暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ハーグの国会議事堂の警備

2016年12月16日 18時34分51秒 | 日常

 

 

この間ハーグに行った折、マウリッツ美術館から首相の執務室を横目で見ながらオランダ国会の広場を通り抜けたことを下のように書いてその時に見た憲兵隊員たちが自動小銃を備えていなかったことに疑問を持ったけれどそれを次回に尋ねてみようと思っていていたのだがその機会があった。 先日と同じように装甲車が3台ほど広場の3点に散らばっていてそれぞれ3人ほどが警備しているところを通りかかった。 儀仗兵ではないのでイギリスやギリシャのように機械人形のように動いたり動かなかったりするのでもなく重装備、ベレー帽が憲兵であることを示していて眼はあちこちを見まわしているけれどそれぞれ立ち話で談笑かという風である。 そこに近寄って直接訊ねてみた。 ブリュッセルやパリ、スキポール空港では自動小銃携帯が普通なのにどうしてここではそれがないのかと問うと、笑って、それはハーグの市長がそれを許可しないからだと言った。 理由ははっきりしないし我々は政治にはコメントしないので分からないと言ったけれど想像できるのは、世界の政治の中心地のひとつであるここハーグは平和で安全な場所であり、その議会制民主主義の中心であるこの場所は世界の他の場所はどうであれ暴力や武器によるテロには屈しない所として確保してあるという市長の示威行為の姿勢を示すものかもしれない。 リベラルではありながら保守党で外務大臣をしたことのある市長の意図かそれともそんな市議会の姿勢なのかそんな匂いがしないでもない。 

実際問題として車は別としても自転車や人が自由に広場に出入りできるのだから爆発物を持ちこみ自爆テロを行ってもそのときは自動小銃でも止められるものではないのは素人でも分かり、むしろそれに至るまでの保安諜報活動のほうが数段重要であることはこの何年もの間に世界の各地で頻発する事件の結果学んだことであるのは言うまでもない。 自分の属する射撃クラブはもう何年も地元警察の射撃訓練のために射場を提供している。 それは近年予算を徐々に削られて警察の射場を閉鎖しそれぞれの射撃クラブなどに場所を依頼しながらも回数を極力少なくして警察署内では小さなスペースにコンピューター設備を用意し射撃シミュレーションで弾薬予算を削減していると聞く。 だから警官の射撃能力が初発目以降落ちているということも聞いている。 訓練はコンピューターゲームでやるのかと尋ねると我々は実弾訓練だけでゲームはしないと笑って小柄な美人の女性憲兵は応えた。 ここでは若くてイケメン、美女の憲兵ばかりである。 そういうところにも世間に向ける顔の体裁をつくっているのかもしれない。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65444533.html

ビネンホフ(宮廷の内側)と呼ばれる議事堂コンプレックスの外側の正面入り口に国王ヴィレム2世の騎馬像がある。 その横にいつも小さな魚屋の屋台が出ている。 この日はそこで昼食代わりに白身魚の揚げ物を喰った。 註文して出来上がるまで待っている時先ほどの女性憲兵が入ってきて何人分かの揚げ物や生の鰊を注文した。 防弾チョッキをはじめ装備が重そうだったのでそれを訊ねると拳銃、弾薬、無線機器やその他で軽く10kgは超えているのではないかと言った。 けれどリュックサックのように一点で背に負うものではなく体全体に重さが広がっているので重いとは感じず単に慣れの問題でもあるといい受け取った昼食の入ったビニール袋をぶら下げて元の場所に戻って行った。 装甲車の中でそれぞれ交代で喰うのだろう。

その魚屋を見下ろすようにヴィレム2世の像がある。 自分がオランダに来たのは1980年でその春にユリアナ女王の長女ベアトリクスが王位を継ぎその日に騒乱事件があったのを記憶している。 その第一王子が今のヴィレム・アレクザンダー王として2013年に4代続いた女王から久々に男性元首となっているのだが幕末時代のオランダ国王がヴィレム2世だった。 性癖が男女ともに付き合う両刀使いでそれを脅迫の材料にされ結局は議会制民主主義を認めるようになったとも言われた人物だからオランダ国会の入口にこの王の騎馬像があるのだと聞いたことがある。 ペリーが開国を迫る前、アヘン戦争後に幕府に開国を求める書状を送るものの蘭学者を弾圧し蛮社の獄を導いた徳川家慶に拒否されたとも記録にある。 幕末時代のそんなオランダ国王像を見上げると頭に鴎が一羽とまっていてあらぬ方向を眺めていた。

 

 

 

 


Wifi が繋がらない

2016年12月13日 22時15分26秒 | 日常

 

このところ Wifi の調子が良くない。 息子は昔のように下から線を引っ張ってきて繋げばそれが一番確実だというけれどもう20年ほど前にそれをやり、連結部の接続で苦労するようになると時代は無線で信号を飛ばしてそれを受け取り増幅するシステムだといい囃し、それに乗って線を取り除きブースターとかルーターとかいう箱を経由してやりだしたのが何年前だろうか、10年ぐらいになるか、そうしてルーターも怪しくなりこの何年かは電気のソケットに直接そんな小箱を突っ込んでそれで居間のモーデムからの信号をキャッチしていたのだった。  それを今更20年ほど前やったように配線をし直す気にはならない。 けれど半年以上前にもこんな状態の中で Wifi が繋がらなくなって2週間ほどパソコンが使えなくなりそんなことも書いた覚えがある。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65152061.html 

そしてこれがまた最近揺らぎだして繋がらなくなることが多く、この2,3日ダウンしてしまった。 それにはこれだけではない理由もある、少なくとも理由の多くはこれに依っていると考えていることがある。

もう1週間も前に自分の部屋の灯のスイッチが壊れていた。 この家は1958年に建てられ、この屋根裏部屋の基本的は配線、配管はオリジナルのままだ。 つまり前世紀中頃のままなのだ。 部屋に入ってきて一番最初にすることは電灯のスイッチを入れることで小さなエボナイトのノブを上下して灯を点ける。 プラスチックではないエボナイトとかベークライトと言われるプラスチックが現れるまえの素材である。 このアンティークスイッチ内部のどこかが摩耗したのか一旦点けたあと消そうと思って下に押してもカチッとかクリッとかいう感触がなく押し返される。 力任せにやっても駄目だ。 こういうことは今までに経験がある。 子供たちの部屋にもそれぞれ相似形のものがついているが10年ほど前にプラスチック製の類似の似非アンティーク型に替えていた。 初めそれらにも同じことが起こりネジを緩めケースを動かしているうちにスライドが効いてまだ修繕せずとも何とか保っていたのだが結局それも新しいものに替えざるをえなくなったということだ。 だから自分の屋根裏部屋のスイッチの耐用年数は遙か昔に過ぎているのはたしかだ。 内部の部品が壊れているならそのうちに修理して、、、、と算段もしており夜も昼も明かりをつけたままにしてそのまま眠ったりしていた。 この時期には Wifi にも少々揺らぎが来て1日に何回かコンセントから外しリセットしてはっきりした信号を掴むようにしていた。

