うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む11

2010-01-22 07:01:27 | 日記

昨日に続きます<o:p></o:p>

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 夜十時B29一機伊豆方面より侵入。帝都周辺の探照燈、幾十条となく天を這い、ついにこれを捉う。B29一万メートル以上にも見ゆる高空なり。その白き一点より地へ傘のごとく拡がる光の柱壮観を極む。高射砲きらめけど、砲手藪睨みか、見当はずれのところ射ちついに逸す。<o:p></o:p>

 一月十八日(木)晴<o:p></o:p>

 午後一時より細菌学試験<o:p></o:p>

 帰宅後、歯医者にゆく。その帰途「大島館」なる映画館にふらりと入りみるに「夜戦軍楽隊」なる映画を上映しあり。数うるに見物わずか十五人。これまた空襲を怖れてのことなるべし。寒きことおびただし。便所の臭い場内に満つ。銀幕に媚笑のかぎりつくして歌う李香蘭を見つつ、われ思えらく、なんじかくのごとき場所におのれの美しき顔さらさるるを知るやと。<o:p></o:p>

 星きらめき、月鎌をなす。風なく夜しずかにして、全東京ほとんど暗き大いなる氷にとじこめられたるごとし。頗る寒冷なり。<o:p></o:p>

 一月十九日(金)晴<o:p></o:p>

 午後二時警戒警報発令。敵数編隊阪神地区に進入、二機は関東西部を旋回。碧き空に、葉なき樹々、金色にかがやきつつ浮び、白々と三日月一つ、円を淡くぼかして中天にあり。味方戦闘機、白き飛行機雲ひきつつ哨戒するが見ゆ。西部の敵二機、東京に入ることなくして去る。<o:p></o:p>

 隣組条例にて夜十時以後は絶対灯を外にもらさざるよう申し渡されたるとのこと。(これに対して作者は猛烈に反駁しております。生活上の支障というより、学生としての矜持からの言動と見ます。)
 これを称して行き過ぎという。食っては眠る動物ならばともかく、何かやらんとの心ある者、これによって何も出来ず。暗幕を下げ、スタンドを黒布にて覆いて、なお暗き光朦朧と外にもるる程度ならば、而して警戒警報発令とともにただちに消灯するならばそれでよきにあらずや。戦争はそう簡単にはすまざるなり。あまり神経質なるは長つづきせざるなり。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む10

2010-01-21 05:08:50 | 日記

捨て身の日本軍<o:p></o:p>

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 吾が空軍の一将師曰く「吾ら全軍体当たり捨て身の悔いなき戦争を決行せん。われらの子孫が、後世に於いて、祖先はかく戦えりということを記憶するかぎり大和民族は断じて滅亡することあらざるべし」と。それに対して作者はいささかながら批判的です。言々血を吐く声なり。叫びなり。凄絶悲壮、実に吾人をして背に粛然、また欣然たる感動を与うるものなれど、そもそもこの将、体当たり戦法をとりてこの戦争の前途に微光を認むるや否や。<o:p></o:p>

 一月十四日(日)晴<o:p></o:p>

 先日あまりに銭湯の悪口を書きたる天罰てきめん、きょうメリヤスのシャツ二枚板間にて盗まる。もっとも上等なるシャツにして、あと所持せるはぼろぼろに近き代物ばかりなれば閉口す。しかし可笑しくもあり。<o:p></o:p>

 B29伊勢の皇大神宮爆撃。<o:p></o:p>

 一月十五日(月)晴午後曇夕雪<o:p></o:p>

 空襲のため毎日明日の命わからず。高須さん(下宿の大家さんか)までが遺言を書いておくという。余の遺言はただ一つ「無葬式」。紙製の蓮花、欲深き坊主の意味わからざる読経、悲しくも可笑しくもあらざるに神妙げなる顔の陳列。いずれも腹の底から御免こうむりたし。<o:p></o:p>

 一月十六日(火)晴<o:p></o:p>

 午前十時、独逸語の授業中警戒警報発令。校庭に飛び出すや否や、もう頭上はるかなる蒼空にB29西より飛びくるが見ゆ。こは何事ぞと呆れるうちに東方に消え去りぬ。弾幕いたずらに蒼空に美し。<o:p></o:p>

 一月十七日(水)晴<o:p></o:p>

 肥運搬人来らず、家多く糞壷より溢る。わが宅にても溢れて汲出口より塀に至るまで、尿と糞ながれて湿潤す。もちろん汚し。…東京に於いては手のつけようなし。穴を掘らんか、三坪の庭、その庭せまきまですでに防空壕を掘りてあるを如何せん。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む9

