「雑草風景」として詠んだ句について語っています。それは其中庵風景であり、そしてまた山頭火風景と断じてます。<o:p></o:p>
風景は風光とならなければならぬとし、音が声となり、形が姿となり、匂いが香りとなり、色が光となるようにと言いますが、いささか難解であり、咄嗟には理解しかねます。<o:p></o:p>
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私は雑草的存在に過ぎないと卑下し、それで満足と達観し、雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいとします。
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或る時は澄み或る時は濁る。澄んだり濁ったりする私であるが、澄んでも濁っても、私にあっては一句一句の身心脱落であることに間違いはない。一句一句に命を懸けるということでしょうか。<o:p></o:p>
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此の一年間に於いて私は十年老いたことを感じる(十年間に一年しか老いなかったこともあったように)。そして老来ますます惑いの多いことを感じないではいられない。省みて心の脆弱、句の貧困を恥じ入るばかりである。<o:p></o:p>
(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ 山頭火)<o:p></o:p>
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柿の葉<o:p></o:p>
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昭和十年十二月六日 庵中独座に堪へかねて旅立つ<o:p></o:p>
水に雲かげもおちつかせないものがある<o:p></o:p>
現在ではこんな現象も、またかような経験をすることは皆無ではないでしょうか。岩肌か、または筧から流れる水が雲を映します。天を流れる雲は水面に凝縮されて早い雲足となって、消えては現れ、消えては現れ旅人を急かせます、次の目的地に。<o:p></o:p>