夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

さあ再出発!A型パンショップを目指して・・・

2010-08-30 07:43:09 | 私と福祉とであいの旅
 8月28日(土)法人理事会を開催した。

 テーマはA型の第二のパン生産施設開設とパンショップを弘前市内に開店の承認を得ることである。
 設立目的、運営方法、配置職員や配置メンバー、目的施設の建物状況などをパワーポイントを使ってスライド写真で紹介した。そして資金繰りや補助金申請状況などの計画を説明し、承認を得た。
 今年は法人の創立十周年記念の年だから、この計画は11年目に実現することになる。このA型施設はB型とは違って、雇用型の施設ということになる。賃金は最低賃金以上を保証することや、社会保険などもかけることになる。何よりもスタッフとしての自覚と力が試されるのである。障害を売り物にするのではなく、近隣の同系列店と競合が必要なのである。生き残るためのプランを綿密にしないと倒産もありうるのである。
 これから内容の綿密な計画と話し合い、調査分析などをしていかなければならない。既に不動産屋との契約は締結しており、10月下旬には日本財団の内示、そして11月以降に工事関係の入札や工事が始まる。竣工は1月末となり4月開店を目指すのである。
 気の抜けない日々が続く。

 

敬老会寸劇準備

2010-08-30 06:33:10 | 私と福祉とであいの旅
 8月29日(日)朝から気温が上昇し、最高気温が32℃近くまで上がった一日。ほとんど風もなく、日差しも厳しく、ジリジリと言う表現が当てはまるようなお昼であった。
 この日、休みのはずではあるが、地区社会福祉協議会主催の敬老会が間もなく9月5日(日)開催予定となっている。恒例となったこの敬老会での寸劇も今回は「孝行糖」を準備した。
 今年で4年連続開催である。社会福祉協議会の会長が、みんなが協力して行うこの敬老会を役員自らも汗をかく姿を見せたいという趣旨で企画を依頼されている。昨年は鏡のない村の「松山鏡」で、場内を沸かせた。
 こうして私は衣装や小道具を準備するために、家内と買い物に出た。江戸時代の庶民の衣装や小道具を探しに弘前市内を歩くが、こんなによい天気の日曜日に土手町はシャッターがあちこち閉じたままであった。人が歩かなければ、開いてもしょうがなく諦め気分なのだろうか。この現象は一つの庶民の選択の中で進んで来たのかもしれない。ユニクロの進出や、量販店の郊外開店で人々はそちらへ集まっている。秋田県からもやって来るくらいだから、その魅力がそこに隠されているだろう。
 かつては弘前ではデパートの集まる土手町が人々の粋であった。「カクハの鬼・・・」で通じるくらい、デパートのカクハはエレベーターやエスカレーターなどのモダンな文化を持ち込んだ。「鬼」は子どもたちが投げる玉が当たると「ウオー!」と声を上げて金棒を持つ手を上げた。
 それが今は閑古鳥が鳴き、シャッターが下りてしまっている。鬼も郊外に逃げたのかもしれない。
 今や西のロックタウン、東の第五城東の量販店がある郊外店に集客されている。デパートは縦長であったが、今の量販店街は横に広がったデパートのようなものである。中心部からは遠いというマイナス面もゆったりとした駐車場は広大で、自由に乗り入れが可能であるために駐車料金はかからない。量販店の魅力は、格安で商品も新鮮、商品の種類も豊富なために選択範囲も広くウインドウショッピングも楽しくなるのだろう。第五城東はそのお客の動きにつられて、レストランなどの飲食店も周辺に集まってきた。行政機関の建物も多く、医者や金融機関、ホテルなど明らかに中心街のおもむきを郊外に移したとしか言いようがない。市民も住むなら利便性の高いこの地域といわんばかりに、水田地帯が不動産屋に買い取られて、新しい格好の良い住宅が立ち並び始めている。
 話は横道にそれてしまったが、敬老会の小道具の話である。昔から高齢者やおばさんの店として知られる「マルコーアカイシ」や「須藤商店」など衣料品専門店に足を踏み入れた。これくらい徹底的におばさんや高齢者を専門に集めた衣類は、見事としか言いようのない店であった。専門店と言うものの中に価値観を売るものがこれかもしれない。詰まりライフスタイルをこの店は売っているのだ。流行り廃りに関係なく、自分らしさをその店は売ってくれるのだ。

