暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

四日目がいちばんキツイのかもしれない

2017年04月16日 20時48分17秒 | 健康

 

2017年 4月 16日 (日) 外気10℃

外は寒い。 昨日は気力があったので土曜の青空マーケットに出かけて散歩したり本屋や市立図書館で時間を過ごしたりジャズのライブを覗いたりしたのだが今日は外に出る気力がなく一日家の中でブラブラしていた。 そのブラブラは頭がすっきりしていて何もしないで家の中にいるポジティブなものではなく頭がボヤーッとして体がだるくベッドがいつもおいでおいでをして招いているような状態のブラブラだ。 だから7時半に朝の服毒を終えて暫くしていると眠気が襲ってきて8時にはベッドに潜りこみ11時にお茶だと言って家人に起こされるまで眠ってしまっていた。 その理由がわからなくもない。 

昨日までは抗癌剤の副作用予防のための薬を飲んでいたのだが徐々に慣れるために今日一日はそれがない。 だから今日は副作用がまともに襲ってきてこういう風になっているのだろう。 幸いなことに数多ある副作用のリストから自分の身の上に起こっているのはこの怠い様な感じだけで他には吐き気も腹具合も何も人がいうような悪いことはない。 だからただゾンビのように家の中をうろうろしていればいいわけでこれが自分の抗癌剤服用期で一番キツイ症状なのだ。 これぐらいだけなのだから不幸中の幸いとでも言わねばならないようなものだけれど怠いことは怠い。 明日からは二日ほど続けて別の抗副作用剤を飲むことになっているからそれからあとは徐々に正常に戻ることになるのは前の二期で経験済みだ。 26日には服毒期も終わり5月3日にアムステルダムの癌研に出向き担当医と会う。 そこで手術の日が知らされるかもしれない。 早ければ6月の初めになるのだろうけれどそれまでに、手術前にできれば日本に2週間ほど出かけたいのでそのことの可否をこの2,3日の間に担当医に訊ねるつもりだ。

先日どこかの庭にパンジーが群れて咲いていた。 昔漫画でみたどこかのオヤジのように見えてそのイメージが一度頭の中に坐ると髭を生やした怒ったオヤジの群れがこちらを眺めているようで花の写真にしては不穏な雰囲気を醸している。 このイメージを払拭する様なトリックはないものか。

 

 


クレラー・ミュラー美術館で印象に残った作品(続)

2017年04月16日 20時33分11秒 | 見る

 

 

今回この美術館に出かけて数多くの作家の作品群を眺めていて印象に残った作品をメモしている。 そこでは従来名の知れた作家の作品からその今まで持っていたイメージと違う印象をうけたものについて記している。 世界の美術・芸術に親しく接していてそれを時代・スタイル・作家の年代などから類型化して我々は記憶に残す。 例えばそれは単なる色でも印象を残しフェルメールの青なりボッティチェルリの肌色という風にも類型化される。 そんな中で抽象度の高い彫刻、インスタレーションが森に転々と配置されている中で壁掛けの馬の首のようにも見えるブロンズ像に惹かれた。 馬の首のようにみえるけれど写実ではなく目や鼻の空洞はデフォルメされ怪物や恐竜のようでもなく多分馬なのだろうと想像できる種類のものだ。  口の上の筒のような鼻孔の形に対する口に通じる蛙のような鼻筋や左右非対称の頬骨などに興味が行った。 タイトルと作家を示す芝生の上の小さなプレートをみて「動物の頭(1956) ヘンリー・ムーア」と書かれているのに少々の驚きを禁じ得なかった。 それはそこから10mほど離れた日当たりのいい芝生の上に横たわって両足をすこし上に上げている見るからに紛う方なきマイヨールの裸婦像があるからで、この頭からはヘンリー・ムーアが思い浮かばなかった。 ムーアはあちこちの美術館や野外で見るから彼の作品の「イメージ」がありここでそのイメージが裏切られた意外さに新鮮なものを感じるのだ。 ムーアのものをこの前に観たのは去年5月に大阪の御堂筋を歩いたときでそれを次のように記していた。

