きのう、勉強会へ第一歌集『貿易風(トレードウィンド)』と第二歌集『白へ』を2冊ずつ持っていって、希望者にお渡ししたときのこと。
隣に座っていたYさんに
「第二歌集、いりますか?」 とお訊ねしたら、
「第二歌集って、あの、、犬の・・・?」 といわれて、
「あ、うん、犬の・・・本です」
と、答えたら、周りで聞いていた人が笑っていました。
このひとの歌って、どういう歌だったかなぁとぼんやり思い出してもらうときに、「犬のセブン」を思い出してもらえるというのはかなり嬉しいことです。
このあいだ葉ね文庫でお会いした人と話したときも、
「「小野さん」がおもしろいですね。 僕の近所には村上さんというひとがいて、その人が飼っていた犬のことを、村上さんって呼んでいたんです。 ブロック塀に前足をかけて頭を塀に載せて覗いていたのを思い出しました」
と、『白へ』の感想を言ってくださったのですが、一冊の中で「犬」が印象に残るというのはモチーフになった隣のテンちゃん(セブンではないのです)は、「俺のおかげだ」と威張っているかもしれません。
自分が飼っていたわけではなく、ときどき見かけたり、人生の時間のほんの少しだけ関わった犬、というのは結構多くの人の記憶の底のほうで埋もれているのではないでしょうか。
そういえば、私の近所にも犬がいたなぁとか、おばあちゃんちに行ったときだけ何度かなでてやった犬がいたなぁとか、そういう通り過ぎた犬たちが、浮かび上がって来るとしたら、それはすてきなことかもしれないなぁと思うのです。
いま、こうしておばあちゃんちの犬っていう言葉を書いたとき、ずっと前に亡くなった祖母が飼っていた「チロ」という細い白い犬がいたことを私は思い出しました。
「白」というインコの話もそうですが、誰の胸にもある通り過ぎていった生き物。たとえばカブトムシだってそうです、カニだってそう。 エサをやるときに蓋をあけたときの土の匂いとか、水槽にご飯粒を落とすときに嗅いだ水の匂い。
そういう、五感が覚えていることから、そのときの自分や周りにいた人のことが蘇ってきて、少し懐かしくなったりする一瞬があればいいなぁと思います。
私はそれが「本」だと思うのです。