ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

富本憲吉展

2007-03-10 | art/exhibit/museum

          

先月、国立新美術館に一緒に行った友人に、「富本憲吉展」とっても良かったから是非行ってくるといいわよ、と言われていました。そんな矢先、kちゃんから 「富本憲吉展、あるけど行くなら送る」 というメールを受け取ったのです。すごい!これぞ以心伝心というもの。で、今水曜日に行って参りました。
        
               
   水曜の夜はパソコン教室があり、目が疲れ過ぎたし、木曜日は仕事のあと、娘と 
   日本橋Tで待ち合わせて結婚式用の靴探しに付き合いました。さらに銀座Mまで
   見に行き、その日はパソコンどころではなくなったのです。そして昨夜は・・・パソコン
   に向かって少し作業を始めていた頃にパパが帰宅。次に息子。そして最後に娘。
   金曜日なのに全員家食でした。夜半近くから、娘がこんどは何を着て行こうか、
   バックはどうしようか・・・・で、夜中の2時まで大騒ぎ。それに巻き込まれました。
   もう決めていると思っていたのに、ヤレヤレだぁ。大して持ってないので大変そうだけど。
   式と披露宴と二次会に出席なので、着替えも必要だし、で、私が20代に着た服
   まで登場し、それにする!って言い出しました。それはミニスカだったので、式には合
   わないんじゃなぁい?と言いましたが、今朝、三着をカバンに詰め東京ドームホテル
   まで向かいました。向こうで決める、ですって。地方からやって来る学生時代の友達
   と一緒にこのホテルへの宿泊付きご招待だったんです。2次会は麻布。いいなぁ。
   来月も、こんどはわが町のブライトンで結婚式があるので、うぅっ・・お金がないよ~~
   と、頭をかかえていました。
   ・・・?? なんだか横道に逸れてしまいました。
 そうかぁ、アップできない理由を
   羅列しちゃいました。出来ない理由って、スラスラと沢山出て来るもんですね。
   ど~も、すんまへんでッす。

          
                    大和時代の憲吉の写真です。
                         男優もビックリじゃあないですか。

富本憲吉は1886年に奈良の安堵村という所に生まれ、去年が丁度生誕120年でした。
今回はその記念すべき展覧会にあたります。彼は陶芸家だとばかり思っていましたが、東京美術学校図案科では建築を専攻し、室内装飾を学んだとのこと。
卒業制作を早々と終わらせて、卒業前にはすでに、憧れのウィリアム・モリスのいるイギリスへ留学し、そこで図案や模様のスケッチを学び、さらにステンドグラス科にても学びました。
なぜ、陶芸を・・・?と思いましたが、それは全くの偶然の出会いによるものでした。
留学先から日本へ帰る船の中で、少年時代からの親友であるバーナード・リーチを訪ねるために日本に向かっている
という画家レジナルド・ターヴィー
と知り合いになったのです。

  そのときの出逢いが・・・という、相田みつをさんの言葉が頭をよぎります。

かねてからリーチの事を先輩などから聞いていて関心を抱いていた憲吉でした。ターヴィーのお陰でいち早くリーチに出逢い、深い交友関係を築いていく事になります。
リーチが楽焼に興味を持ち、六世尾形乾山に入門を乞う時は同行し、その後もリーチと師の間で言葉の問題が生じた時などには中に立ち手助けをしていたようです。そのようにしているうちに、自身も楽焼を体験する必要が生じ、乾山から持ち運び可能な楽窯を送ってもらったのが1913年、27才頃でした。
同年、津田青楓との二人展では、木版画、染織に加えて、もう楽焼を発表したといいます。

そのような稀有なきっかけで陶芸への道を歩み始めた彼は、陶芸家の弟子になるわけでもなく、いわゆる陶芸界とは一線を画し、全くの独学で独創的な境地を求めていったのです。

  1963年に他界するまでの約50年にわたる多彩な作陶活動は、
  「模様より模様を造る可らず」 という信念のもと、オリジナルな形と模様をひたすらに
  追求し、用と美の結合という工芸のあり方を求めて格闘した遍歴の軌跡でもあります。
  (パンフレット文中より抜粋)

