中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

守山宿(旧中山道を歩く 315)

2012年04月12日 09時56分57秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(野洲川橋から見た東海道線の鉄橋)

(守山宿)
野洲川を渡ると守山宿に入る。
橋を渡り終えると、右手に「馬路石部神社」の石塔がある。


(馬路石部神社の石柱)

しばらくすると広い道路と交差する。
右方面は琵琶湖大橋に行く信号(吉見三丁目)の信号に出る。
中山道はこの信号を直進するが、
道は歩行者自転車のみの一方通行出口となり、道路は狭くなる。
街並みを抜け、次の信号(吉見小学校前)も直進する。


(旧中山道らしい街並み)


(吉見小学校前の信号)


(中仙道の案内、高札場跡の案内がある。)

道路右手に吉見一丁目の(中仙道)金ぴかの案内があり、
その脇に、中山道高札場跡の説明板がある。
守山宿江戸側の入り口である。

高札場についての説明版を要約すると、
(帆柱観音(ほばしらかんのん)で名高い慈眼寺から、
北東側へ約100メートルの地点は、
中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。
この場所に高札場が設けられていた。
徳川幕府の定めた法度や宿場の決まりなどを記した
木の札が掛けられ、旅人は笠を手にして読んだ。
宿場の入り口と出口では、
道路は鉤の手になっており、
外敵がじかに攻め込めないよう、宿場の治安維持のため、
街道に面する民家も一戸毎に段違いの屋敷割りになっている。
全国的にもこのような道路が残る所は大変珍しい。
現在は道路整備により、昔を偲ぶことが難しくなっているが、
その一部を観察することが出来る。)とある。(守山市教育委員会)

守山宿の守山とは、比叡山を守るという意味で、
宿場のほぼ中央に東門院があり、
正式には東門院 守山寺という。
これは比叡山の関門として造られたもので、
叡山を守る、つまり守山となった。


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 守山」)

中山道の京発ち東下りでは、守山宿泊まりで最初の宿泊地であった。
守山宿は守山本宿を挟んで、西の今宿、東の吉見の三つからなり、
長い宿場町として繁盛し、今宿、吉見を加宿として、
さらに発展した。
街道に面する民家が段違いに出来ていたのは、
比叡山を守るということから考えれば、
外敵防衛の面から当然のことであったに違いない。

中山道の高札場跡から少し行くと左手に、
「帆柱観世音 慈眼寺」の石柱があり、
道路奥に慈眼寺が見える。


(「帆柱観音 慈眼寺」の石柱)


(慈眼寺)