観測にまつわる問題

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日中戦争開戦に纏わる誤解

2017-12-09 16:07:30 | 日記
Newsweek12月12日号「「歴史」とは何か、「記憶」とは何か」「「開戦」の歴史と向き合わずに和解はできない」を読みました。

アメリカは開戦に注目し、日本は終戦に注目するという指摘はなるほどそうかなと思いますが、まぁ申し訳ないんですが、日本の議論をよく知らないなという印象がなくもないですね。アメリカの見方として参考になると思いましたので、取り上げます。もっとも誤解だと思うのは日本の開戦時期についてです。

グラック教授は先の大戦の開戦を37年(7月7日)盧溝橋事件、中国においてであると主張しますが、筆者は端的に誤りだと思います。別に1941年の真珠湾攻撃が先の大戦の始まりだから、中国は関係ないと主張したい訳ではありません。アメリカとの開戦を始まりと見るか中国との開戦を始まりと見るかは、どちらでも可能だと思います。確かにアメリカは中国を影ながら支援していましたから、中国との戦いを始まりと見ることに無理はありませんが、そう考えると先に手を出したのは日本との関係ではアメリカという見方も可能です。当時米中軍事同盟があった訳ではありません(少なくともそんな話は聞いたこともありません)から、日本はアメリカには手を出していないという前提で、真珠湾攻撃が日本の奇襲開戦だという話が成立しています。ですから、アメリカに負けて終戦したなら、開始を日本の対アメリカ攻撃に見ることも決して誤りではないでしょう。1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされましたが、(準備はしていたかもしれませんが)これは真珠湾攻撃の後です。日本がアメリカと戦う意図なく中国と戦争を始めたということを意味すると思います。アメリカから見たら中国に手を出していることが自国に対する挑戦だと思えたのかもしれません。この辺は(筆者の知る範囲では)満州の権益争いで日米関係が拗れたことが原因だろうと認識しています(近現代史に詳しくないので誤っている可能性もあります)。その辺はさておき、筆者が指摘したいのは、事実として日中戦争は盧溝橋事件で開戦していないだろうということです。

支那事変(ウィキペディア)

>支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる

>1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。

>特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

支那事変=日中戦争だと考えると、盧溝橋事件で開戦という見方が当たっているように見えなくもありません。ですが、盧溝橋事件は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾しているのですから、盧溝橋事件をスタートと見るのは事実として誤りと断定せざるを得ません。終わったのに終わってないというのは形容矛盾です。終わったものを誰かが開始したから、停戦協定後に治まった状況が動いた訳です。他に解釈のしようがあるでしょうか?停戦協定の嘘を真実と認めたら、停戦協定を結べる道理がなくなります。停戦協定が必ず守られると考えるのはナイーブですが、停戦協定をやぶったものを停戦協定をやぶって戦争を開始したと見ない限り、本当のところは分からないはずでしょう。盧溝橋事件はすぐ終わった(同様の事件はその後もあった)。そして何ものかが日中戦争を開始した。これが歴史的事実です。盧溝橋事件とは所詮は小競り合いに過ぎません。まぁ小競り合いが大規模戦争に繋がる可能性も否定できませんが、少なくとも日本は事態不拡大に努めていたようです。

日中戦争をどちらが開始したかですが、これは中国が開始しました。何でそう言い切れるかと言えば、中国自身が戦争(徹底抗戦)を呼びかけて攻撃を開始しているからです。抗戦という言葉に誤魔化されてはなりません。日本が攻撃を開始した訳では明らかにありませんから、抗戦もクソもない訳です。中国が日本の進出に不満を持って追い出したいと思っていたであろうことは理解しますが、事実は事実。如何に中国の見方で中国に大義名分があろうとも、先に手を出したのは中国です。日本にはABCD包囲網などアメリカの圧力が開戦の原因だという主張があって、一定程度の説得力はありますが、開戦したのはどう見ても日本です。それでも開戦させられたと言いたがる人は保守派(右派)には結構多いです。中国も同じでしょう。どう見ても中国から手を出したのですが、日本を追い出すためだったから仕方が無いで(理解はします)、先に手を出すというのは不味いですから、誤魔化そうとしているんでしょうね。日本がそこで徹底的に中国が戦争を仕掛けてきたと宣伝すれば良かったはずですが、何故かそうしていません。当時も説明力が無かったんだろうなという気がしますが、その辺は良く分かりません。国際的孤立を避けたいとか言っても、結局全然避けられていませんし、事変だと日本が誤魔化したのは、戦争が起こってないことにしてアメリカの支援を得たい中国を利するだけだったではないでしょうか?戦争だと宣言して日本がアメリカに中立法を適用されたとしても、交戦国(中国)にも適用しなければならかったはずです。まぁ新しい立法もできますし、米中関係・日米関係を考えれば、戦争が始まったら、日本だけが一方的に制裁されるというのが当時の見方だったのかもしれませんが、中国の攻撃の出だしから批判すべきは批判していればどうなっただろうなと思わなくもないんですよね。青いのかもしれませんが。この辺は中国の開戦をアメリカが事前にどの程度知っていたのかにもよります。