明るい中で眠っている自分に呆れたのか家人がこれを買って来たから付け替えて、と象牙色で長方形の四角いスイッチとソケットの合わさった長方形の箱を寄越した。 嫌な感じがした。 のんびりそのうち壁の物をバラバラにして、と考えていたのだ。 修理するためには感電しないように下の配電盤で屋根裏部屋だけのサーキットのスイッチを探して電気を切らねばならない。 それからああしてこうして、、、、、と心づもりだけは朧げに出来てはいた。 けれど今ポイと急に新しいものを放られても順序や果たしてそれがちゃんとこれに合うかどうかも分からない。 そしてそれが危惧していた通りになった。

ドライバーでネジを緩め二つの円形のケースを取るとソケットの方には半世紀前の碍子(がいし)製絶縁基板が白く光っていた。 今時サイズは比べ物はならないもののこんなものは高圧線鉄塔か変電所のブーンという音の聞こえるところぐらいにしかなく家庭からは遥か昔に消えている。 70年代前半に学生時代長い休みの時には大工の棟梁だった叔父のひとりのところでアルバイトをした折よく古い農家の改修工事をして古い部屋などを解体すると碍子の絶縁物があちこちにあって壁に巡らされた配線が繊維で編んだもので覆われていてそれを思い切り引っ張るとサツマイモの獲り入れのように碍子の押さえがバラバラと線について来たものだ。 そんな磁器の冷たい感触が好きだ。 このソケットのユニットは今のプラスチックのものに比べると図体がでかく重い分だけシンプルでスペースがあり、それだけ作業がしやすい。 けれど配線の銅線がやたらと太いから固く今の細かく薄い、チョコマカと仕切られた箱にはペンチで曲げようとしても中々細工しにくい。 

ソケットの部分はそれとしてスイッチはそのユニットを外すと細いコイルが二つに割れて落ちてきた。 これでは修理のしようがなく、では家人が買って来たものを取り付けようとしてもサイズが合わない、取り付けるネジ穴が合わない、第一壁の上に取り付いている金属製の楕円形のボードを外すといよいよ何もない。 つまり半世紀前のものには今の物を取り付ける基準が出来ていないということだ。 だからこれをそのまま使って、、、、、ということは、ソケットとスイッチが一体になったチャチな新しいユニットは使えないということだ。 だからそのまま使えるソケットを元に戻して別のちゃんとしたスイッチ単体ユニットを買ってこなければならない、と壁を指しながら家人を元の電気屋に行かせた。 ため息がでる。  つまり、自分でやっていれば全て底までバラバラにしてそこから考えて穴の部分、寸法を測って、、、、ということになるのだが半可通はただ電気屋に行ってこんなものを取り替えたいといって言われるままに買ってくるからこの始末だ。 25年前にこの家を買って改修した時にさんざんやってきたプロセスなのに時間がたてば忘れたのかと腹が立つ。 だから女は、と言ってはならない言葉までも口から出かかるけれどそれをぐっと飲み込むのだがそれもなかなか胃袋には落ちない。

その間ソケットを元に戻し、スイッチの電線をそれぞれ触れないようにストップで止めて階下に降りて配電盤を操作して屋根裏に電気を通し、壁のコンセントに Wifi Range Extender と書かれたブースターの小箱を元のように押し込んでパソコンのスイッチを入れた。  それで何とか繋がることは繋がったけれど信号が弱弱しくて屡々落ちる。 スイッチの修理をしていて藪をつついて蛇を出したことになる。 今までは何とか騙し騙しやっていたものが酷くなり挙句の果ては信号の弱さのために今まで見ていたニュースのサイトではヴィデオが繋がらない。  You Tube が見られないということになる。 繋がっていると言っても容量が落ちているのかスピードが落ちているのかどちらかか両方かもしれない。 文字ならば量が少ないので問題はないようだがそれでも Wifi 接続が覚束なくよく切れる。 どうしたものだろうか。 崖の上を毒づきながら歩いている気分になる。 これだけ急に接続が覚束なくなった原因は考えられるのはこの忌々しいスイッチとソケットなのだが頭ではそうだと考えるのだがどこかでまたぞろ安物のイクステンダーとやらに早い寿命が来ているかもしれないとの疑念の雲が湧きかけていて、、、、、、。


アムステルダム駅から北側にぐるっと歩いて21kmだった

2016年12月11日 18時35分12秒 | 日常

 

2016年 12月 11日 (日)

自分の町のゥォーキング同好会が今日アムステルダム駅から始まって郊外に出て周遊しアムステルダム駅に戻ってきて解散するというプランを立てて実行した。 この同好会のウォーキングには過去何回か参加しており去年も一昨年も合宿にも参加しそのことを下に書いている。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64589275.html

朝9時20分に駅のプラットフォーム集合なので時間に来てみると24人が集まっていた。 自分は取り立てて乗り気というわけではないのだが家人が会員で、老齢のため退役した世話役の補充として先月から今回のゥォーキングをお膳立てし何週間か前には前もって今日のコースをもう一人の世話役と歩いていた。 その日は雨で余り嬉しそうではなく郊外の田舎道を歩くときには泥濘が沢山あるから踝の上まである登山靴を着用した方がいい、と会報に記してメールで希望者に送っていた。 自分は今日は取り立てて予定もなく天気予報は雨が降らないと言っていたので参加することにしたのだった。 集まった24人のうち半分は顔見知りだったがあとの半分は初めての顔だった。 主催者側も精々10人だと見ていたから嬉しい驚きだったに違いない。

日曜の朝9時20分のアムステルダム行きの電車は我々20人以上が入ると一杯になった。 今回は男が7人もいていつもとは少々雰囲気が変わった。 それでも男は比較的無口が多いので臈長けて話題に事欠かない女性陣が優勢のグループは相変わらずの賑やかさは今までとは変わらない。 暫く行かなかったアムステルダム駅の様子が少し変わっていた。 オランダの大きな駅と同じくパスでゲートを通るシステムになっていて公共交通パスがないと通り抜けられない。 長年ヨーロッパの駅はイギリスなどは別として自由でそのままプラットフォームにアクセスできたのが近年の保安の理由などからこのようになってきており電車を利用しないで駅を通り抜けするためにもいちいちゲートを開け閉めするようなところを通らなければいけなくなるのは不便ではある。 駅裏に出れば船が行き交う港でフェリー乗り場が目の前にある様子がかなりすっきりしていた。 小さな波止場からアムステルダムの北側に繋がる無料フェリーが出ていて最長10分ぐらい待てばすぐ向かい側から人と自転車、バイクで一杯の小舟がやってきてガヤガヤと出入りが済めば5分ぐらいで向う側に着く。 ここは何回か利用していて、2009年4月に「夫婦でゆったりアムステルダムの外縁を歩いた」と題して今日のルートに重なるような部分を歩いてこのフェリーの写真を載せて次のように書いていた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/58436192.html

 

