NHK短歌9月号(まだ書店にあると思います)で、友人の錦見映理子さんが「えりこ日記」に「歌人たちの庭」というタイトルで、綿の花のことを書いてくれているように、数年前に錦見さんからもらった綿の種は子孫を増やし続け、今年も花が咲きました。
透き通った夏のお菓子のように繊細な白い花は、大きい葉っぱの影に隠れるように咲きます。だから、綿の花には毎回、「あ」と思わせられます。 玄関の引き戸をあけて外へでたときに、他の花たちとはすぐに目が合う(というのでしょうか)のに、ひととき遅れてから綿の花を「見つける」のです。
綿の花とは目が合ったことはありません。 こちらがいっぽうてきに見つけたり、気づいたりする感じです。 ちょっとシャイなところも綿の花の魅力なのかもしれません。私はどんな花より綿の花が好きなのです。
錦見さんのコラムを読んでから鹿児島へ行き、鹿児島から帰ったら、綿の実のひとつがはじけていて白い綿ができていました。 そうっと綿をはずしました。 たぶん、今年いちばん最初に咲いた花でしょう。 いちばん最初の綿を手にとるとふわふわでした。 白い花もいちごみたいな緑の実もそのあとはじけてでてくる白い綿も全部かわいい。
そして、私の読んでいる近藤芳美歌集『黒豹』のなかにも、綿の歌がありました。
・吾は今曠野の前哨月明に咲く綿の花思いねむらん
・銃を喪い綿野をさまよいゆく兵の吾が影ならず負い生くる過去
近藤芳美は戦時中、中国で戦った経験があるので、きっと広い広い綿の野で身をひそめたりさまよったりしたことがあるのかもしれません。美しい花の記憶は兵の記憶として繋がっていて、一生消えないものだったのでしょう。 そのあたりも少し調べてみたいと思っています。
あんなに美しい花が、苦しい記憶を呼び戻すものとして刻まれてしまったことひとつをとっても、戦争がどんなに人を不幸にするか、ということを感じざるを得ません。
綿の花をまっすぐに美しい花として見つめることのできる大切さを、この歌を読みながら思ったのでした。