由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その1(アポカリプスより出でて)

2014年07月09日 | 文学
メイン・テキスツ:日比野啓「『解つてたまるか!』を本当の意味で解る為に―福田恆存の「アメリカ」」(遠藤不比人編著『日本表象の地政学 海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』彩流社平成26年所収)
岡本英敏『福田恆存』(慶應義塾大学出版会平成26年)


「ホレイショー日記」の最後に描かれるアイルランド海の景観

 福田恆存は、若手の保守派言論人の中で神様扱いされている、と最近急逝した宮里立士氏からうかがったことがある。無知な私は、「へえ、そうですか?」と驚いたものだ。気がついてみると、なるほど、福田の名を冠した著作だけでも相当な数に上る。今年になってからも、岡本英敏氏の著書があった。
 また、日比野啓氏からは、御論が収録された本を贈っていただいた。短いお礼のメールを差し上げると、お返事の中に、「執筆中から由紀さんに読んでいただきたいという思いで書いていました。もっと正直にいえば、今どき福田恆存の読み直しを提唱しても、五、六人しか「きちんと」読んでもらえないだろうという諦めの気持ちで書きました。そのうちのお一人が由紀さんであることは言うまでもありません」とあって、まことに恐縮した。
 こうまで言っていただいて黙っているわけにもいかない、とは思っても、現在の私には、他人と論争するほどの気構えで、福田論を展開するだけの力はない。とりあえず、日比野氏や岡本氏の尻馬に乗る形で、言えそうなことだけ言って、一応の御挨拶とし、あとは、またぞろ、他日を期そうと思う。
 それにしても、影響を与え合っているわけもないお二人をひとくくりにしてしまっては失礼ではないか、と言われるかも知れない。そうする理由は一応ある。両論とも、昭和43年の戯曲「解つてたまるか!」を重大な作品として扱っている、というか、日比野氏の論は題名にもあるように、この作品論である。一方岡本氏は、同作を「福田における批評活動の集大成」と呼び、御著の最後に取り挙げて締めくくりとしている。私自身は、「解つてたまるか!」を中心にして福田を考えようと思ったことはないのだが、それだけに、新鮮な見方を教えていただいたと感じている。

 言い遅れたが、私は福田恆存先生に私淑した者である。現代文化会議の佐藤松男氏に連れられて、お会いしたことも数回ある。とは言え、懇意にしていただいた、などとはまちがっても言えない。福田先生から見たら、私など、何人かの学生のうちの一人に過ぎなかった。「弟子だ」などと言えば、明らかな僭称になる。
 まあ勝手に心酔していたに過ぎないわけだが、もう少し細かく言うと、大学生時分の私は、「一匹と九十九匹と」(昭和22年作)、それから「人間・この劇的なるもの」(昭和31~32年作)に特に惹かれた。これらの著作に、日本における個人主義追求の、あるいは個人追及の、最良の形を見出した、ような気になったのだ。
 昭和25年の評論「ロレンス」(『哲学講座 第五巻 哲学と文学』筑摩書房刊所収。現在は「ロレンス Ⅱ」として、『福田恆存全集 第二巻』所収)の冒頭にはこうある。「ロレンスは近代ヨーロッパの生んだ徹底的な個人主義者である。徹底的な個人主義者であるがゆゑに、かれはその限界を痛切におもひ知らされ、それを打破しようとするこころみに全生涯を賭けずにはゐられなかつたのだ」。
 この言葉はそのまま福田恆存の全生涯にわたる文学的な立場の、最も大きな部分を現わしているであろう。個人を確立すること、それは個人の限界を知ることと別ではない。日本の場合には、そこにまた独特の問題が加わる。それからして福田の文章の、一見逆説に満ちた独特のスタイルが生みだされる。そのように私は理解している。
 以下、敬称はすべて略させていただきます。また福田のテキストの引用は『黙示録論』関連以外は文芸春秋社から昭和62~63年に刊行された『福田恆存全集』によるものとし、出典は『全集+刊号』で表記します。

