暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

魚屋の写真

2009年11月08日 12時51分02秒 | 日常


毎週木曜日にそこで昼飯にする魚屋に寄っていつものビールに生鰊、ムール貝の大蒜タルタルソース添えを頼んで立ち食いカウンターの鼻先を見れば何やら白黒写真がかかっている。 よく見ると今、向こうで鰊を開いている親父が一番右に写っている。

人間の仕草、印象というものは変わらないものだなあ、と感心して、これ何年ごろだい、と尋ねると 1960年、とぶっきらぼうな言葉が返ってきた。 それに続いて、このあたり、もう今は万に届くほど人口が集まっているんだろうけど、当時はこの店から先は何もない見渡す限り牛がいるだけの土地で、ずっと遠くにうっすら向こうに隣町が見えたぐらいでね、それが今はもうあのアパート群まで建って何も見えやしない。 それじゃあ、今は交通渋滞する大通りのあの橋のあたりは? と聞くとと、そんなものはありはしなかった、川向こうへ行きたければ、まあ、2kmぐらい北のほうへ迂回だったなあ、と言う。 太ったお上さんはニヤニヤ笑って揚げたムール貝をプラスチックの皿に移して聞いている。 写真のずっと後で二人は一緒になったことは確かだけれど今その顛末を聞いても話は別方向にいくのだろうし、それに両方ともそんなことに答えないのは分かっているからこっちも聞かない。

1960年か。 私のうちは当時の町のはずれに建っていて昔からデルフトあたりから水路を伝ってアムステルダムあたりまで通じる運河に沿っており、1958年に建てられるまではやはり親父の言うようにあの隣町も経由して来ているのだからのんびりしたものだったに違いない。 いつか今家が建っているあたりの古い写真をみたけれど運河まで少しづつ地面が上がっていき今と同じような並木が堤になっていて牛が草を食んでいるものだった。 それにしてもその堤を近代的な道路にして町の環状線にするようなこの町の都市計画が世界に知られたオランダのイラストレーター、エッシャーによって描かれているのを市長室に掛かっているのをみたことがある。 けれど、幸いなことにそれからもう7、80年たっているのだろうか、でもここはまだ環状道路になっていない。 20年ほど前にこの家を買ったときに町の地図を眺めていずれはこの部分も環状道路の一部になるだろうな、と思っていたのがあと5、6年で実現しそうだ。 

私が毎週纏め買いをするスーパーは一昨年今の二階三階に駐車場を擁した大きなものになるまでは魚屋の前の広場に仮店舗、その3年ぐらい前までは魚屋の斜め筋、10階建てのアパートの一階の部分だったのだが、それじゃ、あのスーパーはあったのかい、と水を向けると、1964年だわ、出来たのは、あの高層階が建ったんだからなあ何もないところに、、、。

で、このあたり振興住宅地のショッピングセンターというより、道に沿って店が並んでた、というぐらいだけど、それでも人はどんどん増えるからね、魚屋はうちが一軒だけ、向こうの八百屋はそのときからで、八百屋はむこうにもう一軒あってその八百屋は今はなくなって、、、そうだな、今は携帯売ってる店やあるだろ、あの辺りだな、 え、中国料理屋があったかって?  そんなものありはしなかったね、 中国人はいたけど南京豆を籠か何かに入れて戸別訪問とか歩いて行商だったかな、「うまいうまい南京豆、、」って言いながらね。

白黒の写真には一家一同ちゃんと正装して写っているけれど、これが普通のちゃんとした商売人の服装でもあったわけで、今はどこでももうかなりくだけた服装になっているけれど、30年前にはまだこの面影があちこちの店で見られた。 肉屋にしろ八百屋にしろちゃんとした物を商っている、という誇り、人に後ろ指をさされないちゃんとした服装、ということなのだろう。 10年ほど前に亡くなった私の3軒ほど隣の老人は家の前の芝生の手入れをするのに背広にネクタイ、ハンチング帽に木靴といういでたちで夏の暑いときも服装を崩さなかったし、5年ほど前まで町の青空マーケットで土だらけのジャガイモ、玉ねぎ、大蒜を数種づつだけしか売らない店でも孫と思しき14,5歳の少年と二人だけで取り仕切っていた老人も、所々綻びがあり土が両ポケットのあたりについていてもちゃんと白いカッターシャツにネクタイといういでたちだったのだから時代の移り変わり、というものをこのような服装からでも感じられる。 親父の爺さん婆さんを挟んで若い両親が写っている。 ここに写ってる冷蔵庫、まだ同じものだと私に昼飯を持って来た親父がその冷蔵庫を指差した。