観測にまつわる問題

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吉備:弥生時代と古墳時代の地方史①

2019-05-23 19:09:13 | 日本史
吉備の語源)黍と思われます。五穀のひとつですが、穀物と国名で言えば、阿波なんかも粟(日本最古の穀類作物とされ、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられるようです。粟散国=小国の用例も)だと思われ、筑紫も土筆かもしれません。畿内に近いほど割合素朴な国名が見られる傾向にあります。山門/山処、山代、河内、津、泉、木国。

黍)穂ができ、黄色い実が成り、垂れ下がります。黄実→黍説が有力だそうです。桃太郎伝説におけるキビ団子は黍団子と思われます。魏志倭人伝における吉備と見られる投馬国の長官が彌彌(みみ)で、副官が彌彌那利(みみなり)。実々と実々成りで農耕関連名のような気もします。

投馬国)読みはトマ国と思います。漢字の読みでトモと読むのは難しいようです。苫/蓬(トマ)は菅や芽で編んだもので、和船や小家屋を覆うのに用いるようです。蓬莱の蓬もトマのようで、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つです。苫葺きとは、苫で屋根を葺くこと、その屋根です。檜皮葺で使われるのは高級材の檜の皮ですが、檜山郡等の地名が知られます。日の木に近い椹(サワラ)が早良国。樫地名も多いですが、苫国があって不思議でない気もします。屋根国なら出雲関連で根国に通じますし、船は瀬戸内海の国にとって重要な意味を持っていたと考えられます。推計5万戸余で邪馬台国に比肩しうる大国です。ただし、当時の纏向遺跡に吉備系の土器の流入は多くなく、祭祀に影響を止めたに止まるようです。

埴輪)大和朝廷の前方後円墳に副葬されることで知られる埴輪(ハニワ)ですが、その起源は、弥生時代後期後葉の吉備から出土する特殊器台・特殊壺だとも言われ、倭国の女王の共立に吉備が深く関わっていたことが示唆されます。

弧紋円盤)2世紀末から3世紀前半の吉備系の祭祀用遺物。大和盆地南部の纒向石塚古墳から出土。

吉備津彦命)吉備津彦命/大彦と御所山古墳(福岡県京都郡の早期前方後円墳)、大彦に始まるとされる筑紫国造の関係もありそうです。武渟川別も出雲に派遣されています。

浦間茶臼山古墳)岡山県岡山市。奈良県天理市の黒塚古墳、京都府木津川市山城町の椿井大塚山古墳とあわせて、箸墓古墳のちょうど2分の1に企画された前方後円墳である可能性が高いと考えられているそうです(白石太一郎「第一章 箸墓古墳と大市墓」『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社〈中公叢書〉、2018年11月)。出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められることからも、箸墓が魏志倭人伝にいう卑弥呼の墓と考えてまず間違いないと思え、投馬国という邪馬台国に次ぎ吉備に比定される大国が倭国王卑弥呼の共立に深く関わった事情があるように思います。なおその規模と時期から、福岡県京都郡の石塚山古墳も箸墓関連古墳である可能性が高いように思え、西に派遣された吉備津彦命に関係がある可能性があります。

吉備の巨大前方後円墳

5世紀前半:御友別墓:造山古墳(墳丘長350m/全国4位)※景行天皇~日本武尊~仲哀天皇以来の縁。姉妹の兄媛が応神天皇の妃。備前。
5世紀中頃:稲速別墓:作山古墳(墳丘長282m/全国9位)※応神天皇が吉備を割いて与えた御友別の子の内の一人。備中。下道臣祖。下道臣は吉備真備を輩出。

造山古墳と作山古墳の被葬者)造山古墳と作山古墳は応神天皇は難波大隅宮にいた頃、兄媛(エヒメ)が故郷を思う様子を見て、吉備への帰郷を許しています。次いで応神天皇は淡路島で狩りをし、吉備小豆島に遊び、吉備の葉田葦守宮に移り住んだようです。ここで兄媛の兄弟の御友別(みともわけ)を気に入り、吉備を割いてその3人の子に与えました。吉備には全国では第4位の規模の巨大古墳「造山古墳」(墳丘長350m)があります。築造時期は5世紀前半ですから、5世紀初頭の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)(墳丘長約425m)と比較して、年代的にも記紀を見る限り、造山古墳の被葬者は御友別なんだろうと思います。3人の子とは稲速別(下道臣祖/川島県に封)、仲彦(上道臣・香屋臣祖/上道県に封)、弟彦(三野臣祖/三野県に封)です。吉備にはもうひとつの大規模古墳があって作山古墳(墳丘長282m)が5C中頃に造営されています。御友別の兄弟として浦凝別(苑臣祖/苑県に封)、鴨別(笠臣祖/波区芸県に封)の記載もあります。

桃太郎伝説と御友別)御友別(ミトモワケ)はそのまま応神天皇の御友(達)・御供っていう意味のようにも読めます。何だか桃太郎伝説に似ている気がしてなりません。犬・猿・雉が三人の息子だったりして。

メモ:トマ地名・住居の形・埴輪


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