 今更めくが、福田恆存の出発点にはデイビッド・ハーバード・ロレンスが、なかんずくその最後のまとまった著作であるApocalipseがあった。福田は昭和16年にこれを訳して、白水社から出版する予定で校了までいったが、日米戦争が始まり、日の目を見なかった。タイトルを『現代人は愛しうるか』として改めて同社から上梓されたのはちょうど十年後の昭和26年。その後出版社とタイトルを変えた刊本が数種あり、現在は『黙示録論―現代人は愛しうるか』としてちくま学芸文庫に入っている。
 同書は、よく知られた名著、とは言えなくても、20世紀の古典としての評価はもう定まっているとは言ってよいだろう。福田自身は、「(前略)私はこの書によつて眼を開かれ、本質的な物の考へ方を教はり、それからやつと一人歩きが出来る様になつたのである。そして、この書の表口から旅立ちした私は、その後四半世紀を経た今、その裏口に辿り着かうとしてゐる様な気がする」と昭和40年の筑摩叢書版の前書に記し、また昭和62年の「覚書 二」(『全集二』)では「だが、私自身の課題となつた例の二元論、集団的自我と個人的自我の問題が、亡霊のやうに様々に姿を変へて私の心に立入り、「あヽ、またお前に出遭つたな」といふ思ひを、始終くりかへしてゐた。それは一生私に付纏ふであらう」などと書いているように、それは正に「生涯の一冊」であった。
 以上は、多少とも福田に親炙した者には、周知のことである。従って、これについては直接同書に当たってください、ですませてもよいように思うが、やはり一応、それはいかなる地点であったか、私なりに確認せずにはすまない気がどうしてもする。

 イエス・キリストは、長年にわたって虐げられてきたユダヤ民族に、専一に仕えるべき神の王国を教えた。現実にはこのときのユダヤ人はローマ帝国の支配下に置かれ、その頸木から逃れることはできなかったのだが、現世での支配―被支配とは全く別次元にある世界こそ人間にとって根本的であり本質的であるとするならば、支配そのものが相対化される。
 と、言うと、宗教とはこの世で報われない者たちが、せめて来世では、と希望をつないだり、社会的強者に対して、「しかし精神的には俺のほうが上なんだぞ」と嘯いてせめてもの慰めとする、「ごまめの歯ぎしり」「負け犬の遠吠え」に過ぎないものだ、と思われそうである。実際、キリスト教が世界宗教へと発展していくうえでは、このような、ニーチェのいわゆるルサンチマン(怨恨、嫉妬)の感情に訴えたところが大きかったろう。近代日本におけるその様相については以前に略記した。そして、新約聖書中の黙示録(アポカリプス)とは、ユダヤ民族全体のルサンチマンの、爆発的な表現であった。
 おそらく、ルサンチマンから完全に離れたところに宗教はない。「クリスト教の愛の教義は、そのもっとも純粋な姿においてさえ一種の逃避であった」(『黙示録論』)とロレンスも言っている。それでもイエスは、一心に神を見つめる自己、言い換えると神の前で「自分とは何か」と問い続ける自己があり得ることを言葉と行動で示した。これが純粋な自己、「個人的自我」であり、神と、個人としての人間の、両方の尊厳を成立せしめるものであろう。
 しかし、繰り返すことになるが、この世の中にそのような「個人」を具体的にあらしめようとするのは、絶望的に困難な課題である。「人は己れの本性のほんの一部においてのみ個人たりうる。他の大きな領域においては、人は集団である」、と「黙示録論」には書かれている。個人が求め、個人が出会うべき神も、すぐに集団に組み込まれ、何かしら別のものへと変質してしまう。
 例えば、「栄華を極めたるソロモンだに、その服裝(よそほひ)この花の一にも及(し)かざりき」と言えば、権力者の虚飾に対する自然の飾らない、ゆえに真実の、美しさ、という対立構図が浮かび、前者に優越するものとしての、神の栄光が語られることになるだろう。この、劣等感をそっくり裏返した優越感は、前者に対する暴力的な復讐感情と支配感情をも正当化する。現在に至るまでのあらゆる革命が、このようにして準備されてきた。
 のみならず、ここが一番の問題だと思えるのだが、黙示録が描くような、神に選ばれた民の復讐・勝利・支配が完遂された暁には、純粋に個人的自我は、不用どころか、むしろ有害なものとして圧迫される。それは、神に直接従属することで、その他の何者にも支配されざる自己を主張するからだ。それがあり得ると考えただけで、革命の正義もまた、相対化されざるを得ない。革命ばかりではない。ごく普通の社会や国家からみても、どちらかと言えば邪魔者であろう。「いずれにしろ、純粋なクリスト教精神なるものは国家、あるいは一般に社会というようなものとは絶対に相容れぬ存在である。大戦【第一次世界大戦】の結果これはあきらかな事実となった。それは個人にのみ適応しうるものである」とロレンスは言っている。
 イエスは、ローマ帝国との直接対決を避けたからでもあったろう(それをやれば教団自体が潰されるに決まっている)、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」返せ、として、上の対立構造からは可能な限り自由であろうとした。かくして、社会で、他者との関わりの中で生きねばならないので、必ず幾分かは他者との対比におけるコンプレックス(インフェアリアリティとシュペアリアリティの双方)を抱えねばならぬ人間心理、ロレンスの言う「集団的自我」の問題は、手つかずのまま残された。
 
