由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

今の先生は年中走っている その3

2018年12月27日 | 教育


メインテキスト:「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」

 標記の文書は、平成29年12月に、つまりちょうど一年前に出た中教審の「中間まとめ」である(以下、「まとめ」と略記する)。そのうち「答申」がでるのだろうが、現在のところ学校の「働き方改革」に関連して中教審から出てきた唯一の公式文書であるので、これを紹介・検討してみる。
 もっとも、ここに出ている方針は、以前から、例えば平成27年中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い,高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~」(以下、「答申」と略記する)などに記されている路線上にあると言える。
 それは、学校の構造を根本的に変える、ということである。これも以前からチョロチョロ見え隠れしていた構想、のそのまた素案のようなものだが、さすがに日本の教師が忙しいことが知れ渡り、「教師に汗をかかせる」路線を表に出しづらくなったので、代って大きく迫り出したものらしい。
 どう変えるのか、というと、パッとでいいので、上の図を見ていただきたい。これは「答申」中のものだが、なんだかタダゴトではないなあ、という感じになるんじゃないですか。学校と言えば、単独の、「子どもの園」、というか、昼間子どもを隔離しておく場所かと思われていたのに、社会の協力を仰いで、より大掛かりで開かれた「チーム学校」にしようというらしい。
 もっとも、このような案だけなら、これまたもっとずっと以前にまで遡ることができる。①生徒の側が自分から動くようにしよう、②授業内容を実際社会で使えるものにしよう、という案なら、それこそ戦後すぐの「社会科」の開設からしてそうだった。その後、たぶん1970年代の、高度経済成長が達成された頃、閉ざされた教室内でのいわゆる一斉授業方式は、もはや時代遅れではないか、という観測が加わる。さらにまた、上の①の観点から、「ゆとり教育」の「自ら学ぶ力」が出て、近年アクティブ・ラーニングなる呼称に変わったと思ったら、それも最近あまり言われなくなった。それは2020年度より施行予定の新学習指導要領からこの言葉が消えたからで、代わりに「主体的・対話的で深い学び」と言われるようになったからだ。中身は同じことです。
 このように、装いを変えながら何度も何度も登場するのは、全体としてはそういう方向へは行っていない、ということを何よりも証するものであろう。それについては、もう一度、夏木智の論考を見ていただくことにして、今回は②の分野に関連する部分を考えたい。今次の中教審の、答申前の「まとめ」ではあっても、画期的なのは、この点で教員だけ力の限界を認め、「外部の力」を学校に導入しようとするところだ。
 ただし、と、最初に、身も蓋もなく言ってしまおう。なんとも心ない振舞いだと見えるとしても、これを心得ておかないと、事態が今よりもっとひどいものになる可能性もあるのだから。実際、戦後の教育改革は、九割以上、そうなった。
 つまり、理念として画期的であればあるほど、実現は難しくなる。単純に、これだけの改革をちゃんとやろうとしたら、それなりの金がかかる。「答申」も「まとめ」もそれには触れていない。それもそのはず、予算化の作業は、中教審や文科省の権限の内にはない。まして、個々の学校に何かできるわけはない。行政の仕事なのだ。そして、どの自治体でも、現在の諸悪の根源である緊縮財政の方針下で、学校なんぞにそんなに金をまわすわけはないのである。
 これで実際問題の話は終わり。後は理念上で、図らずも「学校」の根本的な問題をあぶり出したように見えるところを紹介しておこう。

 「まとめ」の第一章は「「学校における働き方改革」の背景・意義」と題されている。例えば、こうある。

 世界的にも評価が高い,我が国の教師が児童生徒に対して総合的な指導を担う「日本型学校教育」の良さを維持し,新学習指導要領を着実に実施することで,質の高い学校教育を持続発展させるためには,政府の動向も踏まえつつ,教師の業務負担の軽減を図ることが喫緊の課題である。

