暇つぶし日記

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松浦理英子著 「犬身」 を読む

2009年11月16日 00時54分34秒 | 読む
犬身

松浦理英子 著

朝日新聞社 刊

2007年 発行、 2008年 第三刷 505ページ


私は松浦理英子や笙野頼子のいい読者とはいえない。 読中いつもどこかで違和感を覚え、その違和感に惹かれて読み続けるものの、時にはもう堪らないな、と放り投げたりするような種類の読者だ。 ただ、この人たちは、余りにも凡庸な作家たちで満ち満ちた出版界の中で純文学を支える最良部分の作家であるから放り投げた作品もそのあとゴソゴソと拾い集め、改めて読み直し、またぞろ行を追うことになるのだ。

「親指Pの修行時代」上下を手にしたのは94年ごろだっただろうし、それを読了したのかどうかの記憶もない。 もともと想像力に乏しく、SF物には食指が動かず、理屈が見え始めればあくびが出る。 好色であるから官能物は好むし、性の世界には昔ほどではないけれど未だに興味を持ち続けている。 たとえば学生のときにかつては官能の禁書といわれたから興味をもったサドのジュスティーヌの話、悪徳の栄えを読み、その権力に対する嫌悪や官能よりも哲学的な言説に惹かれ、性の或る局面に目を啓かれた思いもある。 

性に関して、もし、足の親指がペニスになってしまったら、、、というような昔のほら話にあるような、けれどそれが女の親指にだと、、、という話には興味があったものの、今も残る乏しい印象では、Pの物語はさまざまな性を巡るオデッセーの旅、女性性から性の両方の形を俯瞰するような構造であり、その直裁な描写に少々辟易したことと性急に走るようなところで放り出したのではなかったか、というような気がする。 何か消化できないようなことろがあったのかも知れないがそれが何だったのかその顛末の記憶も一切ない。

性を巡っての真面目な書き物だ、とは思っていても、その辟易する、というところからP上下は本棚に安置されている。 今、本書を読了したのだからこれと比べる意味でもそのうち再び「親指P,,,]を手にとって読んでみようと思うが果たして読了できるかどうか。 高校生の読書会で「第二の性」に接して以来自分の男性性と同じく女性性の社会的局面は自覚しており、その後、学生生活の各局面でその社会性に加え生理、身体性にもいささか経験するところもあって後年、たとえば女性学なりジェンダースタディーなどに連なる書き物にも男性の眼から目を留めているのだが、その中に本書の著者の名前が時には見られることも承知している。

明らかに両書の間の15年には著者が30代後半から50代へと年齢を重ね、それに伴って生や性にかかわる想いにも変化はあったには違いなく、その態度の差が作品にも見られるようでもあり、しかし、性に関しては考え続けられていることははっきりと認められるがそのほかの生の要素が大きく加わっているようでもある。 この作家には性の問題は自分の存在にかかわる問題なのだろうと思う。 多分、「親指P、、、」での性の社会性、性の現れ方が本書では絞られ、家族の人間関係や人と動物の関係の中で性は様々な様相を示し、それぞれの相関関係の中でゆるい媒介変数のような形として扱われているからPでの一見ギトギトしたような描写から先鋭性が和らげられているのだろう。 けれど、性に関しては、夏の茂った森では見られなかったものが秋になり紅葉し落葉が積もる森では木の一本一本がはっきりと見え、森の地形までも見渡せるような、そのような性の景色の違いとなっていて、読者には性に関しては夏の熱気というより秋の静寂が印象付けられるのではないか。

もう一つの違和感がある。 世間では犬ブームが続いているそうだ。 犬を飼ったこともなくはないが、絶えず主人を窺う犬の目つきと根性が気に入らない。あと何年かすると小型犬のテリアでも飼おうかとも思ってみるのだが、今のところ、それにかかる世話と子犬から育てて初めにまとわりつかれる鬱陶しさから、例え、考えることだけにしてもそこで逡巡する。 行き付けの床屋の軽く40kgを越す老犬なら相性が合うかもしれないが幼犬からそこまで関係を紡ぐには自分はもう少々歳を取り過ぎているような気がする。

子供の頃から家にはいつも猫がいて、胃袋に物が入るとこちらには一切靡かない猫の性格を好ましく思う。 とは思うものの本書で性と動物の垣根を行き来する物語に犬を持ってくることで関係性が焦点であるこの物語の興味は著しく高揚する。 漱石の猫では男女の性、動物間の交歓は描けない。 「猫」は人物評はできても人間と細やかにコミットすることは出来なかったではないか。 「猫」の作者と「犬身」の作者の時代の差や性差、がその違いにかかわっているのだろう。

本書はほぼ一年以上積読の箱に入っていてそれまでに男性作家の長編を読んでいたその続きで読み始めたものだ。 その一つに、その作家が季刊の文学雑誌に登場したときから批判的に眺めていた男性作家の、なぜ人はそういう書物を買うのか理解できないがゆえに求めた、母親と東京にある高い塔が中心のベストセラーを読み、その主人公の「女々しさ」に70年代初めから出現し当初のフォークからは骨が抜け四畳半ものに成り果て、その時代に流行した若者男性たちによる日本のフォークソングになびいた層に阿る精神と同じようなものを感じ、読後、当初の予感を再確認した後だけに本書の厚いページの残りが少なくなるにしたがってもっと続けばよいのにと、この男女二人作家の小説世界の違いが対照され、最後の70-100ページあたりから結末は知らずとも物語の終わりを惜しんでいた。

ブログの日記を持ってくる結構が成功している。 著者が幾人もの性格を書き分ける中でネット世界の匿名性を盛り込んで話を進めるところは今の情報社会でネットがある程度不可欠になっている状況に寄り添う形にもなり、物語という虚構の入れ子構造にもなり、また、本書が紙に印刷される前にそのネットで発表されていることでも現代の物語でもある。

400ページ台の中ごろに入るようなあたりで、一体どのように話を終えるのかな、と思案がその事に行き、犬になったフサがそのままに見取られて昇天した挙句、トリックスター、狂言回しの朱尾の精神の一部となり梓と朱尾の付かず離れずの関係で御伽噺として話されることを期待していた自分の甘さが、たまたま見たネットで作者のインタビュー記事を読んでしまい結末の一部を知らされたことに悔みはしたものの、それでも現実的かつ御伽噺的結末に或る部分は納得し、或る部分は何だかあっけなすぎるとも思ったものだ。

作者には梓の父親、朱尾が何なのか十分納得が出来ているのだろうか。 沈黙とトリックとして示されているが、つまり作者にとって男とは何なのか、ということでもある。 それを総括しなければ性のないユートピアは存在しないのではないだろうか。 私の周りの親戚、知人、友人のなかにはティーンネージャーから老人まで多くの同性愛者がいる。 いや、違うぞ、本書は人間のジェンダーだけにまつわるのではなく、人、動物の種を超えた関係性、コミュニケーションに及ぶ寓話だったのだ、と興味なさそうな振りをして私の中の「猫」は言う。


アサヒコムやそのほかのサイトから著者、著書にたいする言説;

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200710310092.html
http://book.asahi.com/review/TKY200711060213.html
http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/08/matsuura_rieko6.html