中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

樹下神社と一里塚(旧中山道を歩く 319)

2012年04月27日 09時49分47秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(樹下神社の鳥居と左に並ぶ石灯篭)

(守山宿 5)
橋を渡ってすぐ右に樹下神社の鳥居と沢山の石灯篭が並んでいる。
左には、「どばし」と「常夜灯」説明が石柱に刻んである。
鳥居をくぐると、左に「太神宮」と刻まれた背の高い常夜灯が目に入る。
その奥に本殿がある。


(どばしと常夜灯の説明の石柱)


(伊勢屋佐七の常夜灯)

背の高い常夜灯が伊勢屋佐七の常夜灯であることはすぐ判った。
(常夜灯は4mの大きなもので、
石の東面に「太神宮」が、
西面には「願主 天保二年辛卯9月伊勢屋佐七」が刻まれています。
また台石には「武州摂州 武州濃州」、
他の面に
「守山宿役人中 御会所 鋳野生介 池田屋治郎兵ヱ 堅田屋喜十郎」
が刻まれており、地元の伊勢屋佐七が願主になって、
各地の身内や守山宿の役人や商人などの協力を得て、
商売繁盛、家内安全を願い建立されたことがわかります。)
(守山宿歴史文化保存協会)


(停車場道の道標)

また右側には、「停車場道」の道標がある。
(これはJR守山駅が新設された時、
中山道今宿から勝部を通って守山駅への、
初めての道路を記念して「停車場道」の碑が建てられたが、
途中で撤去され樹下神社に保管された。)(今宿商工会)

奥の本殿左横に、「女天神 安産石」が置かれている。
(菅原道真公(天神さん)が大宰府へ左遷されて、
一家離散となり、
信濃に落ち延びる身重の息女
(宇多天皇の皇子 斎世親王の妃)が産気づき、
当神社近くで、街道の平石に臥せって苦しんでいた。
里人の手厚い看護もむなしく、無念な最後となったが、
その臨終に当たって、里人の厚い情けに報いるためにと、
女人の安産を この平石に強く祈願したといわれる。
その後この平石の下の砂を妊婦が肌身につければ、
安産間違いなしと今宿に語り継がれている。)(今宿商工会)


(本殿)


(安産石)

その左手に松の大樹が何本か生えている。
(これは樹下神社のご神木で「夫婦松」といわれるもの。
二股の枝が次々と続くことから、夫婦松と呼ばれている。
安産石とともに、お家繁盛のシンボルとして、
昔から大切にされてきた。)(今宿商工会)


(夫婦松)

二股の枝が続くことが、どうして夫婦松につながるのか、
よく解らない。
二股の枝の間から若芽が次々と出てくるなら解るが・・・

中山道を行くと、今度は左手に本像寺がある。
(門をくぐり本堂の前に行くと、右に題目塔が一基あり、
もう一基は墓地にあるが、二基とも守山市指定文化財である。

(*)題目塔=南無妙法蓮華経と刻まれた、
   鎮魂を目的とした供養塔をいう。

本堂前の左側にあるお墓は、
八十五歳で生涯を閉じるまで、全国を行脚して、
石類の収集に励み、その数2千種以上数えたといわれる、
江戸時代の鉱物学者木内石亭のぼせきである。)(今宿商工会)


(本像寺)


(題目塔)


(鉱山学者の木内石亭の墓)

本像寺を出て古い家並みの中山道を行くと、
(今宿町)の信号にでる。左へ行くとJR守山駅へ抜けるが、
この交差点左に樹下神社にあった「停車場道」の石柱はあったとされる。
宿場らしい古い家の前を通り行くと、一里塚がある。


(宿場らしい家)


(今宿の信号、この手前左手に石標はあった。)


(宿場らしい古い家が続く)

「今宿の一里塚」で滋賀県指定史跡になっている。
滋賀県教育委員会の説明によると、
(今宿の一里塚は五街道の一つでである)中山道の一里塚で、
江戸日本橋から数えて滋賀県草津宿までに129箇所あった一里塚の
128番目に当たります。
一里塚は江戸幕府により慶長九年(1604)に整備されたもので、
一里毎に道の両側に、五間四方の塚を築き、
榎や松を植えて通行の目安としたものです。
圏内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、
北国脇往還等に設置されていましたが、
明治以降、交通形態の変化による通路拡幅や農地、
宅地への転用などにより、そのほとんどは消滅し、
現存するのは今宿の一里塚のみとなりました。
今宿の一里塚は規模は小さくなっていますが、
南塚のみ残り榎が植えられています。
先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、
脇芽成長して現在に至っています。
今宿の一里塚は、往時を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、
近世交通史を知る上で重要な遺跡となっています。)とある。

中山道67次の一里塚は全部で129箇所あった。
その一つ手前の128番目の一里塚である。

現存する中山道の一里塚としては、最後の一里塚である。


(今宿の一里塚に残る南塚)