 「日本型学校教育」とは、子どものすべてを学校が抱え込むが如き顔をする「全人格的教育」のことで、世界的に評価が高い、とは知らなかった。
 これが教師を忙しくした根源なのだが、それ自体は解消しない。それでいて、さらに、新学習指導要領の、アクティブ・ラーニング→「主体的・対話的で深い学び」も着実に実施する、とした上で、「教師の業務負担の軽減を図る」としたら、誰が考えても答えは一つしかないだろう。生徒に関わる人員を増やすことだ。そして、教師がやる必要のない仕事から、教師を開放することだ。
 以下に、「まとめ」から、現在学校がやっている仕事の中から、<基本的には学校以外が担うべき業務><学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務><教師の業務だが,負担軽減が可能な業務>の三つに分けたところを引用する。長くなるが、現在教員がやっている仕事はどんなものか、見通すためにも便利なので。

<基本的には学校以外(地方公共団体,教育委員会,保護者,地域ボランティア等) が担うべき業務> ①登下校に関する対応,②放課後から夜間などにおける見回り,児童生徒が補導されたときの対応,③学校徴収金の徴収・管理,④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」であり,その業務の内容に応じて, 地方公共団体や教育委員会,保護者,地域学校協働活動推進員や地域ボランティア等が担うべきものと考える。

<学校の業務だが,必ずしも教師が担う必要のない業務> ⑤調査・統計等への回答等,⑥児童生徒の休み時間における対応,⑦校内清掃については学校の業務である。⑧部活動については,学校の判断により実施しない場合もあり得るが,実施する場合には,学校教育の一環であることから,学校の業務として行うこととなる。これらの業務は,学校の業務として行う場合であっても,必ずしも教師が担わなければならない業務ではない。地域や学校の実情を踏まえ,⑤調査・統計等については事務職員等,⑥児童生徒の休み時間における対応や⑦校内清掃については地域ボランティア等,⑧部活動については部活動指導員をはじめとした外部人材,というように教師以外の者が担うことも積極的に検討すべきである。

<教師の業務だが,負担軽減が可能な業務> ⑨給食時の対応,⑩授業準備,⑪学習評価や成績処理,⑫学校行事の準備・運営,⑬進路指導,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応については,基本的には学校・教師の業務である。⑩授業準備や⑪学習評価や成績処理における補助的な業務についてはサポートスタッフ等が担い,⑫学校行事の準備・運営のうち,児童生徒の指導に直接的に関わらない業務については,事務職員や民間委託等の外部人材等が担うことで,当該業務の本質的な業務について教師が集中できるようになる。また,⑨給食時の対応については学級担任と栄養教諭等との連携による工夫等が考えられるほか,⑬進路指導については事務職員や民間企業経験者などの外部人材等,⑭支援が必要な児童生徒・家庭への対応はスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなどの専門スタッフが,当該業務の一部について担う方が児童生徒に効果的な対応ができる場合もある。


 このうち「③学校徴収金の徴収・管理」については、小中校で代表的なのは給食費である。この徴収業務は学校がやっている、と言うと、当たり前だと思うだろうか、あるいは意外だと感じるだろうか。たぶん、前者が多いだろう。そうだとしても、平均して小学校で月4,000円、中学校で月5,000円の金額で、ほとんどが銀行口座からの引き落としで行われているので、別に問題あるまい、と思われるかも知れない。
 そう、普通は問題ない、未納者への対応を除いては。文科省が平成25年度に実施した調査から、未納者は0.9%、未納額は全国で推計22億円に上るとされている。
 貧窮家庭で、払う能力がないなら、修学援助と呼ばれる救済措置が用意されている。払うだけの経済力がありながら払わない場合には、無銭飲食と同じなのだから、法的措置に訴えることになるだろう。しかし、この手続きは、どちらにしてもけっこう面倒である。それも学校の仕事とされている、と言うと、今度は驚くでしょうか、当然だと思うでしょうか。……まあ、学校外では、考えたことはない、という人が大部分であろう。
 これを市町村役所・役場やら民生委員やらの仕事にして、学校の業務からは切り離せ、というのがつまり「まとめ」の提言なわけである。特別な予算措置などは必要ないだろうから、すぐにもできそうではあるし(現に既にやっている自治体もある)、実現すればその分確実に教師は楽になる。ということは、面倒な仕事を他の人が受け持つ、ということになり、これは嫌に決まっている。だから実現しない、ということもけっこうありそう。しかしまあ、この程度のこともできないのなら、学校の働き方改革は到底無理、と言わねばならない。
 本当はこの問題を完全になくす方法はある。給食という、日本独特の制度をやめるか、完全無償化すること。後者は、予算が必要、つまり、学校に通う子供がいない人の税金も、そこで使われることが承認されねばならない。前者は、それでは現在給食センターで働いている人々をどうするか、及び、各家庭が子どもの昼食、普通はお弁当だろう、を週日は毎日用意する手間とお金がかかる、という問題が生じる。そのため、とは誰も言わないけれど、近年、知育・徳育・体育と並ぶ「食育」なる言葉が登場し、これも学校が請け負うべき教育活動の一つとされた(そこで「学級担任と栄養教諭等との連携」も必要、ということにもなる)。

