由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

子どもはどこにいるのか その4(山びこの残響)

2013年07月31日 | 教育
メインテキスト:無着成恭編『山びこ学校』(初版は青銅社昭和26年。岩波文庫版平成7年)

サブテキスト:佐野眞一『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』(文藝春秋平成4年)

 「僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんぐらい貧乏です」と、1949(昭和24)年12月16日の日付のある作文「母の死とその後」は書き出されている。筆者は江口江一、この時山元中学校の二年生だった。極貧の中、六歳の時にまず父を亡くし、その後三人の子どもを育てながら働きづめに働いてきた母も死んだ。弟と妹は親類にもらってもらい、家には江一と74歳の祖母しかいなくなってしまった。母は、「江一さえ一人前になれば」と口癖のように言っていたが、母がどんなに一所懸命働いても借金が増えるばかりだったものを、自分が同じぐらい働けば、いや、母の倍働いたとして、暮らしは楽になるのだろうか、と江一は疑問を持つ。江口家の収入は、三段歩(約30a、900坪)の畑から家庭用の菜園に使っている部分を引いたところで取れる葉煙草で、その取れ高は毎年ほぼ決まっている。それを売った収入で、米などの必需品を買い、税金を納めた場合には、村からの扶助があってもなお、借金をしなければ生活できない。貧乏生活から抜け出すことができないのは、当たり前のことだったのだ。
 最大の問題は田がないことで、もしも不作で誰も米を売ってくれなくなれば、飢え死にするしかない。だから田がほしいと思うのだが、自分が買えば、売った人は今の自分ような苦労をしなければならないのではないか。驚くべきことに、この少年はそこまで考えている。
 担任の無着成恭からは、より差し迫った問題を訊かれる。江一は二学期になってからもう一ヶ月半も学校を休んでいる。仕事が忙しいからだ。いつになったら一段落して、登校できるようになるのか。無着に言われて計画表を作ってみると、十二月には一回か、よくても二回ぐらいしか来られないことがわかった。無着はその計画表をクラスの佐藤籐三郎など、主だった者に見せ、「なんとかならんのか」と問うと、佐藤は「できる。おらだの組はできる」と力強く答える。そして土曜日にクラスの者たちが江一の家へ来て、一人では何日もかかる仕事を一日で終えてしまった。感激した江一は、作文の終わり近くにこう記している。

 明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したい思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。

 以上簡単に要約したところからも、これが圧倒的な感動を呼ぶ作文だったことは理解されるだろう。感動の理由を列挙すると、次のようになるだろうか。
(1)わずか13歳の子どもの肩にのしかかる、困難な生活の圧倒的なリアリズム。
(2)地域の者たちが力を合わせれば、その困難な生活も改善できるのではないか、と明るい希望を抱かせる。
(3)筆者の江一の目は自分の生活状況の冷静な分析に及んでいる。この目はやがて、社会全体の矛盾の発見、さらには改革を志すところまで及ぶのではないかと期待される。

