由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

家族はどこで成立するのか

2018年06月25日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワーク:是枝裕和監督「万引き家族」(平成30年)



 上映が始まって間もなく、舞台となっている「家」の光景に否応なく惹きつけられた。ビルの谷間にポツンと取り残された、古ぼけた平屋建ての家屋。その中で、大小の荷物が雑然と積み重ねられたあまり清潔ではない室内を、ますますむさくるしく見せるだらしない格好の人間たちが、ちゃぶ台のまわりに集まって飯を食っている。その飯とはカップヌードル。ここにコロッケを入れて食べるとうまいのだそうだ。後ではすき焼き、にしては汁が多すぎる鍋を、皆でつつくシーンもあるが、肉が足りないようで、争って食う。活気はある、が、秩序はない。秩序、というのが大げさなら、型がない。「団欒」と呼ばれるに相応しい型が。
 かつての貧しい家庭とは、あまりモノのない家だった。モノのない貧しい家は今もあるだろう。しかし現代の、特に都市部で典型的に見られるのは、不要、ではないのかも知れないが、「用」ときちんと結び付けられていない雑多なモノであふれかえる、いわばゴミ箱のような「家」だ。なんせ、ゴミの分別が一仕事になるご時世。これをきちんとやるのは、少なくともやろうとする意欲を示すのは、ちゃんとした「市民」である証しになる。「そんな意欲なんてもう知らないよ、それでも生きていけるし」となれば、家はすぐにゴミ屋敷と化す。
 そういう家や部屋は、正確な数や割合はわからないが、けっこうありふれてはいるから、多くの人が目にしているはずだ。現にそこで暮らしている人も、もちろん少なくない。しかし、皆がちゃんと見ているとは言い難い。invisible、か。いや、本当は見てはいる。目にしている、という意味なら。むしろ、語れないのだ。「モノがあり過ぎる貧しさ」を語る言葉や、語り方を、我々はまだよく知らないようなのだ。
 是枝裕和監督がそこへ、映画の言葉である眼差し(映像)を届かせようとするのなら、十分に意義のある試みだと言うべきだろう。彼は既に「誰も知らない」(平成16年)で、ドキュメンタリータッチでそのような部屋を描いた。こちらは親から見捨てられた、子どもだけの特殊な環境なので、今回より生々しさは少ないが。なにしろ、是枝監督が「家族」に対して一貫して持っているこだわりは、並々ならぬものがあるようだ。「家族はかくあるべし」なんぞという簡単な道徳物語では、とうてい収まりがつかないぐらいには。
 もっと多くのフィルモロジーを振り返ると、例えば「歩いても歩いても」(20年)では、血の繋がった、ちゃんとした家族を描いている。家の中はきちんと整理されていて、型は一応ある。しかし、欠損を抱えている。それは、完璧な人間などいないのだから、完璧な家族などないわけだし、欠損がなかったらドラマは作れない。当たり前すぎる話ではある。ドラマはその欠損を埋めるべく展開する。これまた当たり前。そして映画の最終場面は「埋まった」ことを示すようである。だが、本当にそうなのだろうか? ただ時が流れの中に欠損もまた、飲み込まれただけではないか、という、余韻ではなく、ためらいのようなものが残る。
 この作品の場合、欠損とは、二人の息子のうち、人を救おうとして自分は犠牲になって死んだ兄だ。人格も能力も申し分ない男だった。若死にしたことで、余計にそう思える。「自分はどこをとっても兄には劣る」弟はそう思う、いや、「もしかすると、親からそう思わされているのかも」とも思う。「兄ではなく自分が死ねば、皆にとってよかったのか」と。もちろんそんなことを問い質すわけにはいかないから、思いはいつまでも残り、両親と自分との間のしこりになる。それでもやがてその親も死ねば、すべては思い出となり、切実さは消える。正にユーミンが歌う通り、「時はいつの日にも 親切な友達 過ぎてゆくきのうを 物語にかえる」(「12月の雨」)。
 この続編あるいは変奏曲と言うべき「海よりもまだ深く」(28年)の場合。【両作の関連は作者にちゃんと意識されていたと思う。母子を同じ役者(樹木希林・阿部寛)が演じる以上に、歌謡曲の歌詞の一部を題名にする共通点を持たせているのだから。因みにその曲は、両方とも映画中に流れるが、お節介に記しておくと、橋本淳作詞「ブルーラート・ヨコハマ」と荒木とよひさ作詞「別れの予感」。】祖父―父―息子三代にわたる父子関係のしこりが解消されたような終わり方をしている。しかし、壊れた家族は元に戻らない。むしろ、戻らないことを必須の条件として、「和解」が成立しているようだ。
 もう一つ、本作の主人公は金にだらしのない男で、そのくせ見栄っ張りで、離婚した妻といっしょにいる息子の養育費を払えないのを、年金で暮らす老母のへそくりを盗んで充てようとする。このへんの人物設定は「万引き家族」に引き継がれた要素と言ってよい。
 「海街diary」(27年)の場合、主人公の女性たちはちゃんとし過ぎているくらいちゃんとしているが、それよりは、まず是枝の関心を惹いたのは、三姉妹がそれぞれ他に愛人を作った父母に、順に捨てられる初期設定のほうだったのではないかと思える。そして、彼女たちは、腹違いの妹、つまり父が他所の家で作った妹を、新たな、四人目の家族として迎え入れる、その過程で、父母とも象徴的に和解する。私見ではこれがあまり説得的ではなく、作者が家族の何を描こうとしているのかも、よくわからなかった。元来吉田秋生の原作があり、そのダイジェストのような作りなので、余計にそう思うのかも知れない。【今をトキメク美人女優を四人並べて、興行成績を伸ばそうとする配慮のほうが勝ったか、との疑念も消えない。】
 一方、「そして父になる」(25年)は、「家族にとって血縁より重大なのは、ともに過ごした時間であり、家族たらんとする意思だ」とういう道徳(でしょ?)の範囲で作品を作っているので、たいへんよくまとまって安定している。説得力もある。それで私はこの作品を是枝の最高傑作ではないかと考えていたのだが、訂正しなければならないようだ。彼の志はもっと高かったのだ。時に作品の枠を壊してしまうぐらいに。