もっと詳しく見るために第二次上海事変(ウィキペディア)を参照します。

>中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案し、1936年4月1日、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言し、北海事件後の9月12日には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。

>1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。阿羅によれば、呉福陣地や錫澄陣地は、「ヒンデンブルク・ライン」と総称された、という。

中国(国民党政府)が日本を追い出そうとドイツの顧問の意見を参考に戦争準備を着々と行ってきたのは間違いない歴史的事実でしょう。ただし、この時は決断できていないようです。

>7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本軍への抵抗は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。

抵抗と言いますが、日本軍が攻撃してきたとは書いていません。中国軍が抵抗と称して攻撃してきたからです。抵抗と言うのは日本を追い出すことが大義名分になると思っていたからであって、日本が手を出したことに対する直接の反撃を意味する訳ではありません。仇討ちにやや近い感じで、日本が進出した後になって、それを不服とする中国から襲撃してきたと見るのが客観的と思います。いずれにせよ、日本は中国のこうした挑発にのりませんでした。ヒンデンブルグラインとかどう見ても中国がやる気満々で戦争を求める中国に挑発されたからといって、大義名分(日本から先制攻撃)をくれてやって戦争を始める気は無かったんだと思います。しかし指導部は分かっていたでしょうが、国民に我慢を強いたことが後の南京事件に繋がった可能性はあると思います。いずれにせよ、中国のこうした行動は当時の国際社会は承知していてアメリカも中国を非難したようですし、日本は明らかに事態の不拡大政策をとっています。問題は盧溝橋事件の類が日本からの開戦を意図した中国(コミンテルンの謀略だと言う人もいます)の謀略か、偶発的な事件かということです。この辺は個別の事件を丹念に見るしかないでしょうが、その辺は学者・研究者の仕事でしょうね。ちなみに舞台となった上海には上海租界(ウィキペディア)があって、かつての香港のように中国の統治が及ばない国際都市でした。東洋のパリとも言われ、かなり繁栄したようです。

>1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。

停戦したり事件が起こったり派兵したり一触即発の状態でしたが、本格的な攻撃の開始は中国が始めています。日本は事態の不拡大の政府方針通りだったと見ていいでしょう。挑発にのらない日本に痺れを切らした中国がついに決断したのではないかと思います。それでも中国は宣戦布告などしていませんし、宣戦布告なしの開戦を認めた訳でもありません。

>8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。

>対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。

>8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。

戦争を仕掛ける側が圧倒的に有利な状況にあるのは当然のことです。当然真珠湾攻撃そのものは成功しましたが、日本はアメリカにボコボコにされています。中国は圧倒的に優位な状況で戦争を仕掛けたにも関わらず緒戦から敗北してしまいます(だからウッカリすると日本が攻撃したとか、どっちもどっち式のデマが流れることになります)。ですが、最終的には中国は日本に勝ったことになります。日本がアメリカに負けたことによる棚ボタではありますが、日本が広い国土を攻め切れなかったというのもあります。ドイツもソ連を落とせませんでしたが、広い国は厄介なところがあります。中国は援蒋ルートで英米ソの支援もありました。ソ連もアメリカの支援を受けていたようです。アメリカは今も強いですが、当時も滅茶苦茶強かったということでもあります。戦争中に自分から参戦できなかったのですから、もしも日独が中ソを落とせていれば、アメリカから開戦することは無かったような気がしないでもありません。

