由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

権力はどんな味がするか その5(There is no place like home.)

2015年11月30日 | 倫理
メインテキスト:豊田正義『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』(新潮社平成17年、平成21年新潮文庫)
サブテキスツ:小浜逸郎『可能性としての家族』(大和書房昭和63年、新装版ポット出版平成15年)、一橋文哉『モンスター 尼崎連続殺人事件の真実』(講談社平成26年)


真鍋昌平『闇金ウシジマくん(28)』小学館平成25年

1 炉辺の幸福 
 改めて断っておくと(自分では、改めて、のつもり)、私が主に興味を持っている権力とは、普通に言われる、社会的な、政治権力などのことではない。もっと卑近な、具体的な人間関係の場で働く力である。
 と言えば、家庭という場を考えないわけにはいかない、はずだ。それはわかっているのに、今まで正面から取り組めなかったのは、あまり具体的で身近なのがどうも……気恥ずかしい気分が振り落とせなかった。言い訳ではなく、この感覚はけっこう普遍的なものかな、という気もする。そしてまたそれは、家族という集団の本質に直結しているのかも、と。
 で、とっかかりとして、「幸福な家庭」とはどんなものか考えよう。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(「アンナ・カレーニナ」)とトルストイの言う、「似た」ところ、つまり共通点はどこにあるのか。
 たぶんその第一の要件は「安定」だろう。必ずしも濃密な紐帯が意識されるとは限らない、というか殊更にそんな意識の必要もないほど馴染んだ空気の中で、過度に気を使うことなく寛げる場所。そうでなかったら、他の何があったとしても、幸福な家庭とは呼べないだろう。
 それでも集団である以上、大なり小なり個人を縛る規範はある。それを守らせるための権力も、ある。アンティゴネの神話が象徴する、何をしても許される場所、というのは、少なくとも生きている間は、夢想でしかない。また、子どもがいるのなら、必ず男女間の情交があったはずだ。それでいて近親相姦は人類の最も古く普遍的なタブーである。
 肝要なのは、そういうものは普通、家族の表面にむきつけには現れてこないところだ。隠されている、と言えばそうだが、隠している、なんて意識もあまりない。子供が年頃になるまでには、たいていの父母が、「自分がいる以上はこの人たちもやることをやったんだろうな」と思わせるような雰囲気を(実際はどうであれ)身に着けている。安定していて、単調でもある「日常」を築くために、激しいもの・生々しいものは自然に目につかない背後に置かれる。それが大人の「嗜み」というものであろう。
 若者からすると、そういうのは欺瞞に見えたり、また平坦な日常が退屈で無意味に見えることも往々にしてある。しかし、安定した場所がなければ安心はなく、全く安心のない生活を過ごすことは常人にはできない。だから依然として家族は貴重である。逆に言うと、それぞれの事情で安定が崩れたとき、それぞれの家庭はそれぞれに不幸になっていく。

2 家長は何処に 
 一方、家庭内の権力というテーマは、歴史学か社会学ではとっくに語られてはいる。「家父長制」というやつなら。戦前までの日本には家長という者がいて、「一家の主(あるじ)」であると公的に認められていた。それはふつう男で、家の財産(=家産)は専一に彼の管理下に置かれ、他の家人は原則として彼の許可がなければ結婚も転居もできなかった。その半面、老親の扶養などを含め、「家」を守る義務が課されていた。彼が死んだり、隠居したりして、かつ遺言状その他の手段で特別な意思を示さなかった場合には、彼の子ども中の長男がその役目(家督)を継ぎ、財産も継いで、新たな家長になる。
 最大の眼目は、「家」を守り、できるだけ存続させようとするところにある。このような「家」概念はいつごろから生じたものか、詳細は不明ながら、江戸時代には、武士なら「家名を守る」、それ以外の庶民なら「墓・位牌を守る」という形で、日本人のエートスの中で大きな部分を占めていたようだ。
 ただ、上記のようなことを定めた民法典が施行されたのは明治31年で、昭和22年の改正によって廃止されたから、公の制度としての家父長制は半世紀しかもたなかったことになる。そして、戦前と戦後の法制度で一番ドラスチックに変わったのはここである。男女平等の理念に基づき、家財は夫婦の共有財産とされ、また子どもも長幼にかかわらず平等で、例えば遺産は、配偶者が半分、残り半分は子どもたちに均等に配分される。その代り老親の扶養義務も兄弟平等である。家督、つまり「家」に関する独占的な権利義務はなくなった。
 というのは、あくまで法的な話で、昔ながらの「家」観念の名残ならまだ残っている。法律上も、結婚すれば夫婦は同姓にならねばならないのは、家制度の名残であるとして、フェミニストから攻撃されていることは、知っている人は知っているだろう。
 「家」こそ女性を抑圧し、女性の「自立」を妨げる悪しき制度だ、と彼/彼女らは考えている。その場合最大の標的は制度そのものより、世間一般の意識の中に残存している観念である。今でも、名称だけの存在ではあっても、「一家の主」と言えば、普通に男だと考えられる。それが女性から見てどれほど不快で不便なことかはわからない。しかし、そんな家族ならなくしてしまえ、とまで唱える人はごく少数である。
 こういう点について、小浜逸郎は次のように言っている。