 そこで「万引き家族」。もう既に言われ尽くした感じがあるが、この映画ではまず安藤サクラの、次に樹木希林の、存在感が圧倒的である。彼女たちの周りを飛び跳ねている感じのリリー・フランキーも、おそらく自己最高の演技を披露している。また、子役の使い方も、いつもながら舌を巻くぐらいうまい。これらを伝える撮影も編集もBGMも、ほぼ完璧の域に達しているようだ。これだけでも観客は、「確かに何かを見た」・「チケット代に値するだけのものはあった」と思わせられる。映画作品としてはもう成功、なんだから、話は終わり、黄金の棕櫚賞おめでとう、でよい。
 それを弁えたうえでさらに何か言うのは、上にも示した個人的なこだわりからであり、正当な作品鑑賞ではないかも知れない。それでも一応ここには現在こだわるべき何かがあると信じられる。
 まず物語の「世界」を構成する上での、普通なら弱点と呼ばれうる、設定説明の思い切った省略に注目しよう。万引き家族の家族構成員の間には、全く血縁関係はない。それはすぐにわかるが、もう一歩突っ込んだ彼らの関係、どうしていっしょに住むようになったかの最初のきっかけなどは、映画の最後の、警察の取り調べによって追及されているのに、決して完全には明らかにされない。
 家族の表面上の関係は、祖母(樹木)を中心に、その息子夫婦(リリー、安藤)、息子の腹違いの妹(松岡茉優)、息子夫婦の子ども二人(城桧吏、佐々木みゆ)、で、このうちなぜこの家に来ることになったのかがわかるのは最後の子ども二人のみ。祥太は真夏のパチンコ屋の駐車場で自動車内に置き去りにされていたのを、「父」・治が車上狙いをやっている時に見つけて、連れて来たのだった。りんは、「仕事」=万引きの帰りに、マンションの寒い階段に締め出されているのを、治と祥太が連れて来た、それが映画のそもそもの発端である。
 それ以外の「家族」のメンバーにはけっこう衝撃的な過去がある。
(1)治と信代夫婦は、かつて信代が(本当の)夫のDVによって苦しめられていたのを、治が、あるいは男女二人で、殺して埋めた。殺人そのものは正当防衛だか緊急避難であることが認められて、治は、たぶん死体遺棄の罪で禁固刑になっている。彼らと祖母・初枝の関係はわからない。いっしょにいるのは、家賃がかからないのと、初枝に定期的に入ってくる遺族年金が目当てであるらしい。
(2)妹・亜紀は、初枝の夫が、他の女性と家庭を持って作った息子の長女。つまり、初枝にとって血のつながらない孫。なぜか家出して、この「家」に来た。一番初枝になついている。大学生ぐらいの年齢だが、女子高校生に扮して風俗店で働いている。「家」には金は納めなくていいのが最初からの(初枝との)約束だそうだ。初枝は、時々亡父を弔う口実で、いやがらせ的に亜紀の実家を訪れては、金をせしめている。ただ、こちらの、亜紀の両親夫婦(緒方直人、森口瑤子)は、亜紀が初枝のもとにいることは知らず、彼女は現在留学中と嘘をついている。【初枝の亡夫の遺影にはなぜか山崎努の写真が使われている。どうせなら緒方拳のほうが面白いように思うが、それはいくらなんでも不謹慎か。】
 是枝自身がノベライズした本『万引き家族』(宝島社)には、本来初枝一人で暮らしていた家へ、問題大ありの者たちが住み着いたきっかけも短く説明されている。小説なら一頁足らずで書けるのでいいが、映画の場合、あからさまに「説明」のためのセリフは、極力省くようにしたものらしい。
【映画は、原案・脚本・監督が是枝裕和とクレジットされている。たぶん次のような順番で出来上がったものだ。原案に従って役者を集める。その役者に応じて脚本の細かいところまで練り上げる。例えば亜紀は最初の設定では太っていてとりえのない娘であったものを、「樹木・安藤に比肩し得る若手女優は松岡しかいない」とされた時点で、現行のようになった。特殊メイクで松岡を太った姿にすることもできたろうが、それはせずに、美人で、それも今風の幼いアイドル顔ではない、伝統的な、で登場するのだから、この改変は小さくなかったはずである。などなどを取り入れた脚本完成後、そこでは省かれた説明まで加えた小説が書かれた。】
 なるほど、そんなにくだくだしい説明はなくても、彼らが体制外の、非合法の存在であることはよくわかる。ただ、やっぱり構成上の問題であろうと思えるのは、治・信代夫婦(もちろん籍なんて入れてないだろう。為念)と亜妃があまり絡まないところだ。
 亜妃は風俗店に客としてやってきた青年(池松壮亮)に、自分と同じような心の傷を感じて、惹かれ合う。この話はそこまでで、その後の展開はない。
 他の「家族」といっしょに連行され、警察の取り調べを受けた時には、初枝が両親から実質的に金をせびっているのを知り、「おばあちゃんはお金が欲しかっただけなのかな……、私じゃなくて」と呟く。これは誤解だが(もっとも、映画ではけっこう曖昧)、どちらにしても治夫婦とは関係ない。子どもたちの世話もしない。だから彼女は「家族」内の局外者になっている。最後のあたりで、誰もいなくなった家を一人で覗きに来るシーンも、小説に記されているような意味を映像だけから読み取るのは無理だ(それとも、私だけ?)。
 しかし、だからこそ、かも知れない、治との次のような印象的な対話はある。映画の場面を私が説明するより、ほぼ同じだと思える小説から引用したほうがいいだろう。

