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ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

江戸東京博物館

2007-05-26 | art/exhibit/museum

こんなに沢山のチケットを 「行けそうなのがあったら使ってね」の言葉と共にKちゃんから
いただきました。嬉しい~! しかし、プレッシャー・・・は感じませんよ。何の・・・?
ブログに報告を、と考えればそりゃぁプレッシャーでしょうが、書きたければ書くし、時間が
なかったり、書きたくなけれ書かない。そんな風に気楽に構えて、行けそうなものを選んで
行ってこようと思っています。

まずその内の一枚、江戸東京博物館に行ってきました。初めての場所だし、
企画展「ロマノフ王朝と近代日本展」が明日、5月27日(日)までだったからです。

両国駅東口を線路沿いに、高架線下の壁面アートを感心して見ながら、博物館へ向い
ましたが、どうやら逆方向をぐるりと遠回りしたようです。
だから、これらのアートを見れたので、
良しとしましょう。ファンタスティックな絵の上を総武線が行き来しています。 デジカメで撮った
写真はPCで見た後に、なぜかわかりませんがこの一枚を残して全部消滅してしまいました。
あの時PCに保存しておけばよかった、と後悔していますが、両国駅に行けばいつでも
見れますね
。このごろそのような線路沿いの壁面アートをあちこちで目にします。
両国のは楽しかったですよ。もし近くを通ることがありましたら是非ご覧下さい。
コンクリートに描かれた下の絵はその中でも一番シンプルでした。

       

江戸東京博物館になぜ今まで行かなかったかというと、建物の外観を見ただけで
イマイチ行ってみたいと言う気持ちにならなかったのです。なんだか中に「土俵」がデーンと
あるようなつくりなんですもの。でも、「面白かった。」という方の話を聞いていたので
機会があれば行きたいなと思っていました。

企画展では、近代日本とロシアとの交流の様子を、サンクトぺテルブルグの国立図書館が
所蔵する写真、古文書、書簡、ドローイング、版画作品、書籍など、約300点からなる資料
により展観することが出来ました。この数々を常設展の中で見れるとは凄いこと。
ロマノフ王朝の時代のロシア側から見た日本って、こんな風なんだ、と、とても興味深かったし、
日露戦争によって日本への関心が高まったロシアで、ちょっとした日本ブームが起きていた事
などが、展示物を通してよくわかりました。
チケットにも使われた、着物を着た女性の絵はロシアのエイネム製菓のチョコレートポスターの
絵でしたし、石鹸などの包装紙にも日本風のデザインが描かれていたので意外な感じでした。
ロシア人画家の描く日本の景色や日本人像は丁寧に緻密に描かれていたし、リトグラフの絵
もなかなかのもの。
ちょんまげ8人衆の絵を見ながら、当時のヘアースタイルがロシア人にとって
どれほど物珍しく、可笑しく感じたことか、と想像してしまいます。これってカツラではありません
よね?え~っ、もしかしてカツラだったのかしら・・・?

「日本人の容貌」

日本とロシアの国交樹立のため、初めて日本に遣わされた外交官ニコライ・レザノフ関連
史料、またクルーゼンシュテルンの日本航海中に描かれた絵画作品、その他、ニコライ2世
来日時にロシアカメラマンにより撮影された写真アルバムなどの史料により、近代日露交流
の歴史をたどります。特に、革命前のロシアに関する写真及び資料は、ソ連邦の時代、
国内外に向けて公開されることはありませんでした。ロシア国立図書館の全面的な協力に
より、近代日露交流をテーマとした所蔵品の日本初公開が実現します。

常設展の中の一部で企画展を開催していたので、6階から中に入って行きましたが、入った
所でまず、檜で作られたドでかい日本橋の模型に驚かされました。この立派な橋を渡って
階下に降りて行くのですが、橋から階下が良く見渡せ、ワクワクするような懐かしい展示品や
建物にすっかり見入ってしまいました。何枚かを写真に収めてきましたのでご覧ください。

 
★全長約51mある日本橋の半分を檜で復元 ★明治初期、銀座4丁目交差点の北西角に所在した朝野新聞社                              
 
★中村座                          ★江戸歌舞伎・助六の舞台
 
★昭和初期の住宅内の台所 
 
★スバル360も、今見るとレトロな感じ        ★焼け残った煉瓦
 

「歌舞伎の仕掛け」の所では、からくり模型で 「東海道四谷怪談」に出てくるお岩さんの
幽霊の
「提灯抜け」や「仏壇返し」などを見ることができ、面白いので2回も見てしまいました。
いつものように遅い時間に来館したので全部は目を通せませんでしたが、また何かの機会に
訪れたい場所です。

さて、次はどこへ行ってこようかしら? Kちゃん 

 

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富本憲吉展

2007-03-10 | art/exhibit/museum

          

先月、国立新美術館に一緒に行った友人に、「富本憲吉展」とっても良かったから是非行ってくるといいわよ、と言われていました。そんな矢先、kちゃんから 「富本憲吉展、あるけど行くなら送る」 というメールを受け取ったのです。すごい!これぞ以心伝心というもの。で、今水曜日に行って参りました。
        
               
   水曜の夜はパソコン教室があり、目が疲れ過ぎたし、木曜日は仕事のあと、娘と 
   日本橋Tで待ち合わせて結婚式用の靴探しに付き合いました。さらに銀座Mまで
   見に行き、その日はパソコンどころではなくなったのです。そして昨夜は・・・パソコン
   に向かって少し作業を始めていた頃にパパが帰宅。次に息子。そして最後に娘。
   金曜日なのに全員家食でした。夜半近くから、娘がこんどは何を着て行こうか、
   バックはどうしようか・・・・で、夜中の2時まで大騒ぎ。それに巻き込まれました。
   もう決めていると思っていたのに、ヤレヤレだぁ。大して持ってないので大変そうだけど。
   式と披露宴と二次会に出席なので、着替えも必要だし、で、私が20代に着た服
   まで登場し、それにする!って言い出しました。それはミニスカだったので、式には合
   わないんじゃなぁい?と言いましたが、今朝、三着をカバンに詰め東京ドームホテル
   まで向かいました。向こうで決める、ですって。地方からやって来る学生時代の友達
   と一緒にこのホテルへの宿泊付きご招待だったんです。2次会は麻布。いいなぁ。
   来月も、こんどはわが町のブライトンで結婚式があるので、うぅっ・・お金がないよ~~
   と、頭をかかえていました。
   ・・・?? なんだか横道に逸れてしまいました。
 そうかぁ、アップできない理由を
   羅列しちゃいました。出来ない理由って、スラスラと沢山出て来るもんですね。
   ど~も、すんまへんでッす。

          
                    大和時代の憲吉の写真です。
                         男優もビックリじゃあないですか。

富本憲吉は1886年に奈良の安堵村という所に生まれ、去年が丁度生誕120年でした。
今回はその記念すべき展覧会にあたります。彼は陶芸家だとばかり思っていましたが、東京美術学校図案科では建築を専攻し、室内装飾を学んだとのこと。
卒業制作を早々と終わらせて、卒業前にはすでに、憧れのウィリアム・モリスのいるイギリスへ留学し、そこで図案や模様のスケッチを学び、さらにステンドグラス科にても学びました。
なぜ、陶芸を・・・?と思いましたが、それは全くの偶然の出会いによるものでした。
留学先から日本へ帰る船の中で、少年時代からの親友であるバーナード・リーチを訪ねるために日本に向かっている
という画家レジナルド・ターヴィー
と知り合いになったのです。