 さて、こうして何とか求めていた小道具のいくつかを買って、夜の第一回目の練習に備えて台本を見直し、小道具作りを行った。
 夜6時30分、わが施設に役員さんたちがおっとり刀の雰囲気で集まってきた。
 配役を発表し、寸劇の進め方を紹介した。きょうはとりあえず台本の読み合わせをして、細かな調整をして終えた。
 なんといってもこの寸劇の条件が厳しい。練習は1時間がやっと。3回の練習で仕上げるという。役員さんたちは高齢で台詞すら覚える意欲はなく、逆に意欲が高すぎて勝手に自分の台詞を増やしていく豪傑もいる。当日の寸劇の持ち時間は15分だから、ごまかしようもない。結局今までの我々のやり方は、事前に彼らの台詞を録音して、何とか身振りにそれを合わせるというやり方をしている。スタッフのMさんは、2003年から5年間福祉劇を共にやって来たベテランであり、音響や録音は彼に任せておけば安心である。

 「たのしくやること」それがこの寸劇の果たす役割だと思う。人と人はそれでつながり広がっていく。
  

収穫最盛期

2010-08-28 08:54:39 | 原ヶ平農場
8月27日(金)午前中に雨が少し降って、じゃが芋堀を予定していたのですが急遽中止。仕方なくスタッフ3人で、ブルーベリー畑で草刈りをしました。私は草刈りをゴーカートのようなものに乗り込んで、走り回っての草刈りです。広い面積の畑では欠かせません。車の下に大きな回転する刃があって、それでどんどん刈って行きます。
 午前中の草刈りの間に雨も上がって、日差しがまた強くなりました。スタッフと話し合い、午後にじゃが芋堀をしようということになりました。一回目のじゃが芋(キタアカリ)は既に収穫済みですが、ダンシャクが残っているのです。
 結局この日の午後も最高気温は30度を超え、真夏日となりました。じゃが芋を掘るメンバーは、とっても暑そうです。私も直ぐに服が汗でびしょぬれです。結局ネズミにかじられた分が結構多くて、30キロ入りの袋に7袋分収穫しました。
 原ヶ平の畑は二箇所あり、この日のじゃが芋はクルミとカリンの木のある畑で栽培しました。後は来週枝豆の収穫です。もう一箇所の畑では、トウモロコシ(キミ)と、万願寺唐辛子、ミョウガ、モロヘイヤ、ズッキーニなど収穫中です。
 万願寺とうがらしは京野菜として錦市場ではかなり出回っている代表野菜のようですが、わが畑でも結構元気な野菜です。全然辛さはないので、安心して油いためなどに使えます。
 夏の野菜はもう一品「ミョウガ」です。ミョウガは食べ過ぎると物忘れをするといわれますが、ことの真相はよくわかりません。我が家では竹串に小さめのものを10個ほど串刺しにして、味噌をつけて焼いていただきます。そのほかは酢の物や、味噌汁の具、ソーメンなどの付け合せで青葉やネギなどと一緒に使っています。
 パン屋さんの店先と、ケアホームの前で100円で販売中です。
 トウモロコシは「夢のコーン」ですが薬を使わなかったこともあって、虫さんたちが一番柔らかで甘い頭頂部に入り込んで食べています。でももったいないので、その部分を切って販売しています。見た目よりも美味しさと安全安心を売りたいと思っています。
 

ホップ、ステップ、ジャンプ!