【もっとも地域差は既にある。神奈川県では、例外的に、中学校の給食実施率は24%に留まっている(全国平均は88%)だそうで、共産党推薦の横浜市長候補が、中学校給食の完全実施を公約に掲げたというニュースを見たことがある。】

 給食だけにずいぶん字数を費やしたようだが、これは、解決策は比較的簡単に見つかる問題のようでも、これだけの手間が予想されることを訴えるためである。できたら、こういうことを学校に丸投げするのではなく、自分たち自身の問題として捉えてほしい。そうではなく、「そんなのは教員がなんとかすべきなのだ」と言ってすませるなら、教員に過剰労働を強いることになり、それは結局は(教育活動全般の)サービス低下を招くことになる。

 その他については、言うまでもない、という気分なのだが、どうですか? 上の一覧で教師がやっている仕事を代って担うべきとされる者として複数回出てくる(1)事務員、と(2)ボランティア、に即して略述しよう。
 (1)に関しては、そもそも日本では学校事務員の数が世界的に見て非常に少ないことを知っておいていただきたい。高校にはそれでも、事務長という管理職を初め四、五人はいるのだが、小中学校では一人、あるいは〇人というところもある。
 そして現在は、学校に配分される予算の管理・執行が仕事なので、調査・統計、学校行事の運営、(なぜか)進路指導までやるとなると、それだけでもかなりの意識改革が必要になるだろう、なんていう前に。
 何しろ、人員を増やすことが肝心だ。こういうことはもっとずっと前に問題にされ、改良されねばならなかったのだが。平成も終わろうとしている今、その見込みはあるのか?

 (2)児童生徒のためのボランティアは、今は珍しくない。私自身の子どもが通った小学校でも、通学路や校門に立って児童を見守るボランティアの人がいて、ありがたいことだと思う。それというのも、仕事としてやる義務はないのに、やってくれるからだ。
 ここを間違えてはいけない。ボランティアとは元来「自発的な(大元は軍隊への)志願者」という意味だ。やる側の好意に頼ってやるしかないのだから、いくらこちら側が「これが必要だ」と思っても、「やる気がなくなった」と言われればそれで終わり。「できればやったほうがいい」ことならともかく、「やる必要がある」ことなら、補助にしか使えない、ということである。
 だから例えば⑦の校内清掃の指導をボランティアに任せるのはいいのだが、「もうやめます」と言われた場合、「じゃあ、残念ながら、清掃そのものをやめよう」と言えるのか。そうではない、とすれば、無給で善意の第三者に任せらる、だけですませられるわけはない。
 それにつけても、④地域ボランティアとの連絡調整については,基本的には「学校以外が担うべき業務」、というのは気になる。清掃監督もそうだが、登下校指導も児童生徒の問題行動に対する初期対応も、すべて学校の仕事のうちと考えられ、当然のように教師がやっているのだが、これを外部のボランティアでもサポートスタッフでもやるとなると、なるほど、学校との連携は必要だ。学校に何の連絡もなく、勝手にやられたりしたらはなはだ迷惑、だいたい、責任の所在が明らかにならない、とたいていの校長は思うに違いない。
 その連絡調整を外部者がやるとは? 学校の仕事の現状にも、ボランティアなど学校外の人員の組織にも通暁すべき人を、教育委員会事務局に置くということか。今までは教員に指図するのが仕事だったのに、学校運営の実際に、校長以上の関りを持たされるとは。「安給料で、そんなことやってられるか」という気持ちになっても不思議はない。今まで通り教員にやらせりゃいいじゃないか、と
 おそらく、どういう名前でも、学校に教員以外の人員が入り、今教員がやっている仕事をやるというと、予算の点はクリアーしたとしても、その部外者を見つけ、選び、仕事の段取りをつける業務は、やっぱり教員がやるしかないのではないか。そうであれば、多少の仕事の軽減はあるとしても、「仕事を減らすための仕事」が新たに加わることになる。それが現在の仕事より過重ではない、という保証は、残念ながらないのである。

