暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ソニクミチ

2008年09月12日 09時31分21秒 | 見る
木曜日のスーパーでの買い物の後、さて、何か足りないものがあるような気がしていたのだがそろそろ夕食を作リ始めようかと庭の草を眺めていたときにそれが何だったか思い出し、ブラブラと暖かい陽射しの中、近所のミニスーパーまで歩いて買い物に行った。 このミニスーパーは個人商店だけに値段は大手に比べて割高なものの歩いていけることから年寄りなどには重宝している。 年寄りだけでなく私も一年に、、、、一ヶ月に、、、、2ヶ月に一回あるかないかという割合で何かを買いに行くのだが、ここの主人は性格がぶっきらぼうで印象はあまり芳しくない。 その分、高校を出て店を手伝っている息子が優しい。 なんともバランスが取れた親子なのだが今の持ち主の前に同じくここでミニスーパーを開いていた善良な爺さんが寄る年波と大手との競争に耐えられずジリ貧になったことから手放しこの親父、ルネに店を売ったのだが、それがもう10年ほど前だっただろうか。

ええと、羊の肉でハンバーグステーキを焼き、長ネギ、隠元、人参に大蒜の香りをつけてシナッとさせてシェリーを振りかけて蓋をしソテーにしたもの、普通のミックスサラダに、、、面倒だから粉末のジャガイモの粉にブイヨン、ナツメグを溶かした牛乳を加えてマッシュポテトにして充分なゴーダチーズを細かくしたものでコクをつけたマッシュポテトなりポテトピューレーがその夜のメニュー・ターゲットだったのだが、このマッシュポテトもしくはピューレーの素を買うのを忘れていて、その平たい箱を捜すのに小さな店の棚を見ていた。

オランダだけではなく近年は色々なところで漢字を見る。 大抵寿司関係なのだが輸入の乾物のパッケージや中国食料品店にはそういうものが沢山あり普通のオランダ人もそういうところで徐々に馴染むようになったり大手のスーパーにも色々なものが並んでいてエキゾチズムをも掻き立て、無知なものには見知らぬものを敬遠するのと寿司、健康食品ブームから興味をもったものが漢字が書かれたものを見て憧れ、スノッブ気分でその商品に手を伸ばす、と言う風になるようだ。

目の前にカタカナが現れた。 小瓶に入った何か甘栗のシロップ漬けか左の、同様で少し色のパターンが違ったものはチャツネにも見える。 もちろんオランダ語でラベルの中央ににはGEMBERと書かれているから内容物が生姜だと分るもののその後ろに大きく書かれたカタカナが分らない。 ソニクミチ、と読める。 ソニクミチである。 ????? 思い当たらない。 オランダ語にもそういうものはない。 近いものもない。 ひょっとして生姜をよく使うインドネシア語の何かかと思うが、待てよ、それなら何故カタカナを使うのか。 販売者は日本の物に関連してカタカナを使っているのではないか。 いや、中国でも生姜は必携であるから中国ごのつもりなのか。 それとも、なんでもいい、兎に角購買者の目に触れれば何か分らないけれど東洋の文字だからこれでいい、とでも思ったのだろうか。

漢字ならば好きなように創作も出来るし無茶苦茶なものもあちこちで見る。 上下裏表さかさまなもの、たまには何かの包装紙に書かれたものをTシャツに印刷したものもあるのだから呆れたりするものの、それはそれが読める者がいうことで読めないものには図象のイメージだけで充分なのだろう。

けれどここでは商品は食品、ラベルにかかれたものはそれぞれ意味を持っているはずだ。 ソニクミチ、、、、?   このカタカナの上に被さってブランド名がある。 SUMMIT サミット、頂上、峰が集まったところ最高峰でありブランド名としてはありそうだ。 サミット、ソニクミチ、、、。 何か関連がありそうだ。 ソはサ行にあり、MとNを取り違えばミは二で、トはタ行でチもこの行にある。 しかし、どう考えてもクが分らない。

多分、何も分らないものがネットで日本語表記の表か何かを探してきてSUMMITに当てはめようとしたのだろう。 20年程まえにはもしこういう漢字、カタカナ表記を使いたいと思えば日本人か日本語を勉強したことがある非日本人に頼んで筆で書いてもらったものを使うということだったものが、今は簡単にコンピューターでひっぱってきたものをプリントアウトして使えるからこういうことが起こるのだろうと想像する。 ここまでひどいものは今までに見た事がないしこのようにソニクミチの来歴を想像して一人棚の前で笑った。

それにしてもソニクミチの「ク」はどこから来たのだろうか。 知りたいものである。


カンパーフリが咲いた

2008年09月10日 09時57分02秒 | 日常

このところ温度が20度にもならない初秋が始まっていたのに何のことかこの2,3日夏が戻ったような陽気になった。 湿度と温度が少し上がったようだ。 ジャケットを羽織っていたのが少々暑いようでカッターシャツだけでいい。 

けれど20度を2,3度上がっただけでそれだけで夏だと感じるのだからこのことでも今年の夏が中途半端に終わったことを示しているのだろう。

それは我々人間だけだけのことだけではなく庭の植物にもそう感じさせるものがあるのかカンパープフリ(蘭名Kamperfoelie、 和名スイカズラ属の一種、ラテン名Lonicera)が咲いた。 この花は普通夏の暑い夕べに芳香を微かに漂わせて我々を和ませてくれるのだがそれには十分な水分が要り、家ではよっぽど屡水をやらねば中途半端に枯れながら咲いてしまい匂いもあまりでないということになっていたのだが今年は夏の暑いはずの時期に一度も庭に水を撒くことの必要のない夏だったからこの貧弱な蔓にもちゃんと葉がついて咲いた。 その時期が今なのだからこの蔓もこの何日かで夏を感じて開花、匂いを振り撒こうということになったのだろう。