2010-08-27 06:32:32 | 私と福祉とであいの旅
 今年法人創設満十周年の年である。
 2001年に社会福祉法人 抱民舎 知的障害者通所更生施設「であいの家あうん」がスタートし、2005年4月に小規模作業所だった「パン工房・メトロノーム」から「授産施設ゆいまある」として法人の事業に組み入れ、2007年 自立支援法の中での旧体系施設から新事業体系への移行を行い、就労継続支援B型「パン工房・ゆいまある」を現在地で開店した。
 「生活介護・であいの家あうん」は定員20人に対し、現員は24名。うち生産の場「福祉ショップあんしん屋」「地域活動センター・あうん2」をあうんから分離し、10名程度がリサイクル活動や販売活動、農作業活動を行っている。
「就労継続支援B型・パン工房・ゆいまある」は定員20名で現員は21名。この事業所は法定雇用対象となっておらず、毎月の工賃は最高でも1万7千円程度である。

 ほかに昨年12月に「居宅介護(ヘルパー派遣事業)」と「相談支援事業所」を開設し、本年4月には法人は角ケアホーム「SEEDS]がスタートしている。
 短期入所事業・送迎サービス事業・移動支援・日中一時支援などの各種事業を整備して、ほぼ地域での安心の暮らしがある程度過ごせる環境ができつつある。
 そして今年また次のステップであるA型事業所を弘前市内へ開設するために、動き出している。このA型事業は法定雇用となるために、最低賃金の保障や、社会保険なども通常の職員雇用と変わらない事業所である。毎月10万円平均を給与として保障するとなれば、10名の賃金合計は100万円+αとなる。その分の収入が確保されなければA型事業所を維持できないことになる。ということは一日の平均収益を5万円以上確保しなければ、苦しい計算である。これはパン販売というこれまでの実績をみると、店頭での販売だけでは到底難しい額である。予約販売(配達)を約6割、店頭販売を4割程度に確保しなければ厳しいのだ。
 相当な覚悟と決意でなければこの新たな事業所を成功に導くことは難しいことがわかる。それでもやらなければならないのは、B型事業所では保障できない次のステップアップを目指さなければならない、いや目指す力を持った人たちが働いている。更にこれから卒業をする人たちが、受け皿の空きを待っているのだ。
 安易な囲いの中に閉じ込めておくのは、本来の私たちの目標ではない。 
 厳しい道のりをまた歩かなければならないが、それはまた私たち支援者自らのステップアップでもあるのだ。障害者というレッテルを利用した自立の道を、私たちも彼らも望んではいない。一人の社会人としてのあらゆる権利と義務の行使こそが可能なエリアを獲得することこそ、一つの到達点といえるのだと思う。みんなで力を合わせ、地域の方々と力を合わせながら、安全で美味しいパンを作っていこう!
 この新規事業は明日28日の法人理事会評議員会で承認を受ければ、日本財団の補助金内示を待って、11月後半から入札などを経て、12月着工し1月末竣工。諸検査を受けて、その後内部での焼成試験や内部研修などを行い、次年度4月オープンを目指したい計画である。
 このような計画の進行が順調にできるのも、共通の目的達成を願う同志がいてくれるからだ。薄給ではあるが、本当の障害者福祉の充実を目指して、身を粉に働いている若き後継者に感謝の日々である。

