夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「みんな途中で死ぬのです」

2007-07-31 07:12:27 | こころに残る言葉
 有名な作家や哲学者、高僧と言われる方が、自らのことを「未完成」とか「不熟」とか言う言葉に接すると、煩悩にまみれながら50代の後半を生きる私にとっても、どこか救われる思いがする。あの人ですらと思うからである。
 過日亡くなられた河合隼雄「言葉との出会い」の中に瀬戸内寂聴と水上勉の「文章修行」(岩波書店)のやりとりが紹介されている。
 この中には西行の歌のことで、「わが歌は真言だ」などと言っているが、あれはいつまでも西行が歌をやめられないので言い訳に言っている、「ついに捨てられない。これも煩悩ですか」と瀬戸内。すると水上が「煩悩でしょう、迷って迷って、そして途中で死ぬんですよ」「届かそうと思うことは計らいになってしまうんで…」と言われ、それを受けて、瀬戸内が、「そうです、みんな途中で死ぬのです」と言い切られる。
 人間としての成熟と完成など、所詮迷ってばかりで悟りなど程遠い。それでもありがたいお言葉などくそ食らえと思ってしまう。結局こうして人間は未完成のままで死ぬことで、それが人間であり、それでよいのだと言われたほうが気楽な気がする言葉であった。

参議院選挙への投票

2007-07-30 07:12:16 | つれづれなるままに
 曇り空の日曜日の朝一番で、投票所に行きました。参議院選挙の投票です。投票所は私の家から歩いて二,三分と近い所にあります。いつもはカミさんと一緒に行くか、不在者投票(期日前投票)をするのですが、今回はなんだか気ぜわしくて当日の投票になりました。家内は私が期日前に投票したと思い、一人で前日に行ったそうで、結局一人で私は投票所に足を運びました。
 投票所には立会いの職員が7,8人と近所の区長さんたちが座っていました。2回投票用紙を受け取り、それぞれの投票箱に投票を済ませて、顔なじみの区長さんたちに挨拶をして、投票所を後にしました。玄関を出ると、出口調査の新聞記者がいて、アンケート用紙に記入を求められ記入しました。
 私はどちらかといえば、無党派層と呼ばれる範疇にあるのですが、今回は政権不信を投票根拠にしました。いずれにしても現在の自民党は、あまりにも独断的で国民の声から遠いところにあるような気がしています。やはり二大政党の中での拮抗がよりよい政治を運営することになるのではないかと考えました。そして自民党は大敗し、日本の政党政治も大きく変わろうとしています。民主党が自民党よりも良いという国民の選択ではなくて、自民党の現在の政権の政治手法があまりにもひどいやり方をしていることへの牽制と考えるのが自然かもしれません。それにしても、投票率の低さに相変わらずあきれています。青森県の投票率は53.88%でした。(前回比-0.03ポイント)
 少しでも生活を変えて欲しいと願うのであれば、投票所には足を運ぶ必要があるのではないでしょうか。県内での最高得票率は64%の新郷村でした。
 不在者投票(期日前投票)はそういう意味で、とても簡単な方法だと思います。仕事の都合にあわせて直ぐに終えるからです。政治を変えるにはそれ以外、容易に国民が参加する方法はないのですから。
 
 