今日のルートを簡単に示すと次のようになる。 アムステルダムの高速道環状線を掛け時計の輪だとするとアムステルダム中央駅はその時計の中心でそこから短針の2時半辺りを目指し輪の外が牧草地の広がる郊外だとすると輪から1-2kmほど外に出て輪に平行に短針の1時辺りまで移動し、そこから時計の中心まで戻る21kmが概要だ。 時計の内側が市街地で外が郊外ということだ。 中心から縁までが7km郊外を歩く距離が7km、縁から中心までが7kmの計21kmだった。 港の水辺に沿ってオラニエ・スライスという閘門まで歩くのだが古い堤防沿いの村の佇まいが素晴らしくとてもそんな家並みがアムステルダムの中に在るとは思えないほどで誰もがそんなところに住みたいものだと言ったものだ。 閘門は渡らず見学した後そのまま今までの進行方向を保ち大きな生鮮自然食品を集めたスーパーのレストランで休憩し堤を離れ公園を抜け高速の下を潜り田舎に出た。 ここからは自治体区分はアムステルダム市ではありながらもう牧草地が続くオランダのどこでも見られる田舎になる。 ただ農家の造りが立方体の下半分に尖がった屋根を乗せたような形でそれがどちらかと言えばこの地方の特徴となってここが北ホランダ州だと分かる。

今回は森の中を通るということもなく舗装されていない路はほんの数キロだった。 車が通るところも多少はあったけれど殆どがサイクリング道を兼用で8割以上が舗装されていた。 2kmほどは自然保護地区の湿地を歩く部分でそこでは芦原を分けて進み、ある部分では数百メートルの水に浮いた木の道を歩き、沈むことはないけれど少し不安定で何人かは遠回りしてそこを避けるようなこともあった。 小さな村に来ればそこの教会の前にベンチが幾つかありそこで昼食にした。 雨が降っていなくて幸いだった。 休憩の途中で司祭が何か物を取りに自転車でやってきて、教会の中に入ってもらえばいいのだけれど自分は行くところがあって世話できないから、と言って去った。 信心のない誰かが、どうせ日曜でどこかに呼ばれて美味いものを喰い酒を飲ませてもらいに行くのに急いでるのだろう、そんな気もないくせに、と辛辣なことを言う。 そういう贅沢はカトリックなら普通なのだがこの教会はプロテスタントでそこまではないだろう、というものもいたけれど牧師や司祭などといっても同じようなものだという者まいて信心深いものが聴けば怒る様な雰囲気を醸している。 彼らが子どもの頃に比べると若者の宗教離れが著しいのだが年寄りの中でも普通にこのようにいう雰囲気になっているのだ。 

その教会の村が今回フェリーの船着場から一番遠い場所でそののちブラブラと牧草地の縁を回り込み徐々に高速道路の方に向かうとゴルフ場が見えてきて平らなあまり面白そうでもない小さなコースのホールを横手に見ながら徐々に人家が増えた場所に近づいて来る。 大きな運河に沿ってルートは町の中に入り、町と言ってもそこはアムステルダム駅の南側の市街とはまるで違うオランダのそのほかの町の佇まいでそのままだとどこの町を歩いているのかはっきりしない。 そのうち歩き始めた場所から500mほど離れたフェリーの船着場に着けば4時前になっていた。 乗り降りの客で混雑しており5分も待たずに乗客の入れ替えも済みすぐにフェリーは目の前のアムステルダム中央駅に向かい我々のウォーキングは終わった。

 

 


’16秋、一か月の帰省(5);登ったらそこは雨山だった

2016年12月11日 01時45分26秒 | 日常

 

 

2016年 10月 29日 (土)

先日昼食に出た後、食後の散歩がてらに近くの玉田山公園に行ったことを書いた。 実は老母が介護施設に越した5年前からJR和泉鳥取駅のすぐ近くまで押し迫っている小山が気になっていてそこに登れないかと思案していた。 理由は何もない。 子どもの頃から木に登ったり、丘や山に登って遊ぶのが好きだった。 平らで山のないオランダに住んでいるから余計に故郷の山々を眺めているとそこに登ってみたいという気になるのかもしれない。 それに加えて定年後時間的制約も少なくなっていることもその想いを実現させようという気持ちを押しているのかもしれない。 それに仰ぎ見るその頂からの眺めがどんなものかにも興味がある。 理由は何もない、と書いたがそんな漠然とした理由なら子どもの頃からずっと持っている。 母は昔そんな自分を評して「阿呆と煙は高い所にあがる」と言った。 だからこんな丘の成り損ないのような名もない出っ張りに何処の物好きが登りたいと本気で考えているのか、それは暇な阿呆ぐらいだろうとも思っていた。

大阪側から電車が駅に近づいて行くと左にこんもりとして頂上に鉄塔が建っている山が迫っているのが目に入ってくる。 そして左に曲がりつつ傾いて停まった電車の運転手のすぐ後ろのドアからプラットフォームに降りると目の前に大きな石の鳥居が何の脈絡もなく聳えている。 鳥居のすぐ後ろは山が迫っていて線路に平行に一段高く狭い道路が走っているだけで鳥居の向うには何の神社の社もあるわけでもなし、第一あったとしても山の上に続く石段もなく、そこからは斜面に造成された住宅地が続いているのだから鳥居は山に向かっているわけでもない。 だからといって海側に神社があるのかと言えば駅舎と駅前の小さなロータリー、有料駐車場ぐらいでこの鳥居が意味する神社の所在など影もない。 だから人家と駅、線路に挟まれた奇妙な居心地の悪そうな鳥居が気になって仕方がなかった。 

介護施設の入り口近くに何軒かの家があって春から夏、秋と垣根に色々な植物を咲かせているところがある。 定年から大分経っていると思しき老人がときどき垣根を手入れをしていることがあって通りすがりに話すことがある。 そのうちこの人はこの辺りの町内会の会長をしたこともあるようでこの村のことを話してくれたしすぐそばにある古い墓場のこと、神社の祭礼のしきたりなどを面白く聴いていた。 そして駅にある妙な鳥居のことを訊ねるとあれは波太神社の鳥居なのだという。 けれどあそこから波太神社まで直線距離でも1.5km以上ある、なぜだと問うと、上の細い道は紀州街道、小栗街道と呼ばれている熊野街道で熊野に向かう天皇や公家が神社に行かずともそこから遥拝するためにあるのだとのことだった。 なるほど大昔にはJRや幹線道路、山の斜面まで造成し海側に広がる人家もなく眼下遙かに神社が見えてその体裁も威厳もあったものと想像できるけれど今の姿には惨め以外の何物も感じられない。 熊野本宮から離れて野原の中に巨大な鳥居があるのと同じ結構なのだが向うは本家こちらは通りすがりの鳥居なのだ。 それに京、大阪から熊野に向かうべく来たこの街道はここで大阪湾に別れを告げ、谷間に入り紀州に抜けるのに無事を願う遥拝にも力が入る場所だったのだろうと想像するけれどそのことを言われなければとても何のことやら分からぬ邪魔になるものでしかないのだ。

