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ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

秋の空とナポレオン

2006-09-27 | art/exhibit/museum

外出しようとして玄関のドアを開けたら、こんな空が目に
飛び込んできました。
興奮して家の中に引き返し、デジカメに収めましたが・・・
こんなじゃなくて もっともっと感動するような光景でした。
あれば、広角レンズで 180度のパノラマで撮りたかった程
ですが雲は捉えようがない気がします。

 

 9月23日

                               
                                                   
                          

          そしてあくる日。
          墓地公園にお参りに行った時には、昨日とは又、趣きの
          違う雲が空一面に広がっていました。ケータイばかりに視線を
          落としている息子に教えたら、「うゎ~~すご~い!」と、
          とても驚いた様子で、肩から力が抜けて、あたかも自然界と
          一体化したかのような穏やかな表情になっていました。
          自然の力ってすごい!
          「心が和むよね~ここに寝転がってずっと見ていたいね」と私。
          「えっ、墓地のなかで?それはちょっと・・」と息子。
          じゃぁ、新しくできた海の見える公園ならいいよね!

          でも雲はなかなかジッとしてくれないんです。家から墓地公園
          までと、お参りを終えて公園をあとにする時とでは又々様子が
          変わりました。

                 

                  
                  9月24日 墓地公園にて(東と西の空の2枚ともほぼ同じ時刻です)



25日の月曜日、会社に着いて入口の所から空を見上げたら、
↓こう来ました。
          

 
9月25日 我が職場の入口から


毎日くっついたり ちぎれたり、舞い上がったり吹き出したり、
自由自在に手を替え品を変え私を魅了する雲、
きっときっと、あなたにはストレスなんてなんにもないんだろうね、
雲よ!


そして昨日、今日と生憎の雨日和。    
雨の空でも撮ろうかぁと見上げましたが、ど~んよりと一面灰色の空。
や~めた・・



〈女心と秋の空〉 
女の男に対する愛情は、秋の空模様のように変わりやすいという事のようですが、
〈男心と秋の空〉が本来のかたちだそうです。ということは、男のが移り気なの?

わたしの心もちょっぴり秋めいてきましたよ~!こんな方の登場で。


                                   
                                            
                                         




            ジャン=アントワーヌ・ウードン 作         
              


     先日、ご近所のYYさんからお誘いを受け、千葉ポートサイドタワーまで
     「大ナポレオン展ー文化の光彩と精神の遺産ー」に行ってきました。
     ナポレオン・ボナパルトと言えば、世紀の政治的、軍事的な天才、
     とまでは知っていましたが、美術、芸術、諸学問などの文化面に
     於いても、これほどの関心と影響力のあった人だ、とは思いも寄りません
     でした。
     エジプト遠征の際には多くの学者や芸術家からなる「学術団」を同行
     させてエジプト文明の調査を行い、その成果を「エジプト誌」という膨大な
     記録に纏めたり、ヨーロッパ各地から運び込まれた美術品を収容してある
     ルーブル宮殿を美術館として一般市民に開放したり、地方の美術館の
     建設にも力を入れたと言います。ルーブル美術館は、そのころは
     ナポレオン美術館と呼ばれていたのですね。

     今回は絵画のほかに彫刻、工芸、遺品の数々、自筆の原稿に書籍と、
     幅広く展示してあり、彼の「皇帝」としての姿よりも、人としての魅力に
     触れる事ができた気がします。
     レジオン・ド・ヌール勲章は、1802年にナポレオンが創設した勲章です。
     「この勲章は、私の創った制度の中でも、生命力が強く、長く生き続けて
     いくであろう」と予見していたと言いますが、本当にその通りとなっていますね。

     
      イタリアの信教の自由を支持する直筆書簡         レジオン・ド・ヌール勲章

     彼の夢はヨーロッパを「一つの欧州」として、共通の政治、通貨、法制度を
     設けることだったようです。そしてその中心には最も美しい都市でなければ
     ならぬ、と考え、パリを首都にしたかったのです。ロシア遠征の敗北、そして
     ワーテルローの戦いを最後に、その夢は閉ざされました。
     流刑の地セント=ヘレナにて、1821年5月5日、51才のナポレオンは、
     「フランス・・・軍隊・・・軍の先頭へ」
     との言葉を残してその一生を閉じたそうです。

たくさんのナポレオン語録をのこしましたよね。
遠征の時でも、万に及ぶ書物とともに移動していたそうで、知的で聡明、勇敢、
かつ細やかな神経の持ち主であったのではないかと思います。
これを企画した東京富士美術館館長の以下の言葉に納得しました。

           それにしても、ナポレオンの人生は、
           一人の人間がどれほどの可能性に生きることが
           できるかを私たちに教えてくれる。
           同じ一生であるならば、「ロマン」ある人生を生き、
           なにか生きた証を残したいと思うのは、
           人として共通の思いではないだろうか。



             大ナポレオン展で購入した絵葉書とワイン 

            
            
 〈地球のひとまたぎに邪魔者現る〉                  
           


   YY さん、その節はお車つきでのお誘い有難うございました。    
        

                                

ジャック・ルーシェトリオ演奏する、サティーのグノシェンヌを聴きながら・・・雨の日もいいかも。

 

 

 

 


             

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八月を引きずって

2006-09-03 | art/exhibit/museum

・・・前回ブログのつづきです・・・

星野道夫さんの「星のような物語」を見に行ったのが「先月」のこととなってしまった。
26才のときにアラスカへ渡ってから約18年間のあいだ、
北極圏の生態を写真と文章で取材し続けた彼。


そのずっと前、7月某日の朝日新聞の 《be on Saturday・・・
愛の旅人》では
斎藤鑑三氏の文で星野さんと奥様の直子さんのことが取り上げられていた。
〈星野は不器用だけれど、ユーモアがあって、感受性の強い若者だった〉 という。
直子さんは17才年上でいつもジーンズ姿の彼を
全くの少年でした。」と振り返る。
アラスカでの取材旅行先から、いつも直子さんにたくさんのカードを書き送っていたが、
その中の文面の一つに、彼はこう書いている。
「自分が死ぬとき、写真集が何冊あったか、なんて、重要なことではないんだ。」


