目しておきたいと思います。
 これは、かのルージン(ツルゲーネフがアナーキスト・バクーニンをモデルにして書いたと言われる、1856年発表の「ルージン」の主人公と同姓なのは偶然か)が「新しい有益な思想」として述べているものです。
 彼の論は、キリスト教の隣人愛「汝の隣人を愛せ」、への批判から始まります。

(隣人愛の教えに従えば)、わたしが上着を半分にさいて隣人にわけてやる、そして二人とも半分裸の状態になってしまう。ロシアの諺にあるじゃありませんか《二兎を追う者は一兎をも得ず》と。科学はおしえてくれます。まず自分一人を愛せよ、なぜなら世の中のすべてはその基礎を個人の利益においているからである、と。自分一人を愛すれば、自分の問題もしかるべく処理することができるし、上衣もさかずにすむでしょう。経済学の真理は更に次のように付け加えています、社会に安定した個人の事業と、いわゆる完全な上衣が多ければ多いほど、ますます社会の基盤は強固となり、従って公共事業もますます多く設立することになる、とね。つまり、わたしはもっぱら自分一人だけのために儲けながら、そうすること自体によってみんなにも利益をあたえていることになり、そして結局は隣人が半分にさけたものよりはいくらかましな上衣をもらうことになるのです。それももう隣人の恵みではなく、全般的な繁栄の結果なのです。簡単な思想ですが、不幸なことに、あまりにも長い間わたしたちを訪れませんでした。有頂天になりやすい傾向と空想癖に蔽われていたためです。しかしすこし知恵があれば、わかると思うんですがねえ……。

 きわめて適確かつ簡潔に、資本主義の原理を要約しているところ、今でもとても感心します。
 そして、社会全体が豊かになるにはこの道筋しかなかった、それ以外の方法を人類は見つけていない、ということも、遺憾ながら、本当のようです。
 ドストさんはこの考えは嫌いで、そのために嫌いな登場人物に言わせたのでしょう。それでも、変に歪めて、戯画化したりせず、少なくとも一面の真実ではある、と認めざるを得ない形で表現したのは、立派なものです。
 何が正しいのかって、多少コムズカシク言い直すと、資本主義の強みは、個々人の欲望追求に、なんら道徳的な制限を設けないところ。そのようにして、すべての人の前にニンジンがぶら下がられた時、人々は一番一所懸命働く。ルージンの言うように、まことに簡単な思想ですが、簡単で単純なものが結局一番強いんです。
 でもそれなら、社会的な強者は、弱者から富や富の元を奪おうとするから、悲惨さは募るばかりではないか、と社会主義者たちは考えましたし、これまた部分的には正しいようです。
 ラスコ君は、「あなたがさっき説教していたことを、最後までおしつめていくと、人を殺してもかまわんということになりますよ……」と決めつけています。そう言われると確かにこれは、彼が取り憑かれた「ナポレオンか虱か」を緩やかにしたもののように見えます。
 それに対してルージンは、「何事にも程度ということがあります」と応えています。そうですね。だいたい、金儲けに結びつかないのに、わざわざ人を殺すなんて、普通はしません。戦争で金儲けしようなんぞという輩は、いたし、今もいるでしょうけど。

 それから、これはさすがにドストさんの頭にはなかったんじゃないかと思うんですが、以前にこのブログでとりあげたフォーディズムの問題があります。
 収奪するためには、相手がまず収奪するに足るだけのものを持っていなくてはならない。昔はそれは労働力だけだったのだが、19世紀末から20世紀初頭にかけて、フォード・モーターズ創業者のヘンリ-・フォードを初めとする何人かの資本家たちが、労働者は同時に消費者でもあることに気づいた。
 そこで彼らは、オートメーション化の徹底によって製品の、フォードの場合には自動車の、生産コストを節減して価格を下げ、同時に労働者たちに従来と比べたら破格の賃金を出して、自社の製品を買いやすくした。
 かくて、大量生産→大量消費の回転で、モノ(サービスを含む)が社会の隅々にまで及び、また新しいモノを作るだけの余分なお金も広まった状態を、豊かな社会、と普通言っているのです。
 このような状態そのものを悪く言うことはできません。ラスコーリニコフ家に金銭的な余裕があったら、あの犯罪はたぶんなかったのです。ソーニャの幼い弟妹たちは、スヴィドリガイロフの出した怪しい金がなかったら、生きていくことも困難だったでしょう。
 しかしもちろん、すべて万々歳というわけにはいきません。ソーニャの父のマルメラードフは? このような性格の弱さを抱えている人は、どこでも、いつの時代でも、います。彼らを救う原理は資本主義にはありません。そもそも、そんなこと、「余計な配慮」だとすることも、ルージンの教説から直接出てきます。
 現に、ごく最近の日本にも、「ホームレスの救済のために、俺の払った税金が使われるなんて、冗談じゃない」なんて言った人がいましたでしょう。

 やや皮肉めいた言い方ながら、このようなことの救いになるのは、普通の人間はそんなに合理一辺倒ではやっていけない、という事実なのです。お互いにできるだけは助け合おうという思いやりが全くない社会に、いかなる愛着が持てますか。すると結局、商取引=交換を基調として営まれる資本主義も成り立たなくなりそうです。信用できない相手とは、あんまり取引したくないですもんねえ
 だから、利害とは別の原理も、必要である、と。両者の間で調和が取れれば、なんて、言うだけなら簡単ですが。例えば、神様抜きの「隣人愛」は成り立ちますか? 言葉を換えて同胞愛とか共同性などと言ってみても、宗教や国家(これらはこれらでまた、大きな厄災をもたらすのですが)の具体的な枠組みなしで、存続し得るものでしょうか。
 予断はできません。今やグローバル化時代とやらで、資本は国家を超えて跋扈するようになっておりますから。我々の共同体はどのように保たれるのか。ドストさんが提出した問題は、このレベルでもまだ我々に突きつけられているのです。
コメント (2)
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