その老人にあの山に登りたいのだが、と尋ねた。 それまでにその辺りを探っていた。 線路の上側の人家が絶えその上に10年か15年ほど前に山裾を削り取って造成した住宅地があるその上限辺りを歩いてみた。 けれど崖は鉄の網で落石を防ぐことが施されていて道どころではない。 別方向から山の裏に回るような細い道を探っても見たが高速道を乗り越えて別方向に向かうようにできていて上に行くような径は柵の向こうに続く鉄の階段が続いているだけでそれはいくつか稜線にある高圧電線の鉄塔補修のためで一般に開放されているようには見えなかった。 老人は上には社があって1年に1回ぐらいは掃除に行っている、今は鉄の階段がついていて急だけれど大分楽になった。 昔はかなり苦労したらしい、というのでそれがあの階段だとわかったのだった。 

老母が暮らす施設から昼食に出るのに線路に平行に1kmほど歩く。 その間駅とその後ろの山をいつも見て1km歩く間に山の形が大分変り飲食店が集まる辺りからはもう山はその後ろの稜線から和泉山脈に繋がるような様相を見せるのだがそちらの方にも小路らしいものは見えない。 だから今のところ老人が言った小さな社に続く急な階段だけがルートなのだ。  ただ、駅のすぐ向うにあるコンビニの辺りから見ると山の7合目ぐらいに横に途切れた筋のような線が見えなくもない。 ああいうものは小路があるときに出来るものだからあのあたりに道があるのだけれどそこに至る手掛かりはないようだ。 老人の一言でこの一筋もどうでもよくなっていた。 

この日家人と昼食が済んで戻ってくるときに今日は天気がいいからあそこに登ろうと思うというと一緒にいくというので3時を廻って歩き始めた。 家が途切れるあたりの山肌を切り開いて太陽光のパネルを随分やたらと建てているところから上にいくともう車も入れない小路になって注意していないと分からないようなところに鉄の階段がある。 これだけではとても社にゆかりのあるものとは思えない。 だれも通らないのでやたらと大きな蜘蛛の巣が行く手行く手に張っていて大きな蜘蛛が真ん中にいる。 それを木切れで脇にやりつつ登っていくとそのうち両側が切り立った崖の背を歩くようになるのだが鉄の網のような通路が一筋だけあるので凌げるようなところだ。 10分ほど登って息が切れかけたところが頂上だった。 下から想像したように木が生い茂っていて見晴らしは全く効かない。 社というのでせめて小さいものでもそんなものがあるのかと思えば何もなく小さな石灯籠のようなものが倒れて苔むしているだけのものでそこにワンカップ大関のガラス瓶と空の缶コーヒーがあるだけだった。 そして木の枝にはマジックインキで「雨山 152m」と書かれた木の札がかかっていた。 ここはなんとか神社というより「雨山」だったのだ。

自分が育った村からは山の方に泉佐野市の「雨山」が見える。 中学生のころから歩いたり自転車でふもとまで出かけては二つの峰に登っては鞍部から海側に突き出たところからの眺めを楽しんだ。 山の形が昔は渡来人が斑鳩の都を浪速津から目指した奈良との境にある二瘤ラクダ型の二上山と同じで高さは二上山ほどもなく330mほどだ。 この地方には昔から米作には欠かせない水を貯めて置く大小の池が点在しており大昔には雨水というのは死活問題で雨山は雨乞いの山だった。 そんなことを子どもの頃から雨山に上るたびに昔の人々の深刻さを感じていたのだがここに来てこの山も「雨山」だったことを知り思いを新たにした。 泉佐野の雨山に比べてこちらの方は高さは半分ぐらいだけれど頂上に来るまでが中々急で他にも道が見えないから人はどのようにして雨乞いに来たのだろうかと訝った。 今は無粋な通信塔に見える鉄塔が一つあるだけで平らなところは何もない。 2,3分見晴らしも利かないところにいただけでもと来た道を戻った。 途中急な階段で木々の間から関西空港に架けられた長い橋が望まれた。 神戸、明石、淡路島を望むなら山の麓の方がもっと良く眺められる。


ハーグに背広の寸法を合わせに行ってきた

2016年12月10日 01時48分06秒 | 日常

 

 

2016年 12月 8日 (木)

午後2時半ごろ服屋から注文の背広が届いたから寸法を合わせに来るように電話があった。 急げば5時前に戻ってこられると算段して駅まで15分自転車を漕ぎ、プラットフォームに上がれば2分で電車が出た。 外の見知った景色を眺めていると15分でハーグ中央駅に着き国会議事堂の方に向かった。 レンブラントやフェルメールなどを収めたマウリッツハウス美術館の傍に小さな塔があってそこは首相の執務室なのだが警備がいないから首相は今そこにはいないのだろう。 そこを通り過ぎ議事堂の内庭を抜けるとオランダで重要な儀式が行われる騎士の間がある二つの塔が角のように見える建物と広場に出る。 国賓が来ているわけでもなく大臣たちが出入りするのに使われる車も見当たらない。 静かなものだ。 昔はハーグに住む大臣が自転車でここに来ていたこともあり、それもそんなに前でもなく、10年ほど前の法務大臣もそのようにしていたのをここで見たことがある。 

けれどこんなのんびりした時間であっても時期柄か憲兵隊の兵士が頑丈な車を国会の幾つかある出入り口近くに停め3人づつほどで警備に当たっている。 フランスやベルギーなどでは町の中でも自動小銃を抱えた警備隊が見られるのにここでは腰につけたピストルだけで自動小銃は見られない。 今日は急いでいるので尋ねることはしないけれど次回には訊いてみようと思う。 実際スキポール空港で警備している憲兵たちは自動小銃をもっているからどういうことなのかとも不思議に思うのだ。

この広場から外に出れば議事堂の濠が続き国王の執務室の建物が300mほど行ったところにある。 濠の端に服屋があってそこで寸法を合わせカッターシャツを1枚買い、それも寸法を取って袖の長さを短くしてもらうようにして来週の火曜日には出来上がっているからというのを聞いて支払いをし、そこを出て同じ道を同じようにして駅に来れば4分で電車が出た。 駅から自転車に乗ると雨が降り始めたのでポンチョを被り帰宅するとまだ5時にはなっていなかった。 晩飯を作らなくともよければもっとゆっくりしていられたのに今日はただ直線距離を往復しただけだった。

夜ニュースを見ているとこの日、議会で養子縁組の法律を改正したと言っていた。 子供の地位とゲイ、レスビアンのカップルの許に縁組した親と子供の地位、権利を時代に適応させるべく改正されたものだとも解説されていた。  


’16夏、アイルランドを歩く(8)徒歩第6日目最終日、 ダーセイ島を歩く  12km +6km

2016年12月08日 12時34分15秒 | 日常

 

2016年 8月 19日 (金) 

 

Windy Point House という宿舎で比較的ゆっくり朝食を摂った。 今日の天気予報は一日中雨が降るということだった。 窓の外は時折吹き付ける細かい雨がで煙りすぐ向かいのダーセイ島の幾つかある山のピークは上方3割以上が隠れていた。 朝食は様々なチーズにキッパ―と呼ばれる燻製の鰊などが出てアイルランド・イギリスの伝統的な朝食に欠かせないものだった。 宿舎を出るときには今回2回目になる雨具に身を包んだ格好で離れた島に渡るロープ・ウェーの乗り場まで300mほど歩いた。 200mほどの海峡を渡るゴンドラは貧弱なもので6人乗り、我々3人と若いカップルが一組だけのほぼ満員でゴンドラの端には古ぼけた電話と車のバッテリーが生のままに置かれていて二つの電極には生のままで線が繋がれていた。 これでよく運輸検査が通ったものだと呆れる。 切り立った海峡を10分ほどで渡ると左には車が通れる道が続いていて、乗り場から傾斜した山に向かっては一直線の小路がありそれが頂上からそれに続く全長6kmほどの細長い島の背骨となる稜線のルートだった。 我々は島の両側を眺めながら反対側つまり西端に向かうべく草の傾斜を息を切らせながら上方の霧で隠れた山頂を目指した。

