中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

瀬田の唐橋までのたどり難い旧東海道(旧中山道を歩く 324)

2012年05月18日 06時37分51秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(一里塚跡の碑)

(大津宿)
2012年3月29日 快晴。気温18℃の予想。
日本橋を出てから48日目である。

JR瀬田駅近くのコンビニでおにぎりをいつものように二個調達して、
昨日の「一里塚跡」の石碑がある信号まで行き、右折する。
この「一里塚跡」について大津市教育委員会の説明、

ボクにとって最初の大津市の説明板がある。

「一里塚跡」、
(一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに、
江戸の日本橋を基点として、
東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、
大きな松の木が植えられた塚でしたが、
惜しくも明治末期に取り除かれました。
その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点に当たります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。)
(大津市教育委員会)とある。

昨日「いちりやまばし」を渡ったときに、
「一里山」というから「一里塚」に近いと思ったボクの想像は、
当っていたことが解る。
しかし、案内板の後では、誰も信用してもらえそうにも無い。
旧中山道を歩いてきて、やっと地域の感覚が分かるようになってきた、
と思わざるをえない。大津は中山道69次とした場合、
最後の宿場になり、この歩きが終わりそうになった今では、
(よくできました)と言えるものではない。

旧東海道はこれから京都まで、道路は非常に複雑になっている、
案内書を見る限り、複雑である。
間違えないよう、慎重に歩く必要がある。

一里塚の碑を右折した所に、新しい「道標」がある。
その「道標」には、「祈安全火車往来」とあり、
図の下には「江戸日本橋迄で百二十里余り」、
上に矢印で「三条大橋迄で五里余り」と、
書いてある。 まだ、20km余りあるという事だ。


(一里塚の碑を右折した所にある真新しい「道標」)

道路を旧東海道に沿って歩くと、道路は下り坂になっており、
特に目立った建物も無いが、しばらくして(大江四丁目)の信号に出る。
なお、道は下り坂になっている。
道なりに進むと今度は上りになり、
また下りになっていく。


(下り坂の街道)


(大江四丁目の信号、この先は下り坂)


(次は上り道)


(下り坂)

その内に段違いの交叉点に出るが、
ここには(旧東海道左折)の案内看板があるので、左折する。
次に出た交差点は直進する。少し行くと左に地蔵堂があり、
右に(南無〇〇〇〇〇)の髭文字の石塔があり、お堂が建っている。
その間を抜けて直進する。
次にT字路が横向きになった交叉点に出る。
ここも直進する。


(段違いの交差点、旧東街道左折の案内がある)


(次の交差点は直進)


(写真中央の川の右、道路左の地蔵堂)


(髭文字の題目塔のある阿弥陀堂を右に見て)


(T字路の信号も直進)

つぎはY字路に出るが、ここは右からご夫婦が出てきたのでお尋ねする。
この辺りからは、(瀬田の唐橋に行くのですが)とお尋ねすれば、
意味が通じる。
(旧東海道は右方向です)と回答がある。
右方向へ折れるとき、左側に案内板があるのに気づく。
「旧東海道」と案内はそうなっている。
この案内板がこの後ずいぶん役に立った。
その後も民家が続く旧東海道を進んでいく。
大きなケヤキの木があったり、桧山のバス停があったりして、
街中へ入ったのか大きな交叉点に出て突き当たる。


(先のY字路は右折、左角に旧東海道の案内看板がある。)


(旧東海道の案内)


(左のケヤキ)


(「桧山」のバス停)


(突き当たりの大きな交差点)

通りに出ると、道路向こうに(左旧東海道)の案内がある。
ここにある案内は(左旧東海道)(右旧東海道)の二つの案内があって、
左右どちらへ行けばよいのか迷う。
案内書の地図では、左が正しいが、矢倉立場のように(急がば回れ)で、
右に行った方が正解なのかここでわからなくなる。

通りがかりの叔母さんにお聞きすると、
左折が正解で案内看板にある右折を取ると、
かなり大回りになるとの回答であった。
土地の人にはどの道をとっても、
瀬田の唐橋に抜けることができるのだろうが、
旧東海道を行くには、
行かなければならない道順というものがある。


(左右どちらでも取れる東海道の矢印の案内、ここは左折する)

聞き終わって、左折しようとすると、
左側に案内看板が地図入りで建っている。
地図で確認すると図は、左折するようになっている。
左折するとすぐ信号があり、左向こう側にこんもりとした森が見え、
手前に川が流れ、土手はお城のような石垣が組んである。
森は「建部大社末社 檜山神社」とある。


(案内地図も左折している)


(左折してすぐの信号)


(信号向こうの城壁があるような森)


(直進すると「桧山神社である事がわかる。)

この道を直進する。右に正法寺があり、道路真ん中に石材店があり、
石造りの猫が戯れている石像があり、その手前の門に「左旧東海道」、
「右瀬田の唐橋」と刻まれている。
左の道路を取るとすぐ突き当たり、
左を見ると左手に「近江国一ノ宮 建部大社」があり、
右は瀬田の唐橋へ行く道路である。

よく見ると旧東海道の案内地図もある。
瀬田の唐橋まで、後30メートルとある。
右折して、直進すると瀬田の唐橋にでる。


(正法寺)


(道路の中の感じの石材店)


(「左旧東街道」「右瀬田の唐橋」の両案内の間は見ない事)


(突き当たりの左に「建部大社」が見える。)


(建部大社)


(案内地図)


(右折して直進する)