  そのときの出逢いが・・・という、相田みつをさんの言葉が頭をよぎります。

かねてからリーチの事を先輩などから聞いていて関心を抱いていた憲吉でした。ターヴィーのお陰でいち早くリーチに出逢い、深い交友関係を築いていく事になります。
リーチが楽焼に興味を持ち、六世尾形乾山に入門を乞う時は同行し、その後もリーチと師の間で言葉の問題が生じた時などには中に立ち手助けをしていたようです。そのようにしているうちに、自身も楽焼を体験する必要が生じ、乾山から持ち運び可能な楽窯を送ってもらったのが1913年、27才頃でした。
同年、津田青楓との二人展では、木版画、染織に加えて、もう楽焼を発表したといいます。

そのような稀有なきっかけで陶芸への道を歩み始めた彼は、陶芸家の弟子になるわけでもなく、いわゆる陶芸界とは一線を画し、全くの独学で独創的な境地を求めていったのです。

  1963年に他界するまでの約50年にわたる多彩な作陶活動は、
  「模様より模様を造る可らず」 という信念のもと、オリジナルな形と模様をひたすらに
  追求し、用と美の結合という工芸のあり方を求めて格闘した遍歴の軌跡でもあります。
  (パンフレット文中より抜粋)

       色絵金彩羊歯模様大飾壷                     染付「老樹」模様陶板

この展覧会は次の6つのセクションから成り立っていました。

     Ⅰ 東京美術学校から留学、帰国 1908~1912
     Ⅱ 大和時代 1913~1926
     Ⅲ 東京時代 1926~1946
     Ⅳ 京都時代 1946~1963
     Ⅴ 書、画巻、デザインの仕事
     Ⅵ 関係者との交流

東京時代、自宅の玄関脇の定家葛(ていかかずら)の5弁の花から展開された四弁花模様や、京都時代の4枚の葉を組み合わせた羊歯(シダ)模様は、特に代表的な模様ですが、すべて自然の中を歩きながらのスケッチから生み出されたもので、伝統的なものや、海外から入ってきた模様をアレンジするのではなく、独自の作品を作り上げることに全力を費やしたんですね。
どれもが興味深い素晴らしいものでしたが、ブログ序盤からすでに長すぎ、時間が掛かり過ぎましたので、ご興味のおありの方は是非web上や図書館などで、富本憲吉の軌跡や作品、書などをご覧下さい。

生活すべてが独創的で、彼の交友関係の幅の広いことに驚きます。私が知っている人だけでも挙げてみると、学生時代、マンドリン同好会で一緒だった藤田嗣治をはじめ、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎などはわかりますが、有島武郎(作家)、朝倉文夫(彫刻家)西村伊作(教育者・文化学院創立者)、水原秋桜子(俳人・医学博士)などなど。羽仁もと子も、自由学園一期生を引率して安堵村を訪れたといいます。
                      
       

Ⅵ 関係者との交流] の中では、、
  ①生涯親交を結んだ、バーナード・リーチ、
  ②中学校の恩師である水木要太郎、
  ③ロンドン在住の時に知り合ったという洋画家で、尾竹一枝と憲吉の結婚媒酌人を
   務めた白瀧幾之助、
等々に宛てた沢山の絵手紙も展示されてあり、それらの絵文字のなんと洒落た事!
日本語の字体も、アルファベットの字体も、とても味があると思いませんか?

   
          ①                ②               ③


   
        色絵紫四弁花模様飾筥                       「花」字皿と飾筥の絵

上の二点は、私の買い求めた絵葉書です。もう買うまいと思っていたのに、又、買ってしまいましたよ~。母と姉を誘って行って来たのですが、「やきものかぁ~」なんて言ってた人でも、見終わってみれば彼の作品の虜になっていました。手書き模様の施された器の美しいこと。小さな箸置き一つでさえ、手作りの温かみが感じられてとてもよかったなぁ~。成城学園卒業記念ブローチ(1932~44)は、缶バッチの大きさなのですが、素敵でした。卒業生たちはまだ居られるかしら。きっと自慢の卒業記念品だったでしょうね。

大満足して、遅いお昼をミュージアムレストランでいただきました。ここはお味は普通ですが、ガラス越しに見える眺めがとってもいいんですよ。あと少ししたら、一面桜のピンク色で覆われて華やかになるでしょう。
   

            kちゃん、招待券を有難うございました!

                                                   まだあるゾ! もういいかげんにしぃ・・・・!

 

         

 最後に美術館便りの表紙を飾っていたこの彫刻に心を奪われました。
  
+ + + + + 
舟越保武 《その人》 1995年 + + + + +

数々の美しい女性像を作り続けた舟越保武は、1987年突然の脳梗塞で
右半身不随となりました。しかし入院中でも左手で少しずつデッサンをし、
彫刻制作も始めるようになります。「これが最後の作品でした。時間を惜しむように
取り組んでいました。」(2004年7月3日東京新聞「私のオアシス」道子夫人の言葉より)
死の直前まで製作し、2002年に永眠した舟越保武にとって、額にくっきりと十字を刻んだ
「その人」は、長い彫刻家人生をかけて獲得したひとつの結果だったのかもしれません。
(世田谷美術館"NEWS LETTER”より)
  

 

1963年、肺癌のため77歳の生涯を終えた富本憲吉の遺書には、
「墓不要。残された作品をわが墓と思われたし」と記されていたという。

 

   

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初めての国立新美術館

2007-02-10 | art/exhibit/museum

                  

                 お誘いを受け、オープンして間もない国立新美術館まで、
       《異邦人たちのパリ*1900-2005》ーポンピドー・センター所蔵作品展ー
    を見に行ってきました。展覧会そのものよりも、黒川紀章の建築した建物
  の方により興味があったのですが、今回もお陰さまで、招待券を持っていた
友達からお声が掛かったので幸運でした。
          

         

        黒川紀章氏設計のこの美術館の外壁は、このように平らに並べた
        板ガラスで覆われています。近くで見るとどーって事ないのですが・・・

 

  少しずつ角度を付けながらガラスをつないでいくと、美しカーブが出来上るのですね。
  写真を撮りたくても、巨大過ぎて上手い具合にファインダーの中に収まりません。
  全体像はホームページでご覧下さい。

  さて、このエスカレーターで2階に上った所に、今回の作品展の会場があります。
  新美術館のオープン記念のこの展覧会は20世紀初頭から現在に至るまで、
  パリに行って、パリを制作の場所にした外国人芸術家81人の作品約200点が
  展示されています。外国人、といっても、フランス人以外と言う意味ですから、
  有名な画家の絵も多く、絵画の他、白黒写真や、彫刻なども見る事が出来ました。
 
             

            
             ★レオナール・フジタ (日本)  
「画家の肖像}
 
 このオカッパアタマは、貧困のパリ時代に、自分でカットしていたそうで、猫と共に、彼の
  トレードマークとなっています。有名な「カフェにて」他、何点か、展示されています。

  ヴァシリィ・カンディンスキー (ロシア) 《相互和音》   
          
       アメデーオ・モディリアーニ (イタリア) 
             《デディーの肖像(オデット・ヘイデン)》

    
            マルク・シャガール (ベラルーシ)
                                           「エッフェル塔の新郎新婦」 
           これは、シャガールと妻のベラがモデルだとのことで、テーマは[夫婦愛」。
                                           
                                                                                                      

       ヴィクトール・ヴァザルリ (ハンガリー) 
                   
       「V ボグラー」  
                          錯視効果のある、興味深い連作の一つでした。
      

    マックス・エルンスト (ドイツ)
                                         「フランスの庭園」
    こんなタイトルですが、蛇が女性を呑み込む?の図に見えます。
   女性の足に絡まっているのも、蛇じゃないでしょうか?