幾つかあるなだらかな峰を伝って歩き北側の斜面は南側に比べてきついので道もなく島の突端辺りに来るとそこから南側に降りてトラクターぐらいは通れる道を断崖沿いに戻って来る予定だった。 登り始めてすぐに霧の中に入ったから辺りは灰色の世界でそこをただ黙々と草地の中に見える土の一筋を辿った。 一番高い所といっても252mでときどき風に吹き飛ばされた雲の間から覗く下には大西洋から低気圧に影響された風波が崖に砕けるのが見えることもありそんなときだけ高さを感じることが出来る。 12時を過ぎてその252m地点に来た。 そこには何百年か前に建てられた狼煙か焚火かで物事を伝える塔があったはずでその廃墟が残っていたのだが雨を凌げるような場所もなく強い西風から隠れることが出来るのは小さな石の壁の2mほどだった。 我々はそこに身を寄せて昼食を摂った。 12時を廻っていた。 そこからダラダラ下っていくと雲の切れ目に出て島の先端が大分向うに見え始めた。 その頃下からゴンドラで一緒だったカップルがこちらに上って来るのが見えた。 

島の先端までは小さなラクダのコブのような丘を越えなければ行けない。鞍部まで来るとそこから左側に島の南側の崖沿いに車が1台通れるほどの道が始まっていた。 娘と家人は突端まで行ってくるというけれど自分は余り乗り気はせず、また3時に向う側のロープウェーの乗り場にタクシーを来させることになっていたのでそのことも気になっていたから一人この道を戻ることにしてのんびりとあたりを眺めながら歩いた。 この頃になると沖の空が微かに明るくなって見晴らしが利く様になっていたけれど風が強く波が岩に砕けて酷い荒れ模様に見えるもののこれもこの辺りでは普通の天気で、それに今はまだ真夏なのだ。

ロープウェーの乗り場まで500mほどのところに古いチャペルの廃墟があり周りにこれも100年以上経っていることはたしかな墓石がそれぞれ斜めになって立っていた。 チャペルは壁も屋根もなく1mほどの高さに壁の残骸がその敷地を示しているからそれと分かるのだけれど壁の近くに昔祭壇があったことを示す石組みがあるだけだった。 ここもその石組みだけがチャペルだったと分かる印となっていてそれが緑のカーペットに浮かび上がっているという結構になっている。 遠くから見ると美しい景色ではあるけれど緑があるだけにそれを求めて歩き回る羊の糞が足の踏み場もないほどで歩くのに苦労する。 敷地のそばにこの場所の由来を説明したボードがあって17世紀にはスペインやフランス、イギリスに侵略され1000人以上の島民が虐殺されて以来この島には教会もなく人口も今では20人ほどだということだ。 ここに来るまで4,5軒の住んでいることが確かな家が見えたが屋根も落ち石組みの壁だけが残った廃屋も彼方此方に点在していた。 

チャペルの廃墟とロープウェー乗り場の間に漁船が2隻ばかり留まれるだけのコンクリートの岸壁があり岸壁の内側に漁船一隻分が引き上げられる急なスロープが作られていた。 そこからは昨日宿泊したB&Bがほぼ向かいに見え海峡を先ほどまで岸壁に止まっていた海鵜が7,8羽群れて白波の上をスレスレに飛んでいた。

そのうち西の端まで行ってきた家人と娘がロープウェーの乗り場にやってきた。 中年夫婦と我々3人、それに朝一緒に来たカップルを入れて7人が待っている。 定員6人、550kgまで、と書かれているので一人多いのだが娘が女性4人男性3人の合計を550kg以下だと推定して大丈夫だと言ったけれど若いカップルの女性が怖がって一人残ると言った。 雨が降っても宿るところも無く少なくとも30分は待たなければならない。 男が大丈夫と言い渋々彼女はそれに従いゴンドラは落ちることもなく海峡を渡った。 実は252m地点で昼食を摂っている時電話が入り部屋の鍵を持っていないか、と訊かれた。 チェックアウトするときに鍵を渡すのを忘れていたのだ。 電話の向こうで、ロープウェーで戻ってきた時に切符売り場の者に渡してくれればいい、と言われたので切符売り場・兼ロープウェーオペレータの男を見ると宿の主人だった。 アシスタントが一人居るが自分がここの責任者でほぼ一年中こんなことをしていると言った。 

そのうち頼んでおいたタクシーが来た。 ここにはバスの路線がないのでタクシーで一昨日まで2泊したキャッスルタウン・ベアラまで戻ることになる。 そこで一泊して翌日バスでコークに戻る。 3,40分中央分離線がない道路をでっぷり太った女性運転手は飛ばし、夏の間はあんたらみたいな観光客が来るから仕事はあるけれど寒くなったら何もない所だからこんなところには居たくない、この近くで生まれ育ったのだけれど一年に2回、何か月かはアラブのドゥバイにある友達の冷房の効いたアパートで暮らすのだという。 そのうち見慣れた通りや港に着いたがこの日の宿舎はベアラ島への船着場からまだ3kmほど走ったところだった。 チェックインしてシャワーを浴び30分ほどベッドに横になってから夕食のレストランを探そうと3km歩いて港まで戻った。 船着場の近くに前回一杯で入れなかったロブスター・バーというのがあってそこに幸いなことに一つだけテーブルが空いていた。 マーフィーという美味い黒ビールを飲みながら娘は魚のカレー、自分と家人は牛肉入りのラザーニャ、デザートにレモン・カード、ブラウニーとヘビーな献立で充分満足した。 その後ゆっくり宿舎まで3km海岸道を戻った。 歩いている時タクシーの運転手のことに話が行き、ドゥバイのような金の要るところに毎年2回、何か月も運転手の収入でよく行けるものだと言っている時、ふとあれはヤクの運び屋じゃないか、と言い出すものがいた。 実際、こんな夏だけは風光明媚なところでも失業率は高いし若者には職もなく薬物中毒者が蔓延しているという暗い面もある。 警察は漁船のチェックに余念がなくそんなことからしてふとそれから彼女を疑う気持ちが湧いたのだった。 可能性としてはなくはない。 広大な荒れた土地が広がる地域は過疎なだけに警察の目の届かないところが幾らでもある。 

この日、島を歩いたのは12km、晩飯のために往復で6km歩いている。 幸いなことにタクシーに乗った時から雨は止んでいて、夕食が済んで退屈な道を歩いて帰るときにはベアラ島が暗い夕焼けに沈んでいくのが見えた。

 


タイプライターか?