>937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする。 また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(英語版)』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた。

別に歴史を修正する意図はありません。寧ろ当時日本が戦争を仕掛けたと見る外国勢は(恐らく)いなかったのであって、中国がこうした過去の歴史を修正しているように見えます。日中戦争で戦争を停止する試みもあったようですが、この記事の目的と異なりますので、深入りはしません。結局は日本は事態の不拡大方針にも関わらず戦争を止められず、泥沼に入ってアメリカと戦い終戦を迎えます。アジアにおける第二次世界大戦のスタートを中国に見るなら、開戦を決断し実行したのは中国であると事実を指摘するのみです。日本がその辺に気を使わず事態を曖昧にしてきたことも悪いのですが、盧溝橋事件のような取るに足りない小さな事件に着目して、歴史の大きな流れを見失うべきではありません。

中国は最近こういうことに気付いてきたフシがあります。

「抗日戦争は満州事変から」 中国教育省が教材改訂指示(朝日新聞 2017年1月12日00時24分)

どうしても日本から攻撃してきたことにしたいようですが、満州事変は満州国の建国を持って切れているので、無理がある見方だと思います。まぁ近現代において、「中国人の土地」に先に進入したのは日本かもしれませんが、満州は歴史的に満州人の土地で、漢民族が入ったのは清代以降(それも長年移住は禁止されてきた)に過ぎません。人口の問題もあって、漢民族の土地になったていもありますが、中国人自身も含めて少しでも東アジアの知識がある人であそこが漢民族の土地だったと思っている人はいないと思います。そもそも中国に進出したのは欧米列強も同じで、日本は欧米列強の侵略を何とか跳ね返しましたが、そういう複雑な事情が当時にはあります。いずれにせよ、広く戦争をとろうと思えば広くとれると思いますが、満州事変(1931~32年33年)と支那事変(1937年~)を一緒にするのは無理があると思いますから、中東戦争よろしく、第一次抗日戦争、第二次抗日戦争ぐらいにするべきでしょうね。そして二次の方は自分から開戦したのですから、歴史を修正しないでもらいたい。歴史は勝者がつくると言いますが、中国だけが勝者なのかもう一度考えてみるべきかもしれません。

中国が最近言い出したところの抗日戦争の発端満州事変は、日本の謀略による侵略と思います。アメリカもトンキン湾事件を捏造して、ベトナム戦争を仕掛けたということがあったような気がします。まぁ中国には中国の言い分があると思いますが、嘘をついたらいけません。国際社会を騙そうとするのは止めて欲しいですね。アメリカという国も分かってか分からいでか、アジアを良く知らずに中国(韓国)に騙されるところがあるんじゃないですか。戦前日本は台頭するアメリカファクターを重視することが出来ず、敗戦に至ったような気がしますが、中国(韓国)並みといかないまでも、アメリカ世論を軽視して、同様の敗北を繰り返さないで欲しいですね。別に自分の歴史を都合よく解釈しろとも言いませんが、相手の主張で当時の文脈と違うものは資料を見れば分かるでしょうから、相手の修正を止めさせることぐらいは敗戦国でもできるんじゃないでしょうかね。歴史資料(ウィキペディア)を歴史学における資料批判を通じて常識的な解釈をしていただければ、少なくとも筆者が文句を言うことはありません。聞いてますか?中国さん、韓国さん(笑)。

今度は中国の台頭だろと思うそこのあなた!筆者とは相容れない見解のようですね。健闘を祈ります(笑)。

※なお、日中戦争が中国の開戦だというのは筆者が独自に考えたアイディアではありません。筆者が知る範囲では一度だけ会ったことがあるある人(分かる人は分かると思いますが、事情があって名前はあえて出さないでおきます)が言い出したことです。あの国のその筋の人の間では結構周知の事実なのかどうかは知りません。この記事はその着想を元に筆者がNewsweek記事を読んで独自に肉付けしたものです。