2010-01-20 05:57:00 | 日記

大本営発表<o:p></o:p>

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 一月十日(水)晴<o:p></o:p>

 午前一時、五時及び午後九時空襲。<o:p></o:p>

午後三時半、大本営発表、敵ついにリンガエン湾に上陸開始。<o:p></o:p>

 一月十一日(木)曇頗る寒し<o:p></o:p>

 (沖電気の発注する小工場群、下請け工場と推察しますが、その従業員と家族の慰安として歌舞伎座の招待券が三枚手に入り、有楽町に行くとあります。日劇は一年の休業を命じられて扉を閉ざしており、その周囲は石炭箱のようなものが積み上げられており、その円筒形の建物が寒空の下に荒れ果てた顔をして立つと嘆きます。同じく休業の歌舞伎座ですが、かかる催しの時だけ開くようでして、小屋の前には「海軍海桜会主催」「沖電気強力工場慰安会」との大きな看板が立つと。)<o:p></o:p>

 芝居は羽左衛門の「高田の馬場」と「源平布引滝」なりき。安兵衛この寒さに着流しの赤鞘、ご老体の奮闘、真に同情す。大いなる観客席に見物半ばに満たず。空襲のおそれあれば招待券ありとも来らざる者多くあるべし。<o:p></o:p>

 (観客はと見ればゲートル戦闘帽の工員や、モンペ姿の女工たちが、もそもそと玄米の握飯を口に、寒そうに観劇とあり、またトイレに行けば、ふだん使われていないので、糞便などがタイルの上に固まって這うと細かく観察しております。)<o:p></o:p>

 本日、午前一時、三時、午後十時敵襲来。<o:p></o:p>

一月十二日(金)晴<o:p></o:p>

午前一時、三時半、空襲。<o:p></o:p>

昨夜の雪、路上に凍りて銀沙のごとし。<o:p></o:p>

比島全空軍、体当たり戦法をとる。日に日に新兵器生まる。曰く、V1号、V二号、凍結砲弾、無人戦車等。しかも日本軍の新兵器は、永遠に兵みずから生還せざる事実を包含する新兵器なり。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む8

2010-01-19 05:59:23 | 日記

フィリッピンの戦雲緊迫<o:p></o:p>

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 敵大輸送船団、フィリッピン、リンガエン湾に進入、第二、第三の大輸送船団も西進中なりと。ついにルソン決戦の火ぶた切って落さる。<o:p></o:p>

 陸軍観兵式宮城前にて行わる。B29ついにわが天皇をして代々木原頭に御馬首を進めざらしむ。情けなき次第なり。<o:p></o:p>

 九日(火)午前曇午後晴<o:p></o:p>

 午後第一教室にて山辺中佐の戦局論。(中学や大学に配属され軍事教練を受け持つ予備役の将校と推測されます)およそ一国強大なりといえども、戦線伸ぶれば強弩の末となりて弱国の力と釣り合うものなり。重慶が日本になお抵抗するのはこの理に基づく。このゆえにアメリカがいかに物量大なりとも、必ずや攻勢の終末点あるに相違なし。日本は最初この敵の攻勢終末点をガダルカナルに求め、ニューギニアに求め、クエゼリン、ルオットに求め、さらにサイパン、テニヤンに求めたり。<o:p></o:p>

(戦況のじり貧状態を軍人自身で解説しているようで、語りに落ちるといったところでしょう。中佐はその後も綿々と学生たちに檄を飛ばしています。比島がだめならシナ大陸があり、そこがダメなら帝国本土がある、最後の一兵に至るまで戦意を消失するなかれと。)<o:p></o:p>

 中佐の談話中、警戒警報発令。時に一時半。間もなく敵四ケ編隊、東京来襲。真青なる空をB29の翼銀色にきらめく。北方にわが戦闘機、白煙を天よりひいて堕つ。西より来る八機編隊中一機の胴に突如白煙わき、たちまち炎舞わして下に墜ちゆきたるものあり。みな歓呼して敵機機数を数うるに、以前八機。さては今墜ちたるはまたも味方戦闘機なるか。体当たりせんとする直前撃墜されたりという者あり。体当たりせるも不充分なりしと叫ぶ者あり。その敵一機、やや遅れ、細き一条の白煙をひき出せるもなお飛びつづく。味方戦闘機、これを待ち受けて飛びかかるも、みなあわやというところにてすれ違い、B29八機ついに全機視界に没す。皆声のみてこの大空の死闘を仰ぐ。三時半警報解除。「医者の蔵書」を読む。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む 7