他にもピカソミロ(サインがキュート!)ジャコメッティなどなど、さすが、ポンピドー・センター
所蔵作品展、と思わせるような内容でした。写真家では、ドイツ人ウィリー・マイワルドは、
第二次大戦中、敵国民として捕えられた一人。彼はクリスチャン・ディオールを主に、
カルダンやランバンのファッション写真を沢山残しています。
有名なマン・レイの写真もありましたし、ナチスから逃れてパリに来たジゼル・フロイトンの、
著名人達のポートレートは非常に興味深かったです。若き日のサルトルやアンドレ・ジッド、
マルローなどのモノクロ写真は、これがプロの写真家だ、と思える素晴らしさでした。
中でも、何故かわからないけど、「ヴァルター・ベンヤミン」という、ドイツ人のポートレートは、
心に残りました。

            

                  

同時開催の黒川紀章展ー機械の時代から生命の時代へーは、講演会が面白そう。
彼の有名な、「カプセルタワー」は、建築家の名前を知らないウチの息子でさえ、知って
いたのでビックリしました。彼の設計した建物のミニチュア模型が実に良く出来ています。

お昼はフランス・リヨンの地以外は出店した事のなかった「ブラッスリー・ポール・ボキューズ」が、
世界に先駆けてここにオープンした、とのニュースを友達がキャッチしていたので、そこに
しようかと思いましたが、すでに長蛇の列だったので、あきらめ、一階の「カフェ・コキーユ」で
簡単に済ませました。
食後は、アートライブラリーに寄って、立ち読みしたり、地下のミュージアムショップを覗いたりと、
「広すぎる!」と文句を言いつつも、最先端を行くミュージアムの中にゆったりと身をおいて
楽しみました。

             

                   昭和三年(1928年)竣工
                    東京市麻布区新龍土町
                      縮尺 1 : 100
  ☆この模型は、新美一階に展示されていた陸軍歩兵第三聯隊の兵舎の模型です。
    龍土町って呼び名、とっても懐かしい~!



   ここは昔、日本帝国陸軍第一師団歩兵第三連隊(通称:麻布三連隊)の
   兵舎のあった所でしたが、敗戦後は連合軍に接収され、「ハーディ・バラックス」
   と呼ばれる施設と兵舎群が建設され、その後、敷地の大部分は返還されて、
   北側の旧三連隊兵舎は東大生産技術研究所をへて2000年に取り壊され、
   敷地は国立近代美術館用地になったそうです。

と言う記事を
ここで探し当てましたが、ちょうどその場所を、美術館の外にいた警備の方が
教えて下さったので、中には入れませんでしたが写真だけ撮ってきました。

        
        
        東大生産技術研究所の名残の部分ですが、
        ガラス質より、雰囲気があるなぁ・・・と思います。いい感じ!

長くなってしまいました。これから出来るだけショートブログにしようと思っているのに、
ついつい・・。しかし、まだ、どうでもいいような続きがあるのですが!
気が向いたら次回に書くことにします。ね。
       

 

 

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ミュシャ展

2007-01-23 | art/exhibit/museum




1860年7月24日チェコ共和国モラヴィアのイヴァンチッツェに生まれた画家



約10年前に千葉県立美術館に見に行った時の印象が素晴らしかったので、島屋では、
きっと、それより小規模だろうとは思っていたが、招待券を持っていたので仕事帰りに行ってきた。

午後6時から8時の時間帯は、家族の食事時間を考えながらでないと、いくら仕事帰り
と言っても、なかなか自由に使うわけにはいかないのだけど、この日は、
まず、娘が外食だとわかっていたし、パパからは夕刻に、友達と会うから食事いらないメール
が入った。残るは息子だが、なんの連絡もない。見終わって真っ直ぐ帰宅すれば
おそらく大丈夫だろうな、と、♪~は~るばる 来たぜ にーほんばし~♪
でもなく、あっという間の日本橋だった。
屋上駐車場に止めて8階に降りるとすぐに、こんな催しが・・・!

雑誌 ミセス が選ぶ かくれた味 うまい味
web上より拝借

もうちょいで、ここに来た目的が入れ替わったほど、魅力的な催し!
この週、島屋の新聞チラシが、たしか入っていなかったので知らなかったぁ。
一回りして、2ヶ所ほどで試食なんかしちゃって、今回はここ見て帰ろうかぁ・・とまで考えた。
元祖田丸屋の「水沢うどん」も出店していたし、
何回か足を運んだことのある、帯広の六花亭カフェもあったし~。

 別に私は島屋の宣伝をしているつもりはないけど、よりによって、ミュシャだけを
見に来た日に、こんなのを同時にやっているだなんて、時間が間に合わないっす。

気を取りなおして、ミュシャ展へ

                 第一章 ミュシャと女性 & 自然
                 第二章 ベルエポック
                 第三章 
装飾デザイン
                 第四章 祖国モラヴィア
                              の四つの章に分かれての展示。

10年前の展覧会の印象が良すぎたので、ここでは入った途端、リトグラフと書かれた
絵がまるでグラビア印刷のように見えてガッカリした。が、進んで行くにつれ、やはり
ミュシャの世界に引き込まれて行ってしまった。

 
ミュシャ自画像 チェコ語では「ミュシャ」でなく、「ムハ」と言う。



彼はプラハの美術アカデミーを、技量不足!ということで入学出来なかったという。
地元で、地方裁判所の書記として数年働いたあと、ウィーンに行き、
舞台装置を作る工房で働くが、20才の頃に母親や異母姉を亡くす。
劇場が焼失し、年少のミュシャは工房を解雇された。
ウィーンを去り、ミクロフ地方に移って生計をたてるため肖像画を描いていたところ、
そこの大地主クーエン伯爵と出会い、伯爵の弟が最初のパトロンとなる。
25才のころ、伯爵の援助でミュンヘン美術学校に入学するも、最初の2年は
飛ばしてもいい程の腕前だったという。
1888年、パリに出てアカデミー・ジュリアンに入る。
この頃、「ファウスト」を題材とする絵が完成。
アカデミージュリアンからアカデミーコラロッシに移ったころ、
伯爵からの援助が打ち切られる。

生活のために、ミュシャが装飾デザイナーとして出版社のための仕事を
始めたのは、この頃からであり、挿画やポスターを制作しては大好評となり、
アール・ヌーボーとミュシャとは同意語とされていたという。

ということで、彼の描く絵はポスターに、カタログに、カレンダーに、本の表紙に、
はたまた紙幣にまで使用され、全世界に広まった。
ヴィクトリアン・サルドゥの戯曲「ジスモンダ」に主演するサラ・ベルナールのために
最初のポスターを制作し、以後6年間の契約を結ぶまでとなる。


チェコスロヴァキアの10コルナ紙幣


  

      
        「スラブ叙事詩」 展            四つの星ー「明けの明星」          「ジスモンダ」


装飾資料集(リトグラフ)書籍

装飾資料集を見ながら、気に入ったデザインをお客さんが選び、
タイトルと文面をつければ立派なコマーシャルアートとなります。
パリ万博公式晩餐会のメニューにおける彼のアートも実に洒落ている!