(前略)家族が問題とされ、自明性に疑いがもたれるのは、(中略)人間が家族を営む条件から自由になったことを少しも意味していず、かえって逆に、人間の存在や行動を規定するものとして、純粋にエロス的な意味での家族の共同性が大きな意味合いをもって前面に出てきたということを示している。いいかえると、それだけ他の共同性(たとえば政治的あるいは農村的)が個人を規定する意味を相対的に希薄化させている証拠なのである。たしかに個別には家族が解体の契機を内在させていたりする例が多いが、それは、まさしく家族的な共同体が純化して自立したために社会の風圧をまともに受ける事態になったということを示す(後略)(小浜、P.109)

 これも「悲劇論ノート 第5回」で紹介した、リストラされて収入がなくなったら、家族から「家長としての義務を果たしてくれ」と言われるようになった男。「家長の義務」とはこの場合「金を稼いでくる」ということであり、彼は保険に入っていて、それは自殺でも貰えるタイプなので、早く言えば、「仕事がないなら、死んでくれ」ということらしい、と。
 これが「家族の共同性が大きな意味合いをもって前面に出てきた」例だと早急に言うことはできない。昔からこういうことはあったのかも知れないし、今だってそんなによくある話ではない。いつでもどこでも、社会に一定の位置を占める集団である以上、制度であれ慣習であれ、必ず規範を含む。つまり個々の成員に何かしら当為(まさに為すべし)を示す。当為が最も強調されるのは、当然ながら、個人に対して明らかな犠牲を求める時だ。これも昔から変わらない。現代に特徴的なのは、犠牲が露骨に金に結びつくようになったことだろう。
 ならばここに、ビジネス・チャンスがあるのではないか。家族のためなら、命まではともかく、金なら、生活上の不如意は忍んでも、出してもよい、いやむしろ、出すべきだ、と思われているのならば(「よい」から「べきだ」の間には当然断絶があるが、感情が前面に出る場合には、往々にしてすぐに飛び越えられる)。ここに目をつけた人間が、「成り済まし詐欺」または「振り込め詐欺」を始めたのだろう。
 
 さらに「家族の絆」を徹底的に悪用することによって、当の家族を文字通り破壊し、金も生命も奪い尽くす犯罪者が、近年この国に現れた。

「一つの家族や集団の中で、一人を集中的に可愛がり、他の一人を徹底的に迫害すると、彼らの中で自然に誰につけばいいとか、どうすれば自分は助かるかといった感情が働き始め、放っておいても協力者や密告者が出てきて、組織の運営がスムーズになる。ただ、取り込む人間から信頼、心酔されるだけでは駄目で、時々は彼らにも恐怖心を与え、隷属すことでしか生き延びられないという呪縛を持たせなければならない」
「本質的には親は子供を可愛いと思い、守らなければならないという決意を心に秘めているものだ。だから親の面前で子供を虐待・暴行すれば、親は子を庇うために自ら権力者に対して反抗的な態度を取って、標的になろうとする。それを逆手に取って、子供に親を殴らせれば、その家族関係は瞬(またた)く間に崩壊するはずだ」(
一橋、P.128)

 上は尼崎連続殺人事件(以下、尼崎事件)の主犯、角田美代子が、師匠格の男(Mと呼ばれている)の教えをノートに書き留めておいたと言われるものの一部である。内容はそのままだが文言は変えたと一橋は言っているし、最終的には山口組系暴力団の最高幹部にまで上りつめ、既に故人になったというこのM自身のことも、Mと角田との関係も、「関係者に迷惑をかける」からとごく簡略に記されているだけなので、どこまで「事実」なのか疑問の余地はある。知的な悪党は確かにいるにしても、手口をこんなふうにマニュアル化するものだろうか。
 あるいは、男の方は別の言い方をしたものを、角田がエキスをまとめて記したのかも知れない。そういうマメさ、真面目さ(?)は、確かに女性のもののようである。これが男だと、例えば次のような語り口になる。

「私はこれまでに起こったことは全て、他人のせいにしてきました。私自身は手をくださないのです。なぜなら、決断をすると責任を取らされます。仮に計画がうまくいっても、成功というのは長続きするものではありません。私の人生のポリシーに、『自分が責任を取らされる』というのはないのです。(中略)私は提案と助言だけをして、旨味を食い尽くしてきました。責任を問われる事態になっても私は決断をしていないので責任を取らされないですし、もし取らされそうになったらトンズラすれば良いのです。常に展開に応じて起承転結を考えていました。『人を使うことで責任をとらなくて良い』ので、一石二鳥なんです」(豊田、P.65~66)

 北九州連続監禁殺人事件(以下、北九州事件)の主犯松永太の供述調書の一部だそうだ。取調官の前で、事件の責任をいっさい否認しながら、自分の悪辣さを自慢気に吹聴するとはどういう了見かと思えるだろうが、次のようにも考えられる。
 前回述べたように、人を人と思わぬ傲慢さ、それは並外れた自信に見え、魅力にもなる。松永には、本当に他人の値打ちが実感できないので、この点では完璧な段階に達していたろう。実際に彼は何人もの女性を、それから男性も、籠絡することができたのだから、魅力的であったのだろう。また、それが何よりの自慢だったので、取り調べの「展開」に応じて、「だから俺には一連の事件の責任はないんだ」と言うつもりで、出てきた言葉ではなかったろうか。それでは単なるバカのようだが、彼の最大の力=自信と表裏の関係にある、男的バカさ加減と見える。
 松永は、それから角田も、イルゴイエンヌの言う自己愛的変質者であることに間違いない。ただ、並のモラハラ加害者とは違い、ヒトラーの百万分の一ぐらいの行動力と方法論を持って、家族という、社会の基礎集団の中に外から入り込み、絶対権力者となることができた。
 ここでは、方法論を最も問題にしたい。Mが示唆して角田が書き留めたマニュアルは、松永が実行したことに非常に近い。一橋は、Mがかなり早い段階で、もしかしたら警察関係者から、北九州事件の詳細を聞いていたのではないかと推察(「そう言っている人間がいる」という形で)している。その正否は当然私にはわからない。ただ、松永については、先例のない犯罪をやってのけたのは確かで、この点、自信を持つだけのことはある(?)、「悪の天才」と呼べるかもしれない。