2010-01-18 06:32:46 | 日記

銭湯の話はまだ続きます<o:p></o:p>

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 (湯舟の客たちは疲れきっていたからといって、別に恐怖とか厭戦の表情は見せず、戦うという最高目的を忘れることはないと強調しております。そして戦う、戦う、戦い抜くということは、この国に生まれた人間の宿命の如くであると断じ、いささかも筆にためらいは見せてはおりません。なにか物悲しくなってまいります。)<o:p></o:p>

 前には一人ぐらい、きっとお尻に竜などを彫った中年のおやじさんがいて、いい気持そうに虎造崩しなどをうなったものであるが、今はどこにもそんな声は聞こえない。<o:p></o:p>

 壁の向こうの女湯では、前にはぺちゃくちゃと笑う声、叫ぶ声、子供のなく声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、今はひっそりと死のごとくである。女たちも疲れているのである。いや女こそ、もっとも疲労困憊し切っているのである。<o:p></o:p>

 こうして裸になると、いかにも青年がいなくなったことがよくわかる。美しいアダムのむれは、東京の銭湯にはもう見られない。蠢いているのは、干乾びた、斑点のある、色つやの悪い老人か、中年、ないしは少年ばかり。(事実は辛辣で作者の目もまた深刻に現実を見据えております。)<o:p></o:p>

 一月八日(月)晴<o:p></o:p>

 午前第一教室にて大詔奉戴式、昼屍体解剖見学。(戦況逼迫の折から、医大でこうした授業が行われていたとは驚きです)<o:p></o:p>

 放課後本郷にゆき金原書店にて加藤元一「生理学」(下)を求む。九円なり。<o:p></o:p>

 帰途暮れの空襲被害地を見る。神田区役所付近、美土代町、神田駅付近、惨憺たる廃墟と化す。美土代最も荒涼たり。この三日に見末広町よりも被害地広し。焼けて赤き鉄屑、石、柱、或は機械の残骸、或は四、五台の自動車も焼けて放置さる。西空夕焼けて、灰じんの跡を斜めに照らす。高架を通る省線電車の窓、夕映えに燃ゆるごとく見ゆ。


うたのすけの日常 後期高齢者の日めくり その八十六

2010-01-17 09:29:11 | 日記

妹の訃報と葬儀<o:p></o:p>

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 11日の成人式の日、早朝に千葉の妹から電話が入ります、一時奇跡的に容態が持ち直していた下の妹が危篤という電話です。「あたしはこれから直ぐにおとうさんと出かけるから、あんちゃんも行ってやって」と言います。もうこれは葬式になると判断して喪服をかみさんと整え、支度にかかります。いずれにしても、バスと特急の時刻を調べなくてはなりません。その時また電話です。姪からで「今どこですか、まだお家ですか、良かった。叔母さんから電話があったと思いますが、遠くて大変ですから来られなくても…、お母さんもうだめなのです。」「そうか、しばらく落ち着いた容態が続くと思ったのだが、力を落とさないように。そうだね、言うとおりかも知れない、先日行って顔は見てるからね、そうさせてもらうよ。後は通夜と葬式の日取りが決まったら知らせておくれ。」<o:p></o:p>

 そんなやり取りがあって、午後電話すると妹が出て今帰ってきたところで、きれいな顔しているよ。苦しまずに息を引き取ったみたいと言います。それはなによりだ、葬儀の手配はと聞きますと、正月休みが入って斎場も焼場も満員状態で、予定としては15、16と言い、それまで家で待つしかないと言います。これもまた大変なことです。15日の通夜まで5日間も家に遺体を安置しておかなければなりません。しかし妹が連れ合いと一緒に泊り込んでなにかと手助けするということなので、まずは一安心といったところです。<o:p></o:p>

 あたしとしてはどういう葬儀になるのか、その間妹と電話でやり取りしながらいろいろと考えますが、何よりも姪の考えを尊重し、いらぬ口出しはしないことに決めます。妹の話では姪の勤め先の関係や、亡くなった妹の交際範囲などから既に何かと手伝いの人たちが出入りしていて、とてもではないが身内だけの葬儀といった範囲では収まらないということです。それで一般的なお葬式なる筈と言い、姪もその方針で葬儀屋と話し合いを始めていると言います。<o:p></o:p>

 姪は言います。母の命日は忘れることはない、1月11日、111よと。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 後期高齢者の日めくり その八十五

2010-01-15 06:08:20 | 日記

歯を抜きました<o:p></o:p>

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11時の予約で今日は歯を2本抜かねばなりません。ブリッジで引っ掛けてある歯が支柱の役目を果たせなくなって、要するに虫歯になってぐらぐらするようになったのです。前回写真を撮って一応説明を聞いているのですが、既にその時は上の空でして、2本抜いてブリッジにするということだけは理解しておりました。<o:p></o:p>