 福田恆存の昭和22年の評論「近代の宿命」(『全集二』)は、集団的自我/個人的自我の二項の相乗・相克という観点からした、西洋思想史の概説を試みたものである。ここで前者は「支配=被支配の自己」と、後者は「神に従属する自己」あるいは「理想的人間像」とも言い換えられる。さほど長い文章ではないが、ロレンスが提出した人間観の応用編としては、おそらく最も大規模なものであろう。のみならず、書いた本人に「晦渋」(「覚書 一」)だと言われているこの評論の要旨をここで述べようとは思わない。ただ、中世以降の西洋思想家たちは、上の問題を等閑視したイエスの尻ぬぐいを、さまざまな形でさせられてきた。今でも彼らはそこから自由ではない以上、「神」を抜いた西洋などは考えられない、というのは基本線にある。
 一応注記しておくと、中世における神の概念が、近代でもそのまま残っている、ということではない。神の代理人たる教会の権威が低下し、「神の支配」の実感も薄くなった現在でも、一度見出された純粋な自己=「個人的自我」への渇望は残る、それは何をよすがとすべきか、問われる結果、例えば数多くの偽の神(各種のイデオロギーを含む)も登場する。そこで真に依るべき「神」はいかなるもので、いかなる経路を通ってそこに至るべきか。ざっとこのような形で、個人の問題は必ず神へと道を通じている、と言えるのである。

 今回は、上に関連して、晩年の福田恆存が示唆した奇妙な課題について触れるのが最初からの目標だった。我ながら、前置きにずいぶん手間を食ってしまったが、しかたない。
 課題とは、たぶん昭和62年頃書かれた「覚書 二」の最後に福田が言った「暗合」のことである。(1)評論「近代の宿命」、(2)昭和24年の小説「ホレイショー日記」、(3)戯曲「解つてたまるか!」、の三つには非常に似通った箇所がある、そのことに、全集で読み返すまでは著者自身が全く気づかなかった、と言われている。それでいて、その真意はいったいなんなのか、「私といふ人間の本質にかかはつてゐるかも知れない」などという以外は、曖昧なままである。
 私は、ごく単純なタチなので、本を読むときには著者が積極的に示したがっていることのみに対応したく、「作者自身が気づかなかったこと」なんぞは相手にしたくないのだが、その著者がこう言っている、だけではなく、最近の岡本英敏を含めてけっこう多くの人が「暗合の解読」に挑んでいるようなので、ガラにもなく絵解きをしたくなった。と、言うか、何も事々しく「解読」などと構えるべきことではない、と思う。できればそれを明らかにしてみたい。
 さて、そこで件の三カ所だが、これは全部を引用するには長すぎる。興味のある人には、それこそ現物か、あるいはせめて「覚書 二」に当たっていただくことにして、私なりにまとめた要点を以下に記す。

(1)レオナルド・ダ・ヴィンチについて、「神にとつて神学も形而上学も倫理学もことごとく不要である。かれはただ自然に対し、自然と二人きりで存在する――いふまでもなく人間もその自然物のひとつとして」と言われる。この引用中二つ目の文の「彼」はレオナルドその人を指すのか、前文を受けて神を指すのか、やや曖昧だが、要するにレオナルドこそ神に最も近く、ゆえに神を必要としなかった人物だとされている。
 そこで当然レオナルドには個人的自我/集団的自我の二項対立という問題もなかった。支配―被支配の関係から成る、また別の側面では人間同士の黙契とそれへの裏切りで動くいわゆる社会など、第一の関心事にはなり得なかったから。彼の前にある、それ自体の恒久的な法則を備えた自然と、その法則をあくまで極めんとする彼自身の理性と、その二つがあれば充分。後世のいわゆる近代合理主義者でも、この域にまで達した者は稀である。