 

彼の写真を見ていると、アラスカへ行けば多くの動物の群れに出会えるんだと思ったが、
谷間の出口で夜を明かして待っていても、その群れに出会えないこともしばしばで、
物事がうまく運ばないとき、先住民は「風とカリブーの行方は誰も知らない。」と言うそうだ。
なんと詩的な表現だろう。 
「愛と旅人」の中で気にかかったこと、それは以下の文面だ。

・・・この壮大な旅を地球上に残せるかどうか、人間は最後の試験を受けさせられている。・・・
星野がそう記した「最後の試験」がいま、始まった。
地衣類を食べ、子育てをするこの一帯に、国家規模の油田開発計画が進む。
300人の村は石油会社の懐柔策で半数以上が賛成に回った。

これを読むに付け思い出されるのは星野さんのこのことば。

「人間の歴史はブレーキのないまま、ゴールの見えない霧の中を走り続けている。
だが、もし人間が、これからも存在し続けてゆこうとするのなら、もう一度、
そして命がけで、ぼくたちの神話をつくらなければならない時が来るかもしれない。」

今回の写真展では、動物達、特に親子の写真がほのぼのと心に残り、
頭脳を駆使して地球を支配しているかのように見える、人間として生まれてきた自分たちの
“無力さ”を感じざるを得なかった。
エンヤの「AMARANTINE」と言う曲が会場内に静かに流れ、星野さんが見つめていたはずの
大自然の中を、ともに歩んでいるような気持ちにしてくれる。

星野さんが遺した多くの大学ノートのなかに書き留められていた、メモ
この展覧会をさらに盛り上げた。きっと、来場者は彼のことばを各々の心のなかに
大切に収め、自分へのメッセージとして持ち帰られたのではないか、と思う。
私も、心にしまっておきたいそのいくつかを、自分のためにもここに載せて、
没後10年目の星野道夫さんのご冥福を心よりお祈りしたい。

 ★・‥…・・・★・‥…・・・★・‥…・・・★

  ・・・目の前にあるすべてのものの存在は、はるかな時をこえ、今、ここにある

  ・・・幸福を感じる時間とは、ありふれていて、
    
華々しさのないたまゆらのようなものだった。

  ・・・あわただしい、人間の日々の営みと並行して 
    もう一つの時間
が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。

  ・・・弱者は、守らなければならない者を持ったことにより、
    強者との立場を時として逆転させてしまう。

  ・・・たとえ親であっても、
    子供の心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。
    ただひとつできることは、
    いつまでも見守ってあげるということだけだ。
    その限界を知ったとき、
    なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。

  ・・・いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や
    泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、
    その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?
    写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり
    言葉で伝えたらいいのかな。

    その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・
    その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。

                     
                      


その後、8月19日より、朝日新聞の夕刊に 
アラスカきる・・・星野道夫が残した光》が、
5回の連載として掲載された。
〈時〉の人、という考えはしたくない。
彼があゆみ、感じた、地球へのやさしさと危惧とを
必死に次世代に伝えなければならない時なのではなかろうか。

★・‥…・・・★・‥…・・・★・‥…・・・★

 

「浅き川も深く渡れ」 

かれは小学校の卒業文集にこう書いた。

そして、亡くなるその年のお正月、取材で南東アラスカへ向かう途中の
アンカレッジ空港からかけた電話のなかでこう言った。

「今年のモットーは・・・こだわる生き方をするんだ

 

 ★・‥…・・・★・‥…・・・★・‥…・・・★

と、毎度のことながら、好きな人のことばや写真を沢山引用したmyブログとなりました。
弱い私はいつも誰かのことばに支えられて、奮起する、その繰り返しです。
こだわる生き方・・・今からでも遅くない?!

Ps. 前回ブログに写真を付け足しましたので、宜しかったら覗いてくださいね。

 

 



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プライス・コレクション

2006-08-13 | art/exhibit/museum

先週のことですが、プライスコレクション「若冲と江戸絵画展」に行って来ました。
仕事を一時間繰り上げ車をとあるスーパーの駐車場に置き東西線→日比谷線と
乗り継いだのでひどく歩かされました。なぜって、
日比谷線の上野駅は、美術館に行くにはとんでもなく遠いところなのです。
地下鉄で上野下車は久しぶりでしたのでうっかり忘れていました。
東京国立博物館・平成館がこれ又上野の森の一番奥に位置しているし、
夕方といっても西日の厳しい暑い日だったのに、日傘も車の中に置いてきちゃったし、
仕事のあとだから体もよれよれ。
でも、です。お昼に銀行への用事で町を歩いていた時、ハッとするような歩き方の
若い女性とすれ違った事を思い出しました。
彼女は上半身はまっすぐにシャンと伸ばし、腰から下を使って颯爽と歩いていたのです。
私もそれを真似し、眩いばかりの西日に向かって、ちょうどおへその辺りに力をいれて
足を前に、前に、と出して歩いてみました。ヘッヘ~~歩き方一つで元気が出るって
本当だぁ。なんだ坂こんな坂! なんだ道こんな道!
「太陽の下の18才」になった感じだわぁ bianca!スパーク

と、書き出しが長すぎて若冲はどうだったか、というと、実に見応えのある素晴らしい
コレクションでした。ジョー・プライス氏が、知名度に全く関係なく、自分の眼だけを信じて
収集した作品は、残念ながらどれも質が高く、洗練され、ユーモアセンスにも溢れた
もので、コレだけの数の江戸時代の絵画が海を渡って来ただなんてくやしぃ~です。
でも先日、朝日の「美の現在」という記事の中で、高階秀爾氏の書いていた以下の
文を読み、画家もすごいけど こういうコレクターが、日本の画家の作品の数々に眼を
見張り、愛情を持って収集したということで、ちょっと嬉しくなりました。