要するに橋が年月とともに老朽化し崩落の危険があり、新しく橋を架けなおす必要ありといったところでしょうか。<o:p></o:p>

抜歯にさいして麻酔を打つのですが、これがまた痛い。以前の抜歯のとき、その痛さは経験している筈なのに吃驚仰天です。ぐらぐらしているので、ペンチかなんかで引っこ抜くぐらいに考えていたのに大外れ。思わず体が堅くなります。麻酔のあとは至極簡単に抜歯は終わり、抜いた歯を見せられますが、気持のいいものではありません。<o:p></o:p>

あとは抜いた跡に脱脂綿をあてがわれ、血止めのため20分ぐらい噛んでいるように言われます。家に戻ってしばらくして血を含んだ脱脂綿を取ります。どうやら止血したようですので、たまたまあった柔らかなパンで昼食を摂りました。しかしそのあとどうも気分がすぐれませんので、少し横になって眠りました。<o:p></o:p>

目覚めて鏡を見ると口中が真っ赤なのに吃驚して、すぐに貰ってある注意書きに沿って、脱脂綿を噛んで血止めにかかります。しかしこれがどう狂ったのか、さっぱり血が止まりません。取り替える脱脂綿が真っ赤に血を含んでいくのです。心なしか痛みが加わってくるようです。これはいかん、先生の指示を仰ぐしかないと丁度午後の診察時間ですので電話をします。直ぐに来いということで、慌てて自転車を急がせます。<o:p></o:p>

先生ガーゼを当てて、棒状のようなものできつく押し込むようにします。痛いの痛くないの、先生はしきりにガーゼを取り替えては「止まらないな、また出てきた、困ったな。」の連発でありますが、「ふん、止まってきたね。しばらく噛んでいて下さい。このくらいの出血でどうってことはありませんよ。口の中なので唾液が混じるから大量に見えるだけですから」と、どうやら止血したらしく先生ホットしたようです。<o:p></o:p>

その後20分ぐらいガーゼを噛んだまま、椅子にかけてじっとしています。目出度く血止めが終わりご帰還であります。予備に頂いたガーゼを使ってしばらくした後、完全なる血止めを確認してから、おじやを作ってもらって夕食をすませ、早々と床に着きました。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む6

2010-01-14 05:18:40 | 日記

銭湯の続きです<o:p></o:p>

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 (いよいよ風呂に入ります。沸きかえった道頓堀に入ったと形容しております。)灰桃色の臭い蒸気の中にみちみちてうごめく灰桃色の臭い肉体!湯舟は乳色にとろんとして、さし入れた足は水面を越えるともう見えない。いや、たいていのときは、この一本の足をさし入れるということさえも容易ではない。立錐の余地なしというのが形容ではない満員ぶりである。<o:p></o:p>

 どうしてこんなに銭湯が汚くなってしまったのか。(作者は微に入り細にわたって説明しており、まさにその通りと頷かされます。)<o:p></o:p>

 それは一つの湯槽に入る人間が多くなったからである。極度の燃料払底のため、自宅で風呂をたてられる人はふつうにはまずなかろう。その上、工場の油に汚れる人が激増し、防空壕堀りの土にまみれる人がふえ、さらに日ごと夜ごとの空襲に、穴に飛び込んだり地に這ったりする人が多くなった。それに、夜工場から帰っても、何一つ娯楽はなし、火鉢一つ抱けない時世なので、せめて一つの娯楽、暖房として銭湯にでも入るよりほかはないのであろう。……<o:p></o:p>

 さらに重要な理由として、石鹸不足のため、人間が甚だしく不潔となったことがあげられよう。(まさに踏んだり蹴ったりの戦時下の都民の日常だったのです。そして昭和二十年の浮世風呂と題して…)十七年はまだ戦争の話が多かったと憶えている。十八年には工場と食物の話が風呂談義の王座を占めていた。十九年は闇の話と、そして末期は空襲の話。<o:p></o:p>

 「いやあ、おどろきましたなあ。昨晩は!」「色々こわい目にも逢いましたが、あんなことは初めてですよ」<o:p></o:p>

 「何とかサイパンの基地がなりませんかねえ!<o:p></o:p>

 「やっぱり飛行機が足らんのですかなあ!」等々。それが、「昨晩も、どうも」「うるそうてかなわんですなあ」くらいに変わり、今ではいくら前の晩に猛烈な空襲があっても、こそとも言わない。黙って、ぐったりとみな天井を見ている。疲れきった顔である。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む5