「ねぇ……いつしてるの? 信代さんと」
 珍しくふたりだけになってチャンスだと思ったのか、亜紀は日頃から疑問に思っていたことを治に問いかけた。
「えっ? 何が?」
 治は動揺しているようだった。
「ラブホとか行ってんの? 内緒で」
「もう……いいんだよ俺たち……そういうのは」
 治は大人の男の余裕を見せようとして、逆に表情がぎごちなくなった。
「ほんとに?」
 亜紀は上半身を起こして治に向きなおった。
「あぁ」
 そう言って治は亜紀に笑いかける。
「俺たちここじゃなくて、ここでつながてっからよ」
 治は股間と胸を順番に触ってみせた。
「うそくさ」
 亜紀は吐き捨てるように言った。
「じゃあ何でつながってると思ってんだよ」
 治はちょっと真剣な顔になった。
「お金。普通は」
 亜紀は何か悟ったような表情でそう言い放った。
 たかだか23年の人生の間に、いったいどんな大人たちの姿を見てきたのだろう。
「俺たち普通じゃねえからな」

 
 人間の繋がり、絆、を創り出す基になるのは、セックス(を初めとするエロス)・心・金のうち、何か一つ、と言い切るととたんに嘘くさくなる。【このすぐ後に、治と信代の、是枝作品には珍しい露骨な性交場面があって、それが稀な行為であることも明かされ、「性」は彼らにとって決定的な重要事でないこともわかる。】それらの混合、と言っても違う。
 では、何? を、説明するのではなく、描き出すのがつまりこの映画の眼目なのだ。最も「普通」ではない家族を通じて。