唐橋は丁度修理中で、欄干の外側に養生シートが掛けられている。
橋を渡る人には擬宝珠は勿論、橋の全容を見ることが出来る。
橋の左たもとに常夜灯がある。


(瀬田の唐橋の東のたもと)


(瀬田の唐橋のたもとに常夜灯がある。)




急がば回れの矢倉立場(旧中山道を歩く 323)

2012年05月14日 06時46分13秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(やぐらばしの親柱)


(やぐらばし)

(草津宿 3)
立木神社を出ると「矢倉橋」を渡る。
橋を渡ってしばらくすると、
右手の民家の軒先に寛政10年(1798)の道標がある。
草津市指定文化財の道標である。
「右やばせ道これより廿五丁 大津へ船わたし」と
刻まれている。


(やばせ道の道標)

ここは瀬田の唐橋まで、時間は掛かるが陸路で行くか、
琵琶湖を船で楽して渡り唐橋まで早く行くか、
思案する場所――休憩所になっていて矢倉立場と言った。

矢倉立場について、
なかなか興味ある説明なので、全文を載せたい。

(東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。
立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、
旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で、
矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。
この地にそのうばがもちがあり、
歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、
旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。
また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る
「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。
浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。
旅人は、俗謡に
「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、
旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、
矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、
よく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で
「急がば回れ」の語源になった所でもある。

・武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)

と詠まれ、
近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、
風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、
回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、
成果を急ぐなら、遠回りでも、
着実な方法を取るほうが良いことを指南したのである。)
(草津市教育委員会)

ながながと書いたが、「広重の東海道五十三次之内草津」には、
「うばがもちや」が描かれている。


(「東海道五十三次之内 草津」に描かれた「うばがもちや」)

東海道を行くと、右手に草津市立矢倉小学校を見て通る。
すぐ先に大きな信号があるが、これを道に沿って直進すると、
突き当たりになる形で道路は左折する。
突き当りが「上北池公園」と名づけられた小公園で、
その中に「野路の一里塚跡」の碑がある。
往時には、ここに一里塚があったのであろう。


(草津市立矢倉小学校)


(信号を斜め左へ入る.,中央に見えるビルの左へ行く)  


(上北池公園、分かり難い場所で大きく一里塚と立看板がある)


(野路の一里塚の碑)

公園の向こう側に出ると、広い道路があり、
東海道はこれを横切って直進であるが、
道路は交通量が多く、混雑して危険であるので、
右手の信号まで行って信号を渡り、
道路の向こう側へ行く。
東海道左手には(ののみち保育園)の建物があり、
{東海道}の案内もあるので見落とさないように進む。


(「ののみち保育園」が左に見て東海道は直進)

旧東海道らしい狭い道を進む。
およそ1kmで国道を横断するが、
この道は交通量が多く横断地下道が作られているのでこれを利用する。
向こう側に出て少しいくと小公園があり、
「野路 萩の玉川」の石碑が建っている。


(国道を地下道で渡る)


(野路 萩の玉川の碑)

石碑の前にはひょうたん型の池があり、水が湧き出ている。
「野路 萩の玉川」としての説明文に、次のようにある。
(「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて、
東海道の宿駅として栄えた所である。
源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、
時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、
都から公卿、貴族、詩人等、
しばしばこの地を訪ね景勝を愛でて多くの詩歌を読んだ。
中でも千載集(1188)所載の源俊頼(みなもとのとしより)の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 
            色なる浪に 月やどりけり」

は名歌として世に広く知られている。また、十六夜日記(阿仏尼作)には、
  「のきしぐれ ふるさと思う そでぬれて
           行きさき遠き 野路のしのはら」

と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、
あたり一面咲き匂う萩とあいまって、
その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、
江戸時代の名所図会にもよく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。
その後野路宿が草津宿に移り、
次第に玉川もまた寂れる運命となった。――後略。)
(草津市野路町)

今も湧き出ている水と僅かな池がその風情を思わせる、
萩の玉川である。


(萩の玉川)

東海道は右から迂回する形で、右手に大きな池が見え、
池の中に橋が架けられた島がある。
橋の手前に「旧東海道 弁天池」とある。
萩の玉川を含め、このあたり一帯は沼沢地であったに違いない。
この先坂を登ると信号になり、直進か右折か迷っていると、
信号の向こうに木製の常夜灯が見えるので、直進することにする。


(弁天池)


(旧東海道 弁天池)


(どちらへ行こうか迷う交差点)


(信号向こう左に見える常夜灯)

信号を渡って木製の常夜灯を見ると、(東海道 狼川)とあり、
その手前の金網に板の上に手書きで、
(東海道 右 瀬田の唐橋4.9km、左 草津宿本陣3.7km)とある。
これで東海道に間違いの無いことを知る。
この後1kmほどは田舎道を、時計を気にしながら淡々と歩くと、
右手に(ここから大津)と書かれた、木製の常夜灯を発見する。
ここから大津市に入る。


(瀬田の唐橋まで4.9kmの案内)


(「ここから大津」の常夜灯)

今日の宿は、JR瀬田駅近くのホテルを予約してある。
そこまで17:00~18時までにチェックインしなければならない。
ここからまださらに1km強ありそうだ。
気持ちを新たに急ぎ気味で歩く。

まもなく左手に(名勝 月輪寺大池 南約一キロ)の石柱がある。
地図によれば月輪寺まで500mほどに見える。
しかし現地の案内ほど確かなものは無い。
まだ1kmあるとすると、宿泊地まで1.5kmはあることになる。
しばらく歩くと左手に「曹洞宗 普門山 月輪寺 行者堂」の石柱が、
「明治天皇御駐輦之所」、「東海道」の石碑と並んで建っている。
道路を見ると交差点の先左側に大きな池が見える。
池は危険なためか鉄柵で囲まれている。
柵の脇に「東海道立場跡」の碑がある。