2016年12月07日 03時48分07秒 | 思い出すことども


この間の土曜日に息子とハーグの中心街を歩いていた時、賑やかなショッピングストリートの交差する中心に小さな机を置いてそこに坐っている男がいた。 机の上には一台妙なタイプライターが置かれていた。

これを眺めていて自分がタイプライターを使いはじめてから現在に至る経緯を想った。 1974年、3年で単位を殆どとっていた大学の法学部4年を終え自分では満足が出来なかったので親や親戚の前で頭を下げて留年させてもらい1年間教育学部で英語を勉強した。 そこでは将来高校の英語教師になる学生に混じって授業を受け実習でカセットテープに入った5分ほどのBBCのニュースを聴き取ってその英語を書き下し翻訳して提出するような宿題があった。 そして殆どが手書きで出していた。 それまでに自分は骨董屋を廻りジャズのLPを漁ることを日常にしていたのでそんな店の隅に当時まだ新しかった Olivetti Lettera DL black という銀色に黒の筋が通ったキャリングケースに入ったコンパクトなタイプライターを見つけ安価に手に入れていた。 眺めたりただ置いておくためにはクラシックで重い鉄の箱のようなものがいいのだけれど当時のモダンなデザインが気に入ったし軽くどこへも持ち運びが簡単なこととケースに入れて何かの間に立てて置けば場所をとらないという利点もあった。 そのときはまだこのタイプライターを使うことには漠然とした考えしかなくモダンな骨董ぐらいにしか考えていなかった。

他に教育学部では将来小学校の教員になるための必須科目としてピアノが弾けることが条件でバイエルの100番ぐらいまでできなければならないということだった。 友人の何人かも奥行きがある細長い電話ボックスがいくつも並んだようなピアノ室でバイエルと格闘しており最先端のモダンジャズを聴いている自分にはピアノへの憧れはあるけれど20を越して始めてもとても満足できるところまでは行けるわけはなくギターでも少しはやっていたコードを覚えればいいかとバイエル片手に自分でやり始めた。 教則本の体裁では姿勢、指の置き方、動かし方、どの鍵盤にどの指を、ということから始めて将来華麗なピアニストになるための合理的、効率的な訓練をする仕組みになっているようだ。 右手、左手を同じように動かし、スケールの上り下りで徐々に指慣らしをして50番ぐらいから右と左が別々に動き始めるあたりで挫折した。 けれどこの小さなフレーズを何度も繰り返している中でも指の動きが腕から体に伝わりいい気持になるような経験もしている。

そんな経験をしたあとでタイプライターに接し、ピアノの鍵盤と同じように指の位置を説明書を読んでブラインドタッチが出来るようになった。 そうすると思いが指に伝わり鍵盤を見ずとも文章を追うことが出来て都合がいい。 宿題の英語ニュースの書き下しはそのいい訓練になったし、また当時ジャズ喫茶でアルバイトをしていた時、毎月20枚以上新譜LPが入ってきて、それを入荷順、演奏者別にリストを二種類作っていてそれまでは手書きだったものをタイプで打っていた。 その店にはLPは7000枚以上あった。 だからそういうリストはジャズの勉強には必須となる。 大学を卒業したときにはタイピストほどではなくとも一応は打てるようになっていた。

卒業後、大阪の中小輸出商社に新聞広告をもとに出かけて英会話で面接をしてからオファーの英文をタイプで打てと言われブラインドタッチでやった。 次の日から船荷証券書類を作る仕事をやらされそれから3年半ほど毎日プロ用のタイプライターに親しんだのがそれが Olympia SG3N 18" だった。 これは一人で抱えるのがやっとで自分のオリベッティと比べると小学生と力士ほどだった。 中小企業だからタイプライターといっても色々あって自分のものは一番頑丈で安定性がある標準タイプだった。 レミントン、アドラーなどの古いが味ある使い慣れたものを使う先輩もいたしプロのタイピストでもあったシッピング部門のチーフの女性はオリンピアの当時最先端の活字金属ボールが廻る電動タイプを猛烈に打っていた。 船荷書類では税関用、銀行用など何枚もコピーが要るので表は用紙だがコピーは薄目の用紙が多くその間にカーボンペーパーを挟んでいつも4,5枚は必要だっただろうか。 2年ほどして営業に廻されると量は減ったがそれでもビジネスレターは2枚のコピーを作るのを常にしていた。

79年にオランダに来るため会社を辞めた。 80年の春に来るまで1年半ほどブラブラしておりそのとき会社の上司が辞めて独立していて秘書1人だけのワンマンカンパニーを経営していた。 海外の顧客を廻るのに3か月ほど留守をする、だからその間店番をしてくれ、小さくてもお前は雇われ社長だ、と言われ引き受けた。 必要書類は秘書の女性が全て整え自分は海外から電話やテレックスで指示されたことをするだけだった。 その時社長が使っていたオリベッティの新式タイプライター TES401 のブラックを自分のものとして使っていたのだがそれにはカーボンペーパーが要らないばかりか作ったテキストを小さなディスクに記憶させて好きな時にとりだして何枚もプリントさせられる画期的なものだった。 ワープロのはしりだったのだ。 ただ一行だけの短いディスプレーに赤い貧弱なアルファベットが流れるのが醜かったけれどそれでもそれまで普通のタイプライターだけに接していた者には驚きだった。 世間ではまだ和文が打てるコンピューターもワープロさえない時代だった。  それでも新聞社の活字はコンピューターで組まれたものだったのだからどんな仕組みになっていたのだろうか。 自分の友達の父親は大阪朝日新聞の活字を組む職人だった。 けれどそれがコンピューターに取って代わられて職を失った。 それが1970年頃だったのではないか。 

80年にオランダに来てコンピューターにデータを打ち込む仕事をしていたけれどまだ和文は打てなく、83年になってからやっとコンピューターで和文が打てるシステムを万博基金の協力、京都大学の教授の肝いりで寄贈された。 そのときオランダ、ロンドン、ベルリンに贈られた3つのうちの一つだったと思う。 画期的なことだったのでその開所式にハーグから駐蘭日本大使がやってきてそのデモンストレーションのディスプレーを用意したのだがこういうことも今から考えると夢のようだ。 フォントが選べるわけでもなくIBMコンピューターの緑の画面に貧相な日本文字が出るだけのものだった。 そしてその後数年でワープロが一時に広がりそれからは一挙に今に至る感じだ。 今となってはそれが何だというような大したこともないように響くのだがその時々に於いては新しいものが出てくる度に驚きがあった。 そしてそんな今、能率性、効率性を考えなければ古いアンティークに愛着が湧く。 大体タイプライターや単体のワープロなど知らない若い人が増えていると聞く。 今はノートパソコンにタブレット、スマートフォーンなのだ。

