自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

続 私の専門は生きることだ

2014-12-24 16:48:39 | 自然と人為
 私の専門は生きることだと言いながら、生きることは大変に下手だ。専門馬鹿で世間を知らない面もあるが、自分の体のことに無関心で体を動かさない仕事に没頭してしまうので、3度の脳卒中を含めて歩く書くの基本動作が不自由になってしまった。

 一方、「私の専問は生きること」と言われた片桐ユズル氏は、「私たちの心身は生来すばらしい能力があるにもかかわらず,無意識的な習慣や条件づけ,固定観念などによりそれの完全な発揮がじゃまされています。アレクサンダー・テクニークの先生は,手とことばを使って,自分で自分のじゃまをしている不必要な緊張に気づかせ,それをやめていく学習を助けます」と「アレクサンダー・テクニーク」を指導されているので、嘘つきを軽蔑する誠実な真の生きる専門家だと思う。

 私は「俗に染まらず俗を離れず」を多少意識はしているが、それを目標として生きている訳ではない。明治維新当時(大政奉還の9か月前)に生まれた夏目漱石は有名な言葉、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」を残している。智に働くのが(英国留学で知った)社会、情に棹さすのが(日本古来の)世間だと、私なりに解釈している程度であり、未だに私も義理人情は好きな保守的な人間なので、世間の習慣を否定するつもりは全くない。だけど、国民が自由に生きていくためにも政治家や学者を含む公務員は憲法を守り、国民を守る公僕であることに誇りを持った仕事をしろと言いたい。そうしないとこの国にはモラルも基準も無くなり、汚れちまって乱れてしまう。「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」という夏目漱石の言葉も公務員に味わって欲しいものだ。

 専門馬鹿という言葉は馴染みがあるが、専門阿呆という言葉はあまり耳にしない。しかし、あるブログに「僕は、安倍晋三は馬鹿だとは思わないが、ただ『安倍晋三はアホ』だと思う」とあった。辞書で「馬鹿と阿呆」の違いを調べてみると、馬鹿は無知と関係し、阿呆は愚かさと関係しているようだ。言葉の持つ意味やニュアンスは厳密に定義できるものではないが、今日の日本の繁栄は戦争を絶対禁止した憲法のお陰なのに、靖国の英霊のお陰だとして参拝し、その一方で「積極的平和主義」とか称して、戦争ができる国への準備をしている。公共事業や軍需産業は国民の税金で支えられるので、不況になれば産業界はそちらに走りたがる。そして、戦争はいつも平和の囁きのもとにやって来る。ノーベル平和賞以上の価値がある平和主義の日本国憲法の改正に熱心で、『積極的平和主義』という不誠実な言葉遊びを国民だけでなく世界に宣言し、国民や周辺国を怒らせ不安にさせるのは確かに『愚か』なことだ。

 また、自民党は「日本の景気回復への道は『アベノミクス』しかない」と言う。グローバル経済では賃金低下への国際競争であるレース・トゥ・ザ・ボトム(Race to the bottom)が進行している。その状況下で富裕層や大企業を優遇する政策、富める者から貧しい者へ富が滴り落ちるトリクル‐ダウン(trickledown)で格差はさらに拡大する。

 国民の一部の富が増加し、格差が拡大しても『経済成長』だと政治家が言葉遊びをするのは、国民主権の憲法を軽視する決して許されない『愚か』なことだ。自民党の指導層となった2、3世議員の常識からは、「君(国民)あり、故に我(議員)あり」の原点の基本さえ消失してしまっているようだ。

参考資料
今後の日本国家はどうあるべきか 西部邁ゼミナール2012年1月1日
YouTube放送 【1】 【2】 【3】 【4】
若手の論客(中野剛志、柴山桂太、施光恒)と西部邁氏が語る。
中野剛志 なかのたけし  京都大学(都市社会工学)
柴山桂太 しばやまけいた 滋賀大学(経済学部)
施光恒   せてるひさ    九州大学(比較社会研究)