(名勝 月輪寺大池南1kmの石碑)


(月輪寺行者堂の碑)


(明治天皇御駐輦之所の碑)


(大きな池)


(東海道立場跡)

天皇が車を停めた場所があるからには、
このあたりは旅人の休憩場所であったに違いない。
先を急ぐ身には、東海道の道案内がここそこにあって頼りになる。
一里塚跡の碑があったら、右折してJR瀬田駅方向へ行く必要がある。
JR瀬田駅に行く唯一の目印である。
田舎道を急ぐと、「いちりやまばし」と書いた橋に出る。
「一里山」というからには、
このあたりに一里塚跡があるに違いないと、
大きな信号のある交叉点に出た。
右折するとJRの駅がありそうな道路である。
しかし、交差点のどこを見ても、
一里塚跡の碑は見えない。


(道路にある「東海道→」の案内)


(一里山橋)


(旧東海道直進の案内がある信号)

諦めて直進すると、右折方向の坂を下った辺りが、
どう見てもJRの駅に近く見える。
道路を渡って、交差点を振り返ると、あった。
「一里塚跡」の碑が今来た道路の左手の塀を背中に建っている。
「JR瀬田駅」への案内もある。
京都側から来ればすぐ見つかるが、江戸側から来たら、
信号を左に折れない限り見えない、そんな場所にあった。


(一里塚跡の碑)

信号を右折して、JR瀬田駅に向かいホテルに入る。
時間17:30分、そろそろ薄暗くなる時間である。

本日の歩行54156歩=約33km。
これは珍しい。
初日は足慣らしで普通25kmほどで、二日目が35kmとなるのに。




草津宿本陣と立木神社(旧中山道を歩く 322)

2012年05月09日 10時01分26秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(草津宿高札場の案内)

(草津宿 2)
トンネルを抜けると草津宿であった。トンネルの上は草津川で、
トンネルの天井は、草津川の川底に当たる。
トンネルの出口左手に追分道標があり、右手に高札場が置かれている。
草津宿の入り口に当る。

左手の追分道標には
「左 中仙道みのみち、右 東海道いせみち」
(京都側から見る道標)とある。
ここで中山道と東海道は合流する。
この後は東海道を歩くことになる。


(復元した高札場)


(左手の追分常夜灯)

道標の先の草津市民センター「公民館」がある。
お手洗いに御用の方はここで済ませよう。
東海道を進むとすぐ右に本陣らしき古いが立派な家がある。
「史跡 草津宿本陣」である。
寛永12年から明治3年の本陣廃止にいたるまで、大名、幕府役人、
勅使などが、小休止や宿泊を担った。
江戸期の姿をほぼ残し、公開されているので、
是非見学されたい。
入館料は草津宿街道交流館と合わせて320円である。


(草津宿本陣)


(本陣の入り口、細川越中守宿の関札が目に付く)

本陣げんかんへ向うと、入り口に関札(細川越中守宿)が目に付く。
玄関まで玉砂利を踏んで進むと、
途中元気よく「いらっしゃいませ」の声がかかる。
入館料を払うと、案内をしてくださる。
うるさいほど詳しくも無く、そうかといっていい加減でもない。
玄関の広い式台を上がると、関札が沢山並べてある。
宿泊者が持参する自分の名乗りである。
「松平出羽守宿」「細川越中守母休」「毛利安房守宿」
「出雲少将宿」「近衛殿御休」などなど。
赤い絨毯(レッド・カーペット=国賓級の最高のおもてなしを表現)
が敷かれた中央の畳廊下を進むと、
途中で一段、段を上がる所に御簾が巻き上げてあり、
ここから奥になる。
御簾が下げてあると、本陣の主人といえども奥に進めない。
一番奥の左手に「上段の間」があり、
その奥の左手に上段用雪隠(おてあらい)が、
右手に御湯殿がある。
本陣の裏手には、敵に襲われたときのことを考え、
脱出できる裏門が用意されている。

(島崎藤村「夜明け前」に、
書かれた本陣としての要件の一つ、裏からの脱出口。)


(草津宿本陣、江戸時代に思いを馳せて・・)


(沢山ある関札。本来は一枚だけを掲げる。この本陣には沢山あるといいたいのだ)


(畳廊下にレッド・カーペット(最高のもてなしを意味する)


(一番奥にある上段の間、一段高くなっている)

東海道を進むと左に草津観光物産館の「脇本陣」があり、
その先草津宿街道交流館がある。
料金が払ってあるので入館する。
草津宿がわかる歴史館になっている。
その先左手に問屋場跡がある。
草津宿は東海道と中山道の追分宿になっているので、
荷物の量も多く、仕分けも大変だったと思われる。
人足や馬に積む荷物の重量も決められていたので、
重量オーバーにならないか、重量検査を行う貫目改め所があった。
他に中山道では板橋宿と洗馬宿に、
東海道では品川宿と府中宿に設置されていた。


(脇本陣跡、草津観光物産館になっている)


(草津宿街道交流館)


(問屋場、貫目改め所跡)

東海道を進むと程なく(立ち木神社前)の信号があり、
道路を渡った右向こうに赤い鳥居が見える。
近づくと、赤い鳥居の前に川があり、橋が架かっているが、
その橋に赤い旗が風になびいている。
旗には、「初宮まいり」「安産祈願」「交通安全」「厄除け開運」祈願と、
書かれている。およそ人の願いを全て網羅した祈願、
全部叶えて下さるのなら、賽銭も安いものだ。


