Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

中朝国境の旅2

2009-06-22 08:56:32 | 中国旅行

2日目は旅行社で予約しておいた車で旅順へ。早速博物館へ行ったら月曜休館。で日露戦争の激戦地、二百三高地に。砲弾の形をした爾霊山と書かれた碑は乃木希典が戦闘後、慰霊のために建てた。丘の高さが203メートルだったから「爾霊山」。往復100元のカートに乗って登ってしまった。ただ運転手のおじさんが、カート用通路を工事したとき、日露戦争当時の砲弾300発が出てきたこと、斜面の土の地層が岩のように固まっていない部分は、着弾し爆発したところだ、など興味深い話をいろいろしてくれた。乃木の次男保典の戦死した場所に碑が建てられていた。

途中で「中国のマタハリ」「男装の麗人」川島芳子の実家、粛親王府跡があった。近くの旅社はかつての旅順ヤマトホテルだが、すたれてしまっている。ここで川島芳子はモンゴルの王子と結婚式をあげた。
ロシア旅順要塞攻略後に乃木がステッセル司令官と会見した水師営へ。以前来たときに土産物売り場で日本語で話しかけてきた、かつて旅順第2中学で日本語を教えていたという老人は亡くなったという。もともと野戦病院だったところで、テーブルは手術台だった、と今も残る木のテーブルに書かれている。昼食は水師営会見場跡地わきのレストラン。アサリの炒め物と、トウモロコシで作ったという麺の焼きソバはモチモチシコシコしてうまかった。ほかには苦瓜とキクラゲ、キノコと豚肉の炒め物。


東鶏冠山北堡塁は乃木が手を焼いたロシアの要塞。乃木は横穴を掘り爆発物を仕掛けて要塞の一部を破壊し、そこから突撃したという。士官用宿舎などはまるで石を積み上げて造られたホテルのように大きい。乃木はコンドラチェンコ司令官が東鶏冠山を視察中との情報を得て砲撃を開始、ロシア兵に人望のあったコンドラチェンコが戦死したことでロシア軍は戦意を失い降伏したという。日本人が建てた「露国コンドラチェンコ少将戦死之碑」がある。


最後は、前回は車から降りて前に立って写真を撮ることもままならなかった旅順監獄。反日教育の場だったゆえ、外国人立ち入り禁止だったところだ。ロシアが造り日本が増築させた。真っ暗な独房や体を張り付けて棒でたたく拷問部屋、V字型に並ぶ牢と看守席、獄内工場、絞首刑場などを見ることが出来る。

また、ここにはハルビンで伊藤博文を暗殺した韓国の英雄・安重根が収容されていて、安はここで処刑された。安がいた独房はガラス越しに中を見られる。隣には看守の部屋がある。韓国の団体客が来ると開けるのだろうか。監獄敷地内に安重根のための祭壇を設けた部屋もあった。

大連に戻り、夕食はしゃぶしゃぶ。牛肉も羊肉もうまかった。


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