 何が普通でないかと言うと、彼らがいわゆる社会性をほとんど失っているところだ。
 社会から捨てられた、と言ってもいいし、事実よくそう言われる。映画中信代も、「(初枝を、ひいては自分たちを)捨てた人は他にいるんじゃないですか?」と問いかけている。
 では、社会は彼らを拾えばいいのだろうか? ここが難しい。
 無論、いわゆる社会福祉によって救うべきなのに、それがなされていない場合はまだまだ少なくないだろう。「誰も知らない」の子供たちは明らかにそうされるべきだし、昨年度のパルムドール受賞作、ケン・ローチ監督「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、福祉制度の不備のために本来救われるべき人が救われずにいる不条理を告発した名画だった。そういう文芸(的な)作品は現にある。是枝監督は今回はそれとは明確に一線を引いたのだ、と思える。
 題名になっている万引きをやるのは、主に治と初枝で、治はまず祥太に「仕事を教える」という口実で手伝わせ、次に祥太がりんに教えて、これが彼らの仕事=犯罪の破綻の、直接のきっかけになる。筋が展開する上で一番の動力になっているので、最初監督は「声に出して呼んで」という切ないタイトルを考えていたのに、プロデューサー側が、よりインパクトの強い「万引き家族」にしたものらしい。
 彼らは、食うために仕方なく万引きをするのだろうか? どうも、そういうことではない。パチンコ屋で隣の客が大箱にいっぱい玉を貯めたままトイレに行った隙に、初枝がいくらか玉を盗む、それを見ていた他の客に、初枝は唇に中指を当てて「シーッ」と言う。その男が知り合いというわけではない。なのに、全く悪びれない。【この後どうなったかは描かれていないが、「シーッ」された男は、関わり合いになるのが面倒なので、黙っていたらしい。たぶんみんな知っているように、「社会」の側の正義も、だいたいはそんなものだ。】
 彼らにとって盗めるものを盗むのは「当たり前」でしかない。見つかって罰を受ければそれは罪になる。見つからなければ、多少気を使い労力を使ってモノを手に入れる、正に「仕事」なのだ。ありあまるほどの金があれば、そんなことはしないだろうが、それはあり得ないのだから、この状態が変わる見込みはない。彼らの社会性は、即ち彼らの中の「社会」は、そこまで壊れている。
 壊したのは社会だ。そう言える。彼らはずっと、社会から否定され続けて生きてきた。しかしこの言い方は、「社会」という抽象語を使うからもっともらしく聞こえるところがある。具体的に彼らの周りにいて、彼らを嫌い、疎外してきた者たちは、「社会正義」のために彼らを尊重する、なんてことがあるだろうか。そうしろ、と言われてするものだろうか。そんなことはない、ならば、行政組織などの、公的な「社会」がここでできることは、ほとんどない。
 「家族」の、特に女性たちの行動原理には社会への復讐が含まれているようだ。初枝が金をせびるのは自分を捨てた夫への仕返しだろうし、亜紀はその同じ家族への不満(何が不満なのかはよくわからない)から、だろう、風俗店での源氏名に、家族と幸せに明るく暮らしている妹の名を使っている。信代は、かつて親から虐待された者として、りんを慈しむ。りんの両親は、虐待の事実が明らかになるのを恐れて、二か月もの間りんの失踪届を出さなかった。ために、りんを殺したのではないかと疑われる。信代から見たら、「いい気味」だ。
 このように、彼女たちの復讐は間接的であり、明確な焦点を結ぶものではない。それが生きる目的になっている、なんてものではない。だから彼女たちはけっこう軽いし、明るい。社会性と一緒に、社会へのこだわりも捨ててしまえるなら、後は気楽なものなのだ。
 ただ、問題は残る。そんな彼ら相互の「関係」は、どんなものなのか。家族もまた、最小の社会である。元の社会から弾き出された、という事実は、とりあえず彼らを結びつける。しかし、どんな場所でも時は流れる。生活は続く。そこで、彼らがいっしょにいる「意味」は、改めて問われざるを得ない。