  ・・・・・・・・・・
  
収集家ジョー・プライスは、何らかの美術史的配慮に基づいて作品を選んで
  いるわけではない。自分に強く訴えてくる作品、心の琴線に触れる絵画を
  唯一の基準としてこれだけの充実したコレクションを築き上げたのである。
  プライス氏自身、絵画収集に志したのは、
  「ただ絵画から受ける眼の喜びが素晴らしかったから」だと述べている。
                                      ・・・・・・・・・・
 

    
       虎図(部分) 谷鵬       波浪飛燕図 岡本秋暉    猛虎図(部分) 伊藤若冲

作品数は109点。伊藤若沖を中心とし、酒井抱一、鈴木其一などの作品も
なかなかのものでした。会場は「正統派絵画」、「京の画家」「エキセントリック」
「江戸の画家」「江戸琳派」と、5つの章に分類。最後の部屋では、日本の絵画
というものが、時間と共に微妙に変化する自然光により、見え方も
変わっていくという事を、天井からの照明の変化、に代えて演出された中で、作品を
見ることが出来ました。

ネイビーさんもこの展覧会に行かれて「 が先か見るのが先か・・」と書いていましたが、
お言葉の意味が、よーく解りました。
と言っても私は夕方からの入場ですが、金曜日は8時まで開いているんですね。
午後5時から8時・・ということは、私も3時間居たってことでした。
見終わってから一階で缶コーヒーを一気飲みし、ソファーに座りながらパパに夕食の
指示メール。まもなく「了解」メールを受け取り、ホッ。

        

 

   追記:
   カメリアさんからのコメントで思い出しました。
   三の丸尚蔵館第40回展 「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」
   に於いても、若冲の作品と出会えま~す。三菱ビル前(丸ビルの隣)から、無料の
   丸の内シャトルバスに乗り、パレスホテルで下車すると近いです。
   第4期がとてもよかった、と聞いていたのに忘れていました。

    







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マイタウンのスケッチ展

2006-08-07 | art/exhibit/museum

        ◆

                                 

何年か前に中村氏参加のグループ展が同会場で開催された時に
見に行った事がありますが、
初めて氏の絵を拝見したのはどうも、M公民館の気がしてなりませんが?
悲しいかな、記憶が定かでなくなる症候群に襲われているbiancaです。

今回はこのスケッチ展をとても楽しみにしていました。
退職後に趣味として水彩画を描き始め、
遂にはマイタウンを百景 描き上げてしまった方。
そんなすごい方が、同じエレベーターを利用するご近所さんでもあるのです。

一枚一枚の絵にはコメントが添えられ、その内容が楽しくておかしくて、
普通の個展とはちょっと違う、とっても親しみの持てる展覧会でした。
ほぼ見終わったころに、ミセスナカムラがお茶を入れて下さり、
しばしお喋りに花が咲きました。

わが街が、こんなだったらいいなぁ・・・という、氏の想いが
ひしひしと伝わってくる、そして共感が広がる、そんな素敵なスケッチ展でした。
会期が終わってしまってからのUPで残念ですが、
連日、次から次へとひっきりなしの人の出入りだったようです。
つぎは「浦安花百景」となるのでしょうか?
次回も心待ちにしている大勢の中の一人で~す。

            我が団地の広報の表紙にも登場しました!

 

 

 

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神坂雪佳展

2006-06-05 | art/exhibit/museum


  SEKKA
        
KAMISAKA 
     

金曜日、仕事を終えた5時半過ぎに、日本橋高島屋へ
京琳派
 
神坂雪佳展 を見にに行って来ました。
雪佳と言う方は初めて知ったのですが、金魚の絵をカメリアさんブログで拝見した時、
絶対に見に行かなくちゃ、とピ~ンと来るものがあったのです。
金魚にSekkaだなんて、それも、京琳派・・・こりゃあ~
尋常じゃないゾ。
   
 
 

神坂雪佳(1866年~1942) 京都生まれ。
明治20年代に京都の工芸界の指導にあたっていた岸光景氏に師事し、図案家への
道を歩み始めます。明治34年(1901年)、スコットランドのグラスゴーで開催中の万博
視察と欧州各国の美術工芸の調査のためにヨーロッパを訪問。
あぁ、【新世紀】なんて聞くとゾクゾクしてきます。
だって欧州の名だたる画家、作曲家、作家がその辺りに勢ぞろいしているんですもの♪

雪佳は約半年に亘る訪欧で、そのころ全盛だったアール・ヌーボー様式をしっかりと
目にしていたのですが、それをなんと、「顧みるに値しない」と酷評し、
たいした感心を寄せなかったと言います。

「平安時代の流れを汲む琳派こそ
が日本固有の芸術的表現」

ゆるぎない確信を持てたのも、それまで歩んできた道、
そして自身の美的感覚に自信があったからだと思います。
信念ある人とは、私のようにあっちにも、こっちにも目が眩み~っていうんじゃないんです。
彼の作品を見ていると、絶対に西洋に引けを取らないセンスがあちこちで
光り輝いているのがわかります。絶対にヨーロッパには負けてたまるか、という
気負いも少なからず、あったのではないでしょうか。

図案集「蝶千種」の中の絵を見ていると、
森英恵さんを思い出してしまいます。
森さんも彼の図案集を見た事あるのかしら・・?なんともモダンで洗練されていますよね。

 

       
2001年春には、エルメスの季刊誌「ル・モンド・エルメス」の表紙に、日本人で
初めて彼の作品が採り上げられたのですって。
その年のテーマ「未知なる地球の美を求めて」をイメージする図版として選ばれ、
「琳派における最後の巨匠であり、近代デザインの先駆者である」と彼を紹介。
その抜群のセンスはどうも日本人よりも、外人の目に先に留まってしまったようですね。

