由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

悲劇論ノート 第5回(アンティゴネ・メディア)

2015年10月02日 | 

Medea, 1969, directed by Pier Paolo Pasorini

 悲劇の中の女性たち。これはけつかう難問である。悲劇は本来男性原理に基づく、といふことはつまり、そこで偉大と呼ばれるものは、明らかに男性の属性であると考へられてゐる。男は、理想的には、運命に翻弄されながらも、能動的に動くべきである。いかなる過酷で無慈悲な運命であらうとも、それを「自分自身のもの」であるとして引き受ける。これがヒーローなのだ。
 女性は、本来受動的なものとされ、「運命を引き受ける」ことは原理的にできない。だからまた、悲惨な境遇になつても、ただそれを嘆くことしかできない。さうみなされてゐる。ひとまづさう言つていいであらう。
 だが、悲劇作品の内部に限つてみても、これで終はれるほど話は単純ではない。人間世界そのものがさうであるやうに、悲劇もまた、男だけで構成されるわけではないからだ。

 女とは子どもを産む性である。これが「女性問題」と呼ばれるものの、太古から変はらない根源であらう。他の動物以上にこのことが、ときにやつかいになるのは、有史以来、人間が家族共同体を作つて生活してきたからだ。それは圧倒的多数の場合、血縁を紐帯の根拠とする。
 血縁に基づかない親子関係、日本でいふ養子が、どのやうに行はれ、どのやうに制度化されてきたか、人類史上の多様なヴァリエーションを私はほとんど知らないが、だいたいにおいて、それも血縁関係をモデルとしてきた、とみなしてよいのであらう。
 さうであれば、「誰が誰の子どもか」は、常に決定的な重要事とされてきたのもごく自然である。さらに理由を挙げるならば、それはまず個人が人間世界で生きるときの、「自分自身」についての根拠、いはゆるアイデンティティの初源になる。次に、それとうらはらに、親―子関係は、最初の人間関係として、様々な人間関係から成る社会の、秩序の根本となる。
 オイディプス神話が、今でも衝撃力を失はないのは、正に後者の理由からである。ある男が、一人の女の子であると同時に夫。ある子どもたちの父であると同時に兄。このやうな関係性の混乱を目の当たりにすると、我々は自分たちの足下が完全に掘り崩されたやうな感覚を味ふ。しかもこれは、物理的に不可能な話ではない。
 母子相姦によつて子どもが産まれることは実際には稀であるとしても、正式な夫ではない男の子(即ち、家族外の子ども)を産んで、家族の正当性を脅すことなら、簡単にできるし、またなされてきた。女は、子どもを産むことによって、人類を未来へとつなげるが、その同じ能力で、社会秩序の破壊をもたらすこともできる。
 男の中に潜む女への根深い恐怖感はここに由来する。あらゆる文明で、インセストタブーが、さらにその中でも母子相姦が最も強く禁止されてきたこと、またたいていの文明で、女性の「貞操」こそ最も強く守られるべき徳目とされてきたこと、などはその結果であらう。
 後者の場合、「守る」主体とされるのは女である。少し考へれば、フェミニストならずとも、その不条理には簡単に気づくだらう。女だけで不貞が働けるわけはない。男は女に、「汚れなく」生きることを求めながら、一方で、女を「汚さう」とつけ狙ふ者でもある(ついでに言ふと、この二者の相克と相乗の効果によつて、男の欲望は亢進するやうになつてゐる)。それでゐて「汚された」女は、恥づべき(誰に対して?)存在とされる。
 ただしこの欺瞞は、あながち男を利するものとのみ見るのは当たらない。「弱き者よ、汝の名は女なり」とハムレットは言ふが、本当に弱いのは男のはうである。子どもの父親は本当は誰か、確実に知る手段は男にはない。それでゐて、そこに基礎を置く「家の秩序」を守るやうな顔はせねばならぬのだから。
 即ち、自分には最終決定権がないものを、どうにかしよう、せねばならぬ、などとあがくところが、弱さになる。男性原理とはざつとそんなものであり、悲劇が発生する源の一つはさういふところにある。