3 モンスター・トリオの降臨
【以下の人名は仮名を含めてすべて豊田著によります】
 最初のきっかけは、松永が高校時代の同級生緒方純子を誘った時に始まる。二人は学生時分には顔見知り程度だったが、でたらめな理由で呼び出し、一年ほどの間隔を置いて会ううちに、強引に関係を結んだのだった。
 この間に松永は別の女性と結婚し、子どももできていたが、「妻とはうまくいっていないから、そのうち離婚する」という決まり文句を、やがて純子も信じるようになった。恋愛感情も生まれ、両親を引き合わせると、彼らも松永の話術に乗せられて、彼を気に入り、将来婿に入ることを条件に、純子との不倫関係を許した。
 だけでなく、松永は純子の母親とも肉体関係を持った、と言う。それは事実かどうか、事実だとして、どういう状況でそうなったのか、母親は殺され、松永の供述しかないので、100パーセント確実にはわからない。純子は、当時は情交のことまでは知らされなかったが、松永から、「おまえの母親はおまえを心配するふりをして、実は俺に会いに来ていたんだ」と言われ、すんなり受け入れている。思い当たるふしはあったのだろう。
 さらに驚くことに、松永は純子との関係以前に、彼女の妹とも行きずりの一夜を過ごしたのだと言う。すると彼は、緒方家の成人女性全員と関係したことになる。これによって、一家中の母子姉妹間に、嫌悪感と不信感と、嫉妬心まで抱く種が蒔かれた。それにまた、ピロートークなら、普通なら外からは窺い知れない家族間の軋轢や不満を聞き出すことができる。それもまた、家族を支配する有効な材料となる。
 松永は最初からそこまで考えていたかどうか。むしろ、「無類の女好き」を自認する彼のことだから、成り行きでそうなったので、その「展開」をできるだけ都合よく利用しようと思いついた、というほうが正解に近いようだ。
 次の展開は、純子を完全な支配下に置くことだった。母親から聞いたかつての男友達の話などをネタに、暴力が奮われ、次第にエスカレートしていった。その段階で逃げれば、後の緒方一家皆殺しは避けられた。現に松永の妻は、夫のDVに耐えられず、命がけで逃げ出したのだった。
 そうしなかったのは、純子の性格によるところも大きいが、松永のやり方も巧妙だった。純子の体に、刺青と煙草の火による焼印で、「太」の文字を刻み付ける。彼女の親類や友人に金を無心させ、もう引き出せないとなると、大声で罵詈雑言を浴びせさせ、彼らとの縁を切らせる。
 すべて松永の命令でやったことなのに、純子は、そんなことばかりしている自分がいやになり、自殺を図る。すると松永は、「純子さんをこのまま放っておいたらまた自殺するかもしれませんし、もっと堕落しますよ。幸い私の言うことは聞くので、私に預けていただければ責任はもちます」と家族を説得して、彼女を手元に置くことに成功する。のみならず、分籍までさせた。「もし分籍を認めないなら、今度は本当に自殺するわよ。あるいはソープで働くからね」と純子に言わせることによって。
 こうして、松永以外とのすべての人間関係を断たれた純子は、積極的に彼の意向を受け入れて働く、かけがえのないパートナーとなった。この後の七つの殺人事件すべてに、彼女は実行犯として関わっている。化け物の恐怖から逃れるためには、自分が化け物になることが一番なのだ。