目の前のタイプライターのようなものはキーだけがアンティークのタイプライターのものでそれはコンピューターのキーボードのキーを取り払い丸いキーを取り付けただけのものだ。 昔レターヘッドを丸めてタイプの活字があたるようになっていたロール状のものと左端にあるレバーは飾りだった。 男は詩人で客の注文に応じて詩を創りそれをタブレットのモニターで見せてプリントアウトして売るのだと言った。  タブレットに出るテキストのフォントはすり減ったタイプライターの活字のスタイルでそれをプリントアウトすれば旧式のタイプライターでタイプされたように見えるというのが売りのようだ。 つまり註文の詩を見かけのノスタルジーに絡ませて売る商売だったのだ。 自分が機械に興味を覚えてジロジロ眺めているのが商売の邪魔になるようで、だからそこを離れる前にこのデジタルのタイプライターをフィルムのカメラではなくデジタルの手に入るような小さなカメラで一枚というかワンショット撮った。

 



こんな模様がどうしてできるのだろうか

2016年12月05日 23時16分29秒 | 日常

 

夕方4時を周って町に出かける時、昨日のように上天気だったけれど昨日に比べて今日の方がまだ気温は低いように思う。 氷点のあたりだと感じた。 同時に西の方を眺めると雲が出ていた。 昨日は全くの快晴だったから今低気圧が来ているのかもしれない。 筋雲が妙な形で折れ曲がっている。 ここ2か月ほど時々こんな風に見えることがあるけれど大抵は規模の小さいもので刷毛を何回か掃いたようなこんなものを観るのは初めてだった。 カメラを取り出して何ショットか撮っていると徐々に滲み始めた。 もっと早く気付いていると、つまりもう少し家を早くでているともっとはっきりとした筋や折れ曲がり方が見えていたのかもしれない。


Breda のあたりを16km歩いた

2016年12月04日 23時33分12秒 | 日常

 

 

2016年 12月 4日 (日)

 

この間家族がナイメヘンに住む娘のところで一日遊んだのだがそのとき毎年恒例の行事をどうするか話していた。 その行事とはこの時期にどこかの町を中心にブラブラ1日歩いて夜はどこかのレストランで夕食にして解散するというものだ。 既にアムステルダム、ロッテルダム、ナイメヘン、ドードレヒトなどに行っていたから他のどこにしようかと案を出していて自分がブレダ(Breda)にしようというと娘が賛成した。 それで即決し何日かして娘から詳細な計画がメールで送られてきたのでそれを斜め読みして放っておいた。 普通は家人がそのようなお膳立てをしていたのだが今回は娘がそれをやったということだ。 みんなバラバラに住んでいるからブレダの駅で現地集合・現地解散にすればいい、それにオランダ国鉄(NS)はそれぞれの駅から地図付きの1日周遊ウォーキングプランをインターネットで出しているのでそれを参考にすればいい。 それはそれとしてその日はどこかで工事があるので鉄道が1時間以上遅れるからどうするか、というのがメールに添付されていた。 娘のところからブレダまでは電車の遅延がないからそれでは自分がハーグの息子のところまで車で行きそこからブレダまで走り娘に合流すればいいわけでそのように予定していた。

昨日の土曜の午後に娘が急に我が家に来ていた。 1年半ほど前に引っ越したこの町の大学の下宿の仲間と一緒に晩飯を食うことになってそれに来たから家に泊まるという。 だから明朝家人と3人で息子を拾いつつブレダに行けばいい、との変更になる。 土曜は1日ハーグで自分は息子に案内されて背広を新調するのに朝早くから午後まで過ごしていた。 自分の背広は25年ほど前に三つ揃いを作ったのがズボンがボロボロになっているし腹周りがかなりきつくなっているので幾ら何でももう必要だし息子は仕事で毎日スーツにネクタイの生活だから3年ほどで擦り切れる。 ハーグは息子の町なのでそのあたりは良く知っており目ぼしい店を廻り午前中に自分1着、息子が2着の注文を何とか済ませ、1時前に中国人家族で一杯の料理屋で飲茶の昼飯にしてその後ブラブラと久しぶりに町を歩いた。 それで土曜は買い物も含めて5kmは歩いていただろうか。

娘が家に来たので電話で息子に日曜予定の変更のことを伝えると、息子は毎日乗っている自分の会社の車で皆でいくことにしよう、ガソリン代が全部会社からでるので、とも言う。 晩遅くパーティーから戻ってきた娘がグルテン入りの食品がウォーキング中に喰えない自分のためと全員分のおにぎりを日本から持ってきていた材料で作り昼飯を準備した。 熱い湯をそれぞれの魔法瓶に詰めて袋入りの緑茶の粉を用意すれば温まる。 

夜半から夜空は快晴になり温度はマイナス5℃まで下がり天気予報ではブレダ辺りは快晴になると言っていた。 9時半に息子が我々を拾いに来た時は快晴だった。 キラキラ光る外に出ると霜が降りていた。 1時間ほどの高速は眩しいほどで彼方此方の牧草地は地上1mほどは朝霧に覆われていてあちこちの牛の背だけが岩のように出ていた。

インターネットで拾ってプリントした地図の順路は駅からではなくブレダの南部の森に隣接するホテルから始めることにした。 駐車場に車を停めて置いてそこから森をぐるりと回って戻り北上し旧市街を訪れてそこで食事をし車に戻ることにしようと合意はできていた。 駐車場に車を停めてホテルのカフェーに入るとそこは古くて雰囲気のある場所だった。 年寄りに子供連れの家族がゆったりとしたところで寛いでいた。 出るときにホテルのレストランのメニューをみて悪くなかったのでここで夕食にしようとフロントで6時前に戻って来るから窓際の4人席のテーブルをと予約してそこを出て歩き始めた。 11時を廻っていた。

森はブレダの南にあり大きなものではないけれどそれでも小さな湖があちこちに二つ三つありこんな天気のいい日曜日には散歩する人々、ジョギングの人々が多く行き交っていた。 あちこちに薄氷が見られ枯れた草には霜が付いて粉砂糖を振りかけたようなものだった。 陽が当たっているところは溶けかけていたが日陰では白いままで温度は氷点あたりだろうと思われる。 丘もなく整地され小路も整然と作られている標高差もないだだっ広い森なので迷うこともなく、だから地図を頼りにせず太陽の方向だけで行き当たりばったりに大体のルートを辿った。 

新しく買って徐々に慣れて来つつあるウォーキング・シューズも結び目をきつく締めることで自然に足に馴染み始めている。 前のシューズや本格的な山登り用の足首が包み込まれるような靴は足の甲の上の方まで靴の舌のような覆いが来てその部分で紐を結ぶようになっていてそれに慣れていたのだが新しいものは靴底や靴の内部はウォーキング仕様なのだが外側は普通の町中を歩く靴仕様なので歩くたびに足の甲に角度がつき何故か紐が緩んでいるかのような錯覚を感じるのだ。 足首が固定されたままだと足が曲がらなく野外ではそれが習慣になっていたから今のものになってから角度がつくので紐が緩んでいないにもかかわらずそのように思ってしまう。 だからしっかり紐を結んで歩きながら無意識を修正するように試みるのだが長年の無意識とそれに伴う感じの修正にはどれだけ時間がかかるのだろうか。