(2)の主人公はデイヴィッド・ジョーンズという名の、「ハムレット」を演出すると同時に、ホレイショーを演じるイギリスの舞台人である。ホレイショーは、シェイクスピアが創造した中では個性に乏しい人物だが、ハムレットの親友として、その事績を記録して後世に伝える仕事を託される。だから、いつもずっとデンマークの王子を見つめ続けている。その目には、具体的にはジョーンズが演じるホレイショーには、密やかな悪意がある。フランス人の劇評家にそれを看取されるところからこの小説は始まる。
 見る悪意。シェイクスピアはこの世にそういうものがあることを知っていたろうか。そうだとしても、そんな人物を中心にして劇はふつうは作れない。小説ならば、サルトル「嘔吐」など、行動よりは意識が問題になる作品は、20世紀には書かれていた。
 ジョーンズは、徹底した意識家であろうとする。だから、「わたしの念願は自分の生活からあらゆる偶然性を排除することにある」と言う。が、そうであるがゆえに、そんなことは不可能であることもよくわかっている。「行動の世界では、他人の協力と理解となくして、己れの企画は絶対に実現しつこないのだ。我執は必ず裏切られる」。
 この小説中の主な「事件」が、この言葉の実例としてある。舞台の外で、ハムレットを演じる役者とオフィーリアを演じる女優と、そしてホレイショー役の彼との間に三角関係の情痴沙汰が持ち上がる。ジョーンズは好んでそうしたのか、ある種の「必然の力」がそこに働いたのか、いやそもそも必然などというものがあるのか。問いは空転するばかりで、思い通りにならぬのは、他人よりもっと、自分自身なのだと痛感させられることになる。
 そればかりではない。この小説の全部が、以上のようなことを連綿と記した彼の日記という体裁なのだが、彼には体の弱い妻がいて、他の女への欲情をあからさまに記した部分まで、読んでいる可能性がある。彼もそれは予想している、いや、いくぶんかは、望んでいる。【このへんの構造は谷崎潤一郎「鍵」を思い起こさせるだろう。福田は、「谷崎の初期と後期はくだらない」と言っているのを聞いたことがあるが、新聞小説「謎の女」以外では唯一の小説を書く上で、昭和21年に発表された谷崎の小説をまるっきり意識していなかったとは考えづらい。しかしこれは、作者が積極的に明らかにしようとしたことではないので、これ以上の詮索はしない。】
 即ち、ジョーンズもまた観客を必要としている。レオナルドは、ほとんどそれを必要としなかったように見えるところが神的なのである。彼が遺した膨大なノートも、他人のために書いたものではないようだし。絵画は見る人がいなければ成り立たないだろうと言われるかも知れないが、制作と鑑賞の間にタイム・ラグがあって、制作中は自分以外の「見る者」のことは忘れることができたのではないだろうか。
 この点役者はまるで条件が違う。彼らが舞台上でハムレットやオフィーリアであるためには、観客の最低限の同意が要る。善意であれ悪意であれ、他者の視線がないところでは、彼らは何者でもない。いわば「集団的自己」しか生きる場所はない。もっとも、観客の目を飛び越えてやってくる神の視線を感じることができるなら、話は別かも知れない。芸能の発生は、西洋でも東洋でも、神への捧げ物であったとされているし。しかし、近代の職業的な演者にそこまで戻れ、と言っても無理な注文であろう。
 「ホレイショー日記」の最後は、妻と連れだって海岸へ散歩に出かける主人公を描写している。ラジオからはシンガポール陥落のニュースが流れてきて、彼は急に愛国心に目覚める。徹頭徹尾自分のことしか考えていないようなこの男にも、共同性が少しはあったことの証なのだが、より身近な、妻との間には何の変化もない。実際、何もなかったのと同じことだ、「悪意をもって見る者」の自意識の空回り以外は。眼前のこの風景のように。枯枝の間の空気は澄んでいる。山の麓では青年たちがフットボール(イギリスだからサッカーのことだろう)に興じているが、その喚声も熱気もここまでは伝わってこない。
 福田が、「近代の宿命」のレオナルドと暗合している、というのはこの箇所である。「あの林の枯枝のからみあひには、なにか静止のリズムとでもいつたやうなものがある」。フットボール競技も、これだけ離れて見ると、ただ物理的な、非人間的な運動のようだ。「愛も憎しみも、悔いも嫉みも、あらゆる情念を完全に拒絶してしまつた物体のメカニズム――あヽ、いつか、さういふ世界が、この地上を、すべて覆ひつくす時がくるやうな気がする」。
 それ自体の理法によってのみ動く世界(=自然、か?)と、それを見つめる自分。それ以外には何もない。ここには純粋自我の究極の姿があるのだろう。しかし、それもまた夢想である。レオナルドの天才が我々にはないからばかりではない。科学も、しょせんは人間に属するものであり、完全な唯一無二の真実を与えるようなものではないことは、21世紀に住む我々にはもうわかっているからだ。

