暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

2011年度オランダ新生児命名トップ10

2012年01月21日 23時05分14秒 | 日常


新聞を読んでいると2011年度のオランダでの新生児の命名トップ10が出ていたのでそれを見てみると、伝統的な男の名前、 Jan(ヤン)や Willem(ヴィレム)はもう見られないものの、それでも自分の身内や知人にある名前が並んでいて新奇なものは殆んどなく、あまり聞いたことのないのは男では Jayden(イェイデン)、Stijn(ステイン)、女では Lieke(リーケ)ぐらいだろうか。 

男と女を比べてみると女の方が上位3位ぐらいまではごく普通にどの世代に亘っても見かける名前で特にトレンディーな、ということはないように思う。

人種が様々なオランダであるから西欧各国またはキリスト教、ギリシャ神話などに由来する名前も多く、名前を自分で創りだすということが少ないからこうなるのだろうか。 それは日本の場合と比べてそうだといえることだろうと思う。

ネットで調べたら日本のトップ10は以下のようになっていた。


   男     女

  大翔     陽菜
  蓮      結愛
  颯太     結衣
  樹      杏
  大和     莉子
  陽翔     美羽
  陸斗     結菜
  太一     心愛
  海翔     愛菜
  蒼空     美咲
  翼

自分の年代では00夫、xx雄、xx男、00子などが普通だったのが男ではこれらはもう全く見られず、女でも少数派になっている。 莉子が5位に入っているけれどこれも偶々で、あと90位ぐらいまではxx子は全く見られないからxx子というのもほぼ消えていると言っても過言ではないだろう。 それに、xx代というのも見受けられない。 今では男では「翔」、女では「結」が一応のトレンディー・ワードだろうか。嘗てのようなxx吉、xx衛門、xx助ももう時代劇のなかでしか聞かれない。

今日、家人と娘は年末に生まれた姪の娘を見にでかけたのだがその女の子の名前は Tess(テス)で、よく見かける名前だがベスト10には入っていない。 

10日大阪に帰省した、、、(3)墓参り

2012年01月21日 04時31分30秒 | 思い出すことども

市役所に用事があったので出かけ、そこに行ったついでに、ということもないのだがそこからは歩いても遠くない先祖の墓参りに行こうとポカポカとした陽射しのなかへ出た。 

ほんの小さな子供の頃、1950年代には市役所は町の中にあったのだが旧庁舎の老朽化と町自体の都市化で新しいものをかなり山側に移転するという計画が60年代の終わりにあったのだろう。 まだ小学校に上がるか上がらないかの1950年代の前半には、自分の家の畑が山のほうにあって祖父が畑仕事をするその周りで遊んでいた記憶がある。 人里離れた林と竹林、あとは草地でそこには野ウサギや雉がいた。 後年友達になった男の家はもう少し山側にあり、手に乗せると重さを感じないそんな大きな白いフクロウをペットにしていて餌の蛙をとるのに忙しかった、といっていたようなところだ。 畑からほんの少し行くと戦後に市が戦没者を慰霊するために丘と窪地に墓地公園を造り、その丘の上にはブランコや滑り台、シーソーがあり、そのふもとには墓が整然と並んでいて、たまには墓参りに来る人や家族連れはいるものの大抵はほとんどは誰もいなく静かだった。 広い公園の端にある畑からそのあたりを駆け回って遊んでいた。 

それが今回、今ではもうそうとは呼べない新庁舎からすこし上がったその公園の駐車場にある花屋で献花の束と線香を買いマッチをもらって滑り台のそばを昔の畑の方に歩いていくとそこは墓地が大きく拡張されていて自分がかつて遊んだ空間は茫と広がった墓石の群れの上でしかなく、それから想像してもこの市がこの半世紀以上に変化したことを知らされるのだった。 人はどこからか住みつくようになり、生活し、子供を産み、そしてそのうちに死ぬ。 その量がここに示されているようだ。 そこから少し降りると少しは平らになりもう一つの畑と新興宗教、日天教の小さな建物があった。 あるとき畑から溜池のそばにあるこの場所にくると何かを詠いながら赤い袴に白い着物をつけた巫女さん姿の何人かが長さ2mほどの帆掛け舟のようなものを引っ張って池に入っていくのに行き当たった。 その光景に異様なものを感じ慌てて池の堤を走って自分の村のほうに逃げていった記憶がある。 その中年女性たちの憑き物がついたような目つきと呟くように詠う祝詞が人気のない山と林の中に現れたのだから日常ではないその光景に畏怖とか恐怖を喚起するそんな雰囲気に圧倒されたのだろう。 