 現在でも詩文集『山びこ学校』のエッセンスを示すと言われている「母の死とその後」だが、同書の出版に先駆けて活字になっている。昭和25年、日本教職員組合(日教組)と教科書研究協議会の主催による第一回全国生徒児童作文コンクールに山形県教組によって応募され、文部大臣賞を受賞したからである。
 江口の担任教師無着成恭は、昭和23年、新採教師として山形県の山元中学区に赴任した。二十一歳だった。翌24年に教え子の中学二年生たちの詩文集『きかんしゃ』第1号を手作りのガリ版刷りで発行。「母の死とその後」はその第2号に載った。『山びこ学校』は全部で16号出たこの『きかんしゃ』から抜粋、編集して出来上がったものだった 。
 佐野眞一の著書を頼りに、もう少し遡った背景を見ておこう。
 山形県は戦前から生活綴方運動の指導者村山俊太郎や国分一太郎を排出し、いわゆる北方性教育の本拠地と目されていた。しかし、同県の禅寺に生まれた無着は、教師になった時点では、これらの教育方法とは無縁だった。彼は同じ山形でも自分が継ぐべき寺がある本沢村に戻り、そこで教師兼住職をしながら、青年たちの文化運動のリーダーを務めることが夢であった。案に相違して山元村に赴任してから、この寒村の子どもたちをどう教育したらいいのか悩み、旧知の山形新聞編集員の須藤克三から国分一太郎を紹介され、そこで初めて綴方=作文教育という方法に目覚めることになった。
 しかし、指導者の経歴や資質以上に重要なのは、終戦直後にそれまでの修身・公民・地理・歴史を廃して始められた「社会科」の存在ではなかったかと思う。この科目の創設は、昭和21年4月に提出されたアメリカ教育使節団の報告書に基づき、日本の教育の「民主化」を目指した方策のうち、いわば目玉になるものだった。それだけに、これを具体的にどう教えるかについては、たいへんな苦労を経なければならなかった。昭和22年5月には小学校用の「学習指導要領社会科編(Ⅰ)」が、6月には中学高校用の「学習指導要領社会科編(Ⅱ)」が出ており、実施はこの年の9月、つまり学年の途中から、というのもたいへん異例だった。
 無着自身が、この新しい教科である社会科を専門とする教師だった。『山びこ学校』初版の「あとがき―子どもと共に生活して―」で、次のように書いている。
 社会科の教科書の一つ『日本のなかの生活』中の「日本のいなか」【註、たぶん、『日本のいなかの生活』として昭和24年に刊行されたものの前身だと思われる】のまえがきには「この教科書は、わが国のいなかの生活がどのように営まれてきたか、その生活に改善を要する方面としてはどんなことがあるかを、学習するに役立つように書かれたものである」のだから、「いなかに住む生徒は、改めて自分たちの村の生活をふりかえって見てその欠点を除き、新しいいなかの社会をつくりあげるように努力することがたいせつである」云々と書かれていた。そこで無着が「文部省の考えの深さに驚いた」などと述べているのは皮肉であろう、と百合出版版(昭和30年刊行)の「解説」で国分一太郎は述べている。
 それはそうと、では、どうやったら教科書に書かれているような努力を生徒にさせたらいいのか、そのやり方として発見されたのが綴方だったのだ、と無着は言う。例えば、
(a)ある生徒が、隣人の話として、「息子を教育したんで、百姓がいやになり、その家はつぶれてしまった」と綴方に書いてくる。
(b)では、「教育を受けるとなぜ百姓がいやになるのだろう」と生徒たちに問いかける。
(c)生徒たちからは、「百姓はつらい仕事だから」「百姓は馬鹿でもできるから」「百姓はあまり物を知らないほうがよい」などなどの答えが返ってくる。議論が煮詰まると、概ね、「百姓は働く割には儲からないからだ」というところに落ち着く。
(d)それは本当にそうなのか、ということになって、米や繭や葉煙草の価格から肥料や農具の値段などを、班が作られて分担して調べられ、計算されて、実際に「百姓は割損」であることが実証される。
(e)すると、「やはり百姓はあまり考えると馬鹿らしくてできなくなり、といって他に仕事も見つからないのだから、あまり考えないほうがいい」という悲観的な考えが出てくる一方で、「損をしても働かねばならないなんて、そんな馬鹿な話があるものではない。百姓は損をしなくてもすむように頑張るべきだ」という意見も現れる。これに無着は思わず「そうだ、そうだ」と怒鳴る。
(f)しかし、では、どうすれば百姓の仕事が割損にならないようにすむのか、という点になると、当然ながらそう簡単にはいかない。すべての前提として、いったいなぜこんな社会状況になっているのかが検討されなくてはならない。社会科の教科書だけではなく、さまざまな本を読んで一応、第一、かつての身分制度があった時代の社会習慣や考え方がまだ残っている(このことは、他の綴方からも確認される)。第二、諸外国に比べて日本の耕地面積は狭いので、生産高も低い。この二つは、農村を豊かにするために大きな障害になっていることはつきとめられる。
(g)第二の点の解決策としては、耕地面積あたりの生産性を高めることが改善策として考えられるが、それには機械化が必要であろう。しかし、一軒で機械を所有すれば、その費用だけでも割高なので、何軒かで共同で使うようにすればいいのだが、その場合、「共同責任は無責任」ということで、みんなの機械がぞんざいに扱われるようなことがあってはなんにもならない(これまた、ある子の綴方に出てくる)。
(h)以上から、次の二つが今後の農村にとって大事であることが確認される。
1 農民をもっと金持ちにすること。
2 農民はもっと共同のものを大事にして、自分だけよければよいという考えを捨てること。