 それはともかく、「黙示録論」以来の福田の読者を少し戸惑わせるのは、上のような境地は、「吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打毀し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打樹てることである」というロレンスの結語とはおよそ相容れぬ世界が描かれていることだろう。我々はその大部分の意識と時間において、集団的自我として生きねばならぬ者である以上、個人としてはなんら自律性のない断片であるしかない。我々が全体性に到達するためには、国家とか社会とかを越えた生命の根源へと立ち帰り、生命の流れに則った紐帯(blood intimacy)を回復しなければならない、とロレンスは説く。一方、レオナルドが見たとされ、また「ホレイショー日記」に描かれているのは、まるで生命を含まぬ世界である。
 おそらく福田には、後者に傾く性向はあったのだろう。しかしそれは、自我の至りつく一つの極限として提出されているのであって、目指すべき理想郷などではあり得ない。
 ロレンスの神がかりな生命観についてはどうであろう。福田は、「人間・この劇的なるもの」や「祝祭日に関し衆参両院議員に訴ふ」(昭和41年作)で、季節の移り変わりに代表される自然の変化に応じた生命のリズムは、現在でも我々の生を根本から律するものとして重要である、それを認識せよ、と説いてはいる。私見だが、ロレンスへの同調は、ここまでではないだろうか。性を通じて生命の根源に至れ、というようなロレンスの主張に、言葉の上でならともかく実感のレベルで同感できる人間がどれだけいるだろうか。「ロレンス Ⅱ」で福田もこう言っている。「仮説としてかれが設定した異教的宇宙観やアニマリズムの内容については、ここにぼくはあへて解説を怠つた。なぜなら、ぼくにとつては、それらの仮説よりも、それらを設定したロレンスの精神に関心を持つからであり、ロレンス自身をひとつの仮説と見なすからである」。
 ロレンス自身が実際の友情や性愛については失敗を重ねて生きねばならなかった。どのような理想や極限を見据えようと、それがいつも変わらぬ人間の、偽らざる姿というものだろう。だから、「ホレイショー日記」の最後に、上で見た静止のリズムの後で、ジョーンズが次のように述懐するのは、平凡な人間として、深い共感が持たれる。

 小道を下りながら、私は心の中で獨り呟いてゐた。――存在するものにいいもわるいもありはしない。在るものは在るのだ。そして唯一の真実は、在るものが在ることによつて時間は永遠に流れるといふこと、それだけにすぎぬ……。いままでわたしはわたしの存在を許し認めることができなかつた。いや、いまだつてさうだ、いまだつて、わたしは自分を認めることがどうしてもできない。わたしは――わたしは人を真に愛することができぬ、一度も、誰をも愛したことがない、さういふ人間がどうしてこの世に自己の存在を主張しうるだらうか……。思はず、わたしの唇から”My heart is sad, sad unto death.”といふ呟きが洩れて出た。わたしは神を求めてゐるのだらうか。が、神ありとすれば、一匹の仔羊が「人の子」の言葉を口にする傲慢を、どうしてそのままに許すであらうか。(『全集八』)

 「黙示録論」の日本語訳に与えられた「現代人は愛しうるか」というタイトルは、「愛し得ない」とするロレンスの見解から来る。集団的自我の世界に生きる個人は、愛する、という以前に、他人と関わろうとすれば支配―被支配の構造から自由になれない。だから、相手の人格を充分に認めた上で、その人を、その人との関わりを大切にする、なんぞというのは、言葉でしかない、と。また、そういう自分自身を、本当の意味で尊重することも、何人もなし得ないであろう。それでも。
 それでも、人は生きていく。「わたしはわたしの義務を果たさねばならぬ……」というのが、「ホレイショー日記」の結語である。これもまた、福田恆存の人間観として重要なところだと思う。しかし今は、先に提出した問題を辿らなければならない。

 (3)は喜劇なのだが、およそ喜劇的とは言えない終わり方をする。ライフル魔村木は、二人の男を射殺し、泊り客十二人を人質として、高級ホテルに立て籠もる。その後射撃の腕と独特の弁舌によって、警察・マスコミ・文化人・過激派学生らを翻弄し続けた挙げ句、原爆を持っていると脅して、半径20キロメートル以内からずべての人間を退避させる。以下は、一人ビルの屋上に残った村木の、最後の科白の最初である。

