由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

道徳的な死のために その3(テロについて)

2013年12月10日 | 倫理
メインテキスト:アルベール・カミュ 佐藤朔・白井浩司訳『反抗的人間』(原著は1951年刊、『新潮世界文学49 カミュⅡ』昭和44年刊より。なお、この叢書には白井健三郎訳「正義の人々 五幕」も収録されている)

サブテキスト:サヴィンコフ 川崎浹訳『テロリスト群像』上・下巻(原著は1926年刊。岩波現代文庫平成19年)

 「死とモラル」に因んで、アルベール・カミュが1950年前後に提起した問題に、若い頃興味と疑問を持ったことを思い出しましたので、今回改めて考えました。

 主著『反抗的人間』に集成されているものを一番大きく言うと、「目的は手段をどの程度まで正当化するか」であり、小さく言うと、「革命が正しいとして、そのためなら人を殺してもいいのか」になり、具体的にはいわゆるスターリニズム(この言葉が出てくるわけではない)の超克が目指されている、と思う。ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は1956年だから、カミュの先見性は讃えられるべきだろう。
 加えてこの時代は、日本でもそうだが、下手に人類初の共産主義国家ソビエトを批判すると、「お前は右翼だ、ホシュハンドーだ」とのレッテルを貼られ、知識人稼業が危うくなる状況があり、現にカミュもJ・P・サルトルとの有名な論争の果てに、このフランス知識界の大物と絶縁し、結果孤立することになった。それでもやった勇気という点でも、大したもんです。
 ただ、こういうのはやはり昔の話。現在でもなお意義が見出せるのは、カミュが戯曲「正義の人々」(49年作。同年上演)の題材とした、20世紀初頭の、ロシアのテロリストをめぐる議論だろう。
  『反抗的人間』中「第三章 歴史的反抗 心優しき殺害者たち」で改めて取り上げられているのを見ると、これはスターリニズムの解毒剤の有力候補として挙げられているようだ。つまり、非人道的な圧政に抗して巻き起こった革命が、成功してみると、前と同じか、さらにもっとひどい圧政が敷かれる。ロシアに限らず、フランス革命でも中国共産主義革命でも見られたこの悪夢の連鎖を断ち切る思想的な力が、他ならぬロシア革命(そのうちでも、いわゆる第一革命)の最初期を担い、すぐに消えていった革命家たちのうちに見出せるのではないか。こうまとめてもいい熱い思いが、カミュにはあった。

 このテロリストである革命家とは、社会革命党(頭文字から取ったエス・エルの略称で知られる)、その中の戦闘団に属した闘士たちのことを指す。レーニンがいた社会民主労働党(1903年にボルシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した)はこの頃は機関誌を通じた言論・啓蒙活動を主としていたのに対して、彼らはロシア皇帝(ツアー)政府要人の暗殺という実力行使に出た。
 9.11以前はこういうのがテロの典型だと考えられていた。平成12(2000)年に出た『政治学事典』(弘文堂)では、次のように定義されている。

テロリズムとは殺人を通して、政敵を抑制・無力化・抹殺しようとする行動である。抑圧的な政府に対して集団的行動がなかなか思うように取れない時に、政府指導者個人を暗殺することで、レジーム自体を震動させ、崩壊させるきっかけをつくろうと企図することをテロリズムという。19世紀のロシアの無政府主義者のなかにはこのようなテロ戦術が有効であると考えて行動するものがいた。

 実際は19世紀後半は、ロシアに限らずヨーロッパ各地でアナーキストによるテロが激発した時代ではあるが、『反抗的人間』を読むと、ロシアの一人の人間と一つの組織がとりわけ印象に残るのは事実である。
 セルゲイ・ネチャーエフは、ゲルツェンやバクーニンほど有名ではないが、「革命のためにはすべてが許される」と初めて明確に言った人物だった。ただ実際にやったのは一連の詐欺と言ってよい。与太話によって作り上げた組織を防衛するためとして、仲間の一人を殺したことが最大の事績で、これはドストエフスキー「悪霊」の題材となった。
 一方、1881年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したことで有名な「人民の意思」派は、その後の強力な弾圧によって84年には壊滅している。その路線を継ぐことを期して1903年に戦闘団を組織したのがエス・エルである。最も過激な行動にも関わらず、彼らはネチャーエフ風のマキャベリズムとは無縁だった。あるいは、できるだけ無縁であろうとした。そこにカミュは多大な共感を寄せている。
 「殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らには見えたのである」。なぜ必然かと言えば、それ以外にロシア帝政をくつがえす有効な手段はないからであり、しかしそれでもなお殺人は悪だとする。この二つを両立させる方法、というよりはむしろ、矛盾を抱えたままでなすべきことをするための方法を、彼らは示したのだ、と。
 具体的に言えば、人を殺した以上、自分も死ぬべきだ、と考えて、その通りに実行した、そこにポイントがある。