パリ万博公式晩餐会のメニュー下絵 (鉛筆・墨・白のハイライト/紙)

しかし、彼にとって、これらの仕事はあくまでも生活の為のもの。
逆境あってこそ脚光をあびるようになったミュシャの一側面だったのだ。

ミュシャのパリにおける活動は、1903年ごろから版画制作の割合が減少し、
同時に、注文による制作をなくし自由な芸術活動の割合が増えていった。
私が気に入ったのは、木炭とパステルで描かれた
「生地イヴァンチッツェの思い出」という小さな絵。
会場内に置いてあった図録での解説にはこんなことが書かれていた。

《「生地イヴァンチッツェの思い出」は、他人の利益の為にかりたてられて制作する毎日に
対するアルフォンス・ミュシャの抵抗をよく表しているだけでなく、青春時代や夢、
故郷など、生まれる端から指の間をすり抜けていってしまうあらゆるものを表現したいという、
彼の欲望の表れでもあった。》と、息子のイジー・ミュシャは書いている。
両手を組み、夢想にふける少女の背景に、イヴァンチッツェの教会の塔から飛び立った
ツバメの群れが、少女のかたわらへと降りてきている。

図録は、以前のがあるから購入しなかったが、この絵の絵ハガキがなかったので
後日図書館で探してみようと思う。あとで少し追記予定!

アール・ヌーヴォー風のカット

ー 追記 ー

1月23日午後11時。ただ今、2回も追記を消滅させて、あせっています。
仕事から帰ってきて、自分のブログの一部の字体がー2ポイントだった事を知り、がっくり。
web上にUPさせる資格がないですかぁ。
帰宅前に図書館に寄りましたが、私のお気に入りの絵は見つかりませんでした。
ダリの時もそうでしたが、いつか、見つけた暁には、スキャナでコピーして
そぉ~っとUPしときます。
以下、ミュシャの晩年の記述を本から移し取りました。
彼の生活の場が、アール・ヌーボーそのものだった、と、本で知り、更に憧れてしまいました。

ミュシャが晩年に向かうに従い、民族意識が高まり、1911年より:

0点の記念碑的な壁画よりなる《スラヴ叙事詩》で、スラヴ民族の起源、
自らが今日までに達成した志、未来において到達するであろう目標を描こうともくろんだ。
・・・・・・・・
つまり、現実と寓意、物語とその象徴的な意味、今ここに存在する人間と将来の彼らの
神と祖先。歴史画と象徴主義の結合はそれ自体が《スラヴ叙事詩》の最も顕著な
特質だ。しかし、そればかりではない。1890年代の装飾美術に積極的に
関わる事によって豊かになった芸術家が、歴史画に復帰した時に見せる
発展も示しているのである。

ミュシャが望んだのは、スラヴ民族の歴史的に重要なエピソードを描くことにより、
未来の世代に、清廉と勇敢と理想主義と信念を教えることであった。
人間としても、芸術家としても同じ精神を持っていたので、、彼の生涯と作品は、
世界中で反応を引き起こし、国境を越えてひろがってゆく。
(ノースカロライナ美術館 アンナ・ドヴォルジャーク)




1939年、ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻した際,ミュシャはゲシュタポに最初に
逮捕された人々の中にいた。尋問された後帰宅を許されるが,この苦しい体験は
ミュシャの健康を損なう。7月14日,プラハにて死去,ヴィシェフラッド墓地に埋葬。

 

 

 

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スーパー版画家

2007-01-12 | art/exhibit/museum


エッシャーホイシャッシャ♪ と、つい口ずさみたくなるような
スーパーエッシャー展 ある特異な版画家の軌跡」に行って来ました。
オランダの版画家、M.C.エッシャー(1898~1972)は、芸術家ではなく、全身全霊をかけた
版画家でありたいと願っていました。版画の中でも、木版とリトグラフを使用し、
刷師に任せず、木版と銅版に関しては全ての工程を自ら手掛けたのです。

同じ展覧会のパンフレット、私が持っているだけでも4枚あります。
昨年から楽しみにしていたのですが、又、最終日に近い、
スーパーコミコミデーになってしまいました。

文化村に入ると、「チケット購入40分待ち」の立て札にガクッ!
念のため、地階に降りて確かめましたが、そこでも同様でした。
「中に入る待ち時間ではなくて、チケットを買うだけで40分待ちなのですか?と
念を押して聞いてみましたが、そうだ、とのこと。
でも、若い方がそっと教えてくれました。
「パンフレットにも書いてありますが、ローソンなどのコンビニでも買えますよ。」
で、すぐに外に飛び出し、裏道でローソンを見つけたら、もう先客がいました。
知らない方は会場窓口で何十分も並んでいるけど、
こうして、ちゃんとわかっている方もいるんですね。私もその一人!
ルンルン気分で戻り、会場に入ってガックリ。中では人間が多すぎて壁となり、
一体見れるんだろうか、心配になったほどです。
若い方がこんなに多く来ている展覧会って初めて。大多数が音声ガイドを手に持って
見ているので、渋滞の原因の一つとなっていますし、細かすぎて、近寄らないと細部まで
見えないので、それが更に混む原因を作っています。

 
私は彼の本を2冊持っていたので、知っている絵が多かったのですが、
生で見るエッシャーは、すごい!楽しい!
何と言う想像力と構成力でしょう!



彼はスペインのアルハンブラ宮殿を訪れた時、内部のモザイクに強い衝撃を受け、
作風が変化していきます。そこで見た、モザイクの模様の仕組みを紐解き始めるのです。
その法則の解明に繋がるのが《エッシャーノート》。

日本で初めての公開となる《エッシャーノート》では、エッシャーが紐解いた一つの法則、
正則分割の仕組みをめぐるエッシャーの思考の痕跡を知ることが出来ます。

      この展覧会は、
              第一章 身近なものと自画像
              第二章 旅の風景
              第三章 平面と立体の正則分割
              第四章 特異な視点、だまし絵
                                  から成り立っていました。

            詳しくはエッシャー展のHPで、是非ご覧になってください。
           今日のブログはショートのはずだったのに・・・ご免なさい!

 コートを着て見ていたので、背中を汗がドバッと流れ落ちます。
こんななら、ロッカーに預ければ良かった、と後悔。
娘が昨日、仕事の帰りに行った時は、私から聞いていたので
「ロッカーにコートを入れてから会場に入ってよかった!」と言っていました。
どうだった?と聞くと、「もう、すっごくすっごく良かった!」と、感嘆の声。
彼女は下のミニカレンダーを購入してきました。
私は、というと、出口を出た所で、だまし絵フィギュアコレクションの入っている
300円の「ガチャガチャ」があったので、
是非とも「でんぐりでんぐり」が欲しかったので一つ買ったのですが、残念、
小さな子供だましみたいな「球面鏡のある静物」が入っていました。↓

 

1968年あたりに発行された「少年マガジン」~定価60円の時代ですよ~には、
《ふしぎ特捜隊》という連載読物の中で、沢山のエッシャーの作品が紹介されていた
というのに、ミック・ジャガーがレコードジャケットに使わせて欲しいと頼んだ所、
断られたんですって
!あらあら・・・ですわねぇ。なんでだろう?