 初枝と治・信代夫妻の間には実は信頼関係はなかった。初枝は亜紀の両親からもらった金を治たちには隠しているし、治たちはまた、初枝が自分たちには隠したへそくりがあるのではないかと疑っている。初枝が治夫婦を家に置いておくのは、孤独死を免れる保険だ、と言う。その彼女が死んだとき、信代は冷静に、床下に死体を埋めるように指示する。遺族年金をもらい続けるために、という以前に、元来血縁関係はなく、住民票もない彼らに、葬式を出すなんてできない。そして死体を隠す作業が終わった治は改めてへそくりを探し、見つける。九万円ぐらいの金だし、治夫婦の喜び方も無邪気なので、それほど醜い印象にはならないが。
 初枝の生前から、彼らの間では冗談めかしてこれらのことは語られていた。このクールさはまた、「家族」がヘラヘラ明るく暮らすのに役立つ。本当の信頼関係、責任感、などは、人間関係を重くする。その重さを引き受けるのが社会人の条件とされるのだが、外部の社会の中では誰一人、彼らの存在の重さを引き受けてくれなかったことは前述の通り。だから結局は社会のせい、とは言いたくないが、この点では誰も彼らを責めることができないのはそうだと思う。
 もっとも、ケチな欲望だけがすべてなのではない。一家が海水浴へ行くシーンで、初枝が信代の顔を眺めて、「あんた、綺麗だね」と言うシーンは、こんな関係でも愛着が生じることを示している。あったところで、どうということはないが、ともかくそれは、ある。

 大人同士の関係ならこれでもひとまず済むが、済まないのが大人と子どもの関係だ。なぜなら、大人は子どもを養育しなければならない。この社会性だけはぎりぎり残るところが不思議と言えば不思議。それ以前に、他人のことなどかまう余裕はないはずの彼らが、本当の親からは捨てられた子どもをなぜ引き受けるのか、それが不思議。要は、ちょっとした同情で犬や猫の子を拾ってくるのと変わらない。それでも、いったん家に入った子どもの存在は大きい。この集団は子どものために家族になるのだし、子どもを引き受けられないことが明らかになった時に崩壊する。
 信代はりんに対して本当の母性を感じるのは前述の通り。
 治は祥太に万引きの「仕事」を伝授する。「(自分には)他に教えられることは何もないから」と。そして、祥太というのは治の本名だった。彼も他の親と同様、子どもの中に自分の分身を見ていた。そこで、他ではやらない、自分たちの行為の正当化も一応はした。祥太は十歳なのに、学校へは行っていない。「学校は自分では勉強できないヤツが行くんだ」と。泥棒はよくないが、万引きはいい。「店にあるものはまだ誰のものでもないから」。こんなインチキ、子どもだましですらないから、祥太にも見抜かれ、その時、治が父の役割を引き受けられないことは明らかになる。
 事件は次のように起きる。祥太はりんが見よう見まねで万引きをして、捕まりそうになるのをかばって、みかんのケースをひっくり返してみかんを一袋持って逃走する。逃げ切れなくなったとき、陸橋から飛び降りて、脚を骨折する。病院に運ばれた夜に、「家族」は夜逃げしようとしたところを、警察に捕まる。
 「祥太を見捨てようとしたのだ」と警官から聞かされた祥太から、「そうなのか?」と問われて、治は「そうだ」と認める。正当化はしない。血縁からしても法的にも親ではなく、保険にも入っておらず病院代も払えない自分たちにはそれしかできない、それは言わば最初からの前提であったはずだ、と大人同士なら言えても、庇護しているはずの子どもには言えない。賢い祥太には、それは理屈としてはわかっていたとしても、だ。
 死体遺棄や年金詐取、幼児誘拐などすべての罪を一身に受けて逮捕された信代は、祥太に実の親に関する情報を与える。自分たちには彼を守り切ることはできないのだから、と。しかし、その親とは、サウナのようになる車内に幼い祥太を長時間置き去りにして、パチンコに興じるような人間なのだ。
 つまり、体制内の人間が、きちんと義務を果たすとは限らない。その実例を、我々はごく最近見たばかりだ。体制とは、その内部にとどまって、かつ義務を果たそうとする人間に、いくらかの援助を与えるだけのものだ。無論、それだって、ないよりはあるほうがよい。なくては困る。
 しかしそれですむのかと言えば、もちろんそうではない。
 「こどもにはね、母親が必要なんですよ」と女性刑事に言われて、信代は「母親がそう思いたいだけでしょ」と答える。子どもを産めば自動的に母親になれるというものではない。しかし、体制は、人の心の内側にまで踏み込むことはない。この「家族」は、初枝を除くおそらく全員が親からも捨てられている。だが捨てた親の側がめったに、罰せられることはない。かなり虐待が明白なりん(本名は、じゅり)の場合も。
 TVのインタビューで、「じゅりちゃんはゆうべ何を食べましたか?」「大好きなオムライスを……」「お母様の手作りの?」「ええ」と流れる場面からは、我々の日常の、それを支える制度の、欺瞞そのものを見せつけられているようで、怖気をふるうほどになる。体制はタテマエに応じて秩序を作り上げる。だから我々が生きる生の現実からすれば、必ず多少の嘘を含む。けれど、それがなければ、人の世は保たない。
 信代は、元の家とこちらのどっちがいいかりんに尋ねて、はっきり、「こっち」という答えを得ている。血縁関係はあっても、選ばれていない親より、現に選ばれている自分たちこそ「本物」ではないか、と。
 一般的にこれに答えるとしたら、自分が「選んだ」はずの結婚相手ともしばしば離婚するのだから、どっちが「本物」だ、とは言えないだろう。ただ、「万引き家族」は、制度に守られていない分だけ、欺瞞のない、純粋な情愛を持ち合えた面はある。それこそが「真に人間的なもの」と言えるかもしれない。いつまでも保つものではない、それと引き換えに、ではあっても。