和名を見ようとオランダ語のウィキぺディアでKamperfoelie(カンパーフリ)を出し、それを辿って英語に対応させたらHoneysucle(ハニーサックル)と出て、へえ、これが歌に時々歌われるハニーサックルローズかと意外な気がして更に調べてみればそういう植物、花は見当たらない。 歌や映画の引用ばかりでどうもこの花を冠した女性を薔薇に譬えたもののように見える。 もし、薔薇の一種だとしてもグーグルの英語、米語のサイトに植物関係で引っかかるはずなのだがないところを見ると多分そういうことなのだろう。

今までカンパーフリとして見ていたものが、スイカズラだとかハニーサックルだとか名前だけは聞いていたものと同一植物だったとは意外なことだ。



ウィキぺディア; スイカズラ属、の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9%E5%B1%9E

ドキュメント三つ、NY,セルビア、ロンドン

2008年09月09日 10時56分48秒 | 見る
図らずしも今晩はドキュメンタリーの宵となった。 なにもセットされた映画会や一つのテレビ局などのものを観たわけではない。 一日の終わりに3つ観た、ということで直にこういうことの詳細を忘れる傾向にあるから後のために記録する。

1)9・11 (2002)

水曜日に翌週放映のテレビガイドが玄関に届くと土曜から一週間の目ぼしいものに印をつけて大抵はヴィデオに撮っておくように計画するのだがこの日の宵はこの7年ほど様々に語られ、イラク中東戦争の推進要素となったNYツインタワー事件だ。 これに関しては最近は映画にもなりまたCIA陰謀説まで出るほどの盛況ぶりだが今夜初めてこれに冠するドキュメント映画を観た。 

ジャーナリズムとしては結果的にいつもとおなじく、世界の不幸はメディアの米びつ、であるのだが幸か不幸か近くの消防署で新規採用の消防士がどう訓練されていくかを撮るべく3人のカメラマン、ドキュメンタリストがそこに駐在して若い候補生に焦点を絞って撮り始める6月からこれが始まるのだがそこでは何回も彼らの訓練中に今はないツインタワーが背景に移り初めの意図が9・11では勿論なかったものが貴重な記録となったことが不思議な印象を与える。

この何週間前か70年代の「タワリングインフェルノ」や「大地震」を観たことでここでの災害の違いが明らかになる。 要はここでの消防士はなすすべもなく救助だけが使命となりひいては自分の生命の危機から脱出すべくそのプロセスを見ることが出来る。

それまでにこのタワーで恒常的に防災の訓練や点検をする様子も映されるのだが実際にこの種の災害が起こったときにはなすすべがないことが直ぐに発覚する。 火は消せない、コミュニケーションは途絶える、ロビーで指揮をとる上層部には状況は把握できないし、外部からの情報に対応する猶予もなく茫然とそれぞれがウォーキートーキーを耳に必死に最善を尽くそうという姿だ。 経験を積んだ消防士がなすすべもなくカオスの中で自分自身生き残る様子が映される。 どういうことかこの分署で出動し生存者を誘導、何階かまで上るのだが元凶は何十階という雲の上でコミュニケーションが途切れたなかではなす術もなくやがて消防士たちは自分自身たちが生き残るために撤退し生還するのだがカメラマンは指令官に沿ってカメラを回すからそこでのこの場所、この種の災害には手の打ちようもないことが明らかになるのだ。

カメラは政治的なものを出来るだけ排除して消防士の活動だけを追うのだが、この災害の中で初めの焦点を当てられていた見習い消防士は彼の同僚とともに生涯であるかないかの機会をくぐってこのように言う。  自分は人の命を奪う兵隊となるより人の命を救助する消防士の職業を選んだのだが今、この9・11を経験してから、もし国が自分に兵士となれと要求すれば躊躇なく兵士になる、と言う。 報復の観点からみれば至極当然に響くのだが何かが欠落しているようでそれが咽喉にひっかかった小骨のように気になる。

2) セルビアの神話  と題された50分ほどのドキュメントでBBC2局で放映されたものだ。 西側からみればサラエボを中心とするセルビアを拡張して民族浄化、モスリムを排除、殺戮して国際的戦争犯罪政府としてその首謀者、ラドヴァン・カラジッチ、スルプスカ共和国大統領は元ユーゴスラビア大統領ミロソビッチとならび戦争終結後、国際手配されていたものだが何年か前にミロソビッチ元大統領が捕まりハーグにある、何度かその前を通って見知った監獄に収監され国際裁判の途中で死亡した話はその収監されるときのドラマチックな光景と共にまだ記憶に新しいのだが、カラチッチに関しては今年の7月の22日だったかスイスのダボスのキャンプ場で夕食時新聞とニュースで、追跡されていた元大統領が髭に被われた見るものに感嘆の声を上げさせる風貌でついに捕まったと写っているのに驚いたものだ。 そして同じくハーグの監獄に収監されたこともそれに沿っていた。 その髭に被われた風貌はサダム・フセイン元大統領が捕らえられたときにも同様であったことをも思い出させる風でもあった。

そういうことを底辺にしてもこのドキュメントはその戦争の最中に取られたものでいかにセルビア人を中心にした国家を作り上げるか、その500年を経てもともとモスリムに奪われていた土地を取り戻すべく戦いを繰り広げるというキャンペーンに肉薄して彼の動きに沿うドキュメントである。 詩人であり心理学博士でもある当人はカメラの前で楽器を演奏し自国文化を称揚する。 それは戦争中、軍服の兵士たちが強い酒を壜からそのまま回しのみして歌う愛国歌でもあるのだがスラブ系、中東系の調べであり歌詞を理解しなければエキゾチックなものである。 小国の軍隊組織であるのだがその分だけ祖国を西欧諸国から守るという強固な意志となり若い兵士、国民の表情には明るささえ窺えるのだ。 西欧からみれば歴史の中のナチスや日本、それからサダム・フセインのイラクであるのだがここでのラドヴァン・カラジッチはカメラに向かって激昂するのでもなく淡々と英語で自国の歴史を語りロシアの詩人と一緒にサラエボを見下ろす丘の陣地から機関銃で狙撃する現場に立会い博士論文を執筆したアパートを双眼鏡でしめしてそれが瓦礫同然となっていることを言い、ロシア人の理解を得るのだ。 またムラビッチ将軍や首相とともに戦争をどのように収めるか、西側との交渉をどのように進めるかを小さな山小屋同然の会議でその模様もも興味深く映し出す。 このドキュメントを見て西側のもたらしたキャンペーンの結果の印象をコインの一方だとすればこれは同様の歴史をもう一枚のコインの片方として示したものであり必ずしも西欧メディアが描いてきた凶悪犯罪人とは見られないようでもある。 そして、もし自分がこの国家の一員で愛国心が強くあるものとしても民族浄化の事実は残るものとして存在し、それは断罪されるべきものだろう。 その事実は国を愛するということに鋭い痛みとしてのこるだろう。 バルカン諸国の歴史は長く複雑でありそこでの愛国心はそれぞれが歴史の中で共有する土地を巡って吹き出るものであり簡単には白黒を付けられるものではない。 現在、このようなことがグルジアの一部で取りざたされているのも同様である。 国際的にはロシアの巻き返しと言う風に見られているのだろうがその地区に住んでいるロシア系の住民には自分達の自治、独立の機会となるのだ。 勿論、国際法規による観点も当然なのだがそれぞれの立場に立って見ることも我々の眼が簡単に一方的な情報戦の礫で曇らされるのを防ぐ一助となるのだ。 我々は好むと好まざるに関わらずある立場を選ばされているのだが別の立場にたつ観点に触れることでコインの両側を交互に眺めることが出来るのだ。 その外側に立つものには一層それが望まれる。 息子の友人の一人はボスニア系オランダ人で彼の両親、親戚はこの映像の地区から逃れ今はヨーロッパ、北米とちりじりに散らばっているのでありカラチッチにミロソビッチは自分の親、親戚の運命を脅かした憎むべき敵なのである。

3) BBCテレビ Who Do You Think You Are
   Boris Jonson

何人か著名な人々の先祖数代にわたり家族の系譜を辿りそれを番組にしたものだ。 アメリカで一頃人気のあったジェリー・スプリンガー ショーのホストであるスプリンガーの父親がドイツ東部でユダヤ人として商店をもっていたものがナチの脅威、迫害からイギリスに逃れそこで彼が生まれ、その後アメリカに移るその父親の軌跡を追うとともに多くの叔父、伯母、祖父母の軌跡をを追い、アウシュビッツのガス室に送られる叔父伯母祖母の記録を現場で探し当てるというようなことを何週間か前に観たのだが、今週は現在ロンドン市長となったボリス・ジョンソンである。かれは保守党の議員としてマスコミでその陳腐で屡風刺の対象となる言説であまりまともに受け止められていなかったものとこの10年ほど承知していたのだが去年かのロンドン市長選で当選したのには驚きだった。 

彼の血を辿ると1930年代トルコのジャーナリストであり右傾化した政府から狙われフランスに逃げ、その後、フランス、イギリスの介入でトルコに新政府が作られたときに内務大臣となり直後、またもや愛国政府樹立で逆賊として捕らえられ民衆にリンチされ持ち物は奪われ死体が街角に吊るされる、という記事を見せられる。 今のトルコの歴史では逆賊記載されているのだとトルコの歴史家から聞かされる。 しかし、イギリス人の歴史家には民主主義のリベラルな国内政治の潮流に押し流された人物との評をも聞かされる。 これは1960年代に生まれたジョンソンには裕福な農民である父親の口からは聞けなかったことであり全てこの番組を通して祖父の移民、結婚登録の書類を辿って明らかになっていくことなのだ。 さらに幼少の祖母の雰囲気と言動の記憶から引っかかるものとして彼女の高貴な血ということの真偽を追うこととなる。 一枚の写真をめぐりフランス、ドイツを巡ってその祖母自身さえはっきりと知らなかった事実が明らかになる。 祖祖母は劇場の踊り子であり祖母の出生は当時ドイツのいくつもある国の王子の隠し子として1820年代の公文書のなかに記録されていることを辿りその王子が後にその国の王となった、広大な城のなかでその系譜がヨーロッパの歴史のなかで婚姻関係が広範であり、さらに遡ってアイルランドや英国の王に連なることに驚くわけだ。 ユダヤ人、トルコ人、フランス人にドイツ人、さらにはアイルランドに英国の貴族や王の血が混ざっているということに驚くということで彼の性格からすれば予想だにしていなかったことではあろうがこれから彼の言説、とくに英語に一層のアクセントを加えるに足るだろうということは想像に難くない。 確かに自分でも言うように自分と血を共有する人間は何千人といるに違いないのだが自分のように足で辿ってたどりつける人は少なくドラマチックでもない。 今回、系図のなかでコスモポリタン(不純系英国人)としての血をトルコ、ドイツとイギリスを離れて見てきてここドイツの城の広間にかけられたイギリス王に至り、駒が逆転したようで、保守党のメンバーとして英国人としての意識が一層他の高貴な血に増して彼のなかで湧き上がったように見受けられた。


図らずもこの3つに共通するのは様々な自己のアイデンティティー、それに続いて「愛国心」の形なのだ。

二日ほどマーストリヒトに行ってきた

2008年09月09日 10時20分54秒 | 日常
9月6(土)、7(日)と二日間マストリヒトに行ってきた。 昨年と同じく、古い教会の広場で芸術家たちのオープンマーケットがありそこに土日と半日すわり、教会内部でその教会の本尊、聖マリアにちなんだ作品を展示する小さなギャラリーに招待作として他の何人かの作家のものと並んで家人のものも展示された、ということがあって250kmほど車を飛ばして出かけたという訳だ。

