Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

日中報告書未公開部分

2010-02-10 04:26:22 | 時事

1月31日に発表された日中歴史共同研究の報告書。中国側の要請で公開しなかった現代史部分の1945年以降について、毎日新聞が入手したという。新聞に掲載されているのは「要旨」だが、抜粋しているところも一部分に過ぎずどこまで省略したのか、知りたいところが明らかになっていない。中嶋嶺雄教授のコメントにあるように、文化大革命のほか、日中共産党の問題、林彪事件などにも触れられていないようだ。あ、林彪は直接日中に関係ないからか。
しかし、東京裁判については日本側の見解は、保守派勢力の主張そのものだ。「東京裁判は敗者に対する勝者の懲罰だった。連合国側が『文明による裁き』『正義』と唱え、問題を複雑にした」と。日本の歴史学界でも少数派の異端の考え方だ。
粟屋憲太郎教授が指摘しているように、日本政府は東京裁判の結果を認めたうえでサンフランシスコ講和条約を結んだわけで、一国の方針、選択として尊重されなければならない。(学生時代、立教大学にもぐりこんで、粟屋先生の許可を得て、一番後ろの席で講義を聴いたっけ。当時粟屋先生は朝日ジャーナル誌に「東京裁判への道」を連載していた)

もちろん東京裁判には「平和に対する罪、人道に対する罪」など事後法を適用したことに代表されるように、法律的には問題もあった。当時意見書を提出したインド人のパール判事が指摘したのはまさにこの部分で、日本軍の戦争下での残虐行為がなかったなどと主張したわけではない。当時の日本の政治状況下では、東京裁判がなければ、戦争当時の日本政府がどのように戦争を始め、遂行したか日の目を見なかったはずだ。
中国側の方が冷静に「侵略戦争を防止し、世界平和を守るために積極的な試みをした。日本の対外侵略戦争の性格を認め、日本軍の隠された犯罪事実を明らかにした」と、裁判の性格を端的に言い当てている。

ところで、「台湾は古くから中国固有の領土だった。日本が『ポツダム公告』を受け入れることを決定したことは、台湾を中国に返還したことを意味する。台湾は中国固有の領土であるという法理的地位に改めて確認を取り付けたことになる」という部分は、この新聞原稿を書いた毎日新聞記者は気がつかないのだろうが、昨年、日本政府が駐台湾代表を事実上更迭する原因となった「台湾地位未定論」を真っ向から否定するものだ。もちろん日本政府も公式的に同論を認めていない。

靖国神社への歴代首相の参拝の部分については、中国側の主張を読めば、中国側が参拝の何を問題にしているのか良くわかる。ただ、勘違いがあるようだ。「A級戦犯合祀後、首相の参拝は東京裁判を否定する意義をもつとみなされた。戦争被害国の国民に精神的苦痛をもたらし、日中の歴史問題を考察する要だ。60-70年代、中国のマスコミは首相参拝への正面からの批判は行わなかった」。靖国神社へのA級戦犯の合祀がされたのは78年。A級戦犯が問題なら、この年以前の参拝は問題なかったはずだ。昭和天皇は75年を最後に靖国参拝をしていない。元宮内庁長官のメモによると「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と昭和天皇が語ったとしている。「あれ」とはA級戦犯合祀だという。

1989年の「六四」事件(第2次天安門事件)について、毎日新聞では「天安門事件は政治騒動 日本と相違鮮明」としているが、違いがあるのは当たり前でしょ、と以前ブログでも触れた。日本の新聞社は日中の相違を作るのが好きなようだ。

僕が注目するのは、これが毎日新聞による意訳でなく、そのまま表記していたなら「政治騒動」という表現は新しいのではないか、ということ。
2004年、温家宝首相はAP通信の記者に答えて、「前の世紀の八〇年代末から九〇年代初めにかけ、ソ連の解体、東欧の激変があり、中国では重大な政治風波が起こった」と六四を表現している。六四のみを取り上げるのではなく、東欧・ソ連崩壊とからめて表現することで事件を矮小化しているのだ。
六四発生後に小平が「風波」と表現して以降、当初使っていた「反革命動乱、暴動」という強烈な表現から「風波」のような意識的に矮小化した表現を用いてきた。

ちなみに2005年第5版の「現代漢語詞典」(商務印書館発行)によると「騒動(sao-dong)」は「①擾乱、その場所を不安寧にさせること②秩序紛乱、動乱」だ。「風波(feng-bo)」は「紛糾あるいは乱の比喩」。

報告書で中国側は「89年6月4日、中国で政治騒動が起こり、欧米国家は中国に対して制裁を発動したが、日本政府は留保の姿勢をとった」とある。六四事件を単独で表記し、事件再評価に向けて一歩前進が見られているのではないか。あるいは自分の学生たちが犠牲になったことについて、シンパシーを抱いたことによる表現なのかもしれない。また、いち早く経済交流を再開した日本に対して好意的な評価をしているように見える。

年表の表記にも疑問がある。78年に来日した小平の肩書きについて「副主席」としている。この時期、小平は党副主席ではあったが、来日の目的は日中平和友好条約相互批准書交換式への出席である。身分は党の代表ではなく政府代表というのが正しく、小平副首相としなければいけない。「国家副主席」とも混乱する。担当した毎日記者はこの辺に疎いのだろうなあ。