暇つぶし日記

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メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 ;観た映画、Nov 09

2009年11月29日 11時00分02秒 | 見る
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬(2005)

LOS TRES ENTIERROS DE MELQUIADES ESTRADA
THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA
LES TROIS ENTERREMENTS DE MELCHIADES ESTRADA

122分
製作国 アメリカ/フランス

監督: トミー・リー・ジョーンズ
製作: マイケル・フィッツジェラルド
トミー・リー・ジョーンズ
製作総指揮: リュック・ベッソン
ピエール=アンジェ・ル・ポガン
脚本: ギジェルモ・アリアガ
撮影: クリス・メンゲス


出演:
トミー・リー・ジョーンズ     ピート・パーキンズ
バリー・ペッパー         マイク・ノートン
ドワイト・ヨーカム        ベルモント
ジャニュアリー・ジョーンズ  ルーアン
メリッサ・レオ           レイチェル
フリオ・セサール・セディージョ  メルキアデス・エストラーダ
バネッサ・バウチェ        マリアナ
レヴォン・ヘルム        盲目の老人
メル・ロドリゲス
セシリア・スアレス

「アモーレス・ペロス」「21グラム」を手掛けたギジェルモ・アリアガの脚本を、名優トミー・リー・ジョーンズが主演のみならず自ら初監督も務めて映画化した感動ドラマ。カンヌ映画祭ではトミー・リー・ジョーンズが男優賞を、そしてギジェルモ・アリアガが脚本賞をそれぞれ受賞した。アメリカとメキシコの国境地帯を舞台に、亡くなった親友のメキシコ人を彼の故郷に埋葬するためアメリカ側からメキシコへと旅に出る男の姿を描く。

アメリカ・テキサス州、メキシコとの国境沿い。ある日、メキシコ人カウボーイ、メルキアデス・エストラーダの死体が発見される。初老のカウボーイ、ピートは彼を不法入国者と知りながらも親しく付き合い、年齢を越えて深い友情を築いていた。悲しみに暮れるピートは、彼と交わした約束、「俺が死んだら故郷ヒメネスに埋めてくれ」という言葉を思い出す。そして偶然、犯人が新任の国境警備隊員マイクだと知ったピートは、彼を拉致誘拐すると、共同墓地に埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り返させるのだった。そして、そのままマイクを引き連れ、遺体と一緒に故郷ヒメネスへと旅立つのだった…。

以上が映画データベースの解説なのだが、ここでは70年代アメリカニューシネマの西部劇版が今風となって現れたような感じがした。 

忙しい中でこの映画をかつて観た様な気がして今考えてみると、初公開が06年、それから1,2年経ってからテレビに現れたのだろうから、そうすると観たのは1,2年前だったことになる。 テレビガイドの写真が西部劇そのままのものだったから純粋の西部劇だと思い込み、解説も読まずにその晩ヴィデオに録画してそれから4日ほどしてから観た。

トミー・リー・ジョーンズの西部劇ものか、さて、とスイッチを入れると、初めから、あれ、これ見たことあるぞ、ええっと、、、と筋を追いつつ、テキサスのメキシコ国境警備隊がネズミかゴキブリが餌を求めてアメリカに越境してくるようなメキシコ人たちを蹴散らす様子が現れ、それにかぶってカウボーイ、ジョーンズ側からの話が重なる仕組みになっている。 この町の設定、雰囲気が現代の西部劇としては申し分がない。

西部劇ではどこでも金、権力、抗争、復讐、暴力、女が絡む仕組で最後は銃で決着をつける、ということになるのだが、ヒーローが出ていろいろと紆余曲折がありながら艱難辛苦の後相手を射止めてお仕舞い、というような形を取りがちなのだがニューシネマの西部劇では必ずしもそうならず、大抵はアンチヒーローものであったりするし、例えヒーローが目的を果たしたとしても当初の目的から大分外れた結果になるようなものだ。

本作では金は絡まないものの、権力というのはここでは犯罪であるようなないようなものをカバーアップする地元のシェリフ、抗争は違法滞在者を誤って射殺した国境警備員の尻拭いをする地元のシェリフに対する主人公ジョーンズの行為、カウボーイ対公権力の追跡劇という形で現れる。 死者に対する復讐は形としては最後まで示されないものにしているものの、事件の中で或るときには弱い女が当初この警備員から受けた暴力の借りを返して自然と和解する、といったような浪花節的なものも微笑ましく挿入されていて、国境の両側がマイクロコスモスを形作っていながらもメキシコ人、アメリカ人グリンゴというような構図は西部劇そのものだ。 途中で、これとは種類が違うものの、ここでのジョーンズとサム・ペキンパーの「ガルシアの首(1974)」で好演したウォーレン・オーツの感じが似ていると思ったのだがまた同時に、ちょっと違うかなとも思ったけれど、それでも似ているなとも思い返した。