 松永はもともと、父親譲りのふとん販売会社の社長で、社員を脅して、詐欺的なやり口で商売をしていたが、いよいよ告発されると、純子を伴って逃亡した。逃走中でも金はいる。おまけに、この期間に、純子は出産していた。彼らは新たな犯罪に走ることをためらわなくなっていた。その中に、このコンビ初の殺人(か、傷害致死か、厳密な線引きは難しい)である服部清志の一件がある。
 小倉市内で不動産会社の営業マンをしていた服部の仲介で、松永は潜伏場所として複数のマンションを借りた。服部はお人好しで、そこに目をつけた松永は、コンピューター技師を名乗って取り入り、共同で競馬の予想ビジネスを立ち上げようと申し出る。服部はこの時四十歳、一聞して怪しい話だとわかりそうなものだが、何しろすっかり松永に魅入られていた。言われるままに、松永との仲に水を差しそうな内妻とは別れ、実子で十歳になる娘恭子を連れて社宅に引っ越す。その娘も、松永と純子と彼らの長男が暮らすマンンションに預けることになる。
 松永は元々服部の弱味を握り、金を搾れるだけ搾り取ることが目的だったので、最も有効な道具として使えたのが、この娘だった。手始めに、養育費として月二十万円を請求する。服部が逃げないための人質にもなる。「言うことを聞かないなら、娘をひどい目に合わせるぞ」と言って脅されたら、たいていの親はたいていのことをやらざるを得ない。
 さらに服部を追い詰めるために、恭子は、「お父さんがした悪いことを十書け」などと命じられ、その実松永の指示通りに、父が彼から金を盗んだとか、自分は父から性的な暴行を受けた、などと言ったり書いたりした。それらはすべて嘘だったが、服部があくまで身に覚えがないと抵抗し続ければ、恭子が暴行を受けることが目に見えていた。事実だと認めざるを得ない。結果彼は、いよいよ松永に屈服し、彼からの「罰」も甘んじて受けるようになる。
 やがて服部は、金を横領した疑いをかけられたこともあって会社を辞め、松永のマンションで暮らすようになる。それ以後は、文字通りすべての時間を、厳しい管理下に置かれるようになった。食事も、排泄の時間と回数も決められ、起きている時も寝ている時も、体育座りや相撲の蹲踞(そんきょ)の姿勢で居続けるよう強制される。
 これを破った時には、あるいは単に松永が苛立った時には、恐ろしい暴行が加えられた。主なものは、後に有名になった「通電」という拷問で、プラグのついた電気コードの反対側の銅線をむき出し、人体に電気を通すと、感電によってたいへんな苦痛を与えることができる。元は松永の会社の社員がふざけてやっていたものを、彼が、銅線にクリップをつけて細かい部分(性器を含む)にも付けることができる、など「改良」したものだった。後には、純子も、松永と関わった他の女性たちも、また緒方家の全員が、その責苦を受けることになる。服部に対しては、松永の留守中には純子が代わって行い、その際全く手加減する様子はなかった、と後に恭子が証言している。
 その恭子も、父に噛みつくように言われ、力いっぱいやっている。前出の角田美代子のノートにあった通り、家族が正に崩壊したしるしであり、服部が受けた精神的なダメージは、肉体的なものに劣らなかったろう。
 それだけではない。拷問の果てに服部は衰弱死かショック死を遂げるのだが、恭子に対して、「お前が殺したんだ。その証拠にお父さんの体にお前の歯形がたくさんついている」と言って、それを脅しの材料にした。この後死体はきれいに始末されるので、「証拠」はなくなるのだが、父の死にしかたなしにでも手を貸した心の傷は深かったろうし、それはそのまま共犯者(本当は正犯)である松永と純子から容易に離れられない心理的な楔にもなる。一石なん鳥だかわからないやり口だが、それも、大本に「家族の絆」という曰く言い難いものがあったればこそである。結果恭子は、子どもながら純子に次ぐ松永の第二のパートナーになった。
 死体の処理は松永が指示して純子と恭子にやらせた(この時純子は松永の第二子を身ごもり、臨月だったという驚きもある)。その方法をここで詳述する要はないだろう。細かく切り刻み、砕き、煮沸などして、液状化したり団子状態にしたものを、公衆トイレに流したり海に投棄した。これもまた、その後繰り返されたことで、北九州事件全体で、被害者の死体は、痕跡すら見つかっていない。こんなことまで知っていたか思いついた松永太という男はいったい何者なのかと改めて興味が惹かれるが、その解答もまた、見つからない。