暴風雨がやって来た

2007-07-29 07:19:11 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 午前中なんとか天気が持ちそうだったので、わたしは遣り残している麦刈りに出かけた。きょうの東岩木山に向かう「やまなみロード」は風が強く吹いて、松林からはクマゼミの鳴き声が合唱となって聞こえていた。
 農場に着いてオーナーときょうの天気予報と作業予定を相談してみると、どうもきょうは麦刈りには向きそうもない天候であることを確認していた。結局にんにく畑の草と収穫後のにんにくの茎を車に積んで集めた。そしてボカシと呼ばれるオカラと米ぬか、籾の燻炭を混ぜたものをウーファーのヤマチャンと行なった。弘前市内からかよさんも援農にやって来て、オーナー夫人と一緒に、きゅうり、ピーマン、ナス、万願寺トウガラシなどを根間に蒔いて行く作業を行なった。その後をオーナーが草刈をして地面に草を敷き詰めて水の保水性を良くする作業を行なっていた。雨が降らないために、すっかり草のない土の道路はカラカラに乾燥していた。オーナーがきゅうりの畝の蔓の絡んだ棚を歩く時、外側の棚30センチくらいにはキュウリの根が張っているので、歩かないように注意を促していた。見えない場所に成長しようとする野菜たちの姿を感じていた。しばらく作業で汗を流していると、オーナー夫人が大きな声で何かに向かって叱るような声を聞いた。愛犬トーベがまた叱られたのかと思いきや、今回はウコッケイがトマトの実をついばんでいたのだった。それにしても、愛犬トーべもこの間から収穫したばかりのキュウリをぼりぼり食べては叱られていたし、動物がこんなに野菜を食べるというのもしらとり農場ならではの特徴なのだろうかと不思議に思った。
 この作業を始めた頃からますます風は強まり、土ぼこりが突風となってわたし達を襲った。目も開けられないような、強い風でしばしば作業は中断した。黒沢明監督の映画のシーンにこんな強風の場面があったなあと思いながら、それにしてもこれは強すぎる風だと思い始めていた。ボカシを蒔き終えた頃雨が降り出して、ようやく一段楽して休憩をすることになった。オーナーハウスに近づいた頃に一瞬のことだったが突風が吹き、目の前にあった鶏小屋が吹き飛んで一回転した。声も出ないくらいの瞬間に、突風はトウモロコシ畑の数列もなぎ倒して去って行ったのだ。これ以上風が強まらなければと思いつつ建物の中に入った。
 オーナー夫人が真っ赤なスイカを切ってみんなにふるまった。甘さもあり、夏の楽しみの一つがまたやって来た。
 休憩時のきょうの話題は「座敷童子」だった。カレンダー作者のアーティストはせくらみゆきさんから昨日電話をいただいて、9月の末に青森入りして岩手県二戸市の「座敷童子大祭」というイベントを見に行くのだという。そこでこの話が展開したのだった。私の下北半島下風呂温泉M旅館での金縛り体験に続き、かよさんの幽霊対面の恐怖体験の話しなどで盛り上がったのである。そしてオーナーを売り出すためのアイデアが色々出され、野菜に語りかけることによって野菜が元気になる話から発展した、オーナーの特技を生かして野菜にチェロを演奏して聞かせると元気のなかった野菜が回復するなどが確認できれば一躍オーナーは有名になって、日本チェロ協会から野菜栽培用のチェロなどがどんどん売れて表彰されるかもしれない。ニンジン用のチェロ、キャベツ用のチェロ、ジャージ牛用のチェロなどが出るだろうなどと、夢は果て知らずで続いたのであった
 しばらくすると今度は、野菜会員のお二人の女性が援農にやって来たという。自分達が配達される野菜をひたすら待つというだけではなく、直接こうして畑に来訪して畑の野菜の管理状況や生育の状態を確認し、自然農の特徴でもある草を地面に敷く作業をすることによって保水性を高めることを実地体験するなど、安心感をお土産に帰っていくのはとても大切なことだと思った。
 援農に来たお二人のご夫人とともに、わたしとヤマチャンは野菜畑の草を、稲刈り用の鎌で刈って、野菜の周囲に敷き詰める「軟白法」を行なった。この周辺の野菜は「シャンツァイという中華風の料理に適する野菜や、ツルムラサキ、シソ、オクラ、ハーブのバジルなどが植えられていた。いつも思うのだが、野菜の形状に良く似た草が、どうしてこうもその野菜の傍に集まって繁茂するのだろうかということである。まるで動物が擬態をして、自分を守るのと良く似ているなあと思った。だから時々「アッ」と思ったときには本物の野菜を刈り取って冷や汗をかくことになる。これはオーナー夫妻も作業中にたまに「アッ」と声を出すのだから、わたしやウーファーもホッとする瞬間かもしれない。
 午後12時を過ぎると今度は本降りになった。お二人のご夫人は、そのまま作業を終えて帰宅した。
 お昼をオーナー夫人とかよさんが準備をして、ナスやにんにく、ニンジンの葉を油で揚げて、煮浸しにしたものやキュウリの浅漬け、おにぎりがきょうの昼食メニューだった。それにしてもなんという美味しさだろうか。野菜だけでもこんなに楽しめる日々はないと思った。会員を招いての野菜のレシピを学ぶ試食会などがあれば、きっと会員の野菜への楽しみは増えるのではないかと思った。
 雨が降り止まないために休憩時間が1時間後半にずれ込み、午後2時にようやく、作業を再開することが出来た。キャベツの苗を鉢に植え込む作業をビニールハウス内で全員で行なった。
 種まきをしたキャベツの苗が10センチくらいに成長しているのをビニールで出来たポットに植え替えて、定植前の準備段階に入っている。品種は「青春」とか「ミニキャベツ」「柳生」などの名前だった。ヤマチャンやかよさんが外国旅行をしたときの話をしてくれた。ヤマチャンはインド旅行をしたという。かよさんはハワイやフイリッピン、ネーティブアメリカインディアンの居留地に行った時の話し、ジャックマイヨールとであったこともある素潜りの話など貴重な話を語ってみんなは思わず聞き入っていた。
 オーナーと話が盛り上がったのは、「ボカシ」作りのことであった。七戸町の福祉施設が豆腐工場で豆腐を商品化して販売しているが、あうんではその際に出るオカラをいただけることになったのだが、そのオカラでボカシを創ることが出来れば、我があうんメンバーの作業がもう一つ固まるのだ。課題はオカラの仕入れにあるのではなく、究極は自分達で自然農で行なえる畑を1町部ほど借り入れして、そこで自前の豆を栽培し、さらにそれで豆腐を生産し、そこから出てくるオカラをぼかしにするという一連の作業工程に持っていくことが出来そうな気がして来たのであった。安全な自然食品作りの環境整備はこれからのわたし達にはなくてはならないラインかもしれないと思った。
 鉢植え作業がほぼ終了した後、わたしとオーナーはあうんの畑の野菜を見に行ってキュウリとバジルを収穫した。その後開墾畑のうさぎの食害防止用の網を取り付ける作業を行なった。まだ伸びきっていない豆の若葉を中心に、かなりうさぎに食い荒らされていた。
 自然の中での畑作りでは、どうしても避けて通れない災難が多いことも覚悟しなければならないのだろう。
 帰りの車の中にはバジルの独特の香りが広がり、なんだかきょう一日の作業とそこで展開した内容の充実感や、そこから得られた安らぎの中で農場を後にすることができた。