話の持って行き方、馬の背に乗って動くようなテンポに女たちとの交流が西部劇だし、とりわけ地元のダイナーの女が西部劇の女で大抵酒場のやり手女主人が主人公と一定の関係を保ちつつもあるモラルを保つというそんな具合だったようなのだが21世紀の西部では性に対しては奔放でありながら保守的なところも併せ持ち、その言動にしっかりしたものを感じることで西部劇の女にこじつけられることは確かだ。

ベトナム戦争あたりから使われだしてその劣性ゆえに何人ものアメリカ兵を事故死させた経歴をもつ23口径で人のよい違法滞在者のメキシコ人が誤って射殺されることから物語が始まり、その口封じに対抗して自分の筋を通そうとすることで国境の向こうに旅立つのだからある意味ではロードムービーであり、そこに現れる風景や路程の出来事が興味深い。 われわれが西部劇に惹かれる理由の一つに、そこに広がる空間に捉われてどうしようもない広呆然とした想いに駆られることがあるだろう。 ここではない或るところ、そこには人も町もなく自分ひとりが世界に対峙するというような広大な空間なのだが、けれど実際にそこに出かけてみてもその数時間後にはその何も無さを自覚して車、日常に戻る、といったようなことにもなるし、そこでの厳しい風土に、これでは堪らないなあ、と結局、無味無臭快適な温度のスクリーンの前でそこで演じられるドラマを眺めつつ、それでも未練がましくそういう荒涼とした風景に憧れる。 そういうドラマの背景の絵は美しいのだ。

西部劇であるから銃器はつきものだ。 ベトナム戦争や日本の劇画で長らく人気のあったゴルゴ13が使う銃、殺されたメキシコ人がコヨーテ撃退用に打つ、形は西部劇をそのまま残したライフルのカービン銃、主人公ジョーンズは馬の鞍につけた昔ながらのカービン銃は別として丸腰と見えていたものが今風にそれでもクラシックのコルト自動拳銃を今風に撃ち、中でも一番興味深かったのがシェリフが断崖絶壁が続く一行を追い、はるか1kmを超す崖を上る馬上の主人公を雄大な景色の中、こちらの崖の上からスコープ越しに狙うシーンだ。 われわれにはこのシェリフが仕留められなかった理由を詮索するようになるのだが、それは女を巡って主人公と関係のあるこの少々疲れ気味のシェリフが果たして一行が狙撃できる距離にあったのか、それぐらいの距離では絶対的に呼吸が静謐でなければ射止められないことがあるのに息使いが荒く、それはそこに上るまでの急坂を登った影響か、それとも今では犯罪容疑者と烙印がついた主人公の行為が、自分が多少の事件になることを厭った結果であり、また女を巡って感じる妙な屈折した近親感であるのか、たまたま標的が岩の間に消えていったからなのか判然としないあいだに息を切らせてライフルを放り投げてしまったシーンなのだ。 西部劇で手に汗を握らせるところなのだが、そのすぐ後の今風の携帯が鳴り、その能天気な電話の会話に大笑いする上手い仕組みにも感心する。

ここではユーモアが各所にあり、それはそれまでのジョーンズの映画にも見られる種類のものもあるのだが、ここではもっと広く状況のなかから醸し出す種類のものでもある。 それは緩急のつぼを心得たスクリプトがいいのかもしれない。 解説で知ったのだが、この脚本家は「21グラム(2003) 」も手がけたということなのだが何となく筋書きに似たようなものを感じた。 それは、瑕疵が起こした結果がどのように物語を転がしていくか、というようなもので、その瑕疵にどのように決着をつけ、どのように悔いるか、復讐は成り立つのか、というような点でもあるのかもしれない。

見続けて、ああそうだったなあ、これはいいシーンだと追いながら、それではこれから後は、、、、と結末を考える隙間を与えられなかったような気がしてまた結局最後まで観てしまった。 そして結末を思い出さなかった理由は、本作で好演したバリー・ペッパーが最後に主人公にかける一言だったからかもしれない、と思った。