彼らが必然的だと思ったものを正当化することが不可能だと知ってから、彼らは、自己の身体を正当化に賭けられはしまいか、自分たちを犠牲に供することによって自己に課された質問に答えられはしまいか、と想像したのである。彼らにとって、彼らまでの他のすべての反抗者と同じく、殺人と自殺は同一のものであった。それゆえに一つのいのちは、もう一つの命によって支払われるわけであり、これら二つの犠牲から、ある価値が約束されるのである。カリャーエフも、ヴノロフスキーも、他の人たちも、いのちが等価値であることを信じている。それゆえ彼らは、思想のために殺人を犯すとはいえ、いかなる思想も人命以上とは考えなかった。正確に言えば彼らは、思想の高さに生きているのだ。彼らは、思想のために死ぬほど思想を肉体化しているので、最期には思想を正当化してしまう。

 すんなり納得できますか? 私は大学生時分から、ひっかかるものを感じている。
 命は等価である、というのは、法律の次元ではいかにもそうだろうし、そうでなければならない。しかし、実存(実際の生活上の意識、ぐらいの意味です)に即した場合、命はかけがえがない、これは「欠けた場合には替えはない」を意味する。つまり、交換はきかない。ならば、他人の死を自分の死で「支払」う、なんぞという取引が、根本的に成り立つはずはないのである。
 実はカミュもそれは理解していた。死後に公刊されたカイエ(ノート)の、1947年頃のに、次のような文が見つかる。「一つの生命は、一つの生命によって支払われる。その理屈は誤ってはいるが、尊重すべきだ。(奪われた一つの生命は、与えられた一つの生命に値しない)」(高畠正明訳『反抗の論理 カミュの手帖―2』新潮文庫)。原文は見ていないのだが、この訳の( )内は、どうもまちがいであるように思う。今回ネット上で見つけた西川宏人の講演録「アルベール・カミュ『正義の人びと』―愛と正義と死と―」ではこの部分は、(奪われる生命は差し出される生命と相殺できるものではない)とあって、これならピンとくるし、私も全く同感である。
 しかしそうであればなおのこと、上の『反抗的人間』の、熱烈な讃美はどういうことなのであろう。ぎりぎり言えるのは、彼らが殺人は罪であることは、どこまでも自覚して、ごまかそうとはしなかった、という点で、その後のレーニン、スターリン、毛沢東、などの成功した革命家、成功のために何人も殺した指導者たちよりはずっとましであった、ということだろう。何しろ本当に命がかかっていて、自己犠牲の精神もそこにはあるのだから、偉大、と言ってもいいかも知れない。
 もっとも、途中で死んでしまうのなら、彼らの手では革命は決して成就できない。それと引き換えに革命の純粋な夢を保ち続ける、子供っぽい類の偉大さであることはもう一面の真実ではある。だから、彼らが「思想の高さに生きて」、「思想を正当化」し得たのかどうか、今の私にはよくわからない。
 

