goo blog サービス終了のお知らせ 

中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

中津川宿(旧中山道を歩く 214)

2010年10月25日 11時09分26秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(木曽海道69次之内 「雨の中津川」)


(中津川宿の高札場)


(高札場の先、市街地の道路)

(中津川宿)
中津川の高札場を背にして、旧中山道の道路は右にカーブする。
市街地の歩道の無い道の端を、自転車や車を避けながら歩くと、
広い道路と交差する(新町)の信号に出る。
右に行くとJR中津川駅である。
この信号を渡ると、ここからが中津川宿の中心地に入っていくのであろう、
中山道らしく歩道が色レンガ舗装で整備されている。

「すべて山の中である」と書いた「夜明け前」の木曽路を抜けて、
薄暗い中山道から、塩尻以来、久しぶりの明るい市街地で、
よく整備されていると感心する。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、
主人公の青山半蔵が、
「共の鶴松を顧みて、『あの山の向うが中津川だよ。
美濃は好い国だねえ』と言って見せた。」とあるように、
市街地として開けた中津川を羨ましく思う青山半蔵の思いが、
この一行にみごとに表現されているように、
開けた町としての中津川市を今でも感じ取ることが出来るのは不思議である。
それはやはり木曽路のうっそうとした山間の林を抜けてきたからであろうか。


(「新町」の交差点)


(歩道が色レンガで舗装されている)

話を戻す。
中山道は(新町)の信号を渡るとすぐ左手に、
中津川名物「栗きんとん」の老舗「すや」がある。
秋の栗の季節にはこの「栗きんとん」を購入できるが、
残念ながら栗の季節外れに通過するボクには
「季節外れでただ今販売しておりません。
秋には是非お越しをお待ちしてます。」と丁重に断られた。(残念!)

すぐ右手に日本画の大家「前田青頓画伯生誕の地」の石碑がある。
さらに進むと今度は左手に、
「桂小五郎隠れ家跡」の案内を発見。
狭い道を左折すると、古びた二階家の家があり、
ここが料亭「やけ山」跡。

中津川観光協会によれば、
(この辺りに昔料亭「やけ山」があった。
文久二年(1862)六月、
長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は、
江戸から京都へ向う藩主毛利慶親公の行列を待つ間、
幕吏の目をのがれて
中津川の平田門人 間秀矩(はざまひでのり)や
市岡殷政(いちおかしげまさ)の好意によって、
密かに「やけ山」に隠れ、待機した。
やがて三日間の「中津川会談」結果、
桂の主張によって長州藩は、
尊王倒幕へと決断した。
明治変革の秘史を物語る場所である。)


(日本画家 前田青頓生誕地跡の碑)


(桂小五郎の隠れ家跡の案内)


(狭い道をたどると)


(隠れ家料亭「やけ山」)


(料亭「やけ山」の入口)

中山道に戻り西へ進むと、左手に「間家大正の蔵」がある。
この蔵については、
(広大な屋敷を構え、東濃随一の豪商とまで言われた、
間家の敷地内にあった倉庫の一つで、
大正6年(1917)3月に建てられ、
従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法が取り入れられた、
当時のコンクリート工法の過渡期の状況がわかるもので、
中津川市の有形文化財に指定されている。
現在、間家から市に寄贈されたこの蔵は、
中津川商人の資料や宿場関係の資料が展示され、
一般に無料で開放されている。
蔵前の庭には、織部灯篭(市指定文化財)や
中津高等女学校の創立者間杢右衛門道矩(9代)の
胸像が建てられている。)(中津川市観光協会)


(間家大正の蔵)


(間家大正の蔵2)






小野の石造物群と芭蕉句碑(旧中山道を歩く 213)

2010年10月19日 10時22分12秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(しだれ桜の木)

(落合宿 4)
左手に「中山道」の案内を見て、さらに坂を下り進むと左手に、
見事な(しだれ桜)に覆われた一里塚と見まちがえる塚が見える。
小野の地蔵堂石仏群のある場所である。
中津川市教育委員会に寄れば、
(昔、この辺りに地蔵堂があったといわれていますが、
所在は明らかになっていません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれる枝垂れ桜が境内にあり、
街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、
元禄七年(1694)の庚申塔や地蔵、観音像など数多く祀られています。
また、文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた
高さ約2mの徳本行者の名合石があり、
生き仏といわれた彼が、
文化年間(十九世紀はじめの頃)にこの地に逗留して、
「称名念仏」を布教したことを偲ばせます。)とある。