 作文とクラス討議を通じて、ここまで生徒を導いた無着の教育実践には、改めて目を見張る思いがさせられる。もちろんここでの作文=綴方とは、一つの作品として仕上げられることが重要なのではなく、文章にするために客観的・分析的にものごとを見る目を養い、文章にすることによって考えをまとめ、出来上がった文章を他人に読んでもらうことで、自分の考えをさまざまな角度から検討する、その材料になることが一番重要なのだった。これはまた、終戦直後、主にアメリカから求められた民主主義的な教育は、この日本で、具体的にはどのように展開されるべきか、一つの明確な回答を出したものでもあった。

 しかし、見事であればあるだけ、危うさもあった。
 一つには、『山びこ学校』は有名になり過ぎた。これも佐野によると、売り上げは発行二年間で十二万部に達し、26年の一年間だけでもこれを取り上げた新聞・雑誌は百を超し、知識人であれば誰もがこれについて一言以上あるべきだ、という雰囲気にさえあったという。中学生の文集がここまで話題になるのは世界的に見て稀であろう。それというのも、戦争に敗れた後の新生日本のあるべき姿を底辺から希求する、貴重な声がここにあると考えられたからだろう。
 ただし、それもこれも、外部から見た話である。作品の舞台となった山元村の住民からすれば、惨めな貧窮状態が全国に曝されるようなのは、面白くないと感じられる場合もあったろう。
 それ以上に、今から見ても「こんなことをバラして大丈夫だったのか?」と思える内容の文章もある。たぶん無着の手になる「作者紹介」で「愛される理論家」と評されている川合義憲の一連の作文など、彼が実際に見聞したいわゆるヤミによる商品売買が、赤裸々に描かれている。駐在だって、炭などをヤミで買ったことがある。それでも、時には農家を摘発する。川合の家は大丈夫だったらしいが、こんなことを書いて、と父母からは叱責された。それが活字になった。おかげで我々は貴重な記録を目にすることができるのだが、直接の当事者である川合家の人々や関係者に、これを「教育」の一環として理解しろと言っても、無理な話ではある。
 それから、当然予想されることだが、無着の教育によって、子どもたちは社会に対する批判的な目を身に付ける。作文ではそれは、村の大人たちへの直接の批判として現れる。批判されれば、その内容の適否以前に、中学生のガキが、何を生意気な、と今の大人でも(大半がこのときの山元中学校の生徒より年下になるわけだが)反感を持つだろう。それはただちに、彼らの指導者である無着への反感となる。昭和26年と言えばサンフランシスコ講和条約が署名された年だが、朝鮮戦争後に方向転換したGHQによるレッド・パージの記憶はまだ生々しいものとしてあった。そこで無着は「アカではないか」と言われることもあった。
 昭和28年、ウイーンで世界教育会議が開催されると、無着はその出席者の一人に選ばれた。帰途、羽仁五郎のすすめで、日本の当局には無断で東欧に入り、さらにはモスクワに迎えられて、モスクワ放送に出演した。当然大騒ぎとなり、この事件がきっかけで無着は村を逐われることになった。こうして無着成恭の公立学校教員生活は五年で終わったのである。