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65216637.html

それはヘンリー・ムーアの「二つに分断された人体」と題されたあまり大きくもない像で自分はその時それがムーアの作だとは初めに思わなかった。 ここでの動物の首と比べると分断された人体の鋭角的ではあるとはいえ端々の柔らかさにムーアの特徴が認められるのだろうが類型的に記憶していたムーアのものからは離れていたのだろう。 ここでの獣の頭はそれ自体で興味を惹くものでありそれがムーア作だというので自分の固定観念が覆された驚きと作家の中に在る一面を発見した喜びというようなものがあったのかもしれない。

我々は日常と非日常のあいだで生きている。 何らかの安定を求めその中でそれに慣れてくるとそのうち内外に差異を求め、親和力を感じたり逆に反発したりしてそこで生まれる感情の動きや「揺れ」に従い興味に添う。 多分芸術と娯楽の大きな違いは芸術では今迄既に在るものに安住せず興味の向くまま差異を求めて移動する運動にあるのだと思う。 芸術家でない我々は芸術家の営為を眺め彼らの興味、作業の結果を追い、或る形やそこにあるだろうと思われるものに親和力を感じ、それに慣れ、あるときに何かのきっかけでそこから離れていったりまた戻ったりする。 そのきっかけが創る者と観る者の対話の焦点なのだろうと思う。 ここで自分の驚きとなったのは今迄ムーアの人となりや思想を知ることなく眼前に現れた諸作品だけである種の親和力を感じていたけれどその眼前に置かれていた諸作品がある種のパターンを持ったイメージとしてそれがムーアの「売り」だったのだろうけれどここでは別の貌が見えてそれが自分の中のムーアのイメージから離れたものであっただけに戸惑いとなり、自分の持っていたムーアのイメージから離れてもそれ自体に好ましいものを認めそれが自分が既存で持っていたムーアのイメージを補強する好ましいものとして作用しているのを感じた。 

現代では書籍を始めネットで様々なイメージが簡単に求められる中、美術館の機能が著しく変化していることを感じることがある。 それぞれの美術館が美術館の「売り」として有名・無名の作家の作品を「買い(集め)」展示するとき、特に我々は有名な作家の作品に接するとその「良さ」のパターンを追い、他の美術館などの作品と比べ、それを記憶の中に留めその類型化、差異化で作家を理解しようとする。 商売でもある美術館が「集客力」を高めようとすると「有名作品」「将来有望作品」を買い展示するのが使命に沿っているのだろうが、それらのバイヤーは目利きたちのアドバイスを参考に財源である財布の口を緩めてもらいながらもその限度に従って欲しいものを手に入れるには学芸員の芸が肝心になるのだろう。 大美術館には集客力が高い有名作品が多くそれらは高価である。 制作当時の価値・値段は別としてもその価値・価格は現代の価値に従って貨幣価値にも置き換えられる。 或る作品群はその価値が限りなく高く貨幣価値となると膨大で値段がつけられなく,だから保険もかからないとも言われている。 それには多くがクラシックな作品であり、近・現代ではその価値の「発見・創造」によりゴッホが一番の「売り」となったことは天国かどこかでゴッホが喜んでいるかどうかは別として周知の事実ではある。 

自分の友人の一人は陶芸家で生前は、自分は泥から茶碗を創ってそれを一個300万ほどで売っている、詐欺師みたいなものだ、と笑っていた。 誰かがその価値を認め価格をつけそれを買う者がいてそれが値段である。  値段というのは厄介なものだ。 芸術的というものが付加価値となり値段という形に現れている。 美術館は美術商のギャラリーではないのでそれぞれには値札がついてはいないものの大抵は想像がつくものである。 あちこちの美術館で作品の脇につけられた名札の裏に値段がついていると思えばいい。

ヘンリー・ムーア作の「動物の頭」の像から妙に生臭い金のことになった。 何故こうなったのか自分でも分からない。 ムーアの「ムーアらしい」作品に比べて本作が安いとも思わないし「ムーアらしい」作品ばかり集めないでこういうものも「買った」ところにこの美術館の大きさを感じたからでもなさそうだ。 この間何年も前に盗まれていたゴッホの絵がイタリアのマフィアのもとから戻り、修理の後展示されたときに盗んだ者へのインタビューで何故あの絵だったのかと訊かれて、単に金になるからだと応えていたのが印象的だった。 ゴッホが生まれた田舎の村の寂れた鬱陶しい絵の裏にはいくらの値札がついていたのだろうか。 そこには「芸術」というものがどのように関わっているのかそれを想うと途方にくれそうになる。