4 蟻地獄はやがてすぼむ 
 詐欺で告発されてから緒方家本体に取りつくまでに、松永は他にも一人の女性を自殺に追い込み、もう一人の女性を精神病にしているとみられている。どちらも家族から切り離した個人にしてからの話であって、純子も含めると七人から成る家族全体を手中にして破滅させたとなると、松永としても最初で最後であった。
 それはこんなふうに始まった。逃亡資金の底がついた松永は、純子に金を工面するように要求する。純子は始めのうち、縁を切ったはずの実家に無心していたが、ある日きっぱりと断られる。考えあぐねた彼女は、嘘を言って子どもを叔母に預け、自身は大阪の温泉地に働きに出かける。松永には無断でしたことだった。これを「逃げられた」と感じた松永は躍起になって、逃走後初めて緒方家と接触し、これまでの数々の犯罪行為、特に服部の死を、まるで純子が主犯であるかのようにねじ曲げて伝えた。
 緒方家は久留米の名家である。その娘が殺人罪に問われかねない犯罪に手を染めたとあれば、当人の将来はもちろん、一家全体のダメージは計り知れない。ついに、松永が死んだことにして、純子を呼び寄せる。こういう点で、パートナーと言っても信頼関係など微塵もなく、結局のところ純子は恐怖で支配されていたに過ぎないことはよくわかる。ところがそれも松永には好都合になる場合もあった。緒方家全体を脅す単なる道具として、彼女が使えるから。
 松永はまず、「純子と別れてもいいが、手切れ金をもらいたい」などと家族に告げる。彼のような男といっしょでは、純子は今後どんな目に合わされるかもわからない。また、純子の「犯罪」がバラされる恐れもある。直接そう言えば恐喝になるので、ほのめかして、相手に悟らせるのが、松永の得意技なのである。緒方家は、松永の要求するだけの金を出すことで話がまとまりそうになる。しかし、そこで、子どもは自分が引き取る、と松永が言うと、元幼稚園教諭で、子ども好きで、いまや子どもだけが生きる希望となっていた純子には耐えられない。松永とは別れない、と言い出し、話は振り出しにもどる。すべてが松永の思惑通りだった。
 この前後、緒方家では純子の父母や妹、時には親族まで招いて何度か話し合いの場を持っている。「家族会議」は角田美代子も多用したやり口で、何らかの結論を出すよりは、参加者を疲れさせ、互いに反目させるのが主な狙いなのである。だから次々に新たな要求を出して議論を紛糾させる。子どもの養育費、純子のような女の面倒を見るのはたいへんだからとその謝礼、しまいには、緒方家の人間が松永のマンションを訪ねてきた時恭子は風呂場に隠れていなければならなかった、その慰謝料、なんてものまで。
 もちろんすべて、筋など通っていない。松永と純子は内縁でも夫婦である。そうでなければ手切れ金(≒慰謝料)なんて話にはならない。そしてそうであれば、純子や子どもの保護養育義務は第一に松永にある。緒方家が金を出す筋合はない。こういう理屈は世間一般が思っているより大切なのだが、何しろここで最も有効に働いていたのは感情なのである。完全に松永に取り込まれ、分籍までした純子は、それでもやっぱり緒方家の血を分けた家族であり、無視することはできないという。世間の見る目も、そうだろう。いや、ただ金の無心に来るだけなら、捨ててもいいが、犯罪者にまでなったら……。やっぱりちょっと筋が通らないようだが、ここもすぐに飛び越えられた。
 因みに純子は、この時再び、家族に迷惑をかけるばかりなので人知れず死のうと思いつき、逃走を図るが、このときは恭子に邪魔されて、連れ戻されている。やればやるほど、とんでもないことをしでかす可能性の高い純子を保護する、その反面で監視するやっかいさは増していき、それはそのまま、松永という通路を経て、家族の負担となる。
 さらに松永は、純子の父に、服部を殺したマンションの水道管の交換をやらせている。服部を殺した形跡は、純子と恭子が完璧に掃除して消していたのだが、それでも目に見えないところには跡が残っているかも知れないという口実で。純子を守るためには、というわけだが、これで父もまた、物理的に、犯罪を隠匿する罪を犯したことになる。
 松永にとってもう一つのやっかいは、純子の妹の夫だった。彼は純子が分籍してから結婚したので、義姉と面識すらなく、当然愛着もない。元警察官だから、力づくなら、松永より強かったろう。彼に対して、松永はまずきわめて丁寧な対応をし、酒を飲みながら、純子や母やその他から仕入れた妹の醜聞を吹き込んでいく。先にこの妹は松永とも肉体関係があったことは述べたが、結婚前は相当な発展家で、複数の男と関係し、妊娠中絶まで経験していた。すべて夫には秘密で、彼女は結婚時には処女だということになっていた。松永からそれを聞かされた夫としては、妻のみならず緒方家全員に不信の念を抱かないわけにはいかない。ついには松永に焚きつけられて妻とその父母を殴りさえする。結果家族の反感を買うし、彼自身は罪悪感から逃れられず、「理解者」に見えた松永への依存を強めるようになった。この蟻地獄のような過程は、先に恭子について述べたように、純子も、緒方家の他の人々も、全員踏まされている。
 仕上げに、松永は彼に「純子の犯罪」を打ち明け、マンションの、今度はタイルの張替えをやらせる。その挙句に、「元警察官のくせに」と非難する。「何をバカな!」と怒ってしかるべきところだが、それさえできない。世間からも家族からも孤立した人間は、かくも弱いのである。こうして純子の義弟もまた、「罪の共同体」に取り込まれた。