       
日本では、京都の道具屋でたまたま雪佳の掛け軸を見かけた細見家の当主が、
彼の名前は知らなかったそうですが、ひと目で魅せられてコレクションするようになり、
掛け軸や屏風、画帳や漆器など多様な彼の作品が手元に集まった所で、渋谷にある
松涛美術館に持ちかけて、1981年秋に、雪佳展の開催が実現したそうです。
だから、雪佳の作品の多くが 
細見美術館蔵 となっているのですね。

        「吉野」

   「八つ橋」

                  「春の田面」 

雪佳は尾形光琳や本阿弥光悦をとても敬愛していたと言います。
特に光悦を理想の芸術家だと思っていたようで、光悦の移り住んだ芸術家村を想像し、
「光悦村」と題して描いています。
なぜかフォーゲラーやパウラの芸術家村を思い出してしまうんですよね~

時代も似たり寄ったりだし、やっぱり欧州の影響があるのか、芸術家の考える
ある種の類似性なのか・・。

「百々世草」の原画や、「紫陽花・蝶図卓被下絵」、「山姥の図」などの絵、そして
弟である漆芸家の祐吉との合作の硯箱・文庫も素晴らしいものでした。

雪佳の作品以外では、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、乾山等の作品も見られ、
何よりも見っけもの~と思ってしまったのは、中村芳中の「枝豆露草図屏風」でした。
絵がとってもユーモラスでセンス抜群!「たらし込み」という技法~ぼかしや滲みを
活かして描く~が決まっていました。

最終日は6月5日(月)・・Oh、なんと本日までなんですか。
 
     

 


お知らせ
個人の一都合によりしばらくブログをお休みいたします。
 皆様のホームページやブログは時々拝見させていただきますので、
 今後とも宜しくお願いします。


                 

 
   
               

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SETSUKO

2006-05-28 | art/exhibit/museum





金曜日のお昼休みに新○○駅近くを歩いていたら、ある会社の前でご覧のように
見事なバラを見つけました。やさしい白い八重のバラもありましたが、写真うつりが
イマイチでUPするのはやめました。イスと一緒に写っているのはスイトピー。

こんなお花の中に節子さんのパンフレットを置いたらお似合いでしょ。
日ごろ、知らず知らずの内に雑誌、新聞などでお目にかかっているこの方の暮らし
に興味を持ち、久しぶりに池袋西武まで行ってきました。

         

学生時代に日本で画家バルテュスと出会い、大学を中退して結婚への道を選んだ
節子さんは、バルテュスの薫陶を受け、自らも画家となり、活躍しています。
40年に及ぶスイスのグラン・シャレ
での生活の場で、いつも和服を着て生活されて
いる画家・・・という記事を読んだ時は、私とは全く関係ない世界の、高貴なお方
ぐらいに思っていました。でも、日本でも着物で毎日を過している人など今は皆無に
等しいのに、ヨーロッパの、日本とは全く異なった文化と生活スタイルを持つ国で、
朝から晩まで着物を着ている女性とは?
なんでだろぅ~?どんな方だろぅ~?と思っていたのです。
テレビ出演もあったようですが、私は残念ながら見ていません。

今回の「和の心展」では、約40点のグアッシュで描かれた絵画作品のほか、
節子さんのデザインした着物や、ゆかりの着物30点近くが、四季に合わせて
着付け、コーディネートされて展示してあります。

   着物の姿はどこの国でも親近感のある目礼を受けます。
   何よりも伝統を大切にしている心、説明のいらない感情の交流は、
   日本人である事を再認識させられる時でもあります。

コーナーごとに書かれたこのような文を読みながら、フ~ン、成る程ねぇ。
でも、着物は若い頃ちょっと着ただけだけ、今着れるものなんか持っていません。
振袖は、人に貸したりしているうちにシミだらけになっちゃったし、大好きだった
紬の着物は赤系色だし、小紋でさえピンク系で、すでに娘のもの。

節子さんのお母さまが着ていたという訪問着もあり、
  「美しかった母の立ち姿が思い出されます」 と、そこに書いてありました。(ウッ!)
  「娘時代から着ているべん柄縞の紬は、八掛を黒に変えて今も愛用」 
の所
では、アッ、そうかぁ・・・あの紬、着れるかもしれないな、そのアイディアいただき~
なんて思っても着物を着る心のゆとりが私にはどうも「ない」気がするんですよね。

      

節子さんはヨーロッパの社交界で、“蓮の花婦人”と謳われ、その優雅な着物姿が
絶えず注目を集めているそうです。
独身時代も大変恵まれた環境のなかにいらしたという事は、お母様や、おば様、
そして祖母様の着用された着物を見ただけでわかります。
着物の知識のない私にだっていいものは判りますよ~。持っていないだけですヮ。
祖母様の黒留袖の裾模様の刺繍がすばらしくて見惚れてしまいました。
こんな素敵な黒留袖なら、子供の結婚式に着てもイイかな~と!
隣村の家具屋で見つけた椅子に張るための生地とか、イカット文様の生地でも
気に入ってしまうと帯に仕立てて愛用してしまうほど、豊かな発想の節子さん。

そんな彼女の更なる魅力は「手仕事」です。
「娘へのプレゼントは自分がつくったものを」との思いが手仕事を始めた第一歩
だったといいます。最愛のご主人であるバルテュスへプレゼントしたベスト、
アップリケと刺繍を施したクッション、小物類、お人形、そして手作りの絵本。
アトリエにあるという手作りコーナーも再現され、どんな箱でもリボンでも包装紙
も何もかも、利用できそうなものは捨てずに取っておくのです。
・・・なんだ、私と一緒じゃないか、と思いましたが、50もの部屋数のある大邸宅
(もとはホテルだったとか)に住んでいて、リボンの部屋とか○○の部屋とか、
独立したお部屋を持てる 節子・クロソフスカ・ド・ローラ  んとは比較外ダス。
私も子供の小さい頃は、生地を買いにいってお洋服を手作りしたり、お人形を
いくつも作ったりと、針仕事は大好きだったのですが、今思えば、針に糸が通し
にくくなり、コンタクトレンズを着用すると痛くて入れられなくなった40代の半ばごろ
から徐々に針を持つ回数が減ったような気が。