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13 コメント

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Unknown (管理人)
2017-12-09 20:12:11
めろんさんとはすなわち○○○○○○○○○○さんではないかと疑っております。これはコメントに気付いてわりと初期からそう思っています。これほど知識があって外国語ができて(そうは言ってませんがそう見えます)精力的で筆者のブログを見つける能力がある人って他にいないかなぁって感じですね。喋り方も良く似ていますし。幾度と無く絡ませてもらいましたが、当時結局お会いできなかったのは、残念に思っています。他人の空似だったら申し訳ありません。当時から架空の人格だった可能性もありますが(笑)。その時は実在する人物と思っていました。今でも架空の人格とは思いたくないですね。まぁこのコメントは無視して(黙秘して)いただいても構いません。
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Unknown (めろん)
2017-12-10 02:51:07
すみませんきっと別人です。管理人さまがコメントに反応がなかったことは単なる主義かと思っていました。だってコメントって面倒でしょう?うさんくさいとか自分の反対派の意見を聞いたりすることもあるでしょうし。確かにこのブログを発見する前は他のブログであまりにも嫌韓がすぎる人と話したこともありました。もちろん嫌われましたが笑。このブログを発見するに至ったキーワードもたぶん嫌韓の類いなはずです。そこまで細かく覚えてません。ここのブログでも韓国が嫌いというのはもちろん感じましたし、私も好きではないのでそこはどうでもよかったのですが。ただ韓国が最前線として日本にとって重要で断交などできるわけがないと仰っていたのがすごく冷静な意見で好感を持ったというか?

確かにすごーくしつこくいっぱい書いて不審者だったかもですが、コメントが不審者に思われるとは想像もしておらずちょっと無神経だったかもですね。すみません。

なんでそんなマイナーなことまで知ってるんだと言われれば身内が出張や泊まりが多いので、本をいっぱい読む時間があるのが主な理由だと思います。まぁ読んでは記憶が薄れを繰り返して曖昧なとこもかなりありますけど。ちょっとは疑問が晴れてくれればいいのですが(・・;)
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Unknown (管理人)
2017-12-10 08:28:00
自分も疑り深いところもありますからね。自分だったら、コメントが反映されなかったら、ブログは見るとしても、コメントを続けるとかしませんし。兎も角、詮索は止めるようにします。
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Unknown (めろん)
2017-12-11 15:59:04
ブログのコメントって絶対しなければならないものでもないというか?煩わしければしないのもアリだし…。なんかここは価値観の違い?笑。ともかく受け入れてくださりありがとうございます。純粋に感謝しております。
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Unknown (めろん)
2017-12-11 17:33:56
>アメリカは開戦に注目し、日本は終戦に注目するという指摘はなるほどそうかなと思いますが、まぁ申し訳ないんですが、日本の議論をよく知らないなという印象がなくもないですね。

これは一億総懺悔の影響でしょうね。だから各国から日本は反省してないと言われてしまう。どちらかというと反省の方向がちょっと変な方向に行ってしまったというか。

確かに日本が不拡大の方針だったというのはその通りですし、正直ずーっと和平交渉を望み言い続けてましたけど大山勇夫が殺されて拡大と不拡大が並行していたり暴支膺懲声明を発表したり、慎重派と強硬派の意見が入り乱れて慎重派の不拡大方針が上手く伝わらなかったなどかなり複雑ですね。この慎重派と強硬派の対立を上手くコミンテルンに操られて戦線拡大してしまい、欧米側と権益がぶつかったと思いますよ。大山勇夫が殺されて盧溝橋事件の和平交渉ならず、近衛内閣にて暴支膺懲声明の発表や慎重派の不拡大伝達ミスや意見が採用されないなどを経て強硬派が中国側と交戦したんだと思います。中国共産党の言い分はかなりオーバーで捏造もあり、中国側がやったことは記念館にも一切記載がないなどありますが、中国側が徹底抗戦したのは事実だと思いますね。だから日本は徹底的に満州の防衛だけに努めてればよかったんだと思いますけど日本が未熟すぎてコミンテルンが上手としか言いようがありません。
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Unknown (めろん)
2017-12-11 17:41:23
私が右派と左派の対立を気にしてしまうのはこのせいかも笑。
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Unknown (管理人)
2017-12-11 22:10:12
自分は中国側から仕掛けてきたことは事実と思いますけど。尖閣事件の時も似たような感じでしたね(中国側から攻撃を仕掛けてきたにも関わらず被害者を装った)。多分ビデオが本来流れないことは計算に入れていたはずです。そうであれば、主張と主張がぶつかりあい真相は藪の中でした。ビデオ流出はイリーガルでしたが、日本を救ったと思います(筆者も当時プロセスは褒められたものではないのは分かっていましたが、ビデオ流出を歓迎しています)。

「「南京戦史」(偕行社)の編纂者で独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己はトラウトマン工作が流産したことは痛恨の極みとした」(ウィキペディア「南京戦」参照)とのことですが、蒋介石は「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない」と言ったらしく、圧倒的に不利な状況を跳ね返して戦争に勝った日本が成果ゼロで妥協するはずは無かったでしょう。中国世論が対日で何をしてもいいとうような感じだったのだと思いますが、もうこのあたりでは日本は外交的に劣勢でわりと何をしても詰んでいたところがあると思います。世界に日本と中国しか無ければ、日本が中国を滅ぼして終わっていたと思いますが、日本がアジア支配することはどの欧米列強も望まなかったでしょうから、世界が中国を支援して中国に勝てない状況だったのではないかと思います。後知恵ですが、実際の歴史はそんな感じに見えます。

ですから、やはり満州国建設の過程が悪かったことが失敗のおおもとだと思っています。結果的に国際連盟を総スカンで脱退しています。世界は中国を支援し易い状況だったでしょう。実際にドイツは中国をかなり支援していたように見えます。アメリカもフライイングタイガーとかありましたよね。下手を打たずのらりくらりとソ連や中国を牽制していたら(言うは易しでそれも難しかったのかもしれませんが、後知恵で見ると北朝鮮じゃないんですから、国際的に総スカンくらうようなことをしないのが一番だったんじゃないですか)、敗戦することも無かったのではないでしょうか?そんな気がします。

この記事は中国が攻めてきたから日本悪くないという主張ではなく、アメリカが日本が中国を1937年に攻めたと思っているなら(そういう学者の主張を見たが)、事実認識として間違いであろうという主張です。間違った事実認識を元に教訓を導き出しても何の役にも立ちません。

右派左派の対立が不味いと言っても、左派に折れたら憲法改正永遠にできないことは分かってますからね。仮想敵国の手先のような動きをする連中(左派メインですが、右派もいるなら同じです)を何と言われようとも削るだけ削って、政治を変えていきたいですね。大上段に構え過ぎかもしれませんが、目標は高く。
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Unknown (めろん)
2017-12-12 13:26:56
日本が不拡大と言い続けてたのは事実ですし停戦協定を結んではダメになりまた結ぶと共同防共を目指していたのも事実です。でも日本が不拡大と言いつつ強硬派が拡大して言ったのもまた事実です。

近衛文麿が「支那問題は幾度か解決の機会があった。その機会がある毎に、陸軍は反対にその機会を潰すが如く見えた」と言っています。

熱河作戦がいい例ではないですか?日支直接交渉を無視する方針が決定されて熱河問題を契機として蒋介石を直接交渉の方向に誘導し日支関係を常軌に引戻そうとか、不拡大や宥和とか協定とか全く感じさせない行いがあることも事実ですよ。つまり満州を中国側に正面から認めさせることは不可能だからこの問題についての交渉を回避し、この間に満蒙植民地化の実績をあげて中国側に奪回をあきらめさせようという話で。そして中国側から交渉を提議してきた場合には、中国側が要求するだろう、不平等条約撤廃の方向を全面的に拒否、逆に排日根絶の要求をすると。さすがに中国も徹底抗戦すると思いますよ。

前のコメントでもお伝えしましたが慎重派の不拡大方針の伝達ミス(支那駐屯地の人事交代?)もあり、管理人さまが仰るように小競り合いはあったんでしょうね。ただその小競り合いがどうのというより日本側の内部の対立で戦線は拡大していったわけで、この熱河作戦は欧米と権益が対立するので経済制裁を避けるために国連を脱退したという、なんか悲しいというかなんというか…。だから強硬手段などとらず中国とちゃんと交渉して満州だけを守ってればよかったんだと思います。

だいたい共同租界地でもイギリスと日本が対立したり第二次上海事件だったかな?どさくさに紛れて日本人居留民(下層階級的な)が中国人居留民を虐殺してますし、軍部の武力行使もエリートの日本人居留民に止められたりしてたはずです。本のタイトルを忘れたので思い出したらお伝えします。

だから軍部の対立や不拡大と言いつつ拡大していってしまった面とか、中国における欧米との権益が満州じゃなくて熱河作戦だと、そこらへんがお話できないと管理人さまと私も意見が対立してしまうのでもうやめましょう。満蒙問題は私にはだいぶ難しいので話せるかと言われたら無理ですし。余計な口出し大変失礼致しました。
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Unknown (管理人)
2017-12-12 15:22:14
やめましょうと言われても、納得いかなければ書いてしまうのが自分です。

熱河作戦は一般に満州事変の一部分として扱われているようです。中国が抗日戦争を満州事変からとするなら、自分が指摘するところの「第一次抗日戦争」は日本が仕掛けたことは事実です。(熱河作戦を含む)満州事変は塘沽協定(1933年)で停戦されたとされます(本文中に満州国建国の1932年を満州事変の終わりとしているのは訂正しておきます)。

中国はそうした現状に不満があったでしょう。それは理解します。現状に不満を持った中国が日本を追い出すために仕掛けた戦争が、(外形的な現象としては単なる小競り合いに過ぎない盧溝橋事件等を含まない)1937年の中国の作戦行動に始まる支那事変=日中戦争という認識です。当時の外国の複数の新聞も中国が上海で戦争を仕掛けたと報道しています。中国が上海で仕掛けた戦争が日本が仕掛けた戦争の続きであるなら、自分の論拠は崩れますが、満州事変をスタートに持ってくる中国は兎も角、現状それを一緒くたにする見方は一般的でないようです。一般的には偶発的(?)衝突の盧溝橋事件をスタートと見ますが、(守られなかった)停戦協定もありますし、自分はそうした見方に同意しません。中国政府の日本を追い出す目的は明らか(実際に戦争を仕掛けました)ですが、日本政府の目的は定かではないからです(明らかに戦争を仕掛けていません。仕掛けていたなら不利な状況は考えにくいところです)。現場の暴走があったか知りませんが、自分は日本政府の意図=日本の意図とみます。小競り合いの類は中国が日本から手を出させるための仕掛けだったろうと思います。先に手を出した方が悪いとなるからですが、挑発に日本が乗らなかったから、中国が痺れを切らしたんでしょう。

自分がここにあくまで拘るのは1937年を先の大戦の始まりとするなら、(盧溝橋事件は関係ないと思っているので)中国が先の大戦を始めたということになるからです。これは抗日戦争を満州事変からと見ないと必然的にそうなります。中国もそれに気付いて歴史を修正した(抗日戦争のスタート時期の解釈を変えた)のだと思っていますが、自分としては歴史修正主義を批判する中国が歴史を修正することを批判している訳です。大体が塘沽協定で切れた戦争を繋げることに無理があります。ですから、長らく1937年がスタートとされてきた訳です。自分が問題としたグラック教授の記事は日本のアジア侵略を指摘する文脈の中で1937年が戦争の本当の始まりと言っています。そうであるならば(自分の見方では)、中国が日本を侵略したというのが先の大戦争の始まりだということになります。日本のアジア侵略が先の大戦だと見るなら、中国の歴史修正にあわせて満州事変を戦争のスタートと歴史修正すべきですし、日本が先の大戦で手を出したと一般的な見方を継承するなら、これまで通り真珠湾攻撃をスタートと見なければなりません。自分の見解は、これまで通り真珠湾攻撃が先の大戦の開始で日本の侵略で構わない、です。ただし、日中戦争をこれまで通り分離して、日本が開戦したと認めない、現状歴史修正して中国が開戦したと声高に主張しないが、機会があれば言うことは言うです(ハッキリ言って中国が日本に歴史修正のレッテルを貼ってくるから、おまえだろ?(笑)ということです。中国や韓国は民間の動きを見ていろいろ言って来ますが、保守的な政府はほとんど何も変えてないですからね。政府が歴史修正しているのは中国です。南京虐殺も後から言い出しました)。また、満州事変を正当化する見方には批判的です。
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Unknown (めろん)
2017-12-12 17:38:55
あー、なるほど。管理人さまと私の思ってること自体はそんな変わらないのになぜちょっと対立気味になるのかわかりました。ちょっといま時間ないのでまた後ほどきます。お手数おかけします。
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