(立木神社前の信号)


(欲張りな四つのお願いの旗がはためく)


(狛犬に替わって鹿、「御神鹿」とある)


(御神鹿2)

立木神社に入る。狛犬の代わりに鹿がいる。始めてみる鹿の狛犬である。
浦和宿には、調(つき)神社に、ウサギが狛犬の代わりをしていた。
とても珍しい、始めてみた。御神鹿と書いてある。

滋賀県の指定自然記念物に指定された立木神社のウラジロガシがある。
神社も立派なもので、
これならいろんな願い事を全て聴いてもらえそうである。
狛犬に替わる鹿が神殿前や門前に建っている。


(天然記念物のウラジロガシ)


(本殿とその前の御神鹿)

境内に石の道標がある。草津市の指定文化財になっている。
石の道標は、風化して文字がよく読めないが、
説明によると、(以前草津の追分にあった石造り道標らしい。
「ひだりは中せんどう をた加みち 京みぶ村 万宝院 あしだの行者」と
書いてあるようだ。
道標の建立年代は、「延宝八庚申年」と刻銘にあり、
滋賀県下で最も古いものです。 ――後略)(草津市教育委員会)

立木神社を出て東海道を行くと、「矢倉橋(やぐらばし)」にでる。


((滋賀県下最古の道標)


(立木神社西門)


(矢倉橋)









苦労して読んだ伊砂砂神社の説明(旧中山道を歩く 321)

2012年05月05日 10時42分33秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


0001
(左の高架は東海道線)

(草津宿)
左手に東海道線の高架が近づき、
葉山川を渡ると左手にトンネルが見える。
案内書では、狭いトンネルをくぐると説明がある。
このトンネルは、車が一台通れる程度の広さで、
人が歩いていると車は止らなければならないほどである。
0002
(葉山川の隣のトンネル)

しかしこのトンネルをくぐってはならない。
ボクはこのトンネルを潜り抜けて、進んだが、
中山道としては道が違うように感じて、
角のガソリンスタンドの方に地図を見せながら訊くと、
この人はボクのもっている地図の見方がよく解らないようで、
つまり何所にいようとも、彼にはどこへでも行ける道路なので、
始めて訪ねるボクには上手く説明が出来ないようだ。

道が間違ったと感じて、小さなトンネルをくぐって元に戻り、
広い道(中山道)を進むと、50mも進まないうちに、
草津宿左の案内図があるので、左を見るとなるほど小さな、
ボクでさえ背をかがめないと通れないようなトンネルがある。
案内書のトンネルはこのトンネルのこと指していた。
0003
(草津宿の案内図)

0004
(地図の拡大)

0005
(小さな中山道の案内)

お恥ずかしいが、後で案内地図を見たら、間違いやすい場所であるらしく、
わざわざトンネルの写真が付いていた、
しかも、守山宿側から見たトンネルの写真と、
草津宿側から見たトンネルの写真である。
うっかり見落としていた。うっかりでは済まない、
これでおよそ1kmは歩き損である。
0007
(守山宿側のトンネル)

0009
(草津宿側のトンネル)

今度は正しい、左に小川の流れがあるトンネルをくぐり出ると、
中山道右の矢印があり、人しか通れない小路を行く。
右に折れると小路は線路と平行しているので、
くぐってきたトンネルの天上のうえは東海道線であることが解る。
20mも進むと、道路へ出るので直進する。
0008
(「中山道 右」 の案内)

0010
(人しか通れない小路)

0011
(この道を20mも行くと広くなる)

0013
(広くなった中山道)

0014
(左からの道と合流し直進)

橋を渡ってからは、旧中山道の上に、東海道線が敷かれたようだ。
しばらく東海道線と平行して歩くと、左から来た道と合流する。
なお直進するとインターチェンジへ進入する高架自動車道のガードをくぐる。
さらに進むと、左手にこんもりした神社らしき森が見える。
近づくと「伊砂砂(いささ)神社」である。

0016
(高架のガードをくぐる)

0017
(古い家の先に神社の森らしきものが見える。)

0019
(伊砂砂神社)

0023
(伊砂砂神社2)

0027_2
(伊砂砂神社の本殿)

国の指定重要文化財になっている「伊砂砂神社本殿」は、
(当社は天大将軍社と称され、雨乞いの神として崇められてきたが、
明治初年社号を改める。
本殿は一間社流造り、桧皮葺で棟札によって、
応仁二年(1468)の建立であること立証される建築物である。
身舎柱(もやばしら)は円柱で漆喰塗りの亀腹上に立ち、
三方に高欄を廻らし脇障子で仕切られた珍しい社殿である。
正面の浜床は狭く、向拝柱は角柱で、
柱上斗拱などの仕組みはすっきりとしており、
蟇股には宝相華唐模様の透かし彫りが施されている。
社殿内外共に素木造りで、彩色は無く全体に細身作りではあるが、
量感にあふれた建物で、室町時代の作風を、
今日に伝える重要な文化財である。)(草津市教育委員会)とある。

こんな説明板で説明が出来たと草津市教育委員会の方は考えているのだろうか?
宮大工が使う建築専門用語が、一般の人たちに理解できると思っているのだろうか?
文章とは出来る限り平易に書かれたものが、優れた文章であるとボクは思っている。
結局、この案内板を理解するのに、かなりの時間がかかった。
不明文字を帰宅後調べて、やっと理解できるのでは、案内説明板とは言えない。
読み方さえも分からないのだ。