 最後に⑧部活動について一言しよう。普通にイメージされるのは運動部で、野球部とか、サッカー部とか、あるのは知っているでしょう? 中には休みは一年中で元旦だけで、あとの364日は練習に励んでいるような部もあることも、知っている人は知っている。もっとも、近年では、公立学校では一般的にはだいぶ下火になっている実情もあるが。
 それでも、「学校の働き方改革」のために、特に高等学校で、さしあたり最大の障害になるのはこれであることは、ある私立高校の教頭から聴く機会があった。何しろ、部活動が生きがいになっている生徒もいれば、教師もいる。教師の勤務時間を5時として、そこまでで部活動は終わり、とするのも、「そういうもんだ」と慣れてしまえばいいかも知れないが、それまでがたいへんである。
 断っておこう。部活動内部だって、別に天国なのではない。授業などの他の活動以上に人間関係が密になるので、桎梏も大きくなり得る。映画「桐島、部活やめるってよ」に描かれていたように、「いっしょにがんばろう」と励ましあい、この点で心が通じ合っていると思っていた者に、あっさり抜けられ、激しく落ち込み、怒る教師も生徒もこれまで何人も見た。
 それでも部活には、他では容易に得られない魅力がある。教師側から言うと、自分の得意なことを、(何しろ強制ではないのだから)勉強と違って多少は興味があることが前提の子どもに教える。うまく教えられなくても、技術的には生徒より上なのだから、指導者としての地位は揺らがない、ような気になる。しかも、活動内容について、管理職教師や外部からの口出しは、原則としてない。一言でいえば、ガキ大将の愉悦を、いつまでも感じていられる。
 以上を踏まえて「働き方改革」を考えると、部活は、休日を含めた勤務時間外にやっても、学校の業務とするしかない。そうでなければ、厳密には、学校の施設を使うのもおかしいだろうし、顧問教師や生徒が練習で怪我をしたとき、保険がでるかどうかも怪しくなる。一方、前回述べた規定により、管理職がこれを「残業」として命じることはできない。また、指導者を外部から呼んでいる例も、現にあるが、前述したように、いつも見つかるものではない。すると?
 教員がやる場合には、勤務時間外は、ボランティア的な業務(我ながら、なんだかわけがわからないのだが)、とでも考えてやるしかないようだ。いやなら、やらなくてもいいんだ、が徹底すれば、それでよい。
 が、これもなかなか、実現し難い。ある部活の熱心な顧問が転勤して抜けた後に、新たに転勤して来たので、タナボタ式に、いや、この場合はむしろ棚からクソ式に、経験も興味もない部の顧問をやらされるということは、私も経験した。それでも、部員はいるので、潰すわけにはいかず、また、今まで少なくとも公式試合前は夜遅くまで練習していたものを、今年からは必ず5時で終える、とも、日本人としてはなかなか言えず、結果……。
 これ以上は、個々の教員がなんとかするしかないのに、力がなくてなんともできないことを嘆く、愚痴にしかならないようなので、もうやめる。ただ全体として、日本的な学校観の中で、「生徒のために」と言われたら「イヤとは言えない教員」のありかたが、つまり今日の事態を招いたのである。これだけは、多少とも、ご理解願えると有難い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする