由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

別役実論ノート その1(マッチ売りの少女)

2020年05月24日 | 

坂手洋二演出「マッチ売りの少女」新国立劇場平成15年

メインテキスト:『別役実戯曲集 マッチ売りの少女/象』(三一書房昭和44年)

【別役実氏が3月3日に亡くなった。直接の死因は肺炎だが、コロナではないそうだ。巨星墜つ、というべきできごとで、実際そう表現した雑誌やネット上の記事も見かけるが、新劇に関する認知度自体が高くない日本では、さほどの話題にならなかったのは仕方ないことである。
 学生時分から同氏のファンを続けている私としては、一言なかるべしの気分にはなったが、現在このブログ以外には文章を発表する場所もなく、そこでは西尾幹二『歴史の真贋』に取り組んでいた。それに3ヶ月かかってしまった。今となって、遅ればせながら、改めてこの大劇作家に関する考察を示して、献花に代えようと思う。
 一言以上にはなるが、いつものように断片的に、期限も決めず、だらだらと語るしかない。一応の方向性はあって、それは広大にして複雑微妙な「別役ワールド」の、私なりの見取り図を作ることである。興味とお時間があったら、どうぞお付き合い下さい。】

Ⅰ 加害―被害関係
 以前のシリーズ「悲劇論ノート」は、西洋演劇の一典型の発生についてスケッチしたものだ。「お前は誰だ」と問う状況があり、それに答えようとする者がいる。この関係は逆から見れば、「この状況とはなんだ」と問う「私」を描く劇、ということにもなる。問いに対する答えをみつけようとするところに「私」がいて、「私」によって状況はある一連のまとまり・意味を持つようになる、とも言い換えられるだろう。
 最初期の典型例は例えばこういうものだ。ある都市国家が外敵に攻撃される。あるいはまた、ある都市国家に得体の知れない疫病が蔓延する。どちらの場合も「答えるべき私」はこの都市国家の王であり、このような危機に対応することを当然の責務として求められる。そこで、全力を挙げて対応すると、それによって、その人間の、自分でもよくわかっていなかった「真の姿」が現れてくる。
 「劇的」というと、通常こういうものを思い浮かべるぐらい、この構造は強固である。しかし、いくつかの問題点はわりあいと昔から認識されていたようだ。
 例えば、ある一個人の決断と行為が、多くの人に致命的な影響をもたらすことなどめったにあるものではない。せいぜい、家族など、ごく近しい人々が困ったり逆に喜んだりするばかりだ。リア王が、金持ちなだけの庶民の爺さんだったら、でたらめな遺産分配をしても、騒動は遺産相続者の範囲に限られる。他人にとっては、「もうろく爺さんのために酷い目に合ったな。お気の毒だね」で終わり。
 彼らの決断も行動も、あくまで「わたくしごと」あって、「おおやけ」には見えない、ということだ。当然、これを見世物としても、大した迫力は出ない。
 即ち悲劇とは、神話上の英雄か、王侯貴族を主人公とするものだ。この定式は、コルネイユやラシーヌによって最後期の悲劇が創造されたフランス古典主義時代(17世紀)まで変わらない。すると、身分制社会が崩れた近代では、悲劇は自然に作れないことになってしまう。

 一応断っておいた方がいいだろう。他人に対して大きな権力を揮って、従って大きな影響力を持つ者は、近代でもいる、いや、近代でこそたくさんいるのではないか、と疑問を持つ人もいるだろう。20世紀に登場したヒトラーやスターリンや毛沢東ほどたくさん人を殺した権力者は、古来そんなにいるものではない。
 しかしこのような政治劇では、人間同士の対立相克より、社会システムの圧力のほうがはるかに存在感が大きい。権力者でも、システムの中の巨大な歯車のようで、その非人間性こそが恐いのである。
【別役実には、このようなメカニズムの核を描いた作品もある。このシリーズの、後の方で述べるつもり。】
 悲劇はこういうところには不向きだ。それはあくまで、「人間とは何か」を問うものだからだ。

 一方で、一般庶民を主人公にした劇形式も古来ある。これは喜劇と呼ばれる。
 何かがおかしい。おかしいのは、主人公(たち)か、周囲のほうか、ともかく、何らかの「解決」が求められそうな状況がある。ただ、主人公は王侯貴族のようなノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)を背負う者でもなく、特に優れた能力があるわけでもない。彼らはただジタバタし、その努力とははずれたところで、ものごとは、「解決」といえるかどうか、微妙な、一応の結末を迎える。
 階級制が崩壊したというだけでも、現代で可能なのは喜劇、ということになるのは明らかなようである。しかしより問題なのは、いずれにもせよ、「私」と「状況」の差・ずれ、によって「私」が際立つ、その構造のほうなのだ。すべての前提には、「私」と外部の「状況」、合わせて仮に「世界」と呼ぶことにすると、それには「あるべき姿」があるはずだ、なければならない、という、普段は特に意識もされない信念がある。この信念を敢えて意識し、純粋に追求されたところに宗教、即ち神及び神々の概念が生まれる。
 近代は、前述した社会システムの複雑化と、神(的なものを含む)を中心としたあるべき世界像の揺らぎとが相まって、「私」像の追求もより困難になった。時代状況と切り結ぶ野心と意欲をもった表現者は、これを無視するわけにはいかない。パフォーマンスの世界に限っても、様々な形式が模索されねばならなかった。

 日本にはまた、西洋に比べれば、ということだが、独自の問題もあった。
 『マッチ売りの少女/象』所収の「それからその次へ(あとがきにかえて)」に引用されている「「戦争体験」論の意味」(高橋和巳編『戦後日本思想大系13 戦後文学の思想』筑摩書房昭和44年所収)で、橋川文三が次のように書いている。

われわれの精神伝統の中には普遍者――超越者の契機が認められない。存在するものはただ感性的現実であるか、それとも、それと全く関わりない純粋な理論の体系のみである。意味はただ「手足をバタバタさせる」ような実践の中か、演繹的な理論体系への信仰の中にしか見出されない。それは実践と理論とが、普遍者と主体との緊張関係によってうらづけられるときにのみ、統一的な原理として機能しうることが無視されているからである。

 例えば戦争体験は、戦争によっていかに周囲や自分が酷い目に合ったか(感性的現実)を語るか、マルクス主義、中でもレーニンの「帝国主義論」など(純粋な理論の体系)を持ってきて、その(唯物史観上の)歴史的意味を語るか、どちらかになる。
 両者は結びつくこともあるように見える。後者は前者を引用して、戦争の悲惨を印象づけ、さて人類はこのような段階から脱し、殺し合いも差別も迫害もない世界へと進化していく段階にある、などと説くので。
 それでいてここでは、悲惨な体験をした人間の、一回限りの生の意味は、全く無視されている。問題はただ、悲惨のみなのだ。理論家たちは、それを利用しているだけ、と言える。
 「理論」という言葉を拡げて、ある時代、少なくともある階層には支配的な、例えば愛国心とか忠義とかいう理念や観念まで入れると、それが「当り前」である時、これを否定、どころか疑う人間など、洋の東西を問わずめったにいるものではない。
 強固な理念が時には個人に悲惨をもたらすこともあるのは、日本でもわりあいと古くから知られていた。森鴎外「阿部一族」のタネ本は江戸時代にあり、武士階級にとって至高のエートスである「忠義」が、現実との間に軋轢を生じる場合もあることは、ある人々の目には映じていたことがわかる。
 その狭間に落ちて苦しみ、ついには全滅した人々は気の毒だ。しかし、それで終わり。これをもって、忠義の徳性を疑問視する、など、絶対に認められない、それ以前に、頭に浮かびもしない。個人はせいぜい、「すまじきものは宮仕えぢやなア」(「菅原伝授手習鑑」)というような詠嘆の裡に丁重に葬られ、忠義のほうは無傷で生き延びる。
 そのかわり、戦後のように、ひとたび、一世を挙げて「ダメ」ということになると、全くもって捨てて顧みられなくなる。個人も理念も、この国では究極の意味は持ち得ないのだな、と思い知らされるできごとで、その影響は前回と前々回に述べた。
 この両者、個人と理念が共に生き延びるためには、意外なようだが、この世のすべてを超えた不動の場所で究極の価値を設定したほうがいい。それが以前述べた福田恆存の信念で、橋川とは前提からして全く違うが、今回それには触れません。
 福田に即して改めて述べます。
 超越的な価値が信じられるなら、「私」はちっぽけな、相対的な存在でしかないが、社会も国家も、この世の目に見えるすべてが相対的なのだから、必ず従わねばならない道徳的な義務は消える。また、ちっぽけな「私」が、いつも究極の価値に沿うように生きられるものではないが、折に触れてそれを気にかけ、それと現在との距離を測ることで、一貫した意味を持つ、語るに足る「自分」が生じる。「普遍者と主体との緊張関係によってうらづけられ」た「統一的な原理」はこれを介することで初めて見つかる。
 「普遍者――超越者」とは、橋川の場合でもキリスト教の唯一絶対神に近い、と別役からも見えていた。しかし、だから「われわれの中に、普遍者の意識を創り出すことがどうしても必要である」(橋川)などと言われても、どうしたらいいのか、日本人ならたいてい反問したくなるのももっともだ。
 別役実はこれに対して、「ヨーロッパに於ける主体が、そうした普遍者との緊張関係の中に全く閉鎖され、統一的な原理体系のないアジア・アフリカにこそ無限の可能性が秘められている事を、既に我々は知っている」と言う。学生時分(昭和50年前後)、こんなことがよく言われていたことは知っているが、私はこちらにも、いかがわしさを感じた。だいたいこういうのは、ヨーロッパの「原理」に対する劣等感を裏返して見せたようなものではないか。
 我々が別役実に傾倒したのは、それが西洋的であれ東洋的であれ(論理的なところ、かなり西洋的に見える)、一つのドラマの形を作り出して見せたからである。考えてみれば、ギリシャ人も唯一絶対神の観念はないままに悲劇を創り出したのだった。道は幾筋かあるはずなのだ。

 ただ、せっかくだから、この極めて意識的な劇作家の思いを論理的に語ったものを、もう少し見ておこう。
 「それからその次へ」は、戯曲集のあとがきでありながら、昭和17年に亡くなった詩人尾形亀之助を本格的に論じたもので、その後『尾形亀之助詩集』(思潮社昭和50年)に「研究」として収録された。以下の引用文で「彼」というのは、尾形のことである。

(前略)彼にとって問題であったのは、その漠然たる全状況が暗黙に強要する「君は?」と云う問だったのだ。勿論、問われる「私」は問う「全状況」によって規定されているのであり、当然「私」を答える事は「全状況」を問う事と同義なのであるが、彼はこの出来すぎた公式に拠る事をしなかった。「体制が圧制的なら私は反逆的である」と云う安易な公式の中には、既に体制に対する検証の余地も、従って「私」に対する検証の余地もないのであり、彼はそれを見抜いていたに違いない。

 「体制が圧制的なら私は反逆的である」とは、別役も若い頃には関わった学生運動(昭和46年の新島基地反対闘争には、「一兵卒として」現地へ行った、と、一度だけお会いしたとき述懐なさっていた)中の言葉のようだが、出典は知らない。【知っている人は教えて下さい】
 「圧制的な体制に『否』を言わないなら、お前はそれを認めていることになるんだ」みたいなことを言う奴は私の周囲にもまだいて、それこそ圧制的ではないかと思ったものだ。今の我々は、それこそ既に知っている。こういうことを言っていた「反体制」組織の一つが、まるでカリカチュア(誇張された戯画)のような、暴力による圧迫を実行したことを。
 対立する両者は、「対立している」という堅固な構造に規定され、自然に「似たもの同士」になる。この過程を経た「私」が、「確立された/成熟した自己」とか呼ばれることもあるようだが。それまで含めて、「対立」はプロットが明瞭で、スリリングではあるので、これまで無数にドラマの題材になってきたし、今後もそうだろう。
 そこからずれたドラマを作ろうとするなら、人気作家になることはできなくなる。もっとも、広く見たら、対立の構図がすっかり放棄されたわけではない。「自他合一」だの、「私心を捨てる」だのといった、これも相当いかがわしい「日本主義」など、もちろん問題ではないし、「私」の実感にのみ語るべきアプレオリな真実のすべてがある、という私小説的伝統に拠ろうというのでもない。
 ただ、世界と「私」とを(「それからその次へ」など、別役の初期の評論では「おおやけ」と「わたくし」とも呼ばれている)、「夫々に相互的な、従って不確実な「一つの関係」」にまで戻し、「その「関係」を探る」ことを試みるのだ、と言う。
 具体的にはどういう試みか。尾形亀之助の詩の場合は、彼の作品集と別役の評論(これがなかったら、私は終生尾形の名前も知らなかったろう)に当ってもらうとして、別役が劇を組み立てた方法は。

【別役実の戯曲は、標目に固有名はほとんど使われず、登場順に、男1、男2……女1、女2……などと表記されています。このシリーズの〈  〉内は、これを示します。】

 処女作ということになっている「AとBと一人の女」(昭和36年初演、『別役実第二戯曲集 不思議の国のアリス』所収)は、加害ー被害関係という、最も典型的な対立を使っているが、この両者の関係性が反転するスリルに、劇の焦点がある。
 出世作の一つである「マッチ売りの少女」には、上と同じ構造に、終戦直後の時期という、昭和生まれの日本人にとっては疑うべくもない大状況が背景として持ち込まれる。
 舞台には古風なテーブルとやや上手(客席から見て右側)に小さなサイドテーブルがある。そこで、まずアンデルセンのよく知られた童話を少し変えたものが、姿は現さない〈女〉によって、「思いがけなく、すぐ耳の近くで」読み上げられると、初老の夫婦が登場し、「厳重な規則」によって「夜のお茶の道具」を並べる。お茶の作法や隣人についての、無意味だが、もっともらしくはある会話が交わされているところへ、最前の〈女〉が尋ねて来る。
 この〈女〉は夫婦には初対面だが、自らを「善良にして模範的な、しかも無害な市民」と呼ぶ彼らは、お茶の時間のお客として彼女をもてなす。最初は〈女〉も慎ましやかだ。「私、ただ、あたたかい所で、やさしい人達と一緒に、静かにお茶をいただきたかったのです。外はとても寒いのです。雪が降っています。誰もいないのです」。
 初対面の対話にはありがちなぎごちない間の後、〈女〉は突然過去を語り出す。自分はマッチを売っていた。あ、そう、じゃ、あんたはマッチを買って欲しいんだね。いえ、それはずっと昔、私が七歳の頃でした。そうか、思い出話をしたいのか。
 そうだ、いや、そうじゃない。〈女〉はマッチそのものを売っていたのではない。忘れていたのだが、ある小説を読んで思い出した。
 何を? それは、対話ではなく、〈男〉(初老の夫婦の夫)の朗読風の語りで伝えられる。

その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである。ささやかな罪におののく人々、ささやかな罪をも犯しきれない人々、それらのふるえる指が、毎夜毎夜マッチをすった……。そのスカートがかくす無限の暗闇にむけて、いくたびとなく虚しく、小さな灯がともっては消えていった……。
かぼそい二本の足が、沼沢地に浮くその街の、全ての暗闇を寄せ集めても遠く及ばない、深い海のような闇を支えていた。闇の上で、少女はぼんやり笑ったり、ぼんやり哀しんだりしていた……。

 あれは私だったのです、と〈女〉は言う。「思い出して頂けましたでしょうか」。つまり、〈男〉が客になったということか、と我々(観客)が思っていると、〈男〉はそれを肯定も否定もしない。「あの頃のことは忘れることです」。〈妻〉も「思い出してどうなるのです。……みんなどうしようもなかったのです。あなたのせいではありませんよ」。
 〈女〉は応じる。「でも、私は忘れるわけにはいかないのです。……思い出してしまったからです」。
 いや、忘れてもよい。でも、ただ一つ、知りたい。あんなことを、七つだった自分が、一人で思いついたはずはない。誰かが教えてくれたのだろう。「あなたですか?……覚えておりません?……私、あなたの娘です」。
 そんな筈はない。〈男〉と〈妻〉には、確かに娘がいた。が、小さい頃に電車に轢かれて死んでしまった。それを二人とも見ていた。
 いえ、と〈女〉はさらに言う、間違いはないのです。市役所の戸籍係の人に詳しく調べてもらいましたから。……ということであれば、その市役所で事実関係を徹底的に調べる(今だったらDNA鑑定もある)のが普通の流れだが、別役劇は決してそんなふうには進まない。
 もしかしたらそうなのかも知れない、いえ、たとえそうでなくてもかまわないじゃありませんか、「なんか、かわいそうですから」と〈妻〉は言い、三人はけっこう楽しげに、一家団欒という感じで、お茶の席に着く。ここまでが、この一幕物劇の、いわば第一場、前半に当る。
 後半はより禍々しい雰囲気なる。
 〈女〉には〈弟〉がいて、この場に入ってくる。「このうちは、私達のおうちですよ」と言われ、お茶を飲み、ビスケットを食べる。そして、思い出話として、幼い頃〈男〉に虐待され、左腕が不自由になった、と言う。待ってくれ、そんな筈はない、自分には息子はできなかったのだし、人に暴力を振るったこともない、とさすがに〈男〉が怒鳴ると、「静かにして下さい。お願いです。子供達がちょうど、眠りかけたところなんです」。〈女〉には幼い子どもも二人いて、この場には入れていないが、家の中で、小さな寝息をたてているらしい。
 〈女〉は、「お母様、やっとお会い出来たのです。ずい分、歩いたのです。……お父様とお母様にお、ひとめお会いしたくて……」と言いながら眠ってしまう。夫婦は、「可哀そうな人達と云うのは、どんなふうであれ、可哀そうなんだからね」「やさしくしてあげましょう」と、〈女〉たちを泊めることにする。
 しかし、目を覚ました〈女〉は、今度は〈弟〉がビスケットを一枚余分に食べたと言って責める。私がどんな思いをしてあなたを育てたと思っているのですか。その私が、空腹だからといっていやしいことをしていい、と教えましたか。お父様とお母様にお謝りなさい。なぜ私の言うことが聞けないのです、私が卑しい女だからですか。言いなさい、あなたが余分に食べたために、誰が飢えなくてはいけないんですか……。そして激しい暴力を振るう。
 〈弟〉は何も答えず、されるがままになっている。〈男〉が止めると、今度は〈女〉が脅えて、「許して下さい。お母さま、私はいけないことをしました」と床に突っ伏して動かなくなる。最後のあたりを引用する。