人の生きられる理由(わけ)

2007-07-28 07:00:03 | つれづれなるままに
 大学の後輩T君が3週間の滞在後、また故郷三重県に帰った。二度の大病に身体を冒され、生死を彷徨ったこと。その結果病院入院期間が3年間あまりとなり、左半身と言葉にもいくらか障害が残り、そして何よりも胃癌を告知されて胃の全部摘出手術を受けたことにより、食事習慣が大きく変わったことだろう。
 そんな中自分に鞭打ってヘルパー資格を取得し、まだ完全ではない身体で異境の津軽のわたしの施設を訪ねてくれたのだった。学生時代の後輩とはいえ3年後輩なので、格別親しく話したり付き合ったわけでもなく、顔を覚えている程度だった。2年下の長崎の後輩と親しくしていた関係で、彼との接点が生まれたことになる。それも彼が病魔に襲われてからの、卒業30年余を過ぎた頃なのだから、人生は不思議だと思う。「邂逅」とい言う言葉が相応しいような出会いだった。
 着いたばかりの1週間は、彼の体力、気力はまるで体力を失った爺さんのようで、ヒーヒーという息の繰り返しが耳に残って、歩く姿も今にも倒れそうなヨタヨタ歩きだった。
 しかし我が施設の利用者である青年や若きスタッフ達と交わり、少しずつ気力が湧き上がってきたようだった。施設のペンキ塗りから窓ガラス磨き、農場の草取りなどを日々主体的にこなしていくうちに、後半の彼は頭も言葉の回転もすこぶる明朗闊達に変化して行った。冗談を言ったり、話し出すと終わりもないほどの饒舌に、周囲を驚かせた。弘前の「断酒会」へも顔を出し、図書館へも足を運んで、勉強をしたらしい。
 別れの前の夜には弘前市内の蕎麦屋でお別れ会をし、二次会には津軽三味線のライブを聞きに行った。翌朝早く彼はバスの人になった
 故郷へ帰った後、まだまだ通院が続くことは予測できたが、これまでの彼と違って、この経験から何か自信のようなものをつかんで行ったような気がしている。
 翌朝施設に出勤すると玄関のガラス窓一面に彼流の挨拶、「さようなら。大変お世話になりました」という、独特な筆字の挨拶状が貼られていた。
 さて、人は絶望的な状況でも、希望を見出し生きようと強く思えるためには何が必要なのだろうか。それは、恐らく病気の直後には、医師や看護師との精神的な濃厚な信頼関係であり、予後に至る過程では、彼の存在を大切に思う近親者や友人の「お前が必要なんだ」という温かな励ましの関係が必要だろう。そして一番大切なのは、社会の人として復帰する段階なのかもしれない。以前とまったく同じ仕事への復帰は無理でも、現在の自分自身が無理なく楽しみながら行なえる自分を生かした仕事の再開。自分がそれを通じて、周囲から必要とされるような、あるいは評価されるような質の仕事場への復帰こそ彼の日々の気持ちををつなぐ大切な要素かもしれない。
 彼は故郷に戻って必ずまた手紙で近況を知らせて来るに違いないが、別れ際にあうんの新聞に文章を寄せていったので、ここに掲載させていただく。