何不自由ないお嬢様上がりのヨーロッパ社交界の花形のやることが~~、
と、醒めた目にならないのは、節子さんのお人柄なんだなぁ、と心から思えた
節子の暮らしー和の心展」でありました。
最終日は5月30日(火)
西武池袋本店 イルムス館2階=西武ギャラリー

 
1995年「グラン・シャレのお茶会」                           1998年「ケーキとマジョリーナ」

この絵の動物や鳥たちは、全部おうちで飼っていた「家族」なのですって!      



 

 

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ロダンとカリエール

2006-04-16 | art/exhibit/museum

この展覧会を知ったのは、昨秋プーシキン展に行った時。
カリエールの絵に魅せられて会場を出た所で偶然、パンフレットを見つけたのです。
それ以来、ずっと楽しみにしていたのですが、今週やっと国立西洋美術館まで行って
来ました。それにしてもこの美術館、入ったところにすでにロダンの「カレーの市民」像、
右に「地獄の門」、左奥に「考える人」と、ロダン尽くしなのです。

1840年生まれのロダンと1849年生まれのカリエールは、カリエールが57才で亡なる
までの20年以上もの間 、お互いに最も親しい友人として尊敬し合い親交を深めました。
1900年、パリ万博の時の「ロダン展」のカタログの表紙のデザインや序文をカリエールが
手掛け、ロダンはカリエールが亡くなった時、彼の「デスマスク」と「結んだ手」を石膏で
型取りすることを遺族に依頼したのです。(今回、これらの作品を目にすることが出来ます)

この展覧会は、作品を年代順に追うのではなく、二人の間にある共通点をテーマごとに
並置してあり、特にカリエールは、個人的な展覧会としては日本初デビューですので
私にとって、とても興味深いものでした。ただ、それぞれの作家の代表作と言われる
作品がが欠けた点が残念、と言えば残念でしたが、それほど詳しくない私にとっては
充分すぎるほどでした。

 
 瞑想(カリエール婦人)               回復   

右側はロダンの〈愛人〉だった若き彫刻家、カミーユ・クローデルです。 

彼女の事を去年の11月の朝日新聞、[愛の旅人]の特集記事で知り、ショックを
受けました。1346年の英仏百年戦争での悲劇の6人の群像「カレーの市民」。
(この悲劇的な話もとってもショックでした!)
この群像を頼まれたとき、カミーユが助手として手と足を担当し、それをロダンが
仕上げたそうです。当時は手足は弟子のする仕事だったと言います。制作に10年
以上かかり、除幕式が遅れたのは2人のあいだで別れ話があったからのようでした。
カミーユの情熱、そして絶望。それは彼女の作品「ラージュ・ミュール(熟年)」に
表れます。老女(ロダンの長年の妻)に腕を引かれて去っていく男に、女が悲しみ
いっぱいに手を伸ばしている作品です。1893年ころの習作では男と繋がっていた手が、
98年の完成作では離れたのです。その作品の一部「嘆願する女」を見て、ロダンは
動けなくなりブロンズを撫でながら泣いていたのです。カミーユはその後、ロダンへの
脅迫観念と貧困に苦しみ、孤立していき、父親が亡くなった8日後に精神病院に
収容された。と、そこに書いてありました。なんで・・・・そうなるの?
又、カミーユの愛した弟、ポール・クローデルは詩人でもあり外交官でもあったそうで、
1921年から6年間のあいだ、駐日大使を務めたとのことでびっくりでした。
「カミーユ・クローデル」 映画化されていたのですね。知っていましたか?

横道に反れましたが、ロダンの作品の中に出てくる女性が皆、カミーユに思えて
なりません。なかでも「永遠の偶像」の生命力を、一時期ロダンの秘書を勤めた事の
ある!ライナー・マリア・リルケが、「美しい文章で綴っている」ので、今度その本を
探してみましょう。
ロダンは若きカミーユから、彼女へ与えたものよりも多くの〈創造力〉を吸収したに違い
ありません。
彼女と別れてからのロダンの作品にはとくに優れたものがなかった、というのですから。

 
最後の幻影                                        カミーユ・クローデル

カリエールの絵はすべてが暗褐色系統の僅かな色彩で、
輪郭の曖昧な中に幻影のように人物が浮かんで見えます。
母性を感じさせる幻想的な絵を多く描いていますが、肖像画や
自画像も沢山ありました。肖像画では「男であろうと、女であろうと、自分が
好きではないあるいは評価しない相手の肖像画は制作しなかった」ようです。
今回の展覧会は、カリエールがロダンを食ってしまったみたいです。
それだけ私には魅力的。でも一緒に行った友人は、
「すごくいいけど、暗いねぇ~。1度見ればいいかな。」
私はと言えば、「もう一度見に行きたい、今度は一人で!」

     

《カリエールもまた彫刻家なのだ!》  
ロダン自身がそう言っているように、彫刻、絵画等という技法の枠をこえて、
ロダンはカリエールの芸術に対して、自分との共通点を多く見出していたと言います。

    両者の作品において、形を通して表現されるのは、
    対象の外見ではなく、その内側にあるもの
    ―それらはしばしば「真実」や「内なる生」、「魂」などと呼ばれた―
    であるという言及、さらにはロダンとカリエールが繰り返し詩人に
    例えられたことなどは、その奥にヴェルレーヌやマラルメが書いたような
    象徴主義の定義が働いていた事を示している。
         