 ただし、カミュも直接参考にしたサヴィンコフの回想録『テロリスト群像』によると、エス・エル戦闘団のメンバーも、多くは十死零生を期して事に臨んだわけではない。暗殺方法は爆弾を投げることで、当時の爆弾は扱いそのものがとても難しくて危険だったから、犠牲は覚悟されていたが、死ななくてはならない、というほどではなかった。
 1904年、反政府勢力に対する苛烈な弾圧を指揮したことで知られる内務大臣プレーヴェを爆殺したのが最初の成果だが、この実行犯サゾーノフは自分が投げた爆弾で負傷して、心ならずも(爆死したほうがましだったとその後も言い続けた)捕まり、たぶんプレーヴェの悪名のおかげもあったろう、絞首刑ではなく終身刑となり、その後減刑もされている。一方、06年、モスクワ総督ドゥパーソフを狙ったヴノロフスキーは、暗殺には失敗して自分が爆死した。それは充分覚悟のうえのことだったし、他に現代のいわゆる自爆テロに近いやり方をした者もいたが、この時代にはまだそれは例外と言ってよい。
 上の二件に挟まる形で、05年にイヴァン・カリャーエフが前のモスクワ総督で皇帝ニコライ2世の叔父セルゲイ大公暗殺に成功した。彼は、プレーヴェ暗殺計画に加わったときは、自分が爆弾を抱えて馬車の下に飛び込むことをエス・エル戦闘団の最高指導者エヴゲーニー・アゼーフ(後に秘密警察のスパイであったことが発覚した)に申し出ている。また、官憲に捕まるぐらいなら日本人に倣って「ハラキリ」をしたい、と現場指揮官のサヴィンコフには言っていたそうだ。が、実際には逮捕されて、絞首刑になっている。
 それよりも、彼を有名にしたのは、セルゲイ大公暗殺計画第一回目の失敗に依る。
 2月2日、大公は夫人が庇護している赤十字のための観劇会に出かけることがわかった。エス・エル戦闘団はこの日を決行日に定め、カリャーエフと、彼が失敗した場合に第二弾を投げるはずのもう一人のメンバーが、ボリショイ劇場付近の路上で配置についた。大公を乗せた馬車はカリャーエフの前を通った。しかし、爆弾は投げられなかった。予備の者も、何か不測の事態が起こったものと考えて、見送った(彼はこの後、自分には暗殺を実行するほどの力はないと感じて、戦闘団を離脱している)。
 起きたことはこうだった。カリャーエフは、爆弾を投げようとした寸前に、大公夫人と大公の幼い甥と姪が同乗しているのを見たのだ。「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか?……
 『テロリスト群像』には、サヴィンコフも、他のメンバーも、カリャーエフを一切非難しなかったと書かれている。つまり、「子どもを殺すことはできない」は、エス・エル全体の意思だと認められた。
 彼らに代わってカミュが、実名のカリャーエフを主人公とする「正義の人々」第二幕で、「革命のためならいかなる犠牲もやむを得ない」とする党員を登場させて、議論させている。サヴィンコフに当たる登場人物は、これは「名誉の問題だ」と言ってこの党員を退ける。子どもを殺せば、たぶん彼等は民衆の支持を失う。それはエス・エルにとって致命的なダメージになり得る、と。
 その通りかも知れないが、これでは話は政策上の問題にとどまりそうである。もっと道徳的かつ原理的に、「子どもを殺してはいけない」と言えないだろうか。「正義の人々」第四幕は、非常に厳しい、妥協のない形でこの問題を追及している。まるでこの後エス・エル党員を手放しで讃美しているのが嘘に思えるほどに。
 カリャーエフは2月4日に、官邸から出たセルゲイ大公の馬車に投弾し、暗殺を成し遂げた後、その場で逮捕された。この幕は獄中の彼を描いている。まず警視総監がやって来て、次のように問いかける。「その思想で子供は殺せないということになると、同じ思想で大公なら殺せるというわけになるんですかな?」。答えは大公妃にすればいい、とも言われる。因みに、セルゲイ大公夫人が、夫の殺害者を訪ねたのは歴史的な事実である。ただ、彼女は自分たち皇族の慈悲深さを国民にアピールするのが目的だったようだから、以下の対話はカミュの創作である。
 自分は「正義の行為をした」と言うカリャーエフに、彼女は次のように告げる。「まあ、同じ声! お前のいまの声はあのひとの声とそっくり。男の人は、正義について話すときは、誰もみな同じ調子になるんですね。(中略)あのひとは間違ってたのかも知れません。お前も間違って……
 人間は誰も完全になれない以上、正義はついに相対的なものでしかない。エス・エル派から見れば大公の不正は明らかだが、大公からすれば彼らこそ不正なのだと言うだろう。どちらがより正しいか、完璧に決定するための超歴史的かつ超社会的な基準はないし、あっても人間にはわからない。カリャーエフは、もし自分が間違っているとしたら、今の牢獄と翌日の刑死がその報いになる、と言う。罰を甘受する覚悟があるから罪も恐れない、ということは、前述した議論の範囲に入るだろう。
 では、それでも子どもは殺さないことについては? 「子どもに罪はない」。世界中どこでも通用しそうな考えではあるが、本当に、いつもそう言えるのか? 大公妃は言う。姪は意地の悪い子だ。貧しい人に触れるのを嫌がった。大公は、少なくとも百姓たちを愛していた。いっしょにお酒も飲んだ。それなのに?
 いや、大公の人柄などは問題ではないのだ。「僕が殺すのは、彼じゃない。僕は専制政治を殺すんだ」と、カリャーエフは第一幕で言っている。しかし、そうだとすれば、生身のセルゲイ大公を殺す意味は、曖昧になるのではないか? ツアーを頂点とする専制政治さえ打倒できるなら、もう政府要人のだれそれという個人は問題にならなくなるはずだ。逆に、体制がそのままなら、個人は死んでも、その役を継ぐ者が必ず現れる。それを殺せば、また次が……、と、きりのない話になる。現に、セルゲイの次のモスクワ総督もまた、エス・エルは標的にせねばならなかったことは前述した。
 明らかに、革命は、個人よりレジーム(体制)の打倒を目指すべきものだ。ただし、それが成し遂げられたら殺人のほうはなくなる、というわけにはまずいかない。1918年の十月革命直後のロシアでは、レーニンの命令によって、皇帝ニコライ2世の一家が、十七歳の皇女アナスタシアを含めて全員惨殺されたのは、周知の通り。どの道をたどっても、血に飢えた正義の神を宥めるのは容易ではないのである。