図式化されたJ.S.バッハの平均律のミニ演奏コーナーがおもしろく、
図式化した音階では、角度が音程を表すとのこと。最も長い水平線がド、
時計回りにド♯、レ、と続き、180度で1オクターブ上のドとなるそうです。
その繊細さには溜息のみでした。

もっと書きたい事があった気がしますが、思い出せば、後日、勝手に追記しますね。
あ~ぁ、又長くなってしまい スイマセ~ン!

 

 

 

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仏様を見つめる目

2006-12-10 | art/exhibit/museum




今更、ですが、先週で終わってしまった
「仏像~一木にこめられた祈り~」特別展
先日、初めてそのHP を見て、やっぱり少しばかり書き留めておきたいなぁ、と思いました。
百四十余軀の仏像のうち、国宝・重文が45体。それが一挙に見れたんですもの。
最後の週でしたから
、覚悟はしていましたがやはり入場制限をしていました。
でもお昼過ぎでしたので、すでに見終わって出てくる人々も多く、15分待ちほどで
中に入れました。パッと見渡しただけで来場者の平均年齢の高い事がわかります。

館内は暗く、スポットライトを浴びた、ガラスケース入りの小ぶりな十一面観音菩薩立像が
ずら~り、最初に入った「第一章 檀像の世界」の会場に並んでいました。
どの彫刻も ぐるりと人が取り巻き、一軀を見るのになんと時間のかかったことか。
絵画と違い、彫刻は前、横、後ろから、と、あらゆる角度から見るので、混雑の中、
向きを変える度に何十回も人とぶつかりました。
こんな具合に 知らない人たちと接触しながら見る展覧会は初めて。
仏像を見ていると、その仏像よりも、見つめている人、人、人、彼らの目、目、目 に
視線が奪われてしまい、こんな顔をして皆、見つめているんだ、とその真剣なまなざしが、
仏様よりも目の奥に焼き付いてしまったものです。
見つめている顔は、どの顔も美しかった!

今回の特別展で最も注目されたのが、「第二章 一木彫の世紀」の会場に置かれた
寺外初公開、滋賀 向源寺の国宝
十一面観音菩薩立像でした。

パンフレットでも、
「その姿の美しさから白州正子、井上靖、土門拳、水上勉ら多くの人々の心を
魅了してきた像として知られています。」
と謳ってあり、見る前から楽しみでした。その柔和な表情といい、腰のひねり
といい、纏った衣文の柔らかさといい、これが一木に彫られた造形物なんだ、と思うと
感嘆の溜息が出てしまいます。
衣文とは仏像が付ける衣に表現されるひだやしわのことで、衣文の彫刻にその時代の
特色が表れているといいます。


web上より拝借


第三章 鉈彫(表面にノミ目を留める一木彫)で見た京都・西往寺の宝誌和尚立像も、
えっ、えっ、え~っ、と見とれてしまいました。宝誌和尚は、自分の顔の皮を剥ぐと、
中から十一面観音の顔が現れたという伝説的な僧侶で、材は特別な霊木を使用
とのこと。右行き、左行き、その眩惑的な表情を飽きもせずに眺めていました。



web上より拝借


最後の「第四章 円空と木喰」は、江戸時代の彫刻家、 円空と木喰(モクジキ)の、
約100軀に及ぶ小さめの作品の数々。今までと全く趣きが違い、木の温もりを感じる
作品群です。その形は伝統にとらわれずとても庶民的で、二人が全国を回って大量に
制作し、庶民の生活の中で親しまれたことが窺われます。円空の岐阜・高賀神社の
「善財童子立像」は、表情が可愛くてそばに置いておきたいような像でした。

 
           

実際、この展覧会の様々な仏像の前で、深い祈りを捧げている何人もの人の姿を
目にしました。 何を思いながら、どんな気持ちで祈っていたのでしょうか。

   仏像展 国宝重要文化財 溢るる中 かくも美しきは 祈りの人々
    

素晴らしい一木彫が会場に所狭しとばかりに展示された、見応え充分過ぎるほどの、
実に重たい仏像展でした。余りにもその重さが両肩、というか全身を襲ったので、
ブログに書けないやぁ~と思っていました。ぐったり、疲れたんですもの。
でも冒頭で書いたように、web上で改めて出展作品群を目の当たりにし、ホンのひと言
日記として残そうかと思い直した次第です。
リンク先が、展覧会後に消滅しちゃうかもしれないので、その前に、まだご覧になって
いない方々で興味ある方に、是非、見てもらいたいです。

         butsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzou                                                               
     

     一木彫の造形は、木の表面から内側に彫り進むことによって決定
     されるために、一度削ったら修正は不可能です。結果的に、細部の
     破綻が全体に及ぶ危険性があり、制作者は常に細部から全体へ、
     全体から細部へと目を配りながら仕事を進めていく必要があります。
     つまり、制作者と素材である木には常に緊張関係にあり、そこには、
     一刀、一刀精神をこめて彫り進む真剣勝負の世界が展開していたに
     違いありません。一木彫の中に、時代を超えて現代の人々の心を
     揺さぶる名品が多いのは、こうしたことに起因しているといえるのでは
     ないでしょうか。  
(web上「一木とは」より抜粋)

         butsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzoubutsuzou 
 
           

平成館をあとにして、改修工事を終えた表慶館が公開されていたので寄りました。
明治時代の建築物は作りが丁寧で、落ち着きます。
中身はがらんどうでしたが、これからこの建物に見合うイベントに期待しますね。
     
  

      

上野駅に行く前に東京文化会館に入り、重い身体を休ませ、お茶してきました。
その日は「
マリンスキー・バレエ」の公演日。
急にバレェが見たい気持ちに駆られ、パンフレットをかき集めてしまいました。
あぁ、バレェを見に、誰か私を連れてってぇ~!
                    軽やかに、
                          アンドゥトロワ ♪

       
 
 ひとこと
仏像の大きい写真はリンク先でご覧になれます。
このブログが大層重くなってきて居りますので、後日、二枚の写真を縮小する予定にしておりますのでご了承くださいな。




 
 

 

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リュ・シファの詩

2006-12-01 | art/exhibit/museum

                        

 もう12月に入ってしまいましたね。
まとまってパソコンを使う時間がなかったり、使おうとすると先着がいたりで
アップするのが遅くなりましたが、本当は11月29日に予定していたんです。が、
上野の東京国立博物館に、《仏像「一木にこめられた祈り」展》を見に行き、
140体の仏様の霊にとり憑かれたように
体全体へとへとになりました。
今日、つづきを付け足して遅ればせながらUPすることにします。