ハンサムウーマン~「イ ヨンジュン先生」

2010-08-26 06:47:46 | 私と福祉とであいの旅
 昨夜は「リエゾン」で18:30から「ハンサムウーマン」の会合でした。ハンサムウーマンはわが法人の初代一戸理事長が代表となって1994年に結成されたグループです。女性の社会進出の機会確保と男女機会均等の実現などが目標だったと思います。そして弘前地区で活躍する女性たちの、発言し交流する機会を確保してきました。女性が始めた会とはいえ、男性である私も入っていられる会です。毎回スピーチ講師を招き(男女どちらも)、約1時間のお話を聞きながら食事をします。そして一人ひとりの2,3分の近況などを交えたスピーチを約30名が行って21:00くらいに閉会します。
 昨夜は弘前大学人文学部付属雇用政策研究センターの 李 永俊(イ ヨンジュン)先生をお招きして楽しいひと時を過ごしました。30人ほどが入るとびっしりのこのレストランは立すいの余地もないほどの人でいっぱいになりました。今回はまたいつになく男性(10名ほど)の参加が多かったようです。これはイ先生のお話しの内容にもあるのかなと思いました。
 先生は約20年前に韓国から来日し、7年ほど前弘前大学での教鞭をとることになったそうです。日本語はほとんど支障なく話される先生のお話はわかりやすく、そして刺激的でした。日本の経済と青森県の雇用、あるいは青森的な文化や自然、生活を通じた幸福感などを話されました。年収で推し量る幸福感ではなく、前述の家族としての幸福共同体の確立に何が必要なのかを話されたような気がします。
 日本の財政基盤は今危機的状況に陥っていることや、これから先の私たちの進むべき道を考えるときに、青森県の特徴を生かした経済的な発展をどのように進めていくのかを、改めて考えさせられました。
 そのキーワードは「エコニューディール政策」「家族内ワークシェアリング」による、家族の経済活動の分担生活とでも言うのでしょうか。全国でも最下位からのマイナスイメージの強い青森県が、その視点を逆転しての豊かさの指標をどこに置くのか。
 自殺率の高い東北、青森は、家族のために懸命に働く男の悩める姿がそこに見えてきます。家族みんなでできることを分担し、無理なく楽しく暮らすことが、青森県的な幸福感につながるといったお話だったようです。
 同席された同じ大学の先生の紹介された家庭でのイ先生の姿は、育児や家事をもこなし、家庭教師も含めて父親として子どもに対する強い愛情にも感じられました。このことでも、先生のお話が自らの生活を基盤に話されているのがよくわかりました。
 11月には私も弘前大学の、イ先生のセットする会での講話が予定されています。
 

健康診断

2010-08-25 06:42:39 | つれづれなるままに
 一年に一度の定期健康診断が昨日あり、絶食をして臨みました。10年間私の施設の職員の健康診断をしてくださっているのは、あうん開設の翌年にできた塩谷内科小児科です。
 私はトップバッターとして訪問しました。かつては10人程度の集団だったのですが、現在は33人に膨れ上がりました。
 塩谷医院もお客様(患者さん)に人気があり、最近は新型インフルエンザなどの病気も流行してなかなか団体が大きくなると受診が難しくなりました。
 40歳以上の職員は胃カメラを飲むことになっており、その受け入れ調整も大変なようです。9月までかかって、全員が受診します。かつてはこの胃カメラで初期の胃がんが見つかって命拾いした職員もおり、名医といえるのではないでしょうか。
 私は大腸がん検診をはじめ、基本検診で身長・体重測定から始まり、血圧測定、視力、聴力検査。心電図、胸部X線写真撮影、そして最後に胃カメラです。今はカメラの管も細くなって、だいぶ飲みやすくなりましたが、それでも3分間のこの試練は結構消耗します。昨日は看護婦さんが私の前後に一人ずつついて、背中をさすってくれたり声かけをしてくれました。鼻からチューブを入れる場合もあるようですが、私ほどのベテランになれば、まったく苦にしません。腹式呼吸をすると本当に受け入れやすくなるのがわかります。
 本人の日常の自覚の有無もありますが、写真を撮るとやはり知らず知らずの内に胃の内壁には胃潰瘍初期の自然治癒した痕が残っていました。これが発展して癌になることもあるとか。何しろ先生は丁寧に診察してくださるので、カラーテレビに映し出される私の胃の内部説明も熱が入ります。「ほらほらここが幽門部で、ほらここが食道、胃だよう・・・」なんて言いながら進むのです。
 前日午後九時から絶食している自分は、11:30分にようやく水分を取ることができました。何とか健康であることを今年も継続でき、心も軽やかです。夜はゆっくりお酒を楽しみました。すっきり、さっぱりです。