 「あうんに寄せて」
 自分のような輩が寄稿文なんて恥ずかしき限り。
 学生時代先輩であった成田施設長を頼り、三重県津市よりノコノコ出てまいりました。さしたる目的(人のためだとか、ボランティアだとか)もなく、ただ自分のため思い立って出てきたお粗末さ。
 七月九日(月)津駅発午前八時二十九分列車に飛び乗り、途中八戸駅エスカレーターで、紙袋破れ、着替え(下着)・なぜかグレープフルーツ二個、キュウリ三本ホーム上に散乱。発車列車のベルは鳴る!!あせりあせりのドタバタ。通り行く人々に助けられて午後四時四十五分無事弘前駅に到着。
 三十数年ぶりに成田施設長と再会しました。お互い変貌したその風貌…。
 あうん宿泊施設にお世話になりました。快適も快適、贅沢なる生活。あうんご利用者・従事される方々。とてもじゃないが、わたしのような人間には語る資格はないのですが、一言云うならば『お互い素晴らしい関係』確かに最新の設備・機材・お金等々現実に必要でありましょう。しかし思うに最後はやはり「人」。この信頼関係に立った理解と空間。これこそあるべき社会なのではと痛感しました。正直なる鈍感なわたしの感想であります。末筆ながら、人と未来を信じ、皆様に幸多かれと祈念して。ありがとうございました。平成十九年七月 T・M拝

麦の刈り入れ~脱穀作業

2007-07-27 20:46:01 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 30℃を超えそうなぎらついた朝の陽差しがあった。岩木山が青空の中に青黒く浮き上がっている。
 しらとり農場は麦刈りを急ぐ必要があった。きょうはライ麦の収穫日となった。あうんのメンバーが到着する頃、わたしとオーナー、そしてウーファーのヤマチャンで、麦畑の中で麦の収穫作業を急いだ。それにしても自然農の麦畑には背丈を越す麦と、それに追随しそうな草があった。日差しの強さを、時々強い風が吹いて汗を乾かそうとしてくれた。農場の愛犬トーべはウコッケイの赤ちゃんが生まれたばかりのこともあってか、きょうは鎖に縛られて身動きすら出来ない。
 初めての体験で、麦の刈り取り作業を行なうことが出来た。そしてその刈った麦を脱穀機にかけて分離作業を行なった。左足で脱穀機のペダルを踏み、右手で麦の束を脱穀機に差し入れながら、種子を分離する作業をするのだが、初めての体験でもあり、右側の重心を置くお尻から大腿筋が緊張しているのが分かった。結構身体はきつかった。
 脱穀機の下にはミノが置かれていて、その分離された種子をそのミノが受け止める。そのミノで受け止めた種子を、今度はごみや殻から分離する網にかける。そして麦の殻と種子を分離して袋詰をした。
 ライ麦は弘前市内の契約栽培をしているRパンショップに納品することになっているとのこと。少しつまみ食いをしてみるがうまいものだと思った。
 しらとり農場ではこの麦の栽培契約で、Rパンショップからパンの現物支給を年間で受けているとのことだった。
 明日はまた違う麦の借り入れ作業を行なうことになるらしい。明日は午後から雨が降るかもしれない。午前中が勝負だ。
 