 (「ロダンとカリエールにおける象徴主義」よりの抜粋)

企画展の後、常設展をさっと見て回り、懐かしき“松方コレクション”の絵たちと
久しぶりに会って来ました。私が若き頃、最初にモネの睡蓮の絵を見て
感動した場所が、此処だったのです。今でもとても落ち着く場所です。


 

遅い時間の昼食処です。 駅からすぐの「緑の相談所」(でしたっけ?)
のあった建物の食堂で、〈大和芋の山かけうどん〉650円也。


 
 

 

    

 

 

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また行こう!葉山館

2006-03-29 | art/exhibit/museum

同じ過ちを犯し続けるbiancaは またも、それも3回にわたって
月曜、火曜と、書いた全文を失いました。
だから下書きはメモ帳に書くんだよ、とわかっちゃいるけど
写真を取り込みながらじかに打ち込む快感に負けていたのです。
失った原因が今だはっきりしません。
どうもマウスの使い方と、入れ込んだ写真や文章を取り消す時に
使うBack‐spaceキーが怪しい気がします。
あるいはこのパソコンに嫌われているのかな?
もう止めようか、と思うまで昨夜は気落ちしましたが
やっぱりパウラのことはブログに残したくなっちゃったのです。

仕事休みの今日、桜を見に外に出かけたい心を抑えて
仕切り直し~!


+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 
+



儚くも美しき祝祭

 Paula Modersohn-Becker
時代に先駆けた女性画家 (1876-1907)

 
+
 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


麦わら帽子を被りたくなるような日差しの強い土曜日の昼下がり。
子駅から海岸回り葉山行きのバスに乗り込みました。
対向車とすれすれで、まるで手品師のように狭い旧道を
スル~リ、スル~リと走り抜け、葉山マリーナや森戸海岸を過ぎて
しばらく行くと白亜のモダンな四角い建物が姿を現しました。

着いたぁ~!

海と空に限りなく近い、神奈川県立近代美術館 葉山館


そんなベストロケーションにある美術館の外観を
デジカメに収めようとシャッターを切ってびっくり。
メモリーカードが入っていないではないか。
ガ~~ン!
充電だけはバッチリしてきたのに、なんという不手際。
昨日パソコンに取り込むために抜いたままになっていたんだ、と
改めて思い出しました。
いいさ、きょうはカメラなしで、この光景をしっかりと
目に焼き付けようっと。

。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。


私とパウラ・モーダーゾーン=ベッカーは、全くの初対面。
そこにリルケ やリルケの奥さんでもありパウラの親友でもある
クララ も参加し、ヴォルプス・ヴェーデの仲間たちも
噂を聞きつけて葉山にやって来たのです。

こんな具合に想像を巡らせながらの 待ちに待った企画展。

学生時代に尊敬していたS先生が、社会科の授業の中で
頻繁にリルケの詩を紹介してくれたものです。
先生が敬愛して止まないリルケを、私も好きになりたいと
背伸びをして読んだのですが、解ったのか、解らなかったのか
いまいち私には難いイメージでした。
でも尊敬している人が情熱を持って語るその詩人のことは
それからというもの常に私の頭の隅に存在し続けています。

結婚をする前の若い3人が、ブレーメンから北東20キロほどに
位置する寒村「ヴォルプス・ヴェーデ」で知り合い、
親交を深めていただなんて、なんとも羨ましい限り。

 ヴォルプス・ヴェーデ ・・・それは
悪魔の湿原と呼ばれる泥炭地 トイフェルス・モーアの端に続く
片田舎の小さな村。
19世紀の急速な技術革新と文明化に疲弊した
近代ヨーロッパ人(!)の若者たちには
その平原と空ばかりの手付かずの自然風景こそが
今こそ回帰すべき人間と自然との原初的な共生の場として
写ったのです。


芸術家コロニーの建設を夢見て、
フリッツ・マッケンゼン
オットー・モーダーゾーン
ハンス・アム・エンデ
フリッツ・オーヴァーベック
ハインリヒ・フォーゲラー

などの若い画家たちがそこに住み始め、パウラやクララも
マッケンゼンに絵や彫刻の手ほどきを受けるために、
家族の元を離れてここに移り住みます。
パウラは、当時の文化人や芸術家などが頻繁に
出入りするような家庭環境で育っていますから
女性が画家になることへの積極的な理解と応援を
受けていたのではないかと思います。
素晴らしい親たち!

このように書いていくと終わりが見えてきません。
ご興味のある方は、是非、美術館のHPをご覧になってください。
とても興味深いですよ。
って言っても、企画展が終了しちゃったから
削除されてしまうでしょうか?早く、早く!

  
 
                      クララ作のパウラ 
  

  

そういいながらも又書き始めるbiancaです。

葉山館は、展示室といいすべての空間がゆったりとしています。
これだけの企画なのに人の流れも緩やかで、
私としては心地よく、時間をかけてヴォルプス・ヴェーデの
仲間たちとの対話?を楽しむ事が出来ました。

パウラはたくさんの自画像を描いています。
でも実際の彼女の方が、どの絵と比べても素敵でしょう?
私はパウラとマッケンゼンの絵、クララという女性そして
フォーゲラーという個人にすごく惹かれました。

フォーゲラーは、最初に村に移り住んだ芸術家達の中で最年少。
農家を改装した自邸、〈バルケンフォフ〉には、
村のアーティストはじめ、遠方からの文学者、音楽家らが集い
「そこはまさに、ヴォルプス・ヴェーデという
精神共同体のシンボル的な場だった」
と言います。パウラがこの小さな村に移り住んだのも、絵を学ぶ
ということの他、もっと精神的な要因があったからに
ちがいありません。

しかし人間のおこなう戦争は何でもかんでも
人間の一生を狂わし続けてしまいます。
フォーゲラーは出征中に、反戦思想から社会主義に転向。
その後ソ連に移住し、貧困の中、カザフスタンで
ひっそりと病死していました。
あの芸術家村で、いきいきと過ごしていた若き日の
フォーゲラーを想像するにつけ
社会主義がなんだ!資本主義がなんだ!
やり直しのきかない人の人生を平和に導けない
主義主張なんか糞っくらえだ!

