自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

どのような畜産のデザインを描くのか(3)

2014-12-07 18:31:55 | 自然と人為
4.理想と現実とのギャップをどう埋めるか

 ここに紹介したアメリカの事例が農業の原点を示すものであるとすれば、現在の 畜産はずいぶんと原点から離れてしまっているし、ますます離れようとしているよう に思われる。このような事例はあまりに現実離れした話だと関心さえ呼ばないかも知れ ない。しかし、われわれは何を目標として努力しているのか、その努力は報われる努力 なのか、理想があるとすれば現実とのギャップをどう埋めていけば良いのか、そのよう な論議が十分になされてしかるべきではなかろうか。

4-1)自然と共生する農業
 農業の理想的なあり方は、経済や技術が先行する農業ではなく、その人の価値観,世 界観を農業に実現させる生き方ができることであろう。また、そのような農業が拡大す ることは個性豊かな人材が農村に数多く育ってくることを意味し、都市に対する農村の 魅力をますます高いものとしていこう。
 実体験のない知識のなかで生活する都会人にと って、大地を踏みしめて自然と等身大で向き合って生きている農家ほど逞しくまぶしい 存在はない。わが国にもこのような農業をやっている素晴らしい人達のいることはあら ためて紹介するまでもないが、私の出会った日本の素晴らしい農家の人達から学んだこ とを少し紹介しておこう。

    自分の見方が変われば、厳しい環境も宝の山に変る
    里山を管理するために牛を飼う
    
 北海道旭川市の市街から車で約30分ほど走った山合いの清 流沿いに斎藤晶さんの「牛が拓く牧場」がある。斎藤さんの書かれた同名の本(地湧社) はアメリカのHRMと全く相通ずるものであるが、「農業とは自然に溶け込み、自然を 学ぶ作業そのものです。さらに言えば、そのような農業に現れた自然の素晴らしさを、 皆さんと分かち合うことも、農業の役割ではないかと思っています。」と言う斎藤さん の自然観,人と自然との一体感は西洋の合理主義を超越した東洋の思想に根差すもので あり、世界に誇れる本だと思っている。私の駄文を続けるよりも斎藤さんの素晴らしい 文章をしばらく引用させていただこう。すでにご存じの方にもしばらくのお付き合いを いただきたい。

「---戦後、開拓でこの地に入ったころ、私の農業は山の試練の前にことごとくが失 敗に終わり、急斜あり岩ありの山奥で農業ができるとはとうてい思えませんでした。毎 年苦労を重ねた末に、畑の収穫からはむなしく見放されていました。失意の日々を送る うち、あるとき湧き起こるように、私の中に自然に対するまったく新しい見方が生れた のです。----この山にいる鳥や昆虫は、自分で汗水たらして何か作るということが ない。にもかかわらず、悠々と暮らしているではないか。それにひきかえ人間は肉体を 酷使して、その上金まで使って、苦労に苦労を重ねても何の成果にもつながらない。 この違いはどういうことなのだろう。それは彼らが人間のように自然に立ち向かってい くのではなく、自然という循環の中に溶け込んでいるからだ。ならば、人間も虫と同じ 姿勢で生きていけばいいではないか。----モンゴルにはモンゴルの、スイスにはス イスの、日本には日本の牧畜があります。その土地の気象条件に自分がなりきって、牧 畜を考えなくてはなりません。自分の意識改革です。私にとっての意識改革は、あると き山の木に登って、人間の都合で自然に立ち向かっても歯が立たないから、自然の中に 入ってしまおうと考えたことです。発想の転換でした。そうすると、あらゆるものが宝 物に変りました。自然との調和を考えるとき、厳しい山も価値あるもの、貴重なものに 変るのです。人間は保守的な生き物で、自分が変るより相手が変るのが好きなのです。 しかし、一年では自然はわからないし、三年,四年でもわからない。いつまでも終わり がない。自分ではっきり見えてくるまでは相当時間が必要です。ひょっとしたら経済的 にもいきづまる、そういう過程を経なければ自然の営みは見えてこないのかもしれませ ん。----自然の営みは、釈迦やキリスト、あるいはこれまでの大上人や聖人と呼ば れる人たちが気が付き、説いてきたことだと思うことがあります。もし宗教とは何かと 問われれば、私の場合、山を眺めて山をそのまま受入れることが神や仏につながるので は、と答えます。条件が悪いと感じるのは、それまで自分が持っていた自然観や人生観 で環境を見ているからだと気が付きます。----」