1時前になり小さな湖の近くに来て倒れた木に4人腰かけて抜けるような青空の下で昼食にした。 4人で握り飯を昼食にしたのはこれで3度目だ。 初めの2回は2007年の正月に熊野古道中辺路を歩いた時に朝民宿で作ってもらった、漬物の菜っ葉を巻いた握り飯だった。 あの時は二日とも山の中で雨にビチョビチョ降られ雨宿りをするところもなく惨めな思いをしながら無口で喰ったのだが子供たちはそのときのことを思い出してその惨めさと美味さを思い出し、同じような味がすると言った。 もうそろそろあれからもう10年になる。 

寒いけれど風もなく歩いているとそれで温まり一日中快晴で日当たりのいい気持のいいウォーキング日和だった。 森を抜け郊外の牧草地の外れを小さな川に沿って自然散策路があってそこを何人もの夫婦、友人、乳母車を押す若夫婦を含めた人々が行き交っていた。 1kmほど先に隣の村の教会の尖塔が見えていたがそこからはベルギーとの国境まで5kmほどだ。

森からでてその後野原をのんびりと歩き町に入るところにくるとスタート地点から8kmほど歩いたことになる。 そこから北上して町の中心地を散策し出発地点に戻ったら町中を歩いた分が8kmでこの日は1日で16km歩いたことになる。 足の疲れ方からしてもそんなものだろうとも感じていた。 大体当分は20kmほどは無理なく歩けるだろうしこの靴で大丈夫だと思った。

ブレダの町を町はずれから徐々に中心地まで歩いて感じたのは他の町に比べてこの町は古いものと新しいものが齟齬なく調和していてスペースにゆとりが感じられたことだ。 19世紀後半の建物の保存がうまくいっていて特に工場の入れ物をそのままに公共の建物にやり替えられ現代建築がそれに被さってブレンドされているのを多く見ることだ。 それは他の町よりもうまくいっているように感じた。 それだけこの町が豊かだということだろう。 オランダの歴史でも宗教、王室に関係してこの町はかなり重要な意味があったようだ。 自分の町が1574年にスペインの圧制から解放されたことにもこの町は関係している。

そんな歴史上のことは別として自分がここに来たかった理由はただ一つ、それには皆が笑い自分を馬鹿にした。 毎日見るオランダの8時のニュースで8時25分あたりから天気予報になる。 毎日オランダ各地から送られてくる空模様の写真が2つ3つ画面に出て一テンポ置いて撮影場所と撮った人の名前が出る。 春や夏のいい天気には自分の町の写真も出て大抵それはどこからどちらを向いて撮ったか分かる。 けれど郊外で撮られたものは分からない。 けれど農地の広がりの具合、並木の並び方などからしてオランダ北部なり丘陵地がでてくればこれはリンブルグだと分かることも多い。 時には都市の中心でその町の教会をバックに広場のテラスで飲み物をバックに日当たりのいい景色がでることがあってブレダの時にはいつも上天気でバックにはブレダの聖堂が写っている。 殆ど同じ角度なので頭の隅に残っているのだがこの場所に行ってみたいと思ってブレダと言ったのだった。

日曜午後3時、教会関係のボランティアが何人かと我々、それにパンクかゴシックかというような衣装で途方もない分厚い靴底、強いメーキャップをした娘が二人床の墓標に坐って静かに話しているだけの聖堂内部は弱い西日が入って美しかった。 教会を出るとそこは町の中心の広場でレストランやカフェーが沢山あって自分は尖塔を見ながら天気予報に毎年2,3回は出る画像のカメラ位置と角度を思い出しながらここだと家族に言い、今日はここに来るのが唯一の目的だったと告白したら馬鹿にされた。

伸びた輪ゴムの輪を左側の中ほどから下に向かって時計の動きに反対して動き右の中ほどから町にはいり上の頂点が聖堂だった。 出発点のホテルに着くとほぼ暗くなっていた。 4時半を廻っていた。 ゆったりした大きなカフェーの味のある椅子に落ち着いて皆ビールで乾杯した。 揚げた丸いコロッケを摘みにして40分ほど過ごし、少し早いのだけどディナーにしたいというと窓辺の四人用の丸いテーブルに案内された。 前菜・本菜・デザートに皆それぞれ牛、豚、野兎、雉など違うものを注文してそれぞれ味見をしながら3時間かけてゆっくり平らげた。 日曜の夜ということもあるけれどちゃんとした服装の年寄り夫婦が多かったことにもこのレストランが好まれる理由が分かったような気がする。 オランダの並のレストラン以上の優れた料理人の腕が感じられた。

車で娘をブレダの駅まで送っていき町を出て高速に出たら30分ほど居眠っていた。 こういう風に食事をして息子の運転する車に乗るとこのパターンになる。 先月の12日にナイメヘンの娘のところに行った帰りも同じだった。 どちらも気が付いたら家の前だった。 まるで深夜のようにも思ったけれど9時を廻ったところだった。 夕食を始めるのが早かったからそう感じたのだった。 普通6時を廻って食事を始め戻ってくると11時をだいぶ廻るのだからそんなものだ。 それに10km以上歩いた後の食事だと一層眠気が強まりそれだけ眠りに深みと甘味が増す。

 

 

 


姑のご機嫌伺いに出かけた

2016年12月03日 22時41分10秒 | 日常

 

オランダに戻ってきてから初めて姑のところに行った。 この前は日本に出かける前だったから2か月ほど前になるだろうか。 うちから20kmほど離れた村の介護施設に一人住んでいる。 家人は2週間に一度ぐらい車で30分ほどのところにあるその村に顔を見せに行き、夏の気持ちのいい日には自転車でサイクリングがてら出かけたりもする。 姑はその村に生まれ同じ村の舅と結婚しそこに住み、  4年前舅が亡くなって以来その村の介護施設に住んでいる。 この88年間ずっとその村にいることになる。

8,9年前に骨肉腫が発見されそのとき寿命はあと3年ぐらいだろうと言われた。 けれどまだ生きている。 骨肉腫の進み具合が年齢のこともあって非常に遅いのだそうだ。 特に治療はしていない。 痛みの対症療法だけでこの何年かモルヒネの改良が進み昔のように利かなくなって終わり、ということもなく穏やかなものになっているから痛みが止まっているのだが他の薬のため食事の味がしなく楽しみがなくなったという。 舅は自分の妻が不治の骨肉腫だと聞いて動揺したのだが実際は自分が先にアルツハイマーで逝ってしまった。

介護施設の近所に住んでいるもう80を大分越した彼女の妹がこの間転んでその時の後遺症からか黒い大小便を出して危なかったのだがなんとか一命をとりとめたと自分が部屋に入るなり姑は言った。 そのことは3,4日前にここに来ていた家人に聞いてはいた。 家族のだれかれがここに来るのを楽しみにしていてそのことをもう何回も皆に喋っているのだろう。 ひとわたり彼女の報告が終わってから同い年の自分の老母の様子をカメラの写真を見せながら話した。 うちの方は認知症が大分進んできてもう殆ど灰色の世界の住人になっているけれど姑はまだ頭ははっきりしていて動きはゆっくりしているもののまだ杖をもついていない。 西向きの窓から夕陽を見ていると長生きはしたくない、もういい、と言った。 もうだいぶ前医師と家族の立ち合いのもとで、もしかの時には蘇生処置はしないと書面にしてある。