 誰もゐない。人間の匂ひが少しもしない、町は死んでゐる、清潔な廃墟だ、そこへもう直き日が昇る、お日様はさぞ喜ぶだらうな、自分の放つた光の箭(や)の中に生き物が一つも無いなんて、自然が長い間、待ち焦がれてゐたのはさういふ世界なのだ……。うむ、やつと解つたぞ、俺が待ち望んでゐたのもそれだつたのだ、(『全集八』)

 なるほど、前二者に似ていると言えば似ている。しかし、私には違いのほうが大きいように思える。(1)では、およそ人間の意識など問題にしないレオナルドの自我は、きわめて安定している。(2)では、「いつか、さういふ世界が……くるやうな気がする」と夢想する自我は空虚である。人間世界でいろいろやった、いや、やろうとした挙げ句に、空虚に改めて気づかされたのだ。(3)の村木は、小説ではなく劇の主人公で、認識者であるよりは行動者である。荒唐無稽な喜劇の筋立ての中でだが、彼は世間(日本的な社会)を一時的に荒廃に導いた後で、やはり空虚な自我に突き当たる。上の科白よりは、その直前の、以下のもののほうが、彼の人物像を刻んだものとしては重要であろう。

俺を除け者にし、物の数にも入れてゐなかつた世間といふ巨人を叩き殺して、俺の方が奴よりもずつと強いのだといふ事を思ひ知らせてやつた瞬間に、俺は一人ぼつちになつてしまつた。思ひ知らせてやらうにも、その相手が何処にもゐはしない……。

 ここでは正確に、勝利がそのまま敗北になっている。世間、それを支える集団的自我の根本的な頼りなさを暴いて見せたら、彼自身の自我の置き場もどこにもなかった。順番から言えば、人は人と人の間に生まれ育って人となるのであって、集団的自我がないなら、個人的自我もまた、ありようがない。世間が、確たる根拠のない曖昧なものだとすれば、自我もまたそうであり、世間が不潔だとすれば、そう見ている自我も不潔なのである。そんなものが去った廃墟こそ、確固としていて清潔ではあるが、すると、それを見ている彼の目は、余計な夾雑物でしかないことになる。この世界は、レオナルドの「自然」と違って、見られることを予定されてはいないし、神へと至る通路もない。何もないからこそ、完璧なのだ。邪魔者はただ一つ。で、村木は彼自身を消去する。
 この劇の結末部分に対して、大笹吉雄が、原爆についての村木の与太話を人々が信じるところなど、全く現実味のない絵空事で、この作品は「蜃気楼の戯曲」だ、と酷評しているのを、今回日比野啓のおかげで初めて知った。しかし、ここでリアリズムを持ち出してなんになるのだろう。先に挙げたロレンス評を借りるならば、村木の生死は一種の仮説であり、思考実験なのだ。論理の筋を通すために、「本当らしさ」は等閑視されたのであって、福田が提出した自我の、観念上の極限のドラマに興味が持てないのであれば、この劇は見ないほうがいい。
 一方、岡本英敏は、「これら三作品においては、断片にすぎぬ自我が生を回復してゆく道筋が直接に取り出されて」いる、と言う。一応そう言える、が、「直接に」ではない。岡本はここでロレンスからの影響のみを問題にしているのだが、福田恆存はシェイクスピアの優れた翻訳者でもあったことを忘れてはならない。「解つてたまるか!」の最後は、明らかに悲劇の原理が応用されている。
 即ち、村木の敗北の必然性が重要なのである。「ホレイショー日記」に描かれているように、我々は普通は、どんなに目を凝らしても、必然の姿は見えない。それが、我々が断片に過ぎないことの、もう一つの証拠である。そんな我々のために、日常から離れた劇がある。中でも悲劇のヒーローとは、超人的な行動力で自らの宿命とぶつかり、不可避的に破滅していく者たちである。我々はそこに、間接的に、必然を垣間見る。そして、全体性がいくらか恢復されたような感興を得る。福田が「人間・この劇的なるもの」で述べたカタルシス論の応用は、そういうことである。
 ただ、それで能事足れりとするにしては、日比野が指摘するように、この戯曲は様々な要素が詰め込まれ過ぎている。それについては、改めて考察しなければならない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする