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いつでも君のこと好きだったよ

日曜日は短歌の日 岡野大嗣『サイレンと犀』

2015-06-28 21:27:45 | 日記

 きょうは午前中(と言っても午後にまでかかってしまったのですが)、放置していた庭の手入れをしました。

 

 主に草ひき。 それから伸びてきたハゴロモジャスミンの蔓の剪定。 ミョウガを引き抜いて、すずらんの移植。 土や植物に触れていると、身体の欠けたり冷えたりしていた部分が修復されて行く気がします。

 

 午後は歌集からノートに歌を写していました。 1冊を読むスピードも遅いのに、付箋を貼った歌をまたノートに写すというのは、時間の無駄のように思えるかもしれませんが、その歌集や歌と少し近くなるように思います。 好きな歌ばかりのノートを持っている、そこに歌を書き加えていくということは、楽しいし、子供のころ、グリコのおまけを集めていたときと同じ気持ちでやっています。

 

 さて、きょうは岡野大嗣歌集『サイレンと犀』。 文字で読むとこのタイトルは「サイレン」と「犀」。 耳で聞くと「silent sigh」。 

 

 岡野さんの歌はものの見方に共感するところが多くて、一首一首を読みながら、あ、と何度も思いました。

 

 ・ぼくの背のほうへ電車は傾いて向かいの窓が空だけになる (『サイレンと犀』)

 

 電車が傾いて、向かいの窓が空だけ・・・ この逆の傾き方を詠った歌が『貿易風』の巻頭歌です。

 

 ・ああここは緑の土地だ飛行機が傾くときの窓に思えり (『貿易風』)

 

 私が見たのは飛行機が傾いたときの緑一色の窓。 ほかにも、

 

 ・とけかけのバニラアイスと思ったら夢中でへばっている犬だった(『サイレンと犀』)

 ・白くまの薄汚れているあの感じ貨車のひとつに雪は残りて (『白へ』)

 

 岡野さんはへばっている(しかも夢中で)犬を一瞬バニラアイスと思い、私は貨車に残った雪を白くま(しかも薄汚れている)と思った。 

岡野さんの歌から広がっている物語を、いろいろ想像したりして、少しずつ楽しみながら読みました。

 

 ・ハーモニカの端を吹くのはむずかしい隣の部屋がひとつ無いから

 ・完全に止まったはずの地下鉄がちょっと動いてみんなよろける

 ・開けるとき千切れた海苔を引き出してあるべき位置に貼るのも叡智

 

 よく目にしたり、経験したことのある小さな出来事がユーモアをまじえて巧く掬い取られています。 ユーモアだけでなく、読み終えたときに少し情けないような寂しい気持ちになるのが、共感できる歌だと思った理由のひとつかもしれません。

 

 「2」章のなかの歌には、友達や祖父への挽歌と思われる歌が入っていて、急にシリアスになります。

 

 ・プルトップまわりに埃めだちだす四十九日の友のコーヒー

 ・友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった

 ・将棋盤と駒はあるのに飛車好きの祖父だけいない祖父がいた部屋

 

 コーヒーのプルトップのまわりの埃、友達のメガネの指紋、飛車好きの祖父。 そういう、その人にしか見えないような、その人しか知らないようなものをひっそりと手渡されたような気持ちになります。 まさに、silent sigh が伝わってくるのです。

 

 ・もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい 

 

 これは誰もがいつもどこかで思っていることなのではないでしょうか。 ほとぼりが冷めたあたりで生き返れるなら、何度だって死んでみたい。と私は思います。 

 

 ・なぜ蟬はぼろぼろ死ぬのこんなにもスギ薬局のあふれる町で

 ・ベランダの蟬に触れたら思い出し笑いのように鳴いてから死ぬ

 ・うらがわのかなしみなんて知る由もないコインでも月でもないし

 ・念のため林檎も鞄に入れている果物ナイフ持ち歩くとき

 

 すぐ近くに溢れている「死」。 うらがわのかなしみ、念のために鞄に入れる林檎。 この歌では「入れている」という言葉が日常的に、とか継続的に、故意的にというニュアンスを醸し出していて、歌全体の用意周到な冷静な感じとは逆の追い詰められた心のようすが浮かび上がっています。たとえば、「入ってる」だったらたまたまこのあいだ入れたのがそのままになっていたかもしれなくて、全然緊迫感がなくなってしまいます。

 

 最後に好きだった相聞歌を。

 

 ・雨の日は雨の降らないストリートビューを歩いてきみの家まで

 ・会いたいなぁ 高架の下の自販機で買ったココアがまだあったかい

 ・きみという葡萄畑の夕暮れにたった一人の農夫でいたい

 

コメント
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