こういう宗教が伸びるときには信者からの寄付も増えるのだろう。 いまではそこは当時とは比べ物にならないくらい構えも大きくなり、寂れた様子は微塵もなく土地もきれいに整えられて大きな石像までも建てられている。 その裏に家の土地がありそこは1980年ごろまで農業調整区域とされ宅地許可が下りないところで家族ももてあましていたのか半分休耕田になったままで、新庁舎建設の計画が出たときには普段は狸や狐の遊び場所のような土地も徐々に開かれ宅地の許可もそのうちでるだろうからそこに家を建てて新庁舎に地方公務員として毎日片道5分ほど歩き通勤し、結婚しここで一生公務員として暮らす、というのが中学校をでて高校に入った頃の自分の人生設計図だった。 それは大学に入っても頭の隅に残っていたけれど世間が安保学園闘争で騒然としていた頃に二年浪人し、おまけにその後、親戚に頭を下げて一年間留年させてもらったものにはまともに就職が出来るとは思わなかったものの、コネの太さから家ではその設計図に修正が必要だとは疑うこともなく、それがオイルショックから市が企業の誘致を当て込んで造成した埋立地がぺんぺん草だけが誘致されそのためほぼ破産自治体となった市の職員採用が2,3年ストップされたことでこの設計図も反故となり、それでこれまでの重い錨が外されその後は行き当たりばったりの人生となったのだった。 そして当時、まさか自分が地球の反対側で住むことになるとは夢にも思わなかったしそうなりたいとも思ってはいなかった。

新興宗教の建物の傍を歩いていると犬に吼えられた。 そこを過ぎて池の堤を遠く神戸の方を眺めながら歩いていると老人が池の樋のハンドルにグリスを塗り込んでいるところに行き合わせそれを暫く眺めていて、そのうちその人と何となく話すこととなり、今まで話したこともないのに互いのことを知っているという小さい村特有の情報が交換され、先ほどまで会っていた駅前のサンドイッチパーラーの主人である高校の同級生の親戚であることまで分かった。 この時期、今は冬の渇水期でもあり12月ごろには大抵どこでも水を抜いて中にいる魚をとるような、地元では「雑魚(じゃこ)獲り」と呼んでいる行事をもう済ませているはずだ。 子供の頃にはここで泳いで昔は単純な木製だった樋にのぼり少々泥の臭いがする肌を乾かしたものだ。 子供たちがまだ小さい頃帰省した折にここで池の水面にあちこに点々と黒や赤の縞が動いているのが見え、それは業者が池の権利を買い取って金魚の養殖をしていたのだが、そのことを思い出し聞いてみると今はそれもなく、釣堀用の鮒の養殖だけだという。 水が一杯に張られているときにはそんな小魚を求めて白鷺が何十羽と群れていたものが今は向こうに見える松に蔽われた村人だけの墓地を囲む林の木に数羽見えるだけだ。 別の村に住む母の従弟はその村の池の権利を買い蓮根を栽培していたけれど池床が貧しいのか水質が適しないのかわが村の蓮根に比べてずいぶんと細いものしかできなかった、と母から聞かされたことがある。 小学校に入った頃そんな池の泥に膝ほどまで入って蓮根を引っ張ったこともあり、そんな成果は写真に残っているから覚えているけれど、そういう蓮根は法事の煮しめや揚げ物には欠かせないものだった。

高校生の頃、寺に村人が集まり一年に一度稲田に水を引く順番を決める会合に行かされた。 そのときにはもう専業農家も少なく嘗てのように一年の大事として緊張するようなこともない寄り合いで、殆んど儀式だけのようなものだったがそこでどういうことをしたのか殆んど記憶にないのは村の戸主たちが集まる場にただ独り青い子供がいて大人の集まりに出た緊張感と周りのことが分からずただ言われるままに座っていただけということがあるのだろう。 そのときには自分のためにつくられた高価な大島の着物を着せられて出かけたのだが、こんなものはいらぬ、こんなものを作る金があるのならもっと他に使えばいいのにと詰ると、この着物は家のもの、お前は偶々それを着ているだけだと言われ、しきたり、面子、世間の寄り合いの意味を知った。

そんな寄り合いも今はあるようなないようなものでこの池も60軒ほどの百姓が年間20万円ほどの水代をここに注ぐ川上の祖母の実家のある村に納めるだけだ、とその老人はいう。 数百メートル下にある池は建売や周りに建った家から汚水が流れ込んで使い物にならず養殖の権利も売れないと言い、それでもその下の畑には差し支えはないのかそんな水でも使っているとも言う。 私の手にある花を見て、おまえの爺さんなら寄り合いでそんなことを何とかしろと怒ったはずだ、と今77の叔父と同級生の兄を持つその72の男はタバコをふかせたあと胸まであるゴム長靴を脱ぎ、ぼちぼち昼飯の時間だと言い自転車に乗って村のほうに去った。

そこからすこし歩いて無縁仏と六地蔵が並んだ墓地の入り口に置かれたバケツと柄杓をとりバケツに水を湛えて墓の間を抜けて先祖の墓が並ぶところに来た。 古い花を一対の新しい花と取り換え水を注ぎ花を包んでいた新聞紙に火をつけてそれで線香を燃やし仕来り通り手で扇いで炎を消した。 祖父、祖母、叔父の眠る墓石と祖父が生まれた本家や親戚の墓、無縁仏の墓が集められたところにそれぞれ線香を何本かづつ供えた。 祖父は本家の六男で分家して一家を成し祖母が亡くなった59年前に墓石を建てた。 その斜め前に本家の古い墓がいくつかまとめられて方形のなかにある。 嘗てはそんないくつもの小さな古い墓は地面に直に3mほど横並びにあったものが今は2m四方、30cmほどの高さの御影石で区画されたなかに窮屈に押し込められたようにしてある。 それは20年ほど前に寺が村の旧家の古い墓石をできるだけ小さな区画に押し込め整理し、そのために出来た少々のスペースを新入者のために提供しようとしたためで、その後この墓地は昔の秩序がなくなりただ墓石が雑然と窮屈に集まっているだけの場所となった。 その折に母が我々の墓のために1m四方ほどの土地を祖父母の墓の隣に確保したのだが私が日本には戻らないと分かったときに自分の墓は要らないと言い、今生きているただ独りの叔父夫婦にそこを譲った。 本家の古い墓石に刻まれた没年を追うと、享保十七年(1732)、宝暦十一年(1760)、宝暦十三年(1762)、安永八年(1779)、天明八年(1788)と読み取れるがあとの幾つかは判別できない。 しかしこれらは1730年代からあとほぼ50年間のものであり、角川日本地名大辞典のうち大阪府地名大辞典、(平3初版)p857で見るとこのころにはこの村は幕府領として生産高を600石と伸ばしているようで、数十戸ほどの村からかなりはずれたところにある小さな森のこの墓地には充分すぎるほどの土地があっただろう。 室町期から戦国期にはこの村の名前が見られると辞典には出ているのだが一キロほど山側の村で友人がフクロウを飼っていたそのあたりのことは桓武天皇がそのあたりで熊狩りをしたと記録されているから記録の上では我が家の墓石からはまだ千年ほども遡るということをこの辞典で知って驚いた。 わが村の方が海に近く交通の便もよく歴代天皇が熊野詣の際には必ず通過した街道も海側に通っており、また二つの村の間には紀州藩の参勤交代の際使われた街道もあり、それが祖母の実家の村の近くでは溜池が四つ集まったところがあり、池の間の長い堤が街道だから行列はここを通過しなければならず、藩は退路を絶たれた襲撃を恐れて堤の両端の警護を怠らなかったと言われている。

この墓地も整地が行われた20年ほど前に様変わりした。 それまでは何百年にも亘り薄暗い森の中に墓石が家ごとに彼方此方にかたまってあり、そこに行く小道が続いていたものが今では立ち木が伐られ空が大きく現れ墓地の薄暗さが消えてあっけらかんとなった。 子供の頃は墓参りは薄気味の悪いものであり六地蔵がならんだ後ろには戦後市の火葬場ができるまで数百年使われていた村の焼場があった。 そのころにはもうそれは朽ちてはいたものの建物はまだ残っていて青年団の集まりのときに酒を飲んでは肝試しと称して闇の中をここに来て証拠のものを持ち帰るというようなことをしていたと叔父から聞いたことがある。 そこも整理のときに取り払われ今ではそのころに比べると7,8倍ほどの墓地になっている。

バケツと柄杓をもとのところに戻しだらだらと細い旧道をおりるとそのうち20年ほど前に出来た国道に出て信号のところにあるラーメン屋で餃子、焼き飯、ラーメンをビールで喰った。 店内には1950年代のブルーノートレーベルのバップジャズが流れていた。