(11月29日付けでの)先月の事ですが、蓮池薫さんが翻訳家として
韓国の文学やベストセラーを紹介する仕事に取り組み、すでに8冊を出版されたこと、
韓国の国民的詩人であるリュ・シファさんの詩集が彼の邦訳により、
10月下旬に日本で初めて出版されること、
「喪われたニ十数年間を取り戻そうと、自分を叱咤激励してきたが、無理があった」こと、
全国に広く知れ渡ったことによるプレッシャーなどで日々の生活を
楽しむ余裕が持てなかったこと、
それに加えて拉致被害者の方々のお子さんも含めての現況などが書かれた記事を
新聞で読みました。
興味を持って読んではいたのですが、切り抜いて置かなかったので、
新聞の山のなかに埋もれて忘れていたのです。

そんなある日、「透明な場所」の石井さんより、リュ・シファさんの詩集が
出版されたことを知らされました。そのメールのなかには、タイトルとなった
「君がそばにいても僕は君が恋しい」という題名の詩の、蓮池薫さん訳と、
別の本に書かれていたという河野進さん訳の二つが紹介されていたのです。
石井さんのHPを知るようになったいきさつは、去年のマイブログに簡単に書きました。
2年以上前になるかしら、私がある彫刻家のことを検索していて偶然に出会ったのです。
HPの中で目にする詩や写真、随筆、小品のすべてが私にとって興味深く、
勇気をだしてメールをしてみたのが返信をいただくようになった始まりでした。

初めて目にしたリュ・シファの詩 「君がそばにいても僕は君が恋しい」 は、
石井さんがとても気になっていたというだけあり、
ドキドキするほどに美しく、私もその詩集を是非とも手にとって見たくなりました。

メールの中で石井さんは、「シファは精神世界・宗教世界への造詣が深く、この詩自体、
単に恋愛感情だけを表現したものではなく、神を強く意識して作られたものだと思われる」
と 両者の和訳の〈君〉と〈あなた〉の違いを指摘され、彼なりの意見も添えてありました。
私はこれらのことを自分のブログで紹介したくなりましたが、ずっと迷っていました。
だって、石井さんには「透明な場所」というすてきなHPがあるし、私が下手な言葉を使って
紹介するのもかえって失礼だと思ったからです。
でもでも・・快諾していただきました~♪

★ ★ ★ ★   

以下、蓮池さん訳の詩です。



そして、「参考までに、」と、河野進さんの訳詩も添えてありました。



 

皆さんはどちらの訳詩がお好きですか?

これを紹介していただいた頃、この近辺の本屋にはなかったので
都心に出かけた折に探し、ついに買ってしまいました。
蓮池さんはあとがきの中でこんな風に言っています。


・・・・・・・・・

生とは何か、死とは何か、詩とは何であり、愛とは何かという
哲学的・感性的な問題に久しぶりに向かい合えた。
そして彼の詩の世界に浸っているあいだは、せわしない現実世界から離れて、
精神的な故郷に戻れたような、
すべてのしがらみを脱ぎ捨て精神的に裸になれたような、
精神の大自然にどっぷり浸かれたような、そんな気分になれたのだ。
・・・・・・・・・


韓国において、若者に圧倒的な人気を誇っているという詩人、
リュ・シファの詩の世界を、私も石井さんと同じように、
少しずつ、ゾクゾクしながら味わっています。
もし、石井さんが翻訳されたらどんな風に表現されていたかなぁ。





 表慶館の二階の窓より

★空と彫刻の写真は29日の夕方、上野で写したものです。

 

 

 

 

 



 

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新宿にし・ひがし

2006-11-07 | art/exhibit/museum

   

この連休も何だかんだと予想外のことが多くあり、思ったようには行きませんでした。でも一日だけ新宿まで、用事を兼ねて、損保ジャパン東郷青児美術館で開催されている
ヨーロッパ絵画の400年ウィーン美術アカデミー名品展」に行ってきました。

2002年7月1日に安田火災と日産火災が合併し、株式会社損保ジャパンという名称にかわり、その年の12月に更に大成火災と合併したので、以前の名称を思い出すのは大変です。安田火災ビルは損保ジャパン本社となり、それに伴い、美術館も安田火災東郷青児美術館から、損保ジャパン東郷青児美術館に変更となったわけです。あ~ややっこしい。

りそな(理想な)の前身は?そしてみずほは?「幸福銀行」は不幸になった
ようだし、太陽神戸三井に住友が一つになったし、えぇ~と、と、時々一人でそれぞれの前身を紐解いては混乱しています。

ウィーン美術アカデミー《ウィーン美術大学》絵画館のコレクションは、ウィーンを芸術の都として繁栄に導いたハプスブルク朝の女帝、マリア・テレジアに仕えたランベルク伯爵(1740~1822)から寄贈された740点の絵画が基礎となり、ルネッサンスから近代までの作品で構成されています。
その中から今回は
約80点が展観。馴染みのない画家のなかで、レンブラントの「若い女性の肖像」が、レンブラント作という事で目を引きますが、マイテンスの描いた「女帝マリア・テレジアの肖像」も、波打つレースで縁取りを施したドレスを着用し、気品と威厳に溢れた魅力的な女性として描かれていました。傲慢ではなくて威厳のある人って言うのは、腹が決まっているように見えます。

                
                      ★マイテンス 「女帝マリア・テレジアの肖像」         ★レンブラント 「若い女性の肖像」      


この時代のウィーンは、モーツァルトやシューベルト等が活躍する、文化と芸術の中心地。
傑作だなぁと思ったのは、男性モデルの裸体を、当時の音楽家の装いと同じような仰々しい格好をした沢山の男の画家たちが、それぞれ違った取り込み方でデッサンに励んでいる絵。モデルをアップして描いている人もいれば、モデルと、彼を描いている画家たちをひっくるめて描いている人もいます。このタイトルは「ウィーン美術アカデミーの裸体教室」だったかしら。
「パリスの審判」(1640年頃)も、描かれた絵の説明書きを読みながらだと一層面白いし、「悪徳に勝つ美徳」=ウィーンの裁判所天井画のための下絵、もタイトルを見なかったらどう解釈したでしょう。


ローベルト・ルス 「ベンツィンクの湿地の早春」
この絵葉書一枚だけを購入・・・なんか、似ている、あの、「ヴォルプス・ヴェーデ」と。

  以上、昨日打っていたのですが、この部屋の住人が使用するので、ストップしました。
  なんか、イマイチ自分のやっている事に納得できず、「だからどうした」が付きまといます。
  ウィーン美術アカデミーの絵の事をなんで書いているんだろう。
  だからどうだっていうんだろう・・・・?