亡父のこと

2010-08-24 06:35:09 | つれづれなるままに
 父が召されてから、18年が経とうとしている。忘れもしない、9月25日が命日となった。この日は兄の長男の誕生日であり、愛する妻の名前の語呂合わせ「クニコ」の日でもあった。
その前日に糖尿病性の眼底出血があり治療を受けていた父は、自宅から車で青森市の病院へ出かけ、帰路橋の欄干に車で衝突して胸を強打した。即死だった。
 当時私の職場は特別養護老人ホームで、ソーシャルワーカーをしていた。午後の会議中に新潟の母から電話が入って、父の事故死を聞いた。
 その前の夜にふと虫の知らせというのだろうか、実家に電話して父と話をしたいと思った。眼底出血の話は聞いていたので、車の運転を止めるように言いたかったのだ。しかし、父は既に寝ているということで母にその旨伝達を依頼した。その翌日の事故なのだ。
 結局あの電話の後、私は新潟へ戻るための様々なありったけの知恵を絞って、最も効果的に新潟へ着く方法を考えた。それは車であった。家内はこんなときは、車はやめた方がいいと譲らず、結局次の手段は電車か飛行機での帰郷であった。電車はいくら速くても翌日の午後に尽くし、飛行機は羽田経由なので結局一番早いのはいったん大阪まで行き、大阪から新潟を目指すのが最も自分の気持ちを落ち着けさせる方法であった。今でもあの時の大阪の夜景の美しさが、まぶたの裏に張り付いて忘れることはないだろう。それほどに大阪城のライトアップや夜景パノラマは美しかった。私は新潟へ着くまでの間、父親の思い出をつないで行く作業を行っていた。
 父は享年68歳であるから、あと十年すれば私は父の年齢に追い着くことになる。
 私は長い間、自分の父親を憎悪の対象にして来た。父親の愛すべきエリアと、憎しむべきエリアを比較すると7割が憎悪エリアである。それは幼いころからの、スパルタ教育が私の中では一つのトラウマの記憶として記憶の世界を埋め尽くしていたからである。オセロの白黒のコマを白が父の愛すべき点とすれば、黒が憎悪である。真ん中が白く埋められたかと思うと、たちまち盤のコーナーを押さえられている私は、あっという間に盤面が黒く変わってしまうような日々を送っていた気がする。
 いつからか自分は父の前では寡黙で、日々憎悪菌を養殖していたような気がする。
 大学に入って卒業するという時に、初めて父が卒業式に出るといって上京してきた。浅草を案内し、アルバイトで貯めたわずかばかりの金で父親に夕食を接待し、ズボンのベルトを贈った。ささやかな私の気遣いに、それまでに感じたこともない父の嬉しそうな表情を見た。
 
 今自分が父親の年齢に近づいて、改めて思うことがいくつかある。それは父親の人間性である。「死んだ男の残したものは」という反戦歌があるが、私の父親が残したもの、それがいくつかある。まずは時代に似つかわしくなくなった田舎の家である。二度にわたる近年の地震で、瓦屋根の二階家が大きく捻じ曲がったのかもしれない。かつては人々が年に何度も集った豪勢だった実家は、もはや集まる人の影もなくなった。1階には座敷が2つに個室が3室。それに30畳はある居間と、台所・浴室・トイレ・廊下。二階には個室が3室(総て8畳にロビー風の書庫。居間は老母と兄の二人住まいなので、ほとんどが機能していない。時として帰郷すると、その衰退振りが眼に見えるようになってきた。高齢化は兄にも及び、これから先朽ち果てていく家と付き合う兄の気持ちはいかばかりのものだろうと思う。

 もう一つは父親の地域貢献活動である。亡くなる前の数年間父の活動は、宗教的には檀家総代としてのお寺様の屋根の普請を完了し、それまで井戸水や川の水などを使っていた地域に上水道を敷設するようにという区長としての活動があった。結果市長を通じて議会を通って、ようやく水飢饉から脱した地域があるのである。高齢化が進むエリアでは、まさに父がこの活動をしていなければ、不便な日常が未だに続いていたのではないだろうか。
 最後にもう一つ、父は長男として酒井家の重鎮として、親族を取りまとめるべく力を発揮して来た。悪く言えばいついかなるときも、口うるさく聞こえたことが多かった。相手がどのようにその言葉を受け取るのかなどおかまいなく、自分が正しいという論法は時としてひんしゅくを買って来たに違いない。しかし今父が鬼籍に入り、親族を見渡すと親族間のパイプは寸断され、今や盆正月すら、相互の訪問が消えかかっている状態でもある。
 先日亡父と絶縁状態にあった弟がなくなり、兄が弔問しているが、既にいとこ同士の年代が跡継ぎである。兄には父のような忌憚のない意見を、いついかなるときにも提示する采配はふれないと思う。
 父はうるさい人ではあったが、そのうるささがあったからこそ親族が繋がりを保てていたとも云えるのではないかと近年思うようになった。本当に心配しているからこその辛口だった、とも云えるのかもしれない。