去年のこの時期、同じ事を経験していたからその広場やこのイベントを組織する地元の芸術協会員たちとも顔見知りになり家人が午後、さんさん訪れる人々に自作を説明している間、私は町の中を歩いたり広場の周りにあるカフェーで昼食を採ったりぼやーっと行き交う人々を眺めてながらのんびりした時間を過ごすことが出来た。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/49905596.html
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/50012557.html

上のように去年も書いたとおりマストリヒトはEUの出発地であり様々なEUの研究所やオフィスが古い建物の中にある。 そういう場所にこの時期、地元の作家の作品が展示されていたりして日頃はオフィスや研究所として機能している場所をギャラリーとしてこの週末に開放していたのだ。 廊下やちょっとした建物内部の空間オブジェや絵画が展示されているのだがその建物自体を観るのもおもしろい。 100年ほど前の金融機関の建物として当時の建築家に依頼して作らせた当時のモダニズムがそのまま残っているのを観るのは単なる本や写真集でみるだけでなく実際に現在も保存されているものを町のなかに見ることでその来歴を感じるし建築家が自分の理想と美観の体現としての製作物でもあるからこれらの建築を通じてヨーロッパの美術史を辿るようでもある。

広場の展示場のものを車に載せてかたずけたあとどこかのカフェーで夕食を済ませ去年と同じ宿舎の老婦人の家に来れば84歳になる彼女はテレビを見ながら大きな籠に一杯入ったパセリを小さく毟ってビニールの袋に入れていた。 沢山取れたものを冷凍にしておいてあちこちに配ったりなんやかやと冬の間の料理に使うのだそうだ。 私達にも持って帰れと勧められるのだが家にもパセリは庭に植わっているので辞退した。 翌朝、台所のテーブルで朝食を採る時には他の部屋に泊まっていた70歳代の男女二組と同席した。 彼らは従姉妹会の集まりでマストリヒトに来たのだそうだが60人もこの町に集まるのだから一所には宿舎をとれなく何箇所かに分散して泊まったのだそうだ。 四方山の話をしながらゆっくり朝食を採りその後、一期一会の別れをして、また教会の広場に車で戻った。 不思議なものでこの町が徐々に分ってくると親しみがどんどん増すようになるのだがこの町が普通のオランダの町のようでなくドイツやベルギー、ひいてはそれに連なるフランス的な町の佇まいに惹かれるのが大きな理由だと思う。異国情緒一杯なのだ。

カフェーを渡り歩きながら旧市街を散策しているとこの町にはいくつも大小の広場が点々とありいろいろな違った雰囲気に観光客気分を味わえるのだ。 どの町にもある大手本屋のチェーン店にしてもここでは古い教会の内部がそのまま本屋になっているところもあり、普通は祭壇になっているあたりがレストランか喫茶スペースになっていたり鉄骨で枠組みが中心に作られており小さなエレベーターで昇降できる3階建てほどの普通の町の本屋の書架がすっぽり教会のスペースの中に小さく納まっているのには感心した。 79年に中国を旅行したときに蘇州だったか古い寺に入れば仏像や飾りは全て取り払われていてそのだだっ広いスペースに粗末な紙質の書籍を売る書店になっていてその妙な空間のことをこの教会の本屋の空間に接して思い出した。 

二日の日程を終え、帰宅前の夕食にはそんな広場に面したテラスでブリュッセル気分になり鍋一杯のムール貝の白ワイン蒸しを食べた。 来年も招待があればまた来る事になるのだろう。

 
ウィキペディア、マーストリヒトの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%88
上記日本語ウィキぺディアの記載は今だ乏しいものの左端の英語、オランダ語のスイッチを辿るにしたがって豊かなものとなり写真を含め情報が得られる。

車の後輪が突然パンクした

2008年09月06日 02時32分43秒 | 日常
2008年9月5日(金)

木曜の午後、いつものようにスーパーで買い物をしようと地区の住宅地の路地を走っていて通過する車の速度を路上の高低で自動的に落とすために10cmほど歩道を盛り上げてある部分をゆっくり乗り越そうとしたら突然ガツンというような反動があった。 それまで前を普通にずっと見ていて別段障害物も在った訳ではないし猫か犬が突然横切ったこともなく変だなと思いながらも停めようと思っても両側には駐車した車で一杯だし後続の車も何台かあるので直ぐには停められる気配でもなくそのまましばらく走った。 何かボソボソというかそんなタイヤの音がしている。

スーパーまでは500mほどの処にたどり着きあとはスーパーの駐車場に入れればかなりスペースがあるからゆったりと予備の車輪と取り替えができるし対処できる。 上手くいかない場合はそこからガレージにも連絡して待ち時間中にショッピングセンターをぶらぶらしていればいいと踏んでいたのだが、そこで急にハンドルに衝撃が来だしてガタガタと金属まで地面と擦れる音が激しくなった。 空気がなくなりタイヤが完全にペシャンコとなり金属の枠がほぼ直接に地面と接しているのだ。 そこで仕方なく最寄の交差点で右折して幸いなことに一箇所だけ空いていた駐車スペースにガラガラいう車を滑り込ませた。 それに先ほどから雷を伴った激しい雨も降り始めていた。

外に出て確かめて見ると予想道理完全に右側後輪がぺシャンコになっていた。 10分ほど雨が小止みになるまで車内でFM放送のジャズを聞いていてそのうち雨脚が緩くなったので外に出てステーションワゴンの荷物を納めるところの床を挙げて予備のタイヤと工具を出してジャッキで車輪を持ち上げ車輪の保護か装飾かしらないけれどタイヤと車軸を繋ぐ4つのネジに被せてあるプラスチック製のカバーを取り外そうとしたのだが上手くいかない。

この20年以上これまで自分の車をいくつか持ち、何回もパンク修理でタイヤの取替えをしているのだがこの車に関しては記憶がない。 はて、どうだったんだろうかとこの6年か8年ほどの記憶を辿っているのだがあいまいだ。 どの車も同じようなので記憶が混乱するのかはっきりしない。 大体しょっちゅうこういうことをするわけではない。 それに前回が何処でだったかも記憶がない。 金属の棒の尖った方をプラスチックカバーの隙間に入れて奥に微かにみえる車輪の内側にめぐらせてある針金の円とプラスチックの小片のつなぎ目の辺りを押したり少しひっぱり上げたりするのだが上手くいかない。 ダッシュボードを開けてプジョー406ブレーク、ステーションワゴンの分厚い説明書を見るのだがこのホイールカバーの外し方が書いてない。

ここまででもう20分は経過している。 いや、もっとだ。 雨と雷を凌いでいる約10分をいれれば30分以上か。 いらいらしてどうせプラスチックだから割れたものは接着剤で貼り付けるなり、もしそれがだめならどこかから中古のものを捜してくればいいと無理に力を入れてこじ開けたら簡単に開いた。 しかし、こういう風に開くとは予想もつかなかった。 これぐらいの力ならすでにここで出しているはずなのに。 それでは今までは少しこれに足りなかったのか、それとも、、、、、、。  まあいい、新しいにせよ中古にせよ次のを捜す手間が省けた。 

それから10分ほどで予備のタイヤを履かせたのだが今度はこのキャップがこれに装着できない。 予備は予備でも本当の予備で最高時速80kmしかこれで走れないようなしろもの、本当の予備タイヤである。 どうしてちゃんとしたものを入れておかないのか。 もしそうすると今度はパンクしたものをここに入れておきそのうちそれを忘れてしまい次にパンクしたときにパニックにおちいるからそれを防ぐためになのか。 そんな馬鹿がいるのだろうか。 私なら忘れそうだから、理由もないではないなと納得してそろそろと車を走らせ家に戻った。 既にいくら近くでももう車修理に、いや、タイヤ修理にガレージにもって行ける時間はとっくに過ぎている。 明日の早朝持って行かねばならない。

買い物を済ませベトナムから空輸されスーパーに並んだなんとかいう白身の淡水魚の開いたものにパン粉をつけてバターとオリーブ・オイルで熱くした中に両方4分ほど焼いたものにジャガイモの茹でたもの、ホウレン草のクリーム煮で二人の夕食にしてそのあと義姉の誕生日のパーティーに出かけた。 20kmほど離れた義姉とその夫の住む町までソロソロと車を走らせ出かけて戻ってきた。

 

アムステルダムのフェリーボート

2008年09月04日 12時57分57秒 | 日常
ジャスのコンサートに出かけるのにアムステルダム中央駅の裏側から出て700mほど川沿い、というか運河沿いにコンサートホールまでまっすぐ歩き始めるのだが、先日は少し時間があったし家で食事をしてこなかったので駅の構内の小さなスーパーでサンドイッチとビールを買って駅前にあるフェリーの渡し場のところで食べながら夕方7時のフェリーを眺めていた。

多分1000mもないほどの川幅なのだろうかフェリーは頻繁に行き来する。それぞれ行き先の違う4隻ほどが並んで5分ほど客を待ってすぐに出発する。 そしてそのなかの対岸に向かうフェリーでは15分か20分も待っていたら先ほど行ったものが戻ってくる。 アムステルダムの街はこの運河の北側にも続いておりそこには車やバスでアクセスするためのトンネルもあるものの多くの人たちはこのフェリーを利用している。 そのうえ交通のかなりの部分を自転車がまかなうこの国では自転車でそのままフェリーに入る人たちも沢山みえる。 

ちょっと距離を置いて眺めているから細かいところは見えないのだがフェリーが着きハッチが開くと自転車、徒歩の客が開いて平らになったハッチの上を乗り越して陸に降りてその後、待っていた人や自転車が入ってくる、という普通の仕組みなのだが乗車券やパスを検査している風はないのだ。 そのあたりに検問もないし何かカードか切符、パスを差し込んでチェックする器具もない。 100人程度がどっと乗船してきて直ぐに陸を離れ5分かそこらで対岸に着き反対側のハッチを開けて上陸、というのだが水の上で誰かがいちいち検札をするというような時間もないだろう。 向こう側にそういう検問所のようなものがあるのだろうか。

多分ないような気がする。 時々は抜き打ち検査をするとして普通はそういうものがないのかもしれない。 それは市電のシステムに似ている。 バスは乗車口は前にあり運転手が車掌の役をしていちいち検札をすることになっているし、この何年かは市電でも前よりも頻繁に検札が行われるようなのだがこのフェリーの仕組みはどうなのだろうか。

サンドイッチもビールも済ませ時計を見ると対岸へ向かうフェリーが出たところで次のに乗って対岸に行き再度ここに戻ってくるまで今からは40分ほどはかかるだろうしコンサートが始まるまでには戻ってこられないだろうから対岸で検札の仕組みがあるのかないのか確かめるのを諦めて陸を水辺に沿って歩き始めた。 自分はこのフェリーに乗ることはあるのかどうか、たぶんないだろうと思う。


久しぶりに殴り合いの喧嘩を見た

2008年09月03日 09時52分34秒 | 日常
ことしの4月15日に、誰がこんなジョークを?ということを書いた

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/53762607.html


昨晩、12時を少し周って感動的なジャズ・ヴォーカルのコンサートのあとホールを出て400mほど直進して様々な遊覧船が舫う波止場と市電の間をアムステルダム中央駅に向かってあるいていた。 幸いなことに雨は降らなかったものの重苦しい天気だった。 70-80mほど先で四人の若者が何か陽気に叫んでいるし動き回っているのが小さく見えたのだが徐々にそこに近づいていくに従って何か様子がただならない。 遠目にはその服装や体格から北アフリカ系、多分モロッコ人かモロッコ系オランダ人の4人組のように見え、陽気に騒いでいると見えたのは口論しているところだった。 小粋なスクーターも歩道に停めてある。 やがて一人が叫び声を上げ二人はつかみ合いの喧嘩となったのだが後の二人はそこから3mほど離れて様子をみている。

その頃にはわたしは上記のポールのところに差し掛かっていた。 夜だから今だ残る白い人型は薄っすらとしか見えず喧嘩の場はそこから5,6mのところとなっている。 私は彼らの何か言う言葉に興味がありそこに立って眺めていた。 小柄な方が何があったのか盛んに少し大きいほうに喰いかかりそのうち拳を振り上げてむやみやたらと殴りかかったのだがあまり効果がなく、そのうち大きいほうも頭に血が昇ったのか小さい方に殴りかかり、こちらの方は少々こういう拳を使っての喧嘩に経験があるのかむやみに振り回すものの時々ガツンという音が聞こえるほどこめかみやアゴの横にヒットしているものの小さいほうは興奮で痛さを感じないのかモロッコの現地語のような言葉に混じってオランダ語で罵倒の単語が混じるからそこだけはここでの状況から友好的ではないことが分る。

四人とも二十歳前後にみえるのだが立って眺めている二人に緊張感が全く感じられないので身内の喧嘩だろうと推測した。 そのうち大きいほうが小さいほうを私の方に突き倒し二人は立てかけてあるスクータを倒しながら崩れたのだがその弾みに三角形のかなり大きな座席が開いてそこから中にしまってあった工具が地面に散らばったのだが二人がスクーターごと横転した段階で立っていた二人が介入して一人は大きいほうを起こして数メートル後ろに離して何か言いい納めようとしているところに小さいほうが工具のなかからスパナを右手に大きいほうに殴りかかろうとしたのだがもう一人がこれを後ろから羽交い絞めにして止めている。 

スクーターから3mぐらいのところに立っていた私はその場を離れ200mほど離れたアムステルダム中央駅の裏側に向かうのだがもう後ろを見ない私の何メートルか前に離れて起こったことを見ていた中年婦人や学生風の二人連れがもう収まったとみたのか喧嘩の現場の方向に自転車を漕ぎ始めた。

これ程の近くで殴り合いの喧嘩を見たのは久しぶりだ。 20年ぐらい前には北の町に住んでいた頃ある男と殴り合いをしたことがあり、それが自分がかかわった最近のことだ。 20年前だ。 その時は4,5発殴りあったがその時は何ともなかったが後で顔が腫れズキズキ痛み、肩かどこかにアザが出来ており鈍痛があったのだが、その時は誰かに止められて勝負がつかず中途半端に終わった。 もう二度とその男と会う機会はないだろうし、もし会っていてもお互いに外観からは分らないものと思うけれどもしもその男だと分ったらアッパカーットを一発喰らわしてやる。

人が殴りあうのを見たのは18年ほど前か。 以前住んでいた街の通りには怪しい人たちも住んでいて彼らは普段は気はいいのだが警察にマークされている者が何人かいてそれが何かのとき表の通りで殴り合いの喧嘩をしていたのだがどういう風に収まったのかは覚えていない。

昨夜の光景を徐々に近づきながら観察していて殺し合いにはなるような気配ではなかったし、外に立つ二人の雰囲気を観察してすこし様子を見ていようという気になったのだ。 それに、私が近くに立って見ていても誰も私には気にも留めず自分達のことに没頭している風だった。 彼らの常だから小さなナイフも持っているはずなのにそれを使わず、力では負かされていた方がスパナを持ち出したところでの介入の仕方で大怪我にはなるようなことはないと思った。

こういうのはごく日常的に世界のあちこちで起こっていることであり、突発性で計画性もなくましてや初めから相手を殺そうというにも見えない。 自分と類似の相手に対する怒りの爆発であり陰惨なものではない。 言うのも可笑しいが比較的健康な喧嘩とも言えるのではないか。

今、日本で多く報道されているような、親、祖父母、子供を刺し殺す、というようなことはこちらでは心中事件ぐらいだろうか。 普通の若者や高校生が包丁で年の離れた比較的弱者を刺殺するというようなことはあまり見られない。 相手を押さえつけるなりぐったりさせるなりして自分の優位を示しそれで自分の主張を通すということでそこでは頭のどこかに相手を死に至らしめないというブレーキがかかっているのではないか。 それはそういう回路の中では殺しても相手に自分の正当性なり優位を徹底的に示せない、ということがあるかもしれないし、人を殺して10年ほど自分の人生を監獄で過ごしたくない、ということも知悉しているのだろう。

ポークチョップ、茹で玉蜀黍、ジャガイモ炒め

2008年09月03日 05時23分48秒 | 喰う
家人と二人だけの夕食となると残り物が多くなる。

残り物といっても元々が二人分のものだったから四人分の時の残り物とは量が違う。 従って少量の残り物が幾つか冷蔵庫にあったり中途半端な量の食材が見られる、と言った具合だ。

どこから見つけてきたのか、多分いつだったか買っておいたポークチョップの切れが2つ冷凍庫の奥にあったのだろう。 それに2,3日前に茹でたジャガイモの残りがあったからこれで決まりだ。

ニガ瓜、長ネギ、パプリカの屑と一緒に炒めてそこにゴンゾーラチーズを加え蓋をした。

町の八百屋で新鮮な玉蜀黍があったのだそうだ。 それを一つ買ってきて二つに切って茹でた。 とても甘く柔らかくて我が家の今年の玉蜀黍の初物だ。 

Mark Murphy & Trio Rob van Bavel

2008年09月02日 11時07分55秒 | ジャズ
Mark Murphy & Trio Rob van Bavel

Mo. 1 Sep. 08 at BIMHUIS in Amsterdam

Mark Murphy (Vo)
Rob van Bavel (p)
Clemens van der Veen (b)
Chris "Backshot" Strik (ds)

1st Set
1) Red Clay
2) Easy Being Green
3) Body & Soul
4) So??in Blues
5) Get Out Of Town
6) I Can't Concentrate On You
7)
8) I,ve Got You Under My Skin

2nd Set
9) Just In Time
10) It Never Entered My Mind
11) All Of You
12) I'm Through With Love
13) Stolen Moment
14) Blues ?

Encore
(It's) Late Now

この何年か通うアムステルダム中央駅近く、ミュージックセンターにある新BIMHUISなのだが新年度の初日から開幕時間が8時半となり半時間早くなった。 それに伴って、といっても直接時間には関係ないのだが料金システムが変わったのだそうだ。 無制限年間パスを持つものには今までは誠に楽なシステム、つまり一ヶ月ほど前にプログラムが届け好みのコンサートを電話であらかじめ知らせておけばそれで予約ができて当日券を求める長蛇の列が通路を塞いでいてもそれを横目に入り口でチェックされてすぐ入れたものがこれからは或るコンサートに関しては追加料金が要り、それにはいくら年間チケット保有者から予約が予め入っていても追加料金を払うために列に加わらねばならぬのだという。 それを会場の最前列正面にカメラマンたちに並んですわるなり彼らがぶつぶつ言うのを聞いた。 それで今入ってきたときにはそういうことはなかったぞと言えば、ワシらは前年度かパスを持っているからまだ猶予があるんだが9月の新年度からのパスの制度のせいなのだという。 そうすると私の場合来年の2月から列に入らねばならないのか、やれやれ、、、、。 と、いっているとひとりが、でもこうい新システムは客の入るコンサートだけでそういうときには普通以上に混雑混乱するからそのうち文句が出て立ち切れになるにちがいない、結局、年間チケットの料金を少し上げればいいものをあいつらはオランダ文科省の補助金が削られたことで虚が来てるんだ、とも別のものがいう。

ジャズには客が入らないのだ。 たとえこの日の世界のジャズ・男性ヴォーカルの歴史を生きる最良質アーティストで新年度の杮落としの舞台といえども200人弱しか入っていないのだ。 それは新料金値上げの所為だというものがいるし、上がって普通は約2000円、需要が多く世界中で知られたジャズメンは一律2500円がこの態なのだ。  自分の肉体や創造性を用いずただLPやCDを流すだけの人の褌で相撲をとるような、スタジアムに数万人を収容してそれを「コンサート」なり「パーティー」などという催しに6000円も8000円も払うミュージックシーンもある状況なのだ。 ジャズといってもこの手の音楽の侵食が近年著しい。 そして、こう書くのも所詮、曳かれ者の小唄なのだ。

特にそのように思うのは今日のコンサートの性格からみて際立つからでもある。 音楽の創造性、というにはそこに多くの要素が絡むのだが、ジャズの、その特徴である即興性とそれぞれ演者の相互作用から醸し出される空間は、特にヴォーカルが中心であればそれは演じるほうにしても聴く方にしてもかなり複雑なものとなる。 ジャズ・ヴォーカルといってもスタンダードをただ幾分かの自分流の解釈で歌う歌手がジャズヴォーカルだろいうものが数多ある中でスキャットだけでなくテキストを含めたインプロヴィゼーションを果敢に試みるアーティストはすくないし、歌手にとっての創造性とは発声形態とテキストを縦横に操作しての結果ということになるだろう。

32年生まれで彼の30前にはすでにジャズの前衛として評価されそれ以来半世紀その音楽性を広げてきたジャズ・ヴォーカリストである。 私は70年代の初めにマーフィーを聴いて以来80年から2000年以後まで20年年以上の完全なジャズから離れた時期を経てこの数年で又ジャズに戻っているあいだにこの人のことは物故したものだという愚かな誤解をしていて、現代中堅ジャズ・男性ヴォーカルのトップ、Kurt Elling を聴いているときに明らかにEllingはMurphyの遺髪(衣鉢)を継ぐものだと聞き比べようとしたときに自分の浅はかさに気が付いたのだ。 衣鉢は明らかに継いでいるものの髪はまだMurphyの頭にふさふさと靡いていたのだ。 ことにこの2,3年の Once To Every Heart (05), Love is What Stays (07)では彼の枯れて光彩を放つ録音にMurphyの精進を喜んだ。

会場に足を運ぶ前に幾つか想うことがあった。 Rob van Bavel Trio はそれまでに何回かThe Jazzorchestra of the Concertgebouwの常任バシストである Frans van der Geestが弾いたのを聴いているが今回のバシストは彼の兄弟が皆ジャズメンであるその末弟であり彼は経験はあるもののまだ幼さが残っていそうなVan der Veenであるし、エネルギーに起爆力は事欠かない熱血漢のドラマーがバラードや変速テンポのスローなところが勝負処でもあるMurphyとどのようにかかわれるか、という点に興味があった。

ロッテルダムのコンセルバトワールでも長く教鞭を取るこのピアニストはその技巧、解釈、では我々をいつも驚かせてくれ、トリオではこの日には使用しなかったもののフェンダーローズのような70年代の楽器にも優れた指使いを披露する安心してヴォーカリストのバックをまかせられるピアニストである。 特にMurphyのようなインプロヴィゼーション、即興性、モダンジャズの歴史を体現するヴォーカリストに対するにはオランダでは最適であろう。 私は今回のツアーでは演奏地の国でそれぞれ地元のピアノトリオをバックにするのだと思っていたが演奏終了後このピアニストと立ち話をしていてこの前夜はベルギーで、明日の宵はパリで、そのあとはベルリンで、、というようなことを聞かされ、このトリオがMurphyの今回のヨーロッパツアーのセットだと理解した。 