 たぶん今でも、『山びこ学校』を読めば、その教育のすばらしさを否定する人は稀であろう。しかし、では、自分の子どもにこのような教育を施してもらいたいか、となると話は別になるだろう。
 山元中学校の生徒たちの手になる作文の迫力は、なんと言っても彼らが中学生であっても生産の担い手であったことに由来する。つまり、彼らの家のほとんどが農家であって、小さいときから野良仕事の手伝いをすることは、この頃までは当たり前であった。前述した農業社会の現状への疑問も、彼らにとっては少しも抽象的な話ではなく、生活の中でぶつからねばならない切実なものとしてあった。労働人口の八割以上が勤め人となり、家庭と生産現場がほぼ完全に分離された現在では、この教育実践の土台は完全に消えている、と言える。
 それに付随して次のことは指摘されなければならないだろう。江口江一を初め、日本全国の農村の子どもたちが苦しんでいたのは、結局貧乏だからだ。「貧乏綴方」という悪口は、『山びこ学校』以前から、綴方運動に対しては言われていたようだ。彼らは貧乏だからこそ興味深いのじゃないか、というわけである。それはともかくとして、経済状態が改善され、子どもが、江口のような苦しみを嘗めないほうが、優れた文章が出るよりもっといいと、普通には考えられるだろう。
 その後の日本で、改善はなされた。しかしそれは、山元中学時代の無着や彼の生徒たちが望んでいた方向とは違うものだった。岩波文庫版のあとがきでは、無着はこう言っている。

 明治維新のとき自らを後進国と自認した日本は、軍隊が強くなれば世界は認めるだろうということで、天皇を絶対なる神であると措定し軍国主義で日本人の心をコントロールしてきました。それが崩れた一瞬のすきにできたのが『山びこ学校』です。しかし、池田首相の所得倍増論をきっかけに、こんどは、お金もちになれば世界中が認めるだろうということで経済主義教育につっぱしり、いじめ、登校拒否、オウム教などの今日的状況を作りあげているわけです。

 いじめや登校拒否やオウム真理教などが「経済主義教育」の結果生まれたと言うにしては、もっといくつも補助線を引かねばならないと私は思うが、経済状況に限っても、戦後日本社会の歩みを完全に肯定することなどできないとも思う。経済的発展とはあくまで商工業に関するものであって、農林水産業、いわゆる第一次産業は完全に置き去りにされた。地方は過疎化が進み、山元中学校は平成19年に廃校になっている。
 この歪みと犠牲の上での繁栄なのだが、問題は、このやり方以外には、貧乏人が多少とも豊かになる道を人類が発見していないところにある。山元中学校の生徒たちが作文製作と討議の結果たどり着いた理想的な農村のイメージは、社会主義国の集団農場に直結しそうだが、周知のようにこれは、ソ連でも中国でも成功しなかった。無着の教育実践をストレートに現在に生かそう、などと簡単に言うことはできない。
 何よりも無着自身が、山形を去って東京の明星学園の教師になってから、同じような実践を続けることはなかった。この後の彼の教師・タレントとしての活動の跡を詳しくたどるのはここではやめるが、最終的には学校教育そのものに絶望したようだ。明星学園内部での種々の対立の結果、昭和58年に教壇を去り、盟友だった遠藤豊(明星学園小中学校校長を務めた。同じ時期、無着は同校教頭だった)を校長として自由の森学園が開校(昭和60年)されても、そこに加わることはなかった。

 それにつけても、「一瞬のすきにできた」とは、無着もわかっているなあ、と思う。軍国主義が終わり、経済主義がまだ始まらない狭間に咲いた美しい教育の夢の花、それが『山びこ学校』だったのである。夢は消えても、現実の学校は残っている。そこを多少ともよくしていこうと思ったら、かつての思い出に耽るより、なぜそれが今成り立たないのか、その諸事情を熟考することこそ正道であろうと思う。
コメント (8)
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