パウラの死共々、悔しくて可哀想でなりません。



観葉植物と卵立てのある静物(1905年頃)

この村で、パウラはモーダーゾーンと、
リルケはクララと出会い結婚をするのですが、
パウラとリルケは、心底より深く信頼しあう仲だったようです。
パウラはスポーツも楽しむ快活な女性であった反面、
ニーチェなど、沢山の書物をを読み、日記を書き、「死」についても深く思いを
巡らせていた女性、と考える時、リルケとの繋がりが
さらにはっきりと想像できそうです。
彼女は画家としてよりも、心の奥底に数多くの思いを秘めた
一人の魅力的な女性だということがわかってきました。
1900年のパリ万博の時にパウラは初めてパリを訪れています。
そこで目にしたセザンヌやゴッホ、ゴーギャンらの作品に
影響を受け、リルケの紹介でロダンとも接触を持ちます。


パリで刺激をうけてはヴォルプス・ヴェーデに帰って
その制作の中で表現し、反対に村で研ぎ澄ました感性を、
パリの街でさらに開花させていましたが、
芸術家村の中でも相互間に早い時期から
芸術感の相異や緊張が表面化していたようです。

実際、パウラと夫のオットーにも一大危機が訪れました。
それをどうにか乗り越え、子供に恵まれた時、
産褥熱から発症した塞栓症のために
彼女の儚い一生が終わってしまいました。
1907年11月20日、31歳の時です。

リルケはパウラの死に衝撃を受け、
その一年後に長編詩「ある女友だちのための鎮魂歌」
を発表したのです。

その詩が、美術館の中の薄暗い一展示室の壁に、
映写機を通して読めるようになっていました。
映し出されては滲むように消え、又映し出されて・・・
が繰り返されます。
そこでは静かにゆっくりと時間が流れます。

 
クララ作のリルケ

気が付いたらあとすこしで閉館の時間でした。
海を目前に見渡せるレストランで、コーヒーを
と思い、その時を楽しみにしていたのですが、
美術館と同時刻に閉店となり、残念でした。
この素晴らしい場所に、近々また絶対に来よう!

葉山は私を待っているぜ!


終わりにしようと思ったとたん、思い出しました。
たいせつな風景」というタイトルの美術館だよりを
エントランスホールで見つけ各号一冊ずつ計4冊頂きました。
それを帰りの横須賀線の車内で何気なく読んで
いたのですが、とても心に残る記事があったのです。
(もちろん、どの記事も良かったですが)
私がパウル・クレーのところで使わせて頂いた引用文を
お書きになった神奈川県立美術館 企画課長である
水沢 勉氏の
「風景に生まれ、風景に帰っていく音のかたち ・・・追悼・吉村弘
胸がいっぱいになり、本当はここでご紹介したくてたまりません。


この文章を読みながらこの日一日の心の充足感が一層深まったことは
言うまでもありません。


 

unsichtbarさん 展覧会をご紹介いただき有難うございました

 

 

 

 

 

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懐かしい人形たち

2006-03-25 | art/exhibit/museum

             

きょうは楽しい金曜日 & 今晩の夕食はお二人様だけ。
昨日のうちに仕込み・・でなくて、買い込んでおいたので、多少帰宅が遅くなっても全然オーラ~~イ!

仕事のあとに、銀座松屋で開催中の
パリ・バカラ美術館開催記念展
勇輝 人形芸術の世界展に行って来ました。今年2月にパリのバカラ
美術館で個展が開かれ、好評を博し、今回は5年ぶりの帰国記念展。
その5年前、同じ松屋で開催された時にも行きましたが、ニングルやピアリの
妖精たちに魅せられ、昔の子供たちに心和まされて笑わせられ、与ワールド
の虜になってしまいました。でも、出口のところで図録を購入した人たちに
サインをしている人形作家を見て、びっくりしたものです。
人形たちと、作家のイメージが余りにも異なっていたからです。

今回は小津安二郎監督に惹かれた作家が、監督への敬愛の念を込めて
制作した新作15点を含め、合計約130点を展観。

   

  制作の中で常に私の頭の中にある事は、
  無心な子供たちが美しい自然の中で素朴に生きる様を
  いかに表現するかを想い、その為に時代背景を置き換えて
  一瞬の表情、仕草を掴み取るため、手や足の先まで気を使い 
  
幾度も創り直し、その繰り返しに悪戦苦闘しています。
              -以上「古裂に魅せられて」より抜粋- 

倉本聰原作の写真絵本「ニングル」や鉄道員ぽっぽ屋の「雪子」の人形。
イクスピアリの依頼で制作した創作人形「ピアリ」の数々。
(これはピアリ3階で数年間にわたり、常設展示されていたのでご存知の方も多いと思います) 
首の傾げ方、足の開き具合、ふっくらしたほっぺの感触や昔の女性の持つ
質素な佇まいと凛とした知的な色っぽさ。純粋無垢な表情の兄弟姉妹や
悪戯っ子たち。指先や足の裏の作りまで、想像を絶するほど神経細やかに
仕上げられたお人形さん。
今回の小津作品の中では、「秋刀魚の味」や、「東京物語」の登場人物、
更には小津監督自身の人形も見られます。