太字にした部分は意味がわからず、下記の通り調べて注釈をつけました。
(*1)身舎(もや)=母屋。寝殿造りで、庇に対し、家屋の主体をなす部分。
     http://www.architectjiten.net/(参照)
(*2)亀腹(かめはら)=建築物の基礎部分、 鳥居の柱脚部などを、
白漆喰などで固めてまんじゅう形に造ったもの。
(*3)浜床(はまゆか)=寝殿造りの母屋に置かれた方形の台。
畳を敷き、四隅に柱を建て帳(とばり)を垂らして寝所などとする。
(*4)向拝(ごはい)=神社や寺院の正面に設置されている屋根を前に張り出した部分。
(*5)斗拱(ときょう)=斗(ます)と肘木(ひじき)でできている組み物で,必ず柱の上にあります。
     http://www4.airnet.ne.jp/sakura/gosinji07.html(参照)
説明の説明になってしまった。
0028_2
(この先中山道はカラー舗装がしてある。)

中山道に戻すと、この神社から先、中山道はカラー舗装がしてあり、解りやすい。
少し行くと左手に「佛乗寺」があり、
中山道はカラー舗装の上を行く。
次いで光明寺の門前を通り、少し行くと「やすらぎ」と題した婦人像がある。
像の前には子供たちの絵が数点置かれて、
渋川東地区街つくり推進協議会の案内がある。
(この道路は旧中山道であり、渋川のまちづくりの一環として平成八年に、
地域の特色を生かした景観形成道つくり事業を実施したものです。
通行に支障となる迷惑駐車はやめましょう。)と書いてある。
0029_2
(佛乗寺)

0031
(カラー舗装)

0032_2
(光明寺)

0033
(やすらぎ婦人像)

この先に交差点があり、直進は「きたなか」商店街のアーケードとなる。
その手前の交差点の中に「中山道 一里塚跡」の木杭がが置かれている。
この辺りに中山道最後の、129番目の一里塚があったとは、案内所に出ていたが、
地元の方が木杭を打ち付けて分かりやすくして下さったのであろう。
0035
(「きたなか」アーケード街)

0036
(アーケード街入り口左の一里塚跡)

商店街のアーケードを通り抜けた所に、トンネルがあり、
壁面に浮世絵の茶店の風景が描かれたところあたりでトンネルの出口になる。
いよいよ草津宿である。
0038
(長いアーケード商店街)

0039
(アーケード街終点にあるトンネル)

0041
(トンネル内に書かれた浮世絵を真似た絵)

0040
(いよいよ草津宿)








処刑された住蓮坊と大宝神社(旧中山道を歩く 320)

2012年05月01日 09時46分03秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(閻魔堂の信号)

(守山宿 6)
今宿の一里塚を過ぎると、(閻魔堂町)の信号にでる。
ここは直進すると左手に真新しい石柱で
「住蓮房母公墓」の石碑が建っている。


(「住蓮房 母公墓」の碑)

法然上人説く浄土仏教は、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、
阿弥陀様は、誰でも極楽浄土へいざなってくれる、
という非常にわかりやすい仏教だったので、
天皇から貧しい庶民にいたるまで、
多くの人が信者になったといわれる。

(法然の弟子に安楽坊と住蓮坊という二人の美男の坊さんがいた。
この二人は「六時礼賛」という念仏会を行っていた。
後鳥羽上皇の二人の侍女が、
上皇留守の間にこの「六時礼賛」に参加し、
安楽坊と住蓮坊はこの二人を剃髪、出家得度させた。
これを知った上皇は、安楽坊を六条の河原で、
住蓮坊を近江の馬渕村で処刑、法然は土佐に流罪となった。

息子住蓮が捕えられ、処刑されることを知った母公は、
息子住蓮に会いたい一心で馬渕村へ急いだが、
ときすでに遅く、住蓮は処刑された後であった。
母公は、最早これまでと閻魔堂の池に入水自殺した。
その母公の墓が市村家 
屋敷内にあり、今も供養されている。)という。
(守山宿歴史文化保存会)


(閻魔堂)

その先右手に、閻魔堂がある。
門前右側に「閻魔法王小野篁御作」の石柱、
左側に「五道山十王寺」の石柱が建っている。
小野篁作 地獄の法王閻魔大王像が、
お堂の中に納められているというが見ることが出来なかった。
閻魔堂の左には諏訪神社がある。

この先1kmほどは長い田舎道で特筆するものは何も無い。

(淡々とした田舎道)


(諏訪神社の鳥居)

左手に神社の森らしきものが見えてくる。
道路左は川の流れがあり、流れの左手には鳥居があり、
その奥は公園になっている。
鳥居をくぐると公園の横が参道になっており、
進むと右側にさらに鳥居がある。
鳥居脇に「この奥に芭蕉句碑あり」と刻んだ石柱が建っている。
奥に目をやると、句碑らしきものがある。


(神社の鳥居と狛犬)


(句碑の案内)


(芭蕉句碑とその由来の碑)

句碑の由来とともに、句碑があり、

・へそむらの まだ麦青し 春の暮れ  はせを(芭蕉)

と刻まれている。
句碑の由来には、
(この句碑は栗太郡内唯一の芭蕉の句碑であう。-中略。
滋賀県内に、93本の句碑があるが、この句は芭蕉の句の
存疑の部に入れられていて、今後の研究課題の一つとされています。)
(綣行政区(うそぎょうせいく)とある。