石仏群を後に進むと変則十字路に出るが、
突き当たりに「中山道」の案内があり、
道路にある黄土色と白の石が入ったアスファルトが
進む道を案内してくれる。


(しだれ桜の下にある石仏群)


(変則十字路、道路の黄土色と白色の石が入った中山道)

国道19号線にぶつかるが、右手に地下横断歩道があるのが見え、
入口に中山道と書かれているので、地下道で国道を渡る。

地下道の中には、地元の中学生が調べて作成したと思われる案内があった。
「歴史の道中山道」と題して次のように書かれている。
大切なことであるので、確認の意味で書き記しておきたい。
(中山道は江戸時代の主要な交通路で、
東海道、日光道中、奥州道中、甲州道中と並ぶ五街道の一つであった。
宿駅は武州(埼玉県・東京都)に十ヶ宿、上州(群馬県)に七宿、
信州(長野県)に十五ヶ宿、木曽(木曽谷)に十一ヶ宿、
美濃(岐阜県)に十六ヶ宿、近江(滋賀県)に八ヶ宿の67ヶ宿が
中山道の宿駅である。
京都までは東海道の草津と大津の二宿を加えて江戸から京都まで69宿となる。
その距離は江戸日本橋から京都三条大橋まで532kmと、
135里24町8間あった。
古文書(御触書廿二)に
「東山道、山陰道、山陽道いずれも「山」の字を「セン」とよみ申し候。
東山道の内の中筋の道に候故に古来より中山道(ナカセンドウ)と申事に候。」
享保元年(1716)と説明している。)とある。

その他、このトンネルを出て、尾州白木改番所まで○○mなど、
史跡までの道程がたどたどしい文字で書かれていてほほ笑ましく感じた。
地下道を出ると、西の出口に地下道を造った時、
記念にでも作ったのか真新しい双体道祖神が置かれており、
少し興ざめである。


(国道19号の地下道)


(真新しい道祖神)

さらに道路を西に進むと、左手に道祖神など石仏群を見て、
右手に「尾州白木改番所跡」があり、尾張徳川家の管理下にあったことが解る。
木曽11宿は尾張徳川家の管理下にあり、
徳川幕府は木曾の材木を幕府の手中に納めていたことがよく解る。
それだけでなく最も信頼が置ける者に管理させて、
裏切りは絶対無いと安心するために親族に管理させていたのである。


(道祖神、常夜灯の石仏群)


(「尾州白木改番所跡」の碑)

左手に旭が丘公園を見て坂を下る途中左手に、
二基の庚申塔と共に芭蕉の句碑があるのが見える。

・山路来て なにやらゆかし すみれ草  はせを

説明では、
(松尾芭蕉の句は、貞享2年(1685)の3月27日頃の吟で、
前書きに「京都より大津に出る道、山路をこえて」と
「甲子吟行 別名 野ざらし紀行」にある句で、
碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが
(京都から大津に出る山道)近似していることから、
常に、その情景を孫子(まごこ)に語り伝えてきました。
三代 菅井嘉兵衛孝伯のとき郷愁にふさわしい この秀句を選び、
安永2年(1772)芭蕉八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、
中山道に面して建てられましたが、
30年前に保護するため、道筋から外し、
昭和53年(1978)3月、
昔の面影を残すため、この場所に移した。)とある。


(庚申塔)


(芭蕉句碑)

落合宿は中津川と比べると、60mほど高台にあり、
街道はすでに下ってきているが、この先もジグザグに石畳を下って行く。
途中で周りを見渡すと、
確かに中津川市街を見渡すことが出来る高さにあることが解る。
この坂を茶屋坂といい、途中市道を歩道橋で渡ります。
歩道橋を下りた階段手すりに中山道こちらの案内があり、
なお、下ると左手にまた階段があり「茶屋坂周辺中山道」の案内がある。