  今朝、職場に向かっていたら、フロントガラスの真ん中辺りを、点のように小さい虫が
  上の方にチョロチョロと這い上がって行く。車は時速5,60キロで走っているのに
  なぜ振り落とされないんだろう、と 
見ていたら、そのあとを、点を10個集めたくらいの
  小さな蜘蛛がシュシュッ、シュシュッと追いかけて行き、一瞬のうちに点をパクッと飲み
  込んでしまった。「弱肉強食」の現行犯で蜘蛛を捕らえなければ、と、とっさに思った
  ものの、すばしっこい蜘蛛は、ボンネットの隙間にスルッと消えてしまったとさ。

これを目撃してから少し吹っ切れました。一生って万年単位で見たらこんなものかしら。

昨日に戻りますが、6時閉館の頃ちょうど見終わり、外に出たらもう夜の新宿ネオン街。
といってもまだここは西口。小田急ハルク裏の更に裏あたりだったか、若かりし頃に時々通った焼き鳥屋がまだあるかしら、と、ちょっと回り道をしたら、そのお店を見つけてしまいました。
ウヮ~ッ嬉しいぃぃ・・!
焼き鳥を焼いているおにいさんに 「ここって、もしかして、何十年も前からあるお店?」
って聞くと、「そうですよ。」だってぇぇ・・・!中を開けたら、このやり取りを聞いていたのか、
若旦那?のような方がニコニコと立っていました。そこで私、又、
「ここって、二十年とかでなくて、もっとずっと前の・・?」と念を押して聞くと
「そうですよ。中も殆ど何にも変わっていないですよ。」
で、客席を覗いたら、ホントに此処だったんです。
土地は買収され、超高層ビルや大型店舗にほぼ姿を変えてしまっている西口のなかで、
ウン十年も一軒家を維持していただなんて感激。 今度、絶対来るからね~。

                              「ぼるが」

東口に用事があるので、ここからガード下を抜けて東口に行くのですが、あのごちゃごちゃした飲食街も変わっていないし、すぐ真上を電車が走る、小汚いガード下も変わっていなかった。
T枝ちゃ~ん、もしかして私がはじめて「ホップ」を飲んだのは、思い出横丁だったかしら?

                
 

そして、またしても我が青春の・・フローレンス、じゃなくて、シンジュク、を見つけてしまいました。あの焼き鳥屋と同じ時代。いつも連れだったm-chaに教えたいです。モダンジャズの音楽を流していたCATの、この猫のイラスト絵を描いたNさんが、「この本面白いよ」と、お店でバッタリ会った時に見せてくれた読みかけの本が、忘れはしない、本多勝一の「アメリカ合衆国」。
いろんな事を吸収した良き時代でしたが、いつも行動を共にしていたm-chaは、ちょっとした事がきっかけで神経的な病になり、外出がままならなくなってしまったんです。もう15年以上になるでしょうか。薬とその副作用との戦いです。

                  

私の目的地は3丁目の「世界堂」でした。
うちの方では手に入らない、一本100円のラッションペンを求めて此処まで来るには、なにか別の用事を兼ねないと勿体ないでしょう。歩きだと、とっても小回りがきいて発見の多い一日になるんですね。
折りしも世界堂本店6階では、竹久夢二の「セノオ楽譜の世界」展の最中でした。
楽譜の表紙絵をこんなに描いていたとは!
小さな絵だし作品数は多くないけれど、レトロで、モダンですっごくよかったです。油絵を見た後に、さっぱりとした上質なデザートをいただいた気分になってしまいました、っていうのはシツレイな言い方ですかぁ。

                            

 

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覚えていますか、第五福竜丸

2006-10-30 | art/exhibit/museum

先日夢の島公園に行った時、久しぶりに
第五福竜丸展示館を覗いて来ました。
1954年に太平洋のビキニ環礁でアメリカによる
水爆実験により被爆したマグロ漁船です。
偶然「ベン・シャーン」の絵を少し見ることができました。



今月発売されたこの本の挿絵のコピーが展示されていた
のですが、絵の横に添えてある詩が、
アーサー・ビナード氏のものだったのです。
彼のこともベン・シャーンの事も良くは知らないけど、
ビナード氏は雑誌「ミセス」の中の一ページ<ひとつの詩のはじまり>で
 クレーの絵の横に短い詩を書いているので覚えていました。
どうしてアメリカ人が日本語で詩を書いているのだろう、と
不思議に思っていたし、読んでも決して下手ではないし・・・
プロだもの、当り前かぁ~と納得してみたものの、
相手は日本人ではない。やはり、なんか引っかかります。
2001年に『釣り上げては』(思潮社)で、中原中也賞を受賞したり、
雑誌ミセスの特等席のような場所に連載で詩を、
それも大画家の絵と共に載せているだなんて。
日本語の達者な日本人にだって、詩を綴る事はけっして易しいことではないし、
私だって外国に14年居住したけど、その国の言葉がメインとなる
職業を持とうとか、持てるとか、思った事もありませんでした。
一方、
ベン・シャーンが、アメリカの「ハーパース・マガジン」に依頼されて挿絵として描いたのが
この第五福竜丸のシリーズでした。その他にも、

  • サッコとバンゼッティの受難(1931-1932)サッコ・バンゼッティ事件
  • 盲目のアコーディオン弾き(1945年)(ノイバーガー美術館)
  • リルケの『マルテの手記』より(1968年)

が、代表作と言われているそうですが、「フォーチュン」とか「エスクァイア」などにも頻繁に
イラストを描いていたそうで、デザイナーの憧れ的な存在だったようです。

会場には絵本の販売もありましたが、まずは小冊子「青春と読書」に100円を払い、
この絵本の装丁を手掛けた和田誠氏とアーサー・ビナード氏の対談、
《ベン・シャーンが描いた「第五福竜丸事件」》を興味深く読みました。

和田氏は大学一年の時に、「グラフィック展」でベン・シャーンの「ウイ・ウォント・ピース」
というポスターに釘付けになり、上記の洋書を古本屋で探し、
彼の絵を探し捲ったといいます。
探すといっても必ず見つかるほどの人気画家だったといいますが、
ずっと社会を見つめて描いていたようです。
また、アーサー・ビナード氏の、対談中の次の言葉に
同感の気持ちでいっぱいになりました。彼、この対談を、このとおりの日本語で
お話しされていたのかしら?驚きです。

 サッコとバンゼッティ事件は今や歴史の本を丁寧に読まないと出会えない。
でもベン・シャーンの絵は今見てもちっとも古くなく、「誰だろう、この二人」って
絵からその事件に興味を持つ人が少なくないはず。
ベン・シャーンが描いたおかげで、歴史がつながっているとも言えるような気がします。
*・*・*・*・*
文学作品や美術作品はそういう責任を担っています。
宗教でいえば、例えばカトリックからキリストやマリア様の絵を全部取り除いたら、
誰が教会に行くんですか?
ある意味でベン・シャーンはジョットみたいな存在かもしれないね。
この第五福竜丸の事件も、彼が描いていることでつながっていく。

*・*・*・*・*

9月23日 久保山さんの 心臓は とまった。
「原水爆の 被害者は
わたしを 最後に
してほしい」といって
かれは なくなった。
ひとびとは わかってきた――
ビキニの海も 日本の海も アメリカの海も
ぜんぶ つながっていること。
原水爆を どこで 爆発させても
みんなが まきこまれる。
                                 (絵本より抜粋)

館内の壁には来場者のメッセージカードが掲げられていました。
これらを読みながら、どういうわけか息子が何日か前に、懐かしくなって・・と言って
買ってきたCDの歌がリアルに蘇ってきました。
子供が5才にもならない小さい時に、家族して年中聞いていた曲。




 We are the world, we are the children

We are the ones who make a brighter day

So let’s start giving

There’s a choice we’re making

We’re saving our own lives

It’s true and  we’ll make a better day

Just you and me

 

 

 

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ダリってダリ?