弟 (静かに)お姉様に触らないで下さい。お姉様は卑しい女です。だからお姉様は触られたくないのです。
(中略)
女 (遠く)マッチを……マッチをすらないで……。
弟 (つぶやくように)お父様はマッチをお買いになった。お父様はマッチをお買いになった。お父様はマッチをお買いになった。毎夜毎夜、お姉様のために……。毎夜毎夜お姉様のために……。
男 いや……(妻に)そんなことはない。そんなことはないんだよ。
弟 でも、僕は責めません。でも、どうしても、僕は責めるわけにはいきません。お姉様がおっしゃったからです。責めてはいけない。責めてはいけません……。


 赤ん坊の寝息が聞こえない。凍死したのかも知れない。

 この戯曲は、戦中戦後の悲惨を忘れ、高度経済成長の道をひた走る日本への批判が根底にある、とずっと言われてきた。市民社会の欺瞞を撃つ、というのは、あの頃の、演劇のみならず、文学・映画・劇画・音楽などまで含めた若き表現者達の多くに共有されたテーマだったのである。直接的な行動としては、60年安保闘争と68年(昭和43)の新宿騒乱をピークとした学生運動の、空前の盛り上がりがあった。
 しかし、当時から、この「闘争」の危うさは、見える人には見えていた。
 だいたい、欺瞞を撃つ、と言って、撃つべき対象は具体的に何か。いわゆる大人か。しかし、その大部分は、戦争の被害者だったとしか言いようがない。金儲けにしか興味がないじゃないか、と言ってみても、その金で大学へ入ったのが全学連や全共闘のお兄さんたちだった。即ち、「反抗者」たちにしてから、市民社会の外で生きていたわけではない。それに、大学進学率は、急速に伸びていたとはいえ、1975年(昭和50)でやっと三割強。ある程度余裕のない家庭出身でなければ入れない。それを忘れて、豊かさを追求する大人たちを一方的に非難するなら、欺瞞に欺瞞を上塗りするようなものだ。
 そのため、だろう、「自己否定」なる言葉もよく聞いた。どこまで本気か、と思ったが、一世を風靡する思潮なら、時に人を極限にまで導く。現実に、連合赤軍の「総括」から新左翼党派相互の内ゲバへと、若者たち自身に攻撃対象が移っていったのが1970年代だった。

 「マッチ売りの少女」にも、上と同種の不毛な過激さが溢れていて、あるいは、予言的、とも言えるかも知れない。
 〈女〉と〈弟〉はタチの悪いタカリ、という見方も可能だ。自分たちがいかに惨めな弱者か、できるだけ実演を交えて訴え、なんの関係もないけれど、今何もしないのは、見捨てたような、後ろめたいような気にさせる。「お前がどんなに我慢をしてきたのか、わかって頂なさい」と、〈弟〉を上半身裸にしてアザだらけの体を見せるところなんぞ、その気配が濃厚だ。
 事実弱者で、社会の被害者ではあるが、それを誇張して、演じる。私も、まだ、駅にいる傷痍軍人を二、三回見たことがあるが、あれがよく体現していた暗さ(傷痍軍人が登場する別役劇もある)……なんて言っても、見たことがない人にはわからないな。こういうのが社会の表面からは消えたのが、バブル以降の日本社会で、昔の日本ならでは、このような乞食稼業が成り立ったものだろうか。それからは、「他人とは無闇に関わるな」が一般庶民のモットーになった。
 一方、〈女〉と〈弟〉の言うことは、部分的には事実だ、と仮定してみよう。〈男〉はかつて、幼い娘の陰部を束の間見るために、マッチを買ったのかも知れない。まことに、「ささやかな罪」としか言えない。忘れる、つまり「なかったこと」にするしかないのだ。「みんなどうしようもなかった」のだから。もっと大きな、売春や強姦も、幼い子どもを飢えと寒さで死なせてしまったことをも、忘れたからこそ現在がある。忘れたからこそ、他人に優しくできる。
 欺瞞だ、と言われるなら、いかにも。しかし、他にどうしようがあったのか? もっと広く見て、いかなる欺瞞もなしで生きていける人なんて、この世にいるのか?
 〈女〉は、全く個人的に、それが耐えられない、と、言葉ではなく、全身で訴える。「なんのため」は知らずにやったあのことは、深いところに刺さった棘のように、内面の、深いところに残っている。忘れたりしたら、これに決着をつけることは永久にできなくなる。だから、「なんのため」は除いて、ひたすら追求する。
 では、〈女〉の本当の父が現れ、自分がさせた、そうでなければ生き延びることはできなかった、と告白し、謝罪したとしたら? 「決着」になるのだろうか。そうなれば、ことは一家庭の、個別的なできごとでしかなくなる、それがはっきりするだけではないか。
 そこを超えた社会的歴史的な広がりを持つためには、罪―罰あるいは許し、に関する普遍的な原理がなければならない。言い換えると、この世を超越した何ものかだけが、時代の罪を、欺瞞を、裁いたり、許したりできる。それがないなら。
 「手足をバタバタさせる」ことを、強く、執拗に、理不尽に続ける。忘れることも、忘れられることも、許されることも拒否して。それがここで採用された方法である。
 それでいて全体を、上品で慎ましい枠の中に収め、狂気とはうらはらな安定感を出す。
 このようにして、少女の貧しいスカートが包み込む、ちっぽけだが深い闇を、当初の生々しさをもって、一瞬だけ蘇らせることができる。本当は誰もが知っているのに、黙契として、見ないことにしてきた暗部。暴露でも糾弾でもなく、ただ、あることだけを示す。生身の肉体という、この上なく具体的なものを素材とする劇芸術にだけ、こういうことができるのである。

【多少「研究」と呼ばれるに近いことを記しておく。〈女〉が読んで「思い出す」きっかけになった小説は実際にあるのではないか、と思う。
 第一候補は、野坂昭如の同名小説「マッチ売りの少女」だが、やや微妙。『野坂昭如コレクション1』(国書刊行会平成12年)の、大月隆寛の「解題」によると、この小説は『オール読物』昭和41年12月初出。戯曲のほうは、『劇的なるものをめぐって――鈴木忠志とその世界』(工作舎昭和52年)の「年譜」によれば、早稲田小劇場の杮落としとして鈴木忠志演出で初演されたのが同じ昭和41年の11月。『オール読物』の「12月」が「12月号」であって、もっと早い月に刊行されていたのだとしても、別役がこれを読んでから戯曲を書いた、にしては時期が早過ぎるようだ。
 同じ時期に同名の、同じタイプの街娼、に近い者を題材とした二作品が出たというだけで、どうしても因縁めいた話にはなる。ただ、内容的には、野坂の小説のヒロインは、24歳だが、荒れた生活のために40以上に見える、つまり実際は「少女」ではない悲惨極まりない女。戦争との関係もなく、暗闇でマッチが点っている間だけ陰部を見せるという設定以外は、別役劇との共通点はない。
 これも大月によると、こういう女性は大阪には実在したのだという。私が聞いた話としては、東京新宿でも、戦後もかなり後の時期まで出没していた、というのがあるが、今は確かめようもない。】

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