 

Autism パターン2

2007-07-26 07:15:53 | 創作(etude)
 少年Aは繰り返しが好き
 パンを切る機械や
 ペンキ塗りの上下動
 上から下へ上から下へ
 それが気になってしまう

 きょは草刈機で
 草を刈る人の刃先に注目している
 左から右左から右に草刈機が
 草をリズム良くなぎ倒す
 そのリズムがたまらない

 でも草刈り機の音は嫌な音
 だから彼は両耳をふさぎながら
 それでもその場所から離れられない
 気になって気になって仕方がない
 終えるまでついていくしかない

 左から右左から右
 レフトアンドライトレフトアンドライト
 上から下上から下
 アップアンドダウンアップアンドダウン
 繰り返すことの興味は尽きない
 

 

 

詩・POEM 「Autism パターン」

2007-07-26 06:56:09 | 創作(etude)
 少年A君は
 昼食のテーブルで
 ぼくの手を引いた
 その澄んだ眼で
 わたしをその招待席に
 誘った

 これで二度目になるのだが
 彼の食事は変わっている
 まるで鏡でも見るかのように
 わたしの動作を確認して
 それを繰り返す

 ぼくは少しでも
 彼の食事のパターンが
 適正に保てるように
 ゆっくりとした時間の中に
 食事動作を考えてしまう

 はじめにおかずのちくわの竜田揚げ
 そして次はご飯を食べる
 味噌汁を飲む
 野菜サラダを食べて
 ご飯茶碗を持って食べる

 彼はわたしの後について
 食事を続けるのだが
 どうしても
 おかずが足りなくなったり
 順序が合わなくなる

 彼はその足りないおかずを差し出して
 「ア、ア,ア?」と「これどうする?」
 そう確認している
 「ゆっくりと食べなさい」そう言うと
 彼は安心してそれをいただくのだ

 ご飯つぶが手につくと
 それを彼は私にとってくれとせがむ
 食べられない魚の骨やトマトのヘタを
 彼はわたしの茶碗やお皿に入れている
 こうして食事が終決しようとしている

 最後に「ごちそうさまでした」と
 わたしが手を合わせて言うと
 彼もまた「ごちそうさまでした」と
 同じく繰り返す
 完食した皿には何も残っていない

 彼が最後にする行為は
 わたしのトレーの中に
 自分と同じ食器を重ねること
 そうして全てがそろった時
 彼はそのトレーを下膳してくれるのだった

 お母さんとの食事も 
 その繰り返しだという
 彼が必要なのは
 そうすることでの
 安心なのかもしれない
 
 いつか自分の意志だけで
 食事をする時が来るのだろうか
 その時彼の脳裏には
 対面する人の食事風景が
 模範となるのだろうか
 
 

 

プールがやってきた

2007-07-26 02:04:37 | つれづれなるままに
 ある自閉症のお子さんを持つシングルマザーからの一言「夏休みに息子をプールで遊ばせられないでしょうか」という願いが耳に残った。
 あうんのプールは大雪の日に壊れて使えなくなっていた。聞けば母親は水泳の好きな息子にプール遊びをさせたいと思うが、女性と男性という更衣室でのバリアーがあって、願いを叶えることは出来なかった。
 長い夏休みであり、なおかつ猛暑の夏が現実的になっていた。何とかしてあげたいと思ってインターネットで一つのこれはいいという商品に出会った。思っていたよりも安く、そして大きいプールがあることを知った。そして注文してきょうそれが届いた。組み立てをしている最中にも、たくさんの子ども達がそのプールを取り巻いた。水を入れている最中にも我慢できない子ども達がプールの中に入って出ようとしなかった。こんなにも水の好きな子ども達のために、このプール購入は価値のあることだったと感じた。いよいよ明日からこのプールが活躍するかと思えば、その代金の多寡は気にならなかった。