 結果からみると、あまりに一人の邪悪な男の思うつぼにはまりすぎていて、これがフィクションだったら、リアリティがないとさえ思えたかも知れない。しかし、現実に起きたことなのだ。
 まとめると、彼が最大限利用したのは、幾重にも折れ曲がった家族の絆なのである。この一家はまず、互いの罪を共有することで社会と対立する。家庭はもう平板で退屈な日常性が支配する場所ではなく、一定の目的を持つことになった。ところがその構成員は相互に不信感を抱いていてまとまらない。そこに一人の男が入り込む。罪も、不和も、もとはすべて彼から出ているのだが、家族ではないという理由で、責任は軽いような顔ができる。それでいてすべての罪を知っている(当たり前だ!)からと、家族がどうすべきか、助言(?)を与える。家族のほうでは、他にないので、それを唯一の指針とするようになる。最後に男が、ちゃんと従ったかどうか、裁定する。このようにして彼は、絶対的な優越者として家庭に君臨するに至る。
 あとの顛末は簡単に述べよう。緒方家は松永の言うなりに次々に金を出した。そのために、家財を処分するのはもとより、親類や友人知人、金融機関からまで、借りられるだけの金を借りる。最後に純子の祖父名義だった土地も売ろうとして、親族から止められる。ここに至って緒方一家は完全に社会から疎外され、住む場所も失って、かつて松永が服部を死に追いやったマンションに妹夫婦の子ども二人を含めて、全員が転がり込む。
 緒方家との共同生活が始まってから、統率を保つために松永がやったのは、先に紹介した角田美代子のノートの最初に書かれている方法である。構成員の中の一人を徹底的に迫害し、他の者には、自分がその立場になることへの恐怖心を植え付け、支配者(松永)への服従を盤石なものにしていった。最初の犠牲者は、純子の父だった。他の者の言動についても、「家長」の責任がどうのと難癖をつけられ、あるいは何の理由もなく、通電を受けた。手をくだすのは自分がそうされたくない一心の家人である。父のほうでは、慫慂としてそれを受け、やがて服部と同じように、亡くなった。
 この頃から母の精神状態がおかしくなった。昼夜の別なく叫ばれたのでは、近所に怪しまれる。松永は、思わせぶりな言葉と態度で「なんとかしろ」と伝え、家人は「殺せということだよな」と了解する。母は絞殺される。明白な殺人の始まりである。純子の義弟は服部や父のように衰弱死したが、他は、母と同じく、口封じのために、妹もその子どもの幼い姉弟まで、順繰りに絞め殺されていった。
 こうして純子以外の緒方一家全員が抹殺されて、ようやくこのままではいずれ自分も殺されると感じた恭子(彼女は松永と純子の子どもなどを世話するため、別の場所で寝泊まりしていた)が、祖父母を頼って逃げる。松永と純子は一度は彼女を取り戻すことに成功するが、自分で自分の生爪を剥がすというような拷問は強要したものの、殺すことはできなかった。ここは松永のアキレス腱であったようだ。「自分は手を汚さず、人にやらせる」のが彼の身上だが、殺し過ぎてその人がいなくなってしまったのである。最後に殺された純子の姪は、純子と恭子が首にコードを巻きつけて絞殺している。純子一人で殺すのは難しかったのだろう。
 恭子は再び逃亡し、警察に保護されて、この空前の(後には、もっと大規模な、尼崎事件がある)犯罪に初めて警察の手が及んだ。捕まった松永と純子は、最初は黙秘を続けたが、やがて松永の恐怖の支配圏内から出た純子が、すべてを告白した。
 判決は、一審では二人とも死刑、控訴審では、純子は一面では、マインドコントロールされた被害者であるという弁護側の主張が認められ、無期懲役となった。松永は上告したが、平成23年12月、最高裁はこれを棄却、死刑が確定した。
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権力はどんな味がするか その4(他者は虚ろな鏡)

2015年11月01日 | 倫理

Robert Altman's 3 women, 1977

メインテキスト : マリー=フランス・イルゴイエンヌ、高野優訳『モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない』(1998年原著、紀伊国屋書店平成11年)
サブテキスト:アリス・ミラー、山下公子訳『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(1980年原著、新曜社昭和58年)

 モラハラ(←モラル・ハラスメント)なる言葉は、高橋ジョージ・三船美佳夫妻の離婚騒動のとき出てきて、少し話題になったが、セクハラ(←セクシャル・ハラスメント)やパワハラ(←パワー・ハラスメント)などと比べても、一般的だとは言えない。間口がやたらに広くて、後二者もこの中に入る場合があるので、具体的なイメージが持ちづらいこともあるだろう。それに、これに当たる言葉なら、昔ながらの日本語がある。人格攻撃、あるいは人格否定、という。
 フランスの精神科医イルゴイエンヌが訴えたのは、それが継続的に行われるある関係性である。家庭や職場のような小社会で、立場の弱い者が強い者から、執拗に、何年も、時には何十年も攻撃される。暴力が揮われるわけではないので(稀には、ある)、見過ごされがちだが、これは極めて重大な犯罪行為である。そこでイルゴイエンヌは、前者を被害者、後者を加害者と呼び、被害者救済のためにこの本を書いた。
 加害者は「自己愛的な変質者」だとされる。他人との共感を求めない。それ以前に、他人の価値を認めない、いや、わからない。他人はただ自己の欲望を満たすためにのみ存在すべきだ。自然にそう感じている。だから、他人が自分に逆らうこと、それも何らかの意味で自分の存在を脅かすまでに至れば、それは明白に悪なのである。
 とは言え、会社の上司か、政治的な権力の持ち主でもなければ、他人に公的に支配力を揮うわけにはいかない。そのような関係を作るためには、まず他人と密接に結びつかなくてはならない。その点、加害者は、一見なかなか魅力的な人間に見える必要がある。

 普通の人々はモラル・ハラスメントの加害者を見ると、羨ましいと思うことさえある。というのも、そういった人々は並はずれた力を持っていて、いつも勝者の側に立っているように思えるからだ。実際、この種の人々は他人を操ることにたけているので、政界や実業界で幅をきかせることが多い(P.22)。

 人を人とも思わぬ傲慢さは、それ自体で力の現れであり、魅力になる場合もある。自分は軍隊時代部下から崇拝されていたが、「それはやつらを人間扱いしなかったからだ」と、J・P・サルトル「アルトナの幽閉者」の主人公は言っている。
 で、相手を魅了して、親密な関係になる、それはつまり、外からは容易に実態がつかめない関係になるということだが、それから加害者はどのようにして権力を行使し、相手を被害者たらしめるのか。ちょっとしたほのめかしや嫌味、あるいは無視を繰り返して、「自分にとってお前は価値がない」という無言のメッセージを伝える。親密な関係の中で存在価値が疑われることは、普通の人にとって重大問題である。
 典型的な手口の一つは、本書の173頁に簡単な例が挙げられている。義母が女婿に簡単な用事を頼んだ時の話である。

「駄目よ。これじゃ」
「どうしてです?」
「言わなくたってわかるでしょう?」
「わかりませんね」
「じゃあ、考えてごらんなさい」


 ここで仕掛けられた罠から逃れるには、とりあえず、「考えてもわかりません。たぶん僕にはできないんでしょう。すみませんが、他の人に頼んでください」と言って、義母から離れるべきだろう。もちろんそうしたら、彼は無能だというあからさまか、隠微な、非難や嘲りが続く。で、なければ、人を平気で無視する心の冷たい男だとか。気にしないでいることは、普通に真面目な人にとっては、かなり難しいに違いない。義母とはもう滅多に、あるいは全く、会わなくても済むならよいが、日常的に、しょっちゅう顔を合わせなければならないとなると。
 そこまで考えたら、たんぶん何気ない調子で言われるこの種の要求が、いかにタチが悪いかわかるだろう。義母は何をどうしろと具体的に指示することはない。責任をかぶりそうな事態はなるべく避けるのが最上。指示の仕方が不適切だったとか、そもそもまちがっていた、などが明らかになったりしては最悪。なんであれ、どうやるかまで含めて、彼に考えさせればいい。不親切じゃないかと言われたら、「そんなの常識でしょ」とか。「あんたは頭がいいみたいだからわかると思ってたわ」などの、お決まりの返し文句がある。自分はただ、なされたことの結果の、裁定者の地位を保てばいい。こんな簡単な策略で、相手に対して優越した立場にいられる。
 これだけならたぶん、ありふれた日常生活での主導権争いと言えるのだろう。私のように、そういうのが鬱陶しくてたまらない人間がいる、というだけで。イルゴイエンヌによると、それも問題なのである。ありふれているので、なんらかの解決や救済が必要だとはなかなか感じられないから。
 いつそれが必要なのか? 相手が自己愛的な変質者だった場合。そして、こちらが、「こんなふうに扱われるのは自分にも何か問題があるのではないか」などとつい反省しがちな、調和型の性格だった場合。それこそ最悪の、加害者―被害者の組み合わせなのだ。
 加害者は、何かのために相手を支配しようとするのではない。自分が満足感を得るためでさえ、ない。人格攻撃は、相手を破壊し尽くすまで、止まない。これは自然な道筋だとも言える。他人を完全に支配するとは、その人を完全に壊すということなのだから。
 また、解決、と言ったが、きっぱりと、完全に別れる以外、どうにかできるのではないかと思うこと自体が危険である。何しろ、コミュニケーションは、形式的表面的なもの以外、全く成り立たない、その意味さえわからない人間が一方の当事者なのだから。それでいて、形式的表面的には、人を信用させる名人なのだから。

 なぜこういう人間が生まれるのか? 精神分析学の定石通り、「加害者」の成育歴の中に、問題の根本があったのだろう、とはイルゴイエンヌも認めている。しかし、そこに詳細に踏み込もうとはしない。そうしたら、いくぶんかは加害者への「共感」が必要になってくるから。あまり知られていない犯罪的な行為があり、救うべき人間(被害者)がいると指摘するのが急務なので、そういうのはむしろ余計、と考えられている。
 たぶん、本書にも何度か取り上げられているスイスの精神分析学者(だったが、後にこの学問自体を批判している)アリス・ミラーなら、それは「闇教育」が生み出す、と答えるだろう。親や教師が子どもを無条件に服従させることだ。改めて考えるまでもなく、子どもほど支配されやすい立場の人間はいない。しかもその支配には、「教育」とか「躾」とかいう美名が付けられているので、誰も、周囲も当事者も、それが悪にもなり得るなどとは思いもよらない。しかし、悪はある。中でも最悪なのは、喜びや悲しみや怒りなどの自然な感情が、「わがまま」として禁じられ、抑圧されることだ。
 この「教育」が成功した場合、子どもは何を学ぶだろう。人間的な感情になど価値はないのだから、それをコントロールすること、即ち、支配する力こそが最上なのだ、と。従って、唯一の正しい人間関係は、支配―被支配関係なのである。
 成長してからは、凡そ二つの道をたどると予想される。
①自分がなんらかの「力」を得られなかった場合。外部の、親に代る力=権威をやすやすと受け入れ、それにすがって生きていくことになるだろう。どんなに理不尽な力でも、いやむしろ、理不尽なほうがいい。親の要求が、およそ理不尽だったのだから。
②力を得た場合、最も剣呑な暴君となる。彼/彼女は他人を支配することを当然とみなすのだが、そこで発揮させる苛烈さは常に過剰になる。他でもない、彼/彼女はそのとき、子供時代に被支配者として受けた虐待の、代償行為、即ち仕返しをしているのだ。
 例えば1930年代に猛威をふるったナチズムは、この頃まで主流だった厳格な教育の、直接の結果なのである。中でも、「世界全体に向けられた」とさえ思えるヒトラーの悪意は、幼い日々に父親から受け続けた精神的肉体的な圧迫を外部へ返したものだ。そして、それを良しとし、さらには憧れさえ抱かれる広範な社会心理の背景があった。そう考えて初めて理解できる。
【私は、ミラーに共感するところは多々ありますが、それは教育や精神分析の欺瞞を暴いた部分です。すべての悪の根源は幼児期の虐待にある、と言うが如き書きぶりは、少しやり過ぎではないかなあ、と感じます。
 もう一つついでに。本シリーズ「その2」で取り上げたエーリッヒ・フロムにミラーは批判的です。彼もヒトラーの幼児体験に言及しているものの、それは僅かで、「権威主義的」なる性向が、内向的とか社交的とかいうのと同じように、自然に存在する(時代状況が生み出しやすくしていることはあっても)ような印象を与えているところが気に入らないようでして。しかしそれを除けば、ミラーのナチズムの心理研究は、フロムを補完するものになっているのではないでしょうか。】
 もちろん、ヒトラーなんてめったにいるものではない。『魂の殺人』で取り上げられているもう一人の、幼児殺害者なら、いつでもどこでも、この日本でも、間欠的に登場するとは言え、数はそんなに多くはない(多くては困りますわな)。では、こういう例外以外は別に問題はないのだろうか? そうではない。支配―被支配の関係及びその反復は、ごく日常的な場に潜んでいる。モラル・ハラスメントという用語を使って、それを明らかにしたのが、イルゴイエンヌたちの功績である。そう言っていいと思う。

 多分次のことは何度も繰り返したほうがいいだろう。モラハラ加害者は、他人の価値がわからない、と言っても、では他人を必要としない、という意味ではない。それなら、社交術に長けるわけはない。むしろ、熾烈に必要としている。本当に価値がないのは、実は自分自身だからだ。

〈自己愛的な変質者〉、すなわちモラル・ハラスメントの加害者は〈他者〉によって満たされる。それがなければ生きていくことができない。〈他者〉は自分の分身でさえない。(それだったら少なくとも一個の存在を持っているからだ)。ただ鏡に映る自分の像なのだ。(P.214)
(前略)加害者はまず、自分の空洞を満たすために被害者に愛を求める。だが、被害者として選んだこの母性的な人物から栄養を吸収し、それを取りこむためには、たとえ萌芽のようなものにせよ、加害者のほうにそれを受け入れるための実体がなければならない。ところが、加害者はそういった実体を持たないので、相手から栄養を吸収することは不可能になる。すると、相手の存在は逆に加害者自身の空洞を浮き彫りにするので、加害者にとっては危険なものとなる。その結果、今度は相手を憎むようになるのである。(P.219)

 自分の「実体」を持つこと、つまり自分自身であることは、幼いころに抑圧されきって終わっている。だから他者(他人と、政治結社など組織的なものを含む)の中にそれを見つけようとする。見つかった、と思えばそこに盲目的に帰依するが、たいがいはだめで、そこで見つかるのは自分の空虚そのものである。それだけで、その他者を憎み、破壊しようとする動機としては充分であろう。
 もっとも、イルゴイエンヌが「加害者」を「自分のイメージを作り出す機械」と呼ぶのは、言い過ぎと言うより、不正確であろう。彼/彼女が全くの機械であるわけはない。どれほど理不尽であっても、憎しみの感情そのものは、彼/彼女自身のものである。また、「被害者」も、機械ではなく、生きている人間だからこそ、改めて機械化し、破壊することに「意味」があるのだ。すべてが人間的な、あまりに人間的なできごとなのである。
 もう一つ、これほどの「変質者」が出てくるのは、ある極端な「教育」のせいであるとは確かに考えられるにしても、そもそもの前提として、現在の個人主義のあり方を考えておくのは、よいことであろう。イルゴイエンヌも、ごく簡単に、そうしている。曰く、現代社会は個人の自由を重んじ過ぎるので、あらゆる規範(言っていいこと、いけないこと、などの)が弱まり、例えば他人への心遣いをどう保つかについても、曖昧になりがちである。半面、個人の「強さ」も重んじられるから、他人に圧迫されがちな「弱い」人はあまり同情されない。そういう場合には、「圧迫を跳ね返すだけの強さを身につけろ」などとよく言われるし、また「被害者」も、助けを求めることは恥ずかしいと思いがちになる。事態をますます悪くする一方、というわけだ。
 これらはいかにも、モラハラがはびこる土壌となる、と言ってよい。が、より自由度が低い、例えば身分制社会にはあった強い社会規範を復活させようとしても、第一不可能だし、第二にそれでも無理やり、例えば政治権力を使って取り戻そうなどとしたら、それこそ闇教育そのものとなり、破壊的な事態を招くだろう。
 そして第三に、ではなくてむしろもっと以前に、こういうことを考えるなら、根本的に押さえておくべき事情がある。個人主義の時代だからこそ、明らかに見えてきた、個人の空虚。個人は何かに支えられなければ成り立たない。なのに、それを忘れたような顔をしなければ、個人主義ではないように思えるところが、最も困るのである。うまく忘れられなかった場合には、他者の中に支えを見つけようとする。すると、見つかるのは、自分が空虚である証拠ばかり。そこで、他者を憎むようになる。
 以上はイルゴイエンヌの作った精神分析話の、私なりの言い換えだが、こう考えると、個別特殊な事例である「自己愛的な変質者」より広い見地から、問題を捉えることができるだろう。我々は自己―他者関係の最中に爆弾を抱えているような時代を生きている。完全な解決策など見出し難いのだから、まずは問題の困難さをじっくり見つめておくべきではないかと思う。

【上に一場面を掲げたロバート・アルトマン監督「三人の女」は、モラハラそのものを扱った作品ではないですが(「的」なものはあります)、現代人の空虚、他者への渇仰と反発、模倣と分裂、そして罪を介したうえでの結合、といったテーマをスクリーン上に描き切った傑作です。最近DVD化されたのを知り、久しぶりに見てみたら、気分的に、今回の記事にぴったりだと感じました。】
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