【本作がカンヌ映画祭のパルムド-ル賞を獲得して、是枝監督は世界各国のメディアからインタビューされた。その中の一つがネット上で物議をかもした。この一連の騒動からは、日本の文化人の、あまりの政治的なナイーブさ、そしてそれを利用するメディア(この場合は外国の)の悪辣さがよくわかるので、ついでに記録しておきたい。
 問題になったのは、韓国の「中央日報」日本語版6月17日で、そこで是枝の言葉として次のように記されている。

 共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている。

 これに対して是枝監督が公式サイトに載せた「「invisible」という言葉を巡って」は、文の調子はそうではないが、抗議文と言ってもよい内容だ。要点は以下の二つ。
(1)インタビューの際、共同体の話になったとき、EUを例に出し、ドイツが果たしている役割を日本が東アジア共同体の中で果たそうとしたら、過去の歴史ときちんと向き合う必要がある、とは、是枝は言った。「謝罪」という言葉は、翻訳(英語→韓国語→日本語、らしい)の過程でつけ加わったのだろう。
(2)「民主主義が成熟していく為には、僕は定期的な政権交代が必要だと考える人間のひとりである。何故なら権力は必ず腐敗するからである」と言ったら、これは余談の類であったのだが、それが「安倍政権が続いて私たちは不幸になった」と単純化されて伝えられて、驚いたとのこと。
 いや、監督さん、これ、単純化じゃなくて歪曲ですって。
 それにしても、ちょっとだけ批判したい。ドイツのEUでの在り方については、エマニュエル・トッドの、「ドイツ第四帝国が出現したようなものだ」など、さまざまな批判があることをご存知の上で言っておられるのか? そうでなかったら、危ういと思います。
 それから「権力は必ず腐敗する」としたら、今の世界で危険な国は、ロシア・中国・北朝鮮、ということになりませんか? ほとんど政権交代がなく、今後も当分ありそうにないんだから、きっと腐敗しきってるんでしょう。そんな国が、日本のすぐ近くにあるんだから、危険極まりない、ということにはどうしてならんのですか?
 こういうのは日本の左翼、じゃなくてリベラルか、の通弊になっている考え方が出ていて、「是枝よ、お前もか」とういうところ。しかし、是枝監督の名誉になりそうなことは最後のほうにある。
 フランスの女性記者からは、「この映画は何を告発しようとしているのだ?」と、執拗に訊かれたとのこと。そういう時、監督はいつも「映画は何かを告発するとか、メッセージ伝えるための乗り物ではない」と答えて終わりにするのだが、今回の彼女はそれでもなかなか引き下がらなかった、こういう場合には「リベラル」なメディアのほうが頑なである、とも言っています。
 例えば手塚治虫は、多くの人と同様私も尊敬する大表現者ですが、とても単純な戦後平和主義者でした。政治やイデオロギー上の思想信条とは別に、「人間」についてすぐれた表現ができると、私は信じておるわけです。まあそれ自体が、ひどくナイーブな文学少年的な信条だと言われるかも知れませんが。】
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