案内に沿って階段を下りると右手に、二十三夜塔、庚申塔、常夜灯があり、
左手に高札場が復元されている。
中津川市によれば、
(高札場は、元の位置は復元されている高札場より、
10mほど坂を登った北側の街道に面して建てられていた。)と言うから、
今降りてきた階段の上の道路上にあったものと思われる。

復元された高札場を見て、背にしている道路が旧中山道で、
道路はすぐ右に大きく曲がっている。

ここから中津川宿に入って行く。


(茶屋坂を下る石畳)


(市道をまたぐ歩道橋が中央に見える)


(歩道橋からは中津川市が見渡せる)


(歩道橋を降りたところにある案内図)


(坂の途中にある階段と中山道の案内図)


(階段下の二十三夜塔や庚申塔)





「おがらん」と「子野の一里塚跡」(旧中山道を歩く 212)

2010年10月11日 14時11分04秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(おがらん橋)

(落合宿 3)
善昌寺を左折して道なりに歩くと、
国道19号線をまたぐ橋にでる。
「おがらん橋」である。

橋を渡り終えた右側に数段の石段があり、
その上に石造りの鳥居がみえる。

「おがらん神社」といい、
鳥居脇に「落合五郎兼行之城跡」の石碑が建っている。

中津川市の説明では、
(落合五郎城跡(おがらん様)について、
木曽義仲の家臣で、四天王の一人といわれた落合五郎兼行が、
美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる。
地元では「おがらん様」の名で親しまれている。
ここからは、縄文土器をはじめ八世紀から
九世紀のものと思われる幣(ぬさ)の石製模造品、
古代掘立柱建築遺構などが発見され、
東山道の深いかかわりがあった場所であると推定される。)とあり、
「おがらん」については説明が無かった。


(おがらん神社)


(落合五郎兼行の城跡の碑と移設された常夜灯)

また、おがらん四社には次のように説明がある。
(館跡とされている場所は「おがらん」と呼ばれ、
「伽藍(がらん)」(大きな寺院)という言葉から来たと推定される。
四社とは愛宕神社、山の神神社、天神社、落合五郎兼行神社である。)と。

そして中山道を歩く案内書には、
(「おがらん」とは小高い所を指す語である。)とあるが、
確かにこの神社は少し高い位置にあり、さらに階段を登らなければならない。
しかし、どの解釈が正しいのかよく解らない。

話を戻す。
おがらん様を出て、国道19号線に沿って坂を下り、
道なりに右折して進むと横手橋に出る。
ここで気付いたことであるが、
旧中山道は黄土色と白色の硬い石が混合されたアスファルトが舗装してある。
同じ舗装の道を辿って行けば、旧中山道を進むことがわかった。


(おがらん橋から坂を下る)


(中山道には黄土色と白色の石を交えた道路になっている、上の写真の道路も同じ)

横手橋の橋脚には、右木曾(東京方面)左美濃(京都方面)と書かれている。
道路を進むと国道19号線にぶつかるが、自動車道で横断できず、
立体交差している道路を行かなければならない。

国道19号線への進入路を逆に右に下ると、
左手に19号線をくぐるトンネルが見えるので、
ここをくぐり反対側に出る。
出た所の右手に、バス停「与坂」があるので、
バス停を右に急カーブして坂を登る。
坂はかなり急で、途中で一度休憩が必要なほどである。
坂の前方に見える電波塔を目指して上る。
周りを山で囲まれた地域にある電波塔は、
遮られる山より高く電波を飛ばす必要から、
塔そのものを高い場所に設置しなければならないことは理解出来る。
中津川市でも小高い場所を選んで設置されている塔を目指して登るのは、
今まで歩いてきた距離から考えかなり厳しい歩行になる。


(横手橋の案内)


(国道19号にある「与坂」バス停、この後ろにある道路をくだり立体交差で対岸に出る)


(左で立体交差する。「中山道」の案内)


(国道19号をくぐり抜けた所)


(反対側にある「与坂」のバス停)


(急坂の上にある電波塔)

やがて与坂立場跡の碑があり、目の前に、立派な建物がある。
立場茶屋の跡であろう。
道路反対側に弘法大師三十六番札所の地蔵堂が安置されている。
この二つの建物の間を抜けて、道路を下っていくと、


(与坂立場茶屋跡)