 もう一つつけ加える。エス・エルが、暗殺はしてもできるだけ「道徳的」であろうとし、「名誉の問題」に気を配っていたことは事実である。裏切り者を処分したとき、彼の自宅で決行したので、止めに入った年老いた母親を傷つけてしまった、それまで問題視されたぐらいだ。またサヴィンコフは、他の乗客を巻き添えにする可能性の高い列車内の爆破には反対している。後には「ロシア皇帝の牢獄から脱走するとき彼は、彼の逃走をさまたげるかもしれぬ士官たちに発砲はしても、兵士たちに彼の武器をむけるよりはむしろ自殺しようと決心する」(『反抗的人間』)。当時のロシア軍の士官はだいたいは貴族だが、兵士は民衆だから、というわけだろう。しかし……。
 しかし馬車を狙った場合、列車よりは周囲の人に被害を及ぼす可能性はいかにも低いだろうが、標的が一人で乗っている場合でも、必ず馭者はいる。彼も爆破の被害を受けないわけにはいかないが、こちらは民衆に属するのではないか?
 セルゲイ大公の馭者はアンドレイ・ルーヂンキンという名だった。カリャーエフは大公の馬車を特定するのに、まず御者台の彼を目印にした。爆破後ルーヂンキンはどうなったろうか。『テロリスト群像』には、官公側の発表が写されており、そこに「無数の傷を負うた」とだけある。彼が死んだのか、一命はとりとめたのかは皆目わからない。
 カリャーエフも、サヴィンコフも、そしてカミュも、彼のことなど全く気にかけてはいないのである。もしそこまで気にかけたとしたら、爆弾テロそのものをやめるしかなく、彼らの活動は著しく制限されなければならなかったろう。ここで結局、革命の大義が、庶民を直接犠牲にする手段を正当化してしまっていることが認められる。
 以上は批判のために書いたのではない。不完全な我々には、完全な正義を行うことはできないことを改めて確認したかった。それにまた、「人を殺してはいけない」にも、「子どもを殺すことは大人を殺すより悪だ」にしても、論理的な根拠などない。感覚の問題である。ただ、このような感覚に基づいて、人の世は現に営まれているのだし、人はそういうところでしか生きていけないのは確かである。
 ここからして「何をなすべきか」について多少は論理的に言おうとしても、せいぜい、できるだけ謙虚に、寛容になりましょう、ということぐらいしかない。理想に則って世の中を一気に変えてしまおうとする革命は、犠牲が多くなり過ぎる。カミュの言う、この世の不条理(人間は完全になれないこともその中に入る)にノンと言い続ける反抗というのも、カッコよすぎてとうてい凡庸な身の丈には合わない。生まれてから身についた感覚を一応の頼りとして、迷いながら、多少とも正しいと思える方向に進む以外に、普通人にとっての「正しい道」はないようだ。ただ、迷うことそれ自体は倫理的な行為である、とは言い得ると思う。いつも同じようなことしか言えないのは、たいへん恐縮ですが。

 それにつけても、2001年9月11日以後我々の目にも明らかになった自爆テロの有様には慄然とさせられる。軍人でも政府の要人でもない一般の人々が集まるところへ、爆弾を抱いて行って、もろともに爆死する。一番成功率が高い、ということなのだろうが、それだけで、ここにはいかなる倫理も道徳も、それを気にかけようとする気配も、ない。
 国末憲人『自爆テロリストの正体』(新潮新書)によると、その実行犯たちは、アメリカやイスラエルに追い詰められてぎりぎりの生活を強いられた者、というわけでもない。多くは、けっこう裕福な家庭出身でそれなりに教育もある者たちが、例えばアラブ人であることで差別される、というような体験から、不全感を抱き、そこをアルカイダなどのテロ組織にオルグされて、やるのだと言う。
 パレスチナ出身のハニ・アブ・アサド監督の映画「パラダイス・ナウ」(2005年)を見ても、対イスラエルの自爆テロに向かう二人の青年(一人は途中で脱落)は、特に狂信的ではなく、恋愛もすれば、友人や家族を思いやる心も持っている。根深いコンプレックスはある(主人公の父は密告者だった)が、それをも含めて、日本でもざらに見つけられるような若者だ。違いは、明確な敵、つまりイスラエルとその背後のアメリカがあること。それで、自分自身を含めて多くの人を犠牲にするテロ行為に走るとは……。
 私の人間理解は、ここには到底及ばない。知識もない。年を取って自分から宿題ばかり増やしているのは我ながら苦笑ものですが、この問題に取り組むのもやっぱり他日を期します。
コメント (2)
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