 オイディプスの母にして妻でもあるイオカステは、彼より一歩先にことの真相を知り、知つたとたんに自害してしまふ。残された男は、一人で過酷な運命と向き合ひ、死に所を求めて各地を放浪する。
 彼は最も汚れた者だからこそ、忌避されるのと同時に神聖視もされる。この有様を描いたソフォクレス「コロノスのオイディプス」では、かつて予言に翻弄されたこの男が、自分の子どもたち(であると同時に兄弟姉妹)に恐ろしい予言をくだす。テーバイの王家の悲劇は、まだ続く。
 オイディプスとイオカステの間には、四人の子どもがあつた。二人の息子と、二人の娘。オイディプスの追放後、彼が予言したとほり、息子二人のうちどちらが王位を継ぐか、争ひが起きる。民衆を味方につけた次男エテオクレスが長男ポリュネイケスを破つて王となるのだが、これを不服とするポリュネイケスは、アルゴスの王と結び、軍を起こして、都市国家テーバイを囲む。
 攻防戦の最中、兄弟二人は、自ら剣を取つて城外で切り結び、相討ちになつて、ともに斃れる。戦そのものは、テーバイがすんでのところでアルゴスを撃退して、終はる。
 この後テーバイ王となるのは、イオカステの弟クレオン。彼は「オイディプス王」の中で、王位を窺つてゐるのではないかとの嫌疑をかけられると、自分は王族として尊敬を得てゐるのに、王者のやつかいな義務は免れてゐる、なんでこんなけつかうな身分を自ら捨てるものか、と反駁してゐた。これは彼自身に関する的確で、悪しき予言となつた。
 王としての彼が最初にやらなければならなかつたやつかい事は、苛酷な命令を下すことだった。王家の兄弟二人のうち、エテオクレスは現に王であつたのだし、国を守るために死んだのだから、鄭重に弔はれなければならない。一方ポリュネイケスは、反逆者なのだから、名誉ある葬儀など行はれてはならず、死骸は、テーバイの城壁の外にそのまま捨ておかれるべきである。元は王子であつたといふ彼の出自は、この場合処置を緩和する理由にはなり得ない。かへつて、王者の義務を蹂躙した者として、重く処罰されるべきであらう。
 よつてまた、禁令を破つて、ポリュネイケスを慰霊しようとする者があるなら、直ちに死罪とされる。
 この布令に真向うから逆ふ者が現れた。ポリュネイケスとエテオクレスの妹アンティゴネ。彼女は、ポリュネイケスの骸の上にいくつまみかの土をかけることで、彼を悼む気持ちを示した。この簡素な行為によつて、また、アンティゴネは西洋文芸史上最も有名な女となつた。

 アンティゴネの動機は、彼女の行為と同じぐらゐ簡明である。家族のうち誰かが死んだとき、これを埋葬するのは、太古、神々によつて定められた掟である。その後に人間社会に生じたいかなるものも、国家でも、やめさせることなどできはしない、と。
 クレオンはなんとか姪を説得しようとする。国家に対する忠誠心を発揮した者と、反逆者を同じやうに扱ふならば、国家は保たれない。国家からの命令が簡単に破られるのを見逃しても同様。彼はさらに、さうであるからこそ、国家は外敵から国民を守ることができるのだ、と付け加へてもよかつたであらう。
 因みにこれは、現在の民主主義国家でも充分に通じる論理である。例へば、日本の刑法のうちで、刑罰が「死刑又は無期懲役」ではなく、ただ「死刑」だとだけ書いてある罪、つまり、これに該当すると裁判所が判断したら、自動的に死刑が確定する、最も重い罪はなんだかご存知だらうか。それは第八十一条の、「外患誘致罪」。「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」。これこそが、国家に対する最大の裏切り行為だと考へられるからだらう。
 ポリュネイケスのやつたことは正に外患誘致であり、現代日本でも最高の重罪とされる。クレオンは、特に頑迷な君主と呼ばれるべき者ではない、といふことだ。
 しかし、彼にはアンティゴネを納得させることはできない。当然であらう。彼女は、クレオンにも、彼が体してゐる国家正義にも、好んで敵対する者ではない。それとは関係ないところで、「家族」を成立させようとする者だ。その結果彼女自身がどうならうと、国家がどうならうと、そんなことは二の次の関心事でしかない。
 国家は彼女を罰することなら簡単にできる。しかし彼女に罪を認めさせることはできない。アンティゴネとクレオンの拠つて立つ原理は、元来全く次元が違つてゐるのだから。

 ソフォクレス「アンティゴネ」で最後に登場する彼女は、死を賭して掟を守る女丈夫ではなく、石室に幽閉されることになった自らの運命を嘆き、テーバイの民の同情を乞ふ弱き者、即ち「女」、になつてゐる。その果てに、自ら縊死する。
 この最期とは関係なしに、彼女の名は、父オイディプスと並ぶほどに、ある象徴として、人々の胸に残つた。象徴の具体的な意味は、時代により場所により違つてくるとしても、中心にあるのは常に「家」そのもののイメージであらう。東洋人も西洋人も知つてゐる、郷愁を誘つてやまない懐かしの我が家。アンティゴネが守らうとし、つひに彼女自身がその化身とも見られるやうになつたのは、まちがひなくそれである。

 家族の原理と国家の原理の対立について、少し詳しく考へておいたほうがいいだらう。国家とは人工物であり擬制だが、家族は自然な共同体だと思はれがちなことは。
 間違ひだと言ふつもりはないが、これは比較相対した上での観念である。共同体である以上、どちらも、人々の手で作られる。さうであれば、人が壊すこともまた、できる。
 だから、最小の共同体であつても、保ち守るために、それ自体の論理と倫理が必要とされる。それが常にその成員個々にとつて都合のいいやうに働くとは限らない。即ち、家族がその存続や体面のために、成員のうちのある者に犠牲を要求することもある。
 エレクトラは、母の父殺しによつて損はれたアトレウス家の正義を回復するために、母殺しを弟オレステスに要求する。その母クリュタイメストラは、夫アガメムノンが、長女イピゲネイアを殺したことの復讐をしたのだ、と主張してゐる。
 トロイ遠征の最初、海がずつと荒れてゐて、軍船を出すことができなかつた。ギリシャ連合軍の総大将であるアガメムノンは、その責任から、海神ポセイドンを鎮めるための人身御供として、自分の娘を差し出したのだつた。これがアトレウス家の悲劇の発端であり、後は家族内部で、復讐の連鎖が続いたのである。
 「アンティゴネ」の場合と同じく、ここでもきつかけは国家(的なもの)の公と家族の私の対立だと言へる。それに第一、悲劇の主要登場人物は王侯貴族、少なくとも英雄に決まつてゐるので、どんな場合でも、幾分かは公人である。純粋な家庭内の悲劇(悲劇と呼ばれてもいいとすれば)は、18世紀の、市民劇の登場まで待たねばならなかつた。
 しかし、共同体のメカニズムそのものは変はらない。ギリシャ時代でも、現代でも。国家でも、家族でも。
 昔、ラジオで、五十代の男が、こんな身の上話をするのを聞いた。彼はリストラされて、無収入の身となつた。すると家族から、「家長としての義務を果たしてくれ」と言はれるやうになつた。「義務を果た」すとは、「金を稼いでくる」といふことであり、彼は保険に入つてゐて、それは自殺でも貰へるタイプなので、早く言へば、「仕事がないなら、死んでくれ」といふことらしい、と。
 貴族の、ノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)は消えても、「家長の義務」は消え去りはしない。それがあつたはうが得だと思ふ人がゐる限りは。それは同時に、あるおかげで辛い目に合ふ人もまた、一定割合で存在するといふことでもある。

 アンティゴネが体現する家族の原理は、上とは全く違ふ。家族であつた以上、彼が何者であり、何をしようとも、無条件で受け入れられるべきだ、と彼女は主張してゐる。ただし、彼が死んだら、といふ最低限の条件はついてゐるやうではあるが。
 人は死ねばもう個人ではない。「人類全体の共同性」とでも言ふべきものがあるとすれば、そこに収まるべき者だらう。そして、そこへ送り出すのに最も相応しい者は、人にとつてこの世の最初の共同体である家族を措いて他にない。
 国家もまた、戦死者を慰霊する。特に、無名兵士は。その祀りこそ、国家共同体の根源だと、例へばベネディクト・アンダーソン『幻想の共同体』に書かれてゐる。共同体を守るために死んだ、名も知れぬ兵士たち。彼らの生と死とを意味有らしめようとするなら、国家がなければならぬ。
 それは幻想だからと言つて、簡単に捨てられるわけはない。いつたい、幻想、別の言葉では物語、以外に人に意味をもたらすものがあらうか。そして、「意味」なしで生きられる人がゐやうか。国家が人々に、生きる糧になるやうな意味を供給するのをやめるまでは、あるいは、より一般的でもあれば具体的でもありさうな物語の供給源が他に見つかるまでは、我々はその存続を認めねばならぬのである。
 その反面、「意味」を保つためには、反逆者は排除されねばならぬので、例へば靖国神社には西郷隆盛は祀られてゐない。かういふのもある程度はしかたない。ただ、このやうな明確な原則だけしかこの世にないとしたら、人は必ず、生きづらさを感じるだらう。
 家族が祀るのは、現在か過去に家族である/あつた者である。社会的な属性は関係ない。それをすべて失つてもなほ、残るものがある。さう思ふことで、我々は限りなく慰撫される。
 アンティゴネは、特に男が、浮世(憂き世)の遍歴の末に、「残るもの」を求めて、最終的に帰るべき「家」を象徴する。「母」ではないので、生殖の生々しさはなく、「姉」のやうに弟を指図することもない、「妹」であることもまた、それに相応しい。

 女を「家」の象徴とするのは、男の身勝手に過ぎないかも知れない。しかし、繰り返すと、これは、「家」に関する実質的な最終決定権を女に委ねた、といふことである。男にとつて都合がいいとばかりは言へない。
 ギリシャ悲劇の中には、アンティゴネとは真逆に、「家」の徹底した破壊者となる女も登場する。コリキスの王女メディア。
 金羊毛を求めてやつてきたイアソンに恋したメディアは、一族に逆ひ、弟を殺してまで、彼の目的を遂げさせ、一緒に故国から逃亡する。彼らの間には二人の子どもが生まれるが、コリントスの王がイアソンを見込んで、娘婿にと望むと、イアソンはあつさり心変はりをして、異郷の女は捨てることに決める。メディアはその復讐に、まづコリントス王と王女とを魔法で焼き殺し、次に二人の息子をも、その手にかける。
 メディアは魔法使ひの悪女として古来知られてゐたが、ここまでやらせたのはエウリピデス「メディア」の独創であるらしい。しかし、より重要なポイントは他にある。この劇では、最後の決定的な行為に至るまでの彼女の逡巡と苦悩に焦点がおかれてゐる。
 メディアもまた妻であり母であった。つまり、「女」だった。それがそのまま、罪のないわが子を殺す鬼女になる。本当に恐ろしいのは、超自然の魔などではなく、人そのものなのである。この真実こそ、2500年の時を越えて、我々の心を揺さぶる力になつてゐるものだらう。
 論理的には、この子殺しには辻褄が合はないところがある。メディアは、ことを起こすに当たつて、世継ぎのないアテナイ王に、自分の知識で子供を授けてやらうと申し出、引換へに、彼の庇護を求めてゐる。取引はうまくいき、堅い約定(破つた場合には呪ひがふりかかるといふ担保付きの)をとりつけることができた。それなら、コリントス王父娘殺害後、二人の子をともなつてアテナイへ逃れることも可能だつたはずである。イアソンからすれば、新たな結婚はなくなり、古い家族は失ふ、といふ結果は同じではないか。それで充分に復讐は果たせてゐる。
 我々が納得するのは、論理よりはむしろ感情の次元でである。イアソンとメディアのかつての親密な関係から生じたものの完全な否定。先にそれを捨てようとしたのは男のはうであつたのだけれど、それでもやつぱり男は、深い打撃を受けざるを得ない。男といふものは、一度捨てたものであつても、自分を待つてゐてくれはすまいかと、自分には最後に帰るところが残されてゐて欲しいと期待する、そこまで身勝手な生き物なのだ。
 メデイアはここを痛撃して致命傷を与へる。「家」に関する最終決定者として、保ち守るのではなく、憎悪と絶望以外のすべてを無に帰す女。そのやうな者として、彼女は現在に至るまで、人々の悪夢の中に棲みついてゐる。
コメント (2)
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