(弘法大師三十六番札所)


(子野の一里塚跡)


(子野の一里塚跡の碑)

やだて、左に一里塚が見えてくる。
「子野の一里塚跡」(江戸から84番目)である。
道路はアップダウンがあってかなりきつい。
坂を登り切った所に神社がある。

覺明神社という。
覺明とは御嶽山を開山したことで知られる。
覺明については、
(御嶽山を開いた覚明行者は、
享保四年(1719)現在の春日井市牛山町皿屋敷の
百姓丹羽清兵衛(清右衛門)の子として生まれ、
長じて修験として修行のち、四国の霊場を九回巡歴し、
明和三年(1766)に高知県の山中で法力を得て、
覚明の名と鉦鼓石を授かって郷里に帰った。
翌四年に岐阜県の恵那山に入り、その参道を開いた。
ついで、「信濃国の御嶽山を開け」との御神告を受け
黒沢村に行ったが、
庄屋田中新左衛門らの大反対のみならず迫害まで加えられた。
行者はこれに屈せずひそかに強力を雇い、
参道の開さくに着手したが中途、
訴人のために福島番所に拘引二十一日に及ぶ憂き目にもあった。
その後数年間は苦難の日々であったが、
天明五年ようやく大願を成就し、
従来百日の重潔斎しか登拝を許されなかったものを、
七日の精進でよいとし、参道の開さくも完成した。)という。
(春日井市教育委員会)

覺明神社を過ぎて坂を下ると、左側に休憩所とWCがある。
石碑に、(子野の里 中山道に いこいの場)とある。
気兼ねなく休憩していただきたい。


(覺明神社)


(覺明神社2)


(休憩所とWC)


(石碑に、「子野の里 中山道に いこいの場」とある)








落合宿(旧中山道を歩く 211)

2010年09月17日 10時37分55秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(落合の市街地を一望にできる場所)

(落合宿 2)
医王寺を出て道なりに右にカーブして下って行くと、
中津川市街地が一望に見渡せる場所に出る。
さらに進むと下桁橋がある。
ここが広重画く浮世絵「落合」で、
この橋が入った図である。


(広重画く浮世絵、木曽海道69次之内「落合」)

0034_5
(医王寺をでての下り道、先に下桁橋が見える。)

橋の少し上流に、小さな滝(?)が見える。
ここでほっと一息ついていると、
河原に人の顔のように見える石を発見した。

「人面石?」
疲れていたせいか一人で勝手に合点して、とても面白いと思った。


(下桁橋から見た滝?)


(人面石?)

その橋の先で、道祖神など石仏が数基並んでおり、
左から来る道と合流する場所で、
その合流地点に石の道標がある。
左から来た道は飯田道とあり、
右へ行くと落合の市街地に入っていく。

やがて国道7号線を交差する場所に出るが、
その交差点手前の左側に
「落合宿高札場跡」の石碑が建っている。
ここから落合宿に入る。


(石造物群)


(庚申塔)


(庚申塔2)


(石標、京都側から見て、右飯田道と読める)


(落合宿高札場跡の碑)


(バス停」木曽路口」)

国道7号線を渡った所がバス停「木曽路口」で、
名古屋からのハイカーの皆さんに出会ったが、
皆さんはここでバスを利用し「JR中津川駅」にお帰りという。
ボク達はここからさらに中津川宿まで歩くと話したら、
ハイカーの皆さんは「健脚だ」と驚いていた。


(秋葉様の常夜灯)

国道7号線を渡り「落合宿」に入る。
すぐ右手に「秋葉様(*)の常夜灯」がある。
(*)秋葉様とは火除けの神様秋葉神社を指す。

案内に寄れば、
(この宿場の通りに面した常夜灯は四基あり、
火の用心で夜回りをする当番により点灯され防火を祈ってきた。
明治になってからは、
道路整備に伴い他の三基は他所に移設されたが、
この一基だけ街道の隅に寄せられ、
往時の姿を留めている。)という。
(落合まちづくり推進協議会)
三基のうち、一基は善昌寺境内に、
残る二基はおがらん公園の愛宕社に移されているとのこと。