心理学者・河合隼雄氏を悼む

2007-07-26 01:48:48 | つれづれなるままに
 ★河合隼雄さんが19日に逝去された。2,3日前に東奥日報「天地人」に彼の追悼文が掲載された。私も彼の書籍を幾度となく読み返すことがあり、ここにその追悼文を掲載してその死を悼みたい。

 昔話によく出てくる主題に「見るなの座敷」がある。禁じられた部屋をのぞくことによて、いまある暮らしが失われたり、罰を受ける話だ。
 西洋の場合は、見た側の多くがいのちを奪われる。対して日本では、本性を知られた方がただ悲しげに去っていく。罰はない。例えば「うぐいすの里」「鶴女房」などだ。
 亡くなった臨床心理学者の河合隼雄さんは、こうした違いに着目し、日本人の心の真相を探った。「昔話と日本人の心」(岩波現代文庫)は、その優れた結晶だろう。ユング派の分析家として治療現場に立ち、やがて根っこの問題に突き当たる。それが右の書のテーマとなり、ユニークな日本文化論を生み出した。
 昔話を読み解く方法として、河合さんは女性像に焦点を当てた。人間の世界に心を残しつつ去っていく異類の女性、家や兄弟を助けるために耐える女性、自らの意志で周囲を幸福にして行く女性たち。そんな物語の構造は、男性が主役となって新たな地平を開いていく西洋の昔話とは大きく異なる。
 では、それらの女性たちの姿は何を語っているのか。自然と人間を切断することなく、ともにあるという感覚。父権的で厳しい自我意識とは違う、何ものをも取り入れていこうとする調和の意識。河合さんはそう指摘し、母系制にさかのぼる日本社会の深層を描き出した。
 かつて柳田國男が書いた「妹の力」を受け継ぎ、さらに深めた考察だろう。「もの」から「こころ」へ模索が続く時代に、多くのヒントを与えてくれる。

 ★次に同じく東奥日報7月25日に「黄金のメス万障を説く」と題して、中西進氏(奈良県文化館館長)が追悼文を書いていたので一部抜粋して紹介したい。

 (前述省略)近代日本における自我の位置付けはエゴと呼ぶ概念への疑問を、人々に抱かせた。それをセルフとよぶべきものに転換させた功績は、氏に負うところが大きい。この思考はみごとに日本的なるものを言い当てることになる。
 またユング以来の無意識の構造の重視も、私の眼から鱗(うろこ)を落とさせた。私は先立って、わずかにウォルター・ぺベイターの所説に導かれて、リアルな認識の素朴さを脱却しようとしていたに過ぎなかったのに、氏の無意識論による解明は、広範囲の事象の深層をわたしに教えてくれた。
 しかも氏はこの独自のスタンスをもって、神話を語り、物語を分析し、「明恵」に基づいて大きな業績を上げたように、夢を解析しようとした。神話における「中空構造」の指摘も、その最たるものの一つだろう。
 恐らく氏はユングから黄金のメスを密かに授けられていたのだろう。このきらきらしいメスによって、万障の真相を説いた。
 実は世の中が物と心から成り立っているとすると、すべての学問は物理学と心理学に要約されてしまう。
 この究極的な心理学を、氏は試みたことになる。それが可能だったのは、唯一、メスの裁き方による。わたしは先に氏の「超域的飛翔力」を述べたが、正しくは「普遍的集中力」と言うべきであったかもしれない。学が普遍に達し、便宜的な学問分野の区別を超えたというべきだろう。
 はからずもユングの心理学は、心の境界領域を重視する。学問の境界を蝋化(ろうか)させることも、極めて普遍的な河合心理学の本質だったに違いない。
 黄金のメスによって万障が宿す霧を切り払い、明澄な真相を取り出してきた河合氏だのに、そのメスで病魔を切り刻むことは出来なかったのか。残念でならない。
 しかし三十年間を通して常に微笑をたたえ、冗談の中に人々を優しく誘って、ついに世俗の欺瞞や汚辱などひとかけらもみせなかった氏の残像は、おびただしい人々の心に生き続けて消えることはないだろう。
 その面影は、得意としたフルートの音色に包まれて、一層美しく輝きつづけるに違いない。人間にとっては、むしろそのことの方が、大事な生き方だろうか。今後も氏の微笑に向かって、わたしも多くの問いかけをしていきたいと思う。

 

うさぎ対策

2007-07-25 07:11:09 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 梅雨明けしてしまったような天候の昨日の朝。しばらく姿を隠していた岩木山も、雲ひとつなく現れ、日中気温も29℃。しらとり農場はそれよりもマイナス1℃くらいだろうか。それでも、日差しが強くて汗がツーッと滴り落ちるようだ。
 農場に行く途中、ウーファーのアサヤンの車とすれ違った。いよいよ出発したのかと思う。軽トラックに生活用品が上手に積み込まれて、次の目的地に向かうのだ。彼らの日々はまさに出会いの旅なのだろう。
 農場に着くと、オーナーは秋収穫の野菜を植えるための準備でトラクターでの畑の耕起をして、鶏糞まきをしていた。私は昨日の続きで、枝豆畑の草取りを行なった。10時30分にあうんメンバーがやってきて、同じ作業を手伝ってくれた。きょうは男性軍4名で、一人はあまりの日差しの強さに、車の中に逃げてしまった。枝豆の畑の除草を終了し、あうんメンバーは帰って行った。私一人では遠い作業の結末が、彼らの参加で何とかクリアーできるのがありがたいことだ。美味しい豆をともに食べられる日が間もなくやってくるだろう。
 ハーブ畑も草が生い茂っていた。ハーブ畑で一番元気なのはミントだろう。黒紫の混じるミントの茎は、生き生きしている証拠に背丈も伸び、葉も茎も光っていた。ミントの種類は30種類もあり、菓子類や練り歯磨きなどにも使われている。冷却・消毒剤としての効能もあるという。以前訪れた知人の家で、夏の暑さで汗をかいていた私は、このミントをたらした冷やしたおしぼりタオルを差し出され感激したことがあった。汗が引くとはこういうことかと思いつつ、その香りの清新さに感動したものである。
 草取りをしていてハーブの葉にも刺激が加わって、草薮の中に様々なハーブの香りが漂っていた。コリアンダーやカモミール、タイムなどの匂いは特徴的だろう。
 それにしてもこの畑の土の豊かさはなんだろう。有機肥料しか使っていないのに、かぼちゃなどすごい勢いで、あっちこっちに這いまわって、枝豆にまで絡みつくほど伸びているし、草も野菜かなと思うほどの元気さだ。
 午前中の作業で全身ずぶぬれになったように汗をかき、着替えをした。なんだかきょうは熱中症になりそうな温度で、後頭部が少し痛かった。終了後脱水を補うかのように、農場の水をがぶがぶと飲んでいる。
 昼食をいただきながらオーナー夫妻とヤマチャンとで井戸掘りの話しから温泉堀の話に発展してしまった。というのも、夏場の農場は山の水を使用しているために、少雪と今年は空梅雨も重なって、水が少ないらしくて生活に使う水が不足がちだという。そこでその話から、「湯ノ沢」と呼ばれた地名にもあるように、昔はこの地にもお湯が沸いていたという話を聞いて、井戸を掘るとお湯が沸くかもという話になった。夢のような話だが、満更非現実的な話しともいえないのではないかと思った。
 午後からあうんの畑の周囲を草刈して、オーナーとOさんヤマチャンの手を借りてうさぎ対策のための網張り作業を行なった。沢から畑までの間の草を刈って、うさぎが自由に畑に来れないようにした。そして農場から借りた網で枝豆の畑に入れないように囲いとしての網を張ったのである。これで大丈夫かは不明だが、少しはうさぎなども人間の手が入った野原に、注意を払うのではないかと思った。あうんの畑もきょうの作業で、当面の心配がなくなったように思う。