2010-01-13 05:35:46 | 日記

戦時下の銭湯事情など<o:p></o:p>

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 (夢の続きです)二面を見れば「B29日本昼間爆撃の機能消失」とあり、日本の攻撃により。B29は今後昼間爆撃の基地を失い、夜間のみとなれる由書かる。(この夢、すべて日ごろの願望から生じた夢と思われ、いかに昼夜の空襲がひどかったことが想像されます。またこの夢を朝飯の時、恐らく下宿の奥さんと見ますが、話しますと奥さんもあたしも昨夜見たといい、それは買出しの夢だったと落ちをつけています。)<o:p></o:p>

 銭湯 …去年大阪帝大の医学部で検査してみたら、夜七時以後の銭湯の細菌数、不純物は、道頓堀のどぶに匹敵したそうである。世相は物価の急騰に比例して悪化しているから、ことしの風呂などは道頓堀はおろか、下水道くらいになっているかも知れない。(終戦直後の風呂がまさにその通りでして、それに付随して銭湯の全般が劣悪な状態でした。)<o:p></o:p>

 さて下駄箱というものが不気味なものになった。とにかく普通の履物を履いてゆけば、絶対に盗まれるのである。以前に知り合いが、男と女と片かたの下駄をはいていって、これなら大丈夫と安心していたら、あにはからんやみごとに持ってゆかれてしまって、残りの両方とも役に立たなくなったという悲劇さえある。<o:p></o:p>

 風呂代は十二銭である。昭和十七年の夏上京したときは七銭であった。<o:p></o:p>

 次に、衣服を入れる籠である。壊れても新しく補充することができないから、需要と供給に相当の落差があり、たいてい十分間くらいは立ち往生して、籠の空くのを待っていなければならない。風呂敷を持参する人もある。「盗難注意」という赤い見出しのついたポスターには、籠に入れるにしても風呂敷に包んでから入れるように、と注意してある。<o:p></o:p>

 この籠は恐るべきものである。去年の夏全都にしょうけつを極めた発疹チブスはこの銭湯の籠が媒介する虱であったといわれる。…(小生の兄は自分の衣服を脱いだ籠の上で、パタパタ衣服をはたく客と、よさねえか、虱が落ちるじゃねえか!なんて、冴えない喧嘩をしていました。)


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む4

2010-01-12 06:10:46 | 日記

連日連夜の空襲<o:p></o:p>

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 連日連夜敵機来襲し、南北東西に突忽として火災あがり、人惨死す。明日の命知れずとは、まさに今の時勢をいうなるべし。ただし人は、他の死するも吾は死なずと理由なき自信を有するものなれば、必ずしも一日一日戦々兢々として暮らしあるものにはあらざれども、ただ、日本の興亡のみは実に理由なき希望のみにては安閑たるを得ざるなり。(空爆下の都市生活者の心理状態とはこのようなものだったのでしょうか。自分だけは焼死する惨禍から免れるといった、それこそ理由なき運命論に生きるしかないのかも知れません。加えて作者は戦時下の正月気分を嘆きます。)<o:p></o:p>

 ただ全日本人が夢遊病者のごとく、この凄烈暗澹たる日本の運命を、両手にて支え、一切他事を思う余裕なきが、この正月気分なり。<o:p></o:p>

 未明五時敵機また至る。焼夷弾を投下して去る。<o:p></o:p>

 (作者はこの間、浅草に遊びます。まだまだ全国規模の空襲には至っていないようです。興行街はまだまだ人が集まっていたようです。川田義雄や柳家三亀松の名が出てきます。)<o:p></o:p>

 三亀松、当代ドドイツの名人…さすがに紋付袴板につき、その痛快なるべらんめい調、観客への愛嬌と罵倒、皮肉とシャレと自嘲的なるニガ笑い、まことに江戸人的なり。これで帰れば防空副団長なる由。<o:p></o:p>

 「かの憎むべきB公が…」などいいて笑わしむ。<o:p></o:p>

 夜七時四十分、警戒警報、敵伊豆より侵入。帝都の西、北、東と廻りて脱去。<o:p></o:p>

 七日(日)晴<o:p></o:p>

 朝五時半警報発令。それまでに夢を見る。<o:p></o:p>

 人間は全然現れず、ただ新聞の記事ばかりの夢なり。<o:p></o:p>

「独逸力闘空しくついに屈服す」と大見出しあり、ヒトラー総統の写真など出ず。下に帝国政府声明の記事あり、陸軍総司令官は閑院宮殿下、海軍司令長官は東郷平八郎に更迭し、断乎戦争を継続すとのことなり。