常夜灯の前を右折して、落合宿の中心に入って行く。
少し先の左手に落合宿脇本陣跡、
その先右手に落合宿本陣の立派な建物が見える。
本陣の門前に「明治天皇落合宿御小休所」の石碑が建っている。
また、この本陣家の門は加賀藩 前田家から贈られた貴重なものであるという。

加賀藩の前田家から贈られた門は、大宮宿
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/05/ustrongstrongu_7e10.html参照)にもあり、
何故前田家が門を贈っているのかは解らない。
(何時になるか解りませんが、あとで調べてみたいと思います。)


(脇本陣跡の碑)


(落合宿本陣の全貌)


(加賀藩前田家から贈られた本陣の門)


(明治天皇落合宿御小休所の碑)

落合宿本陣の先の左側に「大釜」が置いてある。
「落合宿助け合い大釜」と称するこの「大釜」についての説明では、

(文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、
四日間で延べ約二万六千人が落合宿を通りました。
当時暖かいおもてなしをするため、
各家の竈は引きも切らず焚き続けられたといわれてきました。
ここに展示してある「大釜」は
「寒天」の原料(天草)を煮るときに使用されたもので、
容量は千リットルを越えます。
日本の食文化を支えてきたこの煮炊き道具を後世に伝え残すと共に、
この釜を今に再利用するため、
「落合宿助け合い大釜」と命名し、
さまざまなイベントに利用しています。
落合宿祭りなどには、「千人きのこ汁」を作り、
多くの方々に振舞う「ふれあい」活動を推進してきましたが、
この活動は落合宿の人々が古くから旅人に対して
礼節を重んじてきたことに由来します。
「大釜」と共に手押しポンプを備えた井戸も設置され、
この大釜と井戸は緊急時に利用できると共に、
防災意識を高めることに役立っています。)とある。
(落合宿たすけあい推進協議会)

つまり、皇女和宮御通行の折、
夜を継いで炊き出しを行った「おもてなしの精神」が
今の世にも受け継がれ、
最早 役立たなくなった大釜を再利用して、
その「おもてなしの精神」を後世に伝え残そうと、
「千人きのこ汁」を振舞っている。

とボクは解釈した。


(大釜)


(善昌寺の「門冠の松」車に削り取られるのか注意のガードがしてある、)

その先右手に善昌寺があり、
境内から伸びた松の幹が街道に覆いかぶさるように伸びている。
善昌寺の「門冠の松」と呼ばれている。

(その名の通り創建当時山門を覆っていたことから名が付いた。
道路拡幅整備などで根が痛めつけられ、
450年の年月を経ているにも拘らず、さほど大きくなく、
宿場の入口に格好の風采を備えている。)

説明は、やや我田引水の感はあるが、松に責任は無い。
この松を右に見て、京都側へ街道は枡形になる。
ここで左折するが、その左角に石柱道標があり、
中山道の道路案内表示もある。

「右至中仙道中津町一里」(石柱道標に書かれた文字)

道路は上り坂になり、国道19号線を越える陸橋「おがらん橋」出る。
橋を渡った右側の高台に「おがらん神社」がある。


(「右至中仙道中津町一里」の石柱と「中山道」の案内)


(おがらん橋)





十曲峠の石畳(旧中山道を歩く 210)

2010年09月11日 10時10分05秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(信濃と美濃の国境の碑)


(広重画浮世絵 木曽海道69次之内 「落合宿」)


(落合宿)
新茶屋の一里塚の脇に、国境の石碑が建っている。
今は馬籠峠の頂上が県境になっているが、2005年までは、
ここが美濃と信濃との国境であった印である。
新茶屋と言うのは、かって立場茶屋が別の場所にあり、
江戸時代の終り頃 現在の地に移ったことから、
新茶屋と呼ばれるようになったと言う。

この新茶屋の一里塚を過ぎると、すぐ右脇に入る石畳が始まり、
120m先で今の道路を横断し、渡った所に「中山道」の石の道標がある。
約2km続く石畳の道を「落合の石畳」と呼び、十曲峠ともいう。
道標に落合宿2kmとある。


(落合の石畳が始まる)


(落合まで2kmの案内)