2006-10-21 | art/exhibit/museum

 
             

一昨年、裏磐梯の、諸橋美術館に行った時のことをnettonさんにメールで伝えたら、
こう言われたのです。「ダリって、ダリ?」

               

「ダリ展に、ダリと行こうか?」なんて新聞までが書きたてて、本当に、ダリと行こうかなって思っていた所、友達から「招待券を持っているから行こうよ」と誘われたので水曜日に行ってきました、“生誕100年記念ダリ回顧展” 正確には今年で102年目なんですけど、世界規模での展覧会の順番待ちでこうなったのだかどうか・・・ダリか知っていますか?

   

ハタチのときにその作品に大いに煽動されてから、幾年月になるのかな。初めは、彼のシュールリアリズムー超現実主義といわれる絵画が瞼の裏に焼きついて離れなかったのですが、彼が髭をはやしていて、これほどまでに個性豊かな画家であるとは、その時、絵画は見るだけ、だった私には知るよしもありませんでした。とにかくウンチクなしで、作品だけを初めて目にした日々だったのです。
今は、初めて見るものでも、情報が豊富すぎてしまって、見る前にそれらが頭にインプットされ、純粋に物を見る妨げにさえ感じるときがあります。

  
今回は友達が、イヤホーンのお役目を果たしてくれましたよォ~。
諸橋美術館でガラの存在を知って以来、ダリの一途な人柄がいとおしく感じました。
白紙のキャンバスにダリのサインを書かせ続けたというガラ。ダリの妻であり、ミュールであり、プロデューサでもあり、恋多き女性であり、ダリだけでは満足できなかった女性。でもその全てをダリは最後の最後まで受け入れ、愛し続け、一度、彼の元を去ったガラを、彼は聖女として描き続けていました。それでも、年老いて戻ってきた彼女を迎え入れるのは、ダリのほうだったのです。
この二人は出会いの時から、自分たちは一卵性のカップルであると、自覚しています。それゆえに彼の作品のキーポイントの一つは卵なのです。言っておきますけど、ダリが25才のときに初めて出会ったガラは、ダリより10才年上の、子供のいる人妻だったんですよ、もォ~!


  ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、裕福な中流階級の役人 の
  息子として生まれる。母親も富裕な商家出身だった。ダリ家には幼くして亡くなった息子が
  おり、両親は新しく息子が生まれるとその子に亡き子と同じ「サルバドール」という名を付けた。
  これが画家となるサルバドール・ダリである。亡き兄と同じ名であったことはサルバドール少年に
  大きな心理的影響を与えたと言われている。

生まれてすぐに亡くなった、自分と同じ名前の兄のお墓参りに行ったとき、ダリはどんなにか複雑な心境だったことかと察します。長男の再現として扱われてしまったのですもの。ガラとの結婚を期に、父とは不仲となりますが、彼の、故郷フィゲラスを想う気持ちは死ぬまで強く、彼の描く絵の遠景に現れたりしていましたし、終焉の地もフィゲラスでした。

ガラの存在を、絵画や写真を通してイヤになるほど感じました。
まず、写真ですが、彼が逆立ちをして、そのあごにハイヒールを載せている一枚。一方の絵画では、あちこちに杖が目立ちます。

 
「焼いたベーコンのある自画像」

杖なしでは、ふにゃふにゃになってつぶれてしまいそうな自画像。
ハイヒールに支配され、「作品のヒント」を与えられ続け、もうガラなしでは生きていけなくなったんでしょうか?ダリがダリをそうしたのか?
ダリはガラガラと崩れない為に、もはや杖なしでは生きていけない、と言っているようです。1982年にガラが88才で亡くなったあと、ダリの画家としての人生は終わりました。1989年1月23日死去。

卵の他に、彼の絵の中で目につくのが蟻、そしてフランスパン。
ダリは昔昔、コウモリを飼っていましたが、ある時、瀕死のコウモリを発見した時、体中、蟻に覆われていたそうで、それ以後、蟻には「死に至る」というイメージが付きまとったようです。
パンの絵は一風変わっていました。パンに靴下を履かせたような絵だったので、まるで足のようね、と私が言うと、友人は別の物に見える、と言いました。
後でわかったのですが、パンと言うのは焼きたては温かくやわらかい。時間が経つにつれて固くなり、最後にはぼろぼろに崩れていく・・・

「それは年とともに皮膚が固くなっていく人間という存在を象徴しているのである。それはまた、《焼いたベーコンのある自画像》におけるベーコンにおいても同様である。」又「それは、ふだんは柔らかく、勃起すると固くなり、やがて力を失う男根と同じである、と彼は考える。このようにして彼は生きるために必要な、聖なる存在でもあるパンに新たなる意味を付け加えたのである。」

と、【ダリ回顧展の見どころ】で、岡村多佳夫氏が書いています。
もう一つ、彼の絵や彫刻に頻繁に登場するクニャッと曲がった時計、これは回顧展のチケットとパンフレットに使用された「記憶の固執の崩壊」の絵にも描かれていました。私の頭も固くなってきているのか、なんだろう~?と疑問符ばかりでしたが、この件についても岡村氏は見どころのなかでこう言及しています。

「・・・そして、ダリは原子核の崩壊に思いをめぐらせつつ、それが人間という物質の崩壊を、さらにはその記憶の崩壊までも視野に入れてこの作品を描いたのであった。そこでは、死を象徴する枯れた木の下半分を含むほとんどのものが海の中にあり、その中で時計や人間の頭などすべてが壊れ、変化し始めている。表面の下では何が起こっているか、あるいは何があるかもわからない。あらゆる事象の表面をめくってみること。そこには時間も空間も超越した存在があるかもしれない。あるいは何もないかもしれない。そのようにして、ダリは見ているものの向こうにあるものを見る、あるいは見えないものを見ることが如何に重要かを示すのである。それはまさに、想像力の全的解放を謳うシュルレアリスムの考えを具現化したものであるといえる。・・・・・」

一枚の絵から二枚目の絵に移るのにー人が動かないのでーたいそう時間のかかった回顧展でしたが、それだけ、興味深く、面白いからなのでしょうね。私は大いに楽しめました。会場ををあとにし、紅葉にはまだ早い上野の山を、久しぶりに西郷さんの像方向に歩きながら、お昼をどこにしようか、と話し合い、トンカツの老舗「双葉」で頂くことにしました。私ははじめてなのですが、鈴本演芸場の先を右に曲がったところにある、全くふつうの、私なら絶対通り過ぎるだろうなぁと思う造りのお店。メニューをみてびっくりしました。だって、「トンカツ」か「トンカツ定食」の2種類しかないんですもの。
お値段だって味噌汁とご飯にお漬物つきの定食が2940円!ご飯のお代わりが200円!私、お替りサービスの所しか知らないし、大体お替りなんてしたことないしね。とんかつは、赤身ばかりでさっぱりと揚げてあり、美味しかったですよ。でも、お店に入る前にお値段がわかっていたら、私、入ったかなぁ。付け合せはご覧のとおり、キャベツの千切りでした。

 

帰り際にタウン誌を頂きました。このなかで、上記、岡村氏の記事を見つけたのです。
図録を購入しなかったので、見終わったあとでしたが、「見どころ」がちょうど、私たちの知りたかったことと重なり、、やはり~老舗でお食事~もいいもんだ、と思ったことでした。

 

  

 

 

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