 素晴らしい本ではないか。斎藤さんもアメリカのHRM協会の農家も、いままでの現代 農法で苦しみ、経済的に行き詰ったところから同じ境地に至っている。単に「地球を大切 にしよう」という観念論からの農業ではないだけに、迫力があり説得力がある。引用し ているうちに、この本を読んでもらえば、私が苦しみながら駄文を書く必要はないよう に思えてくる。あまり長々と引用したので少し気が引ける。是非、ご一読をお薦めした い。

 斎藤さんの本に感動し、是非ともこの牧場に行って見たいと思っていたが,最近私の 北海道の仲間達の協力のお蔭で、その夢を実現することができた。実際にお会いして、 本で感動したもの以外に、さらに2つの発見をすることができた。

 それは牧場が実に美しいことである。蹄耕法だからお金をかけない素朴な風景が人の 心を引き付けるのだろうと、正直なところ「あまり美しくはない」牧場をイメージしていたが、 まるで斎藤さんが、山をキャンバスにして絵を画いたというか、牛を使って造園したというか、 その美しさだけでも感動ものである。道路や法面まで同じように草で覆われ、しかもどの 場所も芝を刈ったように揃って短い。牛と羊の組合わせでこのような草地ができることは 聞いていたが、乳牛だけでこれだけの草地を維持できるというのにも感動した。「うちの牛 はいやしいから」と簡単に笑って説明される斎藤さんだが、これはタダモノではない。 もう一つの発見は、斎藤さんの物事にこだわらないというか、明るいというか、実にひ ょうひょうとした自然体のお人柄である。実のところ不毛の山で開拓に苦労された経歴 からお会いするまでは、「苦労の汗の匂のする強健ないかつい大男」を勝手に想像し、 どう話しかけようかと少々身のすくむ思いがあったのだが、その心配も無用で初めてお 合いしたその日から、旧知の友人のように冗談を交えた会話をすることができた。

「これまで私のやり方は科学的でなく時代遅れの経営と批判され世間の相手にされなかったが、 時代が180度変ってしまったので、今では時代の先端を走っています。」
見学等で騒がしくなった世の中をちょっぴり風刺しながら、明るく話しておられた 斎藤さんは実にすがすがしいものであった。

 サルトン氏のポリフェイス牧場も自然への畏敬の念は同じであるが、自然に溶け込 み自然を学ぶ作業が農業であるとする斎藤氏と、自然のもつ合理性を技術に活かそうとす るサルトン氏の違いは、東洋と西洋の、人と自然との距離のとり方の違いに起因している ものであろう。

 HRM協会の人達は、自然農法の福岡正信氏を高く評価している。 彼の「わら一本の革命」は、英訳されてよく読まれている。それは、彼らにとっては拭いがたい合理 主義の世界を超えうる何かを、そこに見い出すからであろうか。正直なところ 現代科学と合理主義の真っ只中で仕事をしている私も、最初は自然農法を理解しようとし なかった。それは全く異次元の世界の話のように思っていたが、HRMによってその意 味が理解できるようになった。福岡氏の自然農法は現代科学を全否定するものであるが、 私は、HRMによって現代科学に基づく現代農法と現代科学を全否定する自然農法とが連 続的な一つの線に結ばれるような気がする。現代農法が自然との共生を目指す手がかり がそこに見えてくる。

4-2)コミュニティと共生する農業
 科学によって人は自然と神から隔離され、心と身体を二元的に考えるようになったよ うに、社会の経済的発展によって生活と仕事(労働)は分離され、生産と消費を分けて 考えるようになった。

 産業の発達を何よりも優先させることに慣れてきた現代社会においては、 子供は労働予備群として大人達の教育観の世界に閉じ込められ、働く人々は社 会の中枢として会社や組織のオリに閉じ込められ、そして高齢者は働く社会のオリの外 に隔離されて、それぞれの人生の生きる過程を個人の歴史においても、人と人との関係 においても分断させられて生きている。

 一方、生活の核である家庭は、家から家族、家族から核家族へと変化し、さらに生活能力のある単独生活者も増えてきている。職場に おいても、これまでのピラミッド型の組織から、プロジェクトチームやネットワークな ど人と人との自由な関係による仕事が重視され、終身雇用も危なくなってきた。

 家庭も職場もある意味では崩壊しつつあり、また別の視点で見れば個人の自立が求められてい る。しかし、自立が進めば進むほどに、他者との関係が生じる。そこで、他者とは違う 自分を主張するようになる。それはいい。しかし、自立して反目しあって離散したので は、人と人との関係である社会は崩壊する。

 真の自立とは、他者を尊重することができ る自立であり、自立して連帯できることをいう。今、我々は単なる崩壊に向かっている のか、真の自立への道を確かに歩み始めているのであろうか。私は自立して連帯できる 社会を農業に見つけたい。

4-2-1) 生産と消費,労働と生活
 生産と消費の関係は、一つには時間の価値により説明できる。生産は時間に追われ、 時間を節約しようとする。生産の過程に効率を求めるが、 その過程を楽しむことはない。これに対して、消費は過ぎ行く時間や過程を楽しむ。し かし、人は同じことに対処するときにも、時と場所により、あるときは時間に追われ、 あるときは時間を楽しむことができる。すなわち、本来は消費と生産はその人の時間の 中にあり、消費者と生産者が分れて存在するものではない。
 生活において、食事を仕事の単なるエネルギー源の補給と考えれば、これは生産の過程となり、料理の時間に追わ れ、食事の時間を節約しようとする。また、食事を楽しもうというときには、料理の過 程から、食事をしながらの団欒に至るまで、過ぎ行く時間を楽しむことができる。また、 仕事においても、労働から早く逃れたいときと、楽しみながら働くことができるときが ある。

 農業には、生産の過程を楽しむ生活がある。そこでは生産と消費は一つになる。また、 生産する喜びは、研究する喜びともなる。そして、農業のプロは生産の過程の価値を徹 底的に追求することができる人達である。

4-2-2) 農業は生活である

 岩手の菊池牧場に行くとヨーロッパ型の酪農を見ることができる。乳牛や豚を飼いな がら、時間のあるときにチーズやソーセージをつくる。放牧されたホルスタインにはホ ルスタインの雄牛を自然交配している。その菊池さんのつくったものを丸ごと食べてく れる会員がいるので、生産の時間に追われることもなく、肉質改善などに心を奪われる こともない。

 菊池庸博氏は、牛の飼育は自然にまかせればいい、と言う。そして、生産と消費の間 にある加工の付加価値の部分を農村に取り戻し、農村のなかの農業を最初から最後まで の完結型にし、農業の消費もできるだけ近いところで行われるようにして、 生産と消費の形態を一致させるべきだ、と主張している。

 また、なによりも農業における個の確立を大切にし、「農業人として、自分の目標を 実現するために本当に農業をしているのかどうかを自己確認することが必要です。お金 がないから農業を辞めたいのだったら、そんな人はすぐに辞めたほうがいいし、辛いとき、 苦しいときに仕事の価値を自分で問えない人は、どこへ行ってもプロにはなれません。

 私にとって農業は生活の場なんです。ギスギスして、隙間無くやろうなんて思うのは 都市と感覚が同じじゃあないですか。自分の価値観で、自分が生活できる範囲で、自分 が供給可能な範囲でやることが、農業の本質なんです。牧場でいえば、この中ですべてが完結する世界に耐えられる か、牧場での生活を徹底的に楽しめるかどうかということです。(ビレッジ,春,1992)」と 言う。

 菊池牧場の会員は、品質を買うのではなく安心を買う。それだけではない、生活を 買う。すなわち、菊池牧場とどこかで生活を共有したいのだと私は思う。

4-2-3) 「農的くらし」への夢
 町において目立つのは、銀行、生命保険会社、病院、学習塾。これが今の日本の生 活を象徴している。安い利子でお金を預け、高い掛け金で将来に備え、沢山の薬で食欲 不振となり、「教育」に過熱して子供の生命力と夢を蝕む。そのお金を農村に投資して、 心身ともに健康な生活と老後も安心して住める社会をつくれないものか。労働予備軍と しての子供も、組織のオリのなかで働く大人も、オリの外の高齢者も、そこにはいない。

 農村の学校が人気のある教育機関となり、農協は互助組織の原点に立ち返り、人と人と が自立して連帯する。福祉も健康も農村では生活や仕事と一体となる。そのような「農 的くらし」に、私は夢を求める。しかし、「農的くらし」について語るのは、農業で輝 いている人達の直接の言葉がふさわしい。素晴らしい農家の人達に農業を大いに語って もらい。「農的くらし」への共鳴現象を引き起こしていただきたい。

 福井の山崎一之さんは、「本当に自分が欲しているものが何なのかを探すために、誰 もいない、誰も知らないところで、何もないところから欲しいことをみつけていくこと にして」、その一つの仕事として農業を始めたという。その後、「本当に必要なことは、 生活を積み重ねながら何かをしていくことだと思いだした」洋子さんと結婚し、 今は和牛の繁殖と肥育を経営の柱としている。