しかし芭蕉俳句集(岩波文庫、中村俊定校訂2008年発行)によると、
存疑の部にも入っていない。
どの研究書によって存疑の部へ入れたのであろうか。

話を戻す。
鳥居のある神社は、大宝神社で、参道が奥へ続いている。
入り口の立派な四脚門は、宮中からの寄進であることを現す、
築地塀に五本の白い線が入っている、という。
また、社宝の二対の木造狛犬の内、
一対は平安時代のもので国指定の重要文化財となっているそうである。
木造狛犬は見ることができなかった。
広い森には年代ものの大木が生えていて、
都会とは違う森の深さを感じる。


(大宝神社の鳥居)


(四客門の五腺入りの築地壁)


(本殿)

中山道は綣(へそ)町を過ぎ、右手の佛眼寺の地蔵堂を見て進み、
(栗東駅西口)の信号を過ぎ、左に八幡宮の鳥居を見て、
旧街道らしい街並みを歩くと、

草津市に入って行く。


(佛眼寺の地蔵堂)


(栗東駅西口)の信号)


(八幡宮の鳥居)


(街道らしい道)


(草津市の案内)






樹下神社と一里塚(旧中山道を歩く 319)

2012年04月27日 09時49分47秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(樹下神社の鳥居と左に並ぶ石灯篭)

(守山宿 5)
橋を渡ってすぐ右に樹下神社の鳥居と沢山の石灯篭が並んでいる。
左には、「どばし」と「常夜灯」説明が石柱に刻んである。
鳥居をくぐると、左に「太神宮」と刻まれた背の高い常夜灯が目に入る。
その奥に本殿がある。


(どばしと常夜灯の説明の石柱)


(伊勢屋佐七の常夜灯)

背の高い常夜灯が伊勢屋佐七の常夜灯であることはすぐ判った。
(常夜灯は4mの大きなもので、
石の東面に「太神宮」が、
西面には「願主 天保二年辛卯9月伊勢屋佐七」が刻まれています。
また台石には「武州摂州 武州濃州」、
他の面に
「守山宿役人中 御会所 鋳野生介 池田屋治郎兵ヱ 堅田屋喜十郎」
が刻まれており、地元の伊勢屋佐七が願主になって、
各地の身内や守山宿の役人や商人などの協力を得て、
商売繁盛、家内安全を願い建立されたことがわかります。)
(守山宿歴史文化保存協会)


(停車場道の道標)

また右側には、「停車場道」の道標がある。
(これはJR守山駅が新設された時、
中山道今宿から勝部を通って守山駅への、
初めての道路を記念して「停車場道」の碑が建てられたが、
途中で撤去され樹下神社に保管された。)(今宿商工会)

奥の本殿左横に、「女天神 安産石」が置かれている。
(菅原道真公(天神さん)が大宰府へ左遷されて、
一家離散となり、
信濃に落ち延びる身重の息女
(宇多天皇の皇子 斎世親王の妃)が産気づき、
当神社近くで、街道の平石に臥せって苦しんでいた。
里人の手厚い看護もむなしく、無念な最後となったが、
その臨終に当たって、里人の厚い情けに報いるためにと、
女人の安産を この平石に強く祈願したといわれる。
その後この平石の下の砂を妊婦が肌身につければ、
安産間違いなしと今宿に語り継がれている。)(今宿商工会)


(本殿)


(安産石)

その左手に松の大樹が何本か生えている。
(これは樹下神社のご神木で「夫婦松」といわれるもの。
二股の枝が次々と続くことから、夫婦松と呼ばれている。
安産石とともに、お家繁盛のシンボルとして、
昔から大切にされてきた。)(今宿商工会)


(夫婦松)

二股の枝が続くことが、どうして夫婦松につながるのか、
よく解らない。
二股の枝の間から若芽が次々と出てくるなら解るが・・・

中山道を行くと、今度は左手に本像寺がある。
(門をくぐり本堂の前に行くと、右に題目塔が一基あり、
もう一基は墓地にあるが、二基とも守山市指定文化財である。

(*)題目塔=南無妙法蓮華経と刻まれた、
   鎮魂を目的とした供養塔をいう。

本堂前の左側にあるお墓は、
八十五歳で生涯を閉じるまで、全国を行脚して、
石類の収集に励み、その数2千種以上数えたといわれる、
江戸時代の鉱物学者木内石亭のぼせきである。)(今宿商工会)


(本像寺)


(題目塔)


(鉱山学者の木内石亭の墓)

本像寺を出て古い家並みの中山道を行くと、
(今宿町)の信号にでる。左へ行くとJR守山駅へ抜けるが、
この交差点左に樹下神社にあった「停車場道」の石柱はあったとされる。
宿場らしい古い家の前を通り行くと、一里塚がある。


(宿場らしい家)


(今宿の信号、この手前左手に石標はあった。)


(宿場らしい古い家が続く)

「今宿の一里塚」で滋賀県指定史跡になっている。
滋賀県教育委員会の説明によると、
(今宿の一里塚は五街道の一つでである)中山道の一里塚で、
江戸日本橋から数えて滋賀県草津宿までに129箇所あった一里塚の
128番目に当たります。
一里塚は江戸幕府により慶長九年(1604)に整備されたもので、
一里毎に道の両側に、五間四方の塚を築き、
榎や松を植えて通行の目安としたものです。
圏内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、
北国脇往還等に設置されていましたが、
明治以降、交通形態の変化による通路拡幅や農地、
宅地への転用などにより、そのほとんどは消滅し、
現存するのは今宿の一里塚のみとなりました。
今宿の一里塚は規模は小さくなっていますが、
南塚のみ残り榎が植えられています。
先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、
脇芽成長して現在に至っています。
今宿の一里塚は、往時を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、
近世交通史を知る上で重要な遺跡となっています。)とある。