ただ単にスタンダードや自作のものを楽譜の枠で行うものであればそれぞれ地元のコンボを従えればいいのだろうが齢70の半ばも越せば長く彼の軌跡を追ってきた聴衆と自分に納得させうるような様々な「からくり」を仕掛ける必要もでてくるだろうしそれぞれ演者との交歓にも進歩と新鮮さを保つうえで10日なり2週間のユニットが必要ということなのだろう。 

ヴォーカリストの口から2mも離れていない正面に座り肉声に触れたいと思ったのだがそれは第二セットのピアノとのデュオや曲の間に興味ある体験談やジョーク、曲に繋げる説明などの折に届くものだったのだが声量、エネルギーとも横溢したEllingの場合にはこの場所で充分だったものがやはり70半ばを越したものにはCDの質をここで求めるのは無茶だということを悟った。 しかし、それではここから2つぐらい後ろの列に位地していれば音のバランスは良いはずかといえばそれならCDの方がいいに決まっている。 ライブなのだ。 興が乗りそのあまりかがみこみ深遠を覗く視線が自分に注がれる距離でマイクを操作して音の振動を作りだし、特に高音で長く尾をひかせるときには彼がもうやらないと後ほど語っていたマスタークラスでその70半ばを越して往年の咽喉を保ちうる証拠を見せている場に立ち会ったような気になる。

登場は誠に緩やかで今では70の半ばを超えても軽々と歩く人もいるがピアニストに付き添われて手を貸されはしないがそれに似た登場であり最晩年のミンガスでも今のMurphyよりは動きがあったように思う。 けれどそれは一旦音楽になれば一転してそれに引き込まれるのはミンガスや他のジャズメンと共通する。 ジャズはもしくは職人、芸術家は自分の領分で働くときには年齢はない。

選曲にはMurphyの即興性も加わるのだろう。 譜面台に載せられた自筆のプログラムとは必ずしも同じではなかった。 第一セットはそのままであってあったものの第二セットでは第一セットに続いてMurphyのその都度の指示が飛ぶ。 音だけではなく彼が発するテキストとその即興性に反応せよとピアノに、ドラムスに指示し完全な統率を要求する場面もあり、そうしてその結果、上手く流れていた曲の最後で統率された不協和音の一瞬のひらめきで観客を驚かせることで嬉しいウイットを見せる場面もある。 

詩人というのはテキストが命であるのだが本来は生身の体から出された肉体性、その抑揚、方言の地方性の強度、元のテキストから離れたその場に憑依した言の葉、にも実験性を加味するのがビートニク以降なのでありジャズ・インプロヴィゼーション・ヴォーカリストには音楽性がその上に被さる。 この地上から絶滅の危機に曝されている種であるのだろう。  だから曲の合間に会場のあちこちに散らばった20歳をいくつか越したかというヨーロッパ各地から学びに来ている学生達へのメッセージとして例えばコール。ポーターを巡るその音楽性、果たしてポーターのような地位も名誉も財産にも恵まれたものが何故こういうような曲をつくるのか、そしてそれがビートルズが出てくるまで世界で最も聴かれていたというポーターのソングブックを一掴み披露する中で語る, ある意味ではThe Winner Takes Allの仮借ない世界の産物かと自分が意図してかどうか自分のも問う疑問を呈するのである。

1)ではミディアムテンポで流し、スキャットを多用し自分の音声調整がてらのスタートなのだろうがピアノ、ベース、ドラムスと各自のソロでウォーミングアップなのだがそこでは統括者として最後の一音まで従えるというものでこの夜のコンサートがこのグループで2度目だとはいえバックがこのヴォーカリスト、リーダーに対応するのに神経を360度張り詰めている様子が窺えた。 それは2)まで続く。 4)ではガレスピーのマンテカのリズムセクション仕様で始まりブルースを歌う間奏ではピアノの前衛性が光りコルトレーン以降のピアノが聴かれ、今だそれが効果的なピアノの現在性を提示して喜ばしい。 これはピアノとのデュオの3)、6)、Encoreで顕著でありVan Bavelの資質を開陳するところでもある。

ヴォーカル抜きのピアノトリオは第二セット初めの9)のみであるがここではこの三者、自己の技能、解釈の開陳の場として火花を飛ばす勢いなのだがこれがヴォーカルのないときの鬼のいぬ間の洗濯と聞こえるのは愉快だった。 14)では譜面台に置かれたプリントアウト紙に細かく印刷されたジャズの変遷とアネクドートを交えた長い詩、テキストを含むのだがそこまでの導入部にこの日の新しい詞が加わりまさにこの詩が有機的に語られ歌われていた。 

演奏会後一旦観客が帰宅の途に着きかける時に下の楽屋にに降り、暫し休憩してから再び舞台に戻り、サインを求める新旧のファンや音大生たちに混じって現在オランダポップス・ジャズで大人気の二十歳をいくつ越したかというWouter Hamelが私の横で彼の祖父の年代でもある老ヴォーカリストにおずおずと語りかけるのを見るのは微笑ましかったのだがもとその祖父然としたこの日のヴォーカリストからマスタークラスの教授を受けて今は日本は言うに及ばずアメリカでもチャートの上位に食い込んだ若者の肩を老ヴォーカリストが抱き寄せその後の話を聞きにゆったりとバーの方に向かうのだった。 Hamelは日本の若者には魅力的だろうと思わせる仕草であまりの忙しさにゆっくり日本各地を見ることが出来なかったことを悔やみながらも他のジャズメンたちが言うように日本のショービジネスの洗練さに感激していたのだった。

スカンジナビアから来て何年か前に教授してくれたようにマスタークラスを再度このヴォーカリストに要請する若い女性ヴォーカリストの卵にはもう教壇に立つことはないだろうと答えていたもののCD音源を残すというところではまだまだそのエネルギーは充分横溢しているとみえたしこの数年のCDからはまだそれが期待できるという充分な手ごたえはあると思う。