 父親に感謝しなければならないのは、今ある私が健康体であり、誰にも負けない気配りができるのも、口うるさい父親の訓導を鉄拳も交えて、長い間躾けられてきたからだと思う。成績優秀だった兄にも、決してこのことだけは負けている気がしない。
 私が今日あるのはそういう意味でも、父親がいつも傍にいてくれるからかもしれない。
 一番忌み嫌った父に私は似てきたのかもしれないとふと思っている。

車旅でも・・・

2010-08-23 07:01:31 | つれづれなるままに
 このところ自分の意識の中に、車中泊のできる車への思いがある。私の車はトヨタのエスティマ エミーナなのだが、この車の走行距離が13万kmに達しようとしている。年間走行距離の平均が12,000kmと言うことになる。あうんがスタートした時に買い換えた車である。さすがにあちこちが傷み始めて、そろそろ買い換えたいという思いもある。

 くだんの車中泊可能な車とは、車内をキャンプが可能なように改造する車のことである。ベッドが据えられていることが第一のポイントで、後は煮炊き機能や鍋やフライパンがあれば、かなり広範囲の気ままな旅が可能となるのだ。
 釣りをしながらのんびり海や川を釣り歩くのも良いし、今は東北や北海道であれば温泉もたくさんあるし、道の駅を使えば安い食材もゲットできるのだ。
 できれば運動不足にならないように、車に自転車をつけて時々は気ままにサイクリングをするのも良いかもしれない。
 最近は軽ワゴン車をキャンピング車に改造して販売しているようだが、当面は自分でキャンピング車用に備えをすることにして、北海道の旅などしたいなあと思い始めているところである。

深浦千畳敷海岸・民宿「田中屋」さん

2010-08-22 06:54:49 | 旅たび食べある記
昨日(8月21日土曜日は晴天で、最高気温は32℃でした。家内とドライブで青森県は日本海側の深浦千畳敷海岸に出かけました。津軽人はこの海岸線を「西海岸」と呼んでいます。
 弘前市内から深浦までは片道約60km、1時間30分くらいです。この日の海は青空に映えてとても美しい青色でした。
 海に行こうと思い立ったのは、急にサザエとイゴテンが食べたくなったからです。夏からもう秋に変わろうとする今、食べ忘れたこの食材を不意に思い出しました。
 深浦町は鯵ヶ沢町、岩崎村にはさまれた人口1万人程度の小さな町です。今は風合瀬(かそせ)という村の道路際に「かそせいか焼き村」という道の駅があり、朝取りの魚介類が新鮮な状態で販売されています。
 この日の魚の目玉は深浦沖で取れたというマグロのトロでした。早速ゲットして今夜のづけ丼です。そしてサザエも量り売りで、大きめサイズをゲット。1個130円くらいでした。このほかスルメイカやメバルなどが水揚げされていました。
 私の目当てのもう一品は海草を寒天と合わせた「イゴテン」です。緑色と茶色のものがありましたが、私が新潟で幼少時から食べてきたのは茶色のイゴテンです。酢醤油にからしをつけていただくと、なんともいえない夏の定番風味です。

 昼食は女将さん推薦の「刺身定食」でした。そして岩牡蠣を生でいただきました。大ぶりの牡蠣の身を、楽しみながらいただきました。ゴチソウサマ!

一行詩 秋

2010-08-21 08:08:44 | 創作(etude)
 ・この秋は甘藷じゃが芋ケガジかな雨も降ったり続く暑さに
(※ケガジ=津軽弁で飢饉)

 ・生きたしと思えど戦火止みがたく去り逝けし影きみに見えるか

 ・強き陽の残れる立秋送り火の芒ヶ原の虫の音湧いて

 ・幼名を背より耳にし振り向きぬ亡き父の声懐かしく探す

 ・薔薇の苗亡き父我に託されし在りし日々を花々に見る