中山道67次の一里塚は全部で129箇所あった。
その一つ手前の128番目の一里塚である。

現存する中山道の一里塚としては、最後の一里塚である。


(今宿の一里塚に残る南塚)





東門院(旧中山道を歩く 318)

2012年04月23日 10時00分42秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(右手にある道標)


(道標)

(守山宿 4)
中山道はこの先右手の角に道標が建っている。
「石邊道標」といわれるものだ。

この道標については、
(本道標が建てられているこの地点は、
その昔、掟書などが掲げられていた高札場の一角であった。
道標は、中山道側の側面にには、「右 中山道 並びに 美濃路」
その左側面には、
「左 錦職寺四十五丁 こ乃者満道(このはまみち)」の
文字が刻まれている。

「右 中山道 並び 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へ続く中山道で、
「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち(このはまみち)」は、
左の道を行くと人々の信仰を集めた、
真宗木部派本山である錦織寺に至る約四キロの道程(錦織寺道)であり、
それに続く「こ乃者満ミち」は、
琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へ通じる道筋であることを示している。
――後略)(守山市教育委員会)とある。


(右にカーブする街道)

この先道路は、右にカーブしていくが、曲がった先に東門院がある。
(東門院は江戸時代には観音堂として記述されていますが、
その正式名称は「比叡山東門院守山寺」で、
享保19年(1734)近江輿地志略に出ています。
寺伝によれば、伝教大師が延暦寺を開いた時、東方の鬼門を守るために、
建立されたといいます。
数多くの文化財があって、「守山の正倉院」とも言われています。
昭和61年の大火により本堂はじめ、多くを焼失しましたが、
木造不動明王坐像、石造五重塔、石造宝塔など文化財があります。
また、江戸時代朝鮮通信使の宿として使われました。)
(守山市教育委員会)


(東門院)

山門には木像の仁王像が左右にあり、
中央には「東門院」と描いた大きな提灯が、
浅草の雷門のようにぶら下げてある。
門を入ると左手に、
大きな石造りの蛙が背に小カエルを乗せているのが目に付く。
特段意味があるものでは無さそうだ。
少し右にカーブした格好で本堂があり、
その左手に三基の石造物がある。
左から宝塔、五重塔、法篋印塔が並んでいる。


(左の仁王像)


(右の仁王像)


(親蛙と子蛙)


(本堂)


(国重要文化財の石造五重塔、重要美術品の宝篋印塔、重要美術品の宝塔)

三基の石造物の横をでると、山門の西側に出るが、
そこに明治天皇御聖蹟の石柱がある。
さらに隣に門前茶屋「かたたや」があり、
これは往時からあると言われる。
その先の交差点が「守山銀座西」で、
左へ銀座通りが続くがここは直進する。


(明治天皇御聖蹟)


(堅田屋(かたたや)


(守山銀座西 交差点信号)


(今宿村に入る土橋)

すぐに土橋があり、この橋を境に加宿の今宿に入っていく。
(江戸時代この川は巾が二十間(30m)あり、
瀬田の唐橋の余材で架け替えられ、
公儀ご普請橋として大切にされた。

川には屋形船が、また両側に宿屋、茶店が立ち並んだという。
「木曽海道六拾九次之内 守山」の浮世絵は、
この橋から眺めて描いたとされる。
また、この先右手の「樹下神社」にある伊勢屋佐七の常夜灯
(商人仲間から浄財を集めて建立された)も、
この橋詰にあったとされる。)(今宿商工会)


(樹下神社)


(土橋から描かれたという、広重の浮世絵「木曽街道六拾九次之内 守山」)






謡曲「望月」のものがたり(旧中山道を歩く 317)

2012年04月19日 09時55分09秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(中山道守山宿の街灯)


(木製の常夜灯に「中山道守山宿」が店先にある。)

(守山宿 3)
守山宿を歩くと「中山道 守山宿」の看板が商店街の街灯に掲げられ、
また商店の前には守山宿の常夜灯を模した看板が置いてある。
宿場を楽しみながら歩くと、左手に道標がある。
「高野郷 新善光寺道」の石標である。


(新善光寺道の道標)

この標の片面には「すぐいしべみち」と入っており、
ここから栗東の新善光寺と石部への道標で、
中山道から分かれて「伊勢参り」の道として利用された。

中山道を進むと、左手に「うの家」と書いた大きな家がある。
元内閣総理大臣 宇野宗佑さんの旧居(酒造業)であると、
後ほど訊ねた交流館でお聞きした。


(旧家の感じの宇野家)

さらに進むと右側に天満宮があり、
左手に古井戸と本陣跡推定地の石標がある一角にでる。
古井戸は防火用水、足洗い用水等として多目的に使用されたもの。
井戸があった場所は移設されているそうです。


(天満宮)


(古井戸、本陣跡推定地の碑)

(この本陣は、江戸時代には問屋、脇本陣、本陣の役割を果たした。
また、文久元年10月22日(旧暦)(1861)十四代将軍 徳川家茂に嫁いだ、
皇女和宮が宿泊された。)(守山市教育委員会)

また、本陣は、謡曲「望月」に出てくる「甲屋」を指したという。
その甲屋の物語であるが、
(謡曲「望月」は、信濃の住人・安田荘司友春の妻子が、
元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、
仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、
登場する人物はすべて架空とされている。
また、その舞台となった宿「甲屋」も、
享保十九年(1734)「近江與知史略」や
文久元年(1861)の皇女和宮降嫁の事前「宿屋」調べにも記載が無いことから、
架空の宿と考えられます。)(守山市教育委員会)とある。

架空の物語ではあるが、
当時から貨客の往来が盛んであった守山での仇討を題材にしたもので、
能楽界では今でも格式高いものとして演じられている。

守山宿の歴史的な説明板は、出典が明らかにされており、
科学的で非常に明解である。

その先に「中山道街道文化交流館」があり、
ここは元「ろうそくや」の商家跡で、
問屋のような、黒光りする板の間であった。
温かいお茶をご馳走になり、
いろいろ史跡の案内をしていただいた。
中山道を歩かれ守山宿を訪ねられる方は是非お立ち寄り頂きたい。


(中山道街道文化交流館)





帆柱観世音 慈眼寺(旧中山道を歩く 316)

2012年04月15日 10時24分03秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(慈眼寺と薬師如来の石柱)

(守山宿2)
道路左手に「帆柱観世音 慈眼寺」と
横面に「薬師如来」と刻んである石柱があり、
道路奥に慈眼寺が見える。
帆柱観音は住吉山興福院 慈眼寺と言い、
天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺である。

興味ある説明によると、
(古来地元 吉見や近在の人々から、
「帆柱観音さん」と親しまれ、広く信仰されてきました。
ご本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)です。
縁起によれば、伝教大師 最澄が桓武天皇の勅命で、
唐の国に留学、修業しての帰国の途上、
突然の海難に遭遇した危急の際、
海上に観世音菩薩が現れて風波が静まり無事帰国された。
帰国後、伝教大使は海難で折れた船の帆柱で、
十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、
弘仁元年(810)中山道に沿う吉見の地に、
水難をはじめ全ての交通安全の
守り仏として安置されたのが起源とされています。
――以下省略)とある。(慈眼寺)

ここで水難?は野洲川の氾濫と思うが、
吉見町自治会(水とホタルの推進委員会)による説明を要約すると、
(吉見は古くは「吉水郷」といい、
豊かな森林ときれいな「水」に恵まれた景勝地であった。
南側は「都賀山」の森と醴泉(れいせん)が湧く数々の池あり、
ー中略ー本宿と加宿の吉見の間に流れる川は、
野洲川の伏流水と湧き水で水量多く
冷たく清らかで、宿場の防火用水の役目も果たした。
流は早く周囲の環境に恵まれ、
「ゲンジホタル」が生息する川として親しまれててきた。ー後略。)
往時はこのような環境にあったので、当然水難があったと思われる。
町を流れるきれいな小川には、
今も「ホタル」の住む水である表示がしてある。

さて帆柱観音の慈眼寺本堂の脇に地蔵堂があり、
子供をお守りする可愛い地蔵尊が並んでいる。
帆柱観世音は秘仏で拝むことは出来なかったが、
今回の旅の安全を願ってささやかなお願いをしてきた。


(慈眼寺の地蔵堂)


(慈眼寺本堂)






守山宿(旧中山道を歩く 315)

2012年04月12日 09時56分57秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(野洲川橋から見た東海道線の鉄橋)

(守山宿)
野洲川を渡ると守山宿に入る。
橋を渡り終えると、右手に「馬路石部神社」の石塔がある。


(馬路石部神社の石柱)

しばらくすると広い道路と交差する。
右方面は琵琶湖大橋に行く信号(吉見三丁目)の信号に出る。
中山道はこの信号を直進するが、
道は歩行者自転車のみの一方通行出口となり、道路は狭くなる。
街並みを抜け、次の信号(吉見小学校前)も直進する。


(旧中山道らしい街並み)


(吉見小学校前の信号)


(中仙道の案内、高札場跡の案内がある。)

道路右手に吉見一丁目の(中仙道)金ぴかの案内があり、
その脇に、中山道高札場跡の説明板がある。
守山宿江戸側の入り口である。

高札場についての説明版を要約すると、
(帆柱観音(ほばしらかんのん)で名高い慈眼寺から、
北東側へ約100メートルの地点は、
中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。
この場所に高札場が設けられていた。
徳川幕府の定めた法度や宿場の決まりなどを記した
木の札が掛けられ、旅人は笠を手にして読んだ。
宿場の入り口と出口では、
道路は鉤の手になっており、
外敵がじかに攻め込めないよう、宿場の治安維持のため、
街道に面する民家も一戸毎に段違いの屋敷割りになっている。
全国的にもこのような道路が残る所は大変珍しい。
現在は道路整備により、昔を偲ぶことが難しくなっているが、
その一部を観察することが出来る。)とある。(守山市教育委員会)

守山宿の守山とは、比叡山を守るという意味で、
宿場のほぼ中央に東門院があり、
正式には東門院 守山寺という。
これは比叡山の関門として造られたもので、
叡山を守る、つまり守山となった。


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 守山」)

中山道の京発ち東下りでは、守山宿泊まりで最初の宿泊地であった。
守山宿は守山本宿を挟んで、西の今宿、東の吉見の三つからなり、
長い宿場町として繁盛し、今宿、吉見を加宿として、
さらに発展した。
街道に面する民家が段違いに出来ていたのは、
比叡山を守るということから考えれば、
外敵防衛の面から当然のことであったに違いない。

中山道の高札場跡から少し行くと左手に、
「帆柱観世音 慈眼寺」の石柱があり、
道路奥に慈眼寺が見える。


(「帆柱観音 慈眼寺」の石柱)


(慈眼寺)