       色絵金彩羊歯模様大飾壷                     染付「老樹」模様陶板

この展覧会は次の6つのセクションから成り立っていました。

     Ⅰ 東京美術学校から留学、帰国 1908~1912
     Ⅱ 大和時代 1913~1926
     Ⅲ 東京時代 1926~1946
     Ⅳ 京都時代 1946~1963
     Ⅴ 書、画巻、デザインの仕事
     Ⅵ 関係者との交流

東京時代、自宅の玄関脇の定家葛(ていかかずら)の5弁の花から展開された四弁花模様や、京都時代の4枚の葉を組み合わせた羊歯(シダ)模様は、特に代表的な模様ですが、すべて自然の中を歩きながらのスケッチから生み出されたもので、伝統的なものや、海外から入ってきた模様をアレンジするのではなく、独自の作品を作り上げることに全力を費やしたんですね。
どれもが興味深い素晴らしいものでしたが、ブログ序盤からすでに長すぎ、時間が掛かり過ぎましたので、ご興味のおありの方は是非web上や図書館などで、富本憲吉の軌跡や作品、書などをご覧下さい。

生活すべてが独創的で、彼の交友関係の幅の広いことに驚きます。私が知っている人だけでも挙げてみると、学生時代、マンドリン同好会で一緒だった藤田嗣治をはじめ、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎などはわかりますが、有島武郎(作家)、朝倉文夫(彫刻家)西村伊作(教育者・文化学院創立者)、水原秋桜子(俳人・医学博士)などなど。羽仁もと子も、自由学園一期生を引率して安堵村を訪れたといいます。
                      
       

Ⅵ 関係者との交流] の中では、、
  ①生涯親交を結んだ、バーナード・リーチ、
  ②中学校の恩師である水木要太郎、
  ③ロンドン在住の時に知り合ったという洋画家で、尾竹一枝と憲吉の結婚媒酌人を
   務めた白瀧幾之助、
等々に宛てた沢山の絵手紙も展示されてあり、それらの絵文字のなんと洒落た事!
日本語の字体も、アルファベットの字体も、とても味があると思いませんか?

   
          ①                ②               ③


   
        色絵紫四弁花模様飾筥                       「花」字皿と飾筥の絵

上の二点は、私の買い求めた絵葉書です。もう買うまいと思っていたのに、又、買ってしまいましたよ~。母と姉を誘って行って来たのですが、「やきものかぁ~」なんて言ってた人でも、見終わってみれば彼の作品の虜になっていました。手書き模様の施された器の美しいこと。小さな箸置き一つでさえ、手作りの温かみが感じられてとてもよかったなぁ~。成城学園卒業記念ブローチ(1932~44)は、缶バッチの大きさなのですが、素敵でした。卒業生たちはまだ居られるかしら。きっと自慢の卒業記念品だったでしょうね。

大満足して、遅いお昼をミュージアムレストランでいただきました。ここはお味は普通ですが、ガラス越しに見える眺めがとってもいいんですよ。あと少ししたら、一面桜のピンク色で覆われて華やかになるでしょう。
   

            kちゃん、招待券を有難うございました!

                                                   まだあるゾ! もういいかげんにしぃ・・・・!

 

         

 最後に美術館便りの表紙を飾っていたこの彫刻に心を奪われました。
  
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舟越保武 《その人》 1995年 + + + + +

数々の美しい女性像を作り続けた舟越保武は、1987年突然の脳梗塞で
右半身不随となりました。しかし入院中でも左手で少しずつデッサンをし、
彫刻制作も始めるようになります。「これが最後の作品でした。時間を惜しむように
取り組んでいました。」(2004年7月3日東京新聞「私のオアシス」道子夫人の言葉より)
死の直前まで製作し、2002年に永眠した舟越保武にとって、額にくっきりと十字を刻んだ
「その人」は、長い彫刻家人生をかけて獲得したひとつの結果だったのかもしれません。
(世田谷美術館"NEWS LETTER”より)
  

 

1963年、肺癌のため77歳の生涯を終えた富本憲吉の遺書には、
「墓不要。残された作品をわが墓と思われたし」と記されていたという。