「落合の石畳」は昭和39年(1964)に岐阜県の指定史跡になっており、
次のように説明がある。
(この石畳は、中山道の宿場落合宿と馬籠宿との間にある、
十曲峠の坂道を歩き易いよう石を敷き並べたものです。
江戸時代の主な街道には一里塚をつくり、並木を多く植え制度化し、
その保護にはたえず注意を払いましたが、
石畳については何も考えた様子がありません。
壊れたまま放置されることが多く、
ここの石畳も一時は荒れるに任せていましたが、
地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。
今往時の姿をとどめているのは、ここと東海道の箱根のふたつに過ぎず、
貴重な史跡です。
中山道が出来たのは、寛永年間ですが、
石畳が敷かれたのは、いつごろか不明です。
文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸の時修理しましたが、
このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないように
した事が記録に残っています。)(岐阜県教育委員会)とある。

石畳は120mに渡って修復されている。
これは2005年馬籠宿が町村合併で中津川市に編入されたことにより、
中山道の中津川宿、落合宿、馬篭宿の三宿が中津川市となり、
その内の馬籠宿の石畳120mが痛んでいて、
修復が必要になったのであろう。
岐阜県からの助成金で修復が行われたと、
説明板に書かれている。


(落合の石畳に入る)

藤村が「夜明け前」で木曽路十一宿は
「東境の桜沢から西の十曲峠まで」と書いているが、
ここで修復を受けた約120m先までが馬籠宿であったのであろう。


(落合の石畳に入ってすぐにある「中山道」の碑)


(右に曲がり)

(左に曲がり)

その名の通り、石畳の道路は曲がりくねって登っていく。
途中、「なんじゃもんじゃの杜」があり、
落合の老人クラブが植え継いでいると言う。
説明板には、
(・本名をヒトツバタゴ(一つ葉たご)と言い、古世代の依存木である。
五月中旬ごろの開花で満開時は樹上が真っ白になり、
雪が積ったような景観を醸す。
この杜は昭和51年落合の老人クラブが植樹したものです。)
(落合まちづくり推進協議会)とある。
「なんじゃもんじゃ」の木の名については、
(昔、今の明治神宮外苑の道路沿いに、
この「なんじゃもんじゃ」があり、
名前がわからなかったので、
「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちに、
いつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまった。)と
いう嘘のような話。


(なんじゃもんじゃの木)


(「ヒトツバタゴ」とある)


(準備中の峠の茶屋)

その先に、峠の茶屋があるが、店は閉まっていて準備中になっている。
人の気配は無く、このさき夏を経て、
冬に差し掛かるまで営業するのであろうか?
うっそうとした木に囲まれて、湿気の多そうな道は、
歩く者にとって、石畳は良いようであるが、
凸凹が多く、苔むしていて滑りそうで、意外に歩き難い。
道路両端の石はあまり段差が無いので、道路の縁を選んで歩く。

およそ2kmの石畳が終わり、舗装道路に出る手前に
「岐阜県史跡 落合の石畳」の白い標柱がある。
江戸側には無かった案内であるが、
京都側から来る人への案内は充実しているように感じる。
石畳道路を出て舗装路を左折200mも歩くと左側に、
大きな枝垂れ桜のあるお寺の前に出る。


(落合の石畳の標柱)


(落合の石畳、京都側入口の案内)


(道路上の「中山道」の案内標識)

瑠璃山医王寺という。
本堂入口に「狐こうやく」の古い木の看板が置いてある。
むかし、住職が傷ついた狐を助けたところ、そのお礼にと狐が教えた
「狐こうやく」が名物で、刀傷に特効が合ったという。
がまの油売りの話に良く似ている。

歩いている時見えた医王寺の枝垂れ桜について、
(この木は今は二代目であるが、俳諧の宗匠 嵩左坊が

・その日その日 風にふかせる 柳かな

と詠んだ県下随一といわれた名木であった。)(落合まちづくり推進協議会)
という。


(左側に見える枝垂れ桜)


(医王寺の参道)


(本堂入口にある「狐こうやく」の看板)

しだれ桜を柳に見立てたのであろうか?

また、俳諧の「宗匠 嵩左坊」とは、「夜明け前」の翁塚のくだりで、
「崇佐坊」の名で出てくる美濃の俳人である。

俳諧の宗匠 嵩左坊については、前回(旧中山道番外記 26)で述べた。