昭和12年生まれの彼は8才の時に終戦を体験しています。
貧しい事を貧しいと思わずに、明るく逞しく元気いっぱい駆けずり回っていた
子どもたちは、きっと与さんの過された時代の原風景だったのでしょう。
私は勿論!(あったりま~え!)生まれも育ちも終戦後ですが、それらの
原風景になぜかとっても見覚えがあるのです。歯ブラシを持っている
「押し売り」の人形を見て思わず笑ってしまいました。
怖くてしょうがなかったのに、興味津々だったりした記憶が蘇ってきました。
「女房子供を食わせなきゃならねーんだ。このゴムひも一つでもいいから
買ってくんなよ。」・・・そういいながら、玄関先にどっしりと腰を降ろして買って
くれるまで居座っている姿を何回目にしたことか。

みんな食べるのにやっとでしたが、生活がシンプルな分、ストレスと言う言葉が
存在しなかった気がします。無いのが当然。我慢が当たり前。玩具なんか
なくても沢山の遊びを知っていましたよね。
石蹴り、缶けり、ゴム縄、馬飛び。そして白墨、蝋石の出番がた~くさん。

さて、大混雑の会場を泳ぎ回り、やっと場外に出た所でバッタリ作家に遭遇
してしまいました。似ている方だなぁ・・と思っていましたが、みんな知らん振り
で通り過ぎていくので間違いかしらと思いつつ、ご本人に確認した所、
当ったり~!作者の与さんでした~!
デジカメにも快く応じていただけましたが、春らしいスーツに身を包んだ与さん
よりも、工房で作業着を着ている彼のほうがきっとお似合いではないかな。

「人形は、誰の心にもある変身願望の表れなんです」

 

 

 

明日は・・・って、もう今日になっちゃった・・・ 葉山に行ってきま~す

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叔母といっしょに

2006-03-21 | art/exhibit/museum



土曜日。叔母と電話で話していて、2時間後に
青山にある「根津美術館」に行こうということになりました。
ひな祭り 虎屋の雛人形と雛道具
先週も友人からの電話で、
「私はもう見ちゃったけど良い出し物だからお勧めよ。」
と言われたばかり。豪華なお雛様にはあまり興味がありません
でしたが、これは何かのご縁かなと思い、即決。
何年も前に、地元に住んでいた友人が、お茶会があるから、と、
他の友人共々、誘ってくださって以来の根津美術館でした。

 お雛様の主人公

今回展示されているお雛様とお道具は、
虎屋の十四代店主である黒川光景氏が、
明治30年に生まれた娘、算子(かずこ)のために収集したもの。

京都の丸平大木人形店で新調した雛人形に
東京・池之端の七澤屋製の雛道具は、
どれも極小かつ精巧で、高度な技術を持つ
職人技あっての作品の数々です。
土曜日のせいか、すでに会場は大勢の人で埋め尽くされ、
小さくておまま事のような展示物を鑑賞するには列に並んで
少しづつ進むしかありません。
なぜちっとも進まぬのか?と呆れるくらいで、
これが実にしんどかったのですが、
見ているうちに、なかなか動かない自分を発見。
だって、てのひらに載せて見るほどの小さなもので、
しかも本物そっくりの緻密な作り。
尽々と見たくなるような素晴らしさなのです。
人形の表情がなんとも言えず、かわいくて、ユーモラス。
ないものは何一つない位、何でも揃っています。
これらを全部、大きな雛壇に飾って、お嬢様のために
お祝いをするのですからね・・・溜息の出るような贅沢品。



虎屋本店が赤坂にあるので、てっきり東京の菓子屋だと
思っていましたが、創業は室町時代後期の京都でした。
又、虎屋という屋号の由来ですが、黒川家が代々、毘沙門天を
信仰していたそうでして、この毘沙門天が、
寅年の寅の月、寅の日、寅の刻に生まれたといわれ、
虎の秘める神秘的な力にあやかりたい願いが
込められているようです。

これで、ちょっと敷居が高いなぁと感じていた虎屋が、
伝統を重んじた、信仰心の厚い老舗だったことがわかり、
算子嬢の可愛さも然ることながら、日本の文化を大切に
継承している事に敬意を表したい気持ちになりました。



叔母は長くお茶と茶花を習っていたので、何でもよくご存知。
今は通うのが大変になり、お茶花だけになりましたが、
先生のお話が面白くて、
お稽古を辞める人が一人もいないんですって。
先生はお茶、お花に加え、陶芸、一閑張り、金繕いなど
知識が豊富で、様々な事を教えている素敵な男性です!

叔母は、以前は虎屋の行事等に、よくお仲間と行かれたそうです。
その時には、今回の〈遊戯具〉の所に展示されていた
「投扇興」というお遊びなどが会場に用意されていたようです。
「今はそれも無くなっちゃったようだけど、これもご時世なのかしら」
「広げた扇を的をめがけて投げて、落ちた場所や形で点数を競う遊びなのよ」
と、説明を受けながら見ていると、お隣のご年配のご婦人が
「私が子供の頃、よくそれで遊んだものですよ。」と
ニコニコして私たちの会話に加わってきました。
何とも雅な遊びだこと。

・・・・・・・・・・  【投扇興】  ・・・・・・・・・・
江戸時代の遊戯の一。台の上に蝶と呼ぶいちょう形の的を立て、1メートルほど離れた所にすわり、
開いた扇を投げてこれを落とし、扇と的の落ちた形を源氏54帖になぞらえた図式に照らして採点し、
優劣を競う。1773年(安永2)頃から盛行。


 

展示室は一室だけでしたが、こういったものを楽しんでいる
自分にちょっとびっくり。
年と共に興味が広がっていくのって、いいですね。

お茶室が点在している広いお庭に出ると、
背景に六本木ヒルズが現れました。
緑の茂ったお庭を歩きながらも、樹木や花を見ては
大好きな叔母から色んなことを教えられます。
って言っても私、すぐ忘れちゃう困ったさん。

さ~ぁて、この日のお待ちかねのコーヒーブレークは、
叔母おすすめの「ヨックモック」で。
いつもこの前を『チョッと高そう!』と
通り過ぎるのみでしたが、スポンサー付きは最高
                
  

 

                            
                 
 

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