一之さん 「普通の生活」って言うけども、みんなそこに到るまでの過程をすっぽり落 としてしまっているんだよね。たとえば、戦後の焼け跡の人たちは、再興していく過程 でいろんな無謀なこともやったけど、とにかく欲しいものを求めて生活してきたから、 何が欲しいかわかっている。基礎があるよね。どこまでいってもへこたれない。でも、 これからの人たちというのは、基礎がぜんぜんなくて、スポンと合理的な形で、短期間 にいちばん必要な知識だけを身につけてしまっている。

洋子さん 土台がないから、いつ崩れるかわからない感じ。学校教育なんていうのは、 本当は土台を築くことをやるべきだけど、今は土台を築かないで、のっかることしか教 えていないと思う。
洋子さん とにかく、こちらに来てからは、生きている、そのことがおもしろいの。別 に楽しもうとか。何かしようというのじゃあなくてね。

一之さん そういう人間しか、これからは田舎に住めなくなると思う。自分で生きている ことをおもしろがれる人間じゃあないとね。ここでは誰も刺激してくれないもの。だから、 自分で何かできる人間が田舎には多い。 

洋子さん ほんとうに人材が豊富だよね。なんとなく集ってくるんやろうか。
洋子さん 農業が汚く見える。土が汚く見えると言う。でも、そうだろうか。私にとってはお医者 さまの仕事の方が汚い。見た目にはクリーンだけど、実際には雑菌がいっぱいいる。銀行だって きれいに見えるけど、あんなにバイ菌だらけのお札に触れるのは私なら嫌だ。 どこに、きれい、汚いの価値観を置くかが問題。ある視点をかえると、みんなひっくり 返っていくの。
                ---ビレッジ,vol.9,1993.

 自分の価値観を持ち、何かを求め、何かができる自立した人たちが、今、農村に集ってきている。 管理社会にスポンとのっかることの危うさを、彼らは充分に見抜いている。そして彼らは何よりも、 心身ともに健康な生活が、農村にあることを知っている。

4-2-4) 「農的くらし」を地域に広げる
 「農的くらし」では、生産と生活は一体であり、生産と消費も一体である。生活に追 われる時間よりも、生活を楽しむ時間がある。自然と社会と等身大の関係をもつことが でき、心と体のバランスと健康がたもてる。そして、多くの人々は、そのような生活に どこかでいつかは係わりたいと思っている。今なのか、将来なのか、自分の生活の全て をなのか、一部なのか、それぞれの思いは様々ではあろうが、農村が具体的な提案を しないと、市民も反応のしようがない。

 農村は食糧を都市に供給するのではなく、食を包括する「農的くらし」を市民と共有する、 という発想を持ったらどうであろうか。「農的くらし」を個人から地域に拡大する。単なる 生産物ではなく、生活のある生産物を拡大する。「自給自足的生活」の原点を失わないで、 それを個人から地域に拡大する。すなわち売るために作るのではなく、自分達が食べるために 作る原点に戻り、生産の過程を楽しむ生活を市民にも味わってもらう。そのような仕組みを 考えることから、農業の新しい展望も拓けてくるのではないだろうか。

 ここでも『ビレッジ』から、古野氏の実践の言葉を紹介させていただこう。
「生産者と消費者の提携という時、それは農村と都市の関係として捉らえられがちですが、 私の考えは、消費者はどこにでもいる、ということです。この地域の中にも、近くの町にも 私が届ける野菜を待っている人はいるわけです。・・・私の畑は、私が食べ物を届ける家庭 のための菜園でもあるわけですから、その人たちもよく畑仕事に来ます。こういうスタイルは、 消費者が生産者の作業を手伝うという考え方から「援農」と言われますが、 私は「消費者のための縁農」だと思っています。手伝うのではなく、自分の食べ物がど のようにできるか、生命はどうやってかたちづくられるかを知ることができる機会。 だから、救援の援ではなく、縁結びの縁なのです。」 
  -- 古野隆雄氏(福岡;合鴨水稲同時作,ビレッジ,vol.11,1994)  

「食」とは栄養素を食べているのではなく、健康と生活風景を食べている。作るだけの 国際化と、売るだけの国際化という大量広域流通の仕組みが農業を破壊している。糞尿 公害問題も、農薬、抗生物質、ホルモン剤、添加剤等の残留問題も、生産と消費の完全 分離に起因する。地域で生産したものを、地域で優先的に消費する。このことで、消費 と生産の顔の見える信頼関係を維持しながら、過剰な規格化や品質向上のための生産ロ スを防止し、有害物質の人体への濃縮をなくし、健全な物質循環をとりもどし、物流に かかるコストとエネルギーを削減できる。産直運動も、安全性を求める消費者運動も、 環境問題も、「農的くらし」を個人から地域へと拡大するという視点で捕らえれば、そ こにコミュニティと共存する農業の絵が大きく画けよう。

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