自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

農業は文明と格差の母となり、人類は自然と社会の支配欲を持ち続けている。

2018-04-08 18:42:46 | 自然と人為

 狩猟採取から農業へ、それは2足歩行を始めた人間が、700万年も環境の変化に対応しながら生き延びて、「なぜ農業を始めたのか」の問題であり、「農業起源の考古学―農耕牧畜はどのように始まり、世界に広まっていったか?」を問う研究は、今も精力的に行われている。
 「人類最古の農業は2万3000年前の中東?」 (2)と言う報告があるが、これは小規模で後世に引き継がれた形跡はない。永井俊哉が指摘するように、農業は寒冷化を生き延びるために始まったが、次の温暖化では狩猟採集に戻ったのだろう。

 それでは「なぜ、1万5千年前に終わった最終氷期の後にだけ文明が生れたのだろう。」 まず、“人類最古の農業”栽培オオムギの起源を解明一万年前に突然変異…〝人類最古の農業〟起源を解明 岡山大研究チームという報告もあるので、広く農業が広まり、食糧の備蓄を可能にし始めたのは、それから約1万年後のことだと思われる。
 しかも、一般に考えられているように狩猟採集から農業へではなく、定住から農耕へという『人類史のなかの定住革命』Kindle版)の西田正規説を私は支持したい。それまでいた獣たちが気候変動でいなくなり、人は水産資源に頼らざるを得なくなったのだ。そして、それが人類史上初めての定住と農耕の開始につながっていった。世界各地の農耕が開始された場所は、農業のために水資源が必要なだけでなく、水産資源を利用するために定住を始めた場所なのだろう。視点を変えると状況が新鮮に見えてくる。

 7万年前に始まって1万年前に終了した最終氷期には寒冷期と温暖期が繰り返されたが、衣服が使われるようになったのは、七万年前頃のスマトラ半島のトバ噴火による寒冷化による人口減の環境が影響していると思われる。古い繊維の痕跡は発見しにくいが、アメリカ、ジョージア州の洞窟群からは、約3万年前の植物繊維が見つかっているので、衣服の生活はその後も維持されたのだろう。衣服を着ることでシラミも共生し、体毛も次第に少なくなっていったのだろう。
 参考: 過去1000万年の気候変動の概要

 「農業の誕生とは、食料を追い求めることをやめ、育て始めることになった時だと定義することができる(農業の歴史のあらまし)。」 農業の起源は定住に始まるとして、その「農業は人類に何をもたらしたのか?」 ダイアモンド博士の「ヒトの秘密」を紹介しておく。
 参考: NHK ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”
  第7回「農業は人類に何をもたらしたのか」
  第1回「チンパンジーからヒトへ」
   第2回「動物のコトバ・ヒトの言語」
   第3回「芸術のジョーシキを疑え」
   第4回「性と出会いのメカニズム」
   第5回「夫婦の起源 性の不思議」
   第6回「不思議いっぱい ヒトの寿命」
   第8回「“進化”から見た文明格差」」
   第9回「地球外生命体(エイリアン)も進化する?」
   第10回「集団虐殺はなくせるのか」
   第11回「文明崩壊 人類史から学ぶもの」
   第12回「格差をのりこえて」


 「最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が、再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期が始まった11,050年前にライムギの耕作・栽培と狩猟、魚釣り、野生植物の採集で生活していたの100人から200人の小集落のテル・アブ・フレイラ遺跡が古代のレバント東部・メソポタミア西部に見つかっている。これが現在のところ、人類最古の狩猟採集から農業・漁業への移行例となっている。

 農業の普及により人口は増加し、分業も始まった。そして権力が誕生し、戦争も始まった。文字の歴史は原文字=簡略記号として紀元前7000年紀に中国(亀の甲羅)、古ヨーロッパ文字(ヴィンチャ文字)に始まり、ものごとを簡略化して描いた絵文字(ピクトグラム)から言葉の発達と同様に文法を発達させた。そして文字の発明により文明が発達した・・・、と思っていたら「人類の文化は『信仰』から始まった」そうだ。「文明が始まる前に人類が作り上げたのは、文字でも都市でもない紀元前10000年~紀元前9000年頃に狩猟採集民によって建立された『宗教建造物』だった」ようだ。
 参考: ヒトは何をどう成し遂げてきたのか
      『1万年前』に作られた遺跡まとめ
      【遺跡で見る】メソポタミア周辺の先史時代

 それから4大文明で知られる都市国家の時代を迎える。
1.メソポタミア文明のシュメール人の都市国家
 「前4000年紀:この時期の初め頃、最初の都市文明が形成された。その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、これが最古のまとまった楔形文字資料である。このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。シュメール初期王朝:前3000年紀のシュメール初期王朝(前2900~2335年頃)時代には、ウルク、ラガシュ、ウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。シュメール人は青銅器や楔形文字を用い、多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。」
2.エジプト文明 前3000年頃
 「ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明。下エジプト(ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、メソポタミア文明の影響をうけて前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、ノモスという小国家の分立を経て、前3000年頃にエジプト古王国という統一国家を成立させた。農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、統一国家の形成はそれより早い時期であった。古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。」
3.中国~黄河文明の特徴、仰韶文化、殷、周の成立~
 「黄河文明は出土土器の特徴で区別され、前期の文化を彩陶文化(紀元前4000年~紀元前3000年頃)、後期の文化を黒陶文化(紀元前2000年~紀元前1500年頃)と呼ぶ。彩陶文化は、遺跡が発見された仰韶村の名前から仰韶文化、黒陶文化は遺跡が竜山鎮にあったので竜山文化とも言う。
 また、古代中国の城壁を持つ都市国家を邑(ゆう)と言う。「前4000年紀の中国では、黄河中流域の農耕地帯に形成された農耕集落が次第に統合され、城郭を持つ都市国家である邑が形成され、さらに紀元前1500年ぐらいから黄河中流域の小都市国家を統合して、殷王朝」が成立した。
4.インダス文明 紀元前2500年頃から1500年頃
 今はパキスタンにある都市国家、モヘンジョ・ダロハラッパー
 「モヘンジョ・ダロの地名は現地の言葉で「死の丘」を意味する。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されているが、大きな遺跡に権力者の象徴となる巨大な王宮も神殿も軍隊の跡もない。それどころか、インダス川流域に広がる100を超える遺跡のなかに、戦場の跡さえほとんど見つかっていない。数多くの墓が出土しているが、埋葬されている人々の間には身分の差も見られない。大規模な洪水によって滅亡したとされているが、ガラス質の地表、そして「瞬間的な高熱」の跡が発見されているので、隕石の落下を疑う必要があろう。
 参考: インダス文明と古代インド

 そしてオリエントの統一~世界帝国の出現~
 民族移動期":前2000年ごろから前1500年ごろまでは、西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどが西アジアに侵入し、メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
 アッシリア帝国の出現 前7世紀:メソポタミア北部に起こったアッシリアは、この間、鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、前9世紀には西アジアで最有力となり、前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、アッシリア帝国は西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
 参考: 古代アッシリア、前3000年紀末~前663年、エジプト征服


初稿 2018年